バイトを終えてアパートへ帰る頃には、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
今日も疲れた。
学校が終わってからそのままバイトへ向かい、閉店近くまで働いていたせいで足が重い。肩も少し凝っている気がする。今すぐお風呂に入って、そのまま布団に倒れ込みたい。
そんな事を考えながら、私は家の鍵を取り出した。
カチャリ。
いつものように扉を開ける。
「ただい――」
言い終わる前だった。
「彩葉!」
「おかえり!」
部屋の奥から飛び出してきた二人の子供に、私は思わず目を丸くする。
「わっ!?」
かぐやが右手を、ヤチヨが左手を掴み、そしてそのまま容赦なく引っ張り始めた。
「ちょ、ちょっと!?」
「早く早く!」
「見せたいものがあるの!」
「いや靴!まだ靴脱いでな――」
「はやくー!」
聞いていない。
いつもの事だった。
結局、私は半ば引きずられるように靴を脱ぎ、二人の後を追う。
「はいはい……分かったから、そんな急がなくても逃げないって……」
本当に元気だな。
疲れ切った身体には少々堪えるが、不思議と嫌な気持ちはしない。
むしろ。
誰かが自分の帰りを待っていてくれるという事実が、少しだけ嬉しかった。
リビングへ連れて行かれた私は、そこで足を止めた。
「……え?」
思わず声が漏れる。
テーブルの上に並んでいたのは、夕食だった。
しかも一品や二品ではない。
サラダにスープ。炒め物。
私でも滅多に作らないような、しっかりした献立。
もちろんプロが作ったような出来ではない。少し形の歪な野菜や、若干焦げた跡も見える。
それでも。
二人の年齢を考えれば十分すぎるほど立派だった。
「これ……」
私はテーブルと二人を交互に見る。
「二人で作ったの?」
「うん!」
かぐやが得意げに胸を張った。
「ヤチヨと一緒に!」
「ほとんどかぐやが頑張った。」
「えへへ。」
嬉しい気持ちが湧いてくると同時に、嫌な予感もしてきた。
「だ、大丈夫だった?」
「?」
「包丁とか!火とか!」
するとヤチヨがあっさり答える。
「かぐやがちょっと指切っちゃったぐらいだよ。」
「大丈夫じゃないじゃん!?」
私の声がふいに裏返った。
「ちゃ、ちゃんと手当てした!?」
「したよ。」
「消毒は!?」
「した。」
「絆創膏は!?」
「貼った。」
「ほんとに!?」
「だから貼ったってば。」
ヤチヨが呆れたように言う。
かぐやも慌てて手を差し出した。
「ほら!」
確かに小さな絆創膏が貼られている。
傷口も既に塞がり始めているようだった。
私はしばらくその指を見つめていたが、ようやく安堵の息を吐いた。
「……良かった。」
「彩葉、心配しすぎ〜。」
ヤチヨがくすりと笑う。
「そ、それは……」
彩葉は言葉を詰まらせる。
「だって私は、一応あんた達の保護者な訳だし……」
「保護者だって。」
「保護者ねぇ……。」
二人が繰り返す。
何故か少し面白そうに。
「な、何よ。」
「別にー。」
「彩葉らしいなって。」
「むぅ……」
納得がいかない。
けれど。
二人とも元気そうだし、怪我も大した事はなさそうだし、二人とも、とても嬉しそうだった。
「それより!」
かぐやが私の服の裾を引っ張る。
「早く食べよ!」
「冷めちゃう。」
「……うん。」
私は小さく笑った。
本当なら、帰ってきた瞬間は立っているのも億劫なくらい疲れていたはずだった。
それなのに。
今はもう、その疲れがどこかへ消えてしまったような気がする。
テーブルいっぱいの料理。
そして、それを誇らしげに見つめる二人。
私は椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、いただきます。」
