私は生まれながらにしてこのモンドという風と自由の国の貴族であった。朝起きれば従者たちにリネン製の肌着を着せられ、美しいシルクのストッキングを履く。手編みで作られたそれは、足首のあたりにセシリアの花の刺繍が施されておりとても贅を尽くした物だと感じた。
その後にペチコートを履くことによって、朝の寒気で少し産毛だっていた肌が楽になった気がする。次に何層ものリネンからできたステイと呼ばれる衣服を羽織ることによって細いウエストと盛り上がった胸部を作った。
幾重にも重ねられていく手触りのいい布。
それに鬱陶しいと思いつつ従者にされるがままにさせる。
そう、ここは自由と風と貴族政治によって形作られた国。かつて風神バルバトスがこの地を支配していた魔神に勝ち、正式に神と名乗りをあげ、祀られた後、無責任にも眠りについたため、当時学があった物(所謂支配者階級)が政治の基礎を作った麗しき国である。
まぁ私が産まれた時には既にその貴族政治で先頭を切っていたローレンス家(今だと騎士団の波花騎士:エウルアが有名だろうか。)が凋落した為、表立った貴族制度自体は無くなったが。だが当然革命後も日常は続くわけで。私はその中でも比較的まともな一族の娘だった為、今もこういう扱いを受けている。
ギャザーが波のように寄せられたパニエを腰に巻かれる。
それにしても波花騎士とは被虐趣味なのだろうか私なら騎士団という役職は死んでも選ばない。そんな差別されている状況で、尊厳を切り売りしてまで得る栄誉などに価値などないだろうに。
そうして思考の波に溺れていると長いとろりとした生地のスカートを履かされた。寝ぼけ眼で朝の支度があれよこれよと勝手に済まされ、どうやらもう束の間の微睡は終わりのようだ。そうしてようやく私の1日は始まった。
*
私の一族が栄えたのは主に海運業の成功からだ。どうやって荒波の中、航路を切り開き貿易をして金を得たのかは、一重に一族が星詠みに長けていたからである。
鳥が悠々と空を羽ばたく。それにごうっと唸り声をあげる風の音。風車が嬉々として音を立てて回り出す。波が飛沫をあげて桟橋を濡らした。
港では数多くの労働者が働いている。その中で一人が私に気づくと、一人、もう一人と声の輪が大きくなる。そうして港の手前で暫く待っているとドーマンポートに停泊していた一際目立つ大きな船から、大きな仕事を任せていた人間、─船長が降りて急いでこちらに駆け上がってくる。
「いつもありがとうございます。お嬢様。」
「結構よ。貴方にはいつも沢山のことを成してもらっているから。」
「とんでもないことでございます。」
髪が風にたなびいて鬱陶しい。私はこの風が嫌いだ。モンドという国はすぐ横髪が口の中に入るから。人々はこれを自由の象徴だと讃えるが、私からすればただの暴君である。許しもなく髪を乱し、スカートを揺らし、書類を攫っていく。まったく自由というのは碌なものではない。
「よっ。相変わらず辛気臭い顔してんなァ。」
そこに胸ぐらを豪快に開けた冒険者が現れた。こちらを覗く鋭い瞳。まるで野生の動物のように鍛え上げられた身体。そして相変わらず礼儀を母親の腹の中に置いてきたような態度。
「貴方ね、また何のよう?」
「用がなけりゃあ、ここにいちゃいけねぇのか?」
「当たり前よ。」
「ひでぇな。」
船長が険しい表情をする。当然だ。高貴なる血の者──私に対する態度ではない。使用人なら即刻解雇、商人なら取引停止、追放されても文句は言えない。けれど。
「お嬢様。」
船長が私を見る。
「大丈夫よ。」
私は肩をすくめた。
「こいつは家で雇っている冒険者だから。」
「コイツ呼ばわりかよ。」
ローエンは笑う。
「俺ァ結構気に入ってたんだけどな。」
それにため息をこぼして、勝手に肩を組もうとしてくる奴の腕を避けた。
ローエンとの出会いはつい最近だ。家の事業で物資を輸送するための、氷元素を扱える人材を探していたところ偶然この男がマッチした。ただそれだけ。そう。本当にそれだけのはずだった。
初対面。依頼について説明を受けた人間たちの中。従者によってもう一度内容を説明されている最中、こいつは一度も私が提示した報酬額に驚かなかった。依頼自体は元素力を扱いながら数日船に揺られ他国へ行くものだったから、相当な色目をつけたのにも関わらずだ。それに私の家名にも反応していない。
こいつはずっと、まるで品定めするような目で私を見ていた。私はその時の、あの藻がかかった泥沼のような目を覚えている。
金で動く人間は扱いやすい。恐怖で動く人間も扱いやすい。欲望は理解できる。だが、何にも反応しない人間は理解しづらい。だから記憶に残った。
「で、今日は何しに来たの?」
「暇だった。」
「帰りなさい。」
「嫌だ。」
相変わらず意味がわからない。少なくとも、常識という概念からは絶縁しているみたいだった。
*
