半身は、欠けおちていたのか。それとも、なくなってはならない一部が二度と返ってきてはくれないのか。どちらにせよ、在るべきものが失われたことは確かであった。
会いたいと願い続けていたものは、既に死んでいた。私は、喪われた者との出会い方を知らないのだ。
生を終えた花のように、濡れた地面に広がっている。熱を無くした人間の青白い四肢は力なく投げ出され二度と動くことはない。
熱がない。息がない。命が、ない。
閉じられた瞳が開くことはなく、噤まれた唇が開くこともない。
私を呼ぶ声はない、私を映す瞳はないのだ。私は、彼女の声を知らない。どのような声で私を呼ぶのか、その声がどれほどの柔らかさをもち、私の名を紡ぐのかを。その瞳の熱は、私に何を齎すのだろう。人間である彼女の肌が私のものよりも冷たいとは思わなかったのだ。自分と異なる脈打つ鼓動に耳を澄ませて見たかったのだが、それは二度と叶わない。
私が見つけたかった存在は地に伏せ、起きる気配はなく。私は、出会ってすらいない愛すべき者を、出会う前に、亡くしたのだ。
その感覚をどう表現したものか、穴のような物を胸の奥に感じざるおえない。虚だ。埋まることなどない空虚が息づいている。これを抱え、生きなくては、ならないのか。人間は、このような虚ろを抱え生きているというのか。
何故。
何故?
地面を舐めるように這わせた無意味な視線が、彼女のものと交差する。
目は、合ったのだ。
ちかちかと瞬く、清廉でいて輝かしい命が、そこにはあった。
私の神子が死ん……?
「君。君、なのだろうか」
淡々とした何かの声。感情は滲んでいないけれど、その声にこそこたえてあげたいと、心の底から思った。答えられない自分がいることに落ち着かなくなるほど。
ゆっくりと意識が覚醒する、全身を打ち付ける雨に体温が奪われていくのを感じた。身体はピクリとも動かせず、四肢がだらりと地面に倒れ込んでいて、瞼を開けられない。倒れていても指先ぐらい動かせそうだが、無理だった。どうしてだろう。身体がまったく動かないの、こたえてあげたいのに、こたえてあげられない。
「生きては、いないのか。」
いいえ、ものすごく生きてます。心はとても元気です。動くことが出来ればラジオ体操踊れるぐらいには健康体。そう返事をしたいのに、声の一つも出せないままで男の人の言葉に耳を澄ませる。
「なぜ。」
色は感じられず、どこか悲哀を滲ませて。頑なな冷たさは、凍りつくように。事実を紡ぐ言葉たちは刺々しさを持ち、彼自身を突き刺している。
「何故、君は死に、私が生きている……」
大きく、揺らいだ。水面に石を投げ込まれた衝撃でも受けているようだった。絶望すら漂わせた彼が言葉を放つほどに雨足が強まり、肌に当たる雨粒の痛さや寒さもわからなくなっていく。ザアザアとした雨は彼の声だけを奪わず、他の音をすべて消していく。
「私は間に合わなかった、そういうことなのだろう。」
苦しまないで、悩まないで、泣かないで。なかないでほしいと、本気で願った。
「私は、間に合わなかった。」
あまりにも激しい雨が、降っている。あなたが、他でもないあなたが、泣いている。ひどく嘆き悲しんで空が見えないほどだ。それは俯いてしまっているからなの、それとも前が見えないほど目が濡れてしょうがないの。どうしようもない絶望があなたを苛んで苦しめている。認められない別れを知り、胸が張り裂けそうなほどの痛みに、きっと今どこに立っているのかさえわからなくなっている。そのようなときにどうして怠惰に眠っていられるの。どうすればその涙を拭えるの。いま、力を振り絞らずに、いつ、本気を出すの。頑張らずして勇気も気力も湧いてはこない。だから私はいま、全身の力という力を振り絞らなければ。
指の一本も動かせないのに、あなたのためになにができる。
立て、いま奮い立て、あなたの言葉にこたえ、声の一つでも返してみせろ。
