デスクには勉強道具が広がっていて、仕上げた課題がある。
予習もばっちりで、作業用BGMとして流れていたかぐやの『初KASSEN配信』もそろそろお開きといった様子だった。
芦花と真実とコラボする形で行われたこの配信は、予定調和のようにかなりの同接を叩き出し、かぐやのゲームセンスも相まってかなりの盛り上がりを見せた。
「ふふっ、かぐや。楽しそうだな」
大型のハンマーを振り回す姿は、絵になる。
いつも正面突破、全力全開な彼女らしい職だ。
「……見てたら、私もやりたくなってきちゃった。時間的にもまだご飯には早いし、久しぶりにちょっと潜るか」
勉強道具を片付けて、スマコンを装着する。
かぐやが帰ってきたら一緒に晩ご飯だから、プレイするのはそれまでの約一時間くらい。
ツクヨミにダイブすると、KASSENを起動。タイトルから流れるような手つきで『SETSUNA』を選び、マッチングを開始する。今シーズンのランクマッチはすでに最上位ランクまで来ているから、当たる相手もかなり強い。
しかし、数日ぶりであるにも関わらず、私の心は澄んでいた。
マッチング時の待機フェーズ。周囲が真っ黒な空間で、意識がアバターにのめり込んでいくのを感じる。
「よし、良い感じに集中できてる。ちゃんと動きそう」
この世界と、このアバターは、私にとって自由の象徴だ。
この姿で戦う時だけは、病気のことを忘れて、心の底から思い切り躍動することができる。
マッチングが完了し、視界が変わると目の前には刀のような武器を持ったアバターが出現した。
レートも相当高い。強敵だ。
「…………いくよ」
二刀への分離も出来るブーメラン状の大剣をゆるりと構え、試合開始と同時に仮想の地面を蹴った。
楽しい。
現実ではあんなに重い体が、ここでは自由自在に、むしろそれ以上に変幻自在に動く。羽が生えたみたいな爽快感に、私は何度でも夢中になる。
勝利したら次の対戦へ、これを繰り返す。
信じられるだろうか。これが、余命数年と宣告された小娘の姿なんだ。
現実に絶望しても、この世界だけは裏切らない。なんのハンディキャップもなく、全ての人間が公平に動き、積み重ねることができる。
集中力が上がれば動きもそれに伴って良くなり、繰り出す二刀の連撃と、百発百中のエイム力によって連勝を積み重ねていく。
一時間なんてあっという間だった。
気が付いたら、傍らでシステムに設定したアラームが鳴っていた。
「うわ、もうこんな時間?やっぱのめり込むとあっという間だね。このゲーム」
マッチングを停止する。
表示されている連勝数は三十二。
言うまでもなく無敗だ。
心地いい。
私はこのゲームが好きだ。それを改めて認識する。残り少ない人生の時間を、こんなことに精を出すなんて馬鹿げていると誰もが思うかもしれないが、私にはもうこれしかなかったんだ。
かぐやが現れたから、変われただけ。
「ははっ、かぐやが来なかったら、本当にこれだけやって人生終わってたかも……」
自嘲するが割と冗談抜きにその可能性があって、かぐやへの感謝はより深まるばかりだ。
KASSENからログアウトすると、ツクヨミのメインストリートに出る。受信ボックスには『まだ少しかかる』というかぐやからのメッセージが入っており、私は暇つぶしにあてもなくぶらぶらと街を彷徨い歩く。
永夜の世界は絶え間ない光によって照らされ、その中を歩いていると、まるで現実こそが夢で、こっちが本当の現実のように思えてくる。
「夢みたいに綺麗な世界……前までは、死んだらツクヨミに激似の異世界に、このアバターで転生したいとか本気で思ってたっけ……」
それくらい、この世界は居心地が良すぎた。
例え現実世界の時間が、周囲の人間が、私の命をおいていっても、そうなれば私は永遠に苦しむことなく、ともすれば自分の意味を見つけられるような気がした。
今そうじゃないなら、もうそれを見つけたって事でいいのかな。
いや、それはまだかな。
「今は、どうなんだろ」
漠然とした辛さは、ずっと消えない。
むしろ、かぐやと過ごし始めてから、増えたように思う。発作とは違う、形容できない心の痛み。
あの子の笑顔を見る度に、想いを受け取る度に、私の体を絡めとった茨の棘がぐさぐさと足や手やお腹に刺さって、痛いよって叫ぶんだ。
前みたいにお布団の中で泣かなくなったのに、今度は隣りに感じる温もりが気持ちよくて、それと同じだけ辛くて、それを失う日が必ず来るってことが、怖くて仕方がない。
「どれだけ大切なものを得ても、一年と少しで全てを失ってしまう。生きる意味も、希望も、かぐやとの関係も……」
