信じられないほど静かな目覚めの中で、私はゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、昨日と変わらない、汚れ一つない真っ白な天井。そして、私の身体を包み込んでいる、雲のようにふかふかで、ほんのりと日向の匂いがする純白のシーツだった。
「……ぁ、」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
一瞬、すべては自分が死の間際に見ている都合のいい夢なのではないかという恐怖が、背筋を冷たく駆け抜けた。昨日、あの美しい人──彩葉様に買われ、信じられないほど優しく抱きしめられたあの夜は、本当に現実だったのだろうか。それとも、衰弱しきった私の脳が最後に平穏を求めて見せた、一秒にも満たない幻灯機のような走馬灯なのだろうか。
私は恐る恐る、シーツから自分の腕を出してみた。
ボロ布の代わりに着せられていた上質な寝着の袖から覗く肌は、綺麗に泥を拭い去られ、丁寧に薬を塗られている。あれほど私を苛んでいた熱い痛みは、劇的に引いていた。どこを見渡しても、血の滲んだ包帯や、汚物にまみれた藁の床はない。かすかに香るアロマの匂いが、ここが地獄の底ではないことを告げていた。
(……夢じゃ、ない……?)
じわりと指先を動かしてみる。確かな皮膚の感覚が、これが現実だと主張している。
しかし、呆然としながらも、奴隷として骨の髄まで染みついた習性が、私の身体を突き動かす。
「主より先にベッドの上で惰眠を貪るなど、万死に値する粗相だ」
脳内で、かつての冷酷な主人たちの怒声が嫌なリアルさで再生された。
主人が目覚めるその時、奴隷はすでに完璧に跪いていなければならない。寝顔を見せるなど言語道断、主人の足音が聞こえてから動くようでは遅すぎるのだ。遅れれば待っているのは、容赦のない革鞭の音と、肉が焼けるような痛みだけ。
私は跳ね起きるようにしてベッドから這い出ると、冷たい床の上に膝をつき、頭を深く垂れて正座の姿勢をとった。
いつ、あの美しい人が部屋に入ってきてもいいように。
どんな理不尽な命令や、あるいは昨日までの優しさを覆すような調教が始まっても、すぐに従えるように。
手のひらを床につき、額をその上に乗せる。ひんやりとしたフローリングの冷たさが、私の額から容赦なく体温を奪っていく。けれど、その冷たさこそが、私にとって馴染み深い奴隷の現実だった。ふかふかのベッドはあまりにも心地よすぎて、自分の身の程を忘れさせてしまう恐ろしい毒だ。
胸がバクバクと嫌な音を立てて波打つ。私の警戒の針は、最大まで振り切れていた。
もし、昨日までのあの甘やかしが、私を完全に油断させてから絶望に突き落とすための悪趣味な前戯だったとしたら。そう考えるだけで、胃の奥がキリキリと痛み、冷や汗が背中を伝っていく。
どれほどの間、そうして冷たい床の上で息を潜めていただろうか。
数分が、まるで数時間におよぶ刑執行の待機時間のように長く感じられた。
やがて、部屋の扉が静かにノックされ、ガチャリと音がして開いた。
「ヤチヨ、おはよう。よく眠れ……って、ええっ!? どうして床にいるの!?」
入ってきた彩葉様は、床に跪く私を見るなり、手にした盆を近くの机に放り出すように置いて駆け寄ってきた。そのお顔は怒りではなく、純粋な驚きと、今にも泣き出しそうなほどの動転に染まっている。
「床、冷たいでしょう!? 傷に障ったらどうするの! お願いだからベッドに戻って!」
「ひっ……! 申し、訳、ありません……っ」
大きな声にビクッと身を縮め、さらに頭を床に擦り付けようとした私の身体を、彩葉様の両腕がひょいと、まるでお姫様でも扱うかのように軽々と抱き上げた。
浮遊感とともに、ふわりと、昨晩のあの心地よいあたたかさと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。乱暴に引きずり回されることに慣れていた私の身体は、そのあまりの優しさにどう反応していいか分からず、ただ硬直するしかなかった。
「謝らないで。ヤチヨは何も悪いことなんてしてないんだから。ほら、ここにいて」
おそるおそる目を開けると、私は再びふかふかのベッドの上に座らされていた。目の前には、本当に心配そうに、眉を八の字にしてこちらの顔を覗き込んでいる彩葉様がいる。その瞳には、私を害しようとする濁りはひとかけらも見当たらず、ただただ澄んだ琥珀色の輝きだけがあった。
