私の腕の中で、ヤチヨは微睡むようにして小さく心地よさそうな吐息を漏らしていた。
カーテンの隙間から差し込んでいた朝の細い光の筋は、いつの間にかその角度を大きく変え、部屋の隅々にまで白く、強い輝きを均等に行き渡らせている。世界が完全な昼下がりへと移行していることを、容赦なく差し込むその光量が告げていた。
時計の針がどれほど進もうと、今日という日は、外の世界のすべての義務から解放された、私たち二人だけの絶対的な聖域。本家のあの息苦しい応接室や、冷酷な母親の説教、退屈な貴族たちの値踏みするような視線は、この部屋の静寂の中に完全に溶けて消え去っている。
私の白いシャツのボタンを、ヤチヨの細い指先が退屈そうに、けれど愛おしそうに何度も弄んでいた。
爪の間から微かに滲んだ血が、私のシャツの白い布地に小さな、けれど消えない紅い点となって染み込んでいる。昨夜、あの子がどれほどの狂乱の中にいたのかを無言で物語るその痕跡すら、今の私にとっては、私への異常なまでの執着の証のようで、胸の奥をじくじくと甘く、激しく疼かせた。
ヤチヨの睫毛が、私の胸元に触れるたびに、くすぐったいような、そして全身の血管を熱い何かが駆け巡るような感覚に襲われる。あの子の自慢の美しい銀髪が、私の顔や肩にハラハラと落ちかかり、私の黒髪と絡み合って美しいコントラストを描き出していた。
私はその銀色の糸を指先でそっと掬い上げ、愛おしそうに、何度も、何度も、壊れ物を扱うように優しい口づけを落としていく。
「……ん、彩葉、くすぐったいよ」
小さな子供が、大好きな親に我が儘を言うような、拙くて、けれどどこまでも真っ直ぐなタメ口。
様をつけずに、ただ私の名前だけを呼ぶその掠れた聲音が私の鼓膜を震わせるたびに、胸の奥がキュンと跳ね上がり、脳内の理性が小気味よくパキパキと音を立てて崩壊していくのが分かった。
昨日までのあの子の口から溢れていた、冷たい敬語の壁。それが完全に吹き飛び、こうして私をただのひとりの人間として、恋人として求めてくれている。あまりの嬉しさと愛おしさに、胸の鼓動がうるさいくらいに暴れ回っていた。本当に、どうにかなってしまいそうなくらいに可愛い。
あまりの愛おしさに、あの子の細い腰をロックしていた私の両腕の力が、無意識のうちに強くなってしまう。私の胸元にぴったりと収まったヤチヨの柔らかな体温を、皮膚のすべてで貪るように吸い上げた。
「ねえ、ヤチヨ。そろそろベッドから出よっか。服もボロボロになっちゃってるし、早く着替えさせてあげたいんだよ」
私の喉から溢れたのは、自分でも驚くほど甘く、柔らかく崩れた声音だった。本家の前で見せる冷徹な令嬢の顔なんて、もうどこにもない。ヤチヨの前でだけ許される、私の本当の、少し砕けた優しい話し方。
しかし、私の言葉に対して、ヤチヨはシャツを握る手にさらにぎゅっと力を込め、私の胸元へさらに深く顔を埋めてみせた。
「やだ……。まだ、彩葉とこうしてたいもん……」
「ふふ、可愛いなあ。お腹、空いてないの?」
「空いてない……。今は、彩葉の匂いがすっごく近くでするから、それだけで、胸がいっぱいだもん。だから、まだだめ。ベッドから出ちゃやだ」
その生意気で健気な我が儘が、私の胸をこれでもかと締め付ける。
もう、なんなのこの可愛さは。昨日一日以上も一人にして寂しい思いをさせてしまったのは本当に申し訳ないけれど、その反動でこんなにも私に甘えて、離れたくないなんて言ってくれるなんて。あの子が私に依存し、私なしでは生きていけないと全身で示してくれるたびに、私の心は歪んだ喜びではなく、純粋な幸福感でパンパンに膨れ上がっていく。
ヤチヨが私を求めれば求めるほど、私の愛のブレーキは完全に壊れていく。私はあの子の細い背中を、乱れた銀髪を、何度も何度も手のひらで愛おしそうに撫でさすった。サテンの生地とシーツが擦れ合う微かな音が、部屋の静寂の中に静かに響く。
