Novel11 days ago · 9.6k chars · 1 pages

『あなたとお話させてください』

てるてるぼうずてるてるぼうず

大学生彩葉さんと年上ヤチヨさんが、偶然の出会いをするお話です。 殴り書いた短編ものなので、続くかどうかは気分次第となります。こういうお話、大変に好みなんですよね……書き上げて満足してしまいました。 本作も、どうぞよろしくお願いいたします。

それは大学からの帰り道だった。この日、私の気分は憂鬱という言葉に尽きる一日だった。別に何か特別苦労することがあったわけではない。講義はいつも通り終わったし、レポートの締め切りに追われているわけでもない。友人と喧嘩したわけでもなければ、バイト先で嫌なことがあったわけでもない。身体が重いというよりは心の方が少しだけ擦り減っているような、平常とは言えるのに元気と言うには程遠いような、そんな感覚だった。

 朝起きて、大学へ行って、授業を受けて、昼を食べて、また授業を受けて。そんな何気ない一日を過ごしただけなのに気付けば頭の中にはぼんやりとした倦怠感が積もっていて、何をするにも少し億劫だった。
 だから私は帰路を急いでいた。
 早く家に帰りたいし、今すぐにでもベッドに倒れ込みたいし、できることなら誰とも話したくない。ただ、理由のない疲れが身体の奥にじっと沈殿していて、人で溢れる駅のコンコースを俯きがちに歩いていた。

 今は夕方の帰宅ラッシュには少し早い時間帯とはいえ、人の流れは絶えない。様々な足音が重なり合う中で、私もまたその流れの一部として足早に進んでいた。改札へ向かう人、乗り換えを急ぐ人、柱や壁のそばに立って誰かを待つ人、いろんな人がいる。人とぶつからない程度には前を見るけど、積極的に周囲を観察する気力もなくどちらかといえば人と目の合わない足元へ視線を落としながら流れる人波の中を進んでいた。

 だからこそ、その姿が目に入ったのは本当に偶然だった。その時に視界の端を横切った長い白髪。思わず顔を上げてしまった。雪のように白い髪と、内側を一面に染め上げる淡い桃色の髪。光を受けて輝くように揺れるその髪は、息を飲んで目を引くほど綺麗だった。

 反射的に視線が向いたのはほんの一瞬だけ。本来ならそれだけで終わるはずだった。もう一度歩みを進めて、いち早く自分の家へ帰宅するはずだった。でもそのすぐあと、通りすがった女性のバッグのあたりから小さなものが落ちるのが見えた。自由落下を終えて二、三度弾んだ後にころりと床へ転がったそれは小さなうさぎのキーホルダーだった。遠目で見ても分かるような、白い布地で作られた素朴なうさぎ。耳の根元や胴体には細かな縫い目が見えていて、既製品というより誰かが手作業で作ったもののように見える。長く大事にされているのだろう。耳の先は少しだけ擦れていて、それだけ大切にされてきたことが伝わってくる。
 でも、落とした女性は気付いていない。そのまま人の流れへ溶け込むように歩いていく。落ちたキーホルダーだけが床へと取り残される。私は数歩進んでから足を止めた。正直に言えば面倒だと思う気持ちがあった。疲れていたし、これだけの人混みを掻き分けて行くとなると相当労力を使うことになる。誰か別の人が拾うかもしれないし、駅員に届ければ済む話かもしれないなんて、一瞬だけそんな考えが頭をよぎる。けれど、そのまま立ち去ることもできなかった。落とし物とその持ち主に気付いてしまった以上、知らないふりをするのも気分が悪い。

 数歩進んだ足を翻して、ふぅ、と覚悟を決めるように小さく息を吐いてしゃがみ込む。指先で拾い上げたうさぎは思ったより柔らかかった。綿の感触が掌に伝わる。誰かが丁寧に作ったのだろうと思える優しい触り心地だった。こんなに大事にされているものなら、尚のこと捨て置くなんて出来ない。手のひらでぱたぱたと優しく汚れをはたきながらすくっと立ち上がって顔を上げると、持ち主の女性はすでに数メートル先まで進んでいた。

