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私のかわいいお姫様

だいずだいず

novel/28267356の続きです。 視点の変更が多くてすみません一応◆ ◆ ◆これが視点変更です。あと読み直してみると結構キャラ崩壊してるかも? 彩葉はずっとかぐやのことを思ってるのでどの瞬間でもヤチヨと触れ合いたいと思っていので愛が重いです。 前回の話もコメントがたくさんついててうれしいです!今回もコメントやブックマークお願いします! 2026/06/06の[小説] 男性に人気ランキング55位に入りました! 2026/06/07の[小説] デイリーランキングに77位入りました! 2026/06/07の[小説] 男性に人気ランキングに28位入りました!

信じられないほど深く、そして穏やかな眠りだった。
いつもなら、どれほど疲れていようとも、夜の暗闇が訪れれば身体のどこかが緊張で強張り、ほんの僅かな他人の足音や風の音で跳ね起きてしまうのに。私の記憶が、私の身体が、あの地獄のような檻の夜を拒絶するように暴れ出すはずなのに。

いま、私の瞼の裏に広がっているのは、燃えるような恐怖の赤ではなく、ただただ優しく、どこまでもあたたかい光の残滓だった。

「ん……っ、」

ゆっくりと意識が覚醒していく感覚の中で、私は自分が、昨日よりもさらに深い「何か」に包まれていることに気がついた。
頬に触れる、滑らかで上質なシルクの質感。鼻腔を優しくくすぐる、甘くて、けれどどこか理性を狂わせるような気品のあるアロマの香り。そして、私の背中から腰、太ももにかけて、隙間なくぴったりと密着している、圧倒的な、人間の体温。

(……あ、は……っ?)

カチリ、と頭の中で何かが弾けた。
一瞬にして完全に覚醒した私の視界に飛び込んできたのは、やはり汚れ一つない真っ白な天井。しかし、昨日と決定的に違うのは、私の身体を後ろから抱きすくめるようにして、太い腕が、私の細いお腹のあたりをしっかりとホールドしているということだった。

背後から伝わってくる、トントン、トントン、という規則正しい、落ち着いた心音。
昨日、私が夜の恐怖に押しつぶされ、過呼吸で死にかけていた時に、私を暗闇の底から引きずり上げてくれた、あの彩葉様の心音だ。

(彩葉様が……私を、抱きしめたまま……寝て、いらっしゃる……?)

その事実を理解した瞬間、私の全身の血液が、一気に顔へと逆流していくのが分かった。顔が、耳の先が、文字通り林檎のように真っ赤に熱くなっていく。

驚きと羞恥で、心臓が爆発しそうなほど速く鼓動を刻み始める。
奴隷にとって、主人のベッドに潜り込むこと、ましてや主人の身体に触れたまま朝を迎えるなど、万死に値する大罪だ。「不遜な奴隷め、主の肉体に気安く触れるな」と、かつての主人たちなら、私をベッドから蹴り落とし、肉が裂けるまで鞭を振るっていただろう。

(離れなきゃ。今すぐ、床に降りて、跪いて、お詫びを──)

本能的な奴隷の習性が、私に「逃げろ」と命令する。
けれど、そう思って身体をわずかに動かそうとした瞬間、私のお腹に回されていた彩葉様の腕が、まるですり抜ける小鳥を逃がさないようにとでも言うように、ぐっと、心持ち強く力を込めて私を自分の胸へと引き寄せた。

「ふあ……っ、」

掠れた短い悲鳴が喉の奥で消える。
さらに密着する、二人の身体。私の背中に、彩葉様の柔らかい胸の膨らみが、その輪郭がはっきりと押し付けられる。耳元にかかる、彩葉様の規則正しい、少しだけ熱を帯びた吐息。

動けない。動いてはいけない。
けれど、それ以上に──私の心の奥底が、この腕から「離れたくない」と、悍ましいほど強く叫んでいた。

昨日までの私なら、この状況にただただ恐怖し、怯え、許しを請うていただろう。けれど、昨日の夜、あの暗闇の中で、この人は私を傷つけるどころか、自分の体温を分け与えるようにして、一晩中私の背中を撫で続けてくれたのだ。あの地獄のような夜を、この人の腕の中だけが、世界で一番安全な聖域に変えてくれた。

(おこがましい。私はただの、価値のない奴隷なのに……。こんな綺麗な方に、こんな風に抱きしめられて、いいはずがないのに……)

脳内では、自分を貶める自虐の独白がぐるぐると渦巻いている。私のような泥にまみれた消耗品が、こんな贅沢な温もりに慣れてしまえば、いつか捨てられた時の絶望で本当におかしくなってしまう。これは罠だ。私を甘やかし、骨抜きにして、完全に逃げられなくするための、あまりにも残酷で甘美な罠なのだ。

分かっている。分かっているのに。

私は、お腹に回された彩葉様の細く綺麗な手のひらを、じっと見つめた。
そして、自分でも信じられないことに──ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、自分の指先を動かして、彩葉様の寝着の裾を、ぎゅっと掴んでしまった。

