テイワットの空に月が淡く浮かび、窓硝子の向こうで揺れる木々の影が、○○の部屋の床にゆっくりと滲んでいる。昼間の賑やかさはとうに遠のき、部屋の中に残っているのは、薄く落とした灯りと、寝台に沈む布のやわらかさと、二人分の呼吸だけだった。
○○の家にローエンが泊まることは、もう珍しいことではない。
最初の頃は、彼もまだ少しだけ遠慮をしていた。
泊まっていいかと聞く声にも、寝台に入る仕草にも、どこか客人らしい距離があった。
けれど、恋人になってからというもの、その遠慮は少しずつ、そして確実に消えていった。
今ではまるで、ここが自分の帰る場所のひとつだと言わんばかりに、ローエンは○○の家でくつろぐ。勝手知ったる様子で外套を椅子の背にかけ、寝る前には当たり前のように○○の隣へ潜り込む。
それが嫌ではないから、○○も何も言えなかった。
むしろ、彼が何も言わずにそこにいることが、いつの間にか当たり前になっていた。
朝起きたとき、寝台の片側に彼の温度が残っていること。夜、灯りを落としたあとに、すぐそばで彼の呼吸が聞こえること。自分の部屋の空気に、ローエンの匂いが混ざること。
そういうひとつひとつが、○○の中で静かに馴染んでいた。
今夜も、そうだった。
「…ローエン」
○○は、寝台の中で小さく彼の名を呼んだ。
ローエンは、○○の腕の中にいた。
〇〇より少し大きな体をしているくせに、眠るときだけは妙に甘えたがる。○○の胸元に顔を寄せ、彼女の腕の中に収まると、いつも少しだけ満足そうに息を吐く。
それが可愛くて、○○はつい抱きしめてしまう。
恋人なのだから、抱きしめるくらい普通だ。
そう思っているのに、ローエンが○○の体に身を預けるたび、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
彼は外では飄々としていて、何を考えているのかわからないような顔をすることも多い。からかうように笑って、人の調子を崩すのが上手くて、余裕のある態度ばかり見せてくる。
けれど、○○の腕の中にいるときのローエンは違う。
甘えることを隠さない。
触れたいことを隠さない。
○○のそばにいたいという気持ちを、言葉より先に体温で伝えてくる。
だから、○○はいつも困ってしまう。
嬉しい。
でも、照れる。
照れるのに、離したくはない。
その矛盾を抱えたまま、○○はローエンの髪に頬を寄せる。柔らかい髪が肌に触れて、くすぐったい。彼の体温が布団の中にこもって、夜の冷えた空気から二人だけを切り離しているみたいだった。
けれど問題はいつもそのあとだった。
「ん?」
ローエンが、眠たげな声で返事をする。
その声だけ聞けば、もう半分夢の中にいるように思える。
けれど、○○は知っていた。彼がこういう声を出すときほど、油断してはいけない。
布団の下で、ローエンの手がゆっくり動いていた。
最初は、背中を撫でるだけだった。
恋人を安心させるような、穏やかで優しい触れ方。○○もそれなら何も言わなかった。むしろ心地よくて、目を閉じてしまいそうになるくらいだった。
けれど、その手はだんだんと調子に乗る。
背中を撫でていたはずの指先が、腰のあたりをたどる。布越しに輪郭を確かめるように、焦らすように、ゆっくりと動く。乱暴ではない。強引でもない。ただ、あまりにも当然のように触れてくる。
まるで、そこに触れる権利はもう自分にあると信じきっているみたいに。
○○は、布団の中で小さく身じろぎした。
「お手て、悪さしないで…」
声は、思ったよりも弱く出た。
本当はもっときっぱり言うつもりだった。
けれど、夜の静けさと、ローエンの体温と、彼の指先の甘さが、○○の声から力を奪ってしまう。
ローエンは、少しだけ顔を上げた。
暗がりの中で、彼の瞳が細く笑う。
その表情は、叱られた子どものそれではまったくない。むしろ、○○がそう言うのを待っていたみたいな顔だった。
「悪さ?」
