任務というものは、一つでも嫌だ。
これはもう、世の真理である。
偉い人はもっと広めた方がいい。
寺子屋の教本にも載せるべきだ。
「一、早寝早起き」
「二、人に親切に」
「三、任務は一つでも嫌」
この三本柱で教育を組み直してほしい。
未来ある子供たちに、人生の厳しさを早めに教えておくべきである。
まして、それが十を超えた場合はどうなるか。
嫌だ。
ただ、それだけだ。
それ以上でも以下でもない。
人間、追い詰められると語彙が減る。
嫌。
無理。
帰りたい。
この三つでだいたいの感情は表現できる。
問題は、俺に帰る場所がないことだった。
致命的な設計ミスである。
南の宿場で三日、商人を見張った。
見張るだけなら楽だと思うだろう。
違う。
見張るだけというのは、動けない分だけしんどい。
相手は飯を食う。
酒を飲む。
女と話す。
商談をする。
欠伸をする。
鼻をほじる。
人間のしょうもない部分を延々と見せられる。
こちらは屋根裏やら物陰やらで、息を殺してそれを記録する。
途中で、俺は本気で思った。
人間、情報になった瞬間にめちゃくちゃつまらない。
誰が、いつ、どこで、誰と会い、何を渡した。
それだけを拾っていくと、人の一日が帳簿みたいになる。
笑った理由も、疲れた顔も、茶を飲む時に少しだけ手が震えたことも、全部余計な情報として切り捨てる。
奈落の仕事は、人間を人間でなくすのが上手い。
標的も。
それを見る側も。
四日目の朝には、港へ移った。
密使の尾行だった。
密使というからには、もう少し密やかに動いてほしい。
堂々としすぎている。
堂々としすぎて、逆に怪しくない。
いや、怪しい。
怪しくないように怪しい。
何だその高度な技術。
こっちの情緒を試すな。
俺は魚臭い荷の陰に隠れながら、男の後を追った。
港は嫌いだ。
潮の匂いと魚の匂いと人の汗の匂いが混ざって、血の匂いが分かりにくい。
分かりにくい方がいい時もあるが、仕事中は困る。
血に慣れている自分に気づく方が、もっと困る。
途中、密使が船問屋の裏へ入り、別の男と短く言葉を交わした。
俺は屋根の縁からそれを見た。
紙片。
金。
符丁。
それから、何かの名。
聞き取れなかった。
風のせいだ。
波の音のせいでもある。
あと俺が疲れているせいでもある。
全部のせいにしていいなら、全部のせいにしたかった。
その夜、役人を一人消した。
消した、と言うと簡単だ。
本当に簡単に聞こえる。
紙の上なら三文字で済む。
現実は、もう少し長い。
背後に入る。
声を塞ぐ。
抵抗を封じる。
一度だけ、目が合う。
その目に浮かんだものを見なかったことにする。
刃を引く。
倒れる身体を支える。
音を殺す。
血を拭う。
痕跡を消す。
それで終わり。
終わり、ということにする。
俺は役人の瞼を閉じてから、少しだけ自分の手を見た。
指先に、赤いものが残っていた。
拭いた。
まだ残っている気がした。
もう一度拭いた。
たぶん消えた。
消えたはずだ。
消えてくれ。
頼むから。
「……今日の業務、終了でーす」
誰もいない裏路地で呟いた。
声がやけに軽かった。
軽すぎて、腹が立った。
次は山道だった。
接触者の確認。
言葉で言うと簡単だ。
実際は山である。
山。
坂。
木。
虫。
泥。
俺。
この並びを見て、楽しそうだと思う奴がいたら、代わってほしい。
今すぐ代わってほしい。
山道の任務は足に来る。
足に来て、膝に来て、腰に来て、最後に心に来る。
人間の身体は連携がよすぎる。
全員で俺を責めるな。
部署ごとに順番を守れ。
俺はぬかるんだ道を進みながら、書状を何度も確認した。
南の宿場。
港。
役人。
山道。
西の村。
城下の外れ。
廃れた番所。
また港。
多い。
多すぎる。
昨日、朧さんに馬鹿と言った罰にしては多すぎる。
いや、朧さんに馬鹿と言ったことはかなりまずい。
普通なら首が飛んでいてもおかしくない。
そう考えれば、この任務量はむしろ温情なのかもしれない。
温情の形が過労死なのはどうかと思うが、奈落にそこを期待してはいけない。
期待したら負けだ。
期待は、だいたい人間を変な方向に連れていく。
だが、それにしても多い。
俺は木の根に足を取られ、軽くよろけた。
支えようと手をついた先の樹皮が湿っていて、指先に嫌な感触が残る。
爪が少し痛んだ。
古い痛みが、天気予報みたいに身体の奥から顔を出す。
「……あー、くそ」
声が出た。
疲れている。
間違いなく疲れている。
眠れていない。
まともに食えてもいない。
任務は減らない。
書状はまだ残っている。
そして、懐の奥には黒い封筒がある。
最後に開け。
朧さんはそう言った。
今開けたら手を折る、とも言った。
あの人は冗談を言わない。
いや、言うのかもしれない。
先生の前では言ったのかもしれない。
そういう余計な想像をすると心が妙な場所に行くのでやめる。
とにかく、俺に対しては冗談を言わない。
今開けたら手を折ると言われたら、手が折れる。
比喩ではない。
人生で比喩だと思ったものが実務になる職場、奈落。
だから、開けていなかった。
最後に開ける。
任務を全部終えてから開ける。
そういう指示だった。
それだけだ。
それだけ、なのに。
何かが引っかかっていた。
多すぎる任務。
散らばった場所。
途中報告不要。
終えるまで戻るな。
任を離れるな。
途中で引き返すな。
余計なものを見るな。
余計なもの。
何だ、それは。
俺は木の幹にもたれ、息を整えた。
山の中は静かだった。
鳥の声。
虫の音。
葉が擦れる音。
遠くで水が流れる音。
静かすぎる。
奈落の廊下とは違う静けさだ。
奈落の静けさは、何かを隠している。
山の静けさは、何も知らない。
どちらにしても、俺にはあまり優しくない。
懐の奥で、黒い封筒が重かった。
紙だ。
ただの紙だ。
重いはずがない。
でも重い。
俺は、しばらくその場に立っていた。
開けるなと言われている。
開けたら手を折ると言われている。
最後に開けろと言われている。
つまり、今は開けるべきではない。
普通ならそうだ。
だが俺は、普通ではなかった。
奈落勤務一年以上。
肩書き、屍。
趣味、労災未申請。
特技、余計な時に余計なことをする。
そして、俺は知っている。
朧さんは、必要なことしか言わない。
言葉が足りないことは多い。
人間味も足りない。
糖分も足りない。
常に精進料理みたいな顔色。
多分、銀時と並べたら栄養バランスの対極にいる。
だが、命令文だけは妙に正確だ。
その朧さんが、最後に開けろと言った。
途中で戻るなと言った。
余計なものを見るなと言った。
それは、何かを隠している。
「……あー」
俺は天を仰いだ。
「嫌な予感って、だいたい当たるんだよなぁ」
言ってから、懐へ手を入れた。
黒い封筒を取り出す。
厚い紙。
硬い紐。
封はきっちり閉じられている。
何となく、封筒の前で正座した方がいい気がした。
しない。
してたまるか。
俺は今、山の中で一人だ。
封筒に礼儀を尽くし始めたら、本当に終わりだ。
指が少し震えていた。
疲れか。
嫌な予感か。
それとも、朧さんの「手を折る」が頭に残っているせいか。
全部だろう。
俺は封を切った。
中には一枚だけ、紙が入っていた。
短い。
短すぎる。
俺はその文面を読んだ。
最終任。
北の廃寺へ向かえ。
迎えの者が来るまで待機。
その間、寺を離れることを禁ずる。
伝令が来ても動くな。
火の手が見えても動くな。
人の名を聞いても動くな。
迎えの者と合流次第、帰還せよ。
しばらく、意味が分からなかった。
いや、文字は読めた。
読めてしまった。
読めなければよかった。
俺の識字能力、今だけ休暇を取ってほしかった。
だが、読めた。
北の廃寺。
迎えの者が来るまで。
待機。
離れるな。
伝令。
火の手。
人の名。
「……なんだ、これ」
声が出た。
ただの待機任務にしては、妙だった。
寺へ近づく者を見ろ、とも書いていない。
誰かを追えとも、殺せとも、記録しろとも書いていない。
ただ、そこにいろ。
何があっても動くな。
指示があるまで戻るな。
任務ではない。
待機命令ですらない。
隔離だ。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、喉が狭くなった。
帰還の条件が、自分の意思ではなく“迎えの者”に預けられている。
つまり俺は、ここで待たされる。
迎えが来るまで、動けない。
迎えが来なければ、帰ることすら許されない。
処刑場から、俺を遠ざけるための命令だった。
俺を、どこかから遠ざけている。
何かを見せないために。
何かを聞かせないために。
何かに向かわせないために。
伝令が来ても動くな。
火の手が見えても動くな。
人の名を聞いても動くな。
人の名。
俺が動く名前。
銀時。
高杉。
桂。
坂本。
先生。
その中で、一番、俺を動かす名前。
「……待て」
紙を持つ指が冷えた。
待て。
待て待て待て。
何でだ。
何で今日だ。
何で今日開けてしまったんだ。
黒い封筒は最後に開けるものだった。
つまり、全部の任務を終えた後、この廃寺へ向かわせるつもりだった。
迎えが来るまで、そこに縛る。
何かがある。
俺を、そこから遠ざけたい何か。
──処刑。
頭の中に、その言葉が落ちた。
崖。
人質。
高杉と桂。
銀時。
松陽先生。
首。
コメント欄の断片が、泥の中から浮かぶみたいに蘇る。
白夜叉。
桂小太郎。
高杉晋助。
吉田松陽。
奈落。
朧。
処刑場。
崖の上。
息が止まった。
「……いや」
俺は笑った。
笑おうとした。
喉から出たのは、乾いた空気だけだった。
「いやいやいやいや、ない。ないだろ。早い。まだ早い。いや、早いとか遅いとか俺が分かるわけないんだけど。分かるわけないんだけどさ」
独り言が増える。
良くない兆候だ。
俺が一人で喋り始める時は、大体ろくでもない。
相手がいないから止める奴もいない。
ツッコミ不在の独り言は、ただの異常行動である。
知っている。
身をもって。
俺は紙を握りしめた。
違うかもしれない。
ただの罰かもしれない。
俺が朧さんに馬鹿と言ったから、山ほど任務を与えて、最後に無意味な待機をさせるだけかもしれない。
奈落式の反省室。
心を入れ替えるまで廃寺にいろ。
なかなか性格が悪い。
あり得る。
朧さんならやる。
いや、やらないか。
あの人は無駄が嫌いだ。
俺を罰するにしても、無意味な待機だけはさせない。
使えるなら使う。
動かせるなら動かす。
それが朧さんだ。
じゃあ、何のために動かさない。
「……俺を動かしたくないからだろ」
自分で言って、血の気が引いた。
動かしたくない。
戻らせたくない。
見せたくない。
聞かせたくない。
動かれると困る。
処刑が始まる。
「……っ、」
紙を握ったまま、俺は走り出した。
山道を下る。
足元が悪い。
