Novel1 years ago · 1.2w chars · 1 pages

淵にて

大月大月

トリップしてきて身繕いがまるで出来ずに割と詰んでるところを付け入られて、土井先生に甲斐甲斐しく世話を焼かれる話。

曇天の隙間から眩い日差しが射し込む昼下がり。

大きな欠伸をして、小袖が着崩れるのもお構いなしにうんと身体を伸ばす。

ひどい寝不足である。

疲労を押して書き物に没頭していたけれど、どうにも集中力が続かず、とうとう八つ時を過ぎる頃には眠気のせいで全くと言っていいほど筆が進まなくなっていた。

目の奥にどんよりとした重みと鈍痛を感じる。
こめかみを指で揉みほぐしながら、大きくため息をついた。

ーーー夜毎、共寝しにやってくる男のせいである。

夜半に人目を忍んで来る彼が熱心に口説いてくるものだから、夜這いを拒めず押し切られてしまうのが常となっている。

その上、受け入れられたらこちらのものとばかりに、事が終わってもずるずると居座られ、そのままなし崩しに布団に押し入られるまでが常となってしまっている。

床に入れば情を滲ませる手足が執拗に絡みついてきて。

背後から抱きしめられ髪を梳いていたかと思えば、空いている手で手の甲を包み込み指先を擦り、腿裏にぴたりと足を沿わせてくる。

寝苦しさから逃れようとしても、察した男の足がついてきて、するりと内股に割り込んできては寝返りを制されてしまう始末。

逃げようとした身体を抱き寄せられ、追い縋るように少しずつ深く身体を包み込むようにしがみついてくる様子に無碍にするのも可哀想に思えてしまって。

仕方なく寝つくまでそのまま好きなようにさせていたものの、ようやく眠りに落ちて大人しくなったかと思えば、男の寝相はなんと酷いものだったか。

春先の朝方は冷え込みが身体に沁みるらしく、眠りの中で暖を求めたのだろう、抱き枕か湯たんぽのように腕の中にますます抱き込まれてしまう。

上背もあり体格に恵まれた男を退けられる訳もなく、熟睡している相手を揺り起こすのも気が引けて、寝息が耳にかかるほどの距離で男の体温を感じながらただじっとしているしかなく、浅い眠りのまま気がつけば朝を迎えている。

その頃にはもうまとわりつくように共寝していた男の姿はなく、冷たい褥しか残されていないのだから、非道いものである。

ほう、とため息ばかりがこぼれる。

頭痛を誤魔化すようにこめかみを揉み込んでいたせいでほつれた髪を適当にまとめ、簪を挿して整える。

指先でまとめた髪を引き寄せ簪をぐっと押し込むと、装飾の金具に爪の端が引っ掛かり、肉が引き攣るような嫌な感覚が伝わった。

指先に走った鋭い痛みに反射的に顔を顰める。

「…いっ、…」

指先の違和感に慌てて手を引っ込めると爪の端が裂け、肉の部分にまで亀裂が走り白く浮いたような色になっている。

あらら、と思っても時すでに遅し。 
浅く入っていたひび割れをそのままにしていたのがよくなかった。

爪の手入れを後回しにしていたせいで、随分と白い部分が伸びてしまっている。

痛みでもうすっかり目が覚めてしまい、疼くような痛みと爪が浮いたような違和感を誤魔化すようにそっと指先を押さえる。

自分の無精と不注意が招いたこととはいえ、誰かを傷つける前に割れてしまって却ってよかったのかもしれない。せめてもの救いと思い、不幸中の幸いに安堵して胸を撫で下ろした。

しかしながら、強い負荷がかかるほど酷使した覚えはないのに、欠けたり二枚になったりとやけに傷んだ爪先を見つめて、胸がざわつく。

そうして胸に去来した疑念に、ふと思い至る。

熱に浮かされ、夢中になってしがみついた肩。
抱きしめる腕に応えるように背にまわした腕、伝う汗に滑る指先。溺れそうになって、藻掻くように、泣きじゃくりながら幾度となく彼に縋りついたか分からない。