「してる」
「どこが?」
「全部」
「全部か」
ローエンは、低く笑った。
その笑い声が、布団の中でくぐもって、○○の胸元に落ちる。耳で聞くというより、肌で感じるみたいだった。胸の奥がくすぐられて、○○はむずむずと落ち着かなくなる。
するとローエンは、反省するどころか、○○の首元に顔を埋めた。
すう、と大きく息を吸う音がする。
「…ローエン?」
「いい匂い」
吐息まじりの声が、首筋に触れた。
○○の肩が、ぴくりと跳ねる。
首はだめだ、と○○は思った。そこは、彼の息がかかるだけで変に意識してしまう。肌が薄くて、隠しようもなく反応が出てしまう場所だった。
ローエンはそれをわかっている。
わかっていて、わざとそこに顔を寄せている。
「嗅がないで」
「無理」
「なんで即答なの」
「好きだから」
あまりにも自然に言われて、○○は一瞬言葉を失った。
好きだから。
たったそれだけの言葉が、夜の部屋では妙に重たく響いた。
○○は、返事の代わりにローエンの肩を軽く押した。
「…そういうの、ずるい」
「本当のこと言っただけだろ」
「本当でもずるい」
「じゃあ、もっと言う?」
「言わなくていい」
「○○が好き」
「言わなくていいってば」
抗議する声は、やっぱり強くならなかった。
ローエンはそれを聞いて、満足そうに喉を鳴らした。
そして、首元に埋めていた顔を少しだけ動かす。
柔らかな感触が、○○の肌に触れた。
唇だ、と気づいた瞬間、○○は息を詰める。
キスというには軽く、けれど偶然というには明らかに意図的な触れ方だった。熱が一点に残る。そこだけ夜気から守られたみたいに、じわじわと熱くなる。
「ローエン」
「ん?」
「噛まないでね」
先に釘を刺したつもりだった。
けれど、ローエンは少しだけ黙ったあと、楽しそうに笑った。
「噛まないとは言ってない」
「今言って」
「やさしくする」
「そういう問題じゃなくて」
言い終わる前に、首筋に甘い痛みが走った。
歯が立てられた感覚は、ほんの一瞬。
けれど、その一瞬で○○の背筋は小さく震えた。痛いわけではない。強すぎるわけでもない。むしろ、約束通り優しかった。優しいからこそ、余計にたちが悪かった。
噛まれた場所に、熱が残る。
ローエンの唇がそこに触れて、まるで自分でつけた印を確かめるように、ゆっくり離れていく。
○○は、彼の肩を掴んだ。
「噛んだ」
「やさしくした」
「噛んだことに変わりはない」
「○○がかわいいから」
「理由になってない」
「俺の中ではなる」
堂々と言い切るローエンに、○○はむっと眉を寄せた。
けれど、本気で怒れていないことは自分でもわかっていた。
ローエンに噛まれた首筋がまだ熱くて、そこから甘い痺れがじわじわ広がっている。嫌ならもっと強く押し返せばいい。やめて、と本気の声で言えば、彼はきっと止まる。
ローエンは意地悪だけれど、○○の嫌がることを本当に続ける人ではない。
だからこそ、余計に悔しい。
彼は○○の境界線を知っている。
どこまでなら拗ねるだけで、どこから先なら本当に嫌なのかを、きっと○○本人よりもよく見ている。そうして、ぎりぎり甘く困らせるところで、いつも楽しそうに笑うのだ。
「○○の体は俺のものだから、いいんだよ」
ローエンが、低く囁いた。
その声は、いつもの軽口よりも少しだけ濡れていた。
冗談めかしているのに、奥にある熱だけはごまかせていない。○○の体を抱き寄せる腕に、ほんのわずか力がこもる。
○○は、その言葉にぱちりと瞬きをした。
そして、すぐに眉を寄せる。
「いや、私の体は私のものだが??」
自分では、かなり真っ当なことを言ったつもりだった。
事実、その通りである。○○の体は○○のものだ。ローエンのものではない。いくら彼が当然みたいな顔をしていても、そこは譲れない。
けれどローエンは、少しだけ顔を上げると、夜の薄明かりの中で楽しげに目を細めた。
その表情に、○○は嫌な予感を覚える。
「へえ?」
