「あー……今の、ノーカンってことで」
言った瞬間、自分で思った。
何言ってんだ、俺。
ノーカンになるわけがなかった。
足元に転がっている男は、さっきまで生きていた。喋っていた。
俺に刀を向けて、俺を睨んで、来るなと言った。俺が来たせいだと言った。
その男を、俺が斬った。
俺の刀で。
俺の手で。
俺が。
なのに、口は勝手にそう言っていた。
なかったことにしよう。
そういう、いつもの軽口。
違う。
これは違う。
いつものじゃない。
松下村塾で饅頭を盗んで銀時に追いかけ回された時のノーカンじゃない。
竹刀から変な黒い斬撃が出て、銀時が反則だと騒いだ時のノーカンじゃない。
笑って済ませられるものじゃない。
分かっている。
分かっているのに、口が勝手にそこへ逃げた。
銀時は、何も言わなかった。
返ってこない。
いつもなら返ってくるはずだった。
「なるかボケ」でも、「何でも帳消しにしてんじゃねぇよ」でも、「テメェの人生ごと反則だわ」でも。
何でもよかった。
何か返ってくれば、まだ俺はそこにいられた。
でも、銀時は何も言わなかった。
死体の山の上で、風だけが動いていた。
折れた旗の切れ端が、乾いた音を立てる。
どこかで布が擦れる。
血と焦げと、湿った土の匂いが混ざって、兜の割れた隙間から直接入り込んでくる。
銀時は、俺を見ていなかった。
いや、見ていたのかもしれない。
でも、俺の目ではなく、俺の足元を見ていた。
さっき俺が斬った男。
死体の山に半分埋もれるように倒れた、知っている顔。
俺が、またひとつ増やした死体。
銀時の視線がそこに落ちているのを見て、喉の奥が少しだけ狭くなった。
「いや、違う。違うっていうか、違わないんだけどさ」
口が動く。
やめろ。
「現場がちょっと混み合ってまして。処理が追いつかなかったというか、完全にオペレーションミスっていうか、報告書出したら絶対怒られるやつで」
何を言っている。
「怒られるっつーか、まあ怒られるだけで済むならだいぶ優しいよな。始末書?始末書で済む? 済まねぇな。済まねぇわ。いや始末書って誰に出すんだよ。上司どこ?この現場、上司不在すぎるだろ」
やめろ。
違うだろ。
今言うべきことは、それじゃない。
本当は言うべきことがある。
あいつが先に斬りかかってきた。
俺は止めようとした。
殺すつもりなんてなかった。
本当に。
本当に、殺すつもりはなかった。
でも、それを言えなかった。
言った瞬間、死んでいる相手に全部押しつける気がした。
あいつはもう何も言えない。
俺だけが、自分に都合のいい説明を並べることになる。
それが嫌だった。
嫌だと思える自分がまだ残っていることに、少しだけ安心して、同じくらい吐き気がした。
「銀時、あのさ。これ、完全に味方キルっていうか、いや味方キルって言い方も最悪だな。通報案件だよな。俺も俺を通報したい。運営どこ?この世界、問い合わせフォームなさすぎじゃない?クレーム入れたいのこっちなんですけど」
何でだ。
何で今、こんなことを言っている。
銀時に向かって。
死んだ仲間の前で。
死体の山の上で。
俺は何で、真面目に喋れない。
喋れ。
ちゃんと言え。
違うって。
殺すつもりじゃなかったって。
怖かったって。
助けてくれって。
でも、そのどれも口から出なかった。
代わりに出るのは、どうでもいい言葉ばかりだった。
軽い言葉。
薄い言葉。
笑いに逃げるための言葉。
一番言いたいことだけ、喉の奥で詰まったまま、腐っていく。
銀時が、低く言った。
「……お前」
その声だけで、背中の奥が冷えた。
怒鳴り声ではなかった。
大声でもなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「自分が何したか、分かってんのか」
「わかってる」
反射で返した。
早すぎた。
自分でも分かった。
分かっている人間の返事ではなかった。
「わかってるわかってる。殺した。味方斬った。最悪だよな。完全に、えーと、何だ、味方キル。いやだからその言い方やめろって話なんだけど。切腹案件?いや切腹も最近コンプラ的にどうなんだろうな。まず戦場にコンプラ持ち込むなって話で」
もういい。
喋るな。
これ以上、口を動かすな。
そう思うのに止まらない。
黙ったら、聞こえてしまう。
風の音。
自分の呼吸。
血が落ちる音。
銀時が何も返さない沈黙。
足元にある、もう二度と喋らない男の存在。
黙ったら、全部がそのまま入ってくる。
だから喋った。
喋るしかなかった。
「いや、ちゃんと分かってるって。分かってるけど、分かったところでどうにもならないことってあるじゃん。ほら、宿題忘れた当日の朝みたいな。いや違うな。宿題と一緒にすんなよ。先生に怒られるくらいで済む話じゃねぇし。松陽先生なら、たぶん笑顔で拳骨かましてくるだろうし」
松陽先生の名前を出した瞬間、自分で殴りたくなった。
何をしてる。
何を言ってる。
ここで、その名前を出すな。
銀時の顔が、ほんの少し動いた。
目が揺れたのか、眉が動いたのか。
半分壊れた鉄面付き兜の視界では、よく見えなかった。
でも、何かが決定的に悪い方へ動いたのだけは分かった。
「……もういい」
銀時の声が、俺の言葉を切った。
本当に切られたみたいだった。
喉の奥で、次に出ようとしていた言葉が止まる。
「黙れ」
銀時が言った。
今度は、はっきりと。
俺は口を開けたまま止まった。
その二文字が、思っていたより深く刺さった。
いつものように「うるせぇ」ではなく。
「やかましい」でもなく。
「黙れ」。
会話を終わらせるための言葉だった。
ボケを拾うための言葉じゃない。
ツッコミじゃない。
怒りでも、呆れでも、いつもの雑な返しでもない。
拒絶だった。
喉が重くなる。
声が出ない。
出せない。
黙った瞬間、全部が戻ってきた。
手応え。
血の匂い。
男の目。
崩れ落ちる身体。
死体の山に増えた重さ。
俺が斬った。
俺が殺した。
なかったことにはならない。
そんなこと、最初から分かっていた。
銀時の手が、ゆっくり刀の柄に触れた。
まだ抜いていない。
ただ、そこに手を置いただけだった。
それだけで十分だった。
意味が分かってしまった。
俺はもう、銀時が刀に手をかける対象になったんだ。
「失せろ」
銀時が言った。
低い声だった。
掠れていた。
怒鳴られるより、ずっと怖かった。
「今ならまだ、手ェ出さねぇで済む」
一瞬、世界が止まった気がした。
手を出さない。
今ならまだ。
じゃあ、次は。
このままここにいたら。
俺が一歩でも間違えたら、銀時は。
俺を斬るかもしれない。
殴るかもしれない。
殺すかもしれない。
どれなのかは分からない。
でも、もう俺はそういう場所に立っている。
昔みたいに、饅頭を盗んで殴られる場所ではない。
竹刀で叩かれて、床に転がって、笑える場所ではない。
銀時の刀が、本当に届く場所だ。
俺は銀時を見た。
血と泥で汚れた顔。
身体中に傷がある。
肩で息をしている。
銀時だって、無事ではなかった。
仲間の死体の山の中に立って、俺を見るその目は、怒りだけではなかった。
怖いのかもしれない。
悔しいのかもしれない。
俺を見たくないのかもしれない。
見なければいけないと思っているのかもしれない。
分からなかった。
分からないことが、こんなに怖いと思わなかった。
銀時の目なら、俺は読めると思っていた。
雑で、眠そうで、死んだ魚みたいで、それでも妙なところだけ鋭い目。
俺のふざけが嘘かどうか、声の間で分かる目。
その目が、今は読めなかった。
いや、違う。
読めないんじゃない。
読むのが怖かった。
銀時は少しだけ視線を落とした。
足元の死体を見たのか。
俺の血のついた刀を見たのか。
自分の手が置かれた柄を見たのか。
それとも、もう何も見ていなかったのか。
そして、さっきよりずっと小さい声で言った。
「……頼むから、行け」
頼むから。
その言葉だけ、変に優しかった。
優しかったのに、胸の奥に刺さった刃を、さらに少しだけ押し込むみたいだった。
最初の「失せろ」が残っている。
そこに「頼むから」が重なる。
どちらも銀時の本音なのだと思った。
失せろ。
でも、斬りたくない。
行け。
でも、追えない。
近づくな。
でも、死ぬな。
たぶん、そういうことだった。
たぶん。
でも俺には、もう一つ目の言葉しかうまく届かなかった。
失せろ。
銀時に、そう言われた。
俺は少しだけ息を吸った。
何か言おうとした。
今度こそ、ちゃんと。
違うでも、ごめんでも、助けてでも、何でもいいから。
でも何も出なかった。
銀時が黙れと言ったから。
銀時が失せろと言ったから。
銀時が、頼むから行けと言ったから。
もう、俺の言葉はここに置いていけなかった。
「ああ」
自分でも驚くくらい、軽い声が出た。
「……そっか」
そうか。
終わったのか。
そんなに静かに分かるものなのかと思った。
もっと、何かが壊れる音がすると思っていた。
胸の中で派手に割れるとか。
頭の奥で何かが切れるとか。
そういう分かりやすい演出があると思っていた。
これだけだった。
これだけで、十分だった。
俺は笑った。
今度は、たぶんうまく笑えた。
少なくとも、何かが漏れないくらいには。
「了解。退勤しまーす」
銀時は何も言わなかった。
止めなかった。
それが答えだった。
どこまで歩けばいいのかは分からなかった。
どれくらい離れれば、さっきの場所から離れたことになるのかも分からない。
死体の山が見えなくなればいいのか。
血の匂いが薄くなればいいのか。
分からないまま、とにかく足を動かした。
一歩。
もう一歩。
足元の土はぬかるんでいた。
さっきまで何度も踏んだ柔らかい感触とは違うはずなのに、足の裏が勝手に思い出す。
知っている腕を踏んだ。
知っている肩を踏んだ。
死体の山の上で踏ん張って、滑って、斬って、また踏んだ。
違う。
今踏んでいるのは土だ。
土だ。
土のはずだ。
自分にそう言い聞かせながら歩いていると、急に喉の奥が詰まった。
胃のあたりが、ぐっと持ち上がる。
腹の底に沈んでいたものが、遅れてせり上がってくる。
あ、と思った。
吐く。
そう思った瞬間、少しだけ安心した。
やっとか、とさえ思った。
ようやく身体がまともな反応をした気がした。
仲間を殺した。
銀時に見られた。
拒絶された。
それで吐くなら、まだ分かる。
そうだろ。
そうだよな。
人間は、こういう時、吐くんだろ。
