トムがホグワーツに入学してから、数か月が過ぎた。
夏の名残はすっかり消え、朝晩には指先を冷やすような風が廊下を抜けるようになっていた。
湖の上には薄い霧がかかり、校庭の芝生には朝露が銀の粒のように光る。少し前まで陽射しに柔らかさを残していた季節はいつの間にか秋の深まりを越え、ゆっくりと冬の気配を連れてきていた。
その頃になれば、トム・ゴーントの名は静かに──しかし確実にホグワーツ中へ広まっていた。
頭脳明晰で、大人びている。
教師に当てられても淀みなく答え、ただ教科書の範囲を暗記しているだけではなく、そこからさらに踏み込んだ応用や専門的な疑問を持ち、授業のあとには教師へ質問に行くことさえあった。
その貪欲さは子どもらしい好奇心というより、何かを確実に自分のものにしようとする静かな執念に近い。だが、彼はそれを鼻にかけることもなく、成績で他人を見下すこともない。勉強の苦手な同級生に問われれば、淡々と、けれどしっかりと教える程度の優しさも持っていた。
おまけに、とびきりハンサムだった。
まだ十一歳だが、そうとは思えない落ち着きがある。顔立ちには幼さの名残が残っているものの、目元は涼しげでどこか憂を帯びている。騒がしく笑うわけでも、明るく溌剌としているわけでもない。むしろ少し大人しく、人見知りなきらいさえある。
だが、そうであるにもかかわらず、トムはどうしても目立ってしまうのだった。目立とうとしない者でも目を引くことがあるのだと、ホグワーツの生徒たちは彼を見て知ったのかもしれない。
もともと、彼は学校での評価が高いリリス・ゴーントの弟として入学し、期待はされていた。あのリリスの弟ならばきっと優秀なのだろうと、教師も生徒も少なからず彼へ目を向けていたのだ。トムはその期待を裏切らなかったどころか、静かに、確実に上回っていった。
寮監であるスラグホーンが彼をすぐにお気に入りの一人に加えたのは当然と言えるだろう。
授業態度は申し分なく成績は優秀で、礼儀も正しい。さらに古い純血一族であるゴーント家の子どもとくれば、スラグホーンが放っておくはずもない。
同じスリザリン生からの評価も高く、最初はリリスへの興味からトムへ声をかけていた上級生たちも、次第にトム本人を見ないわけにはいかなくなっていった。
トムは一年生にしてスリザリンの上級生たちからよく目をかけられ、声をかけられ、親しみを込めて名を呼ばれるようになっていた。
もちろん、そのすべてがトムへの純粋な親しみや献身から生まれたものではない。
多くはトムと仲良くなればリリスとの繋がりを得られるかもしれない、という打算を含んでいるのだ。彼らの笑みは親切そうで、言葉は優しい。だが、その奥にある期待を、トムは見落とさなかった。見落とすほど愚かでもなかった。
しかし、その打算的な親しみの中に、少しずつ別の計算が混じり始めているのも事実だった。
リリスの弟だからではなく、トム本人とも親しくなっておいた方がいい。
その共通認識が、スリザリン寮の中で静かに広がっていったのだ。
最初の数か月は様子見だったのだろう。彼がどのような人間なのか、どこまで使えるのか、どこまで近づいていいのか。
上級生たちは古い家の子どもらしい慎重さでトムを観察していたが、彼が驕らず、礼儀正しい品性があり、軽々しく他人に媚びず、それでいて純血一族にとって大変好ましい思想を持っていると知ると、同じような純血一族の子どもたちは、ゆっくりとトムへすり寄り始めた。
そもそもゴーント家はイギリス魔法界における名家だ。──いや、名家だった、と言うべきかもしれない。
サラザール・スリザリンの血を引く、限りなく古い純血一族。だがその血を守ろうとするあまり、彼らは長い年月の中で純血婚を繰り返し、やがて短命で、精神的に不安定な者を多く出すようになった。純血を尊ぶあまり、滅びゆく孤高の一族。スリザリンの直系という誇りにしがみつきながら、ゆっくりと衰えていく家。そう見なしていた者は少なくない。