「……ぁ、」

掴んでから、その行為の恐ろしさに息が止まる。
自発的に、主人の服を掴むなんて。これではまるで、私がこの人を引き留めようとしているみたいではないか。こんなの、ただの奴隷の分際で、あまりにも──。

「……ん、……ヤチヨ……?」

心臓が止まるかと思った。
頭上から、少し掠れた、けれど世界で一番美しい、大好きな声が降ってきた。
ゆっくりと、背後の気配が動く。彩葉様が、私の身体を抱きしめたまま、眠たげに瞼を持ち上げる気配が伝わってきた。

「申し、訳……っ、ありません……! 私、その、おこがましくも、主様のベッドの上で……っ」

私はパニックになり、掴んでいた服の裾を慌てて離し、彩葉様の腕からすり抜けてベッドの下に降りようとした。床に膝を突き、額を擦り付けて、この不敬の許しを請わなければならない。そうしなければ、私は──。

「まだ行かないで、ヤチヨ」

「ひゃうっ!?」

逃げ出そうとした私の小さな身体は、彩葉様の長い両腕によって、あっさりとベッドの中央へと引き戻された。それどころか、今度は正面から、がっしりと抱きすくめられる形になる。
視界がいっぱいに、彩葉様の美しい翠玉色の瞳、そして至近距離。お互いの吐息が触れ合うほどの、あり得ない距離。

「彩葉、様……っ、あ、あの、不敬を……」

「不敬なんてないって、昨日も言ったでしょ?」

彩葉様は、まだ少し眠気の残る目を細めながら、ふにゃりと、世界一優しい微笑みを浮かべた。そして、私の頬に涙の痕が残っていないかを確かめるように、親指の腹でそっと私の頬を撫でる。

「よく眠れた? 悪夢は……見なかった?」

「あ……は、はい……。一度も、見ませんでした。こんなに、静かに朝を迎えたのは、生まれて初めて、で……」

「そっか。よかったぁ……」

彩葉様は心底ホッとしたように息を吐くと、私の頭をごしごしと、愛おしそうに撫で回した。その手のひらが、あまりにもあたたかくて、私はまたしても身を縮めて顔を真っ赤にするしかない。

けれど、次の瞬間、彩葉様の瞳からスッと眠気が消え、真剣な、どこか少し歪んだ熱を孕んだ光が宿ったのを、私は見逃さなかった。

「ねえ、ヤチヨ。昨日のお話、覚えている?」

「昨日のお話、ですか……?」

「そう。夜、ヤチヨが一人で呼吸ができなくなるほど怯えていたときのこと。私はね、本当に胸が張り裂けそうだったの。あんな冷たい暗闇の中に、ヤチヨを一人で置いておきたくないって、心から思った」

彩葉様は、私の両肩をそっと掴み、私の瞳をまっすぐに見つめて言葉を紡ぐ。

「だからね、新しい約束を決めましょう。……これからは毎日、ヤチヨが眠りにつくまで──ううん、ヤチヨが望むなら朝が来るまで、私はずっと、隣でこうしてヤチヨを抱きしめて寝ることにするわ」

「え……っ!?」

耳を疑った。
毎日、主人が奴隷の寝かしつけをする? そんな異常なことが、この世界にあっていいはずがない。

「そ、そんなの……! お身体に障ります! 私はただの奴隷ですから、主様の手をそんなことに煩わせるわけには……っ」

「奴隷じゃないって、何度言えば分かってくれるのかしら?」

彩葉様は、少しだけ困ったように眉を八の字に曲げた。けれど、その後に続いた言葉は、私の胸の奥深くに、これまでにない強烈な楔を打ち込むものだった。

「これはね、ヤチヨのためだけじゃないの。……私が、ヤチヨの隣にいたいの。ヤチヨのあたたかい体温を感じて、可愛い寝顔を一番近くで見守っている時間が、私にとって何よりも幸せなのよ。だからね、お願い。私に、ヤチヨを毎晩守る特権をちょうだい?」

「あ……」

私が、必要とされている。
主人の義務としてではなく、この美しい人が、自らの意思で私を求めている。

「私をヤチヨの隣にいる専属にさせて?」と微笑む彩葉様を見て、私の中で、何かが決定的に壊れ、そして新しく生まれ変わっていくのが分かった。
これは罠だ。私を甘やかす、底なしの罠。

けれど──この美しい人が、私を求めてくれるというのなら。このあたたかい腕の中に、永遠に閉じ込めてくれるというのなら。

「……主様が、そう、おっしゃって、くださるなら……」

私は小さな声で、けれどはっきりと、その独占契約を受け入れる言葉を口にしていた。
「ありがとう、ヤチヨ」と嬉しそうに私をもう一度強く抱きしめる彩葉様の胸の中で、私はもう、この温かい罠から一生逃れられないのだと、恐怖にも似た、狂おしいほどの歓喜を感じていたのだった。

彩葉様と「毎晩一緒に眠る」という、奴隷の身分としてはあまりにも不釣り合いで、けれど甘美すぎる約束を結んでしまったあの日から、私のお屋敷での生活はさらに色鮮やかなものへと変わっていった。