重たすぎる身体はまだ動かないけど、瞼はなんとか、動いた。たくさんの時間をかけて開いて、瞬きひとつ、亀よりもずっと遅い動きでも必死に、あなたの声と姿を探す。人のかたちであっても、一目でわかる。龍だ。紛れもなく。世界を治め、世界とともに在る。気高く、尊い。愛しくてたまらない、たったひとつの龍。頬がふにゃふにゃと緩んでいく。拠り所をなくし立ち竦んでいる姿も、かわいくて、たまらなかった。雨は強く、彼をずぶ濡れにしてはその頬にも伝い、まるで止むことを知らない涙のように。
ふ、と、目が合えば、暗んでいた瞳に強い光が宿る。
もう泣かないで、ううん、違う。泣いてもいいよ、泣いてしまっても良いんだよ。泣くのは大事なことだから。でも、わからないところでは泣かないで。
「神子。」
隠れるように泣いてしまわないで、声を殺さないで、涙を拭えるところで泣いてほしいよ、私の龍。
「私の、」
確かめるように両手で触れてくる。頬に触れ、肩を抱かれ、身体を抱き起こすように。膝をついたあなたの瞳が美しい光を伴っている。
「私の、神子。」
銀の糸、彼の髪は雨のなか、鱗のようにきらめいていた。目があえば彼のひとの瞳もまた、瞬く。人ならざる瞳には歓喜が浮かび、雨足が弱まっていく。
あなたの、神子?疑問は浮かばない。私は、あなたの神子で、あなたは、私の、龍だ。
「私は君に出会えたのだな。」
雨の中のこの出会いは不思議でおかしなものの筈なのに、彼とならばなにも変じゃなかった。どうしてひどく喜んでもらえたのかがわからないまま、抱きしめ返してあげられないことを悲しんだ。水に奪われ続けていた体温は冷たい肌に掻き抱かれ、寒さを忘れる。
「片時も離れてはならない。私の許に。」
強く、抱き締められる。首元にそっと寄せられた顔は、ちゃんと見えないけれど、声が弾んでいる。甘えられてるのかもしれない。かわいい。指先ひとつ動かせない身体で頷くことは難しく。ゆっくりと瞬いては、微笑んだ。私の龍の願いはぜんぶ叶えてあげたかった。肯定の意思は拾ってもらえたようだ。ほんの少しだけ、笑ってくれた気がする。
「冷えてしまっている。君を、はやくあたためなければ、」
体温を奪われ小さくなっていく心臓の音にようやく気がついた彼は、顔を上げ片手を動かした。すると小雨であった雨は完全に止み、天へと吸い込まれては消え失せ、私と彼の身体を濡らしていた水気も無くなった。動揺するも身体や顔にはまだ出ない私を横抱きで、運ぶ彼の足取りは軽やかにどこかへ向かっている。
「眠ってしまっても構わない。君の眠りを脅かす者はいない。私が許しはしない。」
眠るというよりも、この凄まじい眠気は気絶に近い。彼の言葉に甘えて目を閉じる。意識を手放す私を抱く腕に力が込められる。
「君の眠りが穏やかなものになることを祈ろう。」
清らかな祈りのような声が降る。しとしとと落ちる雨に似た、眠りを妨げない穏やかさを持って深みへと誘う。
きっと、このひとのそばで眠るときは夢すら見ない。
◯
ひんやりとした柔らかなものが額に触れる。次に頬にも触れて、むずがゆくて寝返りを打つ。ふかふかとしたベッドが気持ちよく、うんと伸びをしながら、身体の上にかかっているそれなりの重さの毛布を引き寄せ、ようとした。動かない、引っ張っても、うまく動かない。違和感がある。ひんやりしている気もする、毛布のくせに。これは、抱き枕かもしれない。毛布が丸まってしまったのかも。
「ううん……」
くるりと寝返りをまた打って、目を開かずに毛布を探す。手でごそごそ。そうっと、指先に触れた何かがきゅっと絡まった。確かめるような手つきで、力が込められていく。
「────神子」
