俺は昔から、自分のことをそこそこ常識人だと思っている。
今「は?」と思った奴がいるかもしれない。
待ってほしい。
最後まで聞いてほしい。
俺は人を殴らない。
盗みもしない。
人の飯も勝手に食わない。
……最後のはちょっと嘘だ。食う時はある。
でもあれは盗みではない。食材の移動だ。
誰かの皿から俺の胃袋へ。
つまり自然界で言うところの循環。
命は巡る。
米も巡る。
饅頭も巡る。
「巡らせてんじゃねぇよ。俺の饅頭を」
銀時が死んだ魚みたいな目でこっちを見ていた。
いや、死んだ魚みたいな目っていうか、あれはもう魚側から訴訟が来るレベルで生気がない。
魚だってもう少し目に未来を宿している。
「銀時、聞いてくれ。俺はお前の饅頭を食ったんじゃない」
「じゃあ今お前の口の横についてる餡は何だ」
「未来への希望」
「甘ぇ希望だなオイ」
「希望ってのはいつだって甘いんだよ」
「じゃあ現実を食らわせてやる」
銀時が竹刀を持って立ち上がった。
あ、死んだ。
これは死んだ。
銀時は基本的に面倒くさがりだが、甘味が絡むと話が変わる。
糖分がこいつの魂を起動する。
普段は省電力モードなのに、饅頭を盗られた瞬間だけ最新型からくりみたいに動き出す。
俺は素早く桂の後ろに隠れた。
「桂、助けろ。俺は今、甘味過激派に命を狙われている」
「ヅラじゃない、桂だ」
「いや今ちゃんと言っただろ。自分の持ちネタくらい正しく管理しろ」
「持ちネタではない。名だ」
「じゃあ名を大事にしろよ。今めちゃくちゃ雑に扱ったぞ」
桂は真面目な顔で腕を組んだ。
「だが、饅頭を勝手に食うのはよくない」
「正論で刺すな。今俺は竹刀から逃げてるんだ。言葉の刃まで受け止める余裕はない」
「では腹を切れ」
「急に武士濃度上げないで」
高杉が隣で筆を置いた。
「うるせぇよ」
声が低い。
高杉の「うるせぇ」は、だいたい本当にうるさい時にしか出ない。
つまり今は本当にうるさい。
正直、俺もそう思う。
「すまん高杉。だがこれは俺と銀時の命をかけた話し合いで」
「話し合ってねぇだろ。逃げてるだけだろ」
「逃げることもまた対話だ」
「どこの国の外交だよ」
銀時が竹刀を肩に担ぎながら近づいてくる。
「いいから出てこい。今なら半殺しで済ませてやる」
「半分は殺す気じゃねぇか」
「正直饅頭半分食っただけなら許した」
「全部食った俺への説得力がすごい」
「分かってんなら死ね」
「分かった上で生きたい」
「欲張りさんかテメェは」
そうして俺は松下村塾の廊下を走った。
銀時が追ってくる。
高杉が「バタバタ走るな」と怒る。
桂が「走るなら足音を殺せ」と謎の助言をする。
松陽先生が「転ばないように気をつけてくださいね」と笑う。
平和だった。
いや、今まさに俺は竹刀を持った白髪の糖分魔人に追われているので平和かと言われれば違うんだが、そういう意味じゃない。
このうるささが日常だった。
銀時は口が悪い。
高杉は機嫌が悪い。
桂は頭がいいのに方向が悪い。
俺はだいたい全部が悪い。
松陽先生は、それをまとめて笑ってくれる。
「先生、聞いてください。銀時が俺を殺そうとします」
「原因は?」
「盗み食いです」
「では銀時、半殺しまでにしておきましょう」
「松陽先生まで甘味派だったとは……」
「違ぇよ。お前が悪いんだよ」
「でも先生、饅頭一つで人は殺してはいけないと思います」
「一つじゃねぇ。最後の一つだ」
「それは重罪ですね」
「先生!?」
先生は笑っていた。
その笑い方が好きだった。
俺たちが馬鹿をやっても、呆れるだけじゃなくて、ちゃんとそこにいてくれる。
怒る時もある。
止める時もある。
でも、俺たちを最初から駄目なものとして見ない。
そういう大人を、俺はあまり知らなかった。
だから俺は、ふざけた。
ふざけていれば、ここにいていい気がした。
馬鹿なことを言って、銀時に殴られて、高杉に睨まれて、桂に巻き込まれて、先生に笑われる。
それで俺は、この場所にいる形を保っていた。
一方的に追いかけ回されるのとは別に、銀時とはよく手合わせをした。
正直、勝てない。
本当に勝てない。
こいつは普段あんなにだらしないくせに、竹刀を握ると急に別の生き物になる。
死んだ魚の目をしたまま、動きだけがやたら鋭い。
魚なのか侍なのかはっきりしてほしい。
「はい終わり」
竹刀の先が俺の喉元で止まった。
俺は地面に転がったまま、空を見上げる。
「待て銀時。今のは違う」
「何が」
「地面が俺を求めたっつーか」
「地面に振られろ」
「ひどい。俺と地面は真剣なんだ」
「じゃあ一生寝てろ」
「でも地面側にも選ぶ権利があるし」
「やかましいわ」
俺は起き上がりながら竹刀を拾う。
手が痺れていた。
銀時の一撃は重い。
腹が立つくらい重い。
「もう一本おなしゃす!!」
「何本やっても同じだろ」
「次の俺は違うぞ」
「その台詞、昨日も聞いたんだけど?」
「昨日の俺とは別人だ」
「じゃあ昨日のお前に饅頭返せって言っとけ」
「昨日の俺は死んだ」
「都合よく死ぬんじゃねぇよ」
銀時は面倒くさそうに頭を掻いた。
「つーかお前、何でそんなに勝ちたがるわけ?」
「銀時に勝ったらめちゃくちゃ気分よさそうだから」
「理由が最悪だな」
「あと、お前に勝った顔で高杉を煽りたい」
「高杉に斬られて死ね」
高杉が遠くから言った。
「聞こえてるぞ馬鹿」
「地獄耳かよ」
「お前の声がでけぇんだよ」
桂は真顔で頷いた。
「たしかに、声は重要だ」
「桂、今は戦じゃない」
「戦でなくとも、声が通る者は場を制する」
「急にそれっぽいこと言うな。反応に困る」
「つまり、お前はうるさい」
「結論だけ悪口に着地させるな」
銀時が竹刀を構え直した。
「ほら、やんだろ」
「やる」
「次負けたら饅頭奢れよ」
「俺が勝ったら?」
「ねぇよ」
「可能性を殺すな」
「まず俺に勝ってから言え」
むかつく。
本当にむかつく。
でも、こういうやり取りが嫌いではなかった。
銀時の雑なツッコミは、俺の馬鹿にちゃんと返ってくる。
俺が投げたものを、あいつは面倒くさそうに拾って投げ返してくる。
だから俺は、さらに投げる。
それが楽しかった。
楽しかったんだと思う。
あの時は。
転機は突然だった。
いや、突然というか、また饅頭だった。
おかしい。
俺の人生、重要イベントのトリガーが饅頭に偏りすぎている。
饅頭が黒幕かもしれない。
銀時の隠し饅頭を見つけた。
箱の奥、布の下、さらにその下の板の隙間。
隠し方が本気だった。
もはや埋蔵金。
銀時、お前は将来徳川埋蔵金を隠す人になれる。
俺はそれを見つけてしまった。
見つけたものは仕方ない。
世界が俺に食えと言っている。
一口食べた。
うまい。
二口食べた。
もう止まらない。