「いただきます!」
「いただきます。」
三人の声が重なる。
夕暮れの光が差し込む部屋は、少しだけ暖かかった。
◇
夕食を食べ終えた頃には、すっかり夜になっていた。
「ごちそうさまでした。」
「ごちそうさま!」
「ごちそうさま。」
食器を流しに運び、軽く片付けを済ませる。
本当なら洗い物まで終わらせてしまいたいところだけど、今日は無理だ。
もう限界である。
ふらふらとソファへ向かうと、そのまま倒れ込むように腰を下ろした。
「つかれた……」
授業にバイト、そして夕食前の大騒ぎ。
色々あった一日だった。
今すぐ眠れと言われたら、多分五秒も掛からない。
そんな私をよそに。
「ヤチヨー!」
「なに?」
「捕まえた!」
「捕まってない!」
部屋の中を元気よく走り回る影が二つ。
その内の一人――金髪の少女が、かぐやだった。
ふわふわと揺れる金色の髪。頭の上には大きな兎の耳。
追い掛けっこをする度に、その耳が楽しそうにぴょこぴょこと跳ねている。
「今度こそ捕まえた!」
「だから捕まってない!」
元気だなぁ。と思わず苦笑する。
自分が帰ってきてから、もう三十分近くは走り回っている気がする。
あの体力は一体どこから湧いてくるのだろう。
かぐや、あの子は兎の獣人。
見ての通り元気いっぱいな子だ。
本人曰く、兎の血がかなり濃いらしい。その証拠に耳も尻尾も立派なものが生えているし、本人の行動もどこか兎っぽい。
……もっとも。
外で遊んでいる時に私やヤチヨの姿を見失っただけで半泣きになる辺りは、兎の習性なのか単純にかぐやだからなのかよく分からないけれど。
「ヤチヨ待ってー!」
「やだ。」
即答だった。
そして。
そんなかぐやから逃げ回っているのが、もう一人の少女。
ヤチヨ。
真っ白な髪を揺らしながら、器用にかぐやの手を避けている。
こちらはかぐやとは違い、見た目だけでは獣人だと分からない。獣人だと知らない人が見たら、ただの白髪の少女にしか見えないだろう。
けれどヤチヨも立派な獣人だ。
蛸の獣人。しかし本人曰く、蛸の血が薄いらしい。
だから外見的な特徴はほとんど現れなかったのだとか。
「捕まえたー!」
「だから捕まってない。」
言いながらヤチヨはひょいと身体を捻る。
かぐやの腕が空を切った。
器用だなぁ、と私は感心する。
手先も器用だし、頭の回転も速い。
ついでに好奇心が強いのか、何でも触りたがる。初めて会った頃なんて、家中の家具を片っ端から撫で回していた。
それに狭い場所も大好きだ。
気付けば机の下にいるし、押し入れにもいるし、段ボールの中にもいる。
この前なんて、本気で見失ったと思ったらソファの下から出てきた。
あれは本当に心臓に悪かった。
そして何より、水が好きだ。
異常なくらい好きだ。
昨日も風呂場からなかなか出てこなくて――
『のぼせたら危ないから早く出てきて!』
『やだ!』
なんてやり取りをしたばかりだった。
あの時のヤチヨは、まるで吸盤で浴槽に張り付いたみたいに動かなかった。
「……ほんと。」
私は小さく笑う。
かぐやも、ヤチヨも。
元気で、手が掛かって、言う事を聞いてくれなくて。
いつも私に心配ばかりさせる。
それなのに。
そんな二人を眺めている時間は、不思議と嫌いじゃなかった。
私は息を吐きながら、また小さく笑う。
「なんで私が保護者なんてやってんだろ。」
少し前の自分に今の状況を話したら信じられないどころか頭でも打ったのかと勘違いされるだろう。
私とこの2人の出会いは話せば長くなる。
だけど、なんやかんや色々あって、私はこの二人を引き取る事になった。
獣人には獣人なりのルールや法律がある。