「あの!」

 口の横に手のひらを添えて少し声を張る。でも女性は振り向かない。人混みのざわめきに掻き消されたのだろうか。それともイヤホンでもしているのだろうか。

「あの、落としましたよー!」

 今度はもう少し大きな声で呼んでみる。それでも反応はない。白い髪だけが人混みの向こうで揺れている。こんなに大勢人がいる中で自分が呼ばれているなんてそうそう思わないにしても、彼女は一度も振り返らずに進んでいってしまう。無視されているとは思わない。けれど、呼んでも呼んでも気付いてもらえない状況は少しだけ焦れったかった。仕方なく歩幅を広げて迫り来る人の波を避けながら進む。こんなことなら最初から駅員に預ければ良かっただろうか。そんな考えすら頭に浮かぶ。しかしここまで来てしまうと途中でやめるのも妙な気分だった。

 右から来る人を避ける。左から来る人とぶつからないよう進路を変える。そのたびに先を歩く彼女との距離は広がっていく一方で埒が明かない。特別速く歩いているわけではなさそうなのに、なかなか追いつけなかった。それが今の余裕の無い私には堪えてしまって、心のどこか深いところで小さな苛立ちにも似た感情が生まれ始める。もどかしくて、嫌な感情で眉間が寄りかけて、気持ちを落ち着けるように深呼吸をした。次いでこんなことで感情が揺らいでしまう自分に対する自責の念が襲いかかってくる。これほど些細なことで気を揉んでしまうなんて、自分に自分で呆れてしまう。これを届けたらすぐに帰ろう。

 そんなことを考えながら人混みを抜け、ようやく女性のすぐ後ろまで辿り着いた。もう声だけでは彼女を止められないと分かっている。だから、あと一歩まで縮まった距離を埋めるために、私は少し迷ってから手を伸ばした。
 ぽん、と軽く肩へ触れる。したことと言えば本当にそれだけだった。でも。

「――!」

 女性の身体がびくりと大きく震えた。驚愕という言葉が似合う反応だった。勢いよく振り返ったその人は、目を大きく見開いたまま私の方を見つめる。その勢いに驚いて思わず私まで固まってしまった。綺麗な桃がかった白藍色の瞳が驚きでいっぱいになっていた。

 二人、駅の人混みの中で、まるで時間が止まったかのように固まっている。私は一瞬で後悔した。驚かせすぎた。こんなつもりじゃなかったのに。でも、知らない人間に突然肩を叩かれたのだから当然の反応かもしれない。罪悪感が胸を刺して、慌てて言葉が出る。

「ご、ごめんなさい」

 もしかしたら変な人だと思われているかもしれない。そんな気まずさを覚えながら、右手に持っていたうさぎを顔の横まで持ち上げた。

「これ、落としましたよ」

 女性の視線が手にあるうさぎへゆっくりと移動する。数秒しばらく見つめるような時間があって、その直後だった。固まっていた表情が驚きに変わって、次に信じられないというような喜びが浮かんで、間を置かずに慌てたような焦りになった。端正な顔立ちに感情が次々に表れていって、そのどれもが見ているこちらが驚くほど分かりやすかった。

 女性はわたわたさせていた動きを止めて急いで両手をこちらへ差し出した。まるで壊れやすい宝物を受け取るかのように、そっとそのうさぎを受け取る。そして指先に力を込めながら胸元へ抱き寄せる姿は失くした大切なものが戻ってきた人の様子そのものだった。長い睫毛が伏せられて、ふるりと震える。それからほっとしたように息を吐いたのが分かった。
 胸の前でうさぎを抱きしめるその手はどこか抱いた安堵を確かめるように優しく布地を撫でている。よほど大事なものだったのだろう。ただのキーホルダーにしては反応が大きい。もちろん落とし物が戻ってくれば嬉しいものだ。けれど、この人の喜び方はそれ以上に見えた。まるで失くしてはいけないものを取り戻したような。何か思い出の詰まったものだったのかもしれない。そんな想像が頭をよぎる。それなら、無事に届けられてよかった、とほっと胸を撫で下ろしていると目の前の女性はこちらへ視線を向け直して、それから深く頭を下げた。ぺこり、と上半身を綺麗に折って、とても丁寧なお辞儀だった。

「あ、いえ、大丈夫ですよ。そんな……」

 反射的に手のひらを突き出して首を横に振る。そんなにかしこまらなくても、とそう言おうとした直後、女性は再び頭を下げた。顔が上がって深いお辞儀が終わったと思ったら、また胸元のうさぎへ視線を落とし、それからこちらへ向かって頭を下げる。何度も、何度も。まるで感謝の気持ちを少しでも伝えようとしているみたいだった。
 その様子があまりにも一生懸命でどこか微笑ましくは感じていたものの、こんなにも堂々と人目のつく場所でこんなことをさせていては、まるで私が恩着せがましい輩のように写ってしまっていそうで、嫌な汗が背中を伝う感覚がした。彼女をどう止めるべきか思案して、困ったように頭を掻く。