「昨日、がんばって私のこと待っててくれたヤチヨのために、私が全部、綺麗にしてあげたいの。痛々しいお洋服も、その絡まっちゃった髪の毛も。……だから、ね? 一回だけ起きよ?」
あの子の耳元に唇を寄せ、私の体内から漂う白檀の香りを意識的に浴びせるようにしながら、優しく囁いた。
ヤチヨは「うぅ……」と小さく不満そうな唸り声を上げながらも、私の言葉の裏にある深い愛情を拒めず、観念したようにゆっくりと、私の胸元から顔を上げた。
涙で濡れそぼり、お昼の強い光を反射してキラキラと輝くその青い瞳が、じっと私を見つめている。
敬語を無くしたあの子の瞳には、かつての怯えは一片すら残っていなかった。そこにあるのは、私に対する狂おしいほどの愛着の光。ただ私だけを映すための、世界で一番綺麗な硝子の瞳だった。これを見つめられるだけで、胸の奥がぎゅーっと甘く苦しくなる。
「……じゃあ、彩葉がそう言うなら、起きる。ベッドから出るね。でも、絶対に手、離さないで? 私、彩葉が隣にいないと、またお外の暗い影が、私を檻の中に引っ張りに来ちゃう気がするから……」
「離さないよ。絶対に。世界中のすべてを敵に回しても、私はあなたの手をほどいたりしないから」
ヤチヨは私の言葉を反芻するように、小さく「うん」と頷いた。その拍子に、あの子の腫れ上がった瞼から、一粒の涙がハラハラと零れ落ち、私のシャツに吸い込まれて消えた。
ゆっくりと、本当に名残惜しそうにしながら、私たちは重なり合っていた身体を離し、シーツの海から滑り出るようにしてベッドの端へと腰掛けた。
ヤチヨの細い足首が、ベッドの縁からぶらりと垂れ下がり、お昼の白い光の中でどこか儚げに浮き上がっている。
けれど、遮るもののない明るい光の下で、改めてヤチヨの全身の姿を視界に収めた瞬間、私の心臓はドクンと激しく脈打った。
(──ああ、もう、ヤチヨ。なんて愛おしいの……っ)
朝の薄暗いカーテン越しでは、ただ愛おしさに任せて抱きしめることしかしていなかった。だから、あの子の身体がどれほど大変なことになっているか、私はまだ半分も気づけていなかったのだ。
昼下がりの強い光は、昨夜あの子が一人きりで過ごした激しい時間の爪痕を、あまりにも鮮明に、私の目の前に突きつけてきた。
着ていた服の胸元は、自らかきむしったせいでボタンがいくつも弾け飛び、引きちぎられかけた布地が無残に垂れ下がっている。あらわになった華奢な鎖骨や白皙の肌には、過呼吸による激しい動悸と、自分自身の手で掻きむしったことによる生々しい赤い斑点が、痛々しく浮かび上がっていた。
こんなになるまで、私のことを求めて、苦しんでくれていたなんて。
そして何より、あの子の自慢の、私が世界で一番愛している美しい銀髪──。
それが、自分で狂ったように頭皮を引っかき続けたせいで、じわりと滲んだ血によって毛先や根元が赤黒く汚れ、糊で固められたかのように無残に絡まり合って、ひとつの大きな塊のようになってしまっていた。
瞼はこれ以上ないほどに真っ赤に腫れ上がり、昨日あの子が流した悲しい涙の匂いが、肌の奥からまだ微かに漂ってくるような気がした。
胸の奥が、愛おしさと切なさでいっぱいに満たされていく。
こんなになるまで、私はあの子を不安にさせてしまったのだ。本家の連主に足止めされていたとはいえ、あの子にとっての私は、世界を繋ぎ止める唯一の、絶対的な存在だった。それを失ったあの子が、どれほどの寂しさと恐怖を抱えていたのかを思うと、今すぐもう一度力いっぱい抱きしめて、世界中の何よりも大切だと甘やかしてあげたくなる。