モンド城下に正午の鐘が響き渡る。とある昼下がり。
偶然視察で訪れた市場の片隅で、椅子に足を組んで座っているローエンを見つけた。咄嗟に見なかったことにしようと護衛に目配せをしたところ、護衛は諦めたように首を振り、前方を向く。そこには小賢しい顔でこちらに微笑む奴がいる。
「ちょうどいい財布みーっけ。」
「貴方またモラを使い潰したの?」
こいつは報酬を渡すとすぐ遊び散らかす。何故知ってるかって?うちが経営している店で態とらしく金を落としていくからだ。
「結局お前の懐に入るんだからいいじゃねぇか。」
「そうね。最近は報酬無しでもいいんじゃないか検討しているところよ。」
「おいおい、冒険者協会に摘発されることだけは勘弁してくれよ。俺はまだ搾りたりねぇからな。」
肉を追加してくれ、だなんてローエンが悪びれる様子もなくウェイトレスに注文する。まだこちらは払うなんてこちらは一言も言っていないが。
「図々しいにも程があるわね。」
私がそう言うと、ローエンは椅子の背にもたれながら肩をすくめた。
「払わねぇのか?」
「払わない。」
「へぇ。」
そう言ってテーブルに肘をつく、
「なら一つ面白い話を売ってやる。」
私は眉を上げた。
「貴方の話に金を払う価値があると?」
「ある。」
ローエンは妙に自信があるようだった。
そして彼に着席を促される。それに乗るのも妙に癪だったが、この男が今までどんな実利を生み出してきたか思い出して耐えた。
市場は活気で溢れていて、こちらの事なんてお構い無しに人が行き交っている。
ふとローエンが市場の端を顎で示した。石畳の表通りに面する住宅の路地。暖かな太陽とは真逆のその冷たく暗い木陰には一台の馬車が停まっている。そこには数人の商人が集まっていた。
「3日前からあそこにいる。」
「だから?」
「荷を下ろさない。」
「…。」
「積みもしない。」
ローエンの話を信じるとするとそれは確かに不自然だ。
荷馬車というものは止まっているだけで金を食う。馬にも餌がいる。御者にも宿がいる。護衛を雇っているならなおさらだ。三日だ。たった三日ではない。三日も、だ。
「商談がまとまらないのかしら。」
「違うな。」
ローエンが即答した。
「毎日違う商人が出入りしてる。」
私は指先で頬を叩く。なら商談ではない。荷を売りたい人間なら、そんな非効率な真似はしない。
「盗品?」
「だったらとっくに捌いてる。」
「密輸品?」
「モンド城下で?」
確かに馬鹿げている。密輸するなら港や街道の方が遥かに都合がいいし、わざわざ騎士団の目がある城下町でやる理由がない。
暫くの静寂の後、ローエンは机の上のナッツを割って、摘んだ。
「商家のお嬢様は何だと思う?」
「知らないわ。」
「珍しいな。」
「情報が足りないもの。」
「じゃあ賭けようぜ。」
ローエンが嗤った。
「嫌よ。もう貴方の手札は揃ってるんでしょう。」
「お前が正解したら暫くはタダ働きでいい。」
「あと賭け事もやめなさい。」
「え、マジ?」
無言で頷いて、自分自身も机の上のナッツを手に取った。そしてローエンに投げ渡す。ローエンは軽くキャッチすると中身を投げてよこす。ナッツが口の奥に噛み砕かれて消えた。
*
「で、コイツは不機嫌なわけ。」
「そいつぁ傑作だな!!」
酒場のマスターが大声で笑う。それに私も愉快な気分になって、声を上げた。一方後ろに控えているローエンは額に青筋を浮かべている。ここはモンドの一角。とあるバー。夜も更けて来た頃、私は久しぶりに酒を飲んでいた。
「いや最初は何事かと思ったよ。お嬢様があのローエンを連れてきて二人っきりでここに来るなんて。」
「お父様には護衛って言っているわ。」
「ははは! そりゃ間違っちゃいねぇな。」
マスターがグラスを拭きながら笑う。
「実際、腕は立つんだろ?」
「立つわね。」
私はワインを揺らした。
「働く時だけは。」
「聞こえてんぞ。」
背後から不機嫌そうな声が飛んでくる。
「ええ、聞かせるために言ったもの。」
するとマスターは腹を抱えて笑った。
「お前も苦労してんだなぁ、ローエン。」
「してねぇ。」
「してるだろ。」
「してねぇ。」
即答だった。だがその否定に妙な力強さはなく、むしろ諦めに近い。
「それは苦労してる奴の返事なのよ。」
私がそう言うと、ローエンは露骨に顔をしかめた。
「お前、酔ってるだろ。」
「まだ二杯目よ。」
「十分だ。」
「ちょっと、やめてったら。」
そのやり取りにマスターがまた笑う。すると遠くの席にいた船乗りたちの会話が耳に入った。
「しかしあの令嬢も変わってるよな。」
「ああ。」
「貴族がこんな酒場に来るだけでも珍しいのに。」
「しかも連れてるのが男だぜ。」
笑い声。からかいまじりの。酒のつまみ。ただのゴシップ。だから余計に聞き流しにくかった。見兼ねたマスターが声が大きいと注意しに私たちのそばを離れる。
ワインを一口飲む。