朝、彩葉様のあたたかい腕の中で目覚め、恥ずかしさに身を焦がしながらもその温もりに縋り付く。そんな贅沢な時間が毎日の始まりになった。けれど、ただ甘やかされるだけでは、私の胸の奥にある奴隷としての罪悪感が擦り切れてしまう。

(彩葉様のために、何かしたい。役に立たなければ、この幸せがいつか消えてしまうかもしれないから……ううん、違う。私は、あの人に喜んでほしいんだ)

役に立たなければ捨てられるという恐怖半分。けれどそれ以上に、私を暗闇から救ってくれた彩葉様に、自分の手で何かを返したいという純粋な執着が、私の心を突き動かしていた。

「主様、あの……私に、何かお手伝いをさせていただけないでしょうか。お部屋の片付けでも、お皿洗いでも、なんでもいたします」

朝食の後、私はおそるおそる、けれど真っ直ぐに彩葉様の瞳を見つめて申し出た。
彩葉様は一瞬、きょとんとした顔をしたけれど、私の真剣な眼差しに負けたように苦笑すると、「じゃあ、私と一緒にお茶を淹れる練習をしましょうか」と言って、私に小さな、真っ白なエプロンを差し出してくれた。

ボロ布ではない、仕立ての良いリネンで作られたエプロン。それを身につけると、自分が少しだけ、このお屋敷の一員になれたような気がして、胸の奥が小さく高鳴った。

けれど、いざキッチンに立ってみると、私の手は緊張でガタガタと震えてしまった。
繊細な絵付けが施された、透き通るように美しい磁器のティーカップ。前の仕事場なら、奴隷がこんな高級品に触れること自体が許されなかった。もし落として割ってしまえば、指を切り落とされるか、それ以上の凄惨な仕置きが待っている。

「あっ……」

お湯の入った重いポットを持ち上げようとした瞬間、手の震えのせいで、ポットの底がゴトッと大きな音を立てて大理石の作業台に当たった。
その音に、かつての主人たちの怒声がフラッシュバックする。

「お前は何をやらせても無能だな!」
「弁償はどうするつもりだ、その身体で払うか?」

(あ、ダメ……怒られる、叩かれる──!)

私は反射的にぎゅっと目を瞑り、ポットを持ったまま、その場ですくみ上がってしまった。
訪れるはずの衝撃に備えて、身体を限界まで硬く強張らせる。

けれど、私の身体を包み込んだのは、痛みではなく、背後から優しく寄り添う圧倒的な温もりだった。

「大丈夫だよ、ヤチヨ。ゆっくりでいいからね」

気がつけば、彩葉様が私の背中にぴったりと身を寄せていた。
彩葉様の長い両腕が、私の脇からすっと伸びて、ポットを握る私の小さな手を、後ろから包み込むようにして優しく重ねられる。

「ひゃ、あ……っ、」

背中に触れる、彩葉様の柔らかい身体の感触。耳元で囁かれる、規則正しい、彩葉様の穏やかな心音。
完全に後ろから抱きしめられるような姿勢になり、私の脳内は一瞬で真っ白に染まった。あまりの気恥ずかしさと緊張で、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。

「こうやって、少し斜めに傾けて……そう、ゆっくりお湯を注ぐの。上手だよ、ヤチヨ」

彩葉様の手が、私の手に優しく力を込めて、ポットを誘導していく。
重ねられた彩葉様の手のひらは、驚くほどあたたかく、痕の残る私の肌を労るようにどこまでも優しかった。
殴るためでも、縛るためでもない。ただ私の拙い手を、優しく導くためだけの手。

「あ、の……彩葉、様……っ。近、いです……」

恥ずかしさのあまり、消え入りそうな声で呟くと、彩葉様は私の耳元でクスッと優しく笑った。

「嫌? 私はヤチヨとこうしているの、すごく楽しいんだけどな」

「い、嫌じゃ……ありません……っ。むしろ、その……」

むしろ、ずっとこうしていたい。このあたたかい腕の中に囚われて、あの優しい声だけを聞いていたい。
そんな、奴隷としてはあるまじき不遜な独占欲が、私の胸の中でドロドロと鎌首をもたげていく。

その時だった。

「お嬢様、本日のスケジュールですが──」

キッチンの入り口から、お屋敷の使用人の声が響いた。
その瞬間、私の身体は、他人の気配に対する恐怖でビクッと跳ねそうになった。

けれど、それよりも早く、私の身体を包む彩葉様の腕に、ぎゅっと強い力がこもった。
さっきまでの、世界を溶かすような優しい空気はどこへやら、彩葉様が背後の使用人に向けて放った声は、私の聞いたことがないほど、低く、冷たいものだった。

「──今、ヤチヨとお茶の練習をしているの。邪魔をしないでもちょうだい。用件なら、後で書斎で聞くわ」

「は、はいっ! 失礼いたしました……っ!」

気圧された使用人が、慌てて扉を閉めて去っていく。
私は、その冷徹なまでの彩葉様の声に驚きつつも、胸の奥で、今まで感じたことのない、歪んだ暗い歓喜が弾けるのを感じていた。