三口目に入ったところで、背後から声がした。
「……おい」
終わった。
俺はゆっくり振り返る。
銀時が立っていた。
目が死んでいる。
でも殺意だけが生きている。
命のリレーがそこで発生している。
「銀時、これは違う」
「何が」
「俺は今、お前の饅頭を守っていた」
「胃の中に避難させてんじゃねぇよ」
「敵に奪われる前に」
「敵はお前だよ」
「じゃあ俺は敵であり守護者でもある」
「ややこしいこと言ってんじゃねぇよ」
銀時が一歩踏み出す。
俺は一歩下がる。
「待て。話せば分かる」
「飲み込んでから言え」
「これはまだ口腔内にある。つまり所有権は曖昧だ」
「めんどくせぇ話持ち出すな」
「銀時、暴力は何も生まない」
「安心しろ。お前の悲鳴は生む」
俺は走った。
廊下へ飛び出す。
銀時が追う。
またいつもの追いかけっこ。
いつもの騒ぎ。
そのはずだった。
角を曲がる。
柱がある。
避ける。
──つもりだった。
額に衝撃が来た。
視界が白くなった。
あ、これ死んだかも。
そう思った次の瞬間、頭の中に知らない記憶が流れ込んできた。
──現代日本。
テレビ。
スマホ。
コンビニ。
漫画。
アニメ。
動画サイト。
途中までしか追えていない、銀魂。
坂田銀時。
桂小太郎。
高杉晋助。
吉田松陽。
松下村塾。
攘夷戦争。
悲劇。
処刑。
別れ。
そして。
俺が今いるここが、銀魂の世界だということ。
「……」
廊下に倒れたまま、俺は天井を見ていた。
銀時の声がする。
「お、おい、おい。しっかりしろ。饅頭で死ぬなよ馬鹿、俺が悪いみてぇになるだろ」
いや、お前は悪くない。
悪いのは饅頭だ。
いや、饅頭も悪くない。
悪いのはたぶん、俺の食欲と世界の仕様だ。
頭がぐちゃぐちゃだった。
思い出した。
でも、全部じゃない。
銀魂という作品を知っている。
銀時たちの未来に大きな悲劇があることも知っている。
松陽先生が連れて行かれることも、攘夷戦争が起きることも知っている。
でも、途中までしか知らない。
肝心なところが分からない。
松陽先生をどうすれば救えるのか。
何を変えればいいのか。
どこで誰に何を言えば未来が変わるのか。
分からない。
おい。
そこ一番大事だろ。
作品見るなら最後まで見ろよ前世の俺。
何で途中で止めた。
単行本積むな。
人生がかかってるんだぞ。
いや、前世の俺からしたら人生かかってないんだけど。
こっちは今かかってるんだけど。
銀時が俺の顔を覗き込んでいる。
まだ子供の顔だ。
口は悪い。
目つきも悪い。
髪は白い。
糖分への執着はすでに成人病予備軍。
でも、まだ。
俺が知っている未来の銀時より、ずっと軽い。
背負う前の顔だった。
「お前、ほんとに大丈夫かよ」
銀時が眉をひそめる。
俺は口を開こうとした。
先生が危ない。
逃げよう。
未来を変えなきゃ。
そう言うべきだった。
でも言えなかった。
俺は銀魂を途中までしか知らない。
救い方を知らない。
変え方も知らない。
そもそも俺の言葉に証拠もない。
ここで急に「この世界は漫画で、お前らはこの後ひどい目に遭う」とか言ったらどうなる。
銀時はたぶん「頭打ったな」で済ませる。
高杉は睨んでそっぽ向く。
桂は真面目に聞いて、国単位の話にする。
先生は優しく聞いてくれるかもしれない。
でも、それで何が変わる。
分からない。
分からないことだらけだ。
だから俺は、とりあえず口を動かした。
「銀時」
「あ?」
「饅頭、うまかった」
「それが遺言か?」
銀時が俺の襟を掴んだ。
俺は笑った。
笑うしかなかった。
頭の中では、ずっと同じ言葉が回っていた。
どうすればいい。
知らない。
どうすれば救える。
知らない。
何を変えればいい。
知らない。
俺は、中途半端に未来を知ってしまった。
それが一番タチが悪かった。
今日も俺は銀時と打ち合いをした。
結果は全部負け。
もう本当に全部負け。
ここまで綺麗に負け続けると、逆に俺が銀時の勝利演出用の背景素材なんじゃないかと思えてくる。
俺が転がる。
銀時が立っている。
高杉が笑う。
桂が真面目に分析する。
先生が穏やかに笑う。
流れが完成している。
様式美になっている。
嫌すぎる伝統芸能だ。
「もう一本!」
「まだやんのかよ」
「次で勝つ」
「何回同じこと言うんだよ」
「次回予告は何回流してもいいんだよ」
「本編始まってから言え」
銀時が面倒くさそうに竹刀を構えた。
俺も構える。
勝てない。
分かっている。
普通にやっても勝てない。
じゃあ、普通じゃないことをするしかない。
俺は息を吸った。
「銀時」
「あ?」
「お前に見せてやる」
「何を」
「俺の……新必殺技をな」
銀時の目が半分になる。
「また変なこと言い出したぞ」
高杉が少しだけ興味を持った顔をした。
桂は妙に真剣にこちらを見る。
俺は竹刀を振りかぶった。
もうヤケだった。
技なんかない。
理屈もない。
勝算もない。
ただ、前世の記憶の中で、なんか強そうだった言葉を叫んだ。
「月牙天衝ォォォォォ!!」
瞬間。
竹刀の先から、黒い何かが出た。
出た。
本当に出た。
俺の竹刀から、明らかに出ちゃいけない種類の斬撃が出た。
「は?」
銀時の顔が、初めてちゃんと崩れた。
黒い衝撃が銀時の足元を削る。
銀時はとっさに避けたが、避けきれずに体勢を崩した。
そこへ、俺の竹刀がぽこん、と銀時の肩に当たった。
静寂。
俺は竹刀を振り下ろした姿勢のまま固まった。
銀時も固まった。
高杉も黙った。
桂だけが、真剣な顔で言った。
「ほう……今のは卍解か」
「ほう……じゃねぇ!!!」
銀時が叫んだ。
「待て待て待て!!今のはズリィだろ!!」
「何が?」
「何がじゃねぇよ!!別の漫画の必殺技持ち込んでんじゃねぇよ!!」
「でも出たし」
「出たし、じゃねぇ!!出すな!!」
「俺も出ると思わなかったんだよ」
「思わねぇなら叫ぶな!!」
高杉が肩を震わせていた。
「油断したか、銀時。こんなのに負けるなんて落ちたもんだ」
「いや、こんなのってもうちょい言い方なかった?」
「負けてねぇ!!今のは反則だ!!ノーカンだノーカン!!」
「反則って何の規定に引っかかったんだよ」
「ジャンプ内越境罪だよ!!」
「そんな罪あるのか」
「今できた!!」
桂は深く頷いた。
「たしかに、他作品の力を借りるのは武士としてどうかと思う」
「桂まで真面目に裁かないで?」
「だが威力はあった」
「なんで高評価なんだよ」
俺は自分の竹刀を見た。
普通の竹刀だった。
黒くもない。
霊圧もない。
持ち主の魂を反映している感じもない。
ただの竹刀だ。
でも、今。
出た。
何かが。
「……何だったんだ、今の」
小さく呟く。
銀時がずい、と詰め寄ってきた。
「次それやったらマジでボコすからな」