血の気が引き、冷や汗が伝う。

先夜のことにも関わらず、情事の詳細は熱に朧げに霞んでいて、ただ縋りついていたことしか覚えていない。
辿ろうとすればするほど、爪を立ててめちゃくちゃに引っ掻いたことしか鮮明にならず、どうしようもない焦りがこみ上げてくる。
もしかしたら背中だけでなく、全身引っ掻いて、もっと深く爪を立てていたかもしれない。

「いい加減、手入れしなさい」と諌められていながら手入れを怠った上、引っ掻き傷をつけても叱られなかったのは、うんざりしてしまったからだろうか。

考えれば考えるほど、胸の奥が重く沈んでいく。

怪我をさせたことを謝らなければと心を決め、紅入れに詰めた膏薬をぎゅっと握りしめて教員用の長屋へと向かう。

逃げ出したい焦燥を飲み込みながら、足を進めるたびに胸の奥がざわつき、顔を見せるのがどうしても怖くなってしまう。

突っぱねられたらどうしよう、疎まれたらどうしよう――そんな不安が胸を占め、ますます足が重くなる。

いよいよ目の前に目的の部屋が迫り、躊躇う気持ちを押し込めてそっと膝を折る。

じわりと張り詰める沈黙。
すぐに声をかけることができず、一拍置いてから、控えめに口を開いた。

「…土井せんせ、」

言い終わるより先に、返事の代りに向こう側から障子が開けられた。

「〇〇」

座して待ち構え、彼女の視線を受け止めるように静かに目を合わせて微笑んでいる。

忍でもなんでもない、ただの一般人の足音などとうに聞き分けていたのだろう。微笑みを浮かべながらも、面差しに愛おしさが滲んでいる。訪ねてきたことを歓迎されているようで、少しだけほっとする。

いつもの穏やかな声、柔らかな微笑み。
優しくて、温かくて、穏やかで。

幾度も夜を共にしている彼とは、まるで別人のよう。

じっと見つめられると、溺れるような感覚が戻ってきそうで、無意識に視線から逃げるようにそっと目を伏せた。

「…どうした?」
「…、ん…」

言葉を選びかねて口籠り、視線を彷徨わせる。沈黙が伸びるほどに焦りが募るが、うまく言葉が出てこない。

言葉に詰まっていると次第に彼の微笑みが消え、眉を顰めて無意識に彼女の顔を探るように視線を這わせる。

目元の隈と血の気のない頬に気づくや否や、彼は障子をさらに開けて部屋に入るよう促すように、手招きした。

「おいで」

促されておずおずと室内に入ると、敷きっぱなしの布団や脱ぎ散らかした寝巻きに床に伏せられたままの本など、乱雑な様子に思わず目を丸くした。

山田先生は上級生の実習に同行していらっしゃるのだったか。
厳しい目がないと、こうも気が緩んでしまうものなのか。
困った人、と内心ため息をつきながらも、つい頬が緩んでしまう。

「ほら、具合が悪いなら横になっていきなさい」
「え…?いえ…土井先生、わたし大丈夫…」
「…んー?」

「大丈夫」という常套句は、多用しすぎてしまったためにもう全く信じてもらえなくなったらしく、生返事で適当に聞き流される。
布団の上に散らかした寝巻きやら教本をあっちこっちに積んだり退けたりしてさらに室内が乱れつつ着々と寝床まわりが整えられていくので、慌てて袖を引いて止める。

「…は…半助、さん…聞いて…」

その一言を口に出した瞬間、彼の手が止まる。
振り向いた彼の顔には驚きと、それ以上に隠しきれない喜色が浮かんでいた。僅かに口元が緩んでいるのに気づくと、顔の下半分を手で覆い、朱が差した頬ごと隠してしまう。

