部屋を出ると、二人並んであてもなく歩き出す。
コンビニの方向だ。
何か買ってくれるのだろうか。呆然と何を言うでもなく的外れな思考にふけっていると、その沈黙を破ったのは兄だった。
「音楽、またやるようになったんやな」
「え?なんで……」
「キーボード。デスクの上に出してたやろ?」
よく見ているな。
兄はいつもそうだ。上京する前も、家に居る間はずっとお母さんと私の間を取り持ってくれていた。その支えがいかに大きかったか、私はちゃんと自覚している。
病気が分かってからは、週に一度は必ず実家に帰ってきて、あまり外で遊ぶことが出来ない私のために、色んなゲームを持ってきては一緒に遊んでくれた。
お母さんよりも私のことを理解し、気を遣ってくれているのは今も昔も変わらない。
「……かぐやちゃんには、言ってねえのな。病気のこと……」
だから、あの場で全てを察して言わないでいてくれたのだろう。
「ダメ、かな。やっぱり……」
それに対して、私達の問題だからと突き放すのは簡単だ。兄は下手な誤魔化しが通用する相手じゃない。私が誤魔化したと知れば敢えて触れないでいてくれる優しさはあるが、それによって生まれるわだかまりは、私と兄の間に長い事残るだろう。
それこそ、私が死ぬまでずっと。
だから、そんな煮え切らない返事しかできなかった。
「どうやろか。俺は、彩葉の気持ちを本当の意味でわかってやる事は出来ひんし、かぐやちゃんとの関係をちゃんと知ってる訳でもないから、そこは何とも言えん」
「……そう、だよね」
そう。分かる訳がない。
兄は答えられないことは無理して答えようとはしないし、分からないことはちゃんと分からないと言える。
「……今でも俺は、ずっとそうや。お前と会う時、直前まではあれを言おう、これを言おうって、色々と考えてんのに……いざ会うと何を言えばいいのか分からんくなる」
うつむきがちな横顔だ。
帝アキラとして皆に夢を魅せる普段の兄とは全然違う。
「何度謝っても、償い切れる気がせえへん。もし俺が、お前一人を置いて家を出るようなことをしいひんかったら、何か変わってたかもしれないって思うと……」
兄は少しずつ、会う度にこうして本音を打ち明けてくれる。
それがせめてもの贖罪であると言いたげに、ぽつぽつとこぼれるそれを私が隣りで聞くというのをもう何度も繰り返している。
「彩葉が、かぐやちゃんと過ごしてる姿を見て、その後悔はより深くなったよ。いずれお前らを引き裂くの原因の一部を作ったのは、紛れもなく俺だ」
「待ってよ。それは違うでしょ」
だが、私の不幸が全て家族のせいだと思った事は一度もない。
病気は病気。かかってしまったのは、仕方のないことだ。例え父が死ななくて、あのまま健やかな家庭で育ってたとしても、なっていた可能性は十分にある。
「お兄ちゃんは、夢のために上京しただけじゃん。お母さんだって許したのなら、それは誰かに責められるような事じゃない。そりゃ、あの頃は『なんで?』って思ってたけど……」
私だって、どう言葉をかけていいかなんて分からない。
何を言ってもダメな気がするのに、何か言わなきゃいけない。その結果として、私はあの家を今度こそ再起不可能な状態まで追いやってしまった。
結局言葉につまって、ろくな言葉を紡げない。
『また私は……』って言葉が頭の中に過って、自己嫌悪がぐるぐるととぐろを巻く。
「けど…………私は……」
苦しい。
吐きそうだ。
けれどそんな私の頭を、横から優しく撫でる手があった。
「ごめんな。そういう顔をさせたかった訳やないねん。ただ……」
空を見上げて、兄はあけすけにこう呟く。
「嬉しかったんやろうな」
どういう意味だろうか。
待っていると、兄が言葉を続けた。
「お前自身は気付いてないかもしれへんけどさ。かぐやちゃんと喋ってる時の彩葉は、久しぶりに本当に楽しそうにしてた。俺が何度頑張っても、その笑顔を取り戻してやる事は出来なかった」