「次も出るか分かんねぇよ」
「分かんねぇもんを試合に持ち込むな」
俺は笑った。
笑ったけど、胸の奥に変な違和感が残っていた。
今のは何だ。
偶然か。
気のせいか。
それとも、本当に。
いや、考えすぎだ。
銀魂なら、こういうこともある。
たぶん。
そんなこともあったが、俺はいろいろやった。
本当にいろいろやった。
目的はもちろん、松陽先生を連れて行かせないためだ。
先生の周りをうろついた。
怪しい大人の話を盗み聞きした。
役人の動きを見た。
戦の気配を探った。
知っている断片と、今起きていることを繋げようとした。
でも、繋がらない。
俺の記憶は穴だらけだった。
たとえば前世の俺は、銀魂で誰が好きだったのかは覚えている。たまが好きだった。かわいい。俺もネジをプレゼントしたい。
でも松陽先生を救う方法は覚えていない。
終わってる。
推し語りの記憶より攻略情報を残せ。
何で俺の脳内に「たまは真面目で優しくていい子」という感想はあるのに、「この時点でこう動けば救えます」という攻略チャートがないんだ。
役に立たない。
前世の俺、マジで役に立たない。
「お前、最近なんか変だぞ」
銀時にそう言われたのは、いつかの夕方だった。
俺は縁側で空を見ていた。
物語が進む気配は少しずつ近づいている。
先生はいつも通り笑っている。
高杉も桂も銀時も、まだここにいる。
まだ。
その言葉が一番怖い。
「変って何が」
「やたら外見てんだろ」
「空が青いなと思って」
「夕方だぞ」
「じゃあ俺の心が青い」
「病院行け」
「銀時、病院ってのは何でも解決してくれる便利施設じゃないんだぞ」
「お前はまず頭を見てもらう必要があるな」
「頭は手遅れだ」
「自覚あんならよし」
銀時は隣に座った。
距離が近い。
こいつは昔からそうだ。
人の間合いに雑に入ってくる。
「何隠してんだよ」
心臓が一瞬止まった。
銀時はこっちを見ている。
死んだ魚みたいな目なのに、こういう時だけ変に鋭い。
普段からもう少しその観察眼を生活に使え。
布団の下に隠した饅頭ももっと守れるぞ。
俺は笑った。
「隠してるのはお前の饅頭のありかを知ってるってことだけだ」
「やっぱ知ってんのか」
「知らない」
「今言っただろ」
「これは言葉のあや」
「今のどこにあやがあったんだよ」
銀時はしばらく俺を見ていた。
俺はその視線から逃げるように空を見る。
言えない。
俺は未来を知っている。
でも救い方は知らない。
そんなこと、言えない。
言ったところで、誰も救えないかもしれない。
むしろ俺のせいで、もっとひどくなるかもしれない。
だから俺は、いつも通り馬鹿を言った。
「銀時、もし明日世界が終わるなら何食う?」
「急だな」
「大事な質問だ」
「甘いもん」
「でしょうねー」
「お前は?」
俺は少し考えた。
「みんなで食えるんなら、何でもいいや」
銀時が黙った。
俺も黙った。
しまった。
少し本音が出た。
すぐに笑う。
「いや、みんなで食う飯っていうか、みんなで食う飯を銀時の皿から奪うところまで込みで」
「最後で台無しだよ」
「台無しにしてこその人生」
「嫌な人生だな」
銀時はそれ以上聞かなかった。
ありがたかった。
でも、その沈黙が少し痛かった。
先生は連れて行かれた。
止められなかった。
俺は、知っていたのに。
中途半端に知っていたのに。
何もできなかった。
うっすらとした前世の記憶を頼りに、色々動いた。
それでも駄目だった。
大きな流れは、ガキ一人が少し騒いだくらいでは変わらない。
いや、違う。
俺が知らなかったからだ。
救い方を知らなかった。
途中までしか原作を知らなかった、思い出せなかった。
一番大事なところで、俺は役立たずだった。
先生が連れて行かれる時、銀時たちの顔が見えた。
高杉の目。
桂の声。
銀時の沈黙。
俺は何も言えなかった。
馬鹿なことも言えなかった。
その日だけ、俺は本当に何も言えなかった。
攘夷戦争が始まった。
俺たちは当然のように参戦した。
戦場は最悪だった。
いや、最悪なのは知っていた。
前世の知識として、戦争はよくないとか、命は大事とか、そういうことは知っていた。
でも、知っているのと、目の前で人が死ぬのは違う。
血の匂い。
鉄の音。
燃える音。
叫び声。
誰かが誰かの名前を呼ぶ声。
全部うるさい。
耳を塞ぎたくても手は刀を握っている。
目を閉じたくても敵が来る。
逃げたくても後ろには味方がいる。
俺は普通に戦った。
普通に刀を握って、普通に踏み込んで、普通に死にかけた。
「普通」ってすごい。
普通に戦える奴、本当にすごい。
こっちは一回敵の刃が目の前を通っただけで、脳内が全部「帰りたい」になる。
「おい、足止まってんぞ!」
銀時の声が飛ぶ。
「止まってねぇ!」
「止まってただろ!」
「心が旅に出てただけだ!」
「とっとと帰国させろ!」
敵の槍が突き出される。
長い。
槍、長い。
知ってたけど長い。
遠距離恋愛くらい距離がある。
こっちの刀が届かないところから普通に刺してくる。
ずるい。
武器のリーチ差ってこんなに暴力だったのか。
「銀時!」
「何だよ!」
「槍って課金武器じゃね!?」
「今それ言ってる場合か!?」
「無課金勢に優しくない!」
「刀持ってんだろうが!」
「初期装備だろ!」
「初期装備でラスボスまで行く奴もいるんだよ!」
「銀時それお前側の理論だろ!俺は攻略サイト見るタイプなんだよ!」
「見てねぇから死にかけてんだろ!」
その通りだった。
俺は攻略サイトを見ていない。
途中までしか知らない。
松陽先生の救い方も知らない。
この戦争の勝ち方も知らない。
知っているのは、銀時たちがこの先も苦しむことだけ。
最悪だ。
俺は敵の槍を避け損ねて、肩を掠められた。
「いっだァ!!」
声が裏返った。
漫画みたいに「くっ……」とか言えない。
実際斬られると「いっだァ!!」である。
しかも結構情けない声が出る。
戦場で情けない声出すと、それだけで負けた気分になる。
血が出る。
熱い。
痛い。
怖い。
「下がれ!」
銀時が前に出る。
銀時の動きは速い。
こいつは本当に強い。
普段あんなにだらしないのに、戦場だとちゃんと生きている。
俺はその背中を見た。
銀時。
高杉。
桂。
みんな戦っている。
俺も戦わなきゃいけない。
でも普通に戦っても駄目だ。
弱い。
遅い。
怖い。
このままだと死ぬ。
その時、思い出した。
松下村塾での手合わせ。
銀時に勝てなくて、ヤケになって叫んだあの時。
『月牙天衝ォォォォ!!』
黒い斬撃が出た。
マジで出た。
いや、今思い返しても意味が分からない。
他作品の技だぞ。
版権どうなってる。
世界観の壁どうなってる。
その壁、紙ふすまか?