俺は近くの木に片手をついた。
幹のざらついた感触が掌に刺さる。
爪が樹皮に引っかかる。
膝が少し折れた。
兜の壊れた隙間から風が入ってくる。
片側だけ晒された顔に、冷たい空気が当たる。
血なのか汗なのか分からないものが頬を伝って、顎の先で止まった。
気持ち悪い。
血の匂いが。
焦げた匂いが。
湿った土の匂いが。
斬った時の手応えが。
耳から離れない声が。
全部、腹の奥でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
吐け。
吐いてしまえ。
さっき飲み込んだ言葉も。
言えなかったごめんも。
殺すつもりじゃなかった、という言い訳も。
全然平気じゃなかった、という弁解も。
全部、ここで出してしまえ。
喉がひくついた。
口の中が酸っぱくなる。
胃が縮む。
息が詰まる。
俺は口を開いた。
「っはは、」
音が出た。
最初、それが何なのか分からなかった。
吐いたのかと思った。
嗚咽が出たのかと思った。
喉の奥が勝手に震えて、何かが漏れたのだと思った。
でも違った。
耳が、その音を拾った。
「っ、は……はは、」
笑い声だった。
俺の喉から出たそれは、笑い声に聞こえた。
その瞬間、背中の奥がぞっと冷えた。
違う。
今のは違う。
俺は吐こうとした。
吐こうとして、木に手をついて、膝を折って、喉を開いた。
気持ち悪くて、耐えられなくて、身体がもう無理だと言ったから。
なのに。
出てきたのは、笑い声だった。
「っは、は……」
まただ。
短く、乾いた、引きつったような声。
誰かが無理に喉を鳴らしているみたいな音。
自分の声なのに、自分のものに聞こえなかった。
俺は反射的に口を押さえた。
指先が唇に当たる。
血の味がした。
さっきからついていたのか、今噛んだのか分からない。
分からないまま、手のひらで口を塞いだ。
それでも、指の隙間から漏れた。
「っ、あ、はは……っ」
笑い声だった。
どう聞いても、笑い声だった。
やめろ。
笑うな。
違うだろ。
さすがに、これは違うだろ。
俺は木に額を押しつけた。
硬い。
痛い。
痛いのに、その痛みすら少し遠かった。
違う。
違う。
違う。
面白くなんかなかった。
楽しくなんかなかった。
愉快だったわけがない。
知っている顔が死んでいた。
知っている奴らが積まれていた。
俺はその上で戦った。
踏んだ。
謝りながら踏んで、それでも戦った。
最後には、生き残っていた味方まで斬った。
銀時に見られた。
失せろと言われた。
刀を触れさせた。
それで、笑うわけがない。
笑うわけが、ないのに。
「っは、はは……っ、は、」
喉が勝手に震える。
腹の奥がひっくり返っている。
吐き気はある。
確かにある。
胃の中はぐちゃぐちゃで、口の中は酸っぱくて、身体は今すぐ何かを吐き出したがっている。
なのに、出てくるのは声だった。
笑い声の形をした何かだった。
俺は口を押さえたまま、ずるずると木の根元に膝をついた。
「っ、は……っはは、」
やめろ。
やめてくれ。
誰に頼んでいるのか分からなかった。
自分か。
身体か。
この世界か。
どこかで俺を読んでいる誰かか。
もう分からない。
ただ、自分の笑い声が怖かった。
戦うことより。
傷つくことより。
死体の山より。
拒絶されることより。
自分の喉から出るその音が、一番気持ち悪かった。
俺はようやく分かった。
ああ。
そうか。
俺はずっと、こうだったんだ。
怖いも。
痛いも。
気持ち悪いも。
助けてくれも。
ごめんも。
全部、喉を通る時に形を間違える。
泣き声になれない。
吐き気になれない。
謝罪になれない。
悲鳴にすらなれない。
全部、笑い声みたいな音になって出てくる。
「っ、はは……」
また漏れた。
俺はその声を聞きながら、木の幹に爪を立てた。
爪が割れそうなほど力を込める。
それでも止まらない。
止められない。
ここで初めて、はっきりと思った。
俺は、もう駄目なのかもしれない。
血まみれで。
顔を隠して。
意味の分からないことを叫んで。
人を斬って。
味方を斬って。
吐こうとして、笑う。
それを、何と呼べばいい。
人間か。
侍か。
違う。
そんなものじゃない。
銀時が刀に手をかけた理由が、ようやく少し分かった気がした。
あいつは、正しかったのかもしれない。
俺はもう、殺すべき対象だった。
止めなければならないもの。
近づけてはいけないもの。
無面の修羅。
誰かがそう呼んだ名前が、急にやけにはっきりと胸の奥に落ちた。
嫌だった。
ずっと嫌だった。
語呂も悪い、センスも悪い、ふざけた名前。
そんな大層なもんじゃないと思っていた。
俺はただ必死なだけだと思っていた。
怖くて、死にたくなくて、戻りたくて、だからふざけているだけだと思っていた。
でも。
仲間を殺して。
大事な奴に見られて。見限られて。
それでも、胃液ひとつ吐けずに、笑い声だけをこぼすものを。
人は、たぶん、人間とは呼ばない。
「っ、は……」
笑い声が、また喉から出た。
俺は口を押さえたまま、息を吸った。
吸った息まで震えていた。
違う、と言いたかった。
でもその言葉さえ、今口に出したら笑いに混ざってしまいそうだった。
俺は木の根元に膝をついたまま、しばらく動けなかった。
吐けなかった。
泣けなかった。
謝れなかった。
ただ、喉の奥で潰れた笑い声だけが、何度も何度も引っかかっていた。
そのたびに、俺は少しずつ分かっていった。
ああ。
俺は、化け物みたいに見えるんじゃない。
もう、とっくに。
そうなっていたのかもしれない。
俺は反射的に壊れた兜の縁を押さえた。
隠そうとした。
でも、片側は割れている。
どれだけ押さえても、もう完全には隠れない。
顔の半分だけが、世界に晒されている。
半分だけ人間。
半分だけ被り物。
最悪の折衷案だった。
「……中途半端すぎんだろ」
声が出た。
笑い声ではなかった。
ただ、掠れた声だった。
中途半端。
本当にその通りだった。
人間にもなりきれない。
化け物にもなりきれない。
笑うことも、泣くことも、吐くこともできない。
謝ることも、逃げることも、戻ることもできない。
顔を隠していたはずなのに、もう隠しきれていない。
それでも兜に縋っている自分が、妙に情けなかった。
何を守っているんだろう。
顔か。
表情か。
自分がまだ人間だと思いたい気持ちか。
それとも、ただの馬鹿だった頃の名残か。
分からなかった。
分からないものばかりだった。
俺は木の根元に膝をついたまま、壊れた兜の紐に指をかけた。
血と汗と泥で張りついていて、すぐにはほどけなかった。
指先に力が入らない。
爪の間に土が入り込んでいる。
少し引っ張ると、乾いた血が髪と一緒に剥がれる感覚がした。
痛い。
痛かった。
ちゃんと痛かった。
その痛みに少し安心しかけて、また嫌になった。
何でもかんでも、自分がまだ人間かどうかの確認に使うな。
痛いものは痛いでいいだろ。
いちいち意味を持たせるな。
哲学するな。
今の俺に哲学は早い。
いや、むしろ遅いのかもしれない。
人生の履修順がもうめちゃくちゃだ。
紐がようやく解けて、兜が少しずれる。
風が、隠れていた側の顔にも当たった。
冷たい。
俺はゆっくりそれを外した。
視界が広がった。
広がったというより、逃げ場がなくなった気がした。
目の前の木も、地面も、空も、全部が急に近くなる。
今まで被り物越しに見ていた世界が、直接こっちを見ているようだった。
俺は手の中の兜を見下ろした。
割れている。
ちょうど鉄面も半分の位置で片側が砕けて、縁が歪んでいる。
血がついている。
泥もついている。
いつ拾ったんだっけ。
最近は、何をいつ拾ったのかも曖昧だった。
桶。
紙袋。
笠。
面。
木箱。
鍋の蓋。
兜。
俺はずっと、何かを被っていた。
顔を隠していた。
目を隠していた。
恐れている顔を見られないように。
笑えていないことを知られないように。
泣けないことを悟られないように。
それで、何を守れたんだろう。
俺は銀時に見られた。
味方を殺したところを。
血まみれで、壊れた兜の隙間から顔を晒して、ふざけた台詞を言ったところを。
一番見られたくないものは、全部見られた。
じゃあ、もういいだろう。
俺は兜を持ち上げた。
投げ捨てるつもりだった。
思いきり遠くへ投げて、木にぶつけて、割ってしまえばいいと思った。
こんなものに縋っていた自分ごと、どこかへ飛ばしてしまえばいいと思った。
でも、腕は上がらなかった。
力が入らなかったのか。
それとも、まだ惜しかったのか。
分からない。
結局、俺は兜を木の根元に置いた。
捨てたというより、置いた。
丁寧というほどではない。
でも、投げることはできなかった。
「……お疲れさん」
自分でも意味の分からないことを言った。
兜に向かって。
壊れた、血まみれの、ただの拾い物に向かって。
「まぁ、退職金は出ねぇけど」
そこまで言って、口が止まった。
軽口の形をしているのに、全然軽くなかった。
誰も返さない。
銀時はいない。
高杉もいない。
桂もいない。
坂本もいない。
先生もいない。
兜も、当然、何も言わない。
俺はその沈黙を聞いて、少しだけ笑いそうになった。
また笑い声が出るかと思って、慌てて口を押さえた。
代わりに、息だけが漏れた。
笑えないことが怖かった。
でも笑ってしまうことも怖かった。
もう何が正解なのか分からなかった。
俺は立ち上がろうとした。
膝が笑う、という言葉がある。
今の俺の膝は笑う余裕もないくらい、ただ震えていた。
木に手をついて、どうにか立つ。
顔に風が当たる。
両目で世界を見る。
隠れていない。
その事実だけで、胃の奥が落ち着かなくなった。
誰かに見られている気がする。
何もない林の中なのに、視線がある気がする。
木々の間から。
空の向こうから。
どこかの画面の向こうから。
敵でも味方でも読者でも何もかも。
とにかく、誰かが見ている気がした。
俺は顔を伏せた。
隠すものがないから、俯くしかなかった。
「……これ、顔面丸出しキャンペーンじゃん」
小さく言った。
誰も笑わない。
俺も笑わない。
キャンペーンは失敗だった。
集客も見込めない。
そもそも客に見せたい顔ではない。
俺は歩き出した。
顔に風が当たる。
血が乾いて、皮膚が引きつる。
片頬に切れた跡がある。
唇の端も切れている。
目元にも血が固まっている。
ひどい顔だろうな、と思った。
見たくなかった。
