「よお、待ちわびたぜ」
モンド最大の港町であるドーンマンポート。その中央に聳え立つ西風騎士団駐屯地前にて、不穏な笑みを浮かべながら近づいて来る男を前に、私ことマキナ・コルネリウスは思わず他人のふりをしてその場を立ち去ってしまいたい衝動に駆られていた。
「……時間通りだと思うのだけれど」
そう言いながら、眼前に立つ騎士団の装いに身を包んでいる男──ローエンの、表面上は大変麗しい顔面をじとっと睨めあげる。
成長の過渡期でありながら、既に将来を確信できる整った中性的な顔立ち。
小柄で華奢な体つき(他の騎士団員に比べたら)だけれども、実用的な筋肉はしっかりとついていて、ひ弱な印象は全くない。前述の顔面力と相まって、どこか高貴な印象すら与え得るくらいだ。
腹が立つ位に長いまつ毛に縁取られた大きな瞳には何処か仄暗い影が落ちていて、それが何ともアンバランスで、怪しげな引力を放っている。
毒の滲む危ない男に惹かれる危機感の薄い女というものは昔から一定数存在していて、そんな人にローエンという男は致命的にぶっ刺さるのだろう。
私の通っている学校にも彼のファンがいるようで、そんなお嬢さん方から貰った『お手紙』の枚数は、既に両の手では数えきれなくなっている。
嗚呼、何と奇特な人たちなのだろう。欲しいのならくれてやりたいくらいである。
そんな思いを込めて見上げたローエンは、私の恨みがましい視線を鼻で笑うのだ。
「はっ、別に遅刻してるとは言ってねえよ。前回から間が空いたからな。待ちわびたのは嘘じゃねえ」
その上品な顔立ちに反してローエンはかなり口が悪い。
その酷さときたら相当なもので、あのモンドの大英雄北風騎士のファルカ相手ですら謙る様子は全くない。
上司の名前を呼び捨てにし、平然とタメ口を利いていたものだから、横で見ているこちらの方がハラハラしてしまったくらいだ。
上下関係が厳しいとされる騎士団でそれが許されているということは、彼が特別扱いに足る存在の裏返しでもある。
事実、ローエンは若くして部隊の要職を任される身で、神の視線にすら叶った男だ。多少のおいたは許容されているのだろう。
マキナとしても、彼の口の悪さにはすっかり慣れたもので、それをいちいち指摘するような間柄ではない。
「……遠征に行っていたそうね。……モンドの平和を守る為の任務をこなしている事“だけは”、感謝していますとも」
ひとまずは定型の労いを口にして、己の義務を果たしておく。
ローエンはつい最近まで駐屯地を不在にしていた。
それは騎士団によって定期的に行われている魔物討伐遠征へ彼が参加していたからであり、その一報はマキナの耳にも入ってた。
おかげで彼の不在の最中は非常に心安らかな日々を送ることができていたのだが、結局、仮初の平和は一月程度しか持たなかった。
遠征部隊帰還の知らせは早々に家に届けられ、その結果、貴重な休日を潰して騎士団駐屯地まで足を運ぶ羽目になったのだ。
(本当は、全く行きたく無かったのだけれど。……はあ……)
今日の本来の予定は、フォンテーヌから取り寄せた推理小説を読むつもりだった。いくつもの賞を受賞した話題作で、届くのをずっと楽しみにしていた本だった。
鈍器の如く分厚いその小説を、紅茶を片手にゆったりと読み進めよう。一歩も外に出ず、活字の世界に身を浸すのだ──
けれども、そんな私の優雅な休日の予定は、昨日我が家に届けられたローエンからの帰還の一報によって、あえなく水泡と帰した。
行くのを渋る私に反し、ローエンに懐柔されている父は「大変な任務をこなした騎士を労わないのは、我がコルネリウス家の名折れだ」などとのたまい、蒙昧にも娘を差し出してしまったのだ。
「相変わらず心がこもってねえなあ。仮にも恋人に向かってその態度はいただけねえんじゃねえのか?」
ずしりと肩が重たくなる。見れば、ローエンの長い腕がぐるりと私の肩を抱き込む様に乗せられている。
今にも触れ合ってしまいそうな至近距離に彼の顔面。
肩に乗っていた腕は、肘からグリンと方向を転換し、折り返してきた手が私の顎を掴み、手袋に包まれた指が輪郭をするすると撫で摩る。
仲睦まじい恋人同士のじゃれあいの距離に、遠い何処かで「きゃあ!」と悲鳴が聞こえた。その内訳が歓喜なのか絶望なのかは、私の知る由では無い。
本来なら、ここで頬でも赤らめて恥じらって見せたり、喜ぶべきところなのだろう。ローエンの言う『恋人』という間柄が本当のものであるならば。
けれども、体を、顔を寄せられて、甘く輪郭をくすぐられても、マキナの胸がときめくことはない。
──いや、鼓動の高鳴りは感じている。心臓がバクバクと過剰に脈打ち、緊張で体はぎゅっと固まっている。但し、それは、恋愛における興奮ではなく──
(怖い怖い怖い怖い怖い怖い──!)