銀時は避けた。
高杉は舌打ちした。
桂は真面目に「今の技、名は?」とか聞いた。
松陽先生はちょっと困った顔で笑った。
俺だけが固まっていた。
おかしい。
でも出た。
ふざけたら、出た。
この世界は銀魂だ。
ギャグが成立する。
ギャグなら、無茶が通る。
あの時は、違和感で済ませた。
怖かったから深く考えなかった。
でも今。
敵が来る。
味方が傷つく。
俺は死にかけている。
普通じゃ勝てない。
なら。
「……やるしかねぇか」
自分の声が聞こえた。
低かった。
冗談を言う前の声じゃなかった。
敵が迫る。
俺は肩から流れる血を見た。
足が震えている。
喉も震えている。
笑え。
ふざけろ。
この場で。
この地獄で。
やるのか。
やれるのか。
やるしか、ない。
俺は刀を握り直し、敵に向かって叫んだ。
「すみませェェェん!!責任者の方いらっしゃいますかァァァ!!」
敵が止まった。
味方も止まった。
銀時も「は?」みたいな顔をした。
よし。
止まった。
俺は続けた。
「こちらの戦場、初心者への配慮が一切ないんですけどォ!?入店一分で槍持った店員が刺しに来る店あります!?せめてお冷やとおしぼり出してから殺意出せやァ!!」
敵が怒鳴って突っ込んでくる。
俺は避けようとして、足元の石に躓いた。
転んだ。
普通なら終わり。
でも、敵の槍が俺の頭上を通り過ぎた。
転んだから避けられた。
──それだけじゃない。
さっきより、ほんの一瞬だけ。
体が軽かった。
遅れるはずの動きが、間に合っていた。
見えてから避けたんじゃない。
避ける前に、体が動いていた。
なんだ、今の。
考える暇はない。
俺は転がりながら泥を掴み、敵の顔に投げつける。
「サービス悪いんで口コミ星一つでェェェす!!」
敵が怯む。
その顎に刀の柄を叩き込んだ。
倒れた。
俺は息を荒げながら立ち上がる。
足が震えている。
でも、生きている。
銀時が叫ぶ。
「お前、何やってんだ!」
俺は反射で返した。
「初心者救済措置でっす!!」
「救済が必要なのはお前の頭だろ!」
「頭はもう手遅れでェす!」
銀時がツッコんだ。
その瞬間、空気が少し戻った。
ああ。
ツッコミがある。
まだギャグだ。
まだ死なない。
別の敵が斬りかかってくる。
俺は近くに落ちていた鍋の蓋を拾った。
なんで戦場に鍋の蓋があるんだ。
知らない。
でも銀魂だからある。
銀魂は必要な時に鍋の蓋くらい落ちている。
多分その辺の鍋も今頃「本体どこ行った」って泣いている。
「はい来ましたァ!!神アイテム!!家庭の知恵ェェ!!」
鍋の蓋を掲げる。
「火事でも戦でも、とりあえず蓋しとけばどうにかなるってばっちゃが言ってた!!」
鍋の蓋が弾いた。
おかしい。
鍋の蓋ってこんなに頑丈だったか?
いや、そもそも。
俺の腕が、さっきより速かった。
ほんの少しだけ。
ほんの一瞬だけ。
でも確実に、間に合っていた。
銀時が叫ぶ。
「それ家庭の知恵じゃねぇだろ!」
「うちのばっちゃは嘘つかない!“悩んだら寝ろ”“寝れなかったら横になれ”“横になれなかったら諦めろ”って言ってた!!」
「諦めてんじゃねェかァァ!!」
敵がまた動く。
俺は鍋の蓋を盾にして突っ込んだ。
「ばっちゃァァァ!!その理屈、今だけ採用させてもらうゥゥゥ!!」
誰も答えない。
当然だ。
そもそも俺に婆さんはいないし、ここは戦場だ。
でも。
世界は一瞬だけ、俺の馬鹿に付き合った。
刀を受ける。
鍋の蓋が弾く。
ありえない。
でも弾いた。
その一瞬で、俺は生き残った。
戦闘が終わった後、俺は地面に座り込んでいた。
肩が痛い。
手が震える。
膝も笑っている。
でも死んでいない。
それだけで、十分だった。
銀時が近づいてくる。
「お前、さっきの何だよ」
「何が」
「ババア理論で突っ込んでいく奴初めて見たわ」
「家庭教育の成果だ」
「どんな家庭だよ」
銀時はため息をついて黙った。
俺もそれ以上は言わなかった。
言えなかった。
血が出る。
痛い。
怖い。
ここは稽古場じゃない。
転んでも笑って済む場所じゃない。
一歩間違えたら終わる場所だ。
俺は鍋の蓋を見下ろした。
ただの蓋だ。
台所にある、ただの蓋。
それが、さっき。
刀を弾いた。
「……何なんだよ、これ」
小さく呟く。
分からない。
理屈も、理由も、全部分からない。
でも一つだけ分かることがある。
ふざけてる時だけ、少しだけ生き延びる。
俺はゆっくり息を吐いた。
「……最悪だな」
笑った。
笑ったつもりだった。
ちゃんと笑えていたかは、自分でも分からなかった。
俺は鍋の蓋を見下ろした。
傷だらけになっている。
さっき俺の命を守った鍋の蓋。
俺は真顔で思った。
これやらないと勝てないのか。
普通じゃ駄目だ。
真面目に戦ったら死ぬ。
……生きるためには、ふざけるしかない。
最悪の攻略法だった。
でも、確かな攻略法だった。
銀時が俺を見ている。
「……お前」
何か言いかける。
俺は先に鍋の蓋を掲げた。
「銀時、これ今日から俺の相棒にするわ!」
「返せよ。誰かの鍋のだろ」
「戦場で出会った運命の蓋だぞ」
「蓋に運命感じてんじゃねぇよ」
「俺は蓋と生きる」
「勝手にしろ」
銀時は呆れた顔をした。
まだ、それだけだった。
呆れている。
少しだけ怪しんでいる。
でも、まだ心配と呼ぶほどじゃない。
俺はその顔に少しだけ安心した。
まだ、誤魔化せている。
まだ、俺はただの馬鹿でいられる。
そう思った。
甘かった。
それから俺は、戦場で馬鹿をやるようになった。
毎回ネタは変えた。
同じことばかり言っていると敵に慣れられるし、味方にも「またあれか」みたいな空気を出される。
いや、戦場で「またあれか」って何だ。
こっちは命がけである。
漫才の持ちネタじゃない。
ただ、毎回新作を出すのも大変だった。
敵が槍なら「距離感バグってる、遠距離武器の自覚持て」
騎馬なら「牧場へ帰れ」
砲撃なら「近所迷惑、苦情入れるぞ」
雨なら「足元敵陣営」
敵が金ピカなら「情報量がうるさい」
とにかくその場で使えそうなものを拾って、叫んで、転んで、避けて、斬る。