保護制度だとか、定期検査だとか。あとは保護者登録だとか。その他諸々。
詳しい事はあまり覚えていない、というか覚えたくない。
ただ一つだけはっきり言える事がある。
書類が多かった。とにかく多かった。人生であれほど大量の紙に名前を書いた事はない。
多分これから先もない。
思い出しただけで頭が痛くなる。
「もう二度とやりたくない……」
私はソファの背もたれに頭を預けた。視線の先では、かぐやとヤチヨがまだ遊んでいる。
かぐやが笑うと、ヤチヨも少しだけ笑う。
楽しそうだし、幸せそうだった。
その光景を見ていると、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ。
あの書類地獄も、引っ越しの手続きも、慣れない獣人の保護者生活も。
全部終わった事だから笑えるのかもしれない。
「彩葉ー!」
かぐやが勢いよく飛び付いてくる。
「うわっ。」
そのまま隣へ座り込む。
「ねぇねぇ!」
「なに?」
「遊ぼ!」
「今から?」
「今から!」
即答だった。
私は少々嫌そうな顔をする。
「いや、今日は流石に疲れて――」
「彩葉。」
ヤチヨもやってくる。
「遊ぼ。」
「ヤチヨまで……」
一対二。
勝てる気がしなかった。
というか、この二人に勝った事がない。
彩諦めたように息を吐く。
「……少しだけだからね。」
「「やった!」」
◇
それからどれくらい遊んだだろう。
最初は「少しだけ」のつもりだったはずなのに、気付けば時計の針は随分と進んでいた。
「……すぅ。」
静かな寝息が聞こえる。
視線を向ければ、かぐやがソファに寄り掛かるようにして眠っていた。
その隣ではヤチヨも目を閉じている。
どうやら二人とも遊び疲れてしまったらしい。
「もう。」
彩葉は小さく笑う。
ついさっきまであれだけ元気に走り回っていたというのに。
起きている時は手が掛かるくせに、寝てしまうと妙に大人しい。
彩葉はそっと立ち上がり、まずはかぐやを抱き上げた。
軽い。ちゃんと食べているはずなのに、腕の中の身体は驚くほど軽かった。
「んぅ……」
少しだけ身じろぎしたかぐやが、無意識のまま彩葉の服を掴む。
起こさないようにゆっくりとかぐやをベッドへ寝かせ、今度はヤチヨを迎えに行く。
ヤチヨは起きているのか寝ているのか分からない顔をしていたが、抱き上げた途端に彩葉の肩へ額を預けてきた。
どうやらこちらも限界だったらしい。
「お疲れ様。」
小さく呟き、ベッドへ寝かせる。
二人とも本当に子供だ。
そして。
二人を寝かせ終えた彩葉も、ようやくベッドへ腰を下ろした。
「……狭い。」
思わず声が漏れる。
ヤチヨは横向きになって丸まりながら場所を占領しているし、かぐやはいつの間にか大の字になっている。
自分のベッドのはずなのに、肝心の自分が寝る場所がほとんど残っていない。
「なんでかなぁ……」
苦笑しながら、空いている僅かな隙間へ身体を滑り込ませる。
窮屈だけれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
一人暮らしをしていた頃より、今の方がずっと落ち着く気がする。
彩葉は二人の頭へそっと手を伸ばした。
ふわふわの金髪。
さらさらの白髪。
優しく撫でる。
二人とも気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「おやすみ。」
◇
確か、あの日は雨が降っていた。
それも、ただの雨ではない。
傘を差していても意味があるのか疑いたくなるくらいの土砂降りだった。
「うわぁ……」
私は思わず空を見上げる。