近くに水があっても、たぶん見ない。
今の自分の顔を見たら、何かが決定的に終わる気がした。
いや、もう終わっているのかもしれない。
でも、終わったことを確認するのは別だ。
死亡通知と死亡確認くらい違う。
どっちも嫌だが、後者の方が逃げ場がない。
俺は林の中を歩いた。
どこへ向かっているのかは分からない。
銀時のところには戻れない。
もちろん死体の山にも戻れない。
松陽先生の居場所も分からない。
高杉や桂がどこにいるのかも分からない。
坂本に至っては、今ごろどこかで笑っている気がする。
腹立つな。
生きてたら一回殴ろう。
殴れるほど俺に元気があれば、の話だけど。
少し歩いたところで、足元がふらついた。
木の根に躓いた。
普段なら、ここで何か言っていた。
「足元に悪意あるだろ」とか。
「木の根って地味に戦場最強のトラップだよな」とか。
「自然界、俺に厳しすぎ」とか。
何か言えば、たぶん少しだけ体が軽くなった。
さっきまでなら。
でも、今は出なかった。
口が開かない。
喉が動かない。
言葉が、途中で止まる。
銀時の声が残っている。
あの声が、喉の奥に居座っている。
俺が何か言おうとすると、その前に立ちはだかる。
邪魔だ。
邪魔なのに、追い出せない。
俺は足元の木の根を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
「……」
何も出ない。
ボケも。
文句も。
悪態も。
ただ、沈黙だけがあった。
その沈黙が、妙に重かった。
俺は歩き出した。
足が重い。
腹も痛い。
肩も痛い。
斬られたところが熱を持っている気がする。
でも、それよりも喉が重かった。
喋れない。
俺が、喋れない。
それは、思っていたよりずっと怖いことだった。
今まで俺は、喋りすぎることを怖がっていた。
言葉が間違った形で出ることを怖がっていた。
マイナスの感情が笑い声になることを怖がっていた。
でも、いざ本当に出なくなると、もっと怖かった。
何も出ないと、何も誤魔化せない。
怖いものが、怖いまま来る。
痛いものが、痛いまま来る。
気持ち悪いものが、気持ち悪いまま腹に残る。
ギャグに変換できない現実は、重かった。
重すぎた。
「……っ」
息が詰まる。
それでも何も言えない。
俺は口を開けて、閉じた。
もう一度開けた。
「……」
何もない。
本当に何も出なかった。
そこで初めて、自分がどれだけあのくだらない言葉に助けられていたのかを知った。
馬鹿みたいな言葉。
不謹慎な言葉。
人を苛立たせる言葉。
誰かにツッコまれるための言葉。
敵を止めるための言葉。
自分を止めないための言葉。
それが出ないだけで、俺はこんなにも弱い。
無面の修羅。
笑わせるな。
顔を隠すものを置いてきただけで。
銀時に黙れと言われただけで。
俺は、ただの怪我人になった。
いや、怪我人ですらない。
方向も分からず、目的も見えず、喉を塞がれたまま歩く、よく分からないもの。
化け物にもなれない。
人間にも戻れない。
本当に、どこまでも中途半端だった。
空が、少し暗くなってきていた。
夕方なのか、曇っただけなのかは分からない。
時間の感覚が曖昧だった。
腹は減っている気がする。
でも食べたいとは思わなかった。
水は欲しい。
でも探す気力は薄い。
──死ぬかもな、と思った。
驚くほど静かに、そう思った。
前なら、すぐに何か言っていたはずだ。
「死亡フラグ立てるな」
「まだ回収してないサブクエがある」
「死ぬならせめて布団の上がいい」
「いや布団の上で死ぬと片付け大変か」
とか何か。何かしら。
でも今は、出なかった。
死ぬのか、ともう一度過った。
それだけだった。
そして、それでもいいかもしれない、と思った。
足が止まった。
自分で思ったことなのに、少しだけ驚いた。
死んでもいい。
そんなこと、今まで本気で考えたことはなかった。
死にそうな時はいくらでもあった。
死ぬかと思ったこともあった。
でも、そのたびに俺は生きたかった。
怖かった。
痛かった。
逃げたかった。
ふざけてでも、転んででも、泥を食ってでも、生き残りたかった。
なのに今は。
死んだ方がいいのかもしれない、ではなく。
死んでもいいかもしれない、だった。
軽かった。
その考えは、思ったより軽かった。
軽いからこそ、怖かった。
俺は立ち止まったまま、自分の手を見た。
血がついている。
乾いた血。
新しい血。
自分のものか、他人のものか、もう分からない。
分からないのに、見覚えがある気がした。
謝っても誰にも届かない。
届いたところで何になる。
死んだ人は戻らない。
俺の喉も戻らない。
だったら言わない方がいいのかもしれない。
言わなければ、また間違えずに済む。
言わなければ、また笑い声にならずに済む。
そう思った瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
黙っていればいい。
ずっと。
もう何も言わなければいい。
そうすれば、誰も傷つけない。
少なくとも、俺の言葉では。
黙れって言った銀時は正しかった。
あれは、たぶん正しかった。
俺は、黙っているべきだった。
最初から。
饅頭を盗んだ時も。
打ち合いでズルした時も。
戦場で叫んだ時も。
死体の横でボケた時も。
味方を斬った後も。
全部、黙っていればよかった。
そうすれば、少しはましだったのかもしれない。
……いや、違う。
黙っていたら、もっと早く死んでいた。
それも分かっている。
分かっているのに、今はもうどちらがましだったのか分からなかった。
生き残った結果がこれなら、早く死んでいた方がよかったのかもしれない。
そんな考えが、また静かに浮かんだ。
俺は歩いた。
止まると、その考えに追いつかれる気がした。
いや、もう追いつかれているのかもしれないが、それでも、歩いていればまだ引きずれる。
自分の身体を。
自分の考えを。
自分の終わり損ねた命を。
林を抜ける頃には、空はさらに暗くなっていた。
遠くで何かの音がした。
人の声か。
鳥か。
風か。
分からない。
俺はそちらへ行くべきか迷った。
人がいるなら、水や食料があるかもしれない。
敵かもしれない。
味方かもしれない。
味方だったとしても、俺を見たらどう思うだろう。こんなふらふらの男を。
俺は木の陰に身を寄せた。
気配を探る。
呼吸を殺す。
これはまだできる。
喋らなくてもできることだ。
しばらくして、足音が聞こえた。
一人じゃない。
複数。
装備の音がある。
軽くない。
こちらへ近づいてくる。
敵か。
そう思った瞬間、身体が冷えた。
逃げるか。
隠れるか。
戦うか。
戦う。
その言葉が浮かんだだけで、喉が詰まった。
何か言わないといけない。
言わないと、補正が乗らない。
でも言えない。
言ったら、また間違える。
足音が近づく。
俺は刀に手をかけた。
指が震えている。
こんなに震えていたか、と思った。
いや、前から震えていた。
ただ、前は喋っていたから気づかなかっただけだ。
草を踏む音。
人影が見えた。
幕府側の兵か。
分からない。
鎧の形が混ざっている。
少なくとも、友好的な散歩集団ではなさそうだった。
戦場近くに友好的な散歩集団がいる方が怖い。
だが今は、それを口に出せない。
一人がこちらに気づいた。
目が合う。
相手が眉をひそめる。
刀に手をかける。
俺も抜く。
何か言え。
何か。
何でもいい。
いつもみたいに。
適当に。
雑に。
馬鹿みたいに。
口を開いた。
「……」
何も出ない。
相手が踏み込んできた。
俺は受けた。
重い。
普通に重い。
腕が痺れる。
足が滑る。
踏ん張る。
間に合わない。
視界が開けない。
相手の動きが遅く見えない。
地面の石の位置も、足場の逃げ道も、何も分からない。
ただ、敵が速い。
いや、たぶん普通だ。
俺が遅い。
「っ、」
声が漏れた。
言葉ではなかった。
二人目が回り込む。
俺は反応が遅れる。
肩を斬られた。
熱い。
血が出る。
痛い。
──それでも言葉が出ない。
三人目の槍が来る。
俺は避けようとして足を取られた。
転ぶ。
前なら、転んだことで助かったかもしれない。
転んだ先にちょうど良い石があって、それを拾って投げたかもしれない。
敵が「何だこいつ」と止まったかもしれない。
でも今は、ただ転んだだけだった。
土が口に入る。
まずい。
土はまずい。
当たり前だ。
食用じゃない。
……それすら、口に出せない。
敵が近づく。
刀が上がる。
ああ。
死ぬ。
そう思った。
思ったのに、何も出なかった。
怖い。
怖いはずなのに、喉が動かない。
助けて。
そう思ったはずなのに、声にならない。
死んでもいいかもしれない、なんてさっき思ったからだろうか。
身体が、本当にそれを採用してしまったのかもしれない。
やめろ。
採用するな。
人事の判断が雑すぎる。
俺の生死をそんな書類選考みたいに扱うな。
頭の中では言えた。
でも、口には出なかった。
刃が振り下ろされる。
その瞬間、横から何かが飛んできた。
金属音。
敵の刀が弾かれる。
黒い影が、俺と敵の間に入った。
一瞬、銀時かと思った。
違った。
深い編笠。
顔の下半分を覆う白い布。
黒い着物の合わせから覗く、やけに白い襟元。
そいつは音もなく敵の懐へ入り、一人を斬り伏せた。
次の一人の喉元に刃が走る。
三人目が反応する前に、背後から別の笠の男が現れて、首筋へ短く一撃を入れた。
音が少ない。
戦闘というより、処理だった。
俺は地面に倒れたまま、それを見ていた。
何だ。こいつらは。
敵なのか。
味方なのか。
どちらでもないのか。
編笠の一人がこちらを見た。
目が合う。
逃げないと。
そう思った。
でも身体が動かない。
さっき斬られた肩が熱い。
足に力が入らない。
口の中が土と血の味でいっぱいだった。
「対象確認」
編笠の一人が言った。
「無面の修羅と思われる」
無面。
俺は思わず、笑いそうになった。
今、顔を出しているのに。
兜も面も紙袋もないのに。
それでも、俺は無面らしい。
もう、顔の有無じゃないのかもしれない。
名前というのは、本人の事情なんか待ってくれないらしい。
編笠の男が俺の腕を掴んだ。
抵抗しようとした。
できなかった。
「……違う」
ようやく声が出た。
掠れた、弱い声。
「俺、もう、それ辞めたんで」
編笠は答えない。
俺の言葉なんか聞いていない。
ただ任務として、俺を持ち上げようとする。