「そんなにお礼されることじゃないですから」

 落としたものを拾っただけ、それだけのことだ。誰だって同じことをしただろうと、そう思う。けど、女性はお辞儀を止めない。そしてまた頭を下げた。今度は少し長めに。動作の拍子に白く長い髪が肩からさらりと前へ流れ落ちる。その姿が妙に綺麗で、私は一瞬言葉を失ってしまった。まるで映画の中からそのまま出てきた女優さんみたいだ。そう思ってしまうほど、その女性には独特の雰囲気があった。
 年齢はおそらく自分より少し上だろうか。二十代半ばから後半くらい。柔らかな服装も相まって全体的に穏やかな印象を受ける。けれどその一方で、どこか儚い雰囲気も漂わせていた。人混みの中にいても現実感が薄いというか、ふと目を離したら消えてしまいそうな危うさがあった。
 そんな人が、胸元のうさぎを抱きながら何度も頭を下げている。さすがにここまで頭を下げさせてしまっては居心地が悪い。

「ほ、本当に大丈夫ですから」

 私は慌てて両手を軽く振った。

「そんなに謝られると、なんか私が怖がらせたみたいじゃないですか」

 少しでも気を楽にしてほしかったから、冗談めかして言ってみる。でも、女性は返事をしなかった。いや、返事をしないというより、できないようにも見えた。お辞儀を止めて、ただ困ったように微笑んでいる。口元はわずかに動いているし、何か言おうとしているようにも見える。けれど声は出ていない。

「……?」

 私は少し首を傾げた。そういえば、彼女、さっきから一言も喋っていない。落とし物を受け取った時も、何度もお辞儀をしていた時も、ただひたすら表情と仕草だけで感情を伝えている。最初は緊張していて言葉が出ないのかと思っていたけど、違う気がする。人見知りにしては反応が妙だ。それに、自分を呼び止める声にも全く気付かなかった。あれだけの距離で何度も呼んだのに。

 心の中で小さな疑問が形になり始めていたその時だった。

 女性が何かを思い出したように目を丸くする。そして慌てた様子で肩から掛けていたバッグを開いた。

「あ、えっと?」

 急な行動に戸惑っていると、女性はそんなことには構わずにバッグの中を探り始めた。様々なものの間を探りながら、目的のものを見つけたらしい。取り出されたのは手のひらほどの小さなメモ帳だった。さらに細身のペンも取り出す。慣れた動作だった。女性はうさぎを腕で抱えるように持ち直しながら、メモ帳を開く。ページをめくって、片手で抑えて、ペンの端をノックして、そして迷いなくペンを走らせ始める。

 さらさら、と紙を擦る音だけが聞こえる。駅の喧騒の中ではほとんど聞こえないほど小さな音だったはずなのに、不思議と私の耳には印象深く残る音だった。ちらりと見えるその女性の字はとても綺麗だった。筆の運びは軽やかなのに、一文字一文字が丁寧に書かれていた。何かを伝えるために文字を書くことに慣れているんだと、それが分かるような手つきで。私はその様子を黙って見守った。

 周囲では相も変わらず人々が絶えず行き交っている。でも、誰も私たち二人のことなど気にしていない。この騒がしい空間の中で、二人だけが少し違う時間を過ごしているような感覚だった。
 やがて女性の手が止まる。どうやら書き終えたらしい。彼女は一度内容を確認するように視線を落とし、それからふわりと柔らかな笑みを浮かべた。どこか安心したような、ようやく伝えられるとほっとしたような、そんな微笑みだった。そして静かにメモ帳を持ち上げる。私に向けて紙面を見せるように。そこには丁寧な文字で、こう書かれていた。

『直接言葉でお礼が言えなくてごめんなさい』

『拾ってくださってありがとうございます』

 その文章を目で追った瞬間、私の中でばらばらだった違和感が一つに繋がった。呼びかけても振り向かなかったこと。肩を叩かれた時に飛び上がるほど驚いたこと。ここまで一言も話さなかったこと。そして、慣れた様子で取り出されたメモ帳とペン。全部が一本の線で繋がった。