「気にしてねぇのか。」
不意にローエンが言った。
「何を?」
「今の。」
私は肩を竦める。
「慣れたもの。」
「へぇ。」
興味なさそうな返事だった。だが珍しく会話を続ける。
「嫌じゃねぇのか。」
少しだけ考える。嫌か嫌じゃないかで言えば、嫌だけれど。
幼い頃ならもっと怒っていたと思う。幼少期、私は短気だった。何度も癇癪を起こして、その度に厳しく叱られた。
だけどその癇癪にも理由がある。
昔から私は市井にもいるし、社交界にもいる人間だった。商家の娘なんてそんなものだ。だから当然ながら格好の噂の的になる。そこで言われるのはどちらとも、「あの子は変わっている」という言葉。そのラベルだけでカテゴライズされて、私はいつも社会という大きな集団の仲間に入れてもらえない。
まぁそれにも慣れてしまったが。
変わり者。変人。貴族らしくない令嬢。どれも今まで散々言われてきたから、まるで大地に降り注ぐ雨のように、自然なことだと思えるようになってくる。それに。
「私だって彼らのことを見てるもの。」
「見てる?」
「ええ。」
私は客席を見渡した。酒を飲む船員。依頼帰りらしい冒険者。帳簿を開いている商人。
「誰がどんな仕事をしていて、何を考えているのか。」
ローエンが眉をひそめる。
「そんなの見てどうすんだ。」
「面白いじゃない。」
即答すると、ローエンは呆れた顔になった。
「やっぱ変な奴だな。」
「そうかしら。」
私はグラスを回す。
葡萄色の液体が灯りを反射した。それは誰かさんの瞳の色にも似ている。
「人を見るのが好きなの。」
ぽつりと漏れた言葉に、自分でも少し驚いた。ローエンも珍しく茶化さなかった。
「人って不思議でしょう。」
「知らん。」
「全然違う場所で生きてきた人同士が、同じ場所で酒を飲んで笑ってる。」
私は酒場全体を見渡した。
「そういうのを見るのが好きなのよ。」
しばらく沈黙が落ちる。やがてローエンが鼻を鳴らした。
「だから港とか市場をうろついてんのか。」
「ええ。」
「暇なんだな。」
「失礼ね。」
ローエンも口元を少しだけ緩めた。
「俺は逆だな。」
不意の言葉に私は顔を上げた。
「逆?」
「ああ。」
彼は私の側によると、グラスを手にして私に渡す。チェイサーだ。
「誰が何考えてるとか興味ねぇ。」
「知ってるわ。」
「だが。」
そこで少し言葉を切った。
「人が集まってる場所は嫌いじゃねぇな。」
意外だ。ローエンはそういうものに関心がない人間だと思っていたから。
「どうして?」
「別に。」
そう言って私のワイングラスを取り上げて弄ぶ。私の手の中には代わりに水が入ったグラスだけが残った。
「人がいる場所は仕事がある。」
「冒険者らしい理由ね。」
「それもあるが、…静かな場所が性に合わねぇ。」
その言葉に少しだけ目を見開く。
「貴方がそうやって断言するなんて。意外ね。」
「そうか?」
「ええ。」
彼は少し考えた後、鼻で笑った。
「お前が人を見るのが好きなのと同じだろ。」
思わず笑ってしまう。ローエンも口元を少しだけ緩めた。それから夜は他愛もない話で過ぎていった。港で起きた騒動の話。冒険者たちの失敗談。私が話し、ローエンが適当に返す。気付けば店を出る頃には月も高く昇っていた。
*
薄暗い路地に何か重いものが崩れるような音が響いている。月明かりさえも覗かない。その狭い通路で。
ローエンは一人ナイフを構えていた。
目の前には男が三人。あの厄介なご令嬢の後をつけるようにして、わざわざ酒場からつけて来てくれたありがたいお客人である。
「なぁ、お前ら。こんなにやってもまだ学習しないわけ?」
既に男達は満身創痍で、中には地面に膝をつくものもいる。
「ッうるせぇな!!ガキがよ!!俺たちは商売でやってんだ!!」
「言ったな。」
ローエンがナイフを男の方へ投げた。それは風の音を響かせて、男の髪を僅かに切る。
「誰に雇われた?まぁ十中八九、城下でドブネズミみたいに這いずり回ってた連中だろ?……ッハハ!!!!その反応は当たりってかぁ??」
口元に隠しきれない愉悦の笑みが広がる。だから好きなんだ。人がいるところは。常にさまざまな思惑が絡み合って蜘蛛の巣のように張り巡らされている。そうしてそれに引っかかった哀れな蝶々が食うか食われるか。
その弱肉強食の世界こそ、ローエンの全てだった。
あぁ、気分は最高にイイ。あの女に負けてからローエンは羽目を外しすぎない遊び方を強いられているし、タダ働きも同然の賃金で小間使いをさせられている。
少しばかり溜まった鬱憤を晴らすのには絶好の機会だろう。何よりもこんな大義名分があることは、そうそうないのだから。少しぐらい痛ぶってもいいんじゃないだろうか!
「さァ、雇い主の名前は?吐ーけーよぉ!おっさん達ぃ!」
笑い声と共に武器が飛び交っていく。
男達は石像のように強張った顔のままだ。それは、後悔?怯え?焦り?