いくらかぐやの事を想い、その可愛さに、温度に満たされても、生きてる意味を見つけても、意義を捉えても、それらは瞬く間に消えてしまう。
そんな簡単なことに今まで気付けなかったのは、何も持っていなかったからだ。
でも今は、持っている。
ずっと夜が良いって思うのも、時間が止まって欲しいって想いの裏返しだ。
「……そうだよ。じゃあ、結局私は……」
夜空を見上げると、満月がそこにある。
そこは、広大な神々の街の入り組んだ路地の一角で、気付けばそんな所まで歩いてきていた。
このまま袋小路になるまで進めば、このどうしようもない想いにも、決着がつくのかな。
ちゃんと蓋できるのかな。
それが出来れば、誰も苦しまない。私も、かぐやも、ちょっと悲しいだけで終わりだ。
「好きって、言っちゃダメじゃん」
私が失うってことは、その想いを共有した誰かもそれを失うんだ。人が一人で死ぬ、なんてことは残念ながらあり得ない。
親しかった人にとって、私という存在が『生きている人』から『死んだ人』へと変わる時、抱いていた想いも一緒に死ぬ。
ゆるゆると力なく落ちたこの手のように、行き場を失って朽ちていく。
その痛みが、今私が感じているものと同じなら、きっと他の人にとっては耐え難いものだ。だったら、そんなものを味合わせたくない。
「一緒に立ち止まってくれる人なんて、探せるわけないよ」
項垂れた。
ぽつりと地面を見つめた瞳で、私は仮想の涙を流す。
落ちては消えてを繰り返し、返ってくることはない。
そう、このまま一人で悲しめばいい。そうすれば誰も、不幸にならない。この痛みは、私の命と一緒に消える。その為にも、誰とも共有しない。泣くのはこれで最後、誰かの前で涙を見せるなんて絶対にしない。
そう思っていた。
決意した。
それなのに……
「っ!……え?」
誰かが、後ろから私の手を握った。
反射的に振り返ると、そこに居た少女に私は目を見開いた。
「彩葉……」
彼女が、私の名を呼んだ。
月の光を反射する艶やかな銀髪、カジュアルな服に黒い外套を羽織ったアバタースキンであっても、その美しさは一切衰えない。
その姿に、私は目を疑う。
名前を呼ばれたことが信じられない。
「月見……ヤチヨ?」
そこに居たのは、この電脳世界の姫君。
私が生涯の推しと決めた最愛の存在の一人、月見ヤチヨだったのだ。
□
芦花はホロウインドウを出して、そこに表示された画像をわたしに見せた。
「なにこれ……病院?」
「見つけたのは完全に偶然だったんだけどね。放課後にその近くで用事があって、立ち寄った時に、その病院から彩葉が出てくるのを見たんだ」
顔を上げる。
かぐやはまだこの辺の地理にあまり詳しくないけど、見たところ結構大きめの病院みたいだ。平日の夕方に、彩葉がここから出てきた。これは確かに気になる。
そもそもわたしは、彩葉が病院に通っているなんて話は聞いた事が無い。
「私も、最初はそこまで深刻には考えてなかったんだけど……その病院、救急以外だと診察には紹介状が必要なんだよね。だから必然的に、普段から通っているのか、別の小さな病院から移動してきたかのどちらかになる」
芦花の説明から、わたしは何を言いたいのか察した。
彩葉が普段飲んでいる薬。発作の時に摂取する錠剤。あれらはどれも市販されていない薬で、素人が一目見ただけでは何の用途かも分からないようなものばかりだった。
それらは、この病院で処方されたものと見て間違いない。
それを、彩葉は朝と晩で、数種類飲んでいた。
「病弱な体質だから、それで診察を受けにいってる可能性もある。けど……私にはどうも、それだけだとは思えない」
芦花は話を続ける。
「病院から出てきた彩葉は、見た事もないくらい思い詰めた顔をしてた。もう全部に諦めてるみたいな……普段の湿っぽい表情よりも、ずっと暗くって……」
果たして、ただ体が弱いだけの人がそんな顔をするのだろうか。
わたしの見てきたものと、その彩葉は重なる。わたし以外から見てもそうなら、やはりこの予想は間違っていない。
「それで、思っちゃった。彩葉は……なにか、重い病気を患ってるんじゃないかって……」
驚かなかった。
それはわたしも可能性として考えていた事だったし、改めて確信を持てたからといって、わたしのやる事は変わらない。
彩葉のために何ができるのか、それを考える。
たったそれだけ。
それだけのはずなのに……
「かぐや、大丈夫?」
「え?なにが?」
真実に聞かれて首を傾げる。
「だって……今のかぐや、凄く怖い顔してるから……」
そう言われて、わたしは初めて今自分がどんな顔をして話を聞いていたのか知った。
□