「もしかして……」

 言いかけて、はっとする。慌てて自分のポケットにしまっていたスマホを取り出して文字を打った。そして、そのスマホを彼女に向けて差し出すように見せる。

『失礼だったらごめんなさい。もしかして、聾者の方ですか?』

 直接聞いていいことなのだろうか。失礼にならないだろうか。彼女が画面を見つめる間にも、そんな不安が胸をよぎる。けれど、文字を読み終えた女性は穏やかな表情のままこちらを見て、ただ静かに頷いた。

「そうだったんだ……」

 思わず独り言を呟いてしまう。すると、女性は再びメモ帳へ視線を落とした。さらさらとペンが動く。先ほどより少し短い時間で書き終えると、また紙面をこちらへ向けた。

『生まれつきです』

 丁寧な文字だった。やはり一文字一文字が整っていて読みやすい。きっちりとしているのにどこか柔らかい印象の字で、書いた人の性格がそのまま表れているような気がした。

 そうだったんですね、とつい癖で相槌をうってしまう。しまった、これじゃ彼女には伝わらない、と思ったのも束の間で女性は微笑みながら頷いていた。ある程度は言葉の内容を推測出来るのだろうか、と疑問に思っていると、彼女が続けて何かを書き始める。

『だから呼ばれていることに気付けませんでした』

『ごめんなさい』

 その最後の一文を見て、慌てて私もスマホに文字を打つ。

『いや、謝るのは私の方です』

 その文を見た女性がこちらに視線を向けて首を傾げる。

『肩叩いた時、すごく驚いてましたよね』

 その瞬間を思い出す。本当に飛び上がりそうなくらい驚いていた。肩に触れた途端、身体を震わせるように反応していた姿が脳裏にありありとよみがえる。あの反応を思い返すだけで申し訳なさが込み上げてきた。

『びっくりさせちゃって、こちらこそごめんなさい』

 私からの文面での謝罪の言葉に、女性は目をぱちぱちと瞬かせた。それからふるふると首を横に振る。否定の意思がはっきり伝わってくる仕草だった。けれど、すぐにメモ帳へ何かを書き足していた。書き終わって、それをまた見せてくれる。

『全然、大丈夫です!!!』

 思いがけない数の感嘆符が後ろにくっついていて、私はぎょっと目を見開いて驚いてしまった。こんなにも活発な言葉遣いをする人なんだ、なんて思いながら視線を滑らせていると、『本当に少しだけ、びっくりして』という一言の後ろに小さな照れ顔の顔文字まで添えられていて、私は思わず顔を綻ばせてしまった。真面目なやり取りの中に混ざったその可愛らしい一工夫が、なんだか彼女の人柄を表しているみたいで。
 こちらが文面の可愛らしさに微笑んでいると、女性も楽しそうに目を細める。彼女の声は聞こえない。けれど、心の底から楽しそうに笑っていることだけはよく分かった。口元の柔らかな動きや細められた目が、その感情を十分に伝えていたから。

 不思議な人だな、と改めて思う。会ってからまだ数分しか経っていない。名前も知らない。どこに住んでいるのかも、何をしている人なのかも分からない。それなのに、直接言葉を交わしている時よりも感情が伝わってくるようなやり取りばかりで。文字と表情だけの応酬なのに、不思議なくらい相手の気持ちが見えてくる。

 私の視線は自然と女性の胸元で抱きしめられている小さなうさぎへ向かった。女性は私の視線の向かう先に気付いたらしい。彼女もまたそっと腕の中のそれへ視線を落とした。それから、表情が少しだけ柔らかくなる。優しくて、懐かしそうで、愛おしそうな、先ほどとはまた違う顔。まるで大切な思い出そのものを見つめているような眼差しだった。
 どんな思い入れがあるのか気になって、また電子の言葉で彼女に話しかけてみる。

『そのうさぎちゃん、すごく大事なものなんですね』

 文に目を通した女性の肩がわずかに揺れた。そして胸元のうさぎを見つめる。指先が擦り切れた部分を確かめるように耳の先を撫でた。目を伏せて、なにかの思い出に浸るように幸せな微笑みを浮かべている。その仕草には自然な愛着が滲んでいた。
 そしてしばらく考える様子を見せた後、再びペンを動かす。
 今度は少し長かった。

 数行にわたって文字を書き連ねていく。書いては止まり、また書く。まるでどの言葉を使うか慎重に選んでいるみたいだった。伝えたい気持ちがたくさんあるのだろうと思った。やがて女性は紙面をこちらへ向ける。