授業が終わる頃には曇り空だったはずなのに、気付けば世界は灰色に染まっていた。
道路を叩く雨音。車が水溜まりを踏み潰していく音。吹き付ける風。
制服の裾は既に少し濡れている。
「天気予報見ればよかった……」
小さくため息を吐く。
家まではまだ少し距離がある。
このまま走るか、それとも雨宿りするか。
少し悩んでから、私は近くの橋へ向かった。
大きな河川に掛かるコンクリートの橋。この橋の下なら多少は雨を避けられるだろう。
そう思っただけだった。
本当にただ、それだけだった。
だから。
橋の下に誰かいるなんて、思ってもいなかった。
「……え?」
思わず足を止める。
橋脚の陰、雨の吹き込みにくい場所。
そこに二人の子供がいた。
一人は金髪、もう一人は白髪。
年齢はどちらも小学校低学年くらいだろうか。
服は汚れている。
ところどころ破れていて、泥も付いている。
そして何より、その二人はひどく痩せて見えた。
「……」
「……」
目が合った。
その瞬間、金髪の少女の頭に乗った長い耳がぴんと立つ。
兎の耳。
私は目を瞬かせた。
獣人、それも子供。
こんな場所で、初めて獣人を見るとは思わなかった。
「えっと……」
声を掛けようとした瞬間だった。
「来ないで。」
低い声。
白髪の少女だった。
私は思わず口を閉じる。
少女は小さな身体で金髪の少女を庇うように前へ出た。
敵意、警戒。そして不信感。
そんなものが全部混ざった目だった。
「帰って。」
「いや、その……」
「帰って。」
強い口調。
私は困ったように頭を掻いた。
どうしよう。正直なところ、放って帰る気にもなれない。
でも、近付いてほしくないという意思も伝わってくるし、その気持ちもまぁ分かる。
そんな微妙な空気の中。
突然。
ぐるるるるるるる……
盛大な音が響いた。
「……」
「……」
「……」
沈黙。
私はゆっくり視線を下げる。
金髪の少女が顔を真っ赤にしていた。
「ち、違うもん。」
誰も何も言っていない。
「今の私じゃないもん。」
絶対に嘘だった。
「……」
白髪の少女がそっと目を逸らした。
流石に今のは庇わないらしい。
「えっと。」
「……帰って。」
すると。
ぐぅぅぅぅぅぅ……
今度はさらに大きな音。
金髪の少女が耳まで真っ赤になる。
私は思わず吹き出しそうになった。
けれど。
笑えなかった。
よく見ると、少女の足元が少し揺れていた。
呼吸も浅いし、顔色も悪い。
無理をしているのは目を見るより明らかだった。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫。」
全然大丈夫そうじゃない。
一歩。
ふらりと身体が揺れる。
「あ。」
白髪の少女が手を伸ばす。
けれど間に合わない。
金髪の少女の身体は、そのまま前へ倒れた。
「かぐや!」
白髪の少女が慌てて駆け寄る。
倒れた金髪の少女──かぐやの身体を支え、その肩を揺する。
「かぐや。」
返事はない。
「かぐや……!」
もう一度呼ぶ。
それでも返事はない。
眠っているだけなようにも見える。けれど、白髪の子の顔は明らかに焦っていた。
私は思わず一歩踏み出す。
「ちょっと見せて――」
「来ないで!」
鋭い声。
私の足が止まる。
白髪の子はかぐやを抱き締めるようにして睨み付けてきた。
まるで獲物を守る野生動物みたいだった。
「で、でも……」
「来ないで。」
「倒れちゃったんでしょ、その子?」
「関係ない。」
「いや関係なくは――」
「帰って。」
頑なだった。
私は口を閉じる。
どうする。
病院……は、この様子じゃ絶対に付いてこない。
家なんて論外だろう。
今だって近付く事すら許されていない。
でも。
放っておける訳がない。