しっとりと艶やか、けれど、とても甘い。溺れてしまいそう。カッと目を見開く。指だ。ひんやりした誰かの指が、私の指に絡まっている。毛布だと思っていた身体の上のものはその人の腕で、慌てて逃げ出す。いともたやすく逃げ出せたので転がり落ちる勢いでベッドから降りる。両手足、膝を犠牲に着地、地味に痛い。四つん這いの状態で振り返ればベッドから起き上がったラフな服装、前のボタンをいくつか外した白いシャツ姿、そこからあらわになっている陶器のような肌、貴族を思わせる優美な見た目。必死に記憶を探る。銀の髪、人ならざる瞳。ベッドから降りようとしないそのひとは身体を起こした姿勢でベッドの端に座り、不思議そうな顔で私を見ている、どこかさみしげな、神秘の瞳。
眠る前に見た、雨の中の。
「こちらに。」
「エッ」
驚いてあげた声。動く気配のない私を見下ろし閉じられた唇は、何となくへの字に見えないこともない。不機嫌とはちょっと違う、あれはどんな感情なの。多分、不満を醸し出している。表情は分かりにくいが不満は滲むものだ。
「神子、神子……」
胸がきゅっとなる。手招く声色はさみしそう。しょんぼりとした目は潤んでもないのに、泣きそうにも見える。人違いでは。私は神子という名前じゃありません。二つほど物申したい気持ちと、触覚めいた髪型の一部分がへにょっとして、だんだん落ち込んでいるようにも見えてしまう。何故入った覚えがないベッドから抜け出して戻らないだけでこんなにも落ち込まれているんだ。
「……間に合わなかった私は、君に触れることを許してはもらえないのだろう」
嘆き、悲しまれている、美しいひとに。事情がよく分からないがこれだけは聞いておかねば。
「触れることを許し……いえ、あの、まさか、寝てる私を……触って……?」
「君に触れるのは、とても……心地良い。」
「かわ……じゃなくて、許可を取らずに触るのはダメです。人じゃなくてもそれは守って欲しいことで……ひとじゃ、ない……人じゃない?」
どうして私は、目の前の彼を人じゃないと思ったんだ?
そうだ、神秘的な瞳だけが理由じゃない。眠る前に見た雨を操るあの姿のせいだ。
「私が答えられることならば答えよう。」
「あなたは、人じゃない?」
「……君が考えている通りだ。君が私の腕の中で長い眠りに落ちる前、君は私に応えた。」
「あなたは……龍?」
「君がそう呼ぶのなら、私の神子。」
床に座り込んだまま、龍と神子のキーワードが脳内を巡る。あれは乙女ゲーム、遥か系統、OK把握。何作目。トリップ。成り変わりではないだろうなまさか。だがしかしこの流れは。世界を救う系ですか。断固拒否。託されるものがとんでもなさすぎる。世界の滅亡。世界って壊れやすいよねウッ頭が。愛しい人か世界か。どっちも救うには最初バッドエンドって何それ絶望。間違って召喚したパターンだと黒龍の神子。白龍の神子はいずこ。両方を兼ね備える龍神の神子の可能性全然あるな。そもそもいまは人の姿の彼は何の龍だ。青いから青龍、それは四神。四神ルートも好きでした、古の記憶。
「床は冷えている。人は、身体が冷えては体調を悪くするゆえ、こちらに、神子。」
心配してくれていたのか、彼は。それなら、と立ち上がりベッドに近づき、いや、待って、と動きを止める。ジッと見つめ合いながら、人に触れるのを心地良い、と断言した邪気の欠片が一切感じられない龍の瞳の真意を探る。
「神子。君をあたためなければ」
「あなたの肌はひんやりしました、暖めるのは適さないのでは」
「だが君は、私を離そうとはしなかった。」
ぐう、と息を漏らす。寝ぼけていた。寝起きが悪すぎた。彼は、ベッドの上を、こちらに、と言ってはいない。逸らされることのない瞳はまるで、腕の中に戻ってこいと言っているようで、そっちがおそらく正しい。誰が初対面の、中身が人じゃなくとも見た目男性の腕の中にお邪魔できるというのか。美形、麗人、とんでもないイケメン、威圧感や厳かさが隠しきれない貴族の雰囲気すら漂うひとの近くに行くのはかなり気合がいる。しかも場所がベッドである。それにこちらは大きめのシャツ一枚だ。知りたくなかったが下着の存在を感じられない。パンツはどうしたというのか。ブラは何処。突然消し飛んだ可能性はないと信じたい。相手が人ではないからそこまで危機感を抱いていないが、人権がない。相手も気にしていなさそうなのはわずかな救いか。たしかにこのままじゃ、風邪をひきそう。