少女は、ただひたすらに美しかった。
眉目秀麗。鮮美透涼。活発艶麗。夜空の下に佇むその姿はまるで月下美人の花。あらゆる賛美と称賛を受けても尚、それらが霞むほどの存在感。
この神々の国において、最も高き場所の神座より、この永夜の世界を見下ろすやんごとなき身分の少女。
「月見……ヤチヨ?」
いつもは二つ結びにしている銀髪が降ろされていて、装いもカジュアルなものだが、私が彼女を見間違うなどあり得ない。
紛れもない、月見ヤチヨ。
こんな場所に居るはずがない少女が、私の手を握って、私の名前を呼んだのだ。
「嘘……え、本物!?」
にわかには信じられないことだ。
夢だと言われた方が納得がいく。それくらいの身分差で、私なんかが会って話をするなど、天地がひっくり返っても有り得ない。
加えて、生涯の推しが目の前にいる。冷静になれという方が無理がある。
「うんうん、予想通りの反応だね〜。驚くのも無理はないけど、ヤッチョは正真正銘、本物のヤチヨだよ。それとも、こんなにも可愛いお姫様が、この世界に二人と居るのかな?」
ヤチヨだ。
彼女だ。
たおやかに笑って、冗談めかしにそう言う彼女。あの日、会う事が叶わなかった存在だ。
「いやいや、そんなの居る訳ないですよ!ヤチヨは本当に、最高で……」
言葉が出てこない。
そりゃそうだ。こんな展開で上手く言葉を紡げる人なんて、それこそツクヨミ中探したってそうそう居ないだろう。
「えへへっ、ありがとう。彩葉にそう言ってもらえて、ヤッチョも嬉しいな」
「あっ、また……どうして、私の名前……それに、何であなたがこんな所に……」
嬉しそうに笑ったヤチヨに、目を奪われそうになるも、それに並行して当然の疑問が浮かんだ。
月見ヤチヨは、このツクヨミの管理者にして、押しも押されぬトップライバーだ。
こんな最低人間の私が、こうして邂逅できるような人じゃない。
そんな私に、彼女は薄く微笑んで口を開いた。
「まあ、普通はそういう反応になるよね。ちゃんと、一つずつ説明するよ」
そう言って笑うと、ヤチヨは私の両手を、彼女の両の手で取って優しく握ってくれた。
「まずは……これ。あの日、出来なかったでしょ?」
ぎゅっと握られた両手から、この仮想世界において伝わらないはずの温度が流れ込んでくる。
ヤチヨは、あのミニライブで私が握手会直前に退席したのを分かっていたのだ。
握手券付きチケットはアカウント認証がされているから、参加してない人をヤチヨ側が知るのは容易い。
私が消えたタイミング自体異様だったし、もしかしたら発作で苦しみ出した様子を、彼女は見ていたのかもしれない。
しかし、だとしても、彼女がこんな風に訪ねてくる理由にはなり得ないだろう。
今までだって、私のように直前で席を外したプレイヤーは大勢いたはずだ。そんな人達全員に、こうして直接会いに行っていたとは考え難い。
「えっと……ありがとうございます。でも、まさかそれだけの為に?だとしたら……」
私がそう言うと、ヤチヨは少しだけ寂しそうな表情をして返答した。
「分かってるよ……彩葉が思ってるように、あんまり一人のファンにこうして肩入れすべきじゃないんだけどね。けど、彩葉は色々と、事情が特殊だからさ。どうしても、ちゃんと会いたかったの」
「っ……!」
その言葉の意味する所を、分からない私じゃない。
事情が特殊……私のような一般女子高生かつ、何の権威も持たないユーザーを指してそう表現するのなんて、”あの事”を知っているからとしか考えられない。
「ここで、二つ目の質問の答え。私があなたの事を知っているのは……あのチャットを通じて、何度もあなたと話したからだよ」
――そうか。
確かに私は、最初ヤチヨチャットを本名で使用していた。アカウントをツクヨミと連携してからはユーザーネームに変えたけど、ヤチヨが私の名前を知る事は十分に可能だ。
そもそも、彼女なら私の名前なんて調べようと思えば簡単に分かる。
それでも敢えてチャットでのやり取りを理由にしたのは、彼女の誠意に他ならない。
そして、病気のこともそうだ。
「病気のことも……一度だけ話してくれたよね。私、ちゃんと覚えてるよ」
私は、病気が発覚してから一年間、ヤチヨチャットを使わなかった。
そこに何か理由があった訳じゃない。精神的な余裕がなかったのもそうだし、余命幾ばくかの私が彼女を推すことに疑問を抱いてしまった側面もある。
「……そういう事、だったんだ……」
けれど、一度だけ。
私は自分の病気と、余命について、全てをあのチャットに書き込んでいる。
返事は見ていない。吐き出したいだけ吐き出して、それ以降の一年間は本当に一度もあのアプリを開かなかった。