彩葉様が、私のために、他の人間を遠ざけてくれた。
私を害しようとする世界から、その圧倒的な力で、私だけを守ってくれた。

(彩葉様は、私だけの主人様だ。……私だけを見てくれている)

奴隷時代にはあり得なかった特別扱いという名の蜜。それが、私の傷だらけの心にじわじわと染み込んでいく。
私は、自分を後ろから抱きしめる彩葉様の腕に、もっと体重を預けるようにして、小さく身を委ねた。
「ふふ、ヤチヨ。お茶、綺麗に淹れられたね」と、いつもの優しい笑顔に戻った彩葉様に頭を撫でられながら、私はもっと自分を特別にしてほしいと、心の中で祈っていた。

◆ ◆ ◆

私の腕の中で、ヤチヨがまるで壊れ物を扱うかのように、おずおずとお皿や器具に触れている。
小さなエプロンを身にまとい、一生懸命に私の役に立とうとするその姿は、あまりにも健気で、私の胸を激しく締め付けた。

前の環境でどれほど理不尽な恐怖を植え付けられてきたのだろう。ポットを少し立て付けただけの音で、彼女はまるでこれから処刑される罪人のように全身を強張らせて怯えてしまった。その細い肩を抱きすくめ、後ろから手を重ねたとき、彼女の肌から伝わってきた驚きと、それから微かな熱に、私の胸の奥に眠る独占欲が小さく疼いた。

「近、いです……」と言って、耳の先まで真っ赤に染めるヤチヨ。
その可憐な拒絶を無視して、私は彼女をさらに引き寄せた。

使用人が部屋に入ってきたとき、ヤチヨの怯える視線がその男に向いた瞬間、私の腹の底から黒い不快感がせり上がってきた。この子の瞳に、私以外の人間を映したくない。この子を怯えさせるすべての存在から、完全に隔離してしまいたい。
冷たく使用人を追い払うと、ヤチヨは恐怖するどころか、むしろ安堵したように私の胸にその小さな背中を預けてきた。

その確かな依存のサインに、私は胸の奥で深く満たされるのを感じていた。
一歩ずつでいい。この小さな鳥を、私の優しさという名の檻の中に、完璧に閉じ込めてしまえばいい。他の誰も触れられない、私だけの聖域へ。

◆ ◆ ◆

お屋敷での穏やかな生活が始まってから数週間が経ち、私の身体の傷も、彩葉様が毎日塗ってくれる特効薬のおかげで劇的に回復していった。
そんなある日の朝、彩葉様は「ヤチヨ、今日はお出かけしましょう!」と、嬉しそうに目を輝かせて言った。

私を連れて、街へ行くのだという。

用意されたのは、フリルがついた柔らかな亜麻色のブラウスと、深い紺色のフレアスカート。鏡の中に映る私は、泥にまみれていたあの頃の面影が嘘のように、綺麗な服を着せられ、髪もサラサラに整えられていた。

けれど、お屋敷の立派な玄関扉が開いた瞬間、私の足はすくんでしまった。

一歩外に出れば、そこは遮るもののない、広大な外の世界。
私にとって、お屋敷の外とは、奴隷市場で鎖に繋がれ、見世物のように冷たい目で見下ろされ、怒声と鞭が飛び交う、恐怖の象徴でしかなかった。

「……っ、」

眩しい太陽の光すら、私を暴き立てる刃のように思えて、私は思わずお屋敷の影に隠れるように身を縮めた。全身が小刻みに震え出し、冷や汗が背中を伝う。

そんな私の視界に、すっと綺麗な手のひらが差し出された。

「大丈夫だよ、ヤチヨ。私の手を、ぎゅって握ってて?」

見上げると、彩葉様がどこまでも澄んだ翠玉色の瞳で、私を優しく見つめていた。その深いエメラルドの輝きには、私を害しようとする悪意など微塵も存在しない。
私は躊躇った。こんな綺麗な手を、私の汚れた過去を持つ手が握っていいのだろうか。
けれど、外の世界への恐怖と、それ以上に「この人に触れたい」という抑えきれない欲求が、私の背中を押した。

おそるおそる、小さな手を伸ばす。
その瞬間、彩葉様の手が私の手をがっしりと、指と指を絡ませるような強い力──恋人繋ぎで、力強く握りしめた。

「っ……あ、」

「絶対に離さないからね。私の隣にいれば、何一つ怖いものなんてないよ」

その力強い言葉と、手のひらから伝ってくる圧倒的なぬくもりに、私の胸の奥の氷がまた一つ、融けていくのが分かった。
彩葉様に手を引かれながら、私は初めて、自分の足で街の雑踏へと踏み出した。

街は、私の知っている奴隷市場とは全く違う、活気と華やかな色に満ちていた。
色鮮やかな花々が飾られた露店、楽しそうに笑い合う人々、どこからか漂ってくる香ばしい食べ物の匂い。
最初は緊張で周りを見ることすらできなかったけれど、彩葉様が「見て、あのお花綺麗だよ」「ヤチヨにはあっちの色のリボンが似合うかな」と、絶え間なく優しく話しかけてくれるおかげで、私の警戒心は少しずつ解きほぐされていった。