だが長女であるリリスはもちろん、長男であるトムもまた、見目も中身も申し分なかった。
美しく、賢く、礼儀正しく、古い血に相応しい品を備えている。衰退しきった家の子どもとして現れるには、あまりにも整いすぎている二人だった。
優秀な姉弟だ。今後、ゴーント家が再び力を取り戻すことは間違いないかもしれない。
ならば今のうちから──何せ近年、ゴーント家は他の純血一族とほとんど関わりを持たなかったのだから──少しずつでも交流しておけば、将来的に利になるに違いない。そう考える家は多かった。
トムは現在のゴーント家が魔法界でどう見られているのかを、あらかじめリリスから手紙で聞いていた。それに自分の体に流れる血がスリザリンの直系であること。その証として、パーセルタングを扱えること。それらも、幼い時からしつこいほどにマールヴォロから伝えられすでに知っている。
しかし同時にトムは過去のモーフィンとマールヴォロの姿も覚えていた。
貧困に苦しみ、未来を諦め、荒んでいた二人の姿を。リリスの手腕によって今はまともな暮らしができるようになっているが、それ以前のゴーント家が衰退しきっていたことは、否定しようのない事実だった。
だから陰で「滅ぶ家のくせに」と笑われたとしても、トムは苛立ちはしなかった。むしろ、どこか冷静に納得していた。
けれど、それは過去の話だ。
これからは違う。
自分とリリスがいるかぎりゴーント家は繁栄する。誰もが忘れられない名として、再びイギリス魔法界に君臨するだろう。
トムは、そう確信していた。
さて、そんな打算と馴れ合いがスリザリン寮の中で少しずつ強くなってきた十二月のある朝のことだった。
リリスはいつも通りアニエスとマリアと、トムはテオとジュードと大広間で朝食を取っていた。
それぞれのグループは隣り合っているわけではないが、声を少し張れば会話が届くほどの距離に座っている。
スリザリンの長机は今朝もいつものように整然としていた。磨かれた銀の食器に朝の光が反射し、温かな料理の湯気がゆるやかに立ちのぼっている。天井の魔法の空は灰色がかった冬の朝を映していて、どこか冷たい光が大広間全体へ薄く降りていた。
十二月になれば、朝食の話題は自然とクリスマス休暇のことになる。
「休暇はどこへ行くの? 私はフランスなの」
「僕の家はまたパーティーさ。親戚が多すぎて、名前を覚えるだけで一苦労だよ」
「今年はロンドンに泊まる予定だって。母が新しいドレスを仕立てるんですって」
そんな会話があちこちで自慢げに交わされていた。冬休みの旅行、親族の集まり、純血一族同士の晩餐会、クリスマスの贈り物──どの話題にも、家の格や余裕がちらりとのぞく。子どもたちは無邪気に話しているようでいて、その実、互いの家の関係や裕福さを測り合ってもいた。
その中でリリスとトムの二人には、これといって予定がなかった。
モーフィンとマールヴォロは当然ながら、クリスマスだからといって家を飾りつけ、友人を招き、盛大なパーティーを開くような性格ではない。
暖炉の前で酒を飲み、いつも通り文句を言い、いつも通り過ごす。それが彼らにとっての冬であり、祝祭であり、日常なのだ。
リリスはポテトを口へ運びながら、ちらりとトムを見る。
去年は休暇のたびに家へ帰っていた。けれど今年は違う。トムはもうホグワーツにいる。休暇だからといって無理に家へ帰る必要はないし、トムがモーフィンやマールヴォロに会いたがっているとも思えなかった。
ホグワーツのクリスマスはなかなかに豪華だと聞く。大広間には巨大なツリーが飾られ、雪のように光る装飾が施され、普段よりずっと豪勢な食事が並ぶらしい。
今年は、ホグワーツに残るのも悪くないかもしれない。
後でトムと話し合わなければならないわね、とリリスが思ったその時、高い窓の方から羽音が押し寄せてきた。
数百羽の梟が群れを成して大広間へ飛び込んでくる。朝食のざわめきが一瞬大きくなり、生徒たちは自然と顔を上げた。