ましてや、私が送ったメッセージなんて、本人は見てすらいないだろうと高をくくっていた。
それでもヤチヨは、私からのメッセージをちゃんと見ていてくれたんだ。
「そっか……そっかぁ………」
かみしめるように何度も、その事実を反芻した。
項垂れ、どんな表情していいのか、なにを言えばいいのか分からず額を手でおおって立ち尽くす。この場合における適切な感情の処理の仕方なんて、知る訳がない。
そんな中でも、ヤチヨは幻みたいに消えることなく目の前に居て、この逢瀬もミニライブ握手会みたいに刹那の一瞬で終わったりはしない。
「いいんだよ。彩葉。私の前では、何も隠さなくていい。辛かったね。怖かったね。大丈夫、ヤチヨは全部知ってるよ」
全部知ってる。
何よりも恐れていたはずの言葉は、驚くほどすっと胸に入ってきた。熱湯に入れたココアパウダーみたいに優しく溶けて、甘く広がっていく。
「彩葉」
ふわりと抱き寄せられる。
「やち、よ?」
密着した体は、そんなはずがないのにちゃんと温かい。
ヤチヨに抱きしめられている。その心地よさは、何に対しても疑ってかかって、誰の優しさも受け取ろうとしなかった私の心の壁すら、易々と取り払ってしまう。
背に回された華奢な腕が、かすかに強くなる。
現実の体を捨て去って、むき出しの魂だけになったこのアバターでは、私が自分の心を守るために纏っていた卑屈さも、自己嫌悪も、意味をなさない。
ただあるがままに、気の遠くなるような幸福感を感受するしかない。
「彩葉は今、ここに居るよ。こうやって、ヤチヨの腕の中に……ね」
あなたはここに居る。
そんな風に言ってくれる人、この世界には居ないんだって諦めていた。
心配して欲しかったんじゃない。気遣って欲しかったんじゃない。病気が分かってからずっと、私が望んでいたのは、そんな普遍的でありふれたものだったんだ。
「……ずっと、誰も、そんなこと言ってくれなかった」
確かな自分が、ここに私が居ると認めてくれる人と言葉。
誰かの本音を求めたのも、同じような理由だ。
本音で話すということは、その相手を他でもない”その人”だと認めている証拠だ。そうすれば、私は”私がここに居る”と実感することが出来る。
「みんな……皆、私の病気の事ばかり見て……私の事を見てくれなかった」
誰もが私の病気のことを気にした。それを知れば皆がそうだった。今までは、ありのまま私と談笑してくれた友達が、急に私の目じゃなくて別の所を見始めた。
私の事をよく知らない人ですら、私が病気ってことだけは知っているからか腫れ物のように扱ってくる。
それじゃあ、私って存在そのものが、病気の付属品みたいだ。
今優しくてしてくれるあなたも、一緒に遊んでくれるあの子も、どんなに対等な関係だと信じていても、ある一つの事実を知るだけで簡単に態度を変えて特別扱いを始める。
そうして全部を嘘だって思うのに、疑う癖がつくのに、時間はかからなかった。
こんな辛いだけの、死に至るような最悪の病が、自分にとって最大の存在証明になっているみたいで、そんな事実と向き合うくらいなら、私はもう何も信じたくなかった。
「私はただ、私を見て話してくれる人が……欲しかっただけなのに……それって、そんなに馬鹿な願いなのかなって……」
ありのままの私に価値が無いのは事実だ。
そんなの分かってる。でも辛いんだ。
発作の苦しみよりも、ご飯をあんまり食べられない事よりも、外で満足に遊べない事よりも、この心をむしばむ痛みはもっとずっと辛い。
「言えないよ。言える訳ないじゃん!今仲がいいあの人も、一緒に住んでるあの子も……そうなるかもって思うと、辛くて死にそうなんだよ!」
そうやって、失っていくのだけは耐えられない。
失う苦しみを味わうくらいなら、最初から一人の方が良い。孤独を望んだのは、私にとって最後の自己防衛だったのだ。
そんな私の前に、彼女はこうして現れた。
何よりも欲しかった言葉をくれて、どこにも消えないようにハグしてくれる。
―――視界がじわりと滲む。
ここに居る。私はここに居る。それを感じられると、色を失っていた感情の部分が鼓動を打った。
「ヤチヨ……やち、よ……!うあああああああああああ!!!あぁぁぁああああああああああああああ!!!!」
死は最大の安らぎだと思っていた。
けれど、これはそんなものよりもずっとあったかくて、ゆるやかな安らぎに満ちている。
ヤチヨの腕の中で、我も忘れて泣いた。現実では泣けなくなった私が、この仮想世界で数年ぶりに、感情の涙を流した。




