最初は味方も怒った。
「ふざけるな!」
「空気読め!」
「戦場だぞ!」
その通りである。
俺もそう思う。
でも、空気を読んだところで矢は避けてくれない。
礼儀正しくしていても刀は止まらない。
戦場マナー講師がいたとしても、たぶん真っ先に死ぬ。
だから俺は馬鹿をやる。
ある日、敵に囲まれた。
数が多い。
銀時は離れている。
高杉も桂も見えない。
俺の近くには足をやられた仲間の中山くんが一人。
小道具はない。
鍋の蓋もない。
桶もない。
変な旗もない。
あるのは刀と俺と、湿った地面と、どう見ても詰んでる状況だけ。
品揃えが悪い。
コンビニだったら本部に怒られる。
俺は息を吸った。
「皆様に大事なお知らせがありまァす!」
敵が止まる。
「本日、俺の誕生日でェす!」
足元に転がってる中山くんが小さく言った。
「違うだろ……」
正解。
違う。
でも今日からそういうことになった。
「誕生日の人間を斬るんですか!? 文化とかないんですか!? ケーキまでは求めません! ろうそくもいりません! せめて殺意にリボンくらい巻いてくださいよォ!!」
敵の一人が困惑する。
別の敵が「構うな!」と怒鳴る。
俺はその隙に、足元の彼を後ろへ蹴り飛ばした。
ごめん。
助け方としては最悪だが、今はこれしかない。
敵の刃が俺の髪を掠める。
俺は地面に転がりながら叫んだ。
「ハッピーバースデー俺ェ!!」
その瞬間。
空気が、妙に軽くなった。
さっきまで張り詰めていた何かが、緩む。
戦場のはずなのに、一瞬だけ場違いな空気になる。
敵が、迷う。
その一瞬で、斬り込む影があった。
銀時の声が飛んできた。
「お前今日誕生日だっけ!?」
「俺は毎日生まれ変わる!つまり毎日が誕生日なんだよ!!」
「戸籍が泣くぞ!」
「戸籍なんかねぇよ!」
「もっと泣くわ!」
敵が倒れる。
助かった。
中山くんも助かった。
俺は地面に転がったまま、息を吐く。
怖い。
今のは怖かった。
でも、生きている。
中山くんが俺を見る。
「……助かった」
やめろ。
そういう顔で見るな。
俺は礼を言われるようなことをしていない。
死にたくなくて、咄嗟に誕生日を捏造しただけだ。
でも、彼は助かった。
その事実が、俺をさらに引き返せなくする。
俺は笑った。
「誕生日プレゼント、トラック三台分で頼むな」
そいつは笑っていいのか分からない顔をした。
俺も分からない。
だんだん、被り物を使うようになった。
最初はたまたまだった。
戦場の隅に、どこから流れてきたのか分からない看板が落ちていた。
『本日休業』
そう書いてあった。
俺はそれを拾い、紐を通して顔の前に吊るした。
視界は悪い。
動きにくい。
あと普通に邪魔。
でも、顔が隠れた。
それだけで、ずいぶん楽だった。
表情を作らなくていい。
笑えていなくても、見えない。
目が死んでいても、見えない。
怖くて歯を食いしばっていても、見えない。
しかも見た目がもうギャグなので、毎回必死に導入を考えなくていい。
俺はその時、素で思った。
──これ、コスパいいな。
いや、狂気にコスパを求めるなという話なんだが、実際いい。
被るだけで空気が変になる。
敵が引く。
味方も引く。
銀時はツッコむ。
三点セットである。
「お前、何してんの」
「見て分からんか」
「分かりたくねぇ」
「本日休業だ」
「戦場で休業してんじゃねぇよ」
高杉が遠くから言う。
「目障りだ」
「目障りってことは目に入ってる。つまり陽動成功」
「斬るぞ」
「敵を斬ってください」
桂は真面目に見ていた。
「なるほど。顔を隠すことで敵の認識を乱し、奇行によって注意を引く。理に適っている」
「ヅラ、理屈を与えんな。こいつが調子乗る」
銀時が嫌そうに言った。
俺は看板の下で、ふと思う。
そういえば桂、将来この辺を割と素でやってたな。
エリザベスとかいう、もはや被り物どころか着ぐるみの概念みたいな存在を横に置いていた男である。
あれを戦略とかじゃなく、わりと日常に置いていた。
すごいな桂。
俺は今、命がけでギャグの外装を使っている。
桂はたぶん素であの領域に行く。
才能の方向性が怖い。
「桂」
「何だ」
「お前、将来すごいことになるぞ」
「俺は常に国の未来を見ている」
「いや、そういうすごいじゃない」
「では何だ」
「白い」
「白い?」
「いや、いい。今はまだ早い」
銀時が半眼で見る。
「お前、何の話してんの」
「未来の話」
「また変なこと言い出しやがって」
「大丈夫。桂はたぶん大丈夫じゃないけど大丈夫」
「どっちだよ」
俺は看板を少しだけ上げ直した。
顔が隠れる。
呼吸が少し楽になる。
その日から、被り物は俺の武器になった。
桶。
紙袋。
巨大なひょうたんをくりぬいたやつ。
どこから流れてきたか分からない祭りの面。
割れた招き猫の置物。
一回、完全に視界ゼロの木箱を被って突撃した時は、銀時に本気で怒られた。
「お前それ見えてねぇだろ!」
「心眼で見てる!」
「崖に向かって走ってんぞ!」
「心眼、節穴だった!」
「外せ!!」
木箱は銀時に蹴り飛ばされた。
命が助かった。
悔しい。
でも助かった。
被り物をすると、敵は動揺した。
味方は微妙な顔をした。
銀時は毎回ツッコんだ。
俺はその間に生き残った。
だんだん、俺の扱いが変わった。
最初は「空気読め」だった。
次は「また始まった」になった。
その次は「でも強いからな」になった。
それが一番きつかった。
俺の馬鹿が、戦力になった。
誰も強く止められなくなった。
桂は作戦に組み込んだ。
「お前は先に出ろ。敵の目を引け」
「桂、俺を何だと思ってんの」
「陽動」
「もっと可愛く言って」
「戦場の珍妙な化物」
「悪化しやがった」
「しかし有効だ」
「有効って言われると何も言えない」
高杉は苛ついた。
「いつまでそんなこと続けるつもりだ」
「戦争が終わるまで」
「終わったらやめんのか」
「就職先による」
「ふざけんな」
「ふざけてるんだよ」
言ってから、少し後悔した。
高杉の目が細くなる。