目の前には、どう見ても限界な子供が二人いるのだから。
「……」
私は少しだけ考える。
そして。
「じゃあ。」
決めた。
「ちょっと待ってて。」
そう言って踵を返す。
「え。」
白髪の少女が一瞬だけ目を丸くした。
私は自分の傘を地面へ置く。
「雨で濡れそうになったらこれ使って。」
「……」
「すぐ戻るから。」
返事を待たず、雨の中へ飛び出した。
次の瞬間には土砂降りのカーテンが視界を埋め尽くす。
制服が濡れる。髪も濡れる。靴も濡れる。
そんな事を気にしている余裕はなかった。
息を切らしながら家へ駆け込む。
玄関を開ける。
靴を脱ぐ。
部屋へ飛び込む。
「タオル……!」
棚から大きめのタオルを何枚か引っ張り出す。
ついでに。
「これなら。」
サイズは合わないだろうけど、着替えになりそうな服も掴む。
それから再び外へ。
途中でコンビニへ飛び込み、おにぎりやパン、温かい飲み物を買い込む。
店員に何か言われた気がした。
でも覚えていない。
会計を済ませると、再び雨の中を走った。橋の下へ戻る頃には、息が上がっていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
肩で呼吸をしながら橋の下へ入る。
白髪の少女はまだそこにいた。
かぐやを抱き締めたまま。
そして私が戻ってきた事に驚いたような顔をした。
「……戻ってきた。」
「い、言ったでしょ……」
息が整わない。
「戻るって……」
膝に手をついて呼吸を整える。
我ながら馬鹿みたいだ。知らない子供のために全力疾走なんて。
でも。
放っておけなかった。
ただそれだけだった。
私はビニール袋を地面へ置く。
「これ。」
「……?」
「食べ物。」
おにぎり、パン、飲み物。
それからタオルや服。
「好きに使って。」
白髪の子は動かない。
私も無理に近付こうとはしない。
少し距離を空けたまま、その場へ座り込んだ。
沈黙。
雨音だけが響く。
しばらくして。
「……なんで。」
ぽつりと白髪の子が言った。
「ん?」
「なんで帰らないの。」
少し考えた。
本当に少しだけ。
「心配だから、かな。」
パッと出てきた理由はそれだけだった。
「……」
「知らない子だし。」
「……」
「正直よく分かんないけど。」
白髪の子は黙ったままだった。
私は少し苦笑する。
「でも。」
橋の外では、まだ激しい雨が降り続いている。
「こんな日に子供二人だけなの、流石に放っておけないでしょ。」
白髪の子は何も言わなかった。
ただ。
ほんの少しだけ。
その目から警戒の色が薄れた気がした。
白髪の少女は、それでもまだ警戒したままだった。
しかし、倒れたままのかぐやを放置する訳にはいかなかったのだろう。
私が少し距離を空けて座っている間に、白髪の少女はタオルを手に取った。
まずはかぐやの濡れた髪を拭く。
次に顔、その次は腕。と随分慣れた手つきだった。
その様子を見ながら、私は何となく思う。
きっとこの子は、ずっとこうしてきたんだろうな、と。
誰かに頼るのではなく。
自分達で生きていくために。
そんな事を考えている内に、白髪の少女がペットボトルの蓋を開けた。
「かぐや。」
小さく呼ぶ。
「……」
「かぐや。」
反応はない。
けれど三度目に名前を呼んだ時。
「……ん。」
かぐやの瞼が僅かに動いた。
「かぐや!」
白髪の少女の声が少しだけ明るくなる。
かぐやはぼんやりと目を開いた。
数秒ほど天井も空もない橋の裏側を見上げていたが、やがて視線を動かす。
白髪の少女を見る。
そして彩葉を見る。
「……あれ?」
か細い声だった。
「ヤチヨ。」
「うん。」
「おなかすいた。」
第一声がそれだった。