フクロウ便の時間であり、小包や手紙が各生徒の前へぽんぽんと置かれていく。中にはリボンのかかった箱もあり、親からの小包を受け取った子どもたちは誇らしげにそれを開け始めていた。
リリスもトムも、この時間に天井を見上げて手紙を期待することはない。
去年までリリスのもとには毎日のように手紙が届いていた。けれどその差出人は今ではすぐそばにいるため、トムからの手紙を待つ必要はもうないのだ。トムもまた同じ理由で、フクロウ便に特別な期待を抱くことはなかった。
だからこそリリスの目の前に一羽の茶色い梟が舞い降りた時、彼女はほんの少しだけ瞬きをした。
梟は小柄だが毛並みがよく、嘴に一通の封筒を咥えている。リリスの前で落ち着いた様子で止まり、差し出すように首を伸ばした。
「……あら? 珍しいわね」
リリスは小さく呟き、梟から手紙を受け取った。代わりにパンを少しちぎり、手のひらへ乗せて差し出す。梟は嬉しそうにそれを啄むと満足したように羽を震わせ、再び高い天井の方へ戻っていった。
トムはリリスに手紙が届いたのをしっかり見ていた。
リリスに手紙なんて、自分が入学してから初めてのことだ。
誰からだろう。
まさか、恋文ではないだろうか。
そんな嫌な想像がトムの胸の奥にすぐさま冷たく広がる。
リリスは自分の前ではいつも通り穏やかに過ごしているが、彼女へ好意を向ける者などいくらでもいる。バレンタインでもないのに手紙を寄越す者がいるとすれば、それは相当な熱を抱えた相手かもしれない。あるいは冬休みの誘いだろうか。どこかの純血一族がゴーント家との交流を望んでリリスへ直接手紙を送ってきたのかもしれない。
トムはフォークを握る指先に無意識のうちに力を込めた。
リリスは封を開け、手紙へ目を落とす。
少し離れた場所からトムは固唾を呑むような思いでそれを見守っていた。周囲の会話は続いているしテオとジュードが何かを話している気配もある。だが、トムの耳にはほとんど入ってこなかった。視線はリリスの指先と、手紙を追う灰色の目に縫い留められている。
やがて、リリスの目がわずかに開かれた。
驚いたような表情だった。
そして次の瞬間、彼女はふっと、小さく笑った。
──笑った?
何か、良い内容の手紙だったのだろうか。
差出人は誰だろう。聞いてもいいのか。聞くべきだろうか。いや、姉さんの手紙を覗き込むのは子どもっぽい。だが、もしこれが本当に誰かからの誘いだったなら──。
トムがフォークを握りしめたまま、胸の奥に湧き上がるもやもやとしたものを押し殺していると、リリスがふと視線を上げた。
そのままトムと目が合う。
リリスは先ほどと同じように、どこか面白がるような、それでいて少しだけ嬉しそうな顔で笑った。
「トム、これ読んでみて」
「え? い、いいの?」
「ええ」
誰かからの恋文ではなかったのか。
その安堵はトムの肩から少しだけ力を抜いた。彼は腰を浮かせ、席一つ分離れた場所に座るリリスから手紙を受け取る。指先が封筒の端に触れた瞬間、まだ紙に残る梟便の冷たさがかすかに伝わった。
トムは元の席へ座ると同時に手紙を開いた。
『リリスへ。
クリスマス休暇はどうするんだ。
まあ、どうせお前もトムもホグワーツに残るつもりなんだろう。飯も出るし、クリスマスだの何だのと浮かれた飾りもあるだろうからな。
別に、帰ってこいと言っているわけじゃない。
ただ、もし帰ってくるなら早めに知らせろ。蛇たちがうるさい。お前らがいつ戻るのかと毎日同じことを聞いてきてしつこい。
しつこいと言えば親父も文句ばかり言っている。肉が硬いだの、スープが薄いだの、パンが焦げているだの、うるさくてかなわん。
お前が作る飯なら黙って食うくせに。
……いや、別に、お前の飯が食いたいと言っているわけじゃない。
帰ってくるなら手紙をよこせ。
来ないなら来ないでいい。
モーフィン』
トムは最後まで読み終えると、しばらく無言で手紙を見つめていた。