恐怖による防衛反応だった。
何せ、ローエンはその端正な顔の下に、とんでもないサイコパスな本性を隠し持っているのだ。
本人は隠しているつもりはないのだろう。事実、日常的に彼に接する機会の多い騎士団の方々はそれを知っているようで、ローエンに絡まれている時の私を見る目は、明らかに憐憫を含んだものを向けられる。
けれども、騎士団の任務や訓練は基本的に郊外や専用の演習場で行われるが故、ローエンのシリアルキラーっぷりを一般市民が知る機会などほとんどない。
唯一、体験しようとするならば、自ら犯罪者となり彼に捕縛されるのが一番だ。……おすすめはしない。
マキナは騎士団員でもなければまして犯罪者などでもない。ただ、ローエンの殺戮の現場を間近で見てしまった哀れな被害者だった。
倒れ伏し、命乞いをする誘拐犯の髪を掴んで無理やり引き上げ、甘い笑顔を一瞬で狂気に満ちた表情に変えると、手に持ったナイフで喉元を掻き切った。その瞬間を目と鼻の先で目撃したのだ。
凄惨な殺人現場に居合わせて以来、彼に対して植え付けられた強烈な恐怖心は、未だ解消されていない。
今だって、顔を掴んでいる手が気まぐれを起こして、喉元にナイフを突き立ててきやしないかと、心の底から怯え震えている。
ぱっと見は身体を寄せ合う仲睦まじい恋人同士に見えるかもしれないが、その実情は恋人同士の甘い語らいからは程遠いのが現実だ。
(何が騎士よ……っ、こんなのが恋人だなんて冗談じゃない!)
本来ならローエンはマキナにとって絶対に関わり合いになりたくない人種だった。
だと言うのにも関わらず、こんな危険な男と恋人という間柄にになってしまったのは完全なる己のミス。痛恨の極みでしかない。
「貴方が恋人だなんて、認めた覚えはないわ……っ」
震えそうになる足に力を込め、馴れ馴れしく顔を掴む手を振り払う。緊張と恐怖から心臓の動きは更に激しさを増したけれど、ここで屈する訳にはいかないと、必死になって己を鼓舞する。
彼の手から逃れようと、もたれかかって来る身体を押し返し、必死になって距離を取ろうとするも、肩を抱き込む腕はビクともせず、彼との力の差をまざまざと思い知らされる。
「あ? なんだ、反抗的だな。お前がどう言おうと、俺たちの仲はコルネリウス家当主公認のものだ。今更ジタバタするんじゃねえよ」
「最っ悪……っ」
そう、驚くことなかれ。なんと最悪なことに、ローエンはマキナの父親を懐柔し、『親公認のボーイフレンド』の座を射止めてしまっているのだ。
元々モンド内で西風騎士団の名声は高く、例え末端の騎士でも所属しているというだけで民衆からは尊敬され、羨望の眼差しを送られる。
特に、マキナの父親のような『かつては騎士に憧れたが、己の適性不足を理由に諦めた者』にとって、厳しい試験と訓練を乗り越えた騎士団員は、憧れのスターの様な存在と言っても過言ではない。
気づいた頃には外堀は完全に埋め立てられた後で、どれだけ父にローエンの危険性を解いてもは聞く耳を持たず、最早説得は不可能に近い。
(絶対に、絶対に別れてやる……っ、こんな男となんて命がいくつあっても足りやしないわ……っ)
マキナの願いはただ一つ。ローエンとの円満な関係解消。ただそれだけだ。
恨まれたくはないので、できればローエン側から振ってもらいたい。なので、マキナは極力彼に興味を失ったもらえるような女を演じていた。
可愛げの欠片もない、反抗的で、塩対応の女を──
「まあいい。ほら、こっちに来いよ」
「っ……」
──なのだけれど、今の所、全くと言っていい程効果は現れていない。残念なことに。
どれだけマキナが拒否を示そうとローエンがそれを意に介する様子は皆無。
定期的に会う約束を取り付けられては、彼の意のままに振り回されて、別れ話に発展する兆しは全く無い。
今だって、腰を抱く力は振り解けない程に強く、逃走を許す気は無さそうだ。
その執着が一体何処から湧いて来るのか、本当に謎である。