今のは冗談としては少し本音すぎた。
俺はすぐに被っていた祭りの面を指さす。
「見ろ高杉。これ、笑ってるのに目が怖い。お前に似てる」
「殺すぞ」
「ほら似てる」
高杉が刀に手をかけた。
銀時が横から言う。
「やめとけ高杉。そいつ斬ると中からもっと面倒くせぇの出てくるぞ」
「俺はマトリョーシカか」
「お前は開けたくないパンドラの箱だ」
「銀時、ちょっと傷ついた」
「じゃあ閉じとけ」
会話は続く。
続いているうちは、大丈夫だと思った。
大丈夫じゃないことくらい、本当は分かっていた。
でも、大丈夫だと思わないとやっていけない。
俺は今日も被り物を探す。
顔を隠す。
笑っているように見せる。
見た目で馬鹿を稼ぐ。
これ、やっぱコスパがいい。
そんなことを考えながら、敵の中へ飛び込む。
怖い。
怖いけど、やるしかない。
やめたら死ぬ。
やめたら次は俺だ。
それだけは、誰にも言わなかった。
あれからしばらく経った。
俺は、まだ生きていた。
戦場で馬鹿をやるのは、思ったより体力を使う。
刀を振るう。
避ける。
走る。
転ぶ。
叫ぶ。
ツッコまれる。
また走る。
これだけでもう普通に忙しい。
こっちは命がけで戦っているのに、同時に即興でネタも出さなきゃいけない。
何だこの職場。業務内容に「敵兵の殺害」と「場の空気を無理やり破壊する」が並んでいる。
求人票に書いてあったら絶対応募しない。
しかも福利厚生が終わっている。
食事はまずい。
寝床は硬い。
有給はない。
ワンミスで死。
ブラックとかいうレベルじゃない。
もう黒を煮詰めて炭にして、それをさらに高杉の機嫌で炙ったみたいな職場だ。
「おい、珍兵器」
桂が呼んだ。
「やめろ。定着させるな」
「だが呼びやすいぞ」
「人間を呼びやすさで略すな。俺にも尊厳がある」
銀時が横から言う。
「どこにだよ」
「探せ。この世のどこかに置いてきた」
「ひとつなぎの大秘宝かよ」
「その辺の川底に眠ってる」
「ンな雑すぎるロジャー嫌だわ」
俺は焦げた笠を被り直した。
今日は笠で行く。
端が焦げて、布で補修して、なぜか上に小さい木片がハートマークのように刺さっている。
自分でやった。理由は分からない。
たぶん深夜テンションだった。
見た目としては、旅人と祟り神とJKの中間である。
俺だったら絶対に道を聞きたくない。
「今日はそれか」
銀時が嫌そうに見る。
「何だよ。似合うだろ」
「似合ってたまるか」
「俺のファッションに嫉妬するなって」
「嫉妬する要素が皆無だわ」
「見つからないなら捜索願出せ」
「誰にだよ」
「桂」
桂が真顔で頷く。
「捜索範囲はどこだ」
「乗るな。話が長くなる」
高杉が低く言った。
「いつまで遊んでやがんだ。敵が来るぞ」
遊んでるわけじゃない。
いや、見た目は完全に遊んでいるけど。
戦場に焦げ笠で出勤している時点で反論の余地はない。
もし俺が敵だったら「何だあいつ」ってなる。
味方でもなってる。
でも、遊びじゃない。
遊びじゃないから、遊びに見せる。
それしかない。
その日は、ずっと嫌な感じだった。
空が低い。
風が重い。
誰も大きな声を出さない。
こういう日はだいたい悪いことが起きる。
前世で読んだ漫画でもそうだった。
やけに静かな朝。
やけに綺麗な空。
やけに普通の会話。
だいたいその後に誰か死ぬ。
やめろ。
その演出やめろ。
フラグを立てるな。
俺たちは今、十分死にやすい環境にいる。
追加のフラグとかいらない。
トッピング無料でもいらない。
「銀時」
「あ?」
「今日の空、嫌な感じしない?」
銀時は空を見上げた。
「曇ってんな」
「感想が小学生すぎる」
「じゃあお前は何だよ」
「脚本家が人を殺す前の空」
「縁起でもねぇこと言うな」
「じゃあ湿った布団みたいな空」
「もっと嫌だわ」
銀時は俺を見た。
「……お前、大丈夫か」
「大丈夫」
「即答が怖ぇ」
「逆に何秒置いたら安心する?」
「めんどくせぇこと聞くなよ」
「三秒?五秒?それとも一晩寝かせる?」
「味噌かよ」
「大丈夫って言葉を発酵させるわ」
「腐りそうだな」
「もう腐ってるかも」
銀時の目が少しだけ細くなった。
しまった。
また余計なことを言った。
最近、こういうのが増えた。
軽く言ったつもりの言葉が、軽くならない。
銀時が拾う。
拾わなくていいところまで拾う。
こいつは普段、ゴミみたいな生活力のくせに、人の変なところだけ妙に見逃さない。
俺は笠を深く下げた。
「まあ安心しろよ。俺には今日の切り札がある」
「嫌な予感しかしねぇ」
「今日は敵に向かって『親戚の集まりで急に将来の話を振ってくる叔父さん』の真似をする」
「戦場に何持ち込んでんだ」
「精神攻撃」
「敵以外にも効くだろ」
「銀時、将来どうするんだ?」
「やめろ」
「甘味で食っていけると思ってるのか?」
「やめろっつってんだろ」
「結婚は?いい人いないのか?」
「殺すぞ」
「ほら効く」
「味方に試すんじゃねぇよ」
少し笑いが起きた。
本当に少し。
それだけで十分だった。
笑った奴らの顔を見る。
若い奴がいた。
昨日、俺の被り物に「それはないです」と言った奴だ。
飯の時、味噌汁の具が少ないと文句を言っていた奴でもある。
俺はそいつに向かって言った。
「お前も将来どうするんだ」
「いや、今聞くことじゃないですよね」
「今聞かないと聞けなくなるかもしれない」
言ってから、空気が止まった。
俺も止まった。
まずい。
本音が出た。
銀時がこちらを見る。
高杉も。
桂も。
若い奴は、困ったように笑った。
「じゃあ、生き残ってから考えます」
そう言った。
俺は笑った。
「模範解答すぎる。さてはお前、先生に好かれるタイプだな」
「あなたよりは」
「俺も先生に好かれてた」
「迷惑かけてただけだろ」
銀時が呟いた。
やり取りは戻った。
戻した。
けれど、さっきの言葉は空気に残ったままだった。
今聞かないと聞けなくなるかもしれない。
本当に、そうだった。
そして、今日も戦が始まった。
しかし、最初から崩れた。
敵の数が多い。
こっちの読みが外れた。
砲撃が来る。