少しばかり悔しそうに、けれど心の底から嬉しそうに言い切ったお兄ちゃんに、私は複雑な想いを募らせるしかなかった。
嬉しそうにしてた、か。
そうかもしれない。かぐやと関わってる時の私が、今までの私と明らかに違うのは、自分でも分かっている。
「大切にしろよ。そこまで思える友達なんて、一生のうちに何人も出来るもんじゃない」
そう告げた兄の言葉は、一本のタコ糸のように細く、けれどしっかりと胸に刻まれた。
✧・゚: *✧・゚:*
大切にする。
その言葉の意味を、最近よく考える。
私はかぐやの事が、好きか嫌いかで言えば、多分好きだと思う。むしろ、ここまで態度に表れている以上は自信をもって好きと言っていいかもしれない。
だが、分からないのだ。
他人を好きってどういう感じなんだ?芦花や真実の事は好きだけど、かぐやに対するそれとは違う気がするし、親愛の類いでもないだろう。
自信がない。
私はかぐやをどう思っているのか、仮に心の底から彼女を好いていたとして、こんな惨めで憐れで、どうしようもない人間が彼女のような輝かしい人を好きでいていいのかすら分からない。
私の命には、今のところ、価値も意味もない。
ただそこで脈打っているだけに過ぎず、あと一年と少しで果たしてそんな大層なものが生まれるのかというと、答えは否だろう。
何も持っていないばかりか、一緒に生きていくだけの時間すらない。
例えば、そんな私とかぐやが互いをどれだけ大切に思ったところで、辛いだけだ。
かぐやが月へ帰るか、私が死ぬか。この二者択一はどちらが選ばれても、最終的には悲哀の別れを迎えることになる。
だが、最も嫌なのは後者だ。
かぐやはきっと、私が死んだら泣いてくれる。
あの子は優しいから、こんなちょっと関わっただけの私にも、そうして心を割いてくれる。
今日は病院での定期健診があった。
医師の診察によれば、私はまだ大事に至るような状態ではないという。
診断書にもその旨は書かれており、ひとまずの残り時間は担保されている状態だ。
そして、定期健診とは言っても、頻度としては月に三回ほどで、間は短いこともあればちょっと長い事もある。何分、私の病気は症例が少ないから、診察もそう簡単にはいかない。
その場で診察の結果を見つつ、次の検診はここにしようと計画を立てるのだ。
医師の話によると、順調に行けば、今年中はまだ元気でいられる可能性が高い。
やはり余命が一年から半年に差し迫ると、急に体調を崩したりする事が多くなるかもしれないから、やりたいことは今のうちにやっておいた方がいいと、再三言われている。
だったら、もうかぐやの為に時間を使うのが最善のようにも思えてくる。
かぐやには、ライバーとしてやっていける才能がある。現に、一週間前に始めたばかりの配信活動は早くも軌道に乗り始めているのだ。
あぶく銭だろうと、水物だとしても、合法なら立派な仕事だ。
彼女一人でやっていけるだけの力が育てば、私は、かぐやとは離れるべきなんだ。
でも、今はまだその時じゃない。
少なくとも、かぐやにはまだこのボロアパートの六畳間が必要であり、私という存在もまたそうであるはずだ。
「ただいまー」
何事もなかったかのように、学校から直帰したふうを装って帰宅する。
「おかえりー」
そこには、いつも通りかぐやが居て、動画編集をしていた。
そんな彼女の隣りに荷物を置いて、椅子に座ってデスクの上に課題を広げる。見れば、この部屋も随分と足の踏み場が少なくなってきた。
結局、全然処分してない。
そんな床の物を踏み分けて、かぐやが満面の笑みで詰め寄ってきた。
「ねえ、彩葉!かぐや、今日の夜に歌枠やろうと思うんだけどさ!一緒にツクヨミ潜って伴奏して~!」
出ましたよ。かぐやのお願い。
私は要求を吟味し、目の前の課題と、時計を見て返答する。
「……夜の七時以降ならいいよ。曲はもう決めてあんの?」