『小さい頃に作ってもらったものです』

『世界にひとつだけなので』

『なくしたと思った時は本当にどうしようかと』

 その文字の隣には少し困ったような顔が描かれていた。彼女の顔を見ると眉尻を下げて悲しい気持ちを思い出したような顔をしていた。私は自然とうさぎを見つめ直してしまう。均一ではない縫い目に、左右で少しだけ形の違う耳。そして、長い年月を共に過ごしてきたことが分かる柔らかな生地の質感。誰かが時間をかけ、気持ちを込めて作ったものなのだろうと予想はしていたけど、改めてその事実を知ると先ほどの女性の反応にも納得できた。もし自分にとってそんな特別なものを失ったと思ったら、きっと同じように慌ててしまうはずだ。

『大切な宝物、届けられて良かったです』

 そう打ち込んで見せると、女性は少しだけ大きく頷いて軽く会釈をした。目元まで柔らかく細めて、胸元のうさぎを抱きしめながら。その表情を見ていると、なんだか不思議な気持ちになった。

 ほんの数分前まで赤の他人だったのに。名前も知らなくて、どんな仕事をしているのかも、年齢だって分からない。それなのに、もっと知りたいと思った。ただ純粋に、目の前にいるこの人のことを知りたい。こんな風に優しく笑う人が普段どんな風に過ごしているのか。そんなことが気になってしまった私は気づけば画面に指を滑らせていた。

『帰り道、あっちの方ですよね?』

 私が進行方向だった方面へ指をさしながら書き上げた文章を見せると、女性は画面に目を通してから頷く。私はそのまま続けた。

『もし良ければ駅の改札まで送らせてください』

 入力して見せる。そして、見せた直後に気付いた。
 今の言い方、なんか、すごく怪しくない?

 頭の中で自分の言葉を反芻する。

 帰り道あっちですよね、送らせてくださいなんて文章を、知らない女性に、駅で、初対面で? どう考えても聞いたことがある。テレビとかネットとかで。ナンパの常套句として、よく使われるみたいな。

「あ」

 思わず声が漏れた。熱が頬へ集まっていくのが分かる。まずい。すごくまずい。絶対変な人だと思われた。
 慌ててスマホをもう一度操作する。

『あ、えっと』

 文字を打つ。それを消す。また打つ。焦りで指がもつれてしまう。

『そういうのじゃなくて』

 何を言っているのだろう。自分でも分からない。むしろ怪しさが増している気しかしない。

『その』

『ただ』

『もう少しお話できたらなって』

『思っただけで』

『変な意味とかではなくて』

 そこまで打ち込んでから、私はいたたまれなくなって視線を逸らした。片手で顔を覆って天を見上げる。絶対変な人だと思われた。初対面の相手に何を必死に弁解してるんだろう。耳まで熱い。もういっそホームへ逃げ込みたい。穴があったら入りたい。

 そんなことを考えていると、ふるふる、と女性の肩が震えた。

「……?」

 視界の端に映った彼女の仕草が不思議で顔を向けると、女性は口元へ指先を添えていた。そして肩を揺らしている。笑う声は聞こえない。でも、分かった。確実に笑っている。くすくすと楽しそうに。心から面白がるように。その瞳は柔らかく細められて、先ほどまでの儚げな雰囲気はどこかへ消えていた。年相応の女性らしい、少し悪戯っぽい笑顔に一瞬見惚れてしまう。笑うとこんな顔をするんだ。そんなことを思ってしまった。
 女性はしばらく楽しそうに笑った後、メモ帳をめくって新しいページを開く。さらさらとペンが紙の上を走る。そして書き終えた紙面をこちらへ向けてくれる。

『大丈夫です』

『送っていただけるならとっても嬉しいです』

 その文字を見て、私は少しだけ安心した。良かった、断られなかった。変な人認定もされていないらしい。ほっと胸を撫で下ろしていた、その時。女性は最後に一行を書き足した。

『ナンパでも別によかったですよ?』

 その横には小さな笑顔の顔文字が描かれていた。私は見間違えのないようにもう一度その文章を読み返して、それから。

「違いますから!?」

 思わず声を上げた。女性の肩が再びくつくつと楽しげに揺れる。今度は隠しもしていない。完全にからかわれていた。でも、不思議と嫌な気分はしない。むしろ、その笑顔を引き出せたことがどこか少しだけ嬉しかった。それに、彼女が自分ともう少し一緒にいてくれることが。