──そうして、半ば無理矢理連れてこられたのは、騎士団駐屯地の砦だった。日中なので、人は出払っているのか、場内はとても静かだ。
慣れた足取りで進むローエンによって、とある部屋に連れ込まれる。一瞬だけ見えたプレートには『仮眠室』の文字。
部屋の中は簡素な作りで、部屋の規格ギリギリサイズのベッドが無理やり収められているだけだった。
「あの、ローエン。まさかとは思うけど……、きゃあっ⁉︎」
何だか嫌な予感がして、後ずさろうとした身体は手荒に投げ飛ばされ、ベッドの上へと倒れ込む。
ポヨンと以外と質のいいマットレスに跳ねた体を、上から伸し掛かった男の体が押さえ付けられてしまう。
首元に伸びた手が、ボタンをプチプチと手際良く外していき、きっちりと閉められていた襟元はあっという間に乱され、胸元が露出する。
「ローエンっ、ちょっと……っ、 冗談はやめて‼︎」
「冗談? な訳ねえだろ。こっちは遠征行ってた一月分溜まってんだよ。無駄な抵抗はやめて、さっさとヤらせろ」
最低な言葉を吐き捨てて、ローエンの手はスカートの裾を捲り上げ、露出した足の間に己の腰を押し込み始めていた。何て身勝手な男だろう!
「ここ、騎士団の仮眠室でしょう⁉︎ こんなことに使って良いわけないじゃない!」
「はっ、この第二仮眠室はそういう用途の部屋なんだよ。騎士つっても溜まるもんは溜まるからな。ファルカだって、このヤリ部屋の存在は黙認してる。お綺麗事だけじゃあ現実は回んねえ、一つ賢く慣れてよかったな」
「そんな……っ」
高潔で知られる騎士団の中にそんな施設がある事を知った衝撃は大きく、言葉が喉に詰まってしまう。
「──っ、こんなこと、本当は結婚前にしてはいけないのよ……っ」
「あ? いつの時代の話だ? それ。西風女学院のお嬢様はお硬いことで。──けど、お前はもうとっくに処女喪失してんだから、今更喪うものなんてないだろうが」
「ッ、誰のせいだと……っ」
そう、実のところマキナの純潔はローエンとの交際が(一方的に)認められたその日に、夜這いを仕掛けてきた彼の手によって無惨にも散らされている。
以来、一度も百度も同じだという、何とも理不尽な彼の言によって、事あるごとに体をいいように弄ばれているのだ。
「ああ、俺のせいだなあ。俺が奪って、俺が仕込んだんだ。よくわかってんじゃねぇか」
剥ぎ取ったワンピースを床に放り投げ、下着一枚にされた体に彼の手が這い回る。いつの間にかローエンの手袋は外され、槍を握る硬い男の手が皮膚をなぞり、その感触に肩がびくりと跳ねた。
「それとも、お父様に言いつけるか? 夜な夜な家を抜け出して、男と会って、遊び歩いてました。ってな」
「──っ、それは……ッ」
耳元に流し込まれた言葉は、決してバレてはいけない私の過去の過ちだ。
私は彼に弱みを握られている。であるが故、彼からの誘いを断ることはできないし、自分から彼を振ることもできない。
「わかったら、いい子にしてな。そうすりゃ気持ちよくさせてやるんだからよ」
パタリと、抵抗の意思を失った私に満足したのか、ローエンは自らの服を乱して脱ぎ捨てると、私を貪り始めた。
日中、まだ太陽の位置は高くとも、石造りで窓の小さな部屋は薄暗い。
小さな閉ざされた空間で二つの体はもつれ合い、一つの塊となって蠢きあっていた。
「……っ、なんで、こんなことに……、ぅ……っ」
ローエンとの情交はいつも激しく、嵐の只中にある小舟のように乱され、己の身体の支配権を簡単に奪われてしまう。
そんな中、マキナはローエンと初めて会った時の事を思い出していた。
あれは、そう。ほんの一年程前。母の死を切っ掛けに、ドーンマンポートにやってきた頃の出来事だ──
一
マキナ・コルネリウスが、モンドの名門コルネリウス家に娘として迎え入れられるまでに約十五年の月日を要したのは、両親の身分差に端を発する嫁姑問題が原因だった。