「さあ、着いたよ! ここのお店のスイーツ、ずっとヤチヨに食べさせてあげたかったんだ」

案内されたのは、ガラス張りの、お洒落で可愛らしいカフェだった。
席につくと、彩葉様は迷うことなく、このお店の名物だというお菓子を注文してくれた。

しばらくして運ばれてきたそれを見て、私は再び息を呑んだ。

「これ……が、お菓子、ですか……?」

「そう、パンケーキっていうの。温かいうちに食べてね」

大きなお皿の上に載っていたのは、まるで雲をそのまま切り取って重ねたかのような、信じられないほど分厚くて、ふかふかで黄金色の食べ物だった。
その上には、大きなバターがとろりと溶け出し、琥珀色の美しい蜂蜜が、きらきらと輝きながらたっぷりとかけられている。
前の仕事場で、カビた黒パンの切れ端すら奪い合っていた私にとって、これは食べ物というよりも、神様が作った芸術品のように思えた。

「さあ、フォークとナイフを使って、切って食べてみて?」

彩葉様に促され、私は震える手でナイフを入れた。
刃先から伝わる、驚くほどの柔らかさ。一口サイズに切ったそれを、おそるおそる口へと運ぶ。

舌の上に載せた瞬間、しゅわ、と、パンケーキが文字通り雪のように儚く溶けた。
それと同時に、濃厚な卵とミルクの風味、そして蜂蜜の濃厚な甘さが、口いっぱいに、優しく広がっていく。

「──っ!」

衝撃だった。美味しい、という言葉では到底足りない。
身体の隅々の細胞が、その甘さに震えるのを感じた。
あまりの美味しさと、今自分がこんなにも幸せな場所にいるということへの実感が混ざり合い、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。

「どう? 美味しい?」

正面に座る彩葉様が、私の顔を覗き込むようにして聞いてくる。
私は、自分の顔がどうなっているかも分からないまま、ただ本能の赴くままに、心の底からの感情を言葉にした。

「美味しい、です……っ。こんなに、あたたかくて、甘くて……美味しいもの、私、初めて、食べました……っ」

気がつけば、私の瞳から、ぽろぽろと大きな涙の粒が溢れ落ちていた。
けれど、それは悲しい涙ではなかった。
嬉しくて、愛おしくて、世界のすべてが愛おしくなるような、そんな幸福な涙。
私は、涙を流しながらも、彩葉様に向けて、生まれて初めて、歪みのない、心の底からの満面の笑顔を咲かせていた。

その瞬間、正面の彩葉様が、息を呑んで完全に硬直したのが分かった。
翠玉色の瞳を見開き、顔を赤く染めて、まるで世界で一番美しい奇跡を見てしまったかのように、私をじっと見つめている。

「あ、あの……彩葉、様? 私、また何か、お見苦しいところを……」

「う、ううん、なんでもないの。本当に、なんでもないのよ、ヤチヨ」

彩葉様は慌てて両手で顔を覆い、何かを堪えるように視線を彷徨わせている。
その様子が可笑しくて、愛おしくて、私は涙を拭いながら、小さくクスッと笑ってしまった。

(ああ、私はこの人の前でなら、笑ってもいいんだ。……この人の隣なら、私は普通の女の子になれるのかもしれない)

そんな大それた希望が、私の胸の中で、小さな、けれど確かな光となって灯り始めたのだった。

◆ ◆ ◆

外の世界を怖がり、私の服の裾を小さく掴んでいたヤチヨが、私の手を握り返してくれたとき、私の心は歓喜で満たされていた。
カフェに連れて行き、運ばれてきたパンケーキを、まるでおそるおそる宝物に触れるように口に運ぶ姿を、私はただただ愛おしく見つめていた。

「美味しい、です……っ」

そう言って、涙を流しながら私に見せたその笑顔は、私の理性を完全に狂わせるほどに美しく、可憐だった。
奴隷としての仮面が剥がれ落ち、少女としての本当の笑顔を私だけに最初に見せてくれた。その事実に、私の奥底にある歪んだ独占欲が、激しく波打つ。

この笑顔を、一生私のものにしたい。この純粋な瞳を、私だけのものにしたい。
他の誰にも、この子のこんな表情を見せたくない。
恥ずかしそうに俯くヤチヨを見つめながら、私は彼女への愛着が、もう自分でも制御できないほど深く、重いものになっていることを自覚していた。この子のためなら、私はどんなことだってできる。その確信が、私の胸に静かに深く刻まれた。

◆ ◆ ◆

パンケーキを食べ終えたあと、私の新しいお洋服を選ぶために、仕立て屋が立ち並ぶ少し落ち着いた通りへと足を向けていた。
街のあたたかさと、お腹いっぱいの甘い幸福感に満たされ、私の警戒心は完全に緩んでいた。
彩葉様が「あそこのショーウィンドウのお洋服、あなたに絶対に似合うわ。ちょっと見てくるね」と、ほんの数歩、私から目を離して先へ進んだ、まさにその一瞬の隙だった。