枝が腕を裂く。
泥が跳ねる。
息がすぐに乱れた。
当たり前だ。
ここ数日、まともに寝ていない。
任務続きで身体は重い。
傷も残っている。
膝が笑いかけている。
笑うな。
今笑うのは俺の担当だ。
足に取られるな。
何度か滑った。
一度、膝を打った。
痛みで視界が白くなった。
それでも止まらなかった。
詰所へ戻る。
戻るなと言われた。
終わるまで戻るな。
途中で引き返すな。
任を離れるな。
知るか。
そんなもの知るか。
俺は黒い封筒を握り潰したまま、山を下りた。
道中の記憶はほとんどない。
宿場へ戻ったのか、街道をどう抜けたのか、誰に見られたのか、分からない。
途中で馬を奪った気もする。
いや、借りた。
たぶん借りた。
返す予定はある。
生きていれば。
この場合、窃盗と緊急避難の境界はどこだ。
知らない。
法学部じゃない。
俺は奈落の屍だ。
肩書きだけで裁判官が頭を抱える。
詰所に辿り着いた時には、日が傾き始めていた。
息が焼けていた。
肺が痛い。
喉が血の味をしている。
足が震える。
手も震えている。
黒い封筒は、汗と泥で少し歪んでいた。
門番の奈落が、俺を見て動きを止めた。
「屍」
「通して」
声が低く出た。
自分でも、少し驚くくらい低かった。
相手は顔を隠している。
だが、戸惑ったのが分かった。
俺が途中で戻るとは思っていなかったのだろう。
当然だ。
俺も思っていなかった。
「任の途中だろう」
「通せ」
「許可は出ていない」
「通せって言ってんだけど」
俺は一歩近づいた。
門番の手が、刀へ動く。
その瞬間、俺も動いた。
相手が抜き切る前に、手首を掴む。捻る。
関節の向きと逆へ押し込む。
骨が鳴る寸前で止める。
門番の膝が、床に落ちた。
「っ」
「悪いね。今、労災相談窓口やってないんだ」
俺は、門番の手首を握ったまま、首を傾げた。
「朧さんどこ」
「答える義務は」
少しだけ力を入れた。
嫌な音がした。
完全には折っていない。たぶん。
いや、少しはいったかもしれない。
でも今は整形外科方面に謝っている時間がない。
門番が息を詰める。
「はい、もう一回。朧さんどこ」
「……不在だ」
「不在。なるほど。上司不在時の緊急対応マニュアルが欲しいですね。で、誰なら答えられる?」
「知らん」
「知らん、はよくないじゃん」
俺は笑った。
「次、肘いくけど」
門番の顔が、仮面越しでも強張ったのが分かった。
周囲の奈落が動く。刃が抜かれる。足音が増える。俺を囲む気配がする。
いいよ。
囲めばいい。
今の俺は、囲まれて困るほど落ち着いていない。
「屍、手を離せ」
奥から別の笠の男が出てきた。
前に報告を受けた男だ。
名前は知らない。
奈落は顔も名前も曖昧で、本当にこういう時に不便だ。
名札つけろ。
殺し屋集団に名札を求めさせるな。
俺は門番の手首を離した。
門番が下がる。
その代わり、俺は出てきた男の前へ歩いた。
「何があんの」
男は黙った。
「俺を遠ざけた。北の廃寺。伝令が来ても動くな。火の手が見えても動くな。人の名を聞いても動くな」
俺は黒い封筒を突きつけた。
「ねぇ。これ何。奈落式ピクニック? お弁当持参の記載なかったんですけど」
「任に戻れ」
「質問に答えろ」
「任に戻れ」
「会話のキャッチボール下手か。こっちはボール投げてんの。そっちは石投げ返してんの。キャッチボールじゃなくて投石刑なんだわ」
「屍」
「今日、何がある」
男は答えない。
沈黙。
その沈黙で、俺の中の何かがさらに焦げた。
俺は一歩踏み込んだ。
「白夜叉はどこ」
男の肩が、ほんのわずかに動いた。
それだけで足りた。
俺は笑った。
笑った瞬間、男の胸倉を掴んで柱に叩きつけた。
鈍い音がした。
周囲が一斉に構える。
「動いたら次、この人の肩外す」
自分の声が、やけに軽かった。
「外すだけなら治るでしょ。奈落ってそういうの得意じゃん。関節はずして戻すの、研修項目にありましたもんね。俺、実技で覚えました。最悪のOJTだった」
男が俺の腕を掴もうとする。
俺はその手を取って、親指を逆へ折った。
今度は、はっきり音がした。
「っ、ぐ……」
「はい一本」
俺は男の耳元で言った。
「次、どこがいい? 指って便利だよな。十本もある。設計者、拷問する側に優しすぎる」
周囲の空気が、凍った。
今、怖がられている。
いつものように喋っているのに。
いつものように、くだらないことを言っているのに。
俺の目が笑っていないからだ。
「答えて」
男は歯を食いしばった。
「……お前に関係はない」
「あるんだよ」
声が、勝手に低くなった。
「あるから、ここに戻ってきたんだよ」
俺は男の手を持ち上げた。
「次は薬指。結婚してる?してたらごめんね。指輪入らなくなるかも」
「屍、やめろ」
誰かが言った。
俺は振り返らなかった。
「じゃあ答えろよ」
男の呼吸が荒くなる。
「白夜叉は」
沈黙。
俺は薬指に力をかけた。
「三」
「……」
「二」
「待て」
「一」
「捕らえられた」
指を折る直前で、手が止まった。
周囲の音が、遠くなる。
「誰が」
男は黙った。
俺はまた少し力を入れた。
「誰が捕らえられた」
「白夜叉、桂小太郎、高杉晋助」
喉が詰まった。
三つの名前が、胸の奥に落ちる。
落ちて、重くなる。
「先生は」
男の顔が、わずかに強張った。
俺は笑った。
笑ったと思う。
「今の顔、正解発表前の司会者みたいでしたね。嫌なクイズ番組だな。賞品に碌なもんがない」
「……吉田松陽も、移送済みだ」
移送。
「どこへ」
「……」
「どこへ」
俺は男の折れていない指を掴んだ。
「次中指いく。日常生活に支障出る。あと煽りの表現力が落ちる。奈落勤務にはそこそこ痛手じゃない?」
「……刑場だ」
一瞬、全部の音が消えた。
刑場。
分かっていた。
分かっていたのに、聞いた瞬間、身体の中の血が全部冷える。
「いつ」
「すでに出立している」
「いつ」
「未の刻前だ」
未の刻前。
俺は外を見た。
日が傾いている。
もう、時間がない。
頭の中で、時間が勝手に組み上がる。
移送の速度。
道。
処刑場までの距離。
銀時たちが抵抗した場合の遅れ。
奈落の手際。
定々の命令。
間に合うか。
分からない。
分からないなら、走るしかない。
俺は男を離した。
男が床に崩れる。
周囲の奈落が、俺へ刃を向けた。
「任に戻れ、屍」
「やだね」
俺は刀を抜いた。
「別の仕事ができた」
「任を放棄する気か」
「いやいや、追加発注でしょこれ」
口が勝手に動く。
「急ぎの案件です。納期は今。失敗したら人生終了。いやー、奈落って本当ブラックですね。レビュー星一つもつけたくない」
一人が踏み込んでくる。
俺は避けた。
刃を弾く。
足を払う。
倒れた身体を越える。
二人目が横から来た。
短刀。
低い。
半歩引いて、手首を取る。
捻る。
膝を入れる。
息が詰まったところへ、柄を首元に叩き込む。
崩れた。
確認はしない。
「邪魔すんな」
声が低くなる。
「俺、今日もう監視して、尾行して、殺して、山走って、黒封筒開けて、最悪の答え合わせまでしたんだよ」
三人目が前に出た。
まだ来るのか、と思った。
一人倒せば次。
二人倒せば次。
命令がある限り、足を止めない。
面倒くさい。
もう、いちいち相手していられない。
俺は真正面から踏み込んだ。
相手の刀が上がるより早く、肘を打つ。
乾いた音がして、刀が落ちる。
そのまま膝を蹴った。
低い音がした。
男の身体が崩れる。
俺は胸倉を掴んで、地面へ叩きつけた。
一度。
土が跳ねる。
まだ動こうとした。
二度目。
息が潰れる音がした。
周囲の足が止まる。
俺は倒れた男の肩を踏んだ。
「これ以上、残業増やすなって」
声は軽かった。
軽いまま、足に力を込める。
ぐ、と骨が軋む感触が足裏に返る。
次の瞬間、嫌な音がした。
湿った枝を無理やり折ったみたいな、聞いた人間の身体の奥まで届く音だった。
男の喉から、声にならない声が漏れる。
誰もすぐには動かなかった。
今だけでいい。
追う気をなくせ。
俺を止める前に、今の音を思い出せ。
その一拍があれば足りる。
「労基に言いつけてやるからなァァァ!」
叫んだ瞬間、空気がずれた。
場にあった恐怖と、俺の馬鹿みたいな声が噛み合った。
誰かが踏み出そうとして、止まる。
別の誰かが刃を構え直す。
追うべきか、止めるべきか、殺すべきか、その判断が一拍だけ遅れる。
久しぶりに、世界が俺のくだらなさに付き合った。
よし。
まだいける。
俺は門を抜けた。
外の空気が肺に刺さる。
日が傾いている。
空は赤いというより、青黒く沈み始めていた。
夕方の終わり、夜の手前。
世界がこれから何かを諦めるみたいな色をしている。
最悪だ。
処刑の日の空として、あまりにも似合いすぎている。
演出担当を呼べ。やりすぎだ。観客の情緒を殺しに来ている。
背後で、ようやく怒号が上がった。
「追え!」
遅い。
その一拍が、もう致命的だった。
俺はまっすぐ走らなかった。
門を抜けてすぐ、右へ折れる。
詰所の外壁沿い、崩れた土塀の陰へ入る。
土の上に、わざと深い足跡を残す。
焦って逃げた人間が、何も考えずに曲がったみたいに。
その先で、裂けた袖の布を枝に引っかけた。
血のついた布だ。
追う側なら、まず拾う。
俺なら拾う。
だから嫌になる。
「……ほんと、嫌なことばっか覚えてんな」
小さく吐いて、俺は足跡の先へは行かなかった。
低い土塀を越える。
裏手へ降りる。
そこにある洗い場の水瓶を倒す。
水が土を叩いた。
足跡が崩れる。
血の匂いも薄れる。
追手の足音が、俺の残した布の方へ流れていった。
「血がある」
「こっちだ」
よし。
俺は息を殺したまま、洗い場の裏の細道へ滑り込む。
そこは、任務帰りの者が血や泥を落としてから詰所へ戻るための裏道だった。
教わったわけではない。
何度も連れ戻されるうちに覚えた。
痛みで覚えた地形は、地図より忘れにくい。
教育方法としては最悪である。
追手の気配が散る。
水場へ。
血の布へ。
屋根の上へ。
街道の先へ。
俺が本当に向かう方角には、まだ誰もいない。
完全に撒いたわけじゃない。
だが、今すぐ追いつかれることはない。
十分だ。
「奈落式かくれんぼ、実技試験合格でしょ」
声はかすれていた。
笑えてはいない。
でも、言葉が出るだけまだましだった。
俺は裏道から外へ出た。
夕暮れの街道が伸びている。
人は少ない。
皆、何かを避けているように戸を閉めている。
遠くで馬の蹄の音がする。
風が乾いている。
火の匂い。
土の匂い。
それから、自分の血の匂い。
走った。
屍。
死体。
動かないもの。
声を出さないもの。
何も望まないもの。
俺はまだ、そこまで行けていない。
銀時の名前で動く。
高杉と桂の名前で息が詰まる。
松陽先生の名前で、全部を放り出して走る。
俺はまだ、完全な屍になれていない。