ローエンの高笑いがどんどんヒートアップしていき、飛び交う武器の量に比例して血飛沫が上がる。それを楽しい、と心から思っていたところに、不意に男が叫ぶ。
「…わかッ、わかった!!!!お前の女を襲おうとしたことは謝る!!だからここは俺たちを見逃してくれ!!俺たちはただ金に釣られて雇われただけだ!!」
「……おれの、おんな?」
男の喉仏を掻っ切ろうとしていたナイフがピタリ、と止まった。
静寂。
「そ、そうだ!!!あの令嬢のことだろう!!!」
そして破裂音。
男は頭を銃で撃ち抜かれて、倒れた。
「ッははははハハハ!!??あいつが俺の女だって!!??もう目が耄碌したのか!?てめぇら!!」
立ち残っていた男が一人ヒッと喉を鳴らした。
ローエンがその残りにゆっくりと近づく。コツコツと、態とらしく足音を立てながら。はぁ、あはは、はは、
「ハハ」
止まらない。
「はははははッ!!」
腹を抱える。
「───馬鹿馬鹿しい。」
何が可笑しいのか、自分でもよくわからなかった。
*
「貴方はここ最近で見た氷元素の使い手の中で一、二を争う実力ね。」
「そりゃどうも。お嬢サマ。」
ローエンがドーマンポートにある建物の下、日差しを遮るように柱の陰に潜り込み倒れ込んだ。
「まさか船一隻の氷室を一人で管理するなんて。」
感嘆で声が少し上擦る。それを咳払いで誤魔化すと、地面に寝転んでいたローエンが得意げな表情をする。その顔が、モンド城のキャッツテールにいる、とある子猫に似ていて思わず口が緩んだ。
「何だよ。」
「別に。」
「絶対何か考えてただろ。」
「考えていたわ。」
「言えよ。」
「嫌よ。」
あ゛?とローエンが品のない声を上げるが、それをわざわざ拾ってやるほど私の耳は安くはない。暫く、港の下の方で荷物の積み下ろしをする人々を見る。
「見てご覧なさい。」
花々の香りを風が運んでくる。
「ん?」
「この港だけで何人、何十人、何百人が働いていると思う?」
「知らん。」
「興味ないの?」
「ない。」
ローエンは即答した。
「彼らが働くから船が動く。船が動くから商売ができる。商売ができるから街が栄える。」
「そうだな。」
そこでローエンが首を傾げた。
「で?」
私は再び人々を見つめる。小さな貨物を運ぶその様子は、軍隊蟻が列を作ってせっせと巣に餌を運び込む様子に似ている。巣のために働く蟻と、家のために働く使用人。そしてそれらを管理、統制する女王蟻。街の管理者。
「人って不思議よね。個では大した力もないのに集まることによって大きな力になるんだから。」
「フゥン。」
「だから面白いの。知識もそうよ。人一人の力では限度がある。だからそれを悟った稲妻の人間がこう言ったらしいわ。『三人よれば文殊の知恵』って。」
ローエンが起き上がって、隣に立った。
「で?お前は結局何が言いたいんだ?」
「貴方を雇ってよかった。」
私は彼を見る。
彼の目が猫のように細められてそうして私の顔に触れた。ローエンの片手が包み込むようにして私のほおを撫でる。そして輪郭を過ぎると、顎を捕まえられる。そのままくいっと顔を上に上げられて、その赤紫色と目が合った。
「どこで知った。」
「ふふ。三人よれば文殊の知恵ですって。一体あの街では何人の私の知恵が、脳みそが機能していると思う?」
「あぁ、そうかよ。」
「綺麗な処理を、どうもありがとう。ミスター。」
私は彼の手を外して向き直った。
背筋を伸ばし、片方の足を後ろに下げて、もう片方の足にクロスさせる。そうしてドレスの裾を摘むとゆっくりとフリルが広がるようにして合わせた。膝を軽く曲げる。上体を少し前に倒す。
いつも私が意味もなく行なっていたカーテシーに、彼の目が見開かれた。
*
「あんたって何でも扱えるのね。」
ナイフを指で遊ばせる男に声をかける。男は不機嫌そうにこちらを見てナイフを宙に放り投げるとそのまま地面に投げる。
「なんでお前がここに居んだよ。」
「面白い物が見れるって聞いたから。」
「趣味悪ィな。」
上裸のローエンが、同じく上裸の大男と睨み合う。するとローエンはそれまで対峙していた大男の懐に潜り込み、体を捻らせて男を背負うような形になると、一歩前に踏み込んで男を投げ飛ばした。周囲から歓声が上がる。
「神の目なし、武器もなしでこれかよ。」
「次お前の番だぞ。」
「オッズは50倍か?」
ローエンと大男の周りを円を描くように囲んでいた人々が唾を飛ばしながら背を叩き合う。私は大男を投げ飛ばしてついた砂埃を払うローエンを見て目を細めた。面白い。体格は明らかに向こうが上だった。それなのに勝った。力ではなく技術の勝利だ。
だがしかし。ローエンの筋張った腕から肩を観察する。
それ以上に気になったのはローエンの古傷だった。肘から手首にかけて裂傷の跡が走っている。普段グローブをつけているからかわからなかった手には骨折の跡。肩の動きも些か不自然だった。もしかして脱臼でもした?案の定ローエンが不自然だった方の肩を抑えるとぐりっと回す。するとハマったのか本人は軽く腕を回すとこちらに来た。