白髪の少女――ヤチヨは、少しだけ呆れたような顔をしていた。
「……だよね。」
そう言いながら、おにぎりを差し出す。
かぐやは受け取るなり包装を剥がし始めた。
そして。
「おいしい……」
本当に幸せそうな顔をした。
その様子を見て、私はようやく肩の力を抜く。
どうやら大丈夫そうだ。
ひとまず安心していいらしい。
「えっと。」
二人の視線が向く。
「もう大丈夫そうかな。」
かぐやは口いっぱいにおにぎりを頬張ったまま頷いた。
ヤチヨも何も言わない。
それなら。
私はゆっくり立ち上がる。
「じゃあ、私そろそろ行くね。」
かぐやの耳がぴくりと動いた。
けれど私は続ける。
「あと、この道真っ直ぐ行ったら交番あるから。」
二人は黙って聞いている。
「頼れる人いないなら、行ってみて。」
少しのお節介と、少しの心配。
それだけを残して。
彩葉は小さく笑った。
「それじゃあ元気でね。」
雨は先程より少し弱くなっていた。それでも傘が必要な程度には降っている。
その中を私は濡れながら歩く。
正直、今日は散々だった。
見知らぬ子供、しかも獣人。
橋の下、空腹、雨。
色々ありすぎて頭が追い付かない。
「帰ったらお風呂入ろ……」
ぽつりと呟く。
その時だった。何やら視線を感じる。
「……?」
なんとなく後ろを見る。
誰もいない。
気のせいだろうか。そう思いながら再び歩き出す。
数秒後。
また感じる。今度は確信だった。
後ろに誰かいる、と感じた私は勢いよく振り返った。
すると。
電柱の陰に何かが引っ込んだ。
「……」
沈黙。
隠れたつもりなのだろう。
しかし電柱の横から、見覚えのある傘の端がはみ出していた。
しかもその下では、金色の長い耳まで見えている。
「……」
私は空を見上げた。
少しだけ考える。
交番へ行けばいい。そして、そこで大人を頼ればいい。
その方が正しいし、知らない子供を家へ連れて帰るなんて普通じゃない。
まして獣人だ。
色々面倒な事になるかもしれない。
それなのに。
もう一度電柱を見る。
はみ出す傘と耳。あと少しだけ白い髪も見えた気がする。
全然隠れられていない。
「……はぁ。」
私は小さくため息を吐いた。
そして。
「ねぇ。」
電柱へ向かって声を掛ける。
ぴくり。
傘が揺れた。
「……君たちが良かったらなんだけど。」
少しだけ迷う。
でも。
放っておけなかった。
雨の中でこちらを見ている二人から、どうしても目を逸らせなかった。だから。
「私の家、来る?」
沈黙。
雨音だけが聞こえる。
やがて電柱の陰から、そろりとかぐやが顔を出した。
その後ろからヤチヨも顔を覗かせる。
二人とも驚いたような顔をしていた。
私自身も、自分が何を言っているんだろうと思っていた。
でも。
言ってしまったものは仕方ない。
「その……」
私は頬を掻く。
「雨も降ってるし。」
「……」
「とりあえず。」
かぐやとヤチヨが顔を見合わせる。
その様子を見ながら、私は苦笑した。
「続きは家で話そっか。」
◇
家へ連れて帰ると決めたものの、まず最初にやるべき事は決まっていた。
「お風呂入ろっか。」
私がそう言うと、かぐやがきょとんと首を傾げる。
「おふろ?」
「うん。二人ともびしょ濡れだし。」
服も髪も泥だらけ。
雨で濡れているせいで余計に酷く見える。
風邪を引かれても困るし。
「大丈夫。変な事しないから。」
そう言うと、ヤチヨは少しだけ警戒した顔をしたものの、反対はしなかった。
「じゃあ目、瞑ってて。」
「うん。」
私はシャワーを手に取り、かぐやの頭へお湯を流した。
さらさらだったはずの金髪は雨と泥で随分汚れてしまっている。
指を通しながら慎重に洗っていく。
「痛くない?」