「……失敗作だな」
息が漏れた。
「奈落が二年近くかけて製造した結果がこれってコスパ悪すぎだろ。不良品にも程がある」
誰もツッコまない。
分かっている。
ツッコミ担当は、今から死ぬほど重い選択をさせられる場所にいる。
その想像だけで、足が速くなった。
「……銀時、ッ」
名前が、口から漏れた。
呼んだところで届く距離じゃない。
叫んだって、まだ遠い。
それでも、喉が勝手にその名前を選んだ。
銀時。
怒っている。
たぶん、まだ怒っている。
あの日のことも。
死体の山でのことも。
俺が奈落の側にいることも。
屍なんて名前で、あいつらの敵みたいな場所に立っていることも。
でも、それでいい。
怒れ。
恨め。
殴れ。
斬りかかってきてもいい。
だから、刀を振るな。
先生にだけは、振るな。
そのために奈落に入った。
そのために、屍なんて名前に返事をした。
そのために、爪を剥がされても、薬瓶の音だけで息が止まるようになっても、暗い部屋に入るだけで身体が固まるようになっても、汚い仕事を積まれても、まだ喋って、まだ笑っていた。
そうやって壊れても、まだ死ななかった。
全部、この日のために。
言いたいことは山ほどあった。
置いていかれたのが嫌だったとか。
失せろって言われたの、結構傷ついたとか。
お前のツッコミがないと俺はただの不審者になるんだぞとか。
こっちはこっちで地獄の職場体験してたんだけどとか。
本当は、戻って来いって言ってほしかったとか。
全部、今じゃない。
今言うべきことはそれじゃない。
選ぶな。
刀を振るな。
俺が行くまで、何とかしろ。
無茶を言っている。
分かっている。
でも俺はずっと、無茶しか言っていない。
その無茶を通すためだけに、ここまで来た。
荒地へ近づくにつれ、空が暗くなっていった。
夕暮れの赤が、青黒い雲に飲まれていく。
風が乾いている。
血の匂いがする気がした。
まだ遠いはずなのに。
たぶん、俺自身の血の匂いだ。
それでも、例の崖が近いと身体が分かっていた。
足が鈍る。
怖い。
今さら怖い。
ここまで来て、何をすればいいのか分からない。
走っている間、具体的な策なんて何一つ浮かばなかった。
銀時を止める。
松陽先生を逃がす。
高杉と桂を助ける。
言葉にすれば簡単だ。
実際には、全部同時にやらなければならない。
どれか一つでも遅れれば終わる。
どれか一つでも間違えれば、誰かが死ぬ。
俺は立ち止まりかけた。
その瞬間、風が変わった。
乾いた土の匂いに、鉄の匂いが混ざる。
血の匂いではない。
まだ遠い。
でも、刃が抜かれた場所の匂いがした。
続いて、金属が擦れる音。
小さい。
遠い。
普通なら聞き逃すような音だった。
人が人を囲む時の音。
刃を構え直す音。
誰かが逃げられないよう、足場を詰める音。
近い。
分からないが、身体が勝手に動いた。
荒地の手前で、俺は身を低くした。
目の前に、奈落の列がある。
笠。
黒衣。
刀。
錫杖。
沈黙。
崖先を囲むように配置されている。
正面から行けば止められる。
俺が声を上げる前に、喉を潰される。
腕を殺される。
足を奪われる。
その止め方を、俺は知っている。
嫌というほど知っている。
「……やだなぁ」
小さく声が漏れた。
「上司の教育方針が身体に染みついてるの、最悪だなぁ」
俺は仮面をつけ直した。
いつもの屍の顔になる。
いや。
今だけは、屍の顔を借りる。
奈落の列の端へ滑り込む。
誰かがこちらを見る。
「遅い」
低い声。
俺は肩をすくめた。
「残業でして」
「何班だ」
やばい。
ナチュラルにハブられてる人間に、組織図を要求するな。
俺の脳内人事部は今、全員退勤しています。
俺は笑った。
「胃痛班です」
「何だと」
「現場が荒れるたびに胃を痛める部署です。今日かなり繁忙期ですね」
相手の手が動いた。
合図。
俺は相手の袖を掴み、引き寄せた。
「ごめん」
小声で言った。
「今、説明してる時間ない」
鳩尾に膝を入れる。
相手の息が止まる。
声が出る前に首元を押さえ、地面へ沈めた。
殺さない。
殺している時間が惜しい。
倒れた身体を岩陰へ押し込む。
笠を拾い、仮面の上からさらに深く被った。
心臓がうるさい。
もう少し。
もう少しで見える。
俺は列の内側へ入った。
荒地が開ける。
そこに、全部があった。
崖の縁。
天導衆。
縛られた松陽先生。
刀を持った銀時。
地面に押さえつけられた高杉と桂。
周囲の奈落。
その外側に、朧さん。
息が止まった。
間に合った。
いや。
間に合っていない。
銀時はもう、刀を握っている。
高杉と桂は動けない。
刃を向けられている。
松陽先生は、縛られたまま膝をついている。
銀時の顔が見えた。
何だ、あれ。
あれは、銀時の顔じゃない。
いや、銀時だ。
間違いなく銀時だ。
銀色の髪。
握った刀。
血と土に汚れた姿。
でも、顔だけが違う。
人が、人でいられるぎりぎりのところを無理やり立たされている顔。
目が死んでいるんじゃない。
死ぬことも、逃げることも、目を逸らすことも許されていない目だった。
「……銀時」
枯れた声が出る。
声にしてはいけなかった。
まだだ。
まだ飛び出すな。
見ろ。
数えろ。
距離を測れ。
誰がどこにいる。
誰が最初に動く。
誰を止めれば、誰が死ぬ。
誰を助ければ、誰が殺される。
頭ではそう思っているのに、視線が言うことを聞かなかった。
銀時がいる。
松陽先生がいる。
高杉がいる。
桂がいる。
刃がある。
縄がある。
崖がある。
奈落がいる。
天導衆がいる。
朧さんがいる。
情報が、ばらばらに目へ飛び込んでくる。
点ばかりが増えて、線にならない。
冷静になれ。
そう思った。
無理だった。
銀時の手にある刀から、目が離れなかった。
作戦は。
ない。
何もない。
ここまで来れば何か思いつくと思っていた。
現場を見れば、身体が勝手に動くと思っていた。
馬鹿みたいな補正が、都合のいい道を勝手に開けてくれると思っていた。
馬鹿か。
そんな便利なものじゃないだろ。
俺は何度それで痛い目を見た。
何度死にかけた。
何度、うまくいったように見えて、結局何かを失った。
目の前には、完璧に整えられた処刑の場がある。
銀時に選ばせるための舞台。
高杉と桂を人質にするための配置。
松陽先生を逃がさないための距離。
奈落が異物を潰すための包囲。
朧さんが全体を止めるための外側。
完成している。
完成しすぎている。
どうすればいい。
どこから壊せばいい。
天導衆を狙うか。
遠い。
近づく前に松陽先生が殺される。
松陽先生の縄を切るか。
左右の奈落が先に動く。
高杉と桂を助けるか。
銀時の刀が落ちる。
銀時を止めるか。
高杉と桂の首が落ちる。
朧さんを止めるか。
無理だ。
真っ先に俺が止められる。
分からない。
本当に、分からない。
こんなところまで来て。
ここまで壊れて。
ここまで走って。
まだ、どうしたらいいのか分からない。
「っは、は」
乾いた笑いが出た。
笑えよ。
笑え。
ふざけろ。
それしかないだろ。
「……壊す」
俺は小さく呟いた。
答えがないなら、場を壊せ。
理屈で間に合わないなら、空気を壊せ。
配置が完成しているなら、完成した舞台ごとぶっ壊せ。
銀時に選ばせるな。
高杉と桂を人質にさせるな。
松陽先生を処刑対象のまま置くな。
朧さんに管理させるな。
天導衆に進行させるな。
この場を、処刑場じゃなくする。
処刑の場でなくなれば、処刑は進まない。
俺が今まで生き残るために使ってきたもの。
あの馬鹿みたいな補正。
俺を生き残らせてきた、くだらない力。
でも、今日は違う。
俺が生き残るためじゃない。
銀時を。
高杉を。
桂を。
松陽先生を。
「……あの馬鹿みたいな補正で」
喉の奥が震えた。
「全員、生き残らせる」
言った瞬間、胸の奥が変な音を立てた。
自分の名前は、そこに入っていなかった。
入れなかったのか。
入れる気がなかったのか。
入れ忘れたのか。
分からない。
分からないままでいい。
今はそれでいい。
天導衆の声がした。
「選べ」
銀時の肩が、わずかに震えた。
それでも、足は前に出た。
一歩。
松陽先生の方へ。
刀を握ったまま進むその足は、もう迷っていなかった。
迷っていないからこそ、ひどかった。
俺の足が動きかける。
止める。
まだだ。
早すぎる。
今飛び出せば、高杉と桂が死ぬ。
松陽先生も殺される。
俺だけが間に合ったつもりで全部壊す。
壊したいのは処刑の場だ。
命じゃない。
待て。
待て。
俺は列の中で拳を握った。
指先が痛い。
爪の跡が掌に食い込む。
痛みで何とか立っている。
松陽先生が、銀時を見ていた。
静かな目だった。
それから、先生は少しだけ息を吐いた。
安堵のように見えた。
この状況で。
縛られて。
膝をついて。
これから自分が斬られるというのに。
刀を握ったまま動かない銀時に、先生が何かを言った気がした。
銀時の腕が上がる。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
世界が遅くなる。
高杉が叫んだ。
声が割れている。
刃を向けられているのに、暴れようとしている。
これか。
これが、壊さなきゃいけない瞬間か。
原作なんて言葉で片づけるな。
これは銀時の人生だ。
高杉の人生だ。
桂の人生だ。
先生の命だ。
誰かが読むための物語じゃない。
俺が壊すためにここまで来た、現実だ。
俺は、息を吸った。
肺が痛い。
喉が裂けそうだ。
声なんか出るのか分からない。
でも出せ。
声。
腕。
足。
俺の全部を、ここで使え。
銀時の刀が、落ちる。
──その一瞬前に、俺は奈落の列から飛び出した。
「タァァァァイム!!!」
声が荒地に響いた。
響いた、というより、ぶつかった。
処刑場に似つかわしくない、あまりにも馬鹿みたいな声だった。
でも、その馬鹿みたいな声で、銀時の刀は止まった。
高杉と桂が顔を上げる。
松陽先生の目が、こちらを見る。
奈落の視線が一斉に動いた。
その一拍で、俺はもう走っていた。
銀時の背後にいた奈落の手首を斬る。
刀が落ちる。
返す刃で喉元を裂く。
次に、松陽先生の傍にいた奈落へ飛び込んだ。
先生の首へ向いていた刃が、俺へ向く。
それでいい。
身を沈め、腕を斬り、胴を払う。
二つの身体が、ほとんど同時に崩れた。
銀時の背中を押す手は消えた。
松陽先生の首へ一番近い刃も消えた。
でも、まだ。
まだ、足りない。
俺は血のついた刀を振り払い、息を吸った。
ここから先は、声で壊す。
「審判!!バッター泣いてるんで一回止めてくださいィィィ!!」
一拍、誰も動かなかった。
処刑場の空気が、妙なところでつまずいた。
銀時の口が、何かを言いかけるみたいに少しだけ動く。
けれど、動けなかった。
動かないんじゃない。
動けない。
銀時の背後には奈落の刃がある。