「貴方それ痛くなかったの?」
「あ?今やったやつか?別にどうってことねぇが。」
それだけ言うと何でもなさそうな顔をして再び円の中心に戻ろうとしたので思わずローエンの手を掴む。
「待ちなさい。」
「何だよ。」
私はそのまま手首を持ち上げた。
骨の出っ張り。硬くなった皮膚。何度も傷つき、何度も治った痕跡。まるで古い船体のようだ。
「ここに骨折痕がある。一体何回折ったの?」
「覚えてねぇ。」
「覚えてない?」
「あんなぁ、そんなもん数えてる奴いるのか?」
呆れたように言われる。理解できなかった。骨折だ。普通なら忘れるはずがない。
「肩は?」
「脱臼。」
「何回?」
「さあ。」
「指は?」
「何本か。」
「何本かって。」
ローエンは面倒臭そうに頭を掻いた。
「お前さっきから何なんだよ。」
私は答えなかった。ただ、彼の腕を見ていた。
「こっちは好きで別に折ったわけじゃねぇぞ。」
「知っているわ。」
「冒険者なんてそんなもんだ。治るのなら気にしねぇし。」
人間の身体は脆いのに。少し切れば血が流れるし、少し強く打てば骨が折れるのに。それなのに、この男は何度壊れても平然と動いている。まるで、何度修理しても航海を続ける船のように。
「…面白い。」
「は?」
気付けば口から漏れていた。ローエンが胡乱げな目を向ける。
「お前、本当に変なところで感心するよな。」
そう言って彼は輪の中心に戻る。私も曖昧に頷き返した。けれど頭の片隅では、別の言葉が高速で駆け巡る。
我が家ではずっと食品の長期保存について研究を進めていた。船旅は長い。肉や魚は塩漬けでは限界がある。氷元素の使い手を雇ったのもその研究の一環だ。
肉は時間と共に腐る。魚も腐る。果物も腐る。けれど腐る速度には差がある。人間の肉体はどうだ。傷跡が残るのはその他の部位がまだ生きているから。だから修復しようとして肉体は働く。
ではある特定の部位が生きていれば肉は腐らないのか?鳥の臓器ごと肉を保管しておけば私たちは鳥を腐らせることなく港に運べるのか?
私は無意識に指先で顎を撫でた。そういえば以前、スメールの学者から奇妙な物を買い取ったことがあった。薬液に浸された小動物の標本。時間が経っても形を崩さない肉。腐敗を著しく遅らせる保存技術。確か──。
「おい。」
大きくもない、小さくもない、ローエンの声で急に目が覚めたような気がした。次の瞬間、鼓膜が破けんばかりの歓声が響く。どうやら遂にこの賭けは終幕を迎えたらしい。
嗚呼。
唇が無意識に弧を描く。赤紫色の瞳が数ある観衆の中で私の顔を見つけた瞬間、何か目を見開かれた気がした。だがそんなことはどうでもいい。何故なら海を越える商品の価値は、今よりずっと上がるかもしれないのだから。
*
「お嬢様、こちら研究結果でございます。」
「あら、ありがとう。」
差し出された紙束を取る。差し出された紙束を受け取る。表紙には日付と実験番号が整然と記されていた。私は椅子に腰掛けたまま頁を捲る。
一日目。
変化なし。
二日目。
軽度の変色。
三日目。
薬液に浸した個体は腐敗速度が低下。
四日目。
羽毛の脱落を確認。
五日目。
内臓の一部に異常。
――予想通りだ。
思わず溜め息が漏れる。
「本に書いてあることの確認しかできていないわ。」
窓の外では風が木々をさぁさぁと音を立てて揺らしている。そしてその木漏れ日に反射するのは机の上のガラス瓶。透明な液体の中で、小さな野鼠が浮かんでいる。その隣には鳩程の大きさの鳥。さらにその隣には解剖途中の昆虫の標本。
これらは全て使用人たちが私の指示で作ったものだった。私は立ち上がり、瓶を一つ持ち上げる。液体の中で鼠の尻尾がゆらりと揺れた。生きていた頃は屋敷の食糧庫を荒らしていた個体らしい。今ではただの肉塊だが。その瓶をコツコツと爪で叩いて音を鳴らす。
興味深い。
死んでいるにも関わらず形を保っている。
「保存液の配合は変えた?」
「はい。前回よりアルコールの割合を増やしております。」
「結果は?」
「大きな差異は見られませんでした。」
「そう。」
それならばいらない。つまらない。瓶を机に戻す。薬液の種類を変えても大差はない。温度を変えても劇的な変化はない。結局のところ小動物は小動物だ。腐る速度が多少前後するだけで、私の求めている答えには届かない。
目が机の上を滑っていく。あれ程価値のあると思えた瓶の数々は、今やそこらの砂利と一緒だった。
仕方なく机の端に手を伸ばす。そこには解剖記録が積まれている。私の試行錯誤の証だ。肺。肝臓。胃。筋肉組織。保存期間。変色具合。臭気の有無。全てが数字になり、文字になり、紙の上へ並べられた物。私はそれらを眺めながら顎に手を当てた。