「だいじょうぶ。」
素直な返事。
良かった。
そう思いながら髪を洗っていると、どうしても視界の端に映るものが気になる。
長い兎の耳。
ぴくり、と水が当たる度に小さく動く。
……触って大丈夫なのかな。
少し不安になる。
獣人について詳しい訳じゃない。
学校で習った事もほとんどないし、実際に会うのだって初めてだ。
やっぱり耳って敏感だったりするのかな。
ストレスになったりしないだろうか。嫌だったりしないだろうか。
そんな事を考えながら、なるべく耳に触れないよう気を付けて洗う。
「ねー。」
「ん?」
「くすぐったい。」
「ご、ごめん。」
慌てて手を離した。
やっぱり敏感なのかもしれない。
私は少しだけ緊張しながらシャワーを流す。
「はい、おしまい。」
「わーい。」
かぐやは嬉しそうだった。
その後ろでは。
「……」
ヤチヨがお風呂の中に沈んでいた。
肩まで、ではない。
首まで、でもない。
完全に沈んでいる。
「えっ。」
私は固まった。
数秒待つ。
出てこない。
「えっ。」
もう一度言った。
出てこない。
「ちょ、ちょっと!?」
流石に慌てて浴槽へ近付く。
「大丈夫!?」
すると。
ぼこっ。
水面から顔が現れた。
「なに?」
「なにじゃないよ!?」
思わず叫ぶ。
「びっくりした……!」
「なんで?」
「なんでって!」
息してなかったじゃん。
そう言い掛けてふと気付く。
あれ、もしかしてこの子も何かの獣人だったりするのかな。少なくとも、ずっと水中にいた事を本人は何とも思っていない。
魚の獣人……とかいたっけ。それともただ単に。
「お風呂が好きなの?」
「好き。」
即答だった。
なるほど。
この子はお風呂が好き。この事はしっかり覚えておこう。
◇
お風呂から出た後。
当然ながら子供用の服なんて持っていない。
とりあえず家にあったTシャツやジャージを引っ張り出して着せてみたものの。
「……大きい。」
かぐやが袖をぶらぶらさせる。
ぶかぶかだった。
ヤチヨも同じで、裾が余っている。
歩くだけで転びそうだ。
けれど濡れた服のままよりは遥かに良い。
私は二人の向かいへ腰を下ろした。
聞きたい事は沢山ある。
どこから来たのか。
何があったのか。
親はいるのか。
どうして橋の下にいたのか。
だけど。
聞かない。
二人が話したくないなら、それでいい。
無理に聞き出したいとも思わなかった。
だから。
一つだけ。
「その。」
二人がこちらを見る。
「二人の事、なんて呼べばいいかな。」
名前だけでも知りたかった。自分達で呼び合ってたから大体知ってるけど。
すると、かぐやが少しだけ背筋を伸ばした。
「わ、わたしはかぐや。」
どこか緊張した声。
「うさぎの獣人だよ。」
そう言って頭の耳をぴこんと動かす。
少し得意げだった。
「かぐや、ね。」
私は頷く。
可愛い名前だと思った。
次に白髪の少女を見る。
少女は少しだけ視線を逸らしてから、小さな声で言った。
「……ヤチヨ、です。」
「そっちはヤチヨね。」
「あと、ヤチヨはたこの獣人だよ。」
横からかぐやが補足する。
すると。
「別に言わなくても……」
ヤチヨが少しだけ嫌そうな顔をした。
「えー。」
「えー、じゃない。」
二人のやり取りに思わず笑いそうになる。
なんだか普通の姉妹みたいだった。
そして。
二人の視線が今度はこちらへ向く。
「……。」
「え?」
見られている。
自己紹介の流れだと気付くまで数秒掛かった。
「あ。」
私も2人と同じように慌てて姿勢を正した。
「え、えっと。」
何故か緊張する。
「私は、酒寄彩葉。」
言ってから一瞬考える。
二人は、
兎の獣人。
蛸の獣人。
それぞれ、そう名乗った。