「……お着替え、しましょうか。ヤチヨのために、新しいお洋服を用意したの。……手伝わせて、もらえる?」
彩葉様がそっと差し出したのは、仕立ての良い、柔らかな亜麻色のブラウスと、深い紺色のスカートだった。奴隷が着るような、肌を刺す粗悪な麻のボロ布ではない。触れずとも分かる、上質な綿の柔らかさ。
「私、が……着ます。触られるのは、その、慣れて、いなくて……」
私は小さく震える手で服を受け取ろうとした。他人に身体を触られることは、私にとって常に痛みを伴う記憶と直結している。だから、反射的に拒絶の言葉が漏れてしまった。
しかし、腕を上げた拍子に、背中の鞭傷がズキリと鋭く痛んだ。まだ完全に塞がっていない傷口が引っ張られ、思わず「くっ……」と顔をしかめ、動きが止まってしまう。
「あ、やっぱりまだ痛むよね。ごめんね、無理させちゃって。……お願い、私に甘えさせて。傷に触らないように、ゆっくり着せるから。ね?」
彩葉様の瞳は、どこまでも真摯で、私の拒絶を優しく溶かしてしまうほどの温かさに満ちていた。
私のような価値のない奴隷に、手ずから服を着せる。そんな異常な事態に頭が追いつかないまま、私は逆らうこともできず、小さく頷いて、ただされるがままになるしかなかった。
彩葉様の細く綺麗な指が、私の寝着のボタンを静かに外していく。
肌が外気に触れるたび、緊張で全身の肌に粟が立つ。けれど、彩葉様は本当に、私の背中や肩に残る無数の傷跡を避けるように、信じられないほど慎重に、まるでガラス細工を扱うような手つきで新しいブラウスを滑り込ませてくれた。
ブラウスのボタンが下から一つずつ留められていくたび、彩葉様の指先が、わずかに私の肌に触れる。
そのたびに、身体が内側から弾かれたようにビクッと跳ねそうになる。
けれど、その手は驚くほど優しく、核心を突くようにあたたかかった。
殴られるわけでも、縛られるわけでもない。ただただ慈しまれるように服を着せられていく。
私は、その初めての感覚に対する恥ずかしさと、どうしていいか分からない戸惑いで、顔を真っ赤に染めて俯くことしかできなかった。
◆◆◆
──神様、仏様、世界中のありとあらゆる奇跡に感謝します。
いま、私の目の前で、私が選んだお洋服を着たヤチヨが、顔を林檎みたいに真っ赤にして俯いている。
小刻みに震える細い指先、緊張で固くなっている身体、そして恥ずかしさに耐えるようにぎゅっと結ばれた薄い唇。
控えめに言って、尊すぎて心臓が止まるかと思った。今すぐ壁を殴りに行きたいレベルで可愛い。何この愛らしい生き物。私が前世でどんな徳を積んだら、こんな奇跡みたいな女の子を我が家にお迎えすることができたのだろうか。
本当は、部屋に入った瞬間に床で正座して頭をこすりつけているヤチヨを見て、胸が引き裂かれるほど苦しかったのだ。
冷たい床に小さな身体を丸めて、まるでこれから殺されるのを待つ罪人のように怯えていた。どれだけ酷い環境にいたら、朝起きてあんな冷たい床で怯えなきゃいけないの、って。前の飼い主どもの顔も名前も知らないけれど、もし目の前にいたら全員まとめて奈落の底に叩き落としてやりたい衝動に駆られた。我が家は奴隷収容所じゃない、ただヤチヨが安心して生きていくための場所なんだよ、と大声で伝えたかった。
でも、そんな胸を焼くような怒りも、今のヤチヨの破壊的な可愛さの前では霧散してしまう。
私がブラウスの袖に彼女の細い腕を通すたび、小さな肩がビクッと震える。
細い、本当に細い身体。ろくに食事も与えられていなかったのだろう、鎖骨のラインは浮き上がり、抱き上げた時の重さは信じられないほど軽かった。触れれば折れてしまいそうなほど華奢なのに、肌のあちこちには赤黒い鞭の跡や、古い火傷のような傷跡が無数に残っている。それを見るたびに、私の奥底で、「絶対に、私が一生をかけてこの子を幸せにする。この肌に、二度と新しい傷なんて作らせない」と、腹の底から黒いほどの使命感が湧き上がってくる。
だけど、当のヤチヨは、私がボタンを留めるたびに、耳の先まで真っ赤にして、長い睫毛を震わせながらじっと耐えているのだ。上目遣いで怯えたように私を見たかと思えば、すぐに恥ずかしそうに視線を逸らして俯いてしまう。
(待って、可愛すぎる。無理。何この生き物、保護して大正解すぎる。今すぐ抱きしめて『可愛いねお姫様!!』って叫びたい……!)