予想より彼が大いに照れてしまったので、こちらも羞恥で耳まで真っ赤に染まった顔を両手で覆い、身を縮めるように俯く。

「なんで日中に名前で呼ぶかなぁ…っ!?そう呼ぶのは夜だけだとあれほど…っ!」
「違うんです…わたし、そんなつもりなくて…、…だって半助さん、全然取り合ってくれないんだもん…」
「ああもう…これ以上、私をどうする気だ…っ」

しおらしく上目遣いでそっと彼を一瞥すれば、ただそれだけの仕草で彼の琴線を撃ち抜いてしまったようで、耐えきれないと言わんばかりに胸を掻き毟り、顔を覆う手のひらの下で破顔するのが分かった。

平生を取り戻すように大きく息をついて、心の奥底まで染み渡る甘露を味わうように、目を細めてこちらを見つめてくる。

「…こっちにおいで」

身体ごとこちらに向き直るやいなや、するりと腕が伸びてきた。逃がすまいとばかりに腕を回されてぎゅうぎゅうに抱きしめられ、愛おしさを確かめるように何度も頬擦りされる。腕の力は緩む気配がなく、ただ包み込むように抱きしめたまま、背をゆったりと撫でる。

感慨深げな彼の声がしみじみとした呟きとなり、まるで大事なものを慈しむように優しく響く。

彼を見るに、感じていた不安は全くの杞憂だったようだ。
思い詰めるほど顔を合わせることが怖かったのに、心臓を締めつけていた緊張が緩み、ずっと冷たかった指先まで温まるような心地がする。

「はぁ…いじらしくてかわいい…このおぼこいのが堪らん、癒される…」
「聖職者にあるまじき問題発言」

安堵に浸りながら、そっと彼の背に腕をまわしたところで、看過できない発言に思わず彼の肩甲骨のあたりを指先で探り、ぎゅっとつねり上げた。

「あだッ゙!?」

跳ねるように体を揺らし、目を白黒をさせながらつねられた背中をまさぐる。

痛みにただ困惑したまま、背中を擦りながら非難がましい視線を向けてくる。その顔には、ほんの少ししょんぼりした色も滲んでいた。

「非道い…そんなに強く抓らなくてもいいだろ…」
「…半助さん、もしかして気づいてなかったんですか?」
「…んん?」
「…よ、夜…えっと、その…わたし、背中を…ごめんなさい…」

羞恥と居た堪れなさに耐えながらも、彼の目を見据え、なんとか謝罪を絞り出す。

彼は怪訝そうに眉をひそめたが、次の瞬間、ふと何かに思い至ったように背中へ手をやった。
装束越しに確かめるように傷のあたりを押さえ、わずかに首を傾げる。
そして、それが何によるものかを理解した途端「ああ、」と小さく声を漏らし、得心したように頷いた。

「傷の内にも入らないだろう、このくらい…それにしても男冥利に尽きるな」

自分のこととなるとここまでとんと無頓着になるのはさすがにいかがなものか。

あっけらかんとして屈託の欠片もない笑顔を見せる彼に拍子抜けすると同時に、ノンデリ具合に口を噤み心配して損したと肩を落として項垂れる。
呆れ混じりにため息をつきつつ、手に握り込んだままだった膏薬を彼に手渡した。