「へえ、じゃない」
「じゃあ、印つけとく」
「えっ、待っ――」
最後まで言う前に、また首筋へ熱が寄せられた。
今度はさっきよりも少しだけ強い。
がぶ、と噛まれて、○○の指先がローエンの寝間着をぎゅっと掴む。痛い、というよりは、熱い。肌の奥まで彼の存在が入り込んでくるみたいで、息の仕方が一瞬わからなくなる。
「ローエン…っ」
名前を呼ぶ声が震えてしまった。
抗議のつもりだったのに、そう聞こえなかったかもしれない。
それが悔しくて、○○はますます彼の肩を押した。けれど、ローエンはびくともしない。○○の力では本気で退かせられないことを、彼はよく知っている。
知っていて、逃がさない。
やがて満足したように唇を離したローエンは、噛み跡の残った場所を眺めた。月明かりに薄く浮かぶそれを見て、ひどく満ち足りた顔をする。
「うん。かわいい」
「かわいくない。あとついたらどうするの」
「つけたんだよ」
「堂々としないで」
○○が頬を膨らませると、ローエンは笑った。
その笑い声は低くて甘い。
夜の静けさに溶けて、布団の中にじわりと沈んでいくようだった。
彼は○○の首元から顔を離すと、今度は自分の腕をゆっくり広げてみせた。わざとらしいほど無防備な仕草だった。けれど、その目だけは少しも無防備ではない。獲物を待つみたいに、○○の反応を楽しんでいる。
「俺の体は○○のものだから、何したっていいぜ?」
甘く、軽く、からかうように。
けれどその言葉は、○○の中にすとんと落ちた。
ローエンの体が自分のもの。そんな言い方をされると、どうしても変に意識してしまう。彼の腕。肩。胸元。いつも余裕たっぷりに笑う口元。今、自分のすぐそばにある体温。
○○は数秒だけ黙った。
それから、ぷくっと頬を膨らませる。
「なんだとー!」
「お?」
「じゃあ、ぎゅーの刑に処す!」
思いついた瞬間に言葉にして、○○はローエンの体へ勢いよく組みついた。腕を回し、足も絡めるようにして、逃がさないようにぎゅうっと抱きしめる。
ローエンの体が一瞬だけ固まった。
それからすぐに、彼は声を上げて笑う。
「ははっ、なんだそれ。かわいい刑だな」
「重罪人にはこれで十分です」
「もっと重い罰でもいいけど?」
「そういうこと言わない」
○○はさらに力を込めた。
抱きしめていると、ローエンの体温がどんどん近くなる。胸に頬を寄せれば、彼の鼓動が聞こえた。落ち着いているようで、ほんの少しだけ速い。いつも余裕ぶっている彼の内側にも、ちゃんと熱があるのだと知って、○○の胸が妙にくすぐったくなる。
布団の中で、二人分の体温が混ざっていく。
腕の中に閉じ込めたつもりなのに、また逆だった。
ローエンの匂いが近い。呼吸が近い。体の硬さも、あたたかさも、逃げられないくらいはっきり伝わってくる。
○○は少しだけまぶたを伏せた。
このままなら、眠れるかもしれない。
彼が大人しくしてくれさえすれば。
けれど、その期待はすぐに裏切られた。
「…ローエン」
「んー?」
「まだお手て悪さしてる」
「ばれた?」
「ばれるよ」
抱きしめられているくせに、ローエンの手は器用に動いていた。○○の背中をゆっくり撫で、腰のあたりに触れ、そこからまた少しずつ熱を残していく。
さっきよりも近いぶん、逃げ場がなかった。
触れられるたび、○○の体が小さく反応してしまう。それを隠そうとしても、ローエンにはきっと伝わっている。彼の指先は、まるで○○の反応をひとつひとつ拾い集めるみたいに、焦らず、急がず、甘く動く。
「えっちい気分になるからやめて……」
口にした瞬間、しまった、と思った。
声が思ったより甘かった。
抗議のはずなのに、お願いみたいに聞こえた。
いや、お願いですらなかったかもしれない。
ローエンはその言葉を聞いて、ひどく嬉しそうに笑った。
「へえ。なるんだ?」
「今のなし」
「聞いた」
「忘れて」
「やだ」
「やだじゃない」
「○○がかわいいこと言うのが悪い」