視界が揺れた。
地面が遠くなる。
肩に痛みが走る。
意識が少し遠のく。
遠くで、誰かの声がした。
「生かして連れて行け」
低い声だった。
さっきの声とは違う。
もっと静かで、もっと冷たい。
その声の方を見ようとした。
視界がぼやけている。
木々の影の向こうに、銀色が見えた気がした。
銀時。
一瞬、そう思った。
でも違う。
あの銀色ではない。
あの死んだ魚の目でもない。
もっと冷たい銀色。
これからどうなるんだよって時なのに、またくだらないことが頭の中を駆け巡った。
……顔を隠すものを置いてきた日に、顔を隠した奴らに拾われるのかよ。
本当に。
──この世界は、性格が悪い。
俺はそこで、意識を手放した。
次に目を覚ました時、最初に思ったのは、寒い、だった。
寒い。
それから、痛い。
その次に、動けない。
順番としてはだいぶ最悪だった。
できれば目覚めの感想は「よく寝た」から始まりたかった。
寝起き一発目に寒い痛い動けないの三連コンボを食らう人生、もう少しサービス精神を持ってほしい。
宿屋イベントなら返金案件だ。
いや、宿屋じゃないな。
どう考えても宿屋じゃない。
俺は目だけを動かした。
石の壁。
低い天井。
湿った匂い。
古い血の匂い。
鉄の匂い。
それから、腕。
自分の腕が、上に引っ張られている。
両手首に鉄の輪がはめられ、そこから伸びた鎖が天井近くの梁に繋がっていた。
足は床についている。
一応、ついている。
だが少しでも力を抜くと、肩が嫌な方向へ引っ張られる。
立っているわけでもない。
座っているわけでもない。
吊られていると言うには足がついていて、立っていると言うには腕が自由ではない。
中途半端だった。
最近の俺、中途半端ばっかりだな。
人間にもなれず、化け物にもなれず、死ぬこともできず、今度は立つことも座ることもできない。
そのうち生きてるのか死んでるのかも中途半端になるんじゃないか。
いや、もうなってるか。
「……姿勢矯正にしては、スパルタすぎんだろ……」
声が出た。
掠れていた。
喉の奥に砂が詰まっているみたいだった。
返事はない。
ただ、前方に人がいた。
深い編笠。
顔を覆う白い布。
黒っぽい着物。
白い襟元。
無駄のない立ち方。
顔を隠した男たちが、俺を見ていた。
何人かいる。
一人、二人、三人。
奥にもいる。
数えるのが面倒くさい。
数えたところでどうにもならない。
人間、自分が吊られている時に相手の人数を正確に数えても、だいたい状況はよくならない。
部屋の端には、桶があった。
布があった。
細い棒のようなものがあった。
短い刃物。
縄。
水差し。
火鉢。
鉄の棒。
針のように細い金属。
用途が分かりたくないものばかりだった。
分かりたくないのに、だいたい分かる。
俺は喉の奥で息を飲んだ。
「目は覚めたか」
笠の一人が言った。
声は低い。
淡々としていた。
怒っているわけでも、楽しんでいるわけでもない。
仕事の声だった。
嫌だな、と思った。
人を痛めつける前の声が仕事の声なのは、本当に嫌だ。
もっとこう、情緒を持ってほしい。
いや、持たれても困るか。
「これからあなたを拷問します、心を込めて」みたいなことを言われたら、それはそれで怖い。
「名前を言え」
笠の男が言った。
俺は口を開いた。
名前。
名前、か。
自分の名前を言えばいい。
それだけだ。
本当に、それだけのはずだった。
忘れたわけじゃない。
呼ばれていた音も、覚えている。
松下村塾で、先生が呼んでくれた声も。
銀時が面倒くさそうに呼んだ声も。
高杉が苛立った時に吐き捨てた声も。
桂が妙に真面目に呼んだ声も。
ある。
あるのに。
それが今ここで名乗っていいものなのか、分からなかった。
その名前は、まだ俺のものなのか。
人間じゃなくなりかけてる今もまだ、その名前を名乗っていいのか。
喉の奥で、名前の最初の音だけが引っかかった。
出そうになって、止まる。
口の中で形になりかけて、崩れる。
その音を外に出したら、何かが決定的に汚れる気がした。
先生が呼んでくれた名前を。
銀時が呼んでくれた名前を。
まだ何も壊れていなかった頃の俺に繋がっていた名前を。
ここで、こんな場所で、血と水と鉄の匂いの中で、差し出していいのか分からなかった。
だから、口は勝手に別のものを選んだ。
「……本人確認書類、紛失してまして」
笠の男が俺の腹を殴った。
拳が入った瞬間、息が消えた。
痛い、と思うより先に、空気がなくなった。
腹の奥を無理やり押し潰されて、肺の中にあったものを全部絞り出されたみたいだった。
身体が勝手に折れようとする。
でも腕は上に吊られている。
逃げようとした分だけ、肩が嫌な方向へ引っ張られた。
鎖が大きく鳴った。
「っ、か……は、」
声にならない空気が喉を擦った。
吐きそうだった。
でも何も出ない。
胃の底がひっくり返って、喉まで上がってきたのに、途中で詰まる。
咳をしたい。
息を吸いたい。
腹を抱えたい。
どれもできない。
腕が吊られているせいで、痛みから身体を守る動きすら許されなかった。
人間は、殴られたところを押さえたい生き物なんだなと思った。
今、初めて知った。
そして俺には、その当たり前すら許可されていないらしい。
「名前を言え」
もう一度、同じ声が降ってきた。
俺は息を吸おうとした。
吸えなかった。
腹が痙攣みたいに震えて、空気が浅くしか入ってこない。
名前。
名前を言え。
言えばいい。
言えば、たぶん少しは暴力が止まる。
たぶん。
でも、また喉の奥で名前が止まった。
出ない。
いや、出したくないのか。
分からない。
どっちでもいい。
今この場では、出ないという結果だけがある。
「いや、だから今ちょっと役所に確認を」
今度は脇腹を打たれた。
細い棒だった。
木なのか鉄なのか分からない。
ただ、当たった瞬間に、拳とは違う痛みが走った。
鈍くない。
広くない。
一本の線で、皮膚の下を裂くみたいな痛みだった。
脇腹から背中の方へ、鋭い熱が抜ける。
息を吸いかけていた肺が、また止まる。
「っ、あ゛、」
身体が横へ逃げようとする。
だが鎖に吊られた腕がそれを許さない。
肩が軋む。
手首の鉄輪が皮膚に食い込む。
足が床を掻く。
でも足元に力を入れると、今度は殴られた腹に響く。
どこへ逃げても痛い。
逃げ場がないというのは、こういうことかと思った。
壁があるとか、扉がないとか、そういう話じゃない。
自分の身体の中にすら、逃げ込める場所がない。
「っ、くそ……」
言いながら、息の端に変な音が混じった。
笑い声ではない。
まだ違う。
そう思いたかった。
「所属は」
所属。
また嫌な質問だ。
名前の次は所属。
自分が誰かの次は、どこに属しているか。
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
それは今、一番聞かれたくない。
松下村塾。
攘夷軍。
どこにもいない。
どこにも戻れない。
どこにも所属していない。
いや、していた。
していたはずだ。
少なくともこの間までは。
でも今は。
「……退勤済みです」
頬を殴られた。
頭が横へ弾かれた。
口の中で何かが切れた。
歯が頬の内側を噛んだのか、唇が裂けたのか分からない。
一瞬遅れて、血の味が広がる。
鉄臭い。
生温い。
舌の先に、ぬるっとしたものが触れる。
耳の奥がじんじん鳴った。
視界の端が白く瞬く。
頬が熱い。
殴られた場所だけが、遅れて自分の顔だと主張してくる。
顔を隠すものを置いてきたばかりなのに。
今度はその顔を、真正面から殴られている。
「所属を聞いている」
笠の男は、同じ調子で言った。
俺は血を飲み込んだ。
飲み込みたくなかった。
でも吐き出す余裕がなかった。
「だから、退勤したんだって。退勤しまーすって言ったし。タイムカードないけど。あの現場、労務管理終わってるから」
言い終わる前に、また腹を殴られた。
今度はさっきと少し場所が違った。
さっき潰された場所のすぐ横。
まだ痛みが残っているところへ、さらに拳が入る。
「っ、ぐ……ッ、ぅ゛、は……っ」
声が潰れる。
視界が揺れる。
足から力が抜ける。
その瞬間、腕に全体重がかかった。
肩に、鈍い痛みが走った。
骨が外れそうな嫌な感覚。
関節の奥に、冷たいものを差し込まれたみたいな痛み。
「っ、あ、ああ、待、待って、肩、肩が、出勤拒否してる、これ以上は労災、ほんとに労災だから」
何を言っているのか自分でも分からない。
でも口が動く。
痛みをそのまま受けるのが怖くて、言葉で形を変えようとしている。
変わらないのに。
笠の男は、俺の髪を掴んだ。
指が容赦なく食い込む。
頭皮が引っ張られる。
顔を上げさせられる。
頬の痛みが、動きに合わせてまた熱を持った。
「次は正確に答えろ」
正確。
その言葉が、やけに遠く聞こえた。
正確に答えろ。
俺だってそうしたい。
正確に言えるものなら、そうしたい。
全部、正確に答えられたらよかった。
でも俺の中にあるものは、どれも途中で折れている。
名前すら、喉を通る前に引っかかる。
俺は何も正確に言えない。
それだけは、たぶん正確だった。
「正確に答えたい気持ちはある。あるけど今、俺の全身が“痛い”って一斉送信してて回線混んでる」
笠の男は返事をしなかった。
代わりに、別の男が俺の髪を掴んだ。
乱暴に顔を上げさせられる。
正面から布を押し当てられた。
「……何、顔パック? 今それ需要ある?」
水が注がれた。
布越しに。
息が止まった。
鼻と口を覆われたまま、水だけが流れ込んでくる。
吸えない。
吐けない。
水が口に入り、鼻に入り、喉の手前で暴れる。
身体が反射で跳ねた。
鎖が鳴る。
肩が引き千切れそうになる。
足が床を掻く。
逃げ場はない。
「っ、ん゛ッ、ぅ、ぐ、っ……!」
声にならない。
息ができない。
苦しい。
痛いより先に、苦しい。
頭の中が一気に真っ白になる。
考えが全部消える。
銀時も、松陽先生も、死体の山も、何もかも、一瞬だけ遠くなる。
ただ、息がしたい。
それだけになる。
「げ、ほッ……ぁ、っ、か、は……!」
布が外された。
俺は咳き込んだ。
水を吐いたのか、唾を吐いたのか、血が混じっているのか分からない。
喉が焼けるみたいに痛い。
空気が入ってくる。
空気が入ってくるだけでありがたい。
空気、偉い。
普段無料で吸っててすみませんでした。
「白夜叉の部隊か」
質問が来た。
いま?
このタイミングで?