足元が揺れる。
煙が上がる。
俺は焦げ笠を押さえながら叫んだ。
「管理会社ァァァ!! 隣の部屋が爆発してるんですけどォォォ!!」
銀時がすぐ返す。
「どこの集合住宅だここは!」
「壁薄すぎません!? 隣人の殺意がダイレクトに来る!」
「そんな物騒な隣人なんかいねぇよ!!」
敵が一瞬こっちを見る。
よし。
馬鹿に反応した。
その隙に味方が動く。
俺は煙の中へ突っ込んだ。
視界が悪い。
笠も邪魔。
でも顔が隠れる。
怖がってる顔を見られない。
それだけで足が動く。
敵の槍が来る。
「リーチ課金勢ィ!! 無課金に優しくしろォ!!」
転ぶ。
避ける。
泥が口に入る。
最悪。
「土の味レビューします! 星1です!」
「レビューしてる場合か!」
銀時の声が聞こえる。
銀時は生きている。
よし。
高杉の怒鳴り声も聞こえる。
桂の指示も聞こえる。
よし。
まだ大丈夫。
そう思った瞬間、横で誰かが倒れた。
さっきの若い奴だった。
味噌汁に文句を言っていた奴。
将来どうするって聞いたら、生き残ってから考えると言った奴。
腹から血が出ている。
多い。
多すぎる。
俺はそいつのところへ走った。
「おい」
声が出た。
でも、その先が出ない。
何を言えばいい。
大丈夫?
助かる?
嘘だろ。
そんな嘘、今言えるか。
そいつは俺を見た。
口が動く。
声は出ていない。
俺は膝をついた。
敵が来ている。
分かっている。
でも、足が止まった。
そいつの手が俺の袖を掴む。
あったかい。
まだ生きている。
「……生き残ってから」
俺は言った。
「考えるんだろ」
そいつは、少しだけ笑った。
本当に少し。
それから、手の力が抜けた。
目が開いたまま動かなくなった。
音が消えた。
いや、消えていない。
周りではまだ戦っている。
叫び声も砲撃も聞こえる。
でも、俺の中だけが止まった。
敵が近づいている。
動け。
動け。
こいつが掴んでいた袖が、まだ重い。
動け。
止まったら死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
笑え。
口を動かせ。
ギャグにしろ。
ギャグにしないと、ここで終わる。
俺はゆっくり立ち上がった。
笠が少しずれて、視界が狭くなる。
敵が来る。
俺は口を開いた。
「……お、」
声が震えていた。
駄目だ。
震えるな。
もっと軽く。
「お客様ァ、申し訳ございません。当店、将来のご相談は生存後のご案内となっておりましてェ」
周りの空気が凍った。
分かった。
今のは駄目だ。
最低だ。
俺が聞いている側なら、たぶん殴っている。
死体の横で言う言葉じゃない。
でも、止めたら死ぬ。
俺は続ける。
「予約のお客様が一名、キャンセルになりましたァ!!空いた席に座りたい奴から前へ出ろォ!!」
敵が怒鳴って突っ込んでくる。
俺は笑う。
笑う。
笑っているふりをする。
笠の下で顔は見えない。
助かった。
多分、笑えていない。
敵の刃を避ける。
足を滑らせる。
偶然みたいに槍を外す。
落ちていた折れた旗を拾う。
俺はそれを振り上げた。
「はい来ましたァァ!!年末の大掃除でェェェす!!」
敵が止まる。
いや、止まって見える。
空気が、ほんの少しだけズレた。
──ああ。
俺には、これしかない。
「いらねぇもん全部捨てていきましょうねェェ!!使ってない殺意とかァ!!溜め込んだ怨念とかァ!!あとその刀ダサすぎるんで粗大ゴミ扱いでェェェす!!」
敵がキレて突っ込んでくる。
俺は旗を振り回した。
「処分料いただきまァァァす!!」
敵が怯む。
俺は斬る。
斬る。
斬る。
頭がおかしい。
分かってる。
でも動ける。
ギャグにしている間だけ、俺は動ける。
終わった時、俺は血まみれだった。
自分の血か他人の血か分からない。
分からなくていい。
分かったら、たぶん吐く。
さっきの若い奴は、すでに運ばれていた。
名前を呼ぼうとして、やめた。
呼んでも返事はない。
返事がないことを確認するのが怖かった。
銀時が来た。
足音で分かった。
俺は笠を押さえた。
銀時はしばらく何も言わなかった。
それが一番嫌だった。
怒鳴ってくれ。
ツッコんでくれ。
殴ってくれ。
黙るな。
「……お前」
声が低い。
俺は振り返った。
「何?」
「今の、何だよ」
「何が?」
「お客様とか粗大ゴミがどうとか」
ああ。
聞こえていたのか。
聞こえてるよな。
銀時はいつも、聞いてほしくないところだけ聞いている。
俺は笑った。
「いや、ほら。戦場にもマナーは必要かなって」
「人が死んでんだぞ」
「知ってる」
言ってしまった。
銀時の目が揺れる。
俺はすぐに続けた。
「知ってるけど、だからって俺が急に真面目な顔しても困るだろ。誰だお前ってなるだろ。偽物疑惑出るだろ。影武者?ってなるだろ」
「ならねぇよ」
「なるかもしれない」
「ならねぇって言ってんだろ」
銀時が一歩近づく。
俺は笠を深く下げた。
顔を隠す。
銀時の手が伸びて、笠の縁を掴んだ。
「隠れんな」
心臓が跳ねた。
「やだ」
素で出た。
銀時の手が止まる。
しまった。
俺はすぐ笑った。
「いや、ほら。俺の素顔は有料コンテンツなんで」
「……」
「月額三百円から」
「安いな」
「初月無料」
「いらねぇよ」
よかった。
返ってきた。
でも銀時の声は、いつもより硬い。
銀時は笠を無理に取らなかった。
その代わり、俺を見て言った。
「お前、笑ってねぇだろ」
息が止まった。
「どう見ても笑ってるだろ」
「顔見えねぇ」
「じゃあ分からないだろ」
「分かるんだよ」
やめろ。
分かるな。
「声が違ぇ」
やめろ。
「間が変」
やめろ。
「笑う場所も、黙る場所も、全部ズレてんだよ」
俺は喉の奥が冷えるのを感じた。
ズレてる。
そうだろうな。
俺だって分かっている。
死体の横でボケた。
仲間が死んだ直後に、予約キャンセルとか言った。
壊れているようにしか見えない。
でも違う。
壊れたからじゃない。
壊れないためにやっている。
言えるか。
言えない。
言ったら、きっと銀時は止める。