「別のベッドや暖炉がある部屋、もしくはソファーなどがあったりは……」
「眠らなければならない時間だ。勿論、君も私も同様に。」
何も間違ったことは話していない面の彼が、ここでようやく視線を落とす。
「やはり、もう……私は、君に、触れさせてはもらえないのか。」
「…………そんなことは、ないです。」
なかないで、と条件反射で駆け寄りたくなる。
私が、近づかない、受け入れない、それらを見せればこんなにも落ち込まれる。ちょっとしたことでも悲しまないでほしいし、泣かないでほしい。えーんえーんと分かりやすく泣くひとには見えないけれど、このひとの涙は見たくないと思った。
「“こちら”に来ました、これでよろしいでしょうか。」
ちょこんと大きなベッドの上の端っこ、彼の横で正座をしたところ。瞬きを数回した彼の手が指先に触れ、今度は逃げない私を注意深く見つめては、きゅっと指先が絡められた。確かめるように片手を恋人繋ぎする龍(人のすがた)ってどう思う?私は可愛いと思う。心なしか、への字であった口元が緩く、上向きになっているような。
「神子。」
ぱあ、と、無表情に見えた波立たない水面を思わせる表情が華やいだ。目に毒だ。わずかに見開いた神秘の瞳が喜びに揺れる。ちょっぴりと笑む彼の愛らしさに胸が射抜かれる。ほわほわお花が飛んでいるみたい。嬉しそうに、ひっそりと静かに微笑むひと。人の姿をしているのにうんと甘やかしてあげたくなってしまう。可憐の一言がすごく似合う。彼に、嫌がられないだろうか悩みながら、恋人繋ぎをしていない手で、その髪に触れていた。さらさら、ふわふわ、極上の手触り。せっかく美しい銀をしているのに寝癖がついていた。ついてしまっている乱れも指先一つでずいぶん綺麗になる。憧れる髪質だ。
「よしよし、大丈夫。泣いても良いですよ、側にいるから。」
「……嗚呼」
龍の毛並みがかなり良いな。これ毛並みなのだろうか。褒めるときは、たてがみ呼びなのかな。髭ではないだろうし、青い触覚みたいな部分は何になるのだろう。人の形をしているけれど、彼にはいろいろ秘密がありそう。
「君に触れられるのもまた、心地良い。」
「ご、ごめんなさい。勝手に触ってしまって、先ほど自分で言ったのに、」
「構わない。私から触れるのは、許可がなければダメだと君は言った、ならば、君から触れてもらいたいのだが。」
甘えるような声色でお伺いを立てられると何でもしますと言いそうになる。
「ダメ、だろうか。」
「…………ダメじゃないです。私が触っても、大丈夫ですか、嫌じゃない?」
「君ならば、いくらでも。嗚呼……だが、神子、許しを。」
ふ、と笑っている。綺麗なひとなのに、すごくかわいい笑い方をする。思わず見惚れては、許し、普段聞きなれない言葉に頷いている。
「良いです、大丈夫、」
「承知した。」
ぬいぐるみでも抱き締めるように抱き締められた。大きなテディベアが抱きついていると思うことにしよう。くっつかれるの、ふしぎと安心する。龍効果かな。麗しのテディベアがすぎる。ふたつでごろりと横になったベッドはやっぱり大きい。大型犬に絡まれてる気持ち。
「わ、あ、あの、これはちょっと、撫でにくい」
「こちらに、私の許に。」
「これ以上、どうやって近くに」
「私も、分からないのだが……そばに来てはくれないか。」
「が、頑張ります、どうしたらいいですか。」
「君の手を、私の背に。」
「こうかな……どうですか?」