「これ…このお薬、ちゃんと塗ってくださいね」
「…塗ってくれないの?」

眉を下げて甘えるようにこちらを見つめながら、強請るように彼の手がするりと指を絡ませてくる。

平時なら絆されるところだが、手洗いもなしに傷口に触れるのはさすがに躊躇われる。
加えて割れた爪もそのままの状態だったため、手当てをするには忍びなかった。

「ごめんなさい、医務室に用向きがあるので…」
「具合が悪いのなら、まず私を頼りなさいと言ってるだろうに」

顰め面で非難がましい視線が注がれるので、仕方なしに割れた爪を見せる。

「…こんなになっちゃって」
「ああ、これは…」

爪の状態を確認した彼はすっと目を細め、顎に手を添えて思案しながら、じっとを見つめた。

「これくらいなら私でも整えられる」
「…?」

彼はおもむろに頭巾を脱ぎ、板間に広げて敷いた。
その所作は静かでいて滑らかで、まるで茶席の準備でもするかのよう。

そうして小引き出しをごそごそと探り、取り出したるは裁ち鋏に見紛うほど刃の厚みに存在感のある糸切鋏のようなもの。

その厚みと重さに思わず恐れ慄いて後ずさるのを、彼は逃がすまいとばかりに抱き込んだ。

「ほら、大人しくして」

低く穏やかな声が耳元で囁かれる。
腕の中で身じろぎすると、さらにぎゅっと力を込められて完全に拘束されてしまう。

「爪を整えるだけだろう、いい子にしていなさい」
「…あの…、その…爪切っていう文明の利器は…?」
「そんなものはない」

至極当然のように答えられ、絶望的な現実を突きつけられる。滲む視線の先で、糸切鋏がきらりと光る。
身を竦めたまま彼を見上げると、にっこりと満面の笑みを湛え逃がす気のない腕がしっかりと回されたままだった。

「…よろしくお願いします…」

緊張と少しの恐怖で僅かに震える指先を差し出せば、彼は手のひらごと丁寧に掬い上げ、逃げ場を与えないように包み込んだ。力任せではなく、刃先がぶれぬように確実に固定する優しい圧。

「動くと危ないから、じっとして…少し痛い思いをさせるが、ごめんな」

ぐっと爪と肉の合間に押し込まれた刃先が割れて浮いた爪を根元から断ち切った。

「…ひ、っ…」

ばちんっと存外に大きな音にびくりと肩を震わせ、ぎゅっと目を閉じ、空いた手が勝手に彼の装束をぎゅっと縋るように握り込んでいた。
差し出していた指先は怯み、力が抜けて汗ばんだ手のひらが彼の手の中で僅かに滑る。

その様子に気づいたのか、彼が一度そっと手を放して怯えた指先をもう一度包む。

「大丈夫、大丈夫…もうちょっと、我慢な」

続けざまに彼の手が迷いなく傾けられ、割れた爪の残りを削ぐように手早く角を落としていく。

「これでよし。終わったぞ、よくがんばったなぁ」
「…あ、ありがとうございましたぁ…」

爪の形は少し歪になってしまったが、ぐらぐらと浮いていたところがきれいに取り払われて、見た目と触覚の違和感がすうっと消える。指先の感覚がやっと元に戻ったようで、緊張も解けて安堵の息が漏れた。

けれど彼はというと、まだ何か思案するように視線を爪先に落としたまま。
手を離す気配もなく指先をにぎにぎと弄るように優しく撫でて、弄ぶような仕草を繰り返しながら小さく「うーん」と唸るような声まで聞こえくる。

「どうせなら他の爪も切っちゃおう、危ないし」

彼は再度小引き出しに手を伸ばして、飾り気のない木製の鞘に収められた小刀を取り出す。見た目こそ質素だが、地味な鞘から抜かれた刃は、手入れが行き届いて鈍く鋭く光を放っている。

「え?…いえ、いいです…」
「いいからいいから」

どう見ても爪を切るサイズじゃない刃先がこちらに向けられて、ごくりと生唾を飲む。ただ必死にいやいやと首を横に振る。

自分でやすりをかけてちゃんと整えるからと、こちらの遠慮や躊躇いもものともせず、彼は異論を挟ませず押し切るようににっこりと微笑む。

「先ずはお手本として私がやってあげるから、手元を見てよく覚えるように。…やらなければ、いつまでたっても出来ないままだからな。ここで生きていくと決めたのなら、それがよくないことは…もう分かってるはずだろう?」
「う…」

ぐうの音も出てこず、情けなさがじわじわと押し寄せる。
身繕いも碌に出来ないことを改めて突きつけられ、恥ずかしさのあまり頬が熱を帯び、出来ないことを責められたわけでもないのに泣きそうになるのを俯いて隠した。