なら私も何か言うべきなのだろうか。
色々考えた結果。
「い、一応、人間やってます……」
沈黙。
言った後で気付いた、なんだその自己紹介。
人間やってますって、私は一体何を言っているんだ。
顔が熱くなる。
やってしまった。
そう思った瞬間。
「ぷっ。」
かぐやが吹き出した。
「ふふっ。」
ヤチヨまで笑っている。
「わ、笑わないでよ!?」
「だって!」
かぐやが声を上げる。
「人間やってますって!」
「変だよ!」
ヤチヨまで追撃してくる。
「うぅ……」
私は思わず顔を覆った。
恥ずかしい。
凄く恥ずかしい。
けれど。
二人はずっと笑っていた。
橋の下で見た警戒した顔なんて、もうどこにも無かった。
それを見ていると。
少しだけ。
本当に少しだけ。
変な自己紹介をして良かったのかもしれないと思った。いやわざとした訳じゃないんだけど……
◇
それからの事は、正直あまり覚えていない。
お風呂に入れて。名前を聞いて。少しだけ話をして。
気付けば、二人とも眠っていた。
「……寝ちゃった。」
かぐやはテーブルに突っ伏すようにして。ヤチヨは椅子に座ったまま、壁に寄り掛かるようにして。
二人とも小さな寝息を立てている。
私はその様子を眺めながら、小さく息を吐いた。
まぁ、無理もない。
あの橋の下にいるまでの間に何があったのかは知らない。聞いてもいないし、二人も話そうとはしなかった。
けれど。
服の汚れや痩せた身体。雨に濡れながらも見せた警戒心。
きっと色々あったのだろう。
それだけは分かる。
「……。」
だからこそ、今は聞かない。
話したくなったら話せばいいし、話したくないなら無理に聞く必要もない。
少なくとも、今の二人に必要なのは事情聴取じゃなくて、休息だろう。
私は立ち上がると、眠っている二人へ毛布を掛けた。
「おやすみ。」
返事はない。
二人とも本当にぐっすり眠っている。
私は二人を起こさないように、ゆっくりとキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開く。
「さて。」
問題はご飯だった。
あの様子を見る限り、まともに食事を取っていなかった可能性が高い。
何を作ろう。
消化に良いもの?
栄養があるもの?
子供が好きそうなもの?
考えてみるが、そもそも私は獣人について詳しくない。
人間と同じで良いのだろうか。
兎の獣人は野菜中心?
蛸の獣人は魚介類?
いや、そんな単純な話じゃない気もする。
「うーん……」
悩んだ末、私はスマホを取り出した。
少し考えてから、文字を打ち込む。
『獣人 ご飯 何が良い』
検索ボタンを押す。
当然というべきか、胡散臭いサイトばかりが並んだ。
「参考にならない……」
思わず呟く。
画面の向こうでは『獣人におすすめの健康食品!』だとか『獣人専門サプリメント!』だとか、怪しい広告が元気よく踊っていた。
私はスマホを机へ置く。
「……まぁ、なんとかなるか。」
結局。
分からないなら、分からないなりにやるしかない。
とりあえず温かいご飯を作ろう。
それで足りなければ、また考えればいい。
そう決めて、私は冷蔵庫の中身を確認し始めた。
背後では二人の寝息が聞こえている。
静かな部屋だった。
私は包丁を手に取り、夕食の準備を始めた。
何を作ればいいのかも。これからどうなるのかも。正直、何一つ分からない。
それでも。
今はただ、この二人に温かいものを食べさせてあげたいと思った。
ふと窓の外へ目を向ける。
いつの間にか雨は止んでいた。
雲の切れ間から差し込む柔らかな光が、眠る二人を静かに照らしている。
まるで今日という一日を祝福するみたいに。





