「……もう少しそばに。」
抱き締め返しても、彼の龍はまだ足りないのだという。思い切ってぎゅうぎゅうと力を込め、しがみつく勢いで精一杯抱きしめてみるも耳元で、ふふ、とくすぐったそうに微笑んでいる。
「教えてくれますか、あなたが嬉しくなることをしたい。」
「ああ、いくらでも教えよう。君が私の許にいてくれるなら。それも既に、嬉しい事なのだが……。」
しっとりとした静かな声の持ち主だった。他の音がしない部屋では特に眠気をもたらす。先ほどまで寝ていたのでそこまでの眠気はないが、このままでは子守唄になりそうで。聞き入ってもしまう。
「神子、私の願いを聞いてもらえるだろうか。」
「どのような、ものでしょうか。」
龍のお願いとは。どうしよう、とんでもないお願いされたら。身体の一部が欲しいとか。人間が叶えられる範囲だと良いな。痛くない方向性でお願いしたい。遠い目で現実逃避をすれば、小声で彼はこう言った。
「……君の腕の中で、眠りにつきたいのだが……許してもらえるだろうか。」
黙って聞き入れて、しがみついていた身体を少し離し、どういう意味なのか飲み込むためにうん?と目を合わせ、無言になる。可憐すぎる、この龍。
「エッ」
彼はこの声を逃げの鳴き声だと思っていると見た。私を抱きしめる腕に力が込められ、むぎゅっと潰される勢いで捕まった。彼の胸元に顔がぎゅむっと埋もれた。
「無理をさせるつもりはない、どうか逃げないで欲しい。私は、」
「いえ全然難しくないですね助けて潰される」
力が弱まった。息がしやすい。筋肉もろもろ大きさの圧よ。
「ちょっとだけ離してもらって良いですか、逃げないので。」
もぞもぞと身体の位置を上に、彼の頭を抱きしめる形になる。
「こんな形なら……どうかな?苦しくないですか。」
「ふむ」
諸事情で落ち着かない場所がありすぎるが、まだ眠れそうだ。すり、と胸元に顔が埋まる。すう、と吸われている。逃げ出しかけた私の動きを封じるように長い手足はこちらを捕まえる。じたばたすることもできない。
「嗅がないでもらえると……たすかります……」
「ああ」
聞いているのかいないのか。力ない声を耳にしては腰に回されている腕に力は込められ、さらに引き寄せられる。もう逃げる気はないのに、誰かに奪われかけた宝物を必死に隠そうとする子供のような動きだった。
「きみのおとがする、ここにある。」
とろとろとした声がかわいくて、しがみつかれたまま身動きできない。静かになった彼を撫でる。寝てしまったようで、眠れるんだ、すごいな、と感心した。こんな得体の知れない神子を抱きしめながらよく眠れるな、と神子でありながら思ってしまう。自覚がないからこんな捻くれた考えを持ってしまうのかも知れない。
「あなたの名前、呼んでみたい。名前、あるのかな。」
彼の頭を抱きしめて目を閉じる。名前を呼んでみれば、彼はどのような顔をするんだろう。喜んでくれることだけは、まだ短い付き合いだけど分かってしまう。神子と龍とは、なんともふしぎな関係である。いまはまだ名も知れぬあなたはきっと、可憐に笑ってくれる。
────────────────
ある話を聞いた。
龍神という神と、その神と在る神子の話だ。
様々な時代、どのような状況であろうと、龍神は神子の声に応え、神子もまた、時代が異なる空間、遙か彼方にいようとも応えるという。
私はそれを聞いた時、こう思った。
私にも神子がいるのだろうか、と。
私の呼び声に応える声があるだろうか。
庇護すべき対象ではなく、審判する相手でもなく、私の願いを叶えようとする人間。そんな人間が果たして存在するだろうか。
ただ一つ、己の龍の為だけに存在し、その身が果てようとも龍を愛する、人間が。
私は忘れられなかった。一度耳にしただけだというのに。ただ、それだけの話だった。
────────────────
お揃い……?