昔、とは言っても昔話と名乗るにはまだ浅い、大体二十年程前の話だ。
ドーンマンポートに拠点を構える歴史ある裕福な家のお坊っちゃまと、極々平凡な家庭に生まれた娘が恋に落ち、自由の風に吹かれるがまま周囲の反対を押し切って結婚を果たした。
けれども結婚とはゴールではなく、新たな生活の始まりでしかない。
玉の輿に乗った女に待ち受けていたのは、恐ろしく己を疎む義母の存在だった。
いびりの苛烈さは尋常ではなく、新参者である嫁が自らの居場所を勝ち取るには、厳しい戦いを生き残る必要があったのだ。
ここに、第何次かは定かではない嫁姑戦争が開幕し、、戦禍は十年にも渡り屋敷内の勢力を分断、結果的に紛争は姑の勝利で終戦を迎えた。
哀れにも嫁は腹を痛めて産んだ息子をも取り上げられ、身ひとつで追い出されてしまった。──筈だった。
その時、何の因果か、コルネリウス家を追い出された女の胎には新しい命が宿っていた。
女は婚家に妊娠を告げなかった。また、子供を取り上げられてしまうと考えたのかもしれない。
女は一人で娘を産み落とし、そうして育て上げることにした。
そうしてそこから十五年、母子は貧しくも幸せな生活を過ごしていたのだが、ある日女は病に倒れ、余命半年と医師に宣告を受けてしまう。
病床の女の悩みは一つ。一人遺してしまう娘のことだけだった。
蓄えも然程なく、後ろ盾もない若い娘を誑かそうとする悪い大人は山程いる。それだけは看過しがたいことだった。
そうして悩んだ末に女は筆をとり、十数年ぶりに元夫に宛てた手紙を書いた。
不治の病を得たこと。もう余命もいくばくもないこと。実は娘がいた事を──
手紙を受け取った元夫はそれはもう驚いた。飛び上がらんばかりに驚いて、慌てて妻を探しに飛び出した。
その頃には姑も夭折していて、家督は彼の支配下にあった。
そうしてドーンマンポートから遠く離れた小さな港町の片隅に暮らす、母子の家を探し当て、たどり着いたその時。愛した妻はとうに帰らぬ人になっていたのだった──
◇
マキナが実の父と呼ばれるものに初めて出会ったのは、母が死んだ翌週。葬儀もとっくに済んだ後のことだった。
物心ついた時には既に父は無く、それを別段不幸とは思わずに育ってきたマキナにとって、父親の存在は完全に意識の外にあるものだった。
母子家庭で他に親族もいないので、十五で喪主として立ち、様々な手続きに忙殺され、その時のマキナは完全に疲れ切っていた。
疲労に鈍った思考は働かず、突如戸口に立った、父を名乗る不審者を不用心にも家にあげてしまったのだが、それが結果としていい方向に向かったのは、運がよかったとしか言いようがない。
こういう時に現れるのは、大抵が詐欺師だと相場は決まっているものなのだから。
平時の半分も回っていない頭で、どうして愛し合う二人が別れるに至ったのかの長い話を、一時間も感傷たっぷりに聞かされる羽目になったのには閉口するが、それでも父の存在は有難いものではあった。
半年に渡る闘病を隣で支え、その果てに一人の人生の始末をつけるという行為はとてつもない気力と体力、そして金を消費するものだった。
母を風神の元へと送り出し終えた頃には、すっかりと草臥れてしまい、心身共に財布までもがボロボロだった。
これから先どうなるのかという不安を抱えて、けれど疲労で何もしたくない。
そんな所に、現れたのが父(仮)だった。あまりにも都合とタイミングが良すぎたのだ。おまけに意地悪婆はいないと来た。このビックウェーブには乗るしかない。
それに、母からの手紙を片手に滂沱の涙を流し墓にすがる男の姿は、少なくとも演技ではないと、己の勘が告げていた。
「君が許してくれるのなら、どうか僕に父を名乗らせてほしい」
ありとあらゆる汁で顔を汚した男の提案を受け入れることが吉と出るか凶と出るか。
十五ににて人生最大の岐路に立ったマキナは、そのまま自分の未来を初対面の男に全額ベットすると決めた。