「もっちろん!これこれ!この前彩葉が作ってくれた新曲!新しい衣装着てやるんだ~!」
「新曲って……この曲、昨日完成したやつじゃん。ちゃんと練習したの?」
私は作者だからそりゃ弾けるが、歌唱に加えて振り付けも考えるとなると、流石にかぐやも一日やそこらで何とかするのは難しいだろう。
「そりゃもう、爆速で仕上げた!」
出来たようだ。
それは大層なことであるが、となると必然的に別の懸念点が浮かび上がる。
「……ということはかぐや、昨日から寝てないでしょ?そういう取り組み方はダメって毎回言ってるよね。健康第一だよ」
「え~……でも、彩葉の作った曲早く歌いたかったんだもん……」
そう言って頬を膨らますかぐやに私は苦笑する。
ダメだって口では言っても、嬉しいことには変わりない。そんなこの子を強く怒れないのも、きっと私に弱い所なのかな。
「たく……しょうがない子。時間になったら起こしてあげるから、少しだけ寝なさい」
そう言って頭を撫でてあげると、かぐやは赤ん坊だった時のように綻んだゆるゆるの笑みを浮かべた。
「えへへ……ありがとう。やっぱかぐや、彩葉のこと好きだな~」
「はいはい」
ダメだって、そう思っていたはずの心。
受け取っちゃいけない。送るのもダメ。私と彼女の間にある好意は、シェアしちゃいけないものだって分かっているのに、言われたらそうだと返してしまう自分が居る。
人の想いを疑ってばかりだった私に、そうじゃない関わり方をくれたかぐやに、私はもう嘘なんてつけないのかもしれない。
「そんじゃあさ……はい、彩葉!」
言って、かぐやはピースにした指を差し出してきた。
「ん、なにそれ?」
「いいから、合わせて」
何だか分からないが、言われた通りにする。
すると今度はかぐやの指が狐の形になって、目線でもう一度と促され、同じ形をなぞると狐の口と口をくっつけあった。
「これね。彩葉とかぐやの仲良しのやつ!」
なんだよそれ。
おかしいの。
今時高校生にもなって、こんなおまじないを友達同士でするなんて、恥ずかしくて顔から火が出そうだ。それなのにどうして、何で私の心はこれを心地よいと感じてしまうんだろう。
一秒を刻むごとに、減っていっているはずの命の熱が、こんなにも胸を温かくするのはどうして?
神様。
答えてください。
どうしてこんなギリギリになって、あなたは私に、こんな大事にしたくなるようなものを与えたのですか。
✧・゚: *✧・゚:*
かぐやの快進撃は続く。
一日ごとに登録者、視聴数、リスナーは順調に増えて、芦花と真実とのコラボ企画による相乗効果も相まって驚異の伸び率を見せている。
有名になると当然、歌枠でのミニライブの注目度も増えて、一緒に伴奏する私としては少し恥ずかしいのだけれど、これが嬉しい悲鳴というやつなのだろうか。
正直、こんな事になるなら着ぐるみとか被ってやれば良かったと若干後悔しているが……
とはいえ、油断はできない。
私も最近は配信に参加することが増えたが、その中でも一番気を付けなくちゃいけないのが、発作による途中退席だ。
かぐやには、病気のことは知られたくない。
だけど、一緒に住んでて発作のことまで誤魔化すのは無理がある。
現に一度、発作で苦しんでるところを見られてしまい、危うくバレそうになったのだ。あの時は本当に焦った。
今は体が弱いせいで急に体調が悪くなることがあるとは言っているが、当然こんな無理やりな理由では、あの子は理解を示しつつも納得はしていない。
私自身、余命のことをいつまでも黙っていられるとは思っていない。
しかし、今はまだ嫌だ。
勇気が出ない。怖い。
せめて、そこに何かしらの答えや確信が得られないと、私から踏み出すのは無理だ。
けどそんな事をずっと続けて、いつか、ふとした瞬間に思わぬ展開で彼女にこれがバレてしまったら……
それを考えると、恐怖で体が震え出す。
なんて言われるのかな。
驚かれる?泣いてくれる?