「これを君に。……君は、長い眠りについていた。何か異常があれば隠さず教えてもらいたい。」
「分かりました。」
用意された服のファンタジー要素に身構えるも、大事な龍がくれたものなので、似合う似合わないは置いといて一度は着てみよう。これがメイド服であっても喜んで着そうな自分がいる。謎である。シャワーを浴びた後で見慣れないものを一つ一つ手に取りながら身につけていく。気を遣ってくれたのか、彼のいなくなった部屋は静かすぎる。爆睡していたベッドがやけに大きいことや部屋の調度品は貴族のよう。気になりすぎる点は横に置いておく。眠っていた時間、彼が長い、と言うぐらいだ。どの程度眠ってしまっていたんだろう。一週間とかはないだろう。流石にないよね。
全身が映る鏡に向き合った。彼が望むならできる限り助けになりたいけど、私にできることはあるのかな、あれば良いな。
「どこかで、見たような……?」
波のよう、水を思わせる模様が入ってるスカート部分を摘む。後ろがほんのり長め、フィッシュテールスカートよりは長くないが脚長効果が期待できるやつだ。くるりと回ってみれば、見事にひるがえる。揺れ方も美しい。これが職人の技……ゴクリ。ハイウエストなスカート部分、前面は編み上げだが一枚濃藍の布を挟んでいるからか、編み上げの隙間から肌は見えない。編み上げの両横にはひし形の青い飾りが縦に三つ連なり、スチームパンクやゴスロリみがあるシルエットだった。シャツも黒、でも袖のフリルは白。ハイロースカートは胸を強調するようで恥ずかしいし、フリルも慣れないと落ち着かない。青や濃い水色、ところどころ黒い部分もあり、色が奇抜なものではないので気品や優雅さを感じられて何だか中身までお淑やかになれた気がする。お嬢様が着ていそうな服だ。これがおしゃれの力。鏡を見つめ直し、キリッとした顔の後、これが……私……?をしておく。両頬に手を当てるのは秒。服の触り心地はなめらかで安くないことだけはなんとなくわかった。汚さないようにしよ。
首元がフリルのシャツは麗しく、中央には七色の宝石が煌めいている。フリルは先端にいくほど青いグラデーションで、宝石のようなものも角度で色を変えるのが面白い、何度も右へ左へ身体を傾けてしまう。少し踵が高いブーツは留め具が横にいくつかついていた、太腿下まであるブーツのおかげで絶対領域が地味にある。他人の部分だったら指を突っ込んでいたが、自分のものとなるとちょっと。スカート部分を引っ張る。ブーツ伸びてくれないかな。ちょっとで良いんだよちょっとで。
スチームパンクな異世界トリップ。龍の、神子。召喚された場所はたしか、街中であった。この世界を説明してくれる主要キャラクターは近くにはいたが、彼は、龍だった。4か……むしろこれは3?一部にしか理解できない内容を小声で呟く。最近流行りのあれですか、間違って召喚したパターンじゃないよね。悪女に転生、貴族に令嬢、魔王、あと何があった。龍自身が私が神子だと呼ぶのなら、間違いはないのだろうけれど。浄化もしくは鎮魂の力に目覚めるのか、おらワクワクすっぞ。目覚めてからずっといる部屋は一般人のものとも思えないので、ものすごく面倒な出来事に巻き込まれる気もする。
「何も、持ってないよね。」
お嬢様が着ていそうな服に便利そうなポケットはない。ぽんぽんと軽く叩いて、コインの一枚も音がしないのを確かめ、足元を見る。靴の中にワンチャン、この世界の通貨、入ってないかな。裏に張り付いていたり。
「気に入ってもらえただろうか」
目の前の鏡に映った、背の高い男性が真後ろに立っていた。杖をついている麗人に息を呑む。いつからいた。どこから生えた。外に出ていたのにいつの間に部屋の中に。杖を持たない方の手に、何かを持っている。
「はい、すごく綺麗なお洋服ですね。」
「見栄えも重視はしたのだが人間の衣服は動きやすいものではないゆえ、出来る限り動きやすく、丈夫なものにした。」
彼が手に持っていた杖を消した。魔法、見ちゃった。ここ、確実に異世界だ。魔法使い、賢者、王様の可能性もある。彼の身なりは村人じゃない。彼が誰なのかは分からないが、彼が、何であるのかは自ずとわかってしまう。振り返り、彼の目を見ただけなのに。もう片方の手に持っていたワイングラスのようなものを差し出される、とりあえず受け取った。