面接官、空気読め。
こっちは今、空気のありがたみを噛みしめているところなんだが。
「……前までは、一緒にいた」
声がひどく掠れていた。
「今は」
言いたくなかった。
でも、また布を当てられると思った。
身体が先に怯えた。
「いない、別れた」
「なぜ」
「俺が、クビになった」
「理由は」
「労基案件」
布がまた顔に押し当てられた。
「違う、待て待て待て。今のは比喩、比喩だから。俺の脳内労働基準監督署が」
水。
また息が止まった。
二度目は、一度目より怖かった。
来ると分かっているのに防げない。
息を止めようとしても、身体が勝手に吸おうとする。
吸えば水が入る。
吸わなければ苦しい。
どちらにしても苦しい。
足が床を蹴る。
鎖が鳴る。
肩が痛い。
でもそれどころじゃない。
息。
息が欲しい。
布が外された。
「ぅ゛、ぁ、っ……は、っ、ぁ゛……!」
肺が変な音を立てている。
喉の奥がひりつく。
涙が出ていた。
泣いているのか、生理的なやつなのか分からない。
分からない方がましだった。
「桂小太郎はどこだ」
「知らない」
「高杉晋助は」
「知らない」
「坂本辰馬は」
「知らない。いや、あいつは元々よく分かんねぇ。風みたいなもんだから。風の居場所聞かれても困るだろ。天気予報士じゃないんだよ俺は」
笠の男は黙った。
少し嫌な沈黙だった。
男が、俺の右手を取る。
吊られているせいで抵抗しにくい。
いや、抵抗しようと思えばできたのかもしれない。
でも腕はもう痛くて、肩は軋んでいて、指先に力が入らなかった。
人間の身体は、思ったより簡単に自分のものじゃなくなる。
男は俺の指を一本、ゆっくり開かせた。
「何、手相? 悪いこと言わないから今やめとけ。俺の生命線たぶん炎上してるから」
細い金属の先が、爪の間に入った。
冷たい。
その冷たさだけで、体が先に怯えた。
「待て」
声が出た。
今度は軽口じゃなかった。
「それは駄目だろ」
男は止まらない。
「いや、本当に。そこは駄目だって。指先は生活に密着しすぎてる。箸も持つし刀も持つし、饅頭も盗む。いや最後のは余計だった。今のなかったことして。今のなしだからそれもなしで」
金属が、爪の奥へ入っていく。
「っ、ぎ、」
声が詰まった。
痛い。
細いのに、痛い。
爪の下を冷たいものが割って入ってくる感覚が、指から腕へ、腕から肩へ、肩から頭の奥へ突き抜ける。
「白夜叉はどこだ」
「知らない!知らないって!」
「桂小太郎は」
「知らない!」
「高杉晋助は」
「知らない!本当に知らない!俺が知りたい!俺が一番聞きたい!連絡網死んでんだよこの時代!スマホがない!位置情報共有もない!グループチャットもない!文明が俺に厳しい!」
金属がさらに入った。
「っ、ああ、あ゛、やめ、やめろ、話す、話すから、全部話すから!」
本当に、全部話すつもりだった。
耐えられない。
痛い。
怖い。
無理だ。
俺は強くない。
強かったことなんか一度もない。
戦場で叫んでいたのは、強かったからじゃない。
怖かったからだ。
怖くて、止まったら死ぬから、口を動かしていただけだ。
「俺は、この世界が漫画だって知ってる!」
声が裏返った。
笠の男たちが止まる。
「銀魂っていうんだよ。いや、たぶん。俺、途中までしか知らないけど。前世?前世なのか?現代日本っていうのがあって、スマホとかコンビニとか動画サイトとかあって、俺はそこから記憶が流れてきて、でも全部じゃなくて、肝心なところは抜けてて、松陽先生を救う方法も知らなくて」
言葉が止まらない。
痛いから。
怖いから。
本当に、全部出していた。
「それで、ギャグ補正があるんだよ。ふざけると、ちょっと死なない。敵が止まるし味方も止まる。鍋の蓋が刀を弾く。転んだら避けられる。ありえない角度で間に合う。月牙天衝も出る。いや、月牙天衝は別作品なんだけど、本当に出た。竹刀から黒いやつが」
笠の一人が、小さく息を吐いた。
呆れたのか。
怒ったのか。
判断に困っているのか。
俺だって困っている。
「俺だって分かんねぇよ。でも出たんだよ。銀時も見てた。桂も見てた。高杉も見てた。松陽先生も、多分見てた」
松陽先生。
その名前を出した瞬間、部屋の奥の気配が動いた。
それまで一言も発していなかった誰かが、暗がりの中から一歩、前へ出る。
銀色の髪。
ここへ連れてこられる直前に見た顔。
笠の男たちが、わずかに身を引く。
こいつが上だ。
そう分かった。
「続けろ」
銀髪の男は言った。
声は静かだった。
でも、その一言で、周りの動きが止まる。
「何を……」
「お前が言う、吉田松陽についてだ」
その名前で、呼吸が変わった。
松陽先生。
口の中が急に乾いた。
さっきまで水を浴びせられていたのに、喉だけが乾く。
「知っているな」
銀髪の男が言った。
俺は頷こうとして、鎖が鳴った。
「知ってる」
「何者だ」
「先生」
「誰の」
「……俺たちの」
「俺たちとは」
「俺とか。さっき聞かれた奴らとか。あと、いろいろ。松下村塾にいた奴ら」
言ってから、心臓が嫌な音を立てた。
言いすぎたか。
でも、もう遅い。
言葉は戻らない。
銀髪の男は黙っていた。
その沈黙が、さっきまでの笠の男たちの沈黙とは違った。
冷たい。
でも、空っぽじゃない。
「なぜ先生と呼ぶ」
銀髪の男が聞いた。
その問いは、痛みより嫌だった。
なぜ。
そんなの。
「先生だったから」
それだけは、ふざけずに出た。
「笑ってくれたから。怒ってくれたから。ここにいていいって思わせてくれたから」
息が震える。
「救いたかったから」
銀髪の男の目が、冷たくなった気がした。
いや、最初から冷たかった。
でも今は、その冷たさに刃が混ざった。
「救う」
男が言った。
「誰を」
「松陽先生を」
「お前が」
「そうだよ」
笠の男の一人が、俺の指先にかけていた金属を持ち直した。
嫌な予感がした。
「待て」
俺はすぐに言った。
「待って。今、会話成立してた。俺たち、今ちょっとだけ会話できてた。だから器具持ち直すな。会議で急に工具出すな。議題を戻せ。先生の話してただろ。俺、ちゃんと喋るから」
金属が爪を持ち上げた。
「っ、あ゛、」
声が裏返った。
持ち上がる。
爪が。
自分の一部のはずのものが、肉から剥がされようとしている。
頭の中で理解するより先に、体が悲鳴を上げた。
「やめ、やめろ、やめてくれ、ほんとに、」
そこまで言ってから、また勝手に口が滑った。
「ネイルサロンなら予約してない!飛び込みでこの施術は重すぎる!」
爪が剥がれた。
「っ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!!」
声が喉を裂いて出た。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
指先が爆ぜたみたいだった。
心臓がそこに移動したのかと思うくらい、脈と痛みが同じ場所で暴れる。
体が跳ねる。
腕が鎖を引く。
肩が軋む。
膝が折れる。
足が床を掻く。
「っ、あ゛、ぁ、待、っ、ぃ゛……!」
笑い声なんか出る余裕はなかった。
ただ痛い。
なのに、次の息で。
「っ、は、はは、」
笑い声が混じった。
違う。
「ち、違う、違う違う違う、笑ってない、俺、今、笑ってない」
自分でも分かった。
叫びの後に、乾いた笑いみたいな音が混ざっている。
痛くて、怖くて、気持ち悪くて、何も面白くないのに。
喉だけが勝手に、そういう音を作る。
「何がおかしい」
笠の男が言った。
「おかしくない!何もおかしくない!俺が聞きたい!俺、何で今笑った?今笑う場面か?演出意図説明しろ!プロデューサー出てこい!いや今来られても困る!まず医者呼べ!」
銀髪の男は、じっと俺を見ていた。
冷たい目で。
だが、ただ気味悪がっているだけではないように見えた。
観察している。
俺の言葉ではなく、俺の壊れ方を見ている。
「お前は、白夜叉とどんな関係だ」
その問いで、喉が止まった。
どんな関係。
銀時と。
失せろと言われた。
刀に手をかけられた。
味方を斬ったところを見られた。
笑って誤魔化そうとしたところを。
「……何も」
「嘘だな」
「ちょっとした知り合い的な」
「ならばなぜ、名を出しただけで崩れる」
崩れる。
その言葉が嫌だった。
「崩れてない」
声が出た。
弱かった。
「俺は、崩れてない。ちょっと、足場が悪いだけで。人生の足場がぬかるんでるだけで」
銀髪の男は答えない。
笠の男が、今度は俺の口元に手をかけた。
何をされるのか、すぐには分からなかった。
顎を掴まれる。
口を開かされる。
抵抗しようとしたが、指先の痛みが強すぎて力が入らない。
口の中に、冷たい金属が入った。
反射で噛もうとしたが、無理だった。
冷たい金属が奥歯へ滑り込む。
舌を押さえつけられる。
唾液が飲み込めない。
嫌な音がした。
歯に、直接。
骨を耳の内側から引っ掻かれるみたいな音。
「ん゛っ、ぅ゛──」
喋れない。
口を閉じようとしても閉じられない。
顎が固定されている。
器具が歯を掴んでいる。
「まっ、」
言葉が歪んだ。
「っ、ま、へ……そ、こ……」
“待て”と言いたかった。
でも、舌がうまく動かない。
言葉が潰れる。
怖い。
痛いより先に怖い。
口を壊される。
喋れなくなる。
その想像だけで、呼吸が浅くなった。
金属が歯にかかる。
嫌な音がした。
骨を直接聞いているような、耳の奥に響く音だった。
器具が歯を引く。
頭蓋の内側が軋んだ気がした。
「ん゛ぅ゛ッ、ぁ゛ぁ゛ッ!!」
痛い。
痛い。
痛い。
まだ抜かれていない。
まだ、強く引かれたわけでもない。
なのに、歯に力がかかるだけで、頭の芯が冷える。
怖い。
爪より、なぜか怖かった。
口を壊される。
喋れなくなる。
軽口も、言い訳も、謝罪も、助けてくれも。
全部出せなくなる。
黙れと言われた時のことが頭を巡っていく。
違う。
器具が口の中から抜かれていく。
待ってましたとばかりに俺の口は勝手に言葉を紡いでいた。
「違う、違う違う、喋りたくないわけじゃない」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
「俺、喋りたいんだよ。でも黙れって言われて、言葉が出なくて、でも出る時は笑いになるし、もう何をどうすればいいのか分かんなくて」
金属がまた口の中へ入り込もうとする。
「っ、あ、ああ、待って、抜歯は予約制にしろ!いきなり当日施術はおかしいだろ!問診票!麻酔!同意書!」
笠の男は無視した。
力がかかった。
歯が軋む。
「っ、ん゛、あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」
痛みが頭に響く。
歯だけじゃない。
顎。
こめかみ。
耳の奥。
目の裏。
全部が繋がって痛む。
体が逃げようとする。
逃げられない。
口を閉じられない。
喋りたいのに、器具のせいで言葉が崩れる。
「や、やへ、ふぁ、待っ、待って、ほんふぉ、ひゃめ、」
金属がもう一度離れた。
俺は咳き込んだ。
血が混じった唾が口の端から落ちる。
顎が震えていた。
抜けてはいない。
たぶん。
でも歯が浮いたみたいに痛い。
口の中が、自分のものじゃないみたいだった。
「喋れるな」
銀髪の男が言った。
「……喋れるけど、だいぶクレーム入れたい」