あの子を一人にしてしまった申し訳なさと同時に、こんなに私なしでは生きていけなくなってしまったヤチヨへの、言葉にできないほどに深い愛しさが、私の全身を支配した。
ヤチヨは私の顔色の変化を察知したのか、少しだけ身体を強張らせ、不安そうに瞳を揺らしながら私の顔を覗き込んできた。
「彩葉……? ごめんなさい……私、また汚い格好になっちゃったから……、彩葉、怒っちゃった……?」
様をつけないタメ口の、けれど怯えたその言葉。
私はハッとして、すぐに自分の表情を和らげると、あの子の細い、冷え切った指先を優しく包み込んだ。椅子に座るあの子の背中に、そっと手を添える。
「違うよ。怒ってなんかいないよ。どうして私が、ヤチヨに対して怒るわけないじゃん。……ただね、こんなに苦しい思いをさせて、こんなに傷つけちゃって、ごめんねって、それだけだよ」
「彩葉……」
「ヤチヨは世界で一番いい子だし、世界で一番可愛いよ。だから、その痛々しいお洋服も、髪の毛も、今から私のこの手で、全部綺麗にほどいてあげるからね」
私はあの子の頬に、安心させるようにそっと手のひらを添えた。ヤチヨはその温もりに縋るように、目を細めて私の手に顔を擦り付けてくる。その仕草一つ一つが、私の胸をキュンと震わせた。
「うん……。彩葉が怒ってないなら、私、なんでもいい。彩葉に、全部綺麗にしてもらう……」
私はヤチヨの背後へと回り、手当てのための準備を始めることにした。
私はベッドから静かに立ち上がると、まずはヤチヨの痛々しい身体を優しく拭ってあげるために、温かいお湯を入れた洗面器と、柔らかく上質なタオルをいくつか用意して部屋へと戻った。
ドレッサーの前に置いた椅子にヤチヨを座らせ、その背後に立つ。鏡越しに視線が交わると、ヤチヨはまだ少しだけ、本当に自分を置いていかないか確かめるように、じっと私の顔を見つめていた。そのどこまでも健気な視線に、私の胸の奥は再び愛おしさでパンパンに膨れ上がってしまう。
「ちょっと温かいよ。気持ちいいからね」
温かいお湯をたっぷりと含ませたタオルを、まずはヤチヨの頭頂部にそっと、本当に優しく当てた。じわあっと熱が頭皮へと染み込んでいくのを感じたのか、ヤチヨの肩から小さく緊張が抜ける。
昨夜、あの子が狂乱の中で自ら爪を立ててしまった頭皮。そこに固まっていた血を、タオルの熱でゆっくりと、時間をかけてふやかしていく。それから、私は自分の指先を使って、血で汚れてしまった銀色の美しい髪を、一本一本絡まりをほどくようにして丁寧に、丁寧に拭っていった。
少しでも力を入れれば、あの子の細い髪の毛が切れてしまう。まるで壊れやすい繊細な硝子の細工物を扱うように、細心の注意を払いながら指を動かした。ヤチヨのために用意したお湯の温かい匂いと、私の体温、そして部屋の中に広がる白檀の香りがゆっくりと混ざり合っていく。
鏡の中に映るヤチヨは、目を細めて気持ちよさそうに私の手付きに身を委ねていた。様をつけずに私を呼んでくれたあの子の、その素直なタメ口をもっと聴きたくて、私はわざと意地悪に指先を動かしてみる。
「ヤチヨ、痛くない? 痛かったらすぐ言ってね」
「ううん……全然痛くないよ。……彩葉の手、すっごくあったかいね。こうして触ってもらうの、なんか、すっごく気持ちいい……」
「そっか。よかった。こんなに髪の毛が絡まっちゃうまで、一人にして寂しい思いをさせてごめんね。もう、絶対に置いていったりしないから」
「うん……。彩葉がそう言ってくれるなら、私、もう怖くないよ。彩葉が隣にいてくれたら、それだけでいいもん」
本当に、なんて可愛いことを言ってくれるのだろう。鏡越しに見つめ合うあの子の青い瞳は、ただ私だけを真っ直ぐに映し出している。これまではどこか義務感や怯えが混ざっていたあの子の表情が、今では私の愛に完全に溶かされて、ただ一人の等身大の女の子として私を求めてくれている。その変化のすべてが私の胸を激しく震わせ、愛おしさのあまり理性がどうにかなってしまいそうだった。