危ない。紳士であれ、私。ここで理性を失って勢いよく抱きついたりしたら、それこそ新しい主の調教が始まったって誤解されて、恐怖でショック死させてしまうかもしれない。彼女にとって、衣服の着脱や身体への接触は、きっと「そういう酷いこと」の地続きでしかなかったはずだ。その偏見を、恐怖を、私は時間をかけて丁寧に解きほぐしていかなければならない。
「……うん、すごく似合ってる。可愛いよ、ヤチヨ」
私は必死で、顔の筋肉がだらしなく緩むのを堪え、世界一の聖人君子のような微笑みを浮かべて声をかけた。ヤチヨは、きょとんとした目で私を見上げたあと、自分の着ている綺麗な服を不思議そうに見つめ、またすぐに視線を落として、小さな声で「……ありがとう、ございます……」と呟いた。
その声の可憐さに、私の脳内では今、ファンファーレが大音量で鳴り響いている。
一歩ずつでいい。この怯えきった小鳥が、私の腕の中で安心して歌ってくれるようになるまで、私はいくらでも紳士の仮面を被り続けてみせる。まずは、美味しいご飯をたくさん食べてもらって、この細い身体を健康にすることから始めよう。
◆◆◆
着替えが終わったあと、机の上に用意された朝食を見て、私は再び息を呑んだ。
今まで見たこともないほど豪華な、湯気の立つあたたかい野菜スープと、黄金色に焼き上げられたふかふかのパン。そして、新鮮な果物と白いミルク。
前の仕事場では、一日の終わりにカビの生えた黒パンの切れ端と、濁った泥のような水が与えられれば良い方だった。それさえも、他の奴隷たちと奪い合いになり、ありつけない日の方が多かったというのに。
私は毒が入っているのではないか、あるいは食べている途中で皿をひっくり返されて、床に落ちたものを無理やり食べさせられるのではないかと、極限の警戒をしながらスプーンを握った。手がガタガタと震えて、銀のスプーンがカチカチと器に当たって音を立てる。
「ゆっくりでいいからね。誰も取らないし、ヤチヨの分だから」
彩葉様は対面に座り、ただ優しく微笑んでいる。
おそるおそるスープをすくい、唇を湿らせるようにして口に運んだ。
その瞬間、濃厚な野菜の甘みと、肉の旨味が口いっぱいに広がった。身体の芯から温まっていく感覚。美味しい、という感情よりも先に、こんなに温かくて素晴らしいものが自分の体内に入っていくことへの恐怖で、じわりと涙が出そうになった。
もし、この贅沢の代償として、後で肉体を切り刻まれるような要求をされたらどうしよう。
そう怯えながらも、私の身体は本能的に栄養を求めていて、気がつけば夢中でスープを啜り、柔らかいパンを噛み締めていた。彩葉様は、私が食べる姿を、なぜかとても嬉しそうに、まるで宝物を見るような目で見守っていた。食べ終えるたびに「お代わりはあるからね」と言って、私の様子をただただ肯定してくれる。
昼間のお屋敷での時間は、驚くほど穏やかだった。
何か仕事をしなければ、役に立たなければ捨てられる、あるいは売られると焦る私に、彩葉様は「今は休むのがお仕事だよ」と言って、広々としたリビングのふかふかのソファに私を座らせた。
「何か読みたい本はある? 活字が難しければ、綺麗な絵本や図鑑もあるよ」
そう言って貸してくれたのは、世界中の美しい景色や、見たこともない色鮮やかな花が載っている大きな図鑑だった。前の世界では、奴隷が文字を読んだり、本に触れたりすること自体が重罪だった。それなのに、ここでは綺麗なソファの上で、自由に本をめくることが許されている。
時折、彩葉様が私の隣にそっと座って、「この花、ヤチヨの瞳の色に似ていて綺麗だね」とか、「今度、このお菓子を一緒に作ってみようか」と、お屋敷の周りに咲く花の話や他愛のない話をしてくれる。
隣に人がいるだけで、私は最初は肩を強張らせ、いつでも逃げ出せるように身構えていた。