「おや、こんなところに、上等で美味そうな珠が転がっているじゃないか」

背後から、ねっとりとした、不快な粘り気を帯びた男の声が響いた。

「っ!?」

心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
振り返る暇もなく、私の細い手首が、ガシッと大きな、冷たくて汚い手のひらによって強引に掴まれた。

「ひっ……!」

「いい服着せてもらってるが、その怯えきった目、元は奴隷の小娘だろ? 綺麗に洗われて、ずいぶん色っぽくなってるじゃねえか。なぁ、一人だろ? 俺と一緒に、もっと良いところに遊びに行こうぜ。たっぷり可愛がってやるからよ」

男の口から放たれる、安酒と煙草の嫌な臭い。手首を締め付ける、容赦のない乱暴な力。下劣な笑みを浮かべて私を見下ろす、品性のない濁った瞳。

その瞬間、私の周りの景色が、一瞬で暗闇へと反転した。
お洒落なカフェも、美味しいパンケーキの味も、綺麗な街並みも、すべてが遠くへ吹き飛んでいく。
脳内に蘇るのは、暗い檻の中、むせ返るような男たちの臭い、衣服が引き裂かれる音、術なく身体を触られ、痛めつけられたあの地獄の記憶。

(ああ、やっぱり……やっぱり私は、奴隷なんだ。外の世界に出れば、いつでもこうして、泥の中に引きずり落とされるんだ──)

恐怖のあまり、喉が完全に貼り付き、悲鳴すら出ない。
呼吸が浅くなり、視界の端がチカチカと暗くなっていく。
身体がガタガタと激しく震え、私はその場にへたり込みそうになりながら、ただぎゅっと目を瞑って、これから訪れるであろう暴力を待つことしかできなかった。

「おい、無視してんじゃねえよ。さっさと来い──」

男が私の腕をさらに強く引っ張ろうとした、その刹那だった。

「──私のヤチヨに、その汚い手で触るなと言ったのだけど?」

凍りつくような、地獄の底から響くかのような、冷徹な声が通りに響き渡った。

次の瞬間、私の手首を掴んでいた男の力が、唐突に消えた。
「ぎゃああああかっ!?」という、男の悲鳴。

おそるおそる目を開けると、私の目の前には、信じられない光景が広がっていた。

いつの間にか私の前に降臨していた彩葉様が、男の手首を、自らの細く白い手で掴み、あり得ない角度へと容赦なく捻り上げていたのだ。

「あ、あが、痛えっ! 離せ、このアマ……っ」

「アマ? 誰に向かって口を利いているのかしら、その下劣な口は」

彩葉様の顔を見た瞬間、私は背筋に、今までとは全く違う種類の、凄まじい悪寒が走るのを感じた。

そこには、いつもお屋敷で私に向けてくれていた、世界一優しい微笑みは、ひとかけらも存在していなかった。
翠玉色の瞳は、光を完璧に失い、底なしの深淵のような絶対的な冷酷さを湛えている。端正な顔立ちは、まるで血の通わない大理石の彫刻のように冷たく引き締まり、その全身からは、周囲の空気を物理的に押し潰すかのような、圧倒的な強者・貴族の支配的オーラが放たれていた。

「ひっ……あ、貴様、何者だ……っ」

恐怖に顔を歪ませる男を、彩葉様はゴミ屑か何かを見るような、底冷えする視線で見下ろした。

「私が誰かなど、あなたのような家畜以下の存在が知る必要はないわ。……ただ、一つだけ教えてあげる」

彩葉様は、男の手首を掴む手に、さらにミリメリと音を立てるほどの力を込めた。男が苦痛で白目を剥きかける。

「その子はね、私のものよ。私の髪の毛一本、指先一つに至るまで、私の底なしの愛で満たされた、世界で一番尊い私のお姫様。……それを、その薄汚い手で触り、怯えさせた。その罪が、どれほど重いか……その安い命を散らして、じっくりと理解させてあげるわ」

「ひ、ひいいいっ! 助け、助けてくれ……っ!」

彩葉様から放たれる、本物の殺気に、男は完全に恐怖に顔を歪めながら涙目で許しを請うている。
普段の優しい彩葉様からは想像もつかない、冷酷で、残忍で、圧倒的な強者のムーブ。
彩葉様は、男をさらに精神的に追い詰めるように冷たく微笑むと、周囲の護衛を動かすように、冷たく言い放った。

「この男を、即座に地下の檻へ連れて行きなさい。光の届かない場所で、二度と人間の肌に触れられないよう、その両腕を徹底的に処理してちょうだい。……私の目の届かない場所でね」

「はっ!」

どこからか現れた黒服の部下たちが、男を物言わぬ肉塊のように引きずって、一瞬で連れ去っていった。
通りの喧騒が、嘘のように静まり返る。

私は、その圧倒的な光景の前に、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
怖かった。彩葉様のあの冷酷な顔は、間違いなく、この世界の誰よりも恐ろしい支配者のそれだった。