高杉の首元にも、桂の喉元にも刃がある。
松陽先生の拘束を握る奈落の手も、いつでも首へ届く位置にある。
銀時が一歩でも外れれば、高杉が死ぬ。
桂が死ぬ。
松陽先生が死ぬ。
銀時は、選ばされているんじゃない。
選ぶ以外の動きを、全部殺されている。
だから、俺が先に壊すしかない。
配置は頭に入っている。
一番近いのは銀時。
一番危ないのは松陽先生。
一番先に殺されるのは、高杉と桂。
そして一番早く俺を潰しに来るのは、朧さんだ。
天導衆が短く言った。
「朧」
その一言だけで十分だった。
朧さんが動く。
返事はない。
確認もない。
躊躇もない。
針が飛んだ。
三本。
同時だった。
考えるより先に、身体が動いた。
俺は刀を振った。
足元から喉元へ、斜めに斬り上げるような軌道。
低く、速く、細い線をなぞるように。
膝の高さを通り、肩の前を抜け、喉元の前で止まる。
金属音が三つ、ほとんど同時に鳴った。
喉は残った。
腕も残った。
足も残った。
遅れて、息が戻ってくる。
そして、その瞬間に理解した。
今の三本は、全部、俺を殺すための針じゃなかった。
動かなくするための針だ。
一本は喉。
声を奪う場所。
そこを突かれれば呼吸が詰まる。喋れない。叫べない。ふざけられない。
一本は肩。
刀を握る腕を殺す場所。
そこを突かれれば腕が落ちる。握力が抜ける。刃を持てなくなる。
一本は膝裏。
足を奪う場所。
そこを突かれれば立てない。踏み込めない。逃げられない。
声。
腕。
足。
俺から一度に全部奪う気だった。
ああ、朧さんらしい。
様子見なんかしない。
警告なんかしない。
この場で邪魔だと判断した瞬間、最短で機能を潰しに来る。
奈落のやり方だ。
朧さんのやり方だ。
そして、俺はそれを知っていた。
知りたくて知ったわけじゃない。
二年近く、散々突かれた。
何度も膝を落とされた。
何度も腕を殺された。
何度も喉を潰されかけた。
どこに針が来れば、何が動かなくなるのか。
どこをやられたら、身体がどう壊れるのか。
全部、身体で覚えさせられた。
だから分かる。
朧さんがこの場で俺を止めるなら、最初に狙うのはそこだ。
全部、身体で覚えさせられた。
だから防げた。
考えて防いだんじゃない。
考える前に、刀がそこへ走っていた。
針の通る道に、先に刃の軌道を置いていた。
そのことが、少しだけ気持ち悪かった。
奈落でされたことが、今だけ俺を生かしている。
最悪の教材が、最悪の場面で役に立っている。
笑えたものじゃない。
でも、笑うしかなかった。
俺は喉に残った息を、無理やり軽口に変えた。
「三球同時はボークだボーク!!審判ンン!!リクエスト要求!!ビデオ判定お願いしまァァす!!」
朧さんの目が、ほんのわずかに細くなる。
驚きではない。
怒りでもない。
確認だ。
こいつは読んでいた。
そう判断した目だった。
次の瞬間、朧さんが消えた。
いや、消えたように見えた。
近い。
そう思った時には、もう錫杖の環が目の前で鳴っていた。
しゃらん、と乾いた音。
場違いなくらい澄んだ音だった。
処刑場で鳴っていい音ではない。
寺とか、山道とか、そういう場所で鳴るべき音だ。
だが、朧さんはその錫杖を祈りの道具みたいには使わなかった。
殺すための棒だった。
錫杖の先が、俺の喉元へ一直線に入る。
針を弾いた直後の隙。
刀の峰はまだ上がっている。
鞘も外へ流れている。
足は踏み込んだまま。
本来なら、ここで終わっていた。
喉を潰される。
声が止まる。
息が乱れる。
俺の馬鹿みたいな補正も途切れる。
最悪だ。
首だけで避けようとした。
無理だった。
錫杖の先が、白い仮面の縁を掠める。
割れた破片が飛ぶ。
頬に細い痛みが走る。
「まだ攻守交代してねぇでしょうが!ピッチャーがバット持って殴りかかってくんな!ベンチ総出の乱闘パートやらせろ!!」
言い終わる前に、次が来た。
横薙ぎ。
速い。
ただの棒術じゃない。
刀より間合いが広い。
槍ほど直線的でもない。
環の音、棒の重さ、仕込み刃の気配。
全部が混ざっている。
間合いが気持ち悪い。
近いと思ったら遠い。
遠いと思ったら届く。
受けようとした場所には、もう角度が変わっている。
俺は刀で受けた。
重い。
腕が痺れる。
錫杖と刀がぶつかった瞬間、金属音の奥に鈍い衝撃が骨まで来た。
刃の重さじゃない。
打撃だ。
斬る前に、身体ごと壊す力。
「っ、ぐ……!」
足が沈む。
受けるな、と身体が叫ぶ。
これは受けるものじゃない。
流すものだ。
奈落で散々叩き込まれた。
朧さんの正面から受けたら、受けた側の関節が先に死ぬ。
俺は力を抜いた。
刀を滑らせる。
錫杖の軌道を斜めへ流す。
自分の身体も一緒に落とす。
だが、朧さんはそこまで読んでいた。
錫杖が途中で割れるように動いた。
仕込み刃。
銀色の刃が、錫杖の内側から滑り出す。
「隠し球にも程があるわァ!!」
刃が腹へ来る。
斬る軌道じゃない。
突き。
しかも、狙いが嫌だった。
腹のど真ん中じゃない。
少し脇。
そこを入れられると、身体の力が抜ける。
吐き気が来る。
踏ん張りが消える。
知っている。
知っているから、余計に怖い。
俺は腰を捻った。
刃が衣を裂く。
皮膚を浅く持っていく。
血が飛ぶ。
でも、入っていない。
息が荒くなる。
「悪いな、朧さん。そこは進研ゼミでやったところだ。こっちは教材費、身体で払ってんだわ」
朧さんの目が冷える。
次は、錫杖の石突が来た。
下から。
顎ではない。
喉でもない。
鎖骨の下。
腕に繋がる線。
ここを打たれると、片腕が落ちる。
刀を戻す暇がない。
だから、肘で受けた。
受けた瞬間、後悔した。
「ッ、あ゛……!」
痛い。
肘から肩まで、電気みたいな痛みが走る。
指先が一瞬消えた。
握力が抜けかける。
でも落とさない。
刀は落とさない。
「セーフ!今のギリセーフ!いやアウト寄りだけど審判買収してセーフ!」
「口だけは落ちぬな」
朧さんが言った。
低い声だった。
その声と同時に、錫杖がまた鳴る。
今度は音で釣りに来た。
環の音に、一瞬だけ意識が持っていかれる。
その裏から仕込み刃が来る。
目じゃない。
耳で惑わす。
間で殺す。
本当に嫌な人だ。
俺は仮面の下で歯を食いしばった。
今日の補正は乗っている。
今までで一番乗っている。
身体能力。
動体視力。
反射。
勘。
全部が、気味悪いくらい噛み合っている。
でも相手は朧さんだ。
針を弾いたくらいで終わる相手じゃない。
むしろ、そこからが本番だった。
遠距離を潰したら、近距離で来る。
経穴を外したら、打撃で壊す。
打撃を流したら、仕込み刃で刺す。
刺しを避けたら、音で間を狂わせる。
強い。
めちゃくちゃ強い。
そして、それが朧さんだった。
「……そりゃそうだよな」
俺は息を吐いた。
「松陽先生の一番弟子が、針投げるだけのわけねぇもんな」
その言葉に、朧さんの動きがほんの少し変わった。
ほんの少し。
刃の鋭さが増した。
踏んだ。
分かる。
踏んだ。今となっては踏み慣れたアレを。
でも、今は踏むしかない。
俺は錫杖の横薙ぎを、今度は刀で受けなかった。
身を低くして潜る。
地面に手をつく。
足を払うように回る。
朧さんは跳んだ。
軽い。
人間の動きじゃない。
錫杖の石突が、落下と同時に俺の背中へ来る。
背骨沿いの嫌な場所。
ここをやられると、呼吸が落ちる。
身体が固まる。
俺は転がった。
避けきれない。
石突が肩甲骨の端を打つ。
「っ、が……!」
息が漏れる。
視界が白くなる。
痛い。
重い。
気持ち悪い。
でも、動く。
動ける。
経穴の中心は外した。
そこだけは外した。
「……っぶねぇ、今の入ってたらコールドゲームだったわ」
膝をつきかける。
その瞬間、高杉と桂が視界の端に入った。
首元に刃。
背後に奈落。
押さえられた肩。
動けない腕。
まだだ。
まだ、あいつらは刃の下にいる。
銀時を説得する前に、あの二人を動ける状態にしないといけない。
銀時は、あの二人を抱えて走れる。
でも、二人が刃の下にいる限り、銀時は先生の前から動けない。
まずは、あそこだ。
俺は地面に落ちた針を見た。
さっき弾いた、朧さんの針。
二本、すぐ近くにある。
使えるかもしれない。
奈落で覚えた最悪の技術を、奈落の命令を壊すために使う。
そういう使い方くらい、許されてもいいだろ。
指先が動いた瞬間、朧さんが踏み込む。
当然だ。
拾わせるはずがない。
錫杖が横から来る。
俺の手首を砕く軌道。
俺は身体を沈めた。
錫杖が頭上を抜ける。
風圧だけで仮面が鳴る。
その一瞬で、針を二本拾った。
細い。
軽い。
嫌な軽さだ。
こんなもので、人の身体は止まる。
声も腕も足も、簡単に奪われる。
俺はそれを知っている。
だから使える。
「借りますね、朧さん!」
「許した覚えはない」
「レンタル規約読んでないんで!」
朧さんの仕込み刃が来る。
今度は避けきれなかった。
脇腹をざっくり持っていかれた。
熱い。
遅れて、痛い。
「っ、あ゛……!」
息が詰まる。
膝が落ちそうになる。
でも落ちない。
今、落ちるな。
腕を振る。
二本、同時。
一本は桂の首元に刃を当てていた奈落へ。
もう一本は、高杉を押さえつけていた奈落へ。
桂側は手首の内側。
刃を握る力を落とす一点。
高杉側は肩の下。
押さえる腕から力を抜かせる一点。
どちらも、俺が散々やられた場所だった。
針が走る。
桂の首元の刃が浮く。
高杉を押さえていた指が緩む。
一拍。
それだけあれば、十分だった。
桂の目が変わる。
理解が早い。
さすがだった。
身体を捩る。
逃げるためじゃない。
浮いた刃を、自分の縄に噛ませるために。
縄が切れる。
同時に、高杉が笑った。
嫌な笑い方だった。
「ッらァ!」
頭突き。
相手の顔面へ、高杉の額が入る。
鈍い音。
怒りだけで鳴らせる鐘があるなら、たぶんこういう音がする。
拘束が緩む。
桂が高杉の縄へ手を伸ばす。
高杉が自分でも暴れる。
二人の首元から、刃が離れた。
よし。
まず一つ。
壊せた。
「二名様ご案内!お通しカットしときますねェ!!」
そう叫んだ瞬間、背中に衝撃が来た。
朧さんだった。
体術。
錫杖でも刃でもない。
掌底。
背中の一点に、内側へ爆ぜるような衝撃が入った。
「が、ッ……!」
息が全部抜けた。
骨が折れたわけじゃない。
斬られたわけでもない。
でも、内側が揺れた。
腹の奥から、何かが逆流する。
喉が熱くなる。
血を吐いた。
赤いものが、仮面の内側に跳ねる。
呼吸ができない。
膝が落ちる。
朧さんの体術は、見た目ほど派手じゃない。
だが、当たる場所が悪すぎる。
骨を壊すより先に、身体の命令を壊す。
息を奪う。
足を奪う。
視界を潰す。
「っ、は、は……今の、内臓に直接クレーム入れるタイプのやつ……!」
笑い声みたいな息が混ざる。