もし保存技術が確立されれば。もし肉を長期間維持できれば。海を越える商品の価値は一変するだろうに。どうして、後一歩届かない。
やはりこのためにはもっと知る必要がある。腐敗とは何なのか。肉はどのように死ぬのか。何が残り、何が失われるのか。私は窓際に置かれた鳥籠へ目を向けた。レースがかけられたその籠の中には、数匹。捕獲されたばかりの小鳥がいる。彼ら彼女らは羽をばたつかせながら鳴いていた。
使用人が気まずそうに口を開く。
「追加の個体も確保しております。」
「そう。」
私は小鳥たちを眺めもしたが、特に特別な感情は湧かなかった。可哀想とも思わない。愛らしいとも思わない。ただの私にとっての観察対象。
「今回から生体ごとの比較を取りましょう。」
「比較、でございますか。」
「ええ。」
鳥籠へ指を伸ばす。小鳥が怯えたように隅へ逃げる。その様子を見て、生きている肉と死んだ肉、その違いは何だろうと思った。ヒルチャールは地脈に帰る。では小鳥達は。肉を残すものと残さないものとは。腐敗とは死そのものなのか。それとも死後に訪れる別の現象なのか。
「薬液へ浸す前に経過を記録して。」
「承知いたしました。」
使用人が頭を下げる。私は鳥籠から目を離した。
*
「お前、面白いことしてるそうじゃねぇか。」
ローエンに勘付かれた。最悪なことに。
いつものように港場でこれからの航路を確認していると急に肩を抱かれてこの有様である。
「お前ん家の使用人がそこらじゅうを駆け回って鳥や鼠を捕まえてるって噂だ。商売早い俺たちの中では、お前ん家にトカゲを売ろうだなんて話も出てるぜ?」
「ふぅん。それもいいかもね。」
「あ?トカゲがかよ。」
ローエンの目が怪訝そうに動く。ぎょろぎょろと。倉庫に住み着いた野良猫が、ちょうど鼠を横取りした使用人を見てこんな目をしていた。
「で?俺のお嬢様は一体何を企んでいるんだ?」
ローエンの頭がこちらに擦り付けられる。うん、鬱陶しい。しかし側に居た、いつかのローエンを静止した船長は、今や肩を抱かれて頭を首元に擦り付けられている私を見ても動こうとはしない。それどころか、何か微笑ましいものを見たかのように生ぬるい視線でこちらを見てる気がする。
「別に。」
意外にもサラサラな髪が私の首を撫でた。ぐりぐりと頭が押し付けがましい。
「食品保存の研究よ。」
「食品保存にトカゲを扱うのか?」
「…少なくとも鼠や鳥は使うわ。」
「ヘェ。」
ローエンの目が挑戦的に光る。
「つまりお前、片っ端からそいつらを氷漬けにしてるってことだな?水臭ぇな。呼べよ、俺を。」
いや氷漬けにプライドがあり過ぎる。何?その余計な自信。なんかこの前褒めた時はどうでも良さそうだったのに、今じゃあ満更でもないみたいな表情してて怖いんですけど。
んん、と咳払いをして仕切り直す。
「少なくとも氷元素は扱わない。今までのアプローチとは変えてみたから。」
「なんだ?」
「薬品を使った保存実験。」
その瞬間だけ。
本当に一瞬だけ。ローエンの目から笑みが消えた。
「……。」
「ローエン?」
「いや。」
彼はすぐに肩を竦める。雲が太陽を覆い隠して周囲が一瞬暗くなる。
「面白そうじゃねぇか。」
風が吹いた。
雲が流れたのか、あたりが眩しいほどの光に満ちる。
「つまりお嬢サマは片っ端から薬漬けにしてんだな。」
「言い方。」
「間違ってはねぇだろ。」
間違ってはいない。
しかしここは淑女の面子があるのだ。下品な言い方はよしてほしい。
「今回は貴方は使わないわ。」
「…薬品なら俺はいらねぇって?」
「ええ。」
私は頷いた。
するとローエンは一瞬顔を俯かせて、そこからニヤリと笑う。まるでまんまと獲物が罠に引っかかったとでも言いたげな顔だ。
「貴方は氷元素の専門家でしょう。」
「誰がそんなことを言った。」
妙な返答だ。
「違うの?」
「違わねぇけど。」
ローエンが鼻を鳴らす。
「冒険者が氷だけで飯を食えるわけねぇだろ。」
ふと空中でローエンが手を握る。するとその手のひらから小瓶が出てきた。そこには怪しげな緑色の液体がとぷりと詰められている。
「これ何か知ってるか?」
「…毒?」
「せぇーかい。」
ローエンがうっそりと笑った。
「な、お嬢サマ。俺に関わらせる理由ができただろ?」
「…じゃあ例えばだけど。」
お互いに見つめ合った。この時、私は多分緊張していたと思う。それはコイツになら私の好奇心を打ち明けていいか、という疑い。私はまた周囲から身を引かれて一人になるのではないか、という怯え。様々な要因が混ざり合っていた。
「…その毒は例えばネズミの心臓だけを止めることは可能?呼吸だけが止まる毒はある?筋肉だけを動かせなくする毒は?」
「ッハハ!」
「同じ死でも過程が違う。そしてそれによって腐敗速度も異なる。」
「もう確認したのか?」
「少しだけ。」
するとローエンが笑みを深めた。