文面だけを読めば相変わらずぶっきらぼうで、命令口調で、少しも素直ではない。しかしどの行にも帰ってくるのか、帰ってこないのかと気にしている気配が滲んでいる。
「……帰ってきてほしいんだね」
ぽつりと呟くとリリスは困ったように、けれどどこか楽しそうに笑った。
「ええ。たぶんね」
「姉さんの料理が食べたいんだろうな」
「ふふ、そうね。そっちが本音だわ」
リリスは口元を隠し小さく笑う。それはモーフィンらしい、ぶっきらぼうで、命令口調で、少しも素直ではない手紙だった。
帰ってこいとは言っていない。寂しいとも書いていない。だが、どうせ戻ってこないのだろう、来るなら早く知らせろ、蛇たちがうるさい、マールヴォロが文句ばかり言う──そんな言葉の一つ一つが、下手な誘い文句よりもずっと分かりやすく、帰ってきてほしいという気配を滲ませていたのだ。
もっとも、その理由の半分以上はおそらく料理だろう。
去年、リリスがホグワーツにいる間、ゴーント家の家事のほとんどはトムが担っていた。
料理もリリスが残していったレシピを忠実になぞり、元来の神経質なほど真面目な性格が幸いしたのか、かなりリリスの味に近いものを作れていた。
煮込みの火加減、パンの発酵具合、スープへ塩を入れるタイミング。トムはそれらを一つ一つ几帳面に覚え、リリスの書き残した文字をまるで魔法の本でも読むように大切に扱っていた。
それでもまったく同じ味にはならなかった。
リリスはレシピを残しておきながら、その日の気分や天候、食材の残り具合を見て、ほんの少しだけ味を変えることがよくあった。
寒い日にはスープを少し濃くし、疲れている日には甘みを足し、マールヴォロの機嫌が悪ければ肉を柔らかく煮込む。そういう小さな加減は紙の上には残らないのだ。
トムの料理は十分においしかったし、モーフィンやマールヴォロが文句を言うほどではなかったが、それでもリリスの料理とは違った。
そして、それも去年までの話だ。
今年はトムもホグワーツにいる。
リリスは家を出る前にある程度の保存食を作り置きしておいたが、出来たての熱いスープや、焼きたてのふわふわと柔らかいパン、果物の甘さを閉じ込めたタルト、香ばしいパイまでは用意できない。
もちろんモーフィンもマールヴォロも、レシピを見たところで作れるはずがなかった。作る気もなかった。
鍋を焦がし、パンを硬くし、肉を台無しにし、それでも本人たちは不機嫌そうに黙り込むだけなのだろう。
リリスの料理に胃袋を掴まれ舌を慣らされてしまった二人が、今さら自分たちの作る料理で満足できるはずもない。
そう思うとリリスは少しだけおかしくなった。
あのモーフィンが帰ってこいとも言えず、蛇たちがうるさいだの、マールヴォロが文句ばかり言うだのと書いてくる。それはあまりにも不器用で、あまりにも分かりにくく、けれどリリスには──ひどく分かりやすかった。
しかし、だからといって、リリスはすぐに「それなら帰りましょう」とは思わなかった。
リリスにとって何よりも大切なのはトムだ。モーフィンとマールヴォロがいくら不満を言っていようと、台所の鍋を焦がしていようと、蛇たちが落ち着かずにとぐろを巻いていようと、トムが帰りたくないのなら帰るつもりはなかった。
リリスにとってゴーント家は守るべき名であり、整えるべき場所ではある。
けれど、そこにあるすべてへ無条件の情を向けているわけではない。
かつてあの家で受けたものを──恐怖や屈辱、痛みを忘れたわけではなかった。
今の暮らしが穏やかになったからといって、過去が綺麗に消えるわけではない。モーフィンもマールヴォロも、以前よりはずいぶんましになった。けれどそれは、トムの気持ちを曲げてまで帰る理由にはならない。
だからリリスはトムへ視線を向けた。
「どうする?」
その問いは短かったが、決定権はトムにあるのだと示すには十分だった。
トム自身も家に強い愛着があるわけではない。