けれど──不思議と、私の胸の中にあるのは、恐怖ではなかった。
私を傷つける世界を、私の代わりに、その圧倒的な力で完膚なきまでに叩き潰してくれた。
あの残忍なまでの強者ムーブは、すべて、私を「守るため」だけに振るわれたものなのだ。

「ヤチヨ……っ! ごめんね、怖かったよね、痛かったよね……っ!」

男が消えた瞬間、彩葉様は一瞬でいつもの優しい顔に戻り、今にも泣き出しそうな顔で私に駆け寄ってきた。私の手首をそっと包み込み、赤くなっているところを心配そうに見つめている。

そのギャップに、私の胸の奥で、何かが完全に決壊した。

私は、自分を心配してくれる彩葉様の胸に、自ら、全力で飛び込んだ。

「──主様……っ!」

「え……っ、ヤチヨ?」

驚く彩葉様の背中に、私は細い両腕を回し、これまでにない強い力で、ぎゅっと縋り付いた。

「もう、離さないでください……っ。外の世界は、怖いです……。でも、彩葉様が、あんな風に私を守ってくれて……私、嬉しかった……。私は、彩葉様の腕の中だけでいいです。あの暗い檻に戻るくらいなら、私は一生、彩葉様の、あなただけのものにして、閉じ込めておいてください……っ!」

自発的な、完全なる依存の告白。
救う側と、救われる側。その境界線が、今、完全に融けて混ざり合った。
私の告白を聞いた彩葉様は、一瞬息を呑んだあと、私の身体を、折れんばかりの強い力で、愛おしそうに抱きしめ返してくれたのだった。

◆ ◆ ◆

ほんの一瞬、ヤチヨから目を離した自分に対する激しい怒りと、彼女に触れた男への底知れない殺意が、私の理性を一瞬で消し去った。
ヤチヨの手首を掴んでいた男の腕を捻り上げたとき、私の心の中にあったのは、ただ一つの純粋な冷酷さだけだった。私のものに触れた不届き者を、この世から完全に抹殺してしまいたい。私の聖域を汚した罪を、その身をもって償わせる。

男を排除し、怯えるヤチヨに駆け寄ったとき、私は彼女に嫌われてしまったのではないかと、内心激しい恐怖に駆られていた。あんな残忍な姿を見せてしまったのだから。

けれど、ヤチヨは私を拒絶するどころか、自ら私の胸へと飛び込んできた。
「一生、あなただけのものにして、閉じ込めておいてください」

その言葉が私の耳に届いた瞬間、私の胸の奥で、暗く深い歓喜の炎が燃え上がった。
彼女は自ら、私の檻に入ることを望んだのだ。私の歪んだ独占欲を、彼女自身が全肯定してくれた。
腕の中で泣きじゃくる小さな身体を強く抱きしめながら、私は心に誓った。もう二度と、この子を外の汚い世界には出さない。私の腕の中という、最も甘やかで安全な檻の中で、一生私だけに依存させて飼い殺してあげる、と。

◆ ◆ ◆

お屋敷に帰ってきたあとも、私の心臓のバクバクとした高鳴りは、収まる気配を見せなかった。
けれどそれは、昼間の恐怖のせいではない。
彩葉様への、抑えきれないほどの愛着と、依存の熱が、私の身体を内側から焦がしているからだ。

お屋敷の広い寝室。太陽は完全に沈み、部屋の中には、お約束となった優しいアロマの香りと、小さな間接照明の灯りだけが灯っている。

かつてあれほど恐怖の象徴だった夜が、今は待ち遠しくてたまらない。
なぜなら、ここには、あの人が来てくれるから。

カチャリ、と。
扉が開く音が聞こえた。
入ってきたのは、シルクの寝着に身を包んだ、大好きな彩葉様。
彩葉様は、ベッドの中で膝を抱えて待っていた私を見るなり、優しく愛らしい笑顔を浮かべて、迷うことなくベッドの中に滑り込んできた。

「お待たせ、ヤチヨ。……今日も、隣に行ってもいい?」

「はい……。お待ちして、おりました……」

私が小さく頷くと、彩葉様は私の背後に回り、昨日までよりも、さらに強く、隙間なくぴったりと私の身体を抱きしめた。
背中に伝わる、圧倒的なあたたかさ。耳元で響く、世界で一番安心する規則正しい心音。

昼間のあの冷酷な強者の顔も、今のこの世界一優しい温もりも、すべてが私を愛し、守るためだけに存在している。

「ヤチヨ……昼間は、本当にごめんなさいね。私の不手際のせいで、怖い思いをさせて」

彩葉様が、私の髪を愛おしそうに撫でながら、耳元で切なげに囁く。

「でもね、もう大丈夫よ。あの男は二度とヤチヨの前に現れないし、これからは一瞬たりとも、ヤチヨから目を離さない。私のこの両腕が、ヤチヨを世界中のすべての悪意から守る『聖域』になるから」