「…そんなに怖いの?」

そう訊ねられて、ほんの少しだけ頷く。
彼はそれ以上は問わず、ただ静かに目を細めて微笑んだ。
表情はあくまで穏やかで、僅かに口端を上げただけの微笑みなはずなのに、背筋に悪寒めいた微かな震えが走る。

「後ろを向いて」
「…え…っ、え?後ろ…?」
「私に背を向けて、座るんだよ」
「…?…あ、はい…?」
「はい、よく出来ました。よいしょっと」

言われるまま彼に背を向けて座れば、後ろから両脇を抱えられて持ち上げられ、胡座をかいた彼の膝の上に有無を言わせず座らされた。

「…は、半助さん…っ…」

無意識に身体を竦め、戸惑いながら咄嗟に身を捩ろうとした瞬間、後ろから優しく抱き込まれるように腕が回される。力は入っていないのに逃げることを許さないように制されて、やんわりと抱き寄せられた。

「こーら、逃げないの…いい子にしておいで」

耳元で囁かれる甘さを含んだ低い声に、呼吸が出来なくなる。

腕を回して抱き寄せるだけでは足りないとでも言うように、彼は腰を抱え込んだままさらに身を乗り出し、背中越しに体重を預けて隙間を埋めるようにますます身を寄せてくる。

胸板の厚さが肩越しに圧しかかり、腹の硬さが背筋に添わされる。しっかりとした太腿の弾力が腰まわりを包み込むように添い寄られては、全身を包み込むほどに密着する。

「しぃー…」

耳殻に唇をぴたりと押し当てたまま、離さずに吐息混じりの囁きが直接耳の奥へと滴り落ち、背筋を這うような震えが走る。

息が詰まるような感覚に、喉がひゅっと締まった。
喉元までこみ上げてきた声を、震える唇を噛んで押し殺す。
夜毎繰り返し耳元で聞かされるあの囁きで、理屈じゃなく身体が先にそう教え込まれているから、どうしようもなく彼の声に従ってしまう。

へた、と腰を抜かして体重を預けるように身体を寄りかからせて彼の膝に深く沈み込む。
身体の芯がふやけたみたいに力が入らず、背に密着した熱にぎゅっと心臓が締めつけられる。