まだこんなことが口から出てくるのに呆れた。
声が震えている。
口の中に血が溜まるせいで、少し聞き取りにくい。
それがまた怖かった。
喋りにくい。
喋れないに近づいている。
「お前は何を知っている」
銀髪の男が聞く。
俺は荒く息をした。
「……中途半端な未来」
言葉が出た。
「全部じゃない。肝心なとこは抜けてる。松陽先生が連れて行かれることは知ってた。でも救えなかった。戦争が始まることも知ってた。でも止められなかった。銀時たちが苦しむことも、たぶん知ってた。でも、どうすればいいか分からない」
喉が震える。
「俺は、知ってるんじゃない。知らないことを、少し知ってるだけだ」
銀髪の男は黙っていた。
「意味が分からないな」
「俺が一番分かってない」
正直に言った。
「分かってたら、もっと上手くやってる。先生を救ってる。銀時にあんな顔させてない。味方も斬ってない。こんなとこで吊られて、顔隠した面接官たちに個人情報抜かれてない」
笠の男が俺の顔を殴った。
「口を慎め」
殴られた拍子に、口の中で何かが硬く当たった。
歯か。
欠けたのか。
分からない。
分からないけど、血の味が濃くなった。
「っ、は、はは、あ、痛い、違う違う、今のも違う、笑ってない、ほんとに」
笑っているような声と、泣いているような息が混ざる。
自分でもどちらか分からない。
銀髪の男が少しだけ目を細めた。
「十分だ」
そう言った。
笠の男たちが動きを止める。
俺は荒く息をしていた。
吊られた腕。
引かれた足。
剥がれた爪。
歯に残る痛み。
傷口の熱。
喉の焼ける感覚。
全部が同時にある。
「これ以上は無駄だ」
銀髪の男は俺を見て言った。
「痛みに耐える覚悟もない。沈黙を守る意志もない。だが、痛みを加えれば加えるほど言葉が崩れる」
本当に、仕事の評価みたいに言いやがる。
「しかし、完全な戯言として捨てるには、混ざる名が多すぎる」
混ざる名。
銀時。
桂。
高杉。
松陽先生。
俺は浅く息をした。
「牢へ戻せ」
銀髪の男が言った。
笠の男の一人が頭を下げる。
「処分は」
「まだだ」
まだ。
その一言で、心臓が嫌な跳ね方をした。
まだ殺されない。
助かった。
そう思ってしまった。
思ってしまって、吐き気がした。
俺はまだ、死ぬのが怖いらしい。
あれだけ死んでもいいかもしれないと思っていたのに。
いざ処分という言葉が近づくと、怖い。
生きたいというより、死ぬのが怖い。
それはたぶん、似ているようで違う。
鎖が外される。
両腕が落ちた。
肩に激痛が走る。
膝が折れる。
足に巻かれていた縄も緩められ、身体が床に崩れる。
石が冷たい。
血と水で濡れている。
自分の血かどうかも分からない。
もう何も分からない。
笠の男たちが俺の腕を掴み、引きずる。
体が動かない。
抵抗もできない。
俺は床に頬を擦りながら、銀髪の男を見た。
言うな。
そう思った。
何も言うな。
もう黙れ。
銀時に言われただろ。
黙れって。
もう何回も頭の中リフレインしてんだろ。
今、やっと終わりかけてる。
余計なことを言うな。
なのに、口が動いた。
「……あんた」
声が掠れる。
口の中が痛む。
歯に響く。
「先生の名前で、顔変わった」
笠の男たちの手が一瞬止まった。
言った。
言ってしまった。
まただ。
また余計なことを言った。
銀髪の男は、こちらを見下ろしている。
表情はない。
だが、部屋の空気がほんの少しだけ変わった。
「……あんた、先生の何なんだよ」
言った瞬間、喉の奥が冷えた。
終わった。
今のは駄目だ。
分かる。
さっきまでの意味不明な言葉とは違う。
これは、触ってはいけないところに触れた。
銀髪の男は、しばらく黙っていた。
それから、俺ではなく、笠の男たちに言った。
「戻す前に、もう少し痛めつけろ」
俺の身体が強張った。
「待、」
声が出る。
「待て、今のは、今のは質問じゃなくて、その、世間話。いや世間話にしては地雷臭すごいけど、今の撤回。撤回申請。書類出す。判子も押す。だから」
銀髪の男は背を向けた。
「死なせるな」
それだけ言った。
そして、部屋を出て行く。
止めない。
助けない。
答えない。
ただ、俺を置いていく。
笠の男たちが、俺をまた床から引き起こした。
腕が持ち上げられる。
鎖が鳴る。
まだ痛む肩が引かれる。
「いや、待て。さっき終業チャイム鳴っただろ。残業は申請制だろ。上司帰った後に部下だけ残して残業させるの、組織としてどうなんだよ」
誰も答えない。
「聞いてる? 労働環境の話してんだけど。俺だけじゃなくお前らのことも心配してる。拷問する側のメンタルケアとかある? 産業医いる? いないだろ。絶対いない顔してる」
答えの代わりに、剥がれた爪の指を握られた。
「あ」
声が出た。
短く。
間抜けに。
「あ、待て、そこは駄目。そこはもう作業済み。二重請求になる。過払い金発生する。法律事務所呼べ。今すぐ呼べ」
指先に力が加わる。
「っ、あ゛あ゛あ゛あ゛っ、は、はは、違う、笑ってない、笑ってないから、やめ、やめろって、俺、ちゃんと、謝る、謝罪文書く、原稿用紙何枚でも、」
言葉が痛みに潰れる。
それでも口は動く。
勝手に。
壊れた機械みたいに。
「拝啓、関係各位。このたびは部長の地雷を踏み抜きまして、誠に、あ゛、申し訳、は、はは、だから笑ってないって、」
誰も止めない。
痛みが続く。
時間が伸びる。
どこまでが声で、どこからが笑いなのか、自分でも分からなくなる。
俺はその間、ずっと思っていた。
また余計なことを言った。
また。
まただ。
銀時の時も。
さっきも。
今も。
俺の口は、いつも一番駄目なところへ行く。
本当に、言われた通りだった。
俺は黙っているべきだった。
なのに、痛みの中で、また笑い声が漏れた。
「っ、はは、は……っ」
違う。
違うのに。
もう、自分でも信じられなかった。
目が覚めた、というより、気づいたら床に転がっていた。
牢屋だった。
たぶん。
少なくとも、さっきの部屋ではない。
天井から吊られていない。
顔に布もない。
水もかけられていない。
誰かが俺の指を持っていない。
それだけで、だいぶ上等だった。
床は冷たい。
石だ。
硬い。
湿っている。
寝具としては星ひとつもつけられない。
レビュー欄があったら「腰が終わります」「冷えます」「虫が出そう」「接客が最悪」くらいは書く。
ただ、今の俺にとっては、吊られていないというだけでかなりありがたかった。
人間、基準が下がると幸福の判定がバグる。
「……酷い目にあった……」
声が出た。
多分そんな軽い言葉じゃ済まない気がする。
でも意思と関係なしに出たその声は掠れていた。
喉の奥が焼けたみたいに痛い。
さっき何度も水を飲まされた。
いや、飲まされたというより、吸わされた。
あれは水分補給じゃない。
水分補給という言葉に対する風評被害だ。
水も被害者かもしれない。
あんな使われ方をされて、水だって不本意だっただろう。
俺と水、両方被害者。
俺は身体を少し動かそうとした。
やめればよかった。
全身が一斉に抗議してきた。
肩。
背中。
腹。
脇腹。
腕。
脚。
口の中。
顔。
指。
全部痛い。
どこが一番痛いか分からない。
分からないくらい全部痛い。
デパートの物産展みたいに各地の痛みが集結している。
北海道から沖縄まで全部痛い。
なんなら海外出店もある。
国際色豊かな痛みだ。
いらない。
帰れ。
地元に帰れ。
……特に手。
俺は、ゆっくり、自分の片手を見た。
見なきゃよかった。
右手の指先が、ひどいことになっていた。
爪がない。
ほとんど全部ない。
全部という言い方をしたくないが、だいたい全部だ。
こういう時、曖昧な表現に逃げたくなる。
数えたくない。
数えると確定する。
確定申告みたいで嫌だ。
俺の人生、最近やたら確定したくないものばかり確定していく。
爪って、普段はあって当たり前だと思っていた。
別に日常的に感謝したことはない。
「今日も爪があって助かるな」なんて思って生きている奴がいたら、そいつは多分かなり丁寧な暮らしをしている。
俺はそんな丁寧な暮らしをしてこなかった。
饅頭を盗んで怒られる暮らしだった。
でも、なくなると分かる。
爪、めちゃくちゃ大事。
指先が熱い。
熱いのに冷たい。
脈打っている。
心臓が指に移住したみたいだった。
移住先として最悪だ。
もう少し治安のいい土地を選べ。
「……退去してくれ、心臓……そこは住宅地じゃねぇ……」
言ってから、自分で目を閉じた。
何を言っているんだ。
本当に。
余計なことを言うから、さらに酷い目に遭ったのに。
そうだ。
最後のあれだ。
──「先生の名前で、顔変わった」
──「あんた、先生の何なんだよ」
あれ。
あれが駄目だった。
明確に駄目だった。
地雷を踏んだ。
しかも片足じゃない。
両足で踏んだ。
なんなら上でタップダンスした。
地雷原でミュージカルを始めるな。
俺は馬鹿なのか。
知ってた。
今さら審議する必要もない。
全会一致で馬鹿。
あの銀髪の男は、何も答えなかった。
ただ、俺を見下ろして、もう少し痛めつけろと部下に言っただけだった。
もう少し。
あれを「もう少し」と呼ぶ組織、何。
倫理観が崖から落ちてる。
その後のことは、ところどころ飛んでいる。
いや、飛んでいるというより、思い出したくない。
身体は覚えている。
指先が覚えている。
背中が覚えている。
口の中が覚えている。
棒で何度も打たれたところが、いちいち自己主張してくる。
服の下がどうなっているか見たくない。
見なくても分かる。
血まみれだ。
たぶん腫れている。
裂けているところもある。
皮膚という組織が退職届を出している。
俺はもう一度、指先を見た。
……やっぱり余計なこと言うもんじゃねぇな。
心の底からそう思った。
遅い。
反省が遅い。
提出期限を過ぎた宿題くらい遅い。
先生に怒られる。
いや、松陽先生なら怒らないかもしれない。
そこで思考を止めた。
その方向は駄目だ。
今そこへ行くと、たぶん戻れない。
松陽先生の顔を思い出すと、銀時の顔も出てくる。
銀時の顔を思い出すと、死体の山が出てくる。
死体の山が出てくると、俺が斬った男の目が出てくる。
そして最終的に、俺の笑い声に戻る。
地獄の回覧板だ。
回すな。
俺の家は留守です。
不在票を入れて帰ってくれ。
俺は痛む身体を少し丸めた。
丸めるだけで痛い。
伸ばしても痛い。
どうしろと。
身体の置き場がない。
人間、身体の置き場がないと心の置き場もなくなるらしい。
勉強になる。
授業料が高すぎるけど。
ていうか一時のあれ何だったんだよ。
ギャグが出ないとか。
もう喋れないとか。
言葉が止まったとか。そういう流れ。
なんかこれからはそういう感じに舵切ると思うじゃん。
全然出るじゃねぇか。出るなよ。
出ないなら出ないで統一しろ。
急に復職するな。
俺の口、ブラック企業か。
退職したと思ったら即日再雇用されてるじゃん。
労務管理ガバガバすぎる。
木の根に躓いても何も言えなかった。
敵に襲われても何も言えなかった。
死ぬかもしれない時にも、何も出なかった。
それなのに。
ネイルサロンだとか残業は申請制だとか。
意味が分からない。
どういう仕組みだ。
痛すぎると復旧するのか。
俺のギャグ機能、衝撃を与えると直る古いテレビか。
叩いて直すタイプか。
俺を家電扱いするな。
しかも壊れたまま変な音出してるだけだろ。