けれど、一時間が過ぎ、二時間が過ぎても、何一つ理不尽に罵倒されることはなかった。
重い荷物を持たされて、足がもつれるまで走らされることも、失敗して鞭で打たれることもない。
ただ、窓から差し込む、静かで穏やかな光が部屋を満たしている。彩葉様の柔らかい声と、時折お屋敷の奥から聞こえる柱時計の規則正しい音だけが、ゆったりとした時間を刻んでいた。
(……この人は、本当に悪い人ではないのかもしれない)
図鑑のページをめくりながら、私の胸の奥で、頑なだった警戒の氷が、ピキッと音を立てて小さくひび割れたような気がした。
彩葉様が私を見て笑いかけてくれるたび、胸の奥がキュッと締め付けられるような、今まで感じたことのない不思議なあたたかい感覚が芽生え始めていた。この人のそばにいる時間は、息がしやすい。怯えなくていい空間というものが、この世に存在するのだと、私は初めて知りかけていた。
──けれど。
そんな天国のような幸福な時間は、太陽が西の空に傾き始めた頃から、急速に色褪せていった。
夕暮れが近づき、窓から差し込む光がオレンジ色から不穏な朱色へと変わり、やがてお屋敷の隅々に濃い影が落ち始める。
それと連動するように、私の心に、どす黒い恐怖の影が這い上がってきた。
奴隷にとって、夜とは恐怖そのものだった。
一日の過酷な労働が終わり、主人たちが酒を飲んで理性を失う時間。
昼間はどれほど温厚を装っている主人であっても、夜になれば、暗い檻の中に閉じ込められた私たちを引きずり出し、日頃のストレスをぶつけるように理不尽な暴力を振るう。むせ返るような酒の臭い、衣服が引き裂かれる音、仲間の悲鳴、そして容赦なく振り下ろされる鞭。夜の暗闇は、すべての理不尽な調教と残酷な行為を覆い隠すための帳だった。
昼間がどれほど穏やかであっても、夜になれば、あの地獄が始まる。それが、私がこれまで何年もかけて叩き込まれてきた、この世界の絶対的なルールだったのだ。
「ヤチヨ、そろそろ寝室に行こうか。今日もよく頑張ったね」
夕食を終えたあと、彩葉様が微笑みながら私にかけたその優しい声さえ、今の私の耳には処刑の合図のように聞こえてしまった。
私の顔から血の気が引いていく。
再び、あの広い、私には分不相応な寝室へと案内される。彩葉様が部屋の明かりを落とし、「おやすみ、また明日ね」と言ってパタンと扉を閉めた瞬間、完全な暗闇が私を包み込んだ。
カチリ、と鍵の閉まるような音が脳内で響く。
ベッドに入った瞬間から、全身の毛穴が開き、冷や汗がどっと溢れ出た。
(やっぱり、そうだ。昼間のあれは、私を油断させるための高度な罠だったんだ)
ガタガタと、奥歯が鳴るのを止められない。
あんなに優しくして、美味しいものを食べさせて、綺麗な服を与えて、私が完全にこの場所に心を許しかけた瞬間に、奈落へ突き落とす。そういう、奴隷の心が絶望に染まる瞬間を何よりも好む、残酷な趣味を持った貴族を、私は前の職場で嫌というほど見てきた。
(今夜だ。今夜、あの人がこの部屋に入ってきて、私をめちゃくちゃにするんだ……っ)
そう思うと、部屋のわずかな軋み音や、風が窓を叩く音さえもが、私を捕らえに来る足音のように聞こえてしまう。
昼間のあのあたたかな光や、彩葉様の優しい笑顔が、すべて私を騙すための偽物だったように思えてくる。信じようとした自分が愚かだったのだ。私は奴隷なのに。ただの消耗品なのに。
息が、うまく吸えない。
胸が締め付けられるように苦しくて、酸素が肺まで届かない。酸欠で頭がクラクラして、視界の端に火花が散る。
私は布団を頭から被り、ベッドの片隅で膝を抱えて、暗闇の中で小さく、小さく丸まった。
昼間のあのあたたかな光が、遠い幻のように思えて、圧倒的な孤独と恐怖で胸が押しつぶされそうだった。
怖い。痛いのは嫌だ。寒いのも、暗いのも嫌だ。
誰か、助けて。彩葉様、助けて──。
いや、違う。その彩葉様が、これから私を傷つけに来る張本人なのだ。