どちらにしても、壊れ物のように扱われるようになる様がありありと想像できる。何でもない事で心配されたり、なるべく私に負担をかけないように家事の分担も全部かぐやがやるようになるのかな。
………嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
ゾッとする。
酷い悪夢だ。
この関係性が変わってしまう事が、気を遣ったように笑うかぐやの笑顔は、もはや彼女が元来持つ花のような、綻ぶような可愛い笑みには程遠い。
私の病気を知って、態度を変えなかった人は、今まで一人も居なかった。
あの母ですらそうだったんだ。
絶対に変わってしまうっていう確信が私にはある。私という人間を大切に思えば、思ってくれるほどに、その優しさは私の心をグサグサと傷つける。
なんで、私ばかりがこんな思いをしなきゃいけないのかな。
ただ一つ、それを知られるだけで全部が変わってしまう。
あまりに理不尽過ぎる事実だ。
そう分かっていたから、私は誰かの想いをまともに受け取ることが出来なくなって、だからこそ、それをここまで呪ったことは一度もなかった。
だけどもう、その処世術は通じない。
私はもう、かぐやの事を好きになってしまった。
彼女と関わったこの一ヶ月にも満たないこの時間は、すでに私の人生におけるかけがえのない宝物だ。今更それを忘れて、割り切って、無かったことにはできない。
そんな私が、真の意味で救われる日なんてくれるのだろうか。
納得する答えなんて、得られるのだろうか。
そんな感情の嵐が胸の中で渦巻いていようと、私とかぐやの時間は否応なく重なっていく。
今日も彼女は、そんな私にお馴染みのお願いをする。
マイナスな思考を思考の隅に追いやって、かぐやの言葉に耳を傾ける。
「彩葉ぁ、KASSEN教えてー」
今度はそれか。
真面目に配信活動をするのなら、確かに『KASSEN』をプレイするのは避けては通れない道だし、それ以前にあのゲームはめちゃくちゃ面白いし見た目も派手だから、かぐやがやりたくなる理由も分かる。
本当なら、私が直接教えてあげたい。しかし、これには一つ問題があった。
「……戦い方を教えるのは良いけど、私『SETSUNA』専門だから『SENGOKU』の事は分からないよ?」
「ええっ!?」
かぐやが驚愕した。
そりゃそういう反応にもなるだろう。
ツクヨミに内包されたVR対戦ゲームであるKASSEN。そこに存在する二つのルールのうちの片方『SETSUNAモード』はいわゆるタイマンの対人戦だ。
KASSENの花形であるとされる多人数戦の『SENGOKUモード』に対して、練習用モードなんて呼ばれ方すらされるこれこそが、私の主戦場だ。
しかし、これだけをプレイする奇特なプレイヤーなんてのはごく少数だ。
さっきも言った通り、KASSENで一番面白いのは、戦略性があってかつ多人数でのド派手な攻防戦が行える『SENGOKU』だ。
仮に友達が居ないソロプレイヤーであっても、こっちを全くやらないプレイヤーはまず居ない。
それなのに、私が個人戦しかやらない理由は何かっていうと、それはとてもシンプルだ。
「でも、KASSENって基本『SENGOKU』が面白いからやるもんだって聞いたよ?なんで?」
「私だって出来るならそっちをやりたいよ。でも知ってるでしょ。発作があるからさ」
「あっ……」
そう、私がSENGOKUをやらない理由は、ひとえに発作での途中退席がいつ起こるか分からないからだ。
基本三対三で行うこのルールで、唐突に一人戦えなくなる事の拙さは言うまでも無い。
そんな状態でランクマッチに潜るなんて、マッチングしたチームメンバーに申し訳なくて出来ない。