本当に笑っているわけじゃない。
いつものやつだ。
朧さんは冷たく言った。
「次は外さぬ」
「じゃあ俺も外さないように頑張ります……いや、何の競技だよこれ……」
朧さんが、腰に負っていた刀へ手をかけた。
その瞬間、背中が冷えた。
錫杖ではない。
仕込み刃でもない。
針でもない。
刀。
朧さんが刀を抜く。
それは、制圧ではない。
牽制でもない。
懲罰でもない。
本気で殺しに来ている。
そう分かった。
銀色の刃が抜かれる。
音は小さい。
だが、その音だけで空気が変わった。
俺は血を飲み込んだ。
飲み込むしかなかった。
吐いている暇がない。
「……うわ」
声が掠れる。
「上司がガチ装備に切り替えた。これもう労災じゃ済まないやつだ」
朧さんは答えなかった。
刀が来る。
速い。
さっきまでの錫杖とは違う。
間合いが変わる。
重さが変わる。
軌道が変わる。
刃が、まっすぐ命を取りに来る。
俺は受けた。
受けた瞬間、腕が悲鳴を上げた。
重い。
速い。
鋭い。
そして無駄がない。
刀だけじゃない。
斬撃の途中に、足が来る。
体重を崩す蹴り。
肩を押し込む掌。
肘。
膝。
剣術と体術が繋がっている。
刀を受ければ、体術が入る。
体術を避ければ、刀が返ってくる。
刀を流せば、足を取られる。
足を逃がせば、肩を突かれる。
逃げ道がない。
強い。
ああ、強い。
「奈落の首領ってのは伊達じゃねぇなほんと…!」
俺は笑った。
「人事評価おかしいだろ!何でこんなやつが現場出てんだ!管理職はデスクで印鑑押してろ!」
「黙れ」
「黙ったら死ぬ!」
斬撃が来る。
受け流す。
返しの掌底が胸に入る。
ずらす。
ずらしたのに、衝撃が肺へ来る。
また血が上がった。
「っ、ぐ……!」
口の端から血が垂れる。
仮面の下へ流れる。
気持ち悪い。
息が鉄臭い。
朧さんの刀が、もう一度来た。
受ける。
無理だ。
腕が遅い。
握力も半分死んでいる。
終わる。
そう思った瞬間、横から刃が割り込んだ。
金属音。
朧さんの刀を、別の刀が受けていた。
銀色の髪が、視界の端で揺れる。
銀時だった。
「何やってんだ、てめぇ」
低い声だった。
怒っている。
でも、それだけじゃない。
銀時は俺を見ていた。
仮面で顔は隠れている。
奈落の黒衣を着ている。
血と泥にまみれて、どこからどう見ても敵側の人間だった。
それでも、銀時の目は俺から離れなかった。
「顔隠して、敵の真ん中から出てきて、声と喋り方だけ聞き覚えありすぎんの、普通に怪談だろうが」
胸の奥が、変な音を立てた。
名前は呼ばれなかった。
呼べなかったのか、呼ばなかったのかは分からない。
でも、気づいている。
たぶん。
いや、ほとんど。
俺は笑った。
「怪談じゃねぇよ。地獄の職場体験談だよ」
「笑えねぇんだよ」
銀時が吐き捨てる。
その瞬間、朧さんの刀が角度を変えた。
銀時の受けを滑らせるようにして、俺の喉へ戻ってくる。
銀時が踏み込む。
俺も無理やり刀を上げる。
二本の刀で、朧さんの刃を押し返した。
重い。
腕が軋む。
腹の傷が熱を持つ。
視界の端で血が落ちる。
でも、銀時も同じだった。
肩が揺れている。
息が荒い。
刀を握る手に、余裕がない。
当たり前だ。
あいつも、もう限界だ。
選ばされて。
折られて。
それでも立たされている。
そんな奴が、俺の横で朧さんの刀を受けている。
馬鹿か。
本当に馬鹿か。
「白夜叉!」
「あァ!?」
「高杉と桂を連れて走れ!」
銀時の目が、わずかに見開かれる。
朧さんの蹴りが来る。
銀時が肩で流す。
俺は横から刃を弾く。
息が詰まった。
「俺んとこいる場合じゃねえってこと!」
「ざけんな!」
銀時の声が荒くなる。
「てめぇ、そのザマで何言って」
「数見ろ!」
自分でも驚くくらい、声が低く出た。
銀時の動きが、一瞬だけ止まる。
「こっちは俺とパワハラ上司だ。一対一で済んでる」
「済んでねぇだろうが!」
「済んでることにしろ!今そういう書類で通してんだよ!」
朧さんの刀が来る。
受ける。
腕が痺れる。
「でも向こうは違う!」
俺は叫んだ。
「高杉も桂もボロボロだ!囲んでる数も多い!あいつら、自分の足だけじゃ抜けられねぇ!」
銀時の視線が、ほんの一瞬だけ高杉たちへ走った。
見た。
その一瞬で、分かったはずだ。
二人とも奈落の刀を奪って応戦してはいる。
けれど、どちらも完全には動けない。
周囲の奈落は、まだ多い。
ほんの少し遅れれば、巻き返される。
銀時の顔が歪んだ。
「てめぇもボロボロだろ……ッ」
「ボロボロ選手権してる場合か!」
俺は怒鳴った。
「俺はまだ一人で立ってる!あいつらは二人で囲まれてる!しかもお前が動かなきゃ、あいつらは先生の方へ戻る!」
銀時の息が止まった気がした。
俺は続ける。
「分かってんだろ」
言いたくなかった。
でも言うしかなかった。
「高杉は先生見たら止まらねぇ。桂だけじゃ押さえきれねぇ。お前が行かなきゃ、あいつら全員こっちに戻ってくる」
銀時の目が、揺れた。
「そしたら終わりだ」
刃が来る。
受ける。
受けきれない。
肩が裂ける。
「っ、」
痛い。
だが続ける。
「先生は捕縛。こいつが元の配置に戻る。天導衆も奈落も包囲を戻す。全部、元通りだ」
俺は仮面の下で歯を食いしばった。
「俺が今ここまで無理やり曲げた線が、全部、あの処刑シーンに戻る」
銀時が、俺を睨む。
怒っている。
今すぐ殴りたいみたいな顔をしている。
でも、反論は出なかった。
出せないはずだ。
銀時は馬鹿じゃない。
見れば分かる。
今どこが一番危ないか。
誰が動かなければならないか。
誰を先に拾うべきか。
分かってしまう。
だから、ひどい。
「先生追うなって言ってんじゃねぇ」
俺は言った。
「追うなら、生きて追えって言ってんの」
喉が焼ける。
「そのために、まず高杉と桂を連れて走れ」
銀時の手に力が入る。
刀が震えた。
「てめぇは」
「俺はここ」
即答した。
「ここでコイツ引き止める係。あと敵の視線を集める係。ついでに場をぐっちゃぐちゃにする係。職務内容多すぎて求人票詐欺だけど、今さら労基に駆け込んでる暇ねぇんだわ」
「ふざけんな」
「ふざけてねぇよ!」
声が荒れた。
自分でも驚くくらい、真っ直ぐだった。
「お前がここに残ったら、高杉と桂が死ぬ!」
銀時の顔が強張る。
「お前が先生だけ見たら、あいつらが死ぬ!」
銀時の奥歯が鳴った気がした。
「お前が俺を拾おうとしたら、全員死ぬ!」
言った瞬間、胸が痛んだ。
でも、止めない。
「だから行け!」
銀時は動かなかった。
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
それでも、動かなかった。
俺を置いていけない。
先生から目を離せない。
高杉と桂も見捨てられない。
全部を抱えて、足が止まっている。
だから俺は、最後の一つを突きつけた。
「頼む」
思っていたより落ち着いた声が出た。
銀時の目が、俺を見る。
「お前しか、あいつらを無理やり連れて行けねぇだろ」
その言葉で、銀時の顔が変わった。
高杉は銀時でなければ止められない。
桂も銀時が動けば合わせる。
二人を引きずってでも逃がせるのは、今この場で銀時だけだ。
銀時は、それを分かっている。
「……ッ」
銀時が、何かを噛み殺した。
それから、俺の横から離れた。
先生の方ではない。
俺の方でもない。
高杉と桂の方へ。
よし。
それでいい。
それでいいんだ。
そう思った瞬間、朧さんの刀が跳ね上がった。
「余所見とは余裕だな」
「してねぇよ」
俺は荒く息をした。
「こっちは会話も戦闘も同時進行なんですぅ。ブラック現場の必須スキルですぅ」
「戯言を」
刀が来る。
受ける。
重い。
腕が痺れる。
もう、銀時の姿を追っている余裕はなかった。
背後で、足音が乱れる。
「離せ銀時ィ!」
高杉の声。
すぐに、銀時の怒鳴り声が返った。
「黙れ!」
刃を受けながら、俺は息を詰める。
ちゃんと行った。
銀時は、ちゃんと高杉たちのところへ行った。
「今お前が戻ったら全部終わんだよ!」
「ふざけんな、先生が!」
「生きてりゃ追えるっつってんだろ!」
胸の奥が、熱くなった。
届いている。
俺の言葉が、銀時の声で返ってきている。
「高杉、今は退くぞ!」
桂の声も聞こえた。
「逃げるのではない、繋ぐのだ!」
「意味分かんねぇんだよ!」
「この場で死なぬことが、今の俺たちできる唯一の反撃だ!」
桂らしい。
こんな時でも、妙に桂らしい。
笑いそうになった。
でも、笑う前に朧さんの刀が胸元へ滑り込んできた。
「っ、」
受けきれない。
刃が胸元を裂いた。
血が跳ねる。
浅くない。
熱い。
次に、痛い。
それから、血。
「っ、あ……!」
視界が揺れた。
膝が落ちる。
落ちそうになる。
朧さんが刀を返す。
終わる。
そう思った瞬間、俺は自分から前に出た。
刀の間合いの、さらに内側。
斬られる距離ではない。
刺される距離。
朧さんが一瞬だけ目を細める。
その一瞬で、刃が腹へ入った。
避けなかった。
避ければ、また距離が空く。
距離空けば、この人は俺の言葉を切る。
奈落の首領として、処刑の進行を守る。
だから、避けなかった。
「っ、が……!」
刃が入る。
肉を割って、奥へ入る感覚。
熱い。
痛い。
重い。
息が止まった。
血が喉へ上がる。
口から溢れる。
膝が落ちそうになる。
それでも俺は、両手でその刃を掴んだ。
血が吹き出す。
手のひらが裂ける。
けれど、離さなかった。
抜かせない。
押し込ませない。
逃がさない。
朧さんの顔が、近い。
──ようやく届く距離だった。
俺は血を吐きながら、笑った。
笑ったつもりだった。
たぶん、ひどい顔だった。
「……先生の中に、何がいるか知ってんだろ」
朧さんの目が変わった。
低い声が返る。
「貴様こそ何を知る」
「全部は知らねぇよ」
血が喉に絡む。
苦しい。
息がしづらい。
でも口は止まらない。
「俺はいつだって肝心なとこだけ知らねぇ。攻略本なら乱丁、説明書なら一番大事なページだけ破れてる。不良品掴まされてんだよ、こっちは」
刃を握る手に力を込める。
刃が少し動いて、腹の中が焼けた。
視界の端が白く滲む。
それでも、朧さんから目は逸らさなかった。
「でも、これだけは分かる」
朧さんを見る。
「処刑されて戻ってくるものは、お前を救った人じゃない」
朧さんの呼吸が、ほんのわずかに止まった。
俺は続ける。
「お前を拾った人じゃない」
血が落ちる。
「お前を一番弟子にした人じゃない」
朧さんの目が冷えていく。
けれど、その奥に何かが揺れた。
怒りか。
殺意か。
もっと古い何かか。
「お前が、先生って呼びたかった人じゃない」
空気が変わった。
周りではまだ斬り合いが続いている。
怒号もある。
刃の音もある。
銀時が高杉たちを引きずる声も、遠くにある。