「……俺は馬鹿なのか……」
言ってから、少し間を置いた。
「馬鹿なんだろうな……」
知っている。
知っているけど、改めて確認するとつらい。
痛い。
本当に痛い。
指先が痛い。
背中が痛い。
喉が痛い。
歯も痛い。
あれは抜かれなかった。
たぶん。
でも欠けたかもしれない。
口の中に何か硬いものが当たった気がした。
確認したくない。
舌で触るのも怖い。
怖いから、さっきからなるべく口の中を動かさないようにしている。
その結果、喋りにくい。
喋りにくいなら喋るなという話だ。
その通り。
でも黙っていると痛みが近づいてくる。
黙ると、痛みが輪郭を持つ。
喋っている間だけ、少しぼやける。
最低の鎮痛剤だった。
副作用が強すぎる。
俺は床に転がったまま、息を吐いた。
石の床に頬がつく。
冷たい。
少し気持ちいい。
冷たさだけが、痛みと違う種類の感覚だから助かる。
助かるという表現が正しいかは知らない。
でも今の俺には、冷たい床ですら味方っぽく見える。
「……お前は殴ってこないもんな、床……」
床に話しかけた。
末期だ。
でも床は黙っていた。
ありがたい。
最近、黙っているもののありがたみが分かるようになった。
床は俺を拒絶しているわけじゃない。
ただ床としてそこにいるだけだ。
床、偉い。
仕事が安定している。
鉄格子の向こうには見張りがいた。
笠。
白布。
顔が見えない。
顔を隠している奴ら。
俺はもう隠していない。素顔だ。
いや、今の顔を素顔と呼んでいいのか分からない。
腫れている。
切れている。
血がついている。
口元もたぶんひどい。
素の顔というより、拷問後の顔だからジャンルが違う。
見張りは何も言わない。
ただこちらを見ている。
見られている。
その感覚に、胃の奥が少しざわついた。
顔を隠したい。
でも、隠すものはない。
腕を上げるにも指が痛い。
袖で顔を隠すことすらできない。
なんだよ。
顔面公開キャンペーン、まだ継続中か。
早く終了しろ。
在庫切れだろ、こんな顔。
俺は目を閉じた。
暗くなる。
暗くなると、今度は痛みが増す。
目を閉じても駄目。
開けても駄目。
生きるのって難易度高いな。
攻略サイトはないのか。
攻略サイト。
そこで、思考が引っかかった。
そうだ。
情報。
俺はここがどこか知らない。
顔を隠した連中が何なのかも知らない。
何も分からない。
でも、分からないままここにいると、またあの部屋へ戻される。
それは嫌だ。
はっきり嫌だ。
死ぬのが怖いのと同じくらい、あそこに戻されるのも怖い。
いや、今はあっちの方が怖いかもしれない。
死ぬのは一回だが、あれは何回も続く。
最悪のサブスクだ。
解約ボタンどこ。
どうにかしないといけない。
そう思った時、最初に頭に浮かんだのが、あの板だった。
空中に浮かぶ、半透明の文字の群れ。
どこかで俺を読んでいる誰かたち。
コメント欄。
そう。たぶん、そう呼ぶのが一番正しい。
頼ろうと思った瞬間、俺は少しだけ自分に引いた。
いや、かなり引いた。
牢屋の床に転がって、片手の爪をほとんど持っていかれて、背中も腹も顔も口の中も全部痛くて、喉は焼けていて、体のどこを動かしても激痛が出勤してくる。
そんな状況で頼る相手が、空中のコメント欄。
終わっている。
だいぶ終わっている。
普通なら、ここで頼るべき相手は信頼する仲間とか、凄腕の医者とか、信仰する神とか、そういうものだろう。
少なくとも、象がハートを出してくる謎の板ではないはずだ。
人生相談の窓口として、あまりにも不安定すぎる。
でも、他にない。
銀時はいない。
高杉も桂もいない。
坂本もいない。
松陽先生もいない。
俺は知らない牢屋で、知らない組織に捕まって、知らない銀髪の男の機嫌を損ねて、爪を失っている。
冷静に整理すると、詰んでいる。
詰み方が丁寧すぎる。
将棋ならもう盤面をひっくり返している。
でも現実の盤面はひっくり返せない。
ひっくり返せるほど腕が動かない。
そもそも盤面がない。
あるのは石の床と、痛みと、鉄格子と、顔を隠した見張りだけだ。
だから、あれに頼るしかない。
そう思った時、胸の奥がひやりとした。
依存している。
たぶん、かなり。
自分しか見えないものに、自分しか読めないものに、答えを求めている。
誰も信じてくれないものに、自分の命綱を預けようとしている。
やばい。
客観的にやばい。
心の状態を診断する紙があったら、一発で赤信号だ。
「空中にコメント欄が見える」
「そのコメント欄に助けを求めている」
「象がいる」
この三つを医者に提出したら、たぶん医者が深呼吸する。
患者ではなく医者が深呼吸するタイプの案件だ。
でも、もう仕方がない。
やばいからやめる、で済む段階はとっくに過ぎている。
俺はずっとやばかった。
饅頭を盗んでいる時点でやばかった。
戦場で「管理会社ァ」とか叫んでいた時点でもやばかった。
味方を斬って「ノーカン」と言った時点で、もうやばさの上限を突破していた。
今さらコメント欄に頼ったくらいで、何だというのか。
俺は床に頬をつけたまま、天井の暗がりを見た。
石の隙間。
湿った染み。
黒くなった角。
何もない空間。
出てこい、と心の中で言う。
いや、違う。
その言い方はよくない。
今の俺は助けを求める側だ。
態度を大きくするな。
カスタマーサポートに怒鳴る迷惑客になるな。
しかも問い合わせ内容が「牢屋からこんにちは、コメント欄を見せてください」である。
サポート側も困るだろう。
俺が担当者ならそっと部署を変える。
出てきてください、と心の中で言い直した。
できれば今すぐ。
できれば分かりやすく。
できれば攻略情報つきで。
できれば痛み止めもつけて。
いや、痛み止めは無理か。
せめて気休めでいい。
象でもいい。
狐でもいい。
ドクロでもいい。
何でもいい。
頼む。
ここがどこなのか、教えてくれ。
俺はどうすればいいのか、教えてくれ。
そう願った瞬間、視界の端に薄い光が滲んだ。
あの、板だった。
半透明の、見慣れ始めてしまった板。
空中にぺたりと貼りついたみたいに、文字が流れている。
絵みたいな記号もある。
感情の塊みたいなものが、何段にも積み重なっている。
出た。
出てくれた。
安心した。
そして、その安心にぞっとした。
本当に出てくれてよかった、と思ってしまった。
痛みでぐちゃぐちゃだった胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。
誰かがいる。
誰かが見ている。
誰かが、俺のことをまだ読んでいる。
その事実に救われてしまった。
まずい。
これはまずい。
精神がコメント欄に寄りかかっている。
見えない手すりに全体重を預けている。
その手すりが実在するかどうかも怪しいのに、俺はそこへ身体を預けている。
でも、楽だった。
ほんの少しでも楽だった。
ありがとう、と口に出そうとしてやめた。
鉄格子の向こうに見張りがいる。
床に転がった捕虜が急に天井へ感謝し始めたら、さすがに怪しすぎる。
いや、もう十分怪しいか。
でもこれ以上、怪しさポイントを稼いでも特典はない。
景品交換所もない。
俺は心の中だけで礼を言った。
来てくれて助かった。
本当に。
依存先としては最悪だけど。
今の俺には、これしかない。
板の中では、前よりずっと多くのものが流れていた。
明らかに増えている。
文字の量も、反応の数も、熱も。
相変わらず象はいる。
この状況でもいる。
出勤率が高すぎる。
俺より勤勉かもしれない。
しかも今回は、人間みたいなスタンプも混ざっていた。衝撃を受けている顔だ。
見ている側も、だいぶ酷い顔をしているらしい。
それにしても、多い。
俺は痛む目を細めながら、ぼんやり思った。
これ、人気あるのか?
思った瞬間、自分で少し嫌になった。
人気。
人気って何だ。
俺が見せてきたものは、最悪の場面ばかりだ。
死体の山。
仲間との決裂。
人が壊れる瞬間。
拉致。
拷問。
最低なことを言った。
最低なことをした。
その上、今回はグロ描写まで増えた。
ラインナップが終わっている。
誰向けなんだ、これ。
どの層が見ているんだ。
リョナラーなら喜ぶかもしれない。
いや、喜ぶなとは言わない。言わないけど、本人が見えている場所で喜ぶのはちょっと配慮してほしい。こっちは当事者なんだぞ。
それにしても量が多い。
痛みで集中力が続かない。
文字は流れていくし、目も霞むし、指先はずっと痛い。
読書環境としては最悪だった。
照明もない。
椅子もない。
手元の飲み物もない。
あるのは牢屋と血と痛みだけ。
ブックカフェとは真逆の空間だ。
有用そうなものだけ拾う。
そう決めて、俺は文字を追った。
まず目に入ったのは、妙な単語だった。
トリガー。
それを気にしている声があった。
トリガーとは何だ。
何が引き金になっている。
俺がふざけることか。
誰かにツッコまれることか。
顔を隠すことか。
痛みか。
恐怖か。
それとも、他の何かか?
そこまで考えて、少しだけ嫌な感じがした。
"この板に流れている言葉は、ただの感想じゃないのかもしれない。"
いや、違う。
さすがに考えすぎだ。
向こうは読んでいるだけだ。
泣いたり、叫んだり、象を出したり、勝手に心配したりしているだけ。
俺の目の前の現実を動かしているわけじゃない。
そう思いたかった。
でも、俺は知っている。
ここの言葉は、ときどき俺に届く。
届いてしまう。
俺が知らないはずの情報を、俺の中に落としてくる。
それを俺が読めば、俺は動く。
動けば、現実が少し変わる。
だったら。
──この板は、本当にただの観客席なのか?
誰かの言葉が、俺の行き先を変えることはないのか。
誰かの一言が、何かの引き金になることはないのか。
そこまで考えて、指先の痛みが割り込んできた。
無理だ。
今の俺の脳内会議は、常に痛み専門部署が大声で発言している。
議題が進まない。
資料も読めない。
そもそも議長が床に転がっている。
考えるのはまた今度にしよう。
次に拾ったのは、内通者の話だった。
あの生き残りの男が内通者だったのではないか。
俺に気づかれたと思って、口封じに来たのではないか。
そういう推測。
俺はしばらくその文字を見た。
確かに、あいつはおかしかった。
俺を見る目が、ただ怯えているだけではなかった。
何かを隠していて、それを見透かされたと思っている目だった。
俺が来るからだ、と言った。
全部分かっていたんだろう、と言った。
もしかしたら、本当に何かを知っていたのかもしれない。
内通。
待ち伏せ。
あの隊の壊滅。
死体の山。
その線はある。
あるけれど。
俺が殺した事実は変わらない。
向こうが先に斬りかかってきたとしても。
何か後ろ暗いことがあったとしても。
止めるつもりだったとしても。
最後に刀を入れたのは俺だ。
死体の山に一人増やしたのは俺だ。
推理が俺を救うことはない。
事情があったからといって、やったことが消えるわけじゃない。
ノーカンにはならない。
次に見えた名前に、俺は少し引っかかった。
黒子野太助。
えっと……誰だ。
いや、知っている。
たぶん知っている。
喉まで出てきている。
いやでも顔が出てこない。
名前が出ているのに、思い出せない感じまで含めて妙にしっくり来る。
黒子野。
誰だっけ。
ヤクルコくれた奴だっけ?