仮に友達同士だけ事情を説明した上で組んでやるのだとしても、そこまでして多人数戦をやりたいわけでもない。
私はただ、仮想世界で戦えればそれで良かった。
現実では病気のせいでできない事が全部できる。激しく体を動かせる高揚、相手を打ち倒してランクを上げることの快感。
一対一の対戦なら、発作で退席しても、私が負けて終わるだけだ。
どうせ外で遊ぶこともあまりできない。勉強とバイトを除けば、他にやることもない。
そうして私は当然のようにのめり込んだ。
気付けば、SETSUNAモードのランクマッチではそれなりの強さになっていて、プロ相手にだって勝てるようになっていた。
最近はかぐやとの配信活動が忙しいからあまりやってないけど、それでも私はあの場所を完全に離れる事はできない。
「だから、KASSENを教わりたいなら芦花と真実に頼みな」
「うーん……わかった」
しょんぼりした様子でかぐやは引き下がった。
これでいい。
私は、あの世界だと熱くなりすぎてしまう。何にも意味を見出せない。結果を残せない私の仮初のアイデンティティが叫ぶのだ。
凍てついた心から飛び出た果てしなき劣等感を叩きのめすように、一分一秒ごとに消えていく命のタイムリミットという名の炎を燃やして、本気で戦ってしまう。
そんなの、楽しい友達とのチーム戦には似合わない。
かぐやの視聴者だって、私があそこで戦う姿を見たら引いてしまうだろう。
『ゲームでそんなにマジになるな』って……
余命いくばくかの私にしか、そこに”時間をかける”という行為の重さは理解できない。そんな自分を自嘲しながら、私は楽しむかぐやを見ていよう。
それが一番、幸せなんだから。
□
彩葉はよく、体調を崩す。
本人は昔から体が弱いからって言ってるけど、かぐやは何となくだけどそれだけじゃないと思っている。
だって、明らかにおかしいのだ。
地球に来て間もないかぐやにだって分かるくらいに、彩葉のそれは異常だ。
一緒に過ごしている時、唐突に様子が変になって、青いポーチとペットボトルの水を持って席を外す事がある。
帰ってきた彩葉は、何でもない様に『大丈夫』と言うけど、とてもじゃないがそれを信じることはできなかった。
ちょっと強めに追及しても、彩葉は頑として詳細を話さない。
だからわたしは、一度そんな彩葉の様子をのぞき見した。
部屋でそうなった場合は、ユニットバスに入って鍵を閉められる為、一緒に出掛けた時だ。
「っ……ごめん、かぐや!ちょっと急用思い出したから、ここで待ってて!すぐに戻るから!」
そう言って、走り去る彩葉。
わたしはそんな彼女の後を、気づかれないように追いかけた。彼女が向かったのはひとけのない場所で、慎重に様子をうかがう。
やはり彩葉はそこにいた。しかし……
「がはっ……うっ………」
彼女は胸を押さえて苦しそうに蹲っていたのだ。
「彩葉!」
居ても立っても居られず、すぐさま駆け寄った。
すると、彩葉は見たこともないような恐怖に歪んだ表情でわたしを見た。
わたしはそれが体調不良のせいだと思って、彼女の背を擦ろうと手を伸ばした。
「苦しいの?だいじょう……」
「やめて!」
彩葉は大声を出して悲鳴のような怒鳴り声をあげて、わたしの手を振り払った。弱々しく弾かれた手を呆然と見る。
「…………え?」
いつも湿っぽい笑みを浮かべている彩葉は、そこには居なかった。
泣きそうな顔を隠すように背を向けて、肩を震わせていた。
「お願い。今は……ほんとに、嫌」
―――嫌。
その言葉に、わたしの頭の中は真っ白になる。