助けてくれる人なんて、この世界には最初からどこにもいない。
私は、ただの奴隷なのだから。捨てられ、痛めつけられ、泥の中で死んでいくだけの存在なのだから。
恐怖が極限に達し、過呼吸気味の荒い息が、狭い布団の中に熱を持って満ちていく。
心臓が破裂しそうなほど速く鼓動を刻み、冷たい涙がボロボロと枕を濡らした。
その時だった。
カチャリ、と。
昼間、あれほど私を安心させてくれた、大好きなはずの扉の開閉音が、静寂の中に冷酷に響いた。
「──っ!?」
私の身体が、恐怖で完全に硬直する。指先一つ動かすことができない。
ゆっくりとした、けれど確実にこちらへ向かってくる足音が、フカフカの絨毯を踏みしめてベッドへと近づいてくる。
暗闇の中に、うっすらと長い髪の、人影が見えた。間違いない、彩葉様だ。
(来た。ついに、本当の地獄が始まる──!)
私は布団の中でギュッと目を瞑り、奥歯を噛み締め、これから訪れるであろう暴力の痛みに備えて身体を限界まで強張らせた。叩かれるのか、蹴られるのか、それとも──。
しかし、訪れたのは衝撃ではなかった。
「ヤチヨ……? 大丈夫?」
届いたのは、昼間と全く変わらない、鈴の鳴るような、ひどく心配そうな彩葉様の声だった。
次の瞬間、ベッドの端がわずかに沈み、布団の上から、躊躇うような、けれど包み込むような優しい手つきで、私の身体が触れられた。
「……すごく震えてる。苦しそうな声が部屋の外まで聞こえたから、入っちゃった。ごめんね……怖かった、ね」
そのまま、彩葉様は躊躇うことなくベッドの中に滑り込んできた。
驚きで目を見開いた私の背後から、私の小さな身体を、壊れ物を扱うかのようにそっと、けれど力強く、両腕で引き寄せて抱きしめてくれる。
「ひあ、つ、……ぁ……っ」
「大丈夫、大丈夫だよ、ヤチヨ。私はここにいるよ。何も怖いものはいないからね」
耳元で、心地よい、彩葉様の規則正しい心音がダイレクトに響く。トントン、トントン、と、まるで私の乱れた呼吸を整えるような、落ち着いた一定のリズム。
そして、私を後ろから包み込むのは、昨日の夜、あの泥沼の奴隷市場から私を救い出してくれた、あの圧倒的なあたたかい体温だった。
暴力を振るわれる気配は、どこにもない。私を縛るための縄も、打つための鞭も持っていない。
ただ、冷え切ってガタガタと震える私の身体を、自分の体温で温めようとするかのように、彩葉様はぴったりと寄り添い、私の背中を大きな手で優しく、ゆっくりと撫で続けてくれている。
「私はあなたを傷つけない。絶対に、何があっても。ここはあなたをいじめる人は誰もいないの。だから、安心していいんだよ……」
その言葉が、心音が、ぬくもりが、私の耳から脳へ、そして影のように暗かった心の奥底へと、じわじわと染み渡っていく。
その手のひらは、私を支配するためのものではなかった。ただ、私の痛みを吸い取り、ここにいていいのだと全肯定してくれるための手だった。
(ああ……本当に、罠じゃないんだ……。この人は、夜になっても、優しいままだ……)
その瞬間、限界まで張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
恐怖の象徴だったはずの夜の闇が、彩葉様の腕の中にいるだけで、世界でいちばん安全な、私を守ってくれる静かな帳へと変わっていく。
「……ぅ、あ……う、あ、……っ」
言葉にならない嗚咽が、喉の奥から溢れ出た。
私は布団から顔を出し、彩葉様の胸元に自分から顔を埋めて、子供のように声を上げて泣いた。
奴隷になってから、泣けば「うるさい」と殴られるだけだったから、泣き方すら忘れていたのに。涙が堰を切ったように溢れて、彩葉様の高級なシルクの寝着を容赦なく濡らしていく。