蛇たちに会いたい気持ちはある。暖炉のそばでうねる彼らの声や、森の匂い、リリスが整えた台所、夜になると静かに軋む床。その一つ一つを思い出せば、懐かしさがまったくないわけではなかった。
だが、ホグワーツの図書館もまた、強く彼を惹きつけていた。
クリスマス休暇の間、授業がない静かな時間を使って気になっていた本を何冊も読み進めることができる。
普段は上級生や教師の目を気にしなければならない書架にも、少しずつ近づく機会があるかもしれない。知識を手に入れるにはホグワーツに残ることも悪くなかった。
しかしそう考えたのはほんの数秒で、トムは手紙を返しながらすぐに頷いた。
「僕、帰りたいな」
「そう?」
リリスは少しだけ意外そうに瞬きをした。けれど深く理由を聞くことはなく、すぐににこりと笑う。
「なら、返事は書いておくわね」
「うん。ありがとう、姉さん」
トムはリリスの笑顔に、同じように笑みを返した。
その笑顔を見たリリスは、ほんの少しだけ安堵していた。トムがあの家に帰りたいと思えるのなら、それは悪いことではない。あの家が、彼にとってただ苦しさや退屈だけの場所ではなくなったのなら、少しは自分が整えてきた意味もあったのだろう。リリスはそう思った。
だが──実際のところ、トムが帰りたいと言った理由は、リリスの想像とは少し違っていた。
家そのものに、強い愛着があるわけではない。
モーフィンやマールヴォロに会いたくてたまらないわけでもない。
蛇たちの声は懐かしいし、暖炉のそばで丸くなる彼らに会えば、きっと少しは嬉しいだろう。
けれど、それだけだった。トムにとって大切なのは場所ではない。家でも、学校でも、古い血筋でも、石造りの城でもなかった。
リリスがいるかどうか。
それだけだった。
リリスがそばにいるのなら、ホグワーツでクリスマスを過ごしても構わなかった。煌びやかに飾られた大広間、豪華な食事、雪化粧をした校庭、静かになった図書館。それらをリリスと一緒に見られるのなら、それはそれで悪くない。リリスが綺麗だと思うものを横で見て、彼女が楽しそうに笑う声を聞けるなら、トムはどこでもよかった。
ただ、ホグワーツには目が多すぎる。
リリスはどこにいても見られる。大広間では長机の向こうから、談話室では暖炉のそばから、廊下ではすれ違いざまに、図書館では本棚の陰から。誰もが、彼女へ視線を向ける。彼女が少し微笑めば、それだけで勝手に意味を見いだし、優しい言葉を一つかけられれば、自分だけが特別に扱われたのだと勘違いする。
それが嫌だった。
リリスの優しさは誰にでも向けられる。
だが、誰のものでもない。
少なくとも、彼女の笑顔の奥にある温度を、彼女が本当に気を許した時にだけ見せる柔らかさを、あの男たちは知らない。知るべきではない。
勝手に夢を見て、勝手に期待して、リリスの隣に立つ未来を想像するなど、許しがたいことだった。
クリスマスは、家族と恋人の日だ。
そんな言葉を口実に普段より少し大胆になる生徒はいるだろう。休暇前の浮き立った空気に押されて、贈り物を渡す者もいるかもしれない。雪の降る中庭で話したいと言う者も、談話室で偶然を装って隣に座ろうとする者も、きっと出てくる。人数が減ったホグワーツなら、むしろ近づきやすくなると考える者もいるに違いない。
トムは、それを想像しただけで胸の奥が冷えた。
リリスが困ったように笑いながら、それでも相手の面子を潰さないように礼儀正しく受け流す姿が目に浮かぶ。彼女は優しい。だから必要以上に冷たくはしない。相手が恥をかかないように、上手に距離を取る。けれどその優しささえ、相手は都合よく受け取るのだろう。
違う。
姉さんは、そういう意味で笑っているんじゃない。
そう叫びたくなる衝動を、トムは今まで何度も飲み込んできた。
ホグワーツに残ったところで、リリスと二人きりになれるわけではない。談話室には誰かがいる。大広間にも、廊下にも、図書館にも目がある。リリスは見られ、話しかけられ、微笑み、そして誰かにまた勝手な夢を見られる。そのたびにトムの中の暗いものは、少しずつ濃く沈んでいく。