崖に突き落とされたような錯覚を受けて、軽度のパニック状態に陥る。そんな不安定な精神状態でろくなことが出来るわけもなく、ただ右往左往とするのみで、うわごとのように「やめて……見ないで」とか細く呟く彩葉に、ゆるゆると手を伸ばす事しかできなくて。
「い、ろは……わたし、は……」
「どっか行って!!!!!」
言い放たれて、わたしはもうどうすることもできないと悟って、その場を離れるしかなかった。
その後の事はあまり覚えていない。
とぼとぼと歩いて彩葉と最初に別れた場所に戻り、その近くにあったベンチに座って、声を押し殺して泣いた。
十分前後で彩葉は戻って来て、開口一番に頭を下げて謝った。
そこからはもっと酷い。
何度わたしが”いいよ”と言っても、彩葉はずっと、何かに怯えるように、中々頭を上げてくれなかった。
その後、『体が弱いせいで、昔から唐突に体調を崩すことがある』とだけ伝えられた。
嘘だ。
絶対に嘘だ。
そう確信しているのに、さっきの彩葉の表情を思い出すと、それ以上追求することはできなかった。そんなことをしてまた彩葉を泣かせたくなかったし、何より彼女に嫌われたくなかった。
それ以降も、何度もそういう事があって、その度に見ないふりをした。
手を伸ばして、また叩かれるのが怖かった。
彩葉を『KASSEN』に誘って、それを断られたのも、いつものかぐやなら「それでもやろうよ!」と食い下がっただろう。
そうできなかったのは、原因が発作だと言われたから。それを理由にされると、かぐやは途端に何も言えなくなる。
結局、KASSENの指導は芦花と真実に頼んだ。
二人のことは好きだし、一緒に遊ぶのだって楽しい。だけど、胸にぽっかり穴があいたみたいに、彩葉のことが頭から離れない。
「かぐやちゃん、筋いいねー」
そう言う芦花に、わたしはちゃんと屈託のない笑みを浮かべられているのだろうか。
自信がない。
けれども、こういう所を器用にこなせるのはわたしの良い所だ。華々しいストレート勝利を決めて、配信の方は恙なく終わる。
上手くいった。
これでまたヤチヨカップ優勝に一歩近づくだろう。
それなのに全く気が晴れない。
「かぐやちゃん」
配信終わりに、芦花から声をかけられた。
「ちょっと、お話ししよっか」
そう言われて、断る理由もなかったので、三人でプライベートスペースに移動した。
私と、芦花と、真実の三人だけが集った密な空間で、何だろうと思いながら二人の言葉を待っていると、最初に口火を切ったのは真実だった。
「今日、あんまり元気なかったよね?なんかあった?」
聞かれて、どう答えるべきだろうかと悩む。
白を切るべきだろうか。しかし、わたし自身もうこの負の思考に疲れ切っていて、そんな余裕はなかった。
「あちゃー……上手く隠せてたと思ってんだけど、ダメだったか~」
無理した笑みを張り付けて、後頭部をかく。
「視聴者の皆には気付かれてなかったと思うよ。私達も、なんとなくそう感じたってだけだから」
「それなら良かった。あまりこういう姿は、見せたくないからさ……」
芦花の言葉を聞いて、安堵に胸をなでおろす。
配信は楽しくてやってることだけど、それでも本気でやる以上は中途半端なことはしたくないし、リアルの事情を持ち込むのも嫌だ。
そこはすっぱり切り離してできないと、ヤチヨカップの優勝なんて夢のまた夢。
とは言え、完全に隠すのも難しいのは事実。
その証拠に、一緒に居た二人にはバレている。
「分かるよ。でも、ここは私達だけだし、悩みがあるなら……話して欲しいな。大方、彩葉のことでしょ?」
「……なんでもお見通しか。凄いね……」
「いやいや、かぐやが表情を曇らせるなんて彩葉のことくらいじゃん。見てたらわかるよ」
二人にそこまで言われると、ちょっと恥ずかしい。