「…今回は手元を見て覚えるだけにしておこうか」

今度は膝上に布を広げられ、落ちた欠片が散らばらぬよう、静かにその上に刃を走らせていく。

「力を入れすぎると勢いで指を切るから、柄は握り込まず、刃は寝かせるように…」

すぐ耳元でゆったりと教える声とともに指先に添えられた小刀の刃がするりと滑り込み、煌めく刃先がまるで雪を払うように爪の白を薄く削いでいく。

薄明が室内を仄かに染め、影が長く落ちている。
春の山間を吹き抜ける風は未だ冷たさを残し、木々や竹の笹をそよがせながら微かなさざめきを伴って室内へと運んでくる。

爪を断つ音はなく、静けさの中で刃先はあらかじめ定められた線を辿るように淀みなく、ただ淡々と的確に白と桃のあわいをなぞり爪の白をさらっていく。

さざ波のように胸に渦巻いていた不安は繊細な手つきによって宥められて凪いでいき、張りつめていた緊張がゆるやかにほどけていく。

彼の膝の上、背中から包み込まれるように抱きしめられたまま、ゆったりと彼に身を任せれば、体温とともに、呼吸の波が背中越しにゆるやかに伝わってくる。

耳元に寄り添うような彼の息遣いに、夜ごとのぬくもりが身体に沁み込んでいたことを、あらためて思い知らされる。

積もりに積もった寝不足もあって、微睡みに抗えず波にさらわれるように、意識が沈み底へ底へ引き込まれていく。

「…〇〇?…おっと、」

睡魔に誘われるまま、力の抜けた身体がかくんと傾いて彼の胸元へといっそう深く凭れかかり眠り込む。

すぐ傍で短く息を呑み、驚いたような小さな声。
柔らかな吐息のすぐあと、耳元に落ちてくる囁きは、ごく穏やかで。

「…〇〇、寝ちゃったのか?」

返事のない静けさに、少し困ったようにそっと肩を竦め、小さく息をつく気配。

「…おやすみ」

膝の上でぐらりと揺れてずり落ちた身体を、彼が起こさぬようそっと腕をまわして壊れものを扱うように引き寄せた。

指先に添えられた小刀の動きもまた、眠りを妨げぬように、より柔らかく。刃先が揺れぬように、慎重で繊細な気遣いを湛えながら、再び白い爪先をなぞっていった。

「…〇〇…〇〇、終わったよ。そろそろ起きなさい」

ゆらゆらと、子どもをあやすような穏やかさで背中を撫でる手のひらと、そっと身体が揺すられる感覚に、夢の淵から浅瀬へと意識が引き戻されていく。

白く滲むような春のやわらかな夕映えに輪郭を縁取られた男が、結わえた長い髪を揺らしながら慈しみを湛えた眼差しでこちらを静かに見下ろしていた。

男の胸に頭を預けたまま、身体は彼の腕の中にすっぽりと収められている。

微睡みのうっすらと霞んだ思考で、彼をぼんやりと見上げながら、膝の上で横抱きにされていることに気づく。

「…、…?…半助さん…?…おはよ…」

一瞬、彼は目を瞬かせて戸惑ったような表情を見せたが、すぐに眼尻を緩めて微笑む。

「もう暮れ六つだぞ、〇〇。…よく眠れたか?」
「…、…六つ…?…明け六つ?…朝六時くらいだったっけ…?…半助さんが朝までずっといてくれたの、初めてだ…」

目が覚めてすぐに、そこに彼がいたことに浮き足立って、知らず知らずのうちに頬が綻んでしまう。

自分が頓珍漢なことを言っているような違和感があるものの、嬉しさが先に立って心が緩んでしまい、考えがまとまるより先に、本心がぽろぽろと口をついて落ちていく。

「…うれしい…本当はずっと、いてほしかったから…」

夜明けまで彼の腕の中に抱かれていたこと、たったそれだけのことで胸に温かな歓びに満ちていく。
だから、つい、言うつもりもなくただ奥底に潜めていた下心を、うっかり吐露してしまった。

彼は何も言わず、うっそりと湛えていた微笑みをさらに深くして嗤う。

彼の指先が頰にかかる髪を払い、頰の丸みに沿って手のひらがひたと肌に添う。
そうして柔い頰を撫でていた手のひらが、顔を上向かせるように顎を掬い上げた。

夕映えに滲んでいた彼の面差しは、距離を詰めるごとに影に沈み、もうどんな表情をしているのか、見えなかった。

ひときわ濃くなった影の中で、唇にやわらかな熱が触れた。

「…はん、ッ…んん…っ!!?」

啄ばむような口づけをしていたかと思えば、彼の舌がぬるりと唇を舐り、吸いついて離れなくなる。執拗な口吸いに堪らず唇を薄く開くと、肉厚な舌が歯列を割りゆっくりと押し入ってくる。

唇をぴったり塞がれたまま声も息も封じられ、甘く柔く…しかしながら抗えないほど強引に口内の隅々まで探られて、逃げ惑う舌を絡め取られてしまう。

彼の胸を押し返そうと腕を突っ張るも、強い力でぐっと身体ごと引き寄せられてしまい、縋るように装束の合わせをぎゅっと握り込むことしか出来なくなる。

「…ぅ、…んぶ…っ」

息継ぎすら叶わず、掠れるような忙しない喘ぎが吐息ごと塗り潰され、酸欠で思考がぼやけ、熱に溶けていく。

投げ出した足をじたばたさせて暴れて限界を訴えるも聞き入れては貰えず、やがて爪先までぴんと足が真っ直ぐに伸びて、指先にぎゅうっと力が入り爪先が丸まる。

「…、…っ…」

頬に添えられた手が髪を梳きながら滑り、耳殻や耳の裏を擽るように撫でまわされてはひとたまりもなく、みるみるうちに身体の力が抜けていき、床を掻いて藻掻いていた足が糸が切れたように弛緩した。