──そうして、マキナは姓をコルネリウスに改め、隙間風吹き荒ぶ借家暮らしから、歴史薫る邸宅のお嬢様へとジャンプアップを果たした。
彼女は賭けに勝ったのだ。
◇
居住をドーンマンポートに移してからは、今までとは全く違う生活を送るようになった。
父も兄も、明らかに苦労の跡が見える、疲れ切ったマキナを優しく受け入れ、あれこれと気を回してくれた。
突如現れた遺産の分割相手である妹に、意地悪の一つや二つしてくるだろうと身構えていた兄でさえとても親切で、正直、拍子抜けしてしまったくらいである。
どうやら、苛烈な祖母の血はどちらにも遺伝しなかったと見える。コルネリウス家の男どもは、どちらも気が抜けてしまうほどのお人好しだった。
一方のマキナときたら現金なもので、裕福で不自由のない暮らしにあっという間に恭順し、コルネリウス家での生活に染まっていった。
母との暮らしが不幸せだったとは言わないが、それでも矢張り色々と我慢をしていたことも多かった。
流行りの服を着て、ピカピカの靴を履いていた同級生を羨ましく思ったことがないと言えば嘘になる。
女子というものはそういうものに敏感で、『マキナちゃんっていっつも同じ服着てるね』なんて言われようものなら、屈辱で泣きたくなってしまうのだ。
だもんだから、平民のプライドなんてものは光の早さで投げ捨て、裕福なお嬢様の擬態をすることに、何の躊躇いもなかった。
猫を被り、憧れていた有名お嬢様学校に通い、この世の春を謳歌していた。
──なのだが、どうしても一つ。一つだけ、我慢ならないことがあった。
こればっかりは金銭で解決できる事もなく、かと言って父にも兄にも相談できない。
その満たされない欲求を何とか解消しようと、ある晩、マキナはこっそり屋敷を抜け出した。
その判断こそが全ての過ちの始まりであり、ローエンと出会ってしまった原因なのだった──
◇
若き騎士であるローエンはその晩、ドーンマンポートの港で密売が行われているとの噂を聞きつけ、こっそりと市場を監視していた。
交易の活発なところには人の欲が集まりやすく、必然的に犯罪行為が横行する。
禁止薬物、武器、人身。あらゆるものが取締の対象であり、その販売手口も複雑で巧妙化している。
「怪しい人間」を見抜く方法は人それぞれで、丁寧な裏取を得意をする者もいれば、直感に頼る者もいる。
ローエンは後者の人間だった。
市場を一望できる高台に陣取り、不振人物はいないかと目を凝らす。あからさまに怪しい人間など、そうそういる筈もないので、根気が必要な仕事なのだが、その日は少し毛色が違っていた。
「あ? なんだ、あいつ……」
真っ黒な外套を羽織る小さな人影。──背丈や歩き方から、おそらくは若い女だろう。
素人目に見ても怪しい奴。それが落ち着きなくキョロキョロと周りを見渡しながら、夜の港をあっちにフラフラこっちにフラフラと歩いているのだ。
「客引きの売春婦か? にしちゃあ落ち着きがないな……ん?」
そうしていると、女は露天の男に声を掛け、何やら話し込んでいる様子。取引が成立したようで、金を支払うと、怪しい紙袋を受け取り、それを外套の下にさっと隠して足早にその場を立ち去ったのだ。
密売──薬物か、それとも武器か。内容はわからないが、これは詰めた方がいいだろうと判断し、ローエンは女の足取りを追った。
女は人気のない路地裏で立ち止まり、周りに人がいないのを確認すると裾の下から包みを取り出し、封を開けようとしている。
「──何をしている」
「きゃあっ⁉︎」
素早く後ろに回り込み、その細腕を掴んで捻り上げれば、ぼとりと包みは石畳の上に落ちた。
「な、なにっ⁉︎ 何なのっ⁉︎」
「痛くされたくなきゃ、大人しくしてな。お前には密売関与の疑いがかかってる」
混乱に喚く女を力で押さえつけ、包みを持ち上げる。
(軽いな。武器の重さじゃねえ。となると薬物の方か……? にしゃ、やけにデカい……。何だ?)