○○は顔を隠そうとした。けれど、ローエンはその仕草も許さない。背中に回した腕に力を込めて、○○をさらに自分のほうへ引き寄せる。
布団が小さく擦れる音がした。
その音すら、妙に近く聞こえた。
夜の中で、二人だけが起きている。二人だけがこんなに近くで、息をして、熱を分け合っている。
「○○」
ローエンが名前を呼んだ。
その一言だけで、空気が変わる。
さっきまで笑っていた声なのに、今は少し低い。冗談の形をしていない。○○の奥にある柔らかいところを、まっすぐ撫でるみたいな声だった。
「なに……」
「やめてほしいなら、ちゃんとお願いしな」
「お願いしてる」
「もっとかわいく」
「要求が多い」
「○○から聞きたい」
ローエンはそう言って、○○の髪へ唇を落とした。
軽い口づけだった。
けれど、ひどく優しかった。
その優しさが、○○を困らせる。
意地悪をするなら、意地悪だけしてくれればいい。
からかうなら、最後までからかってくれればいい。
なのにローエンは、こういうときに限って、大切なものに触れるみたいな仕草をする。
乱暴にはしない。
痛くはしない。
逃げようと思えば逃げられる余地を残しているふりをしながら、でも本当は、心のほうを先に捕まえてくる。
だから○○は、怒れなくなる。
「…ローエン」
「うん」
「いじわる、ちょっとだけにして」
「ちょっとだけ?」
「……あと、噛むのも、優しく」
言ってしまってから、○○は顔を伏せた。
自分で言っておいて、恥ずかしくなった。
やめて、と言うつもりだったのに。完全にだめだと突き放すつもりだったのに。出てきた言葉は、ちょっとだけ、と、優しく、だった。
それはつまり、許しているのと同じだった。
ローエンは黙った。
その沈黙が、余計に恥ずかしい。
○○がそっと視線を上げると、彼は案の定、満足げに目を細めていた。最初からその言葉を待っていたみたいな顔だった。
「了解」
「絶対わかってない顔してる」
「わかってるって」
「嘘だ」
「嘘じゃない。優しくする」
そう言って、ローエンは○○の背を撫でた。
さっきよりも穏やかな触れ方だった。けれど、熱が消えたわけではない。むしろ、ゆっくりになったぶん、触れられていることを強く意識してしまう。指先の通った場所に、じんわりと彼の温度が残っていく。
○○は文句を言おうとして、やめた。
代わりに、ローエンの胸元へ頬を寄せる。
彼の心音が耳に近い。とくん、とくん、と規則正しく響く音を聞いていると、さっきまで乱されていた呼吸が少しずつ落ち着いていく。
けれど胸の奥だけは、まだ熱かった。
「…ローエンの体、私のものなんだよね」
ふと思いついたように、○○がつぶやいた。
ローエンが小さく笑う気配がした。
「ああ。何したっていいぜ?」
相変わらず、余裕のある声だった。
でも、○○には少しだけわかっていた。その余裕の中に、ほんのわずかに期待が混じっていること。自分がどうするのか、彼が楽しみに待っていること。
○○はしばらく考えた。
それから、ローエンの体にさらにぎゅっとしがみつく。
「じゃあ、今日はこのまま抱き枕の刑」
「それ、俺にとってご褒美にならないか?」
「刑です」
「はいはい」
ローエンは笑った。
それから、○○の額にそっと口づける。
何度もからかって、噛んで、触れて、余裕たっぷりに笑っていたくせに、その口づけだけは驚くほどやわらかかった。
○○のまぶたが、少しだけ震える。
「おやすみ、○○」
「おやすみ。…お手ては悪さしないでね」
「努力する」
「努力じゃなくて約束」
「じゃあ、○○が寝るまでは」
「寝たあとも!」
○○が抗議すると、ローエンはまた楽しそうに笑った。
その笑い声が、布団の中で甘く響く。
夜はまだ深く、窓の外では風が静かに通り過ぎていく。部屋の中には二人分の呼吸と、重なった体温と、言葉にしきれない想いだけが残っていた。