止められたら、俺は死ぬ。
俺は笠の下で笑った。
「銀時、そこまで俺のこと見てんの?ちょっと怖いんですけどォ〜ストーカーですかァ?」
「……お前な」
「俺、銀時に追われるなら饅頭持って逃げる時だけがいい」
「……」
「それ以外はちょっと事務所通してもらって」
「ふざけんな」
銀時の声が低くなった。
「今はふざけんな」
俺は黙った。
黙ってしまった。
まずい。
黙ると、さっきの目が浮かぶ。
死んだ若い奴の目。
生き残ってから考えるって言った顔。
俺は慌てて口を開く。
「じゃあ、真面目に言うけど」
銀時がじっと俺を見る。
「今日の飯はカレーがいいな」
銀時は顔を歪めた。
怒ったような。
悲しそうな。
呆れたような。
全部混ざった顔。
「……勝手にしろ」
そう言って、銀時は背を向けた。
胸が少し痛んだ。
突き放された。
そう感じた。
でも、同時に安心した。
これでいい。
これ以上近づかれたら、俺は言ってしまう。
やめたら死ぬんだよ。
俺は生きたいだけなんだよ。
だから、これでいい。
銀時は数歩歩いて、止まった。
振り返らずに言う。
「死ぬなよ、馬鹿」
息が詰まった。
俺は軽い声を出す。
「死にませーん。まだ饅頭返してもらってないんで」
「テメェは盗る側だろうが」
銀時の返事は小さかった。
でも返ってきた。
俺は笠の下で、少しだけ笑った。
あいつは昔から変な奴だった。
それは間違いねぇ。
松下村塾にいた頃から、饅頭一つで大騒ぎして、松陽に変な質問をして、高杉を怒らせて、ヅラの話を余計ややこしくして。
俺も何度あいつを殴ったか分からない。でもだいたいあいつが悪い。
饅頭を盗む。
飯を奪う。
俺の布団に変な木の実を入れる。
反省しない。
あいつは馬鹿だった。
でも、ただの馬鹿だった。
ちゃんと笑っていた。
人の怒った顔を見て面白がって。
先生にたしなめられても懲りなくて。
俺と口喧嘩して、最後には大抵どっちかが殴られて終わる。
そういう奴だった。
戦が始まってからも、最初は同じだと思っていた。
あいつは相変わらず馬鹿を言った。
敵に向かって「責任者の方いらっしゃいますか」と叫んだ時は、本気で頭を打ったんじゃねぇかと思った。
けど、それで助かった。
敵が止まった。
味方が動けた。
あいつも死ななかった。
そこから、あいつの馬鹿は増えた。
槍を課金武器扱いする。
砲撃に苦情を入れる。
急に誕生日を捏造する。
被り物をする。
木箱を被って崖に向かって走る。
最後のは本当にやめろ。
心臓に悪い。
最初は、いつものあいつだと思っていた。
どこにいても馬鹿なことを言う奴。
戦場でも変わらない奴。
そう思おうとしていた。
でも、違う。
何かが違う。
あいつの笑い方が、少しずつ変わった。
昔は、馬鹿を言った後に自分でも少し笑っていた。
高杉が怒ると嬉しそうにしていた。
桂が真面目に受けると面倒くさそうにしていた。
俺がツッコむと、もっと調子に乗った。
今は違う。
言葉だけが先に出ている。
顔がついてきていない。
いや、最近は顔も隠している。
看板だの笠だの、わけの分からねぇもんを被って。
最初は敵の目を引くためだと思っていた。
確かにそうなんだろう。
だけど、あれはたぶん、それだけじゃない。
あいつは顔を隠している。
見られたくない顔をしている。
今日、若い奴が死んだ。
少し前まで、あいつと馬鹿なやり取りをしていた奴だ。
あいつはその横で、ボケた。
予約がどうとか。
将来の相談がどうとか。
ふざけんなと思った。
腹が立った。
何言ってんだこいつと思った。
けど、近くで声を聞いた時、分かった。
あいつは笑ってなかった。
声が震えていた。
それでも喋っていた。
止まったら死ぬみたいに。
いや、本当にそう思っているのかもしれねぇ。
何かに追われているみたいだった。
敵じゃない。
戦場でもない。
もっと別のもの。
あいつは、戦っている時だけ生きている顔をする。
普段はどこか遠い。
飯を食っていても。
馬鹿を言っていても。
俺を煽っていても。
目が、どこか違う場所を見ている。
俺たちと同じ戦場に立っているはずなのに、あいつだけ別の何かを見ている。
「お前、笑ってねぇだろ」
そう言った時、あいつは一瞬、固まった。
ほんの一瞬。
でも見えた。
笠で顔は隠れていた。
それでも分かった。
図星だ。
その後すぐ、いつもの調子で誤魔化した。
ストーカーだの、有料コンテンツだの、くだらねぇことを言った。
昔なら笑って殴って終わった。
でも、今は違う。
あいつの馬鹿が、痛い。
見ているこっちが痛い。
死体の横でボケて、血まみれで笑って、敵の前に飛び出して。
あいつは強い。
それは分かっている。
あいつの馬鹿は戦力になる。
それも分かっている。
分かっているから、止められない。
止めれば、誰かが死ぬかもしれない。
あいつ自身が死ぬかもしれない。
でも、止めなきゃいけねぇ気もする。
このままだと、あいつがどこかへ行く。
俺たちの知らない場所へ。
戻れないところへ。
「勝手にしろ」
そう言った。
本当は勝手になんかしてほしくない。
でも、他に言えなかった。
やめろと言えば、あいつはまた笑う。
平気な顔をする。
冗談で返す。
それが見ていられなかった。
背を向けてから、足を止めた。
言いたいことは山ほどあった。
何でそんな顔してんだ。
何を隠してんだ。
何がそんなに怖ぇんだ。
こっちを見ろ。
でも、出てきたのは結局それだけだった。
「死ぬなよ」
あいつはいつもの調子で返した。
饅頭がどうとか。
くだらねぇ。
本当にくだらねぇ。
でも、返事があったことに、少しだけ安心した。
俺は歩きながら思った。
あいつはおかしい。
前からおかしかったけど、そういう意味じゃない。
何かが壊れかけている。
いや、もう壊れているのかもしれねぇ。
それでも、あいつは笑っているふりをする。
戦場で。
死体の横で。
俺たちの前で。
それが、どうしようもなく腹立たしかった。
そして。
どうしようもなく、怖かった。