それでも、彩葉様は嫌がる素振りもせず、むしろもっと強く私を抱きしめて、「いいよ、たくさん泣いていいんだよ」と、私の髪を何度も何度も愛おしそうに撫で、私のすべてを受け入れ続けてくれた。
その圧倒的なあたたかさに包まれながら、私の心の中から、過去の主人たちの怒声や、暗い檻の記憶といった亡霊たちが、静かに消え去っていく。
生まれて初めて、夜を『怖い』ではなく『あたたかい』と感じながら、私は本当の安心のなかで、深い眠りの中へと落ちていった。
◆◆◆
腕の中で、壊れた人形のように激しく泣きじゃくっていたヤチヨが、やがて小さな、規則正しい寝息を立て始めた。
「……ふぅ、」
私は、彼女を起こさないように細心の注意を払いながら、そっと長い息を吐き出した。
本当に、本当に危ないところだった。
夜、なんとなく胸騒ぎがして彼女の寝室の前を通りかかったとき、中から尋常ではないヤチヨの荒い息遣いと、嗚咽混じりの小さな泣き声が聞こえてきたのだ。
最初、私は部屋の前で凍りついた。
「いきなり夜に部屋に入ったら、新しいトラウマを植え付けちゃうよね……」と廊下でめちゃくちゃ葛藤して、自分の頭を抱えてのたうち回っていた。でも、中から聞こえる声はどんどん苦しそうになっていく。過呼吸を起こしているのは明らかだった。
あ、もう無理。嫌われてもいい、不審者だと思われてもいい、明日「もう嫌だ」って泣き叫ばれたとしても、とにかく今この子を助けなきゃ、と扉を開けた。
部屋に入って、布団の中で丸まってガタガタ震えているヤチヨを見たときは、本当に胸が潰れるかと思った。私の想像を絶するような恐怖が、この小さな身体を今もおののかせているのだと。
でも、こうして全力で抱きしめて、私の体温を分け与えていたら、彼女は私の胸に顔を埋めて、初めて張り詰めていた感情を爆発させるように大粒の涙を流してくれた。私を拒絶するのではなく、縋るように私の服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめてくれたのだ。
そして今、その手のひらにはまだ力がこもったまま、私の腕の中で安心したようにすやすやと眠っている。
暗闇に目が慣れてくると、愛しいヤチヨの寝顔がうっすらと見えた。
昼間の緊張した顔とは違う、少しだけあどけなさの残る、本当の彼女の寝顔。まだ長い睫毛の先には、小さな涙の粒が光っている。
私は愛おしさが限界突破して、溢れ出そうになる涙を堪えながら、その涙の痕を人差し指の腹でそっと、触れれば消えてしまう幻を扱うように拭ってあげた。
「よく頑張ったね、ヤチヨ。偉かったね……」
奴隷としての記憶が、何年もかけて刻み込まれた心の傷が、そう簡単に消えないことは分かっている。
昼間は大丈夫そうに見えても、光が消えて夜になればまた、あの地獄の記憶が彼女のすぐ後ろまで忍び寄ってきて、その心を暗闇に引きずり込もうとするのだろう。今日みたいに、一人で呼吸ができなくなるほど怯える夜が、これからも何度も何度も訪れるはずだ。
でも、そのたびに、私は何度だってこの部屋に来る。扉を叩き、彼女を抱きしめる。
彼女が夜を怖がらなくなるまで、何十回でも、何百回でも、何年かかろうとも、こうして腕の中で温めて、世界でいちばん安全な夜をプレゼントしてあげるんだ。私のこの両腕が、彼女にとっての絶対に破られない完璧な檻──いや、聖域になればいい。
「おやすみ、私の可愛いお姫様。明日の朝も、美味しいご飯を作って待ってるからね」
ヤチヨの綺麗な額に、そっと触れるだけの、音も立てない優しいキスを落とす。
私の服を掴む彼女の小さな指先が、少しだけ緩んだような気がした。
この小さな鳥が、いつか私の腕の中で、過去の傷をすべて忘れて、何の不安もなく羽を伸ばして笑えるその日まで──私はこの底なしの愛で、彼女の人生のすべてを包み込み続けることを、静かな夜の闇に誓った。


