高杉が怒鳴っている。
桂が何かを叫んでいる。
それなのに、俺と朧さんの間だけ、音が薄くなった。
「それが本当に先生だって保証、どこにあんだよ」
自分で言って、少しだけ息が詰まった。
酷い言葉だと思った。
この人にとって、たぶん一番酷い言葉だった。
でも、ここで優しくしたら終わる。
ここで言葉を丸めたら、この人はきっとまた、先生という名前を抱えて処刑を進める。
だから、言った。
「あんたのは忠義でもなんでもねぇよ」
朧さんの刃が、ほんの少し沈んだ。
腹の奥で、熱いものが潰れる。
「っ、ぐ……」
声が漏れた。
けれど、離さない。
「あんたがただ、信じたいだけだろ」
朧さんの目が、俺を射抜いた。
殺意だけじゃない。
怒りだけでもない。
それでも、俺は止まらなかった。
「先生は戻ってくる。先生なら戻ってきてくれる。死なせても、また先生として帰ってきてくれるって」
言っていて、嫌になった。
あまりにも痛い願いだった。
あまりにも、見覚えのある願いだった。
失ったものが、まだ同じ形のままどこかにあると思いたい。
手を伸ばせば、今度こそ間に合うと思いたい。
そうじゃなきゃ、ここまで来た自分が何だったのか分からなくなる。
そう思わなきゃ、こんなところまで歩いてこられなかった。
俺にも分かる。
分かってしまう。
分かってしまうから、腹が立った。
「でもそれってさ」
指が滑る。
血で、刃がうまく掴めない。
手のひらが裂けて、痛みが遅れて来る。
それでも離さなかった。
「今ここにいる先生を、一回殺していい理由にはならねぇだろ」
処刑場の音が、少し遠くなった。
「今いるじゃん」
俺は、顎だけで松陽先生の方を示した。
「あそこに」
声が掠れる。
「まだ先生のまま、そこにいるじゃん」
松陽先生は、まだそこにいた。
縛られていても。
逃げ場を奪われていても。
それでも、まだ銀時たちを見ていた。
まだ弟子を案じていた。
まだ、先生の目をしていた。
朧さんは答えなかった。
答えないまま、俺を見ていた。
いや。
俺の向こうを見ていた。
縛られたまま、それでも静かにこちらを見ている松陽先生を。
俺はその揺れに縋るように、言葉を続けた。
「俺も人のこと言えねぇよ」
声が落ちる。
「銀時たちのためだって言って、奈落にいる自分を納得させてる」
言った瞬間、自分の胸にも刺さった。
そうだ。
俺も同じだ。
銀時のため。
高杉と桂のため。
松陽先生のため。
そう言えば、奈落にいる自分を少しだけ許せた。
屍なんて名前をもらって、仮面をかぶって、汚い任務をこなしても、目的があるから仕方ないのだと、自分に言い聞かせられた。
でも、それは俺の都合だ。
先生の願いではない。
銀時たちの願いでもない。
ただ、俺が壊れずにいるための言い訳だ。
「朧さん」
初めて、呼び方を戻した。
朧さんの刀は、俺の腹を貫いたまま止まっている。
動けば裂ける。
動かなくても痛い。
呼吸するだけで痛い。
でも、今だけは目を逸らせなかった。
「俺たちが勝手に自分を騙すのはいいよ。もう手遅れだしな」
笑った。
今度は、少しだけちゃんと笑えた気がした。
「……俺たち、たぶん結構終わってるよ」
言った瞬間、腹の奥が変に軽くなった。
認めたくなかったことを、ようやく外へ出した気がした。
俺も。
朧さんも。
たぶん、もうだいぶ終わっている。
取り返しのつかない場所まで来ている。
自分のためじゃないと言いながら、自分の未練で動いている。
誰かを救うためだと言いながら、自分が壊れないための理由にしている。
終わっている。
どうしようもなく。
それでも。
「でも、その嘘に先生の名前貼るなよ」
朧さんの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
言ってはいけないことだったのかもしれない。
誰にも言われたくなかったことなのかもしれない。
でも、言うしかなかった。
言ってから、仮面の下で笑った。
薄い、ひどく下手な笑いだった。
勝ち誇ったわけじゃない。
責めきれたわけでもない。
ただ、その言葉があまりにも自分にも返ってくるから、笑うしかなかった。
「先生まで、終わったことにすんなよ」
声が震える。
今度は、ふざけなかった。
ふざけられなかった。
「まだ間に合うだろ」
喉の奥が熱かった。
傷のせいだけじゃないと思った。
「今ならまだ、先生は生きてる」
朧さんは、何も言わなかった。
届いたのか。
届いていないのか。
分からなかった。
目の前にある灰色の目は、冷たいままだった。
それでも俺は、最後の一言だけは言わなきゃいけなかった。
ここまで言って、それを言わなかったら、たぶん何も届かない。
朧さんを奈落の首領のままにしておいたら、きっと駄目だ。
天導衆の刃のままにしておいたら、きっと駄目だ。
虚の側に立つ影のままにしておいたら、きっと駄目だ。
この人がかつて何だったのか。
先生の何だったのか。
それを、呼ばなければいけなかった。
「死んだ後の何かに縋るなよ」
息を吸う。
肺が嫌な音を立てる。
視界の端が白く滲む。
血の味が濃い。
それでも、言い切った。
「今、生きてる先生に手ェ伸ばせよ、兄弟子」
その言葉を口にした瞬間、朧さんの目が俺を射抜いた。
殺意だけじゃない。
怒りだけでもない。
何も感じていないようにも見えた。
俺の言葉なんか、最初から聞いていないようにも見えた。
刃が、俺の腹から引き抜かれる。
「っ、あ゛……」
熱いものが、一気に溢れた。
腹の中にあった支えを抜かれたみたいに、膝が落ちかける。
視界が白く揺れた。
朧さんが、刃を構え直す。
斬られる。そう思った。
無理か。
胸の奥で、妙に静かにそう思った。
届かなかった。
言葉が足りなかった。
俺の声じゃ、ここまでは動かせなかった。
そりゃそうだ。
いつだってふざけながら血の上を歩いてきた。
そんな奴が、今さら正しいことみたいに言ったところで、届くわけがない。
俺は刃を見た。
朧さんの刃。
何度も見た。
何度も避け損ねた。
何度も床に転がされた。
それが、今度こそ俺を斬る。
朧さんの腕が動く。
速い。
避けられない。
いや、もう避ける力も残っていない。
俺は目を逸らさなかった。
斬られるなら、せめて見ていようと思った。
次の瞬間、血が飛んだ。
──俺の血ではなかった。
刃は、俺の横を抜けていた。
ほんの少し、俺の肩先を掠めただけで。
そのまま、俺の背後へ振り抜かれていた。
遅れて、何かが崩れる音がした。
振り返る余裕はなかった。
でも、分かった。
俺の背後に、奈落がいた。
いつの間にか近づいていたのか。
朧さんの刃が俺に向いている間に、俺の背を取っていたのか。
俺には、まったく見えていなかった。
気配にも気づけなかった。
そいつは、声もなく崩れた。
俺を斬ろうとしていた奈落を、朧さんが斬った。
一瞬、誰も動けなかった。
俺も、動けなかった。
何が起きたのか分からなかった。
朧さんは、俺を斬るために刃を抜いたんじゃない。
少なくとも、最後の一振りは違った。
俺の後ろにいた奈落を斬るために、刃を振った。
その意味が、遅れて胸に落ちる。
伝わった。
俺が気づくより先に。
俺が「無理か」と思うより先に。
俺が届かなかったと思い込んだその瞬間には、もう。
この人は、選んでいた。
奈落ではなく。
天導衆でもなく。
虚へ戻る道でもなく。
もっと古くて、もっと痛いものを。
朧さんは、俺を見なかった。
ただ、低く言った。
「一度きりだ」
声は冷たかった。
でも、さっきまでとは違った。
俺を殺すための冷たさではない。
自分自身を逃がさないための冷たさだった。
「道を開けろ、屍」
俺は血の味を飲み込みながら、笑った。
腹から血が流れている。
立っているだけで視界が揺れる。
それでも、笑った。
「了解、兄弟子」
朧さんの目が、こちらを射抜いた。
「その呼び方をするな」
「じゃあ何て呼べばいいんですか?松陽先生ガチ勢?」
「黙れ」
「はいはい。今だけ黙りますよ、馬鹿上司」
針は飛ばなかった。
それだけで、少しだけ笑いそうになった。
いや、笑っていたのかもしれない。
仮面の下なので、よく分からない。
朧さんは踵を返した。
その背中が、奈落の首領のものなのか。
松陽先生の一番弟子のものなのか。
俺にはまだ分からなかった。
でも、一つだけ分かった。
この瞬間、道は変わった。
最悪の未来へ真っ直ぐ落ちていたはずの線が、ほんの少しだけ曲がった。
その曲がり角に、俺はまだ立っている。
血まみれで。
腹に穴を空けて。
仮面を割られて。
届いたかどうかも分からない言葉を吐いて。
それでも、立っている。
松陽先生が、こちらを見ていた。
俺は先生に向かって、息を吸った。
肺に血が絡んで、また変な音がした。
それでも言った。
「先生」
声が震える。
松陽先生の目が、痛そうに細められた。
その目を見た瞬間、俺は分かってしまった。
この人は来る。
来てしまう。
自分が狙われていても。
ここに残ればもっと最悪なものが戻ってくると分かっていても。
弟子が血まみれで立っていたら、きっと来てしまう。
そういう人だから、俺たちは先生と呼んだ。
だからこそ、言わなければならなかった。
「朧さんと逃げてください」
松陽先生の表情が、わずかに揺れた。
俺は笑った。
笑えたかどうかは分からない。
仮面は割れていたし、口の端から血が落ちていて、たぶんひどい顔だった。
「いや、言い方おかしいな。逃げてくださいっていうか、避難誘導?先生と兄弟子の地獄の二人三脚?画面映えはしないけど、今それしかないんで」
「君を置いてはいけない」
その声は静かだった。
優しいのに、逃げ場がない声だった。
やめてくれ。
そんなことを言われたら、本当に動けなくなる。
俺は、先生に向かって言った。
俺は血を吐きながら言った。
「置いていくんじゃなくて配置です。戦略的配置。俺は今、床に落ちてる邪魔な石ころ枠なんで。踏んで転ばせる係です」
「君は石ではありません」
「じゃあ釘でいいです。嫌なところに刺さるやつ」
「釘でもありません」
「じゃあ黒板消しです。扉に挟んでおいて、開けた奴の頭に落ちるやつ。俺の役割、完全にそれです。今から天導衆の頭に落ちてきます」
「黒板消しでもありません」
「さっきから俺の就職先ぜんぶ潰してくるじゃないですか。全滅ですよ。ハローワーク泣いてますよ」
「そんなところに就職しなくていい」
「もう就職済みなんですよ。内定取り消しできます?奈落ってクーリングオフ対応してます?」
「対応していなくても、先生権限で取り消します」
「権限強すぎません?幕府より上にいます?」
「少なくとも、君の進路希望には口を出します」
胸の奥が、めちゃくちゃに痛くなった。
傷のせいだと思いたかった。
「普通進路指導って教室とか職員室でやるんですよ。戦場でやるやつじゃない」