でも悪い気分はしない。自分でも分かっているからだ。
そして、そんな二人なら、もしかしたら解決の糸口を見つけられるかもしれない。二人は彩葉の親友だ。かぐやには教えてくれないような事も、二人なら知っている可能性は大いにある。
「実は……ね」
私は、こないだ彩葉との間にあったことを話した。
それを聞いた二人は、各々難しそうな顔をしてなにかを思案しているようで、その様子をみて”やっぱり”と確信めいたものを抱く。
「……っていうことが、この前あって……二人は、何か知ってる?彩葉の……」
秘密。
本人が隠していることを、他人に聞こうとするなんて、最低の行為だ。こんなことして彩葉にバレたら、今度こそ絶交されちゃっても文句は言えない。
それでも、もう限界だった。
「かぐやちゃん、それは……」
「分かってる。分かってるの……でもね……」
声に、涙がにじむ。
「部屋でね。突然、彩葉が居なくなるの。水と青いポーチを持って、お風呂場に行ったかと思ったら……扉ごしに、苦しそうな声が聞こえてきて……」
想像しただけで怖くなる。
何度繰り返そうと慣れる事は無いし、むしろ回数を重ねるごとに胸の中に渦巻く怖じ気は増していく。
「かぐやは……彩葉のこと大好きなのに……なんも、してあげられない……」
無力感で気が狂いそうだった。
自分にはなんでも出来るって、とにかくやってみてから考えようって、やったら案外なんとかなるって、そんな万能感に満ちた考えが根底にあった。
しかし、それが通用しないことだってあるんだと知った。
手を伸ばせば、今度はもっと強く拒絶されるかもしれない。
無理やり助けようとしたら、逆に彩葉を傷つけてしまう。それによって返ってくる悲鳴のような罵りは、わたしの心を今度こそ再起不能にするだろう。
じゃあどうすればいいんだ。
わたしに彩葉を救う手立てはなにもないのか。
そういう堂々巡りの思考は、廻り廻るほどに絡まって胸を締め付ける。
「「…………」」
二人は言葉を失っていた。
やだなぁ、こんな空気にしたくなかったのに、感情ってやつはどうにも制御が難しい。
プライベートルームには、しばらくわたしのすすり泣く声だけが流れる。一分だろうか、或いはもっと、希釈された時間の後に、芦花が口を開く。
「私達も……詳しくは知らないんだ。おかしいって思う事は沢山あったんだけどね」
そう語る声には、並々ならぬ悔しさが滲んでいた。
「彩葉が、人に見られないように隠れて、そこで苦しんでるのは、結構前から知ってて……でも、それについて少しでもほのめかしたら、彩葉もっと苦しそうな顔するんだ。聞けないよ……」
真実は、顔を俯かせて震える声でそう言った。
二人も同じだった。
知りたくて、助けたくても、彩葉をそれ以上傷つけたくなくて、わたしと同じ位置で止まっているしかできなかったんだ。
彩葉を好きであればあるほど、何もできないことが悔しくて仕方がない。
そんな思いを抱えている二人に、わたしはとても大きな親近感を覚えた。そして、それは二人からしても同じだったのだろう。
「……でも」
そこで、芦花は言葉を改めた。そして、意を決したように真剣な目をして私を見つめてこう言ったのだ。
「ちょっとだけなら、知ってることはある。それでいいなら……」
そこから踏み出せば、きっと後戻りはできない。
誰も幸福になれないような結果になることだって十分にあり得る。
怖い。逃げ出したい。けれど、そんな無尽蔵の恐怖すら撥ね退けるほどに、わたしはもう彩葉のことが大切で、大好きだった。
「お願い」と、一言。
わたしは秘密の部屋の鍵をそっと開けた。






















苦しい…切ない…彩葉さん、かぐやさん(泣)