それは高杉だったか。
頭の奥の引き出しを開けようとしたが、すぐ閉まった。
指先の痛みが邪魔をする。
拷問後に記憶検索するのは向いていない。
脳も省エネモードだ。
今は無理。
ホントごめん、思い出せない。
でも、重要人物として覚えておく。
黒子野。
何かあるかもしれない。
次に、別の意味で嫌なものを見つけた。
やまさき、という名前だった。
更新を楽しみにしている。
そんな文章に出てくる名前。
俺は一瞬、板から目を逸らした。
誰だ。
誰だ、やまさき。
ありふれた名前だけど俺の人生にはいなかったはずだ。
文脈的には作者だろうか。
俺を投稿している誰か。
俺の地獄を、文章として並べているかもしれない誰か。
なのに、その本人らしき言葉はどこにもなかった。
いや、一つくらい何か返せよ。
こんなにコメント来てるんだぞ。
象もリョナラーも総出で感情をぶつけてきてるんだぞ。
せめて「ありがとうございます」くらい言え。
いや、俺が言うことじゃないな。
俺は投稿者のマネージャーでも何でもない。
むしろ投稿されている側だ。
労働環境で言うなら最下層だ。
でも、作者の声が見えないのは、妙に気味が悪かった。
読者が心配して、考察して、楽しみにしてるというのに、その全部を見ているかもしれない人間だけが何も言わない。
怠惰なのか。
わざとなのか。
それとも、俺には見えない場所で何か言っているのか。
分からない。
この人は、俺の歯を引っこ抜こうとする展開を、どういう顔で書いたんだろう。
考えてはいけない気がした。
作者に意識を向けると、足元が消える。
物語の中にいるはずの俺が、急に紙の上に乗せられる。
自分の痛みの所有権まで、あやふやになる。
怖い。
俺は急いで次の文字へ逃げた。
誰かが、もし銀時たちと会う前にコメントを見られたなら、被り物を脱いで、村から死体の山までの経緯を真面目に説明した方がいい、とアドバイスをくれていた。
必要ならギャグ補正のことも話すべきだ、と。
俺は、しばらく黙った。
すまん、遅かった。
見ていなかった。
あの時、コメント欄を見る余裕なんてなかった。
仮に見れたとしても、できたかは分からない。
あの時も、今も真面目に話せなかった。
どれだけまずい状況だと分かっていても、口が勝手に逃げていた。
ほんとこれ、どういう症状なんだ。
それに、ギャグ補正の話をしたところで信じてもらえた気もしない。
現にさっき、拷問で全部言った。
銀魂も、前世も、ギャグ補正も、コメント欄も、全部言った。
その結果、爪がなくなった。
証明完了である。
最悪の実験結果だ。
結果の提出先もない。
次に、俺が完全に悪者に見えているというような反応があった。
俺はそれに頷きそうになった。
実際そうだ。
銀時から見れば、俺は悪者だった。
少なくとも、あの瞬間は。
事情なんかどうでもいい。
結果が最悪すぎる。
さらに、誰かは銀時の気持ちを想像していた。
俺を守るために置いていったのに、俺が戻ってきて、最悪の場面に出くわしてしまったのではないか。
銀時も複雑だったのではないか。
俺はそれをうまく受け取れなかった。
今の俺には、銀時が心配してくれていたとは思えない。
思おうとすると、胸が痛くなる。
期待が混じる。
期待すると、また折れる。
だから、嫌われたと思っていた方がいい。
危険物だと判断された。
それでいい。
その方が、まだ整理できる。
板には、飯の絵も流れていた。
誰かが、こちらへ食べ物を渡せないかと嘆いているようだった。
おにぎり、肉、鍋、米、茶、箸。
温かそうなものが並んでいる。
腹が鳴った。
鳴るんだ。
この状況で。
身体中痛くて、ついでに心の方も痛くて、牢屋に転がっていて、それでも飯の気配には反応する。
身体は図太い。
図太くて、少しだけ頼もしい。
そして腹立たしい。
まともな飯が食いたかった。
あったかい米。
汁。
肉。
できればラーメン。
前世の記憶にある、湯気の立ったラーメン。
麺を啜る音。
熱いスープ。
今の口で食ったら歯に響いて泣くかもしれない。
それでも食べたい。
食べ物の絵だけで泣きそうになるの、かなり末期だ。
そんなふうに、いくつかの文字を拾いながら、俺は痛みの中でどうにか情報を並べていた。
痛い。
しんどい。
俺が悪い。
コメント欄に依存している。
作者が怖い。
飯が食いたい。
全部、本当だ。
全部、俺の中にある。
その時、板の下の方に、気になる文字が見えた。
俺の目が勝手に単語を拾っていく。
崖の上。
高杉と桂。
人質。
銀時。
松陽先生の首。
銀髪。
奈落。
朧。
松陽先生の一番弟子。
徳川定々。
諸悪の根源。
俺は、そこで動きを止めた。
痛みが消えたわけではない。
指先は相変わらず熱い。
背中も痛い。
喉も痛い。
口の中も痛い。
身体は全部、まだひどい。
それでも、その情報は痛みより大きかった。
銀時が松陽先生を斬る。
その断片は知っていた。
でも、どうしてそうなるのか分からなかった。
高杉と桂が人質。
崖の上。
選ばされる。
銀時が。
それは選択じゃない。
処刑だ。
松陽先生の処刑であり、銀時の処刑だ。
先生の首を斬らせることで、銀時の中の何かを殺すやり方だ。
吐き気がした。
今度こそ吐けるかと思った。
でも吐けなかった。
代わりに、呼吸だけが浅くなる。
──奈落。
俺はその単語を見た。
奈落。
もしかして、ここが、そうなのか。
顔を隠した笠の男たち。
拷問を仕事みたいにこなす連中。
俺を拾って、吊って、水をかけて、爪を剥がした連中。
──そして、朧。
銀髪の男。
あの男の名前。
朧。
"松陽先生の一番弟子。"
その言葉が、一番深く刺さった。
あの男が。
俺が「先生」と呼んだ時、空気を変えた男が。
俺が「救いたかった」と言った時、冷たい目をした男が。
俺が「あんた、先生の何なんだよ」と言ったら、痛めつけろと命じた男が。
"松陽先生の一番弟子。"
"一緒にいたいだけ。"
そんな言葉も混ざっていた。
一緒にいたいだけ。
たったそれだけの感情が、こんな形になるのか。
俺は分からなかった。
分かりたくもなかった。
でも、あの反応を思い出す。
先生の名前で変わった顔。
冷たくなった空気。
言葉では答えなかった沈黙。
あの男は、松陽先生を知っているだけじゃない。
先生に対して、何か重いものを持っている。
それが分かった瞬間、ここに捕まった意味が変わった。
俺は逃げようとしていた。
当然だ。
逃げたい。
今すぐ逃げたい。
あの拷問部屋には二度と戻りたくない。
笠の男たちにも触られたくない。
朧にも会いたくない。
また余計なことを言って痛めつけられる未来が見えすぎている。
でも、逃げたら、また外側だ。
俺は外側からずっと間に合わなかった。
松陽先生が連れて行かれるのも止められなかった。
銀時たちにも追いつけなかった。
殺戮イベントにも間に合わなかった。
コメント欄の助言も、見るのが遅すぎた。
外から追っても、俺は間に合わない。
なら、中にいるしかない。
奈落の中に。
朧の近くに。
松陽先生を奪う側の内側に。
怖い。
死ぬほど怖い。
でも、ここしかないのかもしれない。
徳川定々。
諸悪の根源。
その名前も拾った。
相当な奴らしい。コメントも結構過激だ。
なら、そいつが鍵なのかもしれない。
少し見えてきた。
今後起きること、その条件を潰してくしかない。
銀時に斬らせるな。
高杉と桂を人質にさせるな。
崖の上の状況を作らせるな。
定々を探れ。
朧を見ろ。
奈落の中を探れ。
松陽先生の居場所を掴め。
俺は全部を知っているわけじゃない。
むしろ知らないことの方が多い。
でも、何が最悪の形なのかは見えた。
──そこへ向かう道を、どこかで潰す。
それしかない。
俺は床に額をつけたまま、ゆっくり息を吸った。
痛い。
生きているだけで痛い。
身体中が、もう一度あの部屋へ戻るなと叫んでいる。
それでも、生きなければならないと思った。
最悪だ。
死んでもいいかもしれない、と思っていたのに。
終わってもいいかもしれない、とさっきまで本気で思っていたのに。
終われなくなった。
銀時に、松陽先生を斬らせない。
その一点だけで、俺はまだ生きなければならなくなった。
銀時に見限られたと思っている。
次に会えば斬られるかもしれないとも思っている。
それでも、あいつにそれをさせてはいけない。
俺がどれだけ化け物でも。
無面の修羅だと呼ばれても。
味方殺しでも。
奈落に捕まった馬鹿でも。
コメント欄に依存しているやばい奴でも。
それだけは止める。
板が薄くなっていく。
……象がまだいた。
狐も、ドクロも。
本当こいつら楽しそうだな。
でも、ありがたかった。
俺は心の中でだけ、もう一度礼を言った。
ありがとう。
感情の洪水に混ざってくるから読みにくいけど。
象の圧がすごいけど。
助かった。
依存先としては、間違いなく不健全だ。
でも今の俺には、これしかない。
板が消える直前、俺はぼんやりと思った。
逃げるだけじゃ駄目だ。
ここで生き残る。
朧に利用価値があると思わせる。
痛みで全部喋ってしまうなら、喋る内容を選ぶしかない。
余計なことを言う癖があるなら、それすら利用できる形に持っていくしかない。
できる気はしない。
正直、全然しない。
でも、何もしなければ、最悪が来る。
それだけは、駄目だ。
身体を起こそうとして、引き裂くような痛みに思わず低く唸った。
どこもかしこもしんどい。
一番苦しい時に笑いが出る自分が怖い。
それでも、ほんの少しだけ。
さっきより、生きる理由が戻っていた。
その時だった。
鉄格子の向こうで、足音がした。
見張りのものではない。
無駄がなく、静かで、近づいてくるだけで牢の空気が冷えていくような足音。
俺は、痛む首を無理やり上げた。
鉄格子の前に、銀色が立っていた。
朧。
さっき見た名前が、頭の中に落ちる。
松陽先生の一番弟子。
早速来た。
怖い。
正直、めちゃくちゃ怖い。
こいつが来たということは、またあの部屋に戻されるかもしれない。
また吊られるかもしれない。
今度は爪だけじゃ済まないかもしれない。
決定的な何かを失うかもしれない。
でも、同時に思った。
逃げるな。
目を逸らすな。
こいつが奈落なら。
こいつが松陽先生に繋がっているなら。
こいつがあの最悪の崖へ続く道の途中にいるなら。
こいつを怖がって終わるな。
利用する。
俺がこいつに使われるだけじゃ駄目だ。
こいつを使う。
奈落を使う。
コメント欄の断片を、俺の知識みたいな顔で並べて、価値があると思わせる。
殺すには惜しいと思わせる。
松陽先生に近づくために、こいつの懐に潜り込む。
できるかどうかじゃない。
やるしかない。
俺は床に転がったまま、痛む指を少しだけ握ろうとして、失敗した。
激痛が走る。
笑いそうになった。
今ふざけるのは逃げじゃない。
武器にするためだ。
俺は血の味がする口を動かした。
喉が焼けて、声は掠れていた。
それでも、できるだけ軽く、できるだけ意識が向くように、できるだけ生きている奴の声で言った。
「あのさぁ」
朧が俺を見下ろす。
俺はその目を見返した。
怖い。
痛い。
死にたくない。
でも、それ以上に。
ここで負けるわけにはいかなかった。
「面接の続き、まだ終わってねぇよな」
そこで、俺は少しだけ口の端を上げた。
「俺、採用されに来たんだけど」






















屍からみんなへの感情をガチでセレナーデのラスサビだと思ってて、このコメント見てくださっているなら良ければ聞いていただきたくて… 「これだけ願って、これだけ祈ってこんな悲しい結末でごめんね」👈これにならないように今めちゃくちゃハピエンを妄想してます