「お前の言うとおり、死に方によって腐敗の差は出る。そして俺は少なくともお前よりは死体を見てきた自信はあるぜ?」
「…。」
「さぁ、どうする。」
ローエンの唇が弧を描く。
*
結局私はローエンをこの実験に引き入れることにした。私の屋敷に来たローエンは物珍しそうにキョロキョロと色々な物をのぞいているが、私がコイツを招き入れた理由を、コイツ本当にわかっているのだろうか。
「ここが実験室。」
「ヘぇ、もっとお貴族様の薄暗いところを想像していたが案外普通だな。」
「貴方は私達に何の印象を持っているの。」
呆れた溜息を吐くがあいつは気にしていない。実験室にある大窓と、それに照らされたこれまでの資料。そして積み上げられた標本と薬品独特の匂いに何か弾むような小さな歓声を上げている。
「で?サンプルは?」
「ここよ。」
「案外綺麗にやってるじゃねぇか。」
「まぁ貴方とはまた違う、人材を雇っているから。」
私が示した棚にはガラス容器に収められた標本が整然と並んでいる。どれも日付、処置内容、保存環境などを細かくラベリングしてそこに置いてあった。このどれもが私が自力で作り上げた物。伝手も一から築き上げ、北の大陸から来た学者やら教令院の研究者。その道の技術者の知識を詰め込んだ結晶。
ローエンがその棚の中の一つを手に取ると感心したような声を上げる。
「全部記録してあんのか。」
「当たり前ね。」
「腐敗が始まるまでの日数、匂いの変化、色の変化…。お前、結構本気になったんだな。」
「遊びでこんなことすると思う?」
ローエンの目がこちらを向く。その深い赤紫の真意は見えない。
「…私はずっと家の利益の為に生きるの。家の繁栄のために生きるの。それが高貴なる生活を約束された者の義務よ。私が成果を出せば私の商会は発展する。使用人達も今よりより良い生活ができる。それを追い求めて何が悪いの?」
「いや、別に?」
ローエンの瞳が黒々と輝く。それは幼い時に見た、逆さまの神像と思い出させた。
妙に人を試すような目だった。
「誰も悪いなんて言ってねぇよ。」
ローエンは標本を棚へ戻す。かちゃり、とガラスの音が鳴る。
「むしろ立派じゃねぇか。」
その声音は軽い。けれど何故だろか、その軽さが妙に気味悪かった。
「家のため。」
一歩。
「使用人のため。」
また一歩。
「商会のため。」
棚から記録帳を引き抜いてローエンが開く。一頁、一頁と紙が捲れる。
「で?」
そして顔を上げた。
「お前自身はどこにいるんだ?」
言葉に詰まった。彼は構わず資料を読み進める。
「処置A。死亡後三日。処置B。死亡後五日。処置C。薬品濃度変更。処置D。死亡時の状態比較。」
そこで彼の口元が吊り上がった。
「なぁ。」
私は嫌な予感がした。
「お前、楽しんでるだろ。」
空白。
その瞬間、私の意識はまるでどこか浮いているようだった。そう、自分の体を遥か頭上から見下ろしているかのような。
「何を馬鹿なことを。」
私の声がする。
「嘘だな。」
彼は即答だった。まるで最初から答えを知っていたみたいに。
「違うわ。」
「違わねぇ。」
ローエンが近くの机に腰掛ける。
「だってお前、この記録を書いてる時の字だけ妙に跳ねてる。」
私は息を止めた。
「この辺なんか特にそうだな。」
勝手に資料を指差される。そこには私自身も忘れていたような走り書き。腐敗速度の差異について。死因による変化について。保存状態について。夢中で書き殴った頁。
「家のためにやってる奴の字じゃねぇ。」
ローエンは笑っていない。
「知りたくて仕方ない奴の字だ。」
ローエンが動く。大きく足を踏み込まれる。私と彼の距離が近くなる。互いの呼吸の音が聞こえそうなほど。
「お前は──」
──その時だった。
実験室の扉が勢いよく開き、中に風と共に飛び込むようにして使用人がやってくる。
「お嬢様!」
ほとんど叫び声に近かった。続いて小さな黒い拳ほどの物体が地面を駆け回って私の足先に乗り込む。何かがスカートの下を撫でるように這って行く。無数のムカデのようなカサカサとした足が私の腿を、腰を、脇を、そして手に出てきた時に私はそれを腕ごと振り下ろした。
重い袋が弾ける音と、僅かな打撲音が響いて、その何か──ネズミは地面に落ち潰された。
静寂が場を支配する。
反射だった。それだけは神に誓える。
使用人は慌てて私に駆け寄った。
だがローエンは動かなかった。その赤紫の瞳は潰れたネズミではなく、その向こうにある何かを見ているようだった。
「……ローエン?」
呼ぶと彼はゆっくり瞬きをする。そして潰れたネズミから視線を外す。まるでそれ以上見たくないみたいに。
「お前、これどこまでやるつもりだ。」
ローエンの声は低かった。使用人がローエンに威圧されて後ずさる。私は咄嗟に使用人を部屋から出るように促した。今のローエンは危険だと思ったから。