「龍……これは、お水ですか?」
人にしては珍しい瞳だけが理由じゃない、人ではないものだと確信がある。否定とも肯定ともつかない少しの沈黙のあと、微かな笑みが浮かべられた。どこか嬉しそうな、和らいだものだ。グラスの中の色は透明、近づけて香りを確認すると、無臭。
「これは私が最近好んでいる水だ。君に。喉が渇いているだろう。」
「……私に?ありがとう、いただきます」
お洒落なグラスを手に、一口。天然水ぽい味、良いお水だ。美味しいお水。美味しい、と溢せば、飲んでしまっても構わないと言われた。身体は喉が渇いていたことを思い出してしまったので、遠慮なくごくごくと飲み切った。
自分の服と彼の服を見比べる、どこかしらが似ているような似ていないような。何だかちょっと恥ずかしいけど嬉しい。彼が用意してくれたものらしいからお礼を言おう、あと聞いておきたいことが一つ。
「神子。」
「あの、」
被さってしまったので、お先にどうぞと手を向けるとそっと首を傾げられる。ジッと見つめられると上手におしゃべりできない。目の前の彼は美しすぎるひとだ。
「君の言葉を先に聞こう。」
「ではまず、服をありがとうございます。助かりました。私、もしかしてあなたと出会った時、裸でした?」
全裸トリップ、嫌な響きすぎる。目を見ていられず目を逸らす。
「そのようなことは……」
言葉を何故切ったのだろう。伝えにくい事実に言い淀んでいるのではないと思いたい。
「君が寒そうにしていたので、新たな服を与えただけのこと。」
まだ全裸であった可能性が消えない。下着が姿を消してたからね。口を閉ざした私を見下ろした彼が、片手を胸に当てていた。
「神子、私の名はヌヴィレットという。これは姓であるが他のフォンテーヌの者たちもこの名で呼ぶので、あまり気にしないでほしい。」
苗字しか名乗らないヌヴィレットさんに、気になる単語が幾つも耳に入る。
「ヌヴィレット、さん。私、知らないことがたくさんありまして。」
「ふむ」
「聞きたいこともいくつかあるのですが、ヌヴィレットさんはお忙しい方でしょうか。」
「私はこのフォンテーヌで最高審判官をしている。」
「しんぱんかん」
「今日の午前は休みをとっているゆえ支障はない。」
しんぱんかん。厳粛そうな響き。聞き慣れない職業名。数秒経って、裁判官的な、と閃く。最高、とつくのだから、それはもうご高名な方なのだろう。めちゃくちゃ忙しそう。龍なのに働いている。この世界、いろんな種族がいるのかもしれない。
「お忙しいのに、ごめんなさい、助けていただきありがとうございます。すぐに出て行きますから、このご恩は必ず、」
「何故」
一歩踏み出され、簡単に捕まりそうな近すぎる距離に片足を引けば後ろの鏡にぶつかりかける。これ以上、下がれない。
「あっ」
震えた手からグラスが滑り落ちる、彼がまた軽く手を動かしグラスを消した。この龍、多才すぎる。マジシャンの可能性がある。
「たくさんご迷惑をかけてしまったので、すぐにでも、」
「私の許からいなくなると?」
無表情の圧が彼から滲む。ごくりと唾を飲み込み、恐る恐る尋ねた。
「あなたのそばにいる理由が私には、」
「私はどうやら、君を不安にさせたようだ。」
しょんぼりとした雰囲気を隠さず、水面めいた瞳に見下ろされながら告げられる内容に、あれこれ逃げられないんじゃ、と思った。そもそもどうして、逃げようと思ってしまったのか、悲しませて良いひとじゃない、ヌヴィレットという龍は。
「君を怖がらせるつもりはなかった。この身は、君が抱いた多くの疑問を知る助けになるだろう。」
続けられた内容はこちらに親身になってくれているもので、良い人ならぬ良い龍じゃん、と思った。内心ものすごく謝った。実際にごめんなさいの一言でも伝えると、口がへの字になるので、かなり気にするようだった。あまり言わないようにしよう。
「よろしくお願いします、お世話になります。ヌヴィレットさん。」
多分、こっちの方が喜びそう。頼りにしても良いのかな。そっと様子を確認すると、頷かれる。にこ、と表現して良いほど口元を緩めていた。足を踏み外して溺れてしまうぐらい、かわいくて綺麗な微笑みだ。
「君の助けになれることを光栄に思う。」
「エッ」
驚いて声が出てしまった、そこまで感じ入るものじゃないですね。それも人それぞれ、龍それぞれなのか、そうなのかな、わけがわからないよ。