思いの他軽かったソレに眉を潜めながら、ゴソゴソと中身を漁る。
「み、密売っ⁉︎ なんの話ですか? 私はただ──」
「ごちゃごちゃ騒ぐな。疚しいことがないなら静かにしてろ。そうやって騒ぐってことは、やっぱり──あ?」
手に当った何かを掴み、袋から取り出した『それ』は、とても見覚えのあるシルエットをしている。
くにゃりと柔らかく、ほんのりと油の香ばしい香りが漂っている『それ』の正体は──
「フライド……チキン?」
「っ、だから! さっきから何なのよ⁉︎」
丸々と太った骨付きの鶏ももを油で揚げた、立派なフライドチキンだったのだ──
◇
「じゃあ、本当にお前はフライドチキンを買っていただけなんだな?」
「最初からそう言ってるじゃない。勝手に勘違いされていい迷惑だわ!」
場所は変わり、港を見下ろす高台のベンチにて一応ローエンの取り調べは続けられていた。
不審者と思っていた人物は名家のお嬢様。闇取引の商品はフライドチキン。
報告書に書いたら間違いなく大目玉をくらいそうな内容だ。
夜遊びにしたって、もう少しマシなものはいくらだってあるだろうに、何だってこのお嬢様は夜市で揚げ物なんぞを買っているのだろう。
「挙動不信な動きをしていたお前にも原因はあるだろうが。何だって、こんな夜中にこそこそ夜食を買いに出歩いてんだよ」
金ならあるんだから、いくらだって好きにやれるだろうが。そう尋ねれば、女はむすっと何か言いたげに押し黙る。死ぬほど不満そうな顔つきだ。
「……よ」
「あ?」
もごもごと、消え入りそうな声で何かを呟いている。何だ、もっと腹から声出せと、言葉を促してみれば、キッと吊り上がった目がこちらを睨みつけ──
「フォンテーヌの元三つ星シェフにどんな顔して『フライドチキンを揚げろ』って言えばいいのよ⁉︎」
何ともトンチキな言葉が夜の浜辺に響いたのだった。
「…………はあ?」
「確かに、うちには唸るほど金があるわよ。一流の料理人雇ってますとも! けどね、何事にも領域ってもんがあるの!」
そうして女は訥々と語り始めた。
己の数奇な出自。いきなり変わった住環境。そうしてどうしても我慢ならないもの。それが──
「もう、味覚だけは矯正不可能なの! 確かにジョンの料理は素晴らしいわ! けど! 私の舌はムニエルだのカルパッチョだのパイ包みだの、上品な味付けだけじゃあ満足できないの! そう、人は誰しも、体に悪いジャンクフードを欲するもの!一口食べれば口内ギトギト、脳汁ビショビショ。塩と油と糖で出来た、体に悪い食べ物が食べたくて仕方がなかったの!」
女の目はギラギラとガンぎまっていた。ともすれば薬物中毒者に見えなくもないが、彼女がキメているのはフライドチキンなのでしょっぴくことは出来無い。
「コルネリウス家に迎えられて半年、すっと我慢していたのだけれど、遂にそれも限界で……。」
「それでジャンクフード欲しさに家を抜け出した、と。……馬鹿だろお前」
「うるさい。誤認逮捕しようとした無能騎士よりかはマシよ」
ぶー垂れた顔のまま、女は手に握ったままのチキンに齧り付く。
仮にも己を捕縛しようとした男の前でいい度胸である。
女がチキンに夢中になっている間、ローエンは横目でこの変な令嬢の姿を観察することにした。
羽織った黒い外套の下には仕立てのいいワンピースを着ていて、確かにこの女は富裕層の出なのだろう。
爪は磨かれ、髪にも艶はあるが、指の節は少し太く、揚げたてのフライドチキンを掴めた事から皮膚も厚そうだ。
上品そうな顔をしながら、大口を開けてチキンに噛みつく。その度に弾力のありそうな薄紅の唇から、白い歯と赤い舌がちろちろと見え隠れする様に、何故だか視線が吸い寄せられせて離せない。