「……はい、」

私は、お腹に回された彩葉様の手の上に、自分の小さな手を重ねた。そして、指を絡ませるようにして、ぎゅっと強く握りしめる。

「私は……もう、どこにも行きません。彩葉様の隣が、私の世界のすべてですから……」

私の言葉に、彩葉様が嬉しそうに、けれどどこか深い愛執を孕んだ吐息を漏らすのが分かった。
「一生、私のそばにいてね、ヤチヨ」という彩葉様の囁きが、心地よい酸欠のように、私の脳内を満たしていく。

分かっている。
これは、私を骨抜きにして、このお屋敷から、この腕の中から一歩も出られなくするための、底なしの温かい罠だ。

けれど──こんなにも愛されて、こんなにも優しく満たされるのなら。
私は喜んで、この温かい罠に囚われよう。
私の過去の傷も、奴隷の記憶も、すべてをこの底なしの愛で塗り潰してもらいながら。

私は、世界で一番安全な、大好きな人の腕の中で、幸福な酸欠に身を委ね、深い、深い、安息の眠りの中へと落ちていった。

◆ ◆ ◆

ベッドの中で、私の服をぎゅっと握りしめたまま、すやすやと安心しきった顔で眠りについたヤチヨ。
その穏やかな寝顔を見つめながら、私は彼女の額に、そっと音も立てずに優しいキスを落とした。

「おやすみ、私の可愛いお姫様。明日の朝も、美味しいご飯を作って待ってるからね」

昼間の出来事を思い出すだけで、私の胸の奥には今もまだ、どす黒い独占欲の残滓が揺らめいている。あの男の手が触れたヤチヨの肌、恐怖に染まった彼女の表情。それらすべてを私の両手で、私の唇で、跡形もなく塗り潰してやりたいという衝動。

けれど同時に、お屋敷に帰ってきた後のヤチヨの態度は、私をこの上ない狂おしい悦びで満たしてくれた。
「私をあなただけのものにして、閉じ込めておいてください」と泣きながら縋り付いてきたあの瞬間、この子は完全に私のものになったのだと確信した。私が仕掛けた優しさという名の罠に、彼女は自ら進んで両足を嵌めにきてくれたのだ。

愛おしくて、大切で、もうこの腕の中から一秒たりとも離したくない。
けれど、彼女を強く抱きしめ直しながら、私の胸の奥には、新たな切実な渇望が、じわじわと鎌首をもたげてきていた。

(ねえ、ヤチヨ。……いつになったら、私へのその堅苦しい『敬語』をなくしてくれるのかな)

眠っている彼女の長い睫毛をそっと指先でなぞりながら、私は心の中で切なく、けれど酷く身勝手な願いを呟く。
彼女が口にする「彩葉様」という呼び方や、「〜です」「〜ます」という丁寧な言葉遣い。それはまだ、彼女の心の中に奴隷としての、主人に対する超えられない一線が残っている証拠のようにも思えて、私の胸を酷くもどかしくさせるのだ。

私は主人として彼女を支配したいわけじゃない。一人の女の子として、対等な愛の泥沼に、一緒に溺れてほしいのだ。
いつか、私の名前をただ「彩葉」とだけ呼んで、私に甘えるように、もっと我が儘に話しかけてくれる日が来てほしい。私の服を掴むだけじゃなくて、もっと強く、彼女自身の意志で、私の首にその細い腕を絡ませてほしい。

そして、何よりも──。

(もっと、元気になってほしい。前の地獄のような檻で奪われてしまった、少女としての本当の活気や、無邪気さを、このお屋敷で全部、取り戻してほしいの)

今日のカフェで見せてくれた、あの涙を浮かべながらの満面の笑顔。あの輝きを、一瞬の幻で終わらせたくない。
もっと美味しいものをたくさん食べさせて、もっと綺麗な景色をたくさん見せて、お屋敷の中を軽やかな足取りで走り回るくらい、心も身体も、健やかに、元気に満たされてほしい。怯えて身を縮めるヤチヨではなく、私の愛を全身に浴びて、わがままに、奔放に笑う彼女の姿が、私はどうしても見たいのだ。

そのためなら、私は何年だって待つ。
何年かかろうとも、彼女の心にこびりついた奴隷の痕跡を、私の底なしの愛で完全に溶かし去って見せる。

「そのためにも……まずは、私なしでは眠れない身体に、もっともっと、仕立て上げてあげないとね」

暗闇の中、私の翠玉色の瞳に怪しい熱を灯らせながら、私は腕の中の愛しい少女を、壊さないように、けれど決して逃げられないように、さらに深く、強く、自分の胸へと抱きすくめた。
私の体温と、私のアロマの香りと、私の独占欲だけで彼女の呼吸を完全に支配する。
明日も、明後日も、これから訪れるすべての夜を、私の愛の檻の中で過ごさせよう。
ヤチヨが私なしでは生きられない、本当の『私のヤチヨ』に変わっていくその日を思い描きながら、私は心地よい達成感と底なしの執着の中で、静かに目を閉じたのだった。

— End —

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