「君がここまで来たので」
「俺のせいにされた」
「君が悪い時は、ちゃんと君が悪いと言います」
「めちゃくちゃ正論で殴ってくる」
「物理でも殴りますよ。後で」
「……それって拳骨ですか」
言ってから、胸の奥が少しだけ緩んだ。
懐かしい、と思ってしまった。
「今の俺だと一発で地層まで行きますよ」
「加減はします」
「する気はあるんだ」
「叱る相手を壊しては、本末転倒でしょう」
腹の傷より先に、昔の廊下の匂いが戻ってきた気がした。
松下村塾の、乾いた木と、墨と、少し甘い饅頭の匂い。
そんなもの、今ここで思い出すな。
俺は笑った。
「……生徒名簿、更新されてないんですか」
声が震えた。
「俺もう退学どころか、校舎に落書きして別会社に就職したレベルなんですけど」
「退学届は受け取っていません」
松陽先生は言った。
「君が勝手に欠席しているだけです」
息の仕方を、一瞬忘れた。
欠席。
退学じゃなくて。
破門でもなくて。
ただの、欠席。
先生はそんな顔で、俺が勝手に消した席を、まだそこにあるみたいに言う。
「じゃあ、今だけ欠席扱いでいいです」
俺は、少し屈んで足元の刀を拾い上げた。
裂かれた手のひらが痛むのも気にせず、しっかりと握り込む。
「出席確認してたら全員死にます」
松陽先生の手が、ほんの少しだけ動いた。
縄で締め付けられた手首で、何かを掴み返そうとするみたいに。
「今ここに先生が残ったら、全部終わります」
声が震える。
でも、止めなかった。
「先生がここに残ったら、銀時は止まれない。高杉も桂も止まれない。朧さんも止まれない。天導衆も奈落も、全部この場で先生を殺す方向に戻る」
「君を見捨てろと?」
「違います」
即答した。
違う。
それを肯定しちゃいけない。
「先生に逃げてほしいんです」
俺は、血の味を飲み込んだ。
「俺を助けに戻ったら、先生はまた捕まる。先生が捕まったら、銀時はまた選ばされる」
喉が焼ける。
「だから、俺を助けたいなら、先に逃げてください」
言った瞬間、自分の胸にも刺さった。
ひどい言葉だ。
先生に向ける言葉じゃない。
でも、今ここで優しい言い方をしたら、先生は来てしまう。
この人は、血まみれの弟子を見て、置いていける人じゃない。
だから、逃げ道を塞ぐしかなかった。
「待ってろって言ってるんです」
喉が詰まった。
言ってしまった。
「俺、たぶん遅刻します。めちゃくちゃ遅れます。途中で迷うかもしれないし、保健室送りかもしれないし、正直この出血量だと登校以前に救急搬送なんですけど」
血の味が濃くなる。
「でも、行くから」
松陽先生は、俺を見ていた。
その目が、あまりにも静かだった。
怒っているわけじゃない。
責めているわけでもない。
ただ、俺が逃がそうとしているものを、全部見抜いているみたいだった。
「だから、先生は先に行っててください」
俺は朧さんを見た。
「朧さんと」
朧さんは何も言わなかった。
ただ、その目がこちらを見ていた。
何を考えているかなんて分からない。
結局この人については分からないことだらけだ。
でも、今だけは託すしかなかった。
「この人なら、先生を連れて行ける」
俺は息を吸った。
「この人じゃなきゃ、無理です」
朧さんの目が、ほんの少しだけ動いた。
俺は笑った。
「まあ、信用できるかって言われたら、万年パワハラ野郎だし、人をダーツの的代わりにしてくるし倫理観的には星一ですけど。でも今この場で先生を逃がせるのは、この人だけです」
血が腹から落ちる。
一滴。
二滴。
数えたら駄目だと思った。
数えた瞬間、出血量が現実になる。
現実は今、できるだけ薄目で見たい。
直視したら倒れる。
いや、もう倒れてないのが不思議なくらいだ。
「だから、先生」
俺は笑った。
「今だけでいいんで、言うこと聞いてください。問題児からの一生に一度のお願いです」
松陽先生は、俺を見ていた。
その目が、あまりにも静かだった。
怒っているわけじゃない。
責めているわけでもない。
ただ、痛そうだった。
俺の傷を見ているのに、先生自身が斬られたみたいな目をしていた。
やめてほしい。
そんな顔をされたら、俺がここに立っている理由が崩れる。
俺は自分を犠牲にしたいわけじゃない。
綺麗に死にたいわけでもない。
悲劇の弟子になりたいわけでもない。
ただ、銀時にあの刀を振らせたくなかった。
高杉と桂にあれを見せたくなかった。
先生に、先生のまま生きていてほしかった。
それだけだった。
それだけのはずだった。
「……君は」
松陽先生が、静かに言った。
「いつから、そんな顔で笑うようになったのですか」
息が止まった。
仮面が割れているせいでいつも隠している顔が丸見えだ。
片側が砕けて、頬も口元も見えている。
血もついている。
笑えているのかどうかも分からない。
それでも先生には見えている。
俺がどういう顔で笑っているのか。
「いや、顔面評価は今しないでくださいよ」
震えそうになる声を誤魔化すように声を張る。
「今の俺、だいぶ作画崩壊してるんで。後日、体調と顔面偏差値が戻ってから再提出します」
松陽先生は、すぐには答えなかった。
刃の音も、怒号も、奈落の足音もある。
なのに、その沈黙だけが妙に近かった。
俺の足首を掴んで、ここから逃がさないみたいだった。
先生は、まっすぐ俺を見た。
「約束できますか」
「何をですか」
「遅刻で済ませると」
息が詰まった。
先生は、逃げない。
言葉の逃げ道まで、ちゃんと塞いでくる。
俺は笑った。
笑うしかなかった。
「いや、ここで約束求めます?教育者の圧がすごいんですけど」
「腹に穴を空けたまま無断欠席する生徒を見逃すような先生ではないですよ」
「厳しいな、進路指導」
「当然です」
松陽先生は言った。
「君は、私の教え子ですから」
喉の奥が、焼けるみたいに痛くなった。
その言葉だけで、ここに立っている理由がほどけそうになる。
でも、今はほどけている場合じゃない。
先生を動かすには、先生が信じられる言葉がいる。
本当かどうかより先に、先生がその場を離れられるだけの言葉がいる。
俺は息を吸った。
血の味がした。
それでも笑った。
「……分かりましたよ」
軽く。
できるだけ軽く。
「遅刻で済ませます」
俺は言った。
今度はしっかり笑えたはずだ。
「では、遅刻扱いにします」
「いやぁ、だいぶ温情判決ですね」
「君には前科がありますから」
「何の前科ですか」
「饅頭の窃盗です」
「あれまだ時効来てないの!?」
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
松陽先生が微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間、俺の中で何かが折れそうになった。
ああ。
先生だ。
まだ、先生だ。
ここにいる。
生きている。
声がある。
目がある。
俺を叱る未来を、まだ持っている。
だったら、行かせるしかない。
俺は歯を食いしばった。
腹が痛い。
血が止まらない。
手のひらも裂けている。
足元が少しふらつく。
それでも、顔だけは上げた。
「朧さん」
呼ぶと、朧さんがこちらを見た。
「頼みます」
朧さんは答えなかった。
けれど、松陽先生の拘束へ向かった。
奈落の中に、ざわめきが走る。
当然だ。
朧が、松陽先生を解放しようとしている。
天導衆の命令ではなく。
奈落の命令でもなく。
自分の意志で。
その意味が分からないほど、ここにいる連中は鈍くない。
崖の縁に立つ天導衆が、低く言った。
「朧。何をしている」
その声には、怒りよりも先に、不快があった。
道具が折れることはある。
道具が欠けることもある。
道具が、道具のまま命令に逆らうこともあるだろう。
だが、朧さんは違う。
奈落を率いる者。
天導衆の影として動く者。
吉田松陽を殺すための刃であり、虚へ戻すための楔。
その朧さんが、拘束へ刃を向けていた。
処刑のためではない。
逃がすために。
盤上の石が動いたのではない。
盤面そのものが、勝手に向きを変えた。
「奈落の鴉が天に背くか」
天導衆の声が、低く落ちた。
朧さんは答えなかった。
答えないまま、松陽先生の縄を斬った。
縄が落ちる。
それだけの音が、やけに大きく響いた。
天導衆のそばを固めていた奈落が動く。
周囲の奈落も、それに続く。
こちらを殺しに来る者。
朧さんを止めに行く者。
松陽先生を奪い返しに行く者。
銀時たちへ向かう者。
全部が一斉に動き出す。
処刑場だった場所が、戦場に戻る。
いや、最初から戦場だった。
ただ、今までは銀時に選ばせるための舞台だっただけだ。
その舞台装置を、俺がぶっ壊した。
なら、最後まで壊し切る。
俺は刀を構えた。
「はいはいはい、ここから先は全面通行止めでーす!」
声を張る。
喉が痛い。
腹に響く。
血がまた口の中へ上がってくる。
でも、声は出る。
出てしまう。
なら使う。
「先生救出ルート、村塾生逃亡ルート、兄弟子反逆ルート!本日すべて俺が交通整理しております!なお整理券はありません!苦情はあとで地獄の受付まで!」
奈落が殺到する。
俺は前へ出た。
最初の刃を受ける。
流す。
柄で喉を打つ。
二人目の足を払う。
三人目の刃を、地面に転がっていた鎖で絡める。
都合がいい。
本当に、気味が悪いくらい都合がいい。
砂が舞う。
視界が切れる。
敵の足が石に取られる。
俺の刀が、ありえない角度で間に合う。
ギャグ補正が乗っている。
今までで一番。
今日で一番。
笑えるほど。
吐き気がするほど。
痛みはある。
血も出ている。
腹の奥は熱く、胸は裂け、手のひらは開くたびにぬるりと滑る。
本当なら立っていられるはずがない。
刀を握れるはずもない。
喋れるはずもない。
なのに、身体だけが間に合う。
敵の刃が来る場所へ、俺の刀が先に滑り込む。
踏み外すはずの足が、なぜか石の上に乗る。
倒れた奈落の身体が、次の敵の足を引っかける。
砂が舞い、視界が切れ、俺のくだらない声に合わせるみたいに、場の呼吸が一拍ずれる。
死にかけている。
それなのに、死にかけている時ほど、世界が俺の冗談に付き合ってくる。
本当に、最悪だった。
今まで俺を生かしてきた馬鹿みたいな力に、今日だけは俺の命じゃなく、あいつらの退路がかかっている。
いい。
見ろ。
俺を見ろ。
銀時から目を離せ。
高杉と桂から目を離せ。
松陽先生と朧さんから目を離せ。
この場で一番うるさい馬鹿を見ろ。
「処刑中止!脚本変更!この舞台、今からジャンル変わりまァす!」
刃を受ける。
脇腹がまた裂ける。
痛い。
でも、浅い。
「感動巨編かと思った?残念!ここから急に逃走中が始まりまァす!自首での賞金持ち逃げは割と炎上するのでおすすめしませーん!!」
俺は刃を弾きながら、銀時たちの気配を追った。
離れていく。