それなら、家に帰った方がいい。
あの古く、寒く、閉じた家へ。
余計な男たちの視線も、下心の混じる誘いも、甘ったるい声で彼女の名を呼ぶ者もいない場所へ。
たとえモーフィンとマールヴォロがいても構わない。彼らはリリスへ恋文を渡さない。雪景色を見に行こうなどと誘わない。彼女の笑顔を自分のためのものだと勘違いしない。少なくとも、トムにとって警戒すべき相手ではなかった。
家に帰れば、リリスはこの視線の多い場所から離れる。
彼女の声は、談話室のざわめきの中ではなく、台所や暖炉の前で聞ける。彼女の黒髪が揺れるのを、長机越しではなく、同じソファに座り、それを撫でることだってできる。彼女が料理をする時の匂いも、肩が触れる距離も、ふとした時に向けられる笑顔も、他の誰かの視線にさらされずに済む。
それを思うと、トムの胸の奥に、甘く、昏い満足が広がった。
姉さんは僕のものではない。
そんなことは分かっている。
けれど少なくとも休暇の間だけは、彼女をこの城から連れ出せる。彼女を見つめるだけの男たちから、彼女の声も、笑顔も、時間も、遠ざけることができる。
それは、トムにとって十分すぎるほど魅力的だった。
トムとリリスの会話を聞いていたアニエスは少し迷うように指先を重ね、それから決心したように「リリス」と声をかけた。
「もし、まだご予定がお決まりでないのでしたら……その、クリスマス休暇の間に、わたくしの家のパーティーへいらっしゃいませんか?」
「ロジエール家の?」
「ええ。大きなものではありませんけれど、親族や親しい純血の家の方々がいらっしゃる予定ですの。父も、ぜひゴーント家のお二人をお招きしたいと申しておりましたわ」
アニエスの声は明るかったが、その奥には少し緊張があった。友人として誘っているのは間違いない。けれどそれだけではないことを、リリスはすぐに理解した。
ロジエール家としての招待。
つまりリリスとトムを、純血貴族の社交の場へ正式に招くということだ。
アニエスの父はおそらく見定めようとしているのだろう。ゴーント家の姉弟が本当に噂通りの価値を持つのか。衰退したはずの古い家が、再び関わるに足るものなのか。
リリスはその品定めを不快だとは思わなかった。むしろ当然だと思った。
純血一族の社交とは、そういうものだろう。笑顔と挨拶の裏で互いを測り、相手の家の今後を読み、損得を探る。そこに足を踏み入れるなら、それ相応の覚悟がいる。
「素敵なお誘いね」
リリスはゆっくりと微笑んだ。
「でも、まだクリスマス休暇をどう過ごすか、トムときちんと話していないの。お返事は少し待っていただいてもいいかしら?」
「もちろんですわ!」
アニエスはぱっと表情を明るくし、嬉しそうに頷く。
「急がせるつもりはありませんの。ただ、もし少しでもお時間があればと思って。父もきっと喜びますし、わたくしも……リリスが来てくださったら、とても嬉しいですわ」
「ありがとう、アニエス」
リリスはそう答えながらも内心では静かに考えていた。
ロジエール家のパーティーへ行くことは、間違いなく意味がある。純血社会へ一歩踏み込む機会だ。ゴーント家の今後を考えるなら避けて通るべきではない。リリスとトムが優秀であること、美しく、礼儀正しく、古い家名に相応しい姉弟であることを示すには良い場になる。
だが一度踏み込めば、後戻りは難しくなる。
ゴーント家はもう孤立したままの古い家ではいられない。誰かと繋がり、誰かに見られ、誰かに期待され、誰かに利用される。リリスはそれを分かっていた。利用されるなら利用し返せばいい。そう思えるだけの強さはある。
けれど、それでも、まだ一年生になったばかりのトムをその渦の中へ入れることに迷いがないわけではなかった。
マリアは黙って二人の会話を聞いていたが、リリスの表情を見て、少しだけ心配そうに首を傾げた。
「リ、リリス……無理は、しなくていいと思う」
「ええ。ありがとう、マリア」