全身の力が抜け無抵抗になってもなお、口吸いは緩むことなく、彼は唇を離そうとはしなかった。

「…ぷぁ、ッ…は…っ…、げほっ、げほっ!」

唐突に、名残を惜しむそぶりもなく唇が静かに離れていった。朧げだった感覚が、熱が引くように現実に引き戻される。

酸素が一気に肺へと流れ込み、抑えきれず激しく咳き込みながら茫然としたまま荒い呼吸で忙しなく胸を上下させる。

まつ毛は涙で濡れて重く、火照りを帯び朱に染まった頰を伝い、彼に好き勝手に梳かれて乱れた髪を湿らせ、しっとりと汗ばんだ肌に張りついている。

口周りは涎に塗れてべたべたで、涙腺が緩んだせいか鼻水すら滲んでいる始末。

おおよそ乙女にあるまじき醜態を晒していることに大いに羞恥心を感じているものの、取り繕うことはおろか体液を拭う気力もないくらい精根尽き果ててしまっている。

彼の膝の上に仰向けのまま、ぐったりと脱力してぜいぜいと息するばかり。

それを上から見下ろす男はあれほど激しい口づけを交わしていたとは思えぬほど平生のままで、一息で息を整えては舌舐めずりしながら満足げに目を細め、その視線はじっとりとした熱を帯びたまま絡みついて離れない。

