――重い。
何か、柔らかくて温かいものが身体の上に乗っている。
その異質な気配に意識を引きずり戻されるようにして、私は目を覚ました。薄暗い寝室の中、なんとか瞼を持ち上げる。
視界が焦点を結び、そこに映るものの正体を認識した瞬間、私の心臓はけたたましく跳ね上がった。
目の前に、ヤチヨの顔がある。
「えっ――っな、なに、ヤチヨ!?」
あろうことか、彼女は私の上に馬乗りになっていた。
小柄で、驚くほど華奢な体躯が、私の身体を挟み込むように細い膝を突き、必死に組み伏せようとしている。
さらさらとした細い銀髪が、私の顔にパラパラと頼りなく落ちてくる。怯えたような、けれど同時に、どこか焦れたような危うい光を宿した瞳が、真っ直ぐに私を射抜いていた。
「……いろは、さま」
かすれた声。懇願するようなその響きにゾッとした直後、ヤチヨの細い指先が、私の寝巻きのボタンにかけられた。震える手つきのまま、私の衣服を剥ぎ取るべく指先に力がこもる。
「ちょっと、待って、何、どうしたの、落ち着いて――っ!」
言葉を遮るように、ヤチヨの顔が至近距離から突っ込んできた。
ごつん、と前歯のぶつかる鈍い音が響き、唇に強い痛みが走る。
「ん……っ!?」
それはキスと呼べるような情緒のあるものではなかった。ただただ、自らの唇を私の唇に強引に押し付け、塞ぎ、必死に何かを貪ろうとするだけの、どこか痛々しい行為。
「ん、ぅ、……んっ……」
私の寝巻きのボタンを外そうとしていた指は、今や胸元の布地をぐしゃぐしゃに掴み、強く握りしめられている。そうして逃がさないよう必死に私にしがみつきながら、呼吸の仕方も忘れてしまったかのように、ヤチヨはただひたすら、ぶつけるように唇を重ねてきた。
鼻が押し潰されるのも構わずに顔を寄せてくるせいで、互いの睫毛がせわしなく擦れ合う。あまりの至近距離に息が詰まる中、すぐ耳元で、浅く苦しげな吐息がひっきりなしに鼓膜を震わせた。
「ぅ、く、……いろ、は……さま、あ……っ」
なんでこんなことになってるの!?
突如として始まった暴挙に、私の頭は完全にパニックを起こしていた。何が起きているのか一ミリも理解できないまま、私はとにかくこの状況を脱しようと、強引に顔を背けてヤチヨの唇から逃れようとする。
けれど、そのわずかな拒絶の動きすら許さないとばかりに、ヤチヨはさらに必死になって体重をかけてきた。
普段からそれなりに身体を鍛えている私と比べれば、ヤチヨの身体は驚くほど細く、軽い。脇腹をぎゅうぎゅうと圧迫してくる小さな膝も、押し返せば折れてしまいそうなほど脆かった。
それなのに、何が何でも私を縛り付けようとする必死な体温からは、言葉にならない悲鳴のような切迫感がひしひしと伝わってくる。
私はどうにか混乱する頭を動かし、私の胸元を掴んでいるヤチヨの細い手首を掴んだ。そのまま、彼女の小さな身体を上へと押し返すようにして、その唇を強引に引き剥がす。
「はぁっ、……ヤチヨ! ちょっと落ち着いて!」
途端、ヤチヨの身体から一切の力が抜けた。
両手首を掴まれたまま、ヤチヨは酷くショックを受けたように、ただじっと私を見つめる。浅く激しい呼吸を繰り返すその唇は、言葉を失ったように小さく開かれたままだ。
「あ……」
小さな、掠れた息が漏れる。
それが合図だったかのように、ヤチヨの瞳から堰を切ったように大粒の涙がボロボロと溢れ出した。何も言わず、ただ泣きじゃくりながら、私に跨ったままの身体が小さく震え始める。
突然の出来事に、私はなす術もなく呆然とするしかなかった。
「……っ、……ぅ、……」
声にならない嗚咽が、彼女の喉の奥で小さく震える。
ヤチヨは、ただひたすらに涙を流していた。
私の手に両手首を掴まれたまま、もうそれ以上何もできずにじっと動きを止めている。濡れた睫毛の隙間から見つめてくるその瞳は、まるで迷子の子供のようだった。ただ静かに涙だけが次から次へと彼女の頬を濡らしていく、その姿から目が離せない。
「ちょっと、泣かないでよ……」
本当に、何がどうなっているのだろう。
急に襲いかかってきたかと思えば、目の前のヤチヨは、今にも消えてしまいそうな顔をして震えている。
私はただただ困惑し、ベッドの上でヤチヨの身体を押し返したまま、それ以上どう動くこともできずにいた。
私の下で声もなく泣きじゃくるヤチヨと、彼女を前にして、どう声をかければいいのかも分からず立ち往生している私。薄暗い部屋の中で、私たちはまるで、二人揃って道に迷ってしまった子供のようだった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
ぐるぐると渦巻く困惑の中で、私の意識は自然と、これまでの時間へと遡っていった。
===
ガチャリ。重々しい金属音が響き、目の前の鉄格子がゆっくりと開けられた。
薄暗い檻の奥から、一人の少女が促されるようにして外へと足を進めてくる。
数刻前、あの熱気に満ちたステージの上、スポットライトの眩い光に照らされて晒されていた彼女と目が合ったあの瞬間。私の中に走ったのは、自分でも説明のつかない強烈な衝動だった。
この子は、私が買い取る。
商人から提示されたのは、一般人に到底支払えるような金額ではなかったけれど、手段なんて選んでいられなかった。私は自分の持てるすべて――文字通り、私のこれからの人生のすべてを担保にして、狂気じみた大金をかき集めた。
私に残された時間は、そう長くはない。
いずれ訪れる別れまでに、何が何でも彼女を私の手から離し、一人で生きていけるだけの力を身につけさせ、自立させなければならない。それだけが、すべてを賭けて彼女を買い取った私の、絶対に曲げられない目標だった。
破滅への恐怖なんて、とっくに消えていた。覚悟なら、あの契約書にサインした瞬間に決まっている。
檻から出てきた少女は、伏せていた顔をのろのろと上げた。
と、次の瞬間、彼女の瞳がまっすぐに私を射抜く。
――その瞬間、私は息を呑んだ。
薄暗い引き渡し所の空気も、周りの商人たちの気配も、すべてが一瞬で遠のいていく。世界に、私たち二人しかいないかのような錯覚。
私を見つめる彼女の瞳は、驚くほど澄んでいて、そして、吸い込まれそうなほどに美しかった。
こんな場所に囚われていたとは到底思えないほど、強く、気高い光を宿した瞳。私のした選択は、私の人生を狂わせた選択は間違っていなかったのだと、そう思わせるような。彼女の輝きを前にして、私の心臓がドクリと大きく跳ねる。
彼女は、まるで心の奥底まで見透かそうとするかのように、じっと私を見つめたまま立ち尽くしている。その眼差しに気圧されそうになりながらも、私はなんとかまっすぐにその視線を受け止めた。
少しでも彼女を安心させたい。私の覚悟のすべてを声に込めるようにして、私は静かに唇を開いた。
「……ほら、行こう」
どうか、怯えないでほしいと願いながら。
彼女は驚いたようにわずかに目を見開いたあと、ただ、「はい」と短く、小さな声で応じてくれた。
交わした言葉は、それだけ。
けれど、歩き出した彼女の小さな背中を見つめながら、私は自分の胸に去来する嵐のような鼓動を、静かに噛み締めていた。






