少しずつ。
でもまだ足りない。
奈落の一人が、松陽先生の方へ動こうとする。
俺はそれを遮った。
刀が足りない。
なら足を使う。
肩を使う。
体当たりをする。
敵を敵にぶつける。
折れた槍を蹴り上げる。
砂を巻く。
「そちら一方通行でーす!先生への直行便は本日運休!代替輸送もございませェん!」
天導衆のそばにいた奈落の一人が怒号を上げた。
「黙れ、下郎!」
「下郎って久々に聞いたな!普段から使ってんの?それとも使うタイミング今だって思った?」
斬撃が来る。
受ける。
重い。
天導衆のそばに置かれるだけあって、そいつらも弱くない。
むしろ強い。
同じ奈落でも、位置が違う。
命令を受ける場所が違う。
天導衆の足元を守る連中の刃は、迷いが薄い。
人を殺すことに慣れている刃。
俺は受け流し、足元を崩した。
護衛がよろめく。
その背中を、別の奈落へ押し込む。
混乱。
混乱だけを作る。
殺すより早い。
殺すより派手だ。
殺すより、視線が集まる。
俺は死体を減らしに来たんじゃない。
そんな立派なことを言える場所には、もういない。
ただ、選択肢を増やしに来た。
原作通りの一本道を、無理やりぐちゃぐちゃにしてやるために来た。
「おい!」
声がした。
銀時だった。
振り向くな。
振り向いたら駄目だ。
でも、声が耳に刺さる。
銀時の叫び声。
「てめぇも来い!」
その瞬間、足が止まりかけた。
喉の奥が、何かで塞がった。
──ずっと欲しかった言葉だった。
あの日、死体の山の前で。
味方を斬って、銀時に見られて、ノーカンだなんて馬鹿なことを言って。
あの時、本当は。
本当は、そう言ってほしかった。
行けじゃなくて。
失せろじゃなくて。
お前も来いと。
こっちへ来いと。
まだ戻ってこられる場所にいるのだと。
そう言ってほしかった。
遅い。
遅ぇよ、銀時。
なんで今なんだよ。
なんで、今になって言うんだよ。
俺が屍なんて名前をもらう前に。
奈落の仮面をつける前に。
誰かを殺すことに慣れる前に。
痛みに安心するようになる前に。
先生に会わせる顔がなくなる前に。
その前に、言ってほしかった。
てめぇも来い。
たったそれだけでよかった。
それだけで、たぶん俺は、馬鹿みたいに戻れた。
その一瞬を、奈落は逃さない。
刃が来る。
俺は反応が遅れた。
肩から胸へ、斜めに裂ける。
「っ、あ゛……!」
血が飛ぶ。
膝が落ちる。
落ちるな。
俺は刀を地面に突き立てて、身体を支えた。
「……悪い」
声が掠れる。
「俺、そっちに戻る切符、落としてきた」
銀時の気配が近づこうとする。
駄目だ。
来るな。
今来たら全部崩れる。
高杉と桂を連れて逃げる足が止まる。
松陽先生も戻る。
朧さんも止まる。
天導衆が包囲を戻す。
全部、戻る。
俺が必死に曲げた線が、原作の地獄へ戻る。
それだけは駄目だ。
俺は銀時の方へ、振り向いた。
白い仮面は半分割れていた。
視界の片側がひどく明るい。
銀時の顔が見える。
ああ。
最悪だ。
見なきゃよかった。
銀時は、今にも泣きそうな顔で怒っていた。
怒り。
後悔。
焦り。
恐怖。
それから、言葉になっていないものが山ほどある顔。
でも言葉になる前に、銀時は高杉に引かれた。
桂が銀時の腕を掴んでいた。
高杉は歯を食いしばっている。
自分も先生の方へ行きたいくせに、銀時を止めている。
みんな、限界だった。
刀を握り直した。
手のひらの傷が開く。
血で柄が滑る。
それでも握る。
銀時が、何かを言おうとしていた。
唇が動く。
でも、声にならない。
でも俺には、その中身が分からない。
分からないなら、分からないままでいい。
分かってしまったら、たぶん動けなくなる。
「銀時」
俺は呼んだ。
久しぶりに、その名前をちゃんと呼んだ気がした。
銀時の肩が、ほんの少し震えた。
「俺のことは恨んどけ」
「……ッ、てめぇ」
「恨み先がある方が、しばらく生きやすいだろ」
「違ぇ」
銀時が言った。
低い声だった。
「そうじゃ、ねぇだろ」
何が違うのか、分からなかった。
俺が恨まれるべきじゃないという意味なのか。
恨むだけでは足りないという意味なのか。
そんな言葉で片づけるなという意味なのか。
分からなかった。
銀時は、また何かを言おうとした。
「俺ァ、」
そこで止まる。
喉の奥で、言葉が潰れたみたいだった。
「俺ァ、あん時……!」
あん時。
どの時だ。
松下村塾のときか。
置いて行かれた時か。
死体の山の上か。
それとも、もっと別の。
分からない。
銀時自身も、どれから言えばいいのか分からない顔をしていた。
言いたいことが多すぎて、どれも言葉になっていない。
怒りも、後悔も、何か別のものも、全部喉の奥で詰まっているように見えた。
でも、それは俺の都合のいい想像かもしれない。
本当は、ただ怒っているだけかもしれない。
本当は、俺を責めたいだけかもしれない。
本当は、何で先生の前に敵側の格好で出てきたんだと、そう言いたいだけかもしれない。
だから、聞かない。
聞いている時間もない。
聞いたらたぶん、俺は馬鹿だから、また期待する。
「遅ぇよ、馬鹿」
銀時の目が見開かれる。
言った瞬間、自分で胸が痛くなった。
何が遅いのか、自分でも分からなかった。
止めるのが遅いのか。
呼ぶのが遅いのか。
気づくのが遅いのか。
俺が戻るのが遅すぎたのか。
分からない。
ただ、遅かった。
全部、遅かったんだ。
「でも、まあ」
血が口から落ちる。
「今からでも間に合うことはある」
銀時が息を呑む。
「さっさと逃げろ」
「お前もだろうが……!」
「俺は後で行く」
嘘だ。
たぶん、後では行けない。
少なくとも、同じ道では。
でも、言うしかなかった。
「遅刻扱いらしいんで」
俺は遠くを見た。
朧さんが松陽先生を連れて、崖の向こう側の退路へ進んでいる。
松陽先生は何度もこちらを振り返ろうとしている。
朧さんが止める。
松陽先生が何か言う。
朧さんが、短く返す。
先生は顔を顰めていた。
でも、その顔は泣いているより苦しかった。
俺は大きく息を吸った。
腹が痛い。
胸が痛い。
喉が痛い。
全部痛い。
でも、まだ動く。
俺は足元を見た。
ひび割れた岩盤。
乾いた土。
崖の縁。
さっきから何度も目に入っていた。
いや、目に入っていたんじゃない。
ずっと見ていた。
処刑場は、崖に張り出した岩棚みたいな場所だった。
松陽先生と朧さんが抜けようとしている退路。
銀時たちが引きずられるように走っている道。
そして、奈落と天導衆の護衛がこちらへ殺到してくる足場。
逃げる側は、もう細い退路の向こうへ抜けかけている。
追う側は、まだこちら側に固まっている。
今なら。
ここを落とせば、道がなくなる。
崖の高さだけで殺せるとは限らない。
落ちただけなら、這い上がってくる奴もいるかもしれない。
だから、落とすだけじゃ駄目だ。
岩ごと崩す。
土ごと呑ませる。
足場を消して、身体ごと瓦礫の下へ押し込む。
うまくいけば、殺到している奈落と護衛の大半を、持っていける。
追跡は止まる。
道も消える。
銀時たちは、戻りたくても戻れなくなる。
松陽先生も、こちらへ来たくても来られなくなる。
最悪だ。
最悪で、都合がいい。
俺も無事では済まない。
というか、たぶん一番無事では済まない。
まあいいか。
便利な言葉だ。
何もよくない時にしか使わない。
銀時が気づいた。
「おい」
俺は笑った。
「強制分岐イベントでーす」
刀を地面へ向ける。
「待て」
それは、怒鳴り声ではなかった。
低くて、短くて、掠れていた。
考えるより先に出た声だった。
銀時が一歩、踏み出そうとする。
高杉と桂が止める。
銀時はそれを振り払おうとした。
「待てって、」
もう一度、言った。
今度は、少しだけ声が割れていた。
俺は少しだけ笑った。
「おそらくコメント欄も盛り上がってきてまーす」
銀時が歯を食いしばるのが見えた。
その先は、やっぱり続かなかった。
分からない。
分からないまま、俺は刀を握った。
その時、ふと、視界の端に文字が滲んだ気がした。
出ていない。
板はない。
半透明のコメント欄も、象も、勝手に泣いて怒って励ましてくる文字もない。
それでも、思い出した。
死なないでほしい。
生きていてほしい。
幸せになってほしい。
報われてほしい。
勝手な言葉だった。
身勝手で、ありがた迷惑で、何もできないくせに、やたら優しい言葉だった。
悪い。
今の俺には、そこまで器用な回収はできない。
死なないと約束するには、状況が悪すぎる。
幸せになるには、道が遠すぎる。
報われるには、俺の手が汚れすぎた。
でも、生きてろとは言える。
俺が受け取りきれなかった言葉を、渡すことならできる。
だから、呼んだ。
「銀時」
銀時が、俺を見る。
「生きてろよ」
それだけ言った。
銀時の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「それは」
銀時が何かを言いかける。
「それは、てめぇが」
そこまでだった。
やっぱり言葉は続かない。
視界の端で、何かが動いた。
朧さんだった。
松陽先生の傍にいたはずのその足が、ほんのわずかにこちらへ向いたように見えた。
助けようとしたのか。
止めようとしたのか。
ただ、崩れかけた足場に反応しただけなのか。
分からない。
分からないままでいい。
分かったら、止まる。
銀時の声も。
先生の目も。
朧さんの、その一歩にもならなかった何かも。
全部、今は見なかったことにするしかなかった。
俺は刀を地面へ突き立てた。
刃が岩盤に食い込む。
ギャグ補正。
奈落で叩き込まれた体の使い方。
馬鹿みたいな腕力。
瀕死の意地。
全部を一点に集める。
「原作ルート、ここで強制終了でーす!」
銀時が、手を伸ばす。
高杉が叫ぶ。
桂が叫ぶ。
松陽先生の声も聞こえた気がした。
銀時の口が、何かを形作る。
でも、聞こえない。
聞こえたら駄目だと思った。
聞こえたら、きっと足が止まる。
「次回から別ルート入りまァす!」
地面が割れた。
乾いた音が走る。
岩盤に亀裂が広がる。
俺の足元だけじゃない。
奈落が踏み込んでいた場所。
天導衆の護衛が殺到していた場所。
銀時たちを追おうとしていた道。
そこへ、蜘蛛の巣みたいに亀裂が走った。
一瞬、銀時が何かを叫んだ。
怒号だったのか、悲鳴だったのかは分からない。
足場が沈む。
崖の縁が崩れる。
刀を振り上げていた奈落の身体が傾く。
松陽先生を追おうとしていた護衛が、踏み出した足ごと空へ落ちる。
道が、消えていく。
追うための道が。
戻るための道が。
俺とあいつらの間にあった、最後の細い線が。
砂煙が爆ぜた。
原作ルートは、たぶん壊れた。
その代わりに俺がどこへ落ちるのかは、まだ誰も知らない。
崩落の音が、全部を飲み込んだ。






