 女性はまだ少し楽しそうに肩を揺らしながら、再びメモ帳へ視線を落とした。取り乱していた私もようやく落ち着きを取り戻し始める。さっきのやり取りを思い出すとまだ少し恥ずかしいが、少なくとも彼女に警戒されてはいないらしいことが確認できたから、それだけで十分だった。

 ふと視線を前へ向けると、彼女は何か考え込むようにペン先を紙へ当てたまま止まっていた。何を書こうとしているのだろう、なんて考えて私が首を傾げていると、彼女は決心したように再び文字を書き始めた。さらさら、と綴った後に見せられたその紙面にはこんなことが書かれていた。

『本当はお礼がしたいです』

『近くでお茶でもどうですか?』

 文を読み終えた私の視線が紙の上で止まる。彼女は続けて書き足した。

『この駅の近くにお気に入りのお店があります』

『もし迷惑でなければ』

 その文章の最後は少しだけ小さな文字になっていた。遠慮しているのが分かる。けれど、それと同じぐらい誘いたい気持ちも見える。私は視線の方向を変えて彼女の顔を見た。少し怯えているような、どこか緊張した様子でこちらを見返している。断られるかもしれない、という言葉が顔に張り付いて不安が少しだけ表情に滲んでいた。

 その姿を見ているうちに、私はようやく気付く。彼女も、私と同じだった。もっと話してみたいと思ってくれたのだ。私はこの人のことを知りたいと思ったし、彼女は私のことを知りたいと思ってくれた。
 それなら、答えは決まっている。

『もちろん、喜んで』

 私がスマホに打ち込んだ文字を見た彼女の目が少しだけ見開かれた。それから、肩の力が抜けたように表情を緩めて柔らかく微笑んだ。
 胸元のうさぎを抱きしめながら見せたその笑顔は、先ほどまでのどんな表情よりも嬉しそうだった。

— End —

Comments 25

編坂3 天前
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F
fasdfd8 天前

これは,続編が,必要,だと思います。 この設定好きすぎる。

しのせん9 天前

些細なきっかけで始まる2人の物語…初めから知り合いとかじゃなくてはじめましてからのスタートめっちゃ好きです。続きが気になりすぎて昼も夜も眠れません

T
ttg9 天前
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シュレディンガー9 天前

続きを伏してお願い申し上げる

蓮零(レンヤ)10 天前
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蓮零(レンヤ)10 天前

カッコつかない感じも好きですし、それに対してヤチヨさんが『ナンパでも良かった』とか言っちゃうのがさぁ…何だぁ!?ラブストーリーの始まりやんこんなん…これ続きが読めないとカラカラに乾いてヤバくなりそうですわ…素敵ないろヤチをありがとうございます。マジで好きです。

蓮零(レンヤ)10 天前

日々になる予感を感じせて最高でした。耳が聞こえなくて、ヤチヨさんのお茶目さと大人のお姉さんの余裕さに揶揄われて余裕がなくなっちゃう彩葉さんを見ていると…可愛い。駅まで送るていう彩葉さんの百%紳士的な下心なしな発言がよく考えたら、ナンパみたいになって焦りちらかしてる彩葉さんのこの

蓮零(レンヤ)10 天前

の表し方と、そこでどうして彩葉さんの呼びかけに気づかなかったのかの理由が判明して…筆談で彩葉さんにお礼をした時に彩葉さんもすぐに察して相手が返しますようにメモ機能で返してるのが優しさと配慮を感じましたね。すごく読んでいて2人の何気ない空気ややり取りで偶然の出会いが特別なこれからの

蓮零(レンヤ)10 天前

めちゃくちゃいい…本当にきっかけが偶然から繋がったことだからこその話してのがいいなぁ…ヤチヨさんが落とした手作りのうさぎのキーホルダーとそれを拾って追いかけて渡した彩葉さん。ヤチヨさんがうさぎのキーホルダーを渡された時に本当に大切なものだからこその安堵感と嬉しさが混じるような描写

エメリ10 天前

ナンパでもよかったと言うヤチヨも素敵すぎました!! 素敵な作品をありがとうございます!

エメリ10 天前

始めるのが素敵すぎました…!ヤチヨさんに取ってとても大切なうさぎのキーホルダーを拾ったのが彩葉さんで本当に良かったです! 彩葉さんがヤチヨさんの事をもっと知りたくなって、駅まで送ると言った後にナンパみたいだと思って慌てる彩葉さんがとっても可愛かったです!そしてそんな彩葉さんをみて

Sakuria
Where every work blooms
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