髪の絡まりがすべてほどけ、元の滑らかな銀色の輝きを取り戻していくのを見届けてから、私は別の冷たいタオルを用意した。
「次はね、目を冷やそう。昨日たくさん泣いちゃったから、真っ赤に腫れちゃってるよ。ちょっと冷たいからね」
「うん……」
ヤチヨの瞼に冷たいタオルを優しく当てる。視界が完全に塞がれ、完全に無防備になったヤチヨは、私の存在を確かめるようにして、その華奢な背中を私の身体へと預けてきた。トントン、とあの子の背中を片手で優しく叩きながら、タオルの上から瞼の腫れがひくのをじっと待つ。
見えない状態で不安なはずなのに、ヤチヨは私の服を細い指先でぎゅっと握りしめたまま、小さく口を開いた。
「彩葉……」
「なあに?」
「名前を呼ぶの、まだちょっと、心臓がドキドキする……。でも、こうやって呼ぶと、彩葉がすごく近くにいてくれる感じがして……私、嬉しいな」
タオルの下から漏れる、愛おしすぎる本音。その言葉を聴いた瞬間、私の胸の奥の溺愛のブレーキは完全にぶっ壊れてしまった。可愛すぎて、愛おしすぎて、今すぐベッドに押し戻してめちゃくちゃに抱きしめ合いたい衝動を必死に堪える。
「私も、すごく嬉しいよ。ヤチヨにそうやって呼ばれるの、ずっと待ってたんだから。もっとたくさん呼んで?」
十分に瞼を冷やした後、タオルを外すと、あの子の瞳の腫れは綺麗に引いていた。潤んだ青い瞳が、すっきりとしたお顔の中で、一段と美しく輝いている。
「さあ、最後はお着替えしよっか」
私はヤチヨの身体を優しく立たせると、ボタンの弾け飛んだ、ボロボロになってしまった服に手をかけた。昨日、あの子が狂乱の中で自ら引きちぎりかけてしまった、過去の恐怖の残骸。
私の手で、その破れた服を、肩から滑り落とすようにしてゆっくりと脱がせていく。服が床にまとわりつくように落ち、お昼の強い光の中で、ヤチヨの白く、神秘的に輝く肌が完全に露出した。
鎖骨の周りに浮かぶ、過呼吸の痕の赤い斑点。それすらも、私を求めてくれた証のように思えて愛おしい。
私は、あなたを縛るすべての過去を、この手でほどいてあげる。
クローゼットを開け、私が普段着ているものの中から、一番上質で、一番柔らかい、真っ白なサテンの部屋着を選び出した。私には少し小さめだけれど、華奢なヤチヨにとっては、少し丈の長い、ゆったりとしたサイズになるはずだ。
「これ、着てみて」
ヤチヨの細い腕を優しく袖に通し、前ボタンを一つずつ、私の手で丁寧に留めていく。ただの恋人としての、優しい手付きで。
すべてのボタンを留め終えると、大きめの白いサテンに包まれたヤチヨの姿がそこにあった。首元や手首が少しだぼついているのが、たまらなく愛くるしい。
ヤチヨは自分の袖口を顔に近づけ、ふあ、と息を吸い込んだ。
「……ふふ、彩葉の匂いがする。彩葉の匂いに、包まれてるみたい……」
顔を真っ赤に染めながら、照れくさそうに胸元に顔を埋めるヤチヨ。
昨日までの凄惨な狂乱が嘘のように、あの子の表情からは恐怖の影が完全に消え去り、最高に糖度の高い、甘やかな幸せの色に染まっていた。
「本当に可愛いなあ、ヤチヨは」
私は我慢できなくなって、あの子の額、腫れのひいた目元、そして少し尖らせた可愛い唇に、何度も何度も、優しいキスをいくつも落とした。ヤチヨはそのたびに、くすぐったそうに、でも嬉そうにタメ口で「んもう、彩葉、ちゅーしすぎ……」と言って笑った。
「さあ、身体も綺麗になったし、お洋服も新しくなった。……ヤチヨ、お腹空いたでしょう?」
「うん。……あ、そういえば、お腹すいたかも」
ヤチヨの小さなお腹が、まるでその言葉に応えるように、きゅるると可愛らしい音を響かせた。二人は思わず顔を見合わせ、お互いに声を合わせて可笑しそうに笑った。