「ヌヴィレットさん、その……ですね、」
エッと口にしてしまったせいなのか、逃げられると思ったであろうヌヴィレットさんの動きは凄まじく速かった。見えなかった。気づけば縦抱きで子供のように抱き上げられていた。ちょこんと彼の肩に手を置き、見つめ合う。
「抱き上げなくても私は逃げないので、おろしてもらっても良いでしょうか……?」
「………………承知した。」
本当に?逃げないのか?そんな目を向けられた。信用がなさすぎる。
「だが、私の職場の説明をしてから君を降ろすこととしよう。」
「待ってください移動中は人目がありますよね?」
「人は勿論いるだろう。彼女たちも。」
「このままの移動ですか!?」
「何か問題が?」
「問題しかないですね」
喋っている間もヌヴィレットさんは勿体ぶるようにゆったりと歩き始めている。ヒヤヒヤする私は部屋を指差した。
「私!お部屋が好きなので!お部屋に居たいです!ヌヴィレットさんが働いてるところは別の!別の機会に!」
「今ではなく?」
「今ではなく!」
「君にこの部屋をそこまで気に入ってもらえるとは。」
「すごくおきにいりです」
ベッドに降ろされたので足を揃えて座る。す、と跪いた彼が私の目を覗きこんだ。なぜか微かに笑われている気がする。
「では、私が仕事を終え戻ってくるまで、きちんとこの部屋にいるように。」
「分かりました」
良い子にしてます。かなり良い子に。キッチンは、食材は、水は、軽く説明を受け、ヌヴィレットさんを見送る。忙しの龍だ。社畜のにおいがかなりする。上司はいるのだろうか、異世界の職場事情、かなり気になる。
「いってらっしゃいヌヴィレットさん!」
「……行って来よう。」
彼の帰りは何時ごろだろう。彼は、晩御飯は家で食べる派だろうか。この世界、米があるのか?なかったら早速詰みそう。米が食いたくなる時が無性にある。
ヌヴィレットさんがいなくなってから、もう一度辺りを探索する事にする。人目がなくなったので広すぎるベッドでのびのびとしてから。
「外に繋がりそうな扉にすごくゴツい紋様があるんだけどなにあれ……さすが異世界、下手に触ったら弾かれそうな青さだぜ……。ヌヴィレットさんどうやって通ったんだろう。魔法かな。三つの丸みたいな……ぐるぐる動いてる……綺麗で不思議。後でヌヴィレットさんに聞いてみよう」
「あれか。あれは防犯用だ。君が気にするものではない。」
「この世界にも泥棒、いるんですね。すごく貴重そうなものもありますし防犯大事、分かります。」
「嗚呼、最も大事なものが一つだけある。もしそれを奪われたならば、私は正気を失うだろう。」
「大変じゃないですか!?私も守ります、どれですか?」
「私の目の前にいる。」
「エッ」
??の神子
私の龍がこんなにも可憐。ヌヴィレットの貴重な対メリュジーヌどころかそれ以上の微笑みを浴びせられているとは思っていないが、破壊力は抜群。しょんぼり龍が実はヌヴィレットによる交渉術だとは気付いてない。無害な龍を装っているのは薄々気づいてるが、毎回可憐さに絆される。神子は龍に絆されるもの。龍のお願いにべらぼうに弱い。別世界線、てーくんこと龍の姿の鍾離先生にデロデロであったのがこちらではヌヴィレットになっている。あっちほど龍と神子の関係性が捻れていない、だがしかしそこは本編更新されるストーリー次第で変わる。
麗しの龍、可憐のヌヴィレット。
このお話のヌヴィレットは可憐。覚えて帰ってください。
このたび神子を手にした。神子が「エッ」と口にするたび、逃げられてはたまらないと抱き上げるがものすごく物言いたげな顔を神子にされる事になる。本人こと本龍は満足げ。触れる口実ができた。実はベッドから転げ落ちてまで逃げられたのにかなりショックを受けている。しょんぼりすると神子が自分に甘くなる事に秒で気づいた。もし神子に「かわいい、ヌヴィレットさん」と溢されたならば「そうか……君が言うのならば、私は、可愛いのだろう。君の目には可愛らしく映っているようだが、私は……いや、こうして触れられることを私も嬉しく思っている。」可愛いを免罪符に甘えまくる。とんでもねぇ龍だ。欲がないとは言ってない。宝は手にしてこそ大人しくなる龍。


