熱を孕んだ眼差しによからぬものを感じて、生唾を飲み込む。胸騒ぎがするのに未だ酸欠で靄がかりうまく思考が巡らず、苦し紛れにどうにか声を絞り出した。

「…し…死ぬかと思った…」
「大袈裟だなぁ、そう簡単に死なないってば」

肩を竦めてへらっと笑いながら、彼はしっとりと汗ばんだ頬に指を這わせて肌に張りついた髪を指先で払う。

「それにしても…寝ぼけてたとはいえ、〇〇があんなかわいいこと言うなんてなぁ…本当は私と朝までいたかったんだ?」

呼吸とも嗚咽ともつかない震えが、唇から微かに漏れた。

にやけた顔を隠そうともせず、懐から取り出した懐紙に濡れそぼった眦の涙を吸わせ、さらに二つ折りに畳んだ懐紙で丁寧に口周りを清める。

「本当に、私をどうする気なんだか…」

嬉しいのが隠しきれないみたいに、彼は目を細めている。

「…もう一回、ちゃんと聞きたいなー?」
「…どうせ叶えてくれない癖に」
「それは…そうだね、耳が痛い…」
「…もう、本当に非道い人」

覗き込んでくる彼がからかうように意地悪を言うので、こちらも不満を口にすれば、彼は肩を竦めて可笑しそうに喉でくつくつと笑うのだった。

甘さもなく、駆け引きでもない、踏み込みすぎず、どんな応酬も受け入れる許しの余白がある“折り合いのつけ方”が、ちょうどよかった。

「さて…爪、仕上がってるから見てごらん」

促されるまま手の甲に目をやれば、先刻までぼろぼろだった爪は割れた一枚を除いて切り揃えられた上で形を整えられ、やすりがけまで丁寧に施されていた。

切り口を撫ぜる指先からつるりと滑らかな感触が伝わってきて、思わずため息が漏れた。惚れ惚れするような仕上がりに、爪ばかり見つめてしまう。

「…半助さん、きれいにしてくれてありがとう」
「…どういたしまして」

彼は、しばし沈黙し視線を注いでいる。
柔和な眼差しの奥に微かに思惑を滲ませたまま、やがてゆるやかに目を伏せ、品定めするように目線が静かに下へと落ちていく。

彼の視線を追って首から下を見やれば、鎖骨が露わになるほど小袖の襟元は緩んでずり落ち、裾も肌蹴け細帯の結びも崩れて腿から下がすっかり晒されている。

慌ててぐしゃぐしゃの小袖を掻き合わせ、崩れた裾を伸ばす。それでも彼の視線は意に介さぬように、なおもその先へと滑っていく。

その先にあったのは、無防備に投げ出されたままの足先。
手入れのされていない爪が伸びっぱなしになっているのが、まざまざと目に映った。

「…足の爪も切ろうか」

その一言に思わず膝を折り、小袖を引っぱってうんと伸ばして裾の中へ慌てて足先を隠す。
あからさまに避けられたにも関わらず、彼はむしろ面白がるように快活に笑った。

「さすがにこのままだと、爪が硬くてやりにくいから…」

甘さを含んだ声色に、ぞくりと背中を這うような感覚が走る。聞き慣れているはずなのに、肌の内側がひやりとする。

「…湯で柔らかくしないと」

彼に手櫛で梳かれ、緩くもつれた髪を指先に絡めて弄ばれて息が詰まりそうになる。
今度は、正面から髪に顔を埋めるようにして耳元に顔を寄せて囁く。

「今夜…湯浴みをしたら寝床を整えて、私を待っていなさい」

耳元で囁く声はとびきり甘く。
さらに追い打ちのように続けられる。

「…私だって共寝したいのは山々だよ。…埋め合わせにはならないかもしれないけど、毎晩顔を見に通うから」

整えられた爪先を、剥き出しになった寂しさを慰めるように彼の指がゆっくりと往復する。

「…〇〇、いつも寂しがらせてごめんな」
「…半助さん…」

いつになく真摯な彼の所作に、胸がときめいて心が揺れる。けれど、甘さに浸るより前に、ときめきを覆い隠すように夜毎の彼の所業がめくるめく蘇る。

極寒の冬、夜の底冷えに耐えやらず、いつも凍えているのを見かねて共寝を申し出てくれた彼が菩薩か仏のように思えたものだった。

しかしながら、春の入り口を過ぎてもなお冬と変わらぬ熱量のまま共寝の名を借りた夜這いにしけこみに来るので、ときめきより先にため息が出るようになってしまった。

眉間にぎゅっと皺を寄せて、じっと彼を見据えて問いただす。

「まさか、夏まで通いに来るおつもりですか…?添い寝だけでは済まないですよね…?」
「夏になっても通うし、まさか添い寝だけで済むと思ってたのか?」

一見、満面の笑みを浮かべながら、問答する余地など微塵もなく。こちらを見下ろして悪びれる様子もなく言い切るのだった。
笑顔の奥に隠しきれぬ執念を垣間見て、背中がぞくぞくする。平生と遜色ない口ぶりがかえって恐ろしかった。

「…ああ、それと」

落ち着いた低さで、さらに静かに声が降ってくる。
微笑みも声色も柔らかさを保っているのに、寒気が背を撫でていく。

「背中…引っ掻き傷が、まだそのままだったな」

触れられたくなかったところを、躊躇いもなく突かれてぎくりとしまった。目を逸らし顔を背けるのを、彼がずいっと顔を寄せて追いつめる。

退路を塞ぐように抱きしめる腕の力がじわりと強くなり、目を逸らすことを許さないように、指先が顎の下を掬い、視線を上向かせる。
満面の笑みを浮かべながら、柔らかく細められた目がこちらを逃さず見据えていた。

「…手当て、してくれるよな?」

そう言いながら、柔和な笑みでこちらの許しを待つ。
選択肢など初めからないに等しく、拒絶を許さない圧が滲んでいた。
まごまごしているとさらに口づけされそうなほど、さらに
身を乗り出してくる。

「…居眠りしちゃったから、しっかり補習しような?」

始めから言いくるめられることも、手のひらの上で転がされることも、いつものこと。

身の危険を感じて身震いしながら、せめて手心を加えてくれますようにとひっそりと祈る。

これからも続いていくであろう寝不足の日々の予感に、観念したようにため息まじりに身を委ねた。

— End —

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