リリスはやわらかく答える。「ちゃんと考えるわ」と、そう言って、リリスはもう一度トムの方を見た。
トムは静かにこちらを見ていた。視線が合うと、ほんの少しだけ目元がやわらぐ。リリスはその表情を見て、胸の奥で答えの重みを測った。
ロジエール家の招待を受けるか、断るか。
ロジエール家について、休暇までに調査しなければならないだろう。何を好み、何を嫌うのか。彼らが求める利はなんなのか。
ゴーント家として招かれる以上、名目上の家長であるマールヴォロにも話を通す必要があるだろう。
リリスは脳内で様々な思考を巡らせながら、静かに紅茶を飲んだ。
誰にも知られない、いくつかの打算を含んだ朝食は、いつものようにゆるやかに終わりへ向かっていった。
皿の上の料理が少しずつ減り、生徒たちは席を立ち始め、大広間のざわめきが授業前の慌ただしさへと少しずつ形を変えていく。
「そろそろ行きましょうか」
リリスがそう言うと、アニエスとマリアも頷いた。
「ええ」
「う、うん」
三人は席を立つ。リリスは手紙を丁寧に畳み鞄の中へしまった。それから肩越しにふとトムを見る。
視線が合った。
リリスは優しく笑い、軽く手を振った。
トムも、静かに手を振り返す。
たったそれだけのやり取りだった。けれど、リリスの長い黒髪が彼女の動きに遅れてふわりと揺れ、その艶やかな黒が冬の光を受けて流れると、近くにいた数名の男子生徒が、ぼんやりと見惚れるようにその背を追った。
トムはその視線にすぐ気づいた。
いつもなら、胸の奥に小さな棘が刺さる。彼らの目がリリスの髪を追い、細い背を追い、彼女が振り返った残り香のようなものまで欲しがるのを見るたびに、トムの内側には冷たい不快感が沈んだ。
彼らは何も知らないくせに、ただ美しいからという理由だけでリリスを見つめる。彼女がどんな声で笑うのか、どんな時に少し困ったように眉を下げるのか、どんなふうに手紙を畳むのか、どんな優しさを隠しているのかも知らないまま、勝手に焦がれる。
けれど今日はその不快感がいつもより浅かった。
クリスマス休暇の間だけでも、この男たちからリリスを離せる。
そう思ったからだ。
彼らはリリスを見ることすらできない。
彼女へ話しかけることも、笑いかけられることも、食事の席で偶然近くに座ることもできない。クリスマスの空気に浮かされて、贈り物を渡すことも、休暇中の予定を尋ねることもできない。
その間、リリスは自分の近くにいる。
暖炉の前で本を読むリリス。台所で髪を結うリリス。湯気の向こうで鍋をかき混ぜるリリス。蛇たちに話しかけながら、ふとこちらを見て笑うリリス。そういうリリスを、あの男たちは知らない。知る機会もない。見られるのは、自分だけだ。
そう思った瞬間トムの胸の奥に、静かな優越感が満ちていった。
リリスの背が、大広間の扉の向こうへ消えていく。それでも数名の男子生徒はまだ名残惜しそうに、その先を見つめていた。
トムは彼らを一瞥し、静かに紅茶を口へ運んだ。
カップの縁に隠れた口元には小さな笑みが浮かんでいる。それは穏やかで、けれど確かに、甘く歪んでいた。
誰にも聞こえないように、トムは小さく息を吐く。
胸の奥に沈んでいた暗いものが、ゆっくりと形を変えていく。
苛立ちでも、不安でもない。
もっと静かで、もっと甘い、満ち足りた感情へと。
リリスが誰のものでもないとしても。
少なくとも、数週間だけは。
この城の誰も、彼女に触れられない。
誰も、彼女の隣に立てない。
誰も、彼女の声をすぐそばで聞けない。
誰も、彼女の笑顔を自分のためのものだと錯覚できない。
トムは紅茶を飲み下し、そっと目を伏せた。
──姉さんに触れられるのは、僕だけだ。
そう思うだけで、冬の朝の冷たい光さえ、ひどく甘く感じられた。

























クレイジーサイコシスコンと化したトム・マールボロ・ゴーント君(11) 冗談はさておき、いつも楽しく読ませて頂いております。 これからも応援しております。