(何だコイツ……、変な女だな……)
気が付けばローエンはまじまじと女を眺めていた。ほんの些細な動きを目で追って、外套から覗く白い首筋や手首の細さが気になって仕方がない。
あの細さなら、簡単に掴めてしまいそうだ──
「ん」
「……おい、何のつもりだ?」
けれど、そんなローエンの無遠慮な視線は、突如差し込まれた香ばしい揚げ物の塊によって遮られてしまう。
彼女が購入したものの片割れだろう。熱々の骨付きフライドチキンが、文字通り目と鼻の先に突き出されている。
「さっきから視線がうるさいのよ。欲しいならそう言って」
どうやら女はローエンの視線を「おやつが欲しくて見ていた」と解釈したらしい。
「……はははっ! ──そらどーも」
言われてみれば、確かに腹は減っている。
日課の魔物狩りをして、そのまま夜警の任務についていた。
食事は合間に簡単なものを摘んでいたが、こちとら育ち盛りの男子。とっくに消化されてしまった様で、こうなると鼻先の揚げ物がとても美味しそうに見えて来てしまう。
フライドチキンを受け取り、女と同じ様に齧り付く。
パリパリと音を立てて崩れる鶏皮と溢れ出た肉汁が口内を満たす。しっとりと柔らかな鶏肉は噛み締める事に肉の味が滲み出て来て、空腹の腹には確かに染みる味だった。
「美味いな、これ」
「食べたからには貴方も同罪ね。──誰にも言うんじゃないわよ」
「こんなしょうもないこと、誰に言えってんだ? 『夜中に女とフライドチキンを食べました』なんて報告書、上げたところで貰えんのは説教だけだろ『仕事中に女と遊ぶな』ってな」
告げ口を恐れている人間の口止め料にしては油臭い気もするが、ローエンにこの件を大事にする気はハナからなかった。
何せ事件性は何もないのだ。その為に七面倒くさい報告書を書くなんて馬鹿馬鹿し過ぎる。
(……それに、そんな事したら、この女と会える機会も無くなるだろうしな)
普段は深窓のお嬢様をやっている彼女と、闘争を求めて駆けずり回っている己が知り合う機会など、そう簡単には無いのが普通だ。──なら、その貴重な機会をみすみす潰す様な真似はしない。
「次は鶏ときのこの串焼きにしろ」
「……何勝手に決めてるのよ」
「あんた、どうせ止めらんねえだろ? コレ。護衛と口止め料兼ねて串焼き一本で済むんだ。安いもんだろ」
既に食べ尽くされ、骨になった元フライドチキンををひらひらと振ってそう返せば、女は不満そうに口を尖らせながらも、ぐうと押し黙る。
何せ、今後もこの秘密の夜食を続けようと思うなら、この契約は悪く無い話だからだ。
なんだかんだ夜の港町は治安が悪いし、下手に真面目な騎士に捕まったら最後、補導されあっという間に実家に連絡が行くだろう。それだけは避けたい筈だ。
「……いいでしょう」
暫し押し黙っていた女は、結局ローエンの提案に乗ることにした様だ。伏せられていた視線が真っ直ぐにこちらに向けられる。ああ、うん。悪くない。
「よし、契約成立だな。俺はローエンだ。西風騎士団第五小隊所属のローエン。よろしくな」
「マキナよ。コルネリウス家のマキナ。よろしくね、ローエン」
そうして二人の秘密の契約は確かになった。
以降、夜中に家を抜け出すマキナと、それに面白がって着いていくローエンの組み合わせは、ドーンマンポートの週末の夜に度々現れる様になったのだった。
ローエン、この時齢十五にして、産ませて初めての「おもしれー女」との邂逅だった──

