実験室には私とローエンだけ。机の上には記録帳。ガラス瓶。そして捕獲されたばかりの小鳥がぴいぴいと鳴いている。
「どこまでって?」
妙に粘つく唾液を飲み込んで口を開く。
「結果が出るまでよ。」
ローエンはしばらく黙る。その沈黙がまるでこちらを批判しているようで、否定しているようで。
「何。」
「いや。」
彼は笑う。
だがその笑みはいつものものではない。
「お前、本当にそうなんだな。」
温度のない声だ。
「何が言いたいの?」
ローエンは鳥籠へ近付く。中の小鳥達が怯えたように暴れるが、ローエンはその小鳥達を憐れむかのようにゆっくりと鳥籠の扉を開けた。
「こいつら。」
「ええ。」
「死ぬんだろ。」
「当然。」
鳥籠の中の鳥達は飛ばない。いや、飛べない。何故なら風切羽を切ってあったから。
何を今更。私はそう思った。
だがローエンはそうは思わなかったらしい。
「当然か。」
「当然でしょう。研究とはそういうものよ。」
「研究ね。」
「何?」
「いや。」
ローエンは鳥籠を見たまま言った。
「お前さ。」
その赤紫の瞳がこちらへ向く。
「人間でも同じこと言うのか?」
空気が止まった。私は瞬きをする。
「どういう意味?」
「そのままの意味だ。」
ローエンが近付いてくる。今度こそ。明確な足取りを持って。
「面白そうだから。」
一歩。
「利益が出そうだから。」
一歩。
「答えを知りたいから。」
さらに一歩。
「人間も解剖するのかって聞いてんだよ。」
私は鼻で笑った。
「馬鹿ね。」
「答えろ。」
「人間は商材じゃない。」
「違う。」
ローエンは遮った。
「俺が聞いてんのはそこじゃねぇ。」
その声に初めて怒気が混じる。
「お前自身はどうなんだ。」
理解できなかった。本当に。何を怒っているのか。何が問題なのか。
「必要ならするわ。だって知りたいもの。」
静寂。
それは失言だったのかもしれない。けれど私にはわからなかった。
ローエンは私を見ていた。
長い間。まるで知らない他人を見るような目で。
「……あぁ。」
やがて彼は呟く。
「そうか。」
その声が妙に遠い。私は理由もなく胸がざわついた。
「何よ。」
「いや。」
ローエンは笑った。今まで見た中で一番綺麗な笑顔だった。
「やっと分かった。」
「何が?」
「お前。」
その言葉は静かだった。だからこそ鋭かった。
「誰にも興味ねぇんだな。」
息が止まる。私は反射的に否定しようとしたが。言葉が出ない。
「違うわ。」
「違わねぇよ。」
「私は人が好きよ。」
「好きじゃねぇ。」
即答だった。
「観察するのが好きなだけだ。」
心臓が妙に痛い。ばくばくと、荒れ狂うように音を立てている。指先に血の気が失せて行く気がする。寒い。どことなく。
ローエンは続ける。
「市場の商人も。」
「港の船乗りも。」
「俺も。」
赤紫の瞳が細くなる。
「全部お前にとっては箱の中のネズミだ。」
吐き捨てられたその瞬間。
私の頭の中で何かが溢れ出した気がした。
「何も知らない癖に。」
私の声は震えていたと思う。
「何も知らない癖に知ったようなこと言わないで。」
「じゃあ教えろよ…!」
ローエンが私の胸元を掴む。私はその腕にしがみついて爪を立てた。
「貴方に何が分かるの!!??」
初めて怒鳴った。淑女たる者、大声をあげてはいけないのに。怒りたくないのに。叫びたくないのに。
実験室が静まり返る。
「私は家を背負ってる!」
言葉が止まらない。
「商会も!」
ローエンに掴み上げられて、苦しい。
「使用人も!」
つま先が地面から浮く。
「家族も!」
けれどそれでも私は、私は、私は、私は……!!!!
「私は遊んでるわけじゃない!!!!!!!」
ローエンは何も言わない。目がじんわりと熱くなる。それが勝手に垂れて、流れて、地面に雫を作る。
「貴方みたいに好き勝手に歩けて、好き勝手に喋れて、好き勝手に生きられる人間と一緒にしないで!!!!!!」
言ってしまった。
その瞬間。
ローエンの表情が消えた。完全に。何も残らないほど。
「……あぁ。」
小さな声。
「そうかよ。」
彼は頷く。ただそれだけ。怒鳴り返しもしない。笑いもしない。
「悪かったな。」
背を向ける。
「ローエン。」
返事はない。扉へ向かう。
「…待ちなさい。」
それでも止まらない。
「待てと言っているの…!」
そして扉の前で。ほんの少しだけ振り返った。
「一つだけ教えてやる。」
その目にはもう親しさがなかった。
「知りたいって理由だけで進む奴は。」
静かな声。
「いつか、本当に取り返しのつかねぇ所まで行く。」
扉が閉まる。大きな音がした。実験室に残ったのは私一人。机の上の記録帳。ガラス瓶。小鳥達の鳴き声。それだけだったのに。
「どうして私、笑っているの…?」
小瓶に映った私は、見たことのない顔をしていた。























続きをお考えでしたら読みたいです…!!!!!