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カチャ、と静まり返ったキッチンの空間に、磁器が擦れ合う小気味よい音が響いた。
彩葉と指を深く絡ませたまま部屋を出て、私たちは並んで台所に立っている。
これまでのお屋敷での生活において、キッチンという場所は、私にとって義務を果たすための無機質な仕事場以外の何物でもなかった。主人のために完璧な温度のハーブティーを淹れ、主人の好む時間に寸分の狂いもなく完璧な食事を運ぶための場所。少しでも手順を間違えれば、あるいはスプーン一本でも鳴らしてしまえば、またあの冷たい檻のような暗闇に引き戻されてしまうかもしれないという恐怖。その消えない強迫観念だけが、私の身体を冷たい機械のように動かしていた。失敗は許されない、息を詰まらせるような緊張の空間──それが、私にとってのこの場所のすべてだったはずだった。
けれど、今は違う。
彩葉の手によって隅々まで綺麗にしてもらったばかりの私の身体を包んでいるのは、少し大きめで、身体を動かすたびにツルツルと滑らかな擦れ音を立てる、真っ白なサテンの部屋着だった。袖口からも、少し広めの胸元からも、さっきベッドの中で、そしてドレッサーの前で私をいっぱい抱きしめてくれた彩葉の、あのひどく安心する白檀の香りがふんわりと立ち上り、私の嗅覚を優しく支配している。
(……義務じゃなくて、私が、彩葉のために何かしたい)
お腹の虫を鳴らしてしまった恥ずかしさもあったけれど、何より、私のために指先を私の血で汚しながら、絡まった銀髪を一本ずつほどいてくれた彩葉に、今度は私が何かを返したかった。主人の命令を待って動く人形ではなく、私の意志で、大好きな人のために火を灯したかった。
「ヤチヨ、本当に私が作らなくて大丈夫? まだちょっと、身体がふらふらするんじゃない?」
隣で、彩葉が私の顔を覗き込みながら、少し心配そうに、でもこれ以上ないほどに柔らかい声音で問いかけてくる。本家の前で見せるあの冷徹な令嬢の顔なんて、やっぱりここにはひとかけらも存在していなかった。
「うん、大丈夫。ふらふらしないよ。……それに、今日は私が彩葉に作ってあげたいの。いつもはお茶しか淹れてなかったから、ちゃんと美味しいもの、食べてもらいたくて」
まだ少しだけ、敬称を無くしたタメ口を使う自分の声に、耳の裏が熱くなるのを感じながら、私は一生懸命に言葉を紡いだ。彩葉はそんな私の言葉を聴いた瞬間、ハッとしたようにその漆黒の瞳を大きく丸めて、それから胸の奥がキュンと激しく鳴ったのがこちらまで伝わってくるような、とろけそうなほどに甘い笑顔を浮かべた。
「……そっか。ヤチヨが私のために作ってくれるんだ。嬉しいなあ」
彩葉はそう言って私の頭をそっと撫でてくれたけれど、そこで大人しく引き下がってくれるわけではなかった。
私が木の扉を開けて冷蔵庫から卵やいくつかの野菜を取り出し、大理石のコンロの前に立とうとしたその瞬間、背後から音もなく忍び寄ってきた温かい体温が、私の腰のあたりにぴったりと隙間なく抱きついてきた。
「……っ、彩葉?」
「やだ。離れたくない。ヤチヨが一生懸命私のために作ってくれてるの、一番近くで見たいんだもん」
彩葉の長い黒髪が私の首筋や頬に触れて、かすかにくすぐったい。それだけじゃなくて、私の背中にぴったりと押し当てられた彩葉の胸の鼓動が、衣服の生地を透かして、ダイレクトに背中へと伝わって響いてくる。後ろから完全に包み込まれるような形になって、私の心臓までバックバクと大きな音を立てて跳ね上がり始めた。サテンの生地越しに、彩葉の指先が私の脇腹を優しくなぞるようにして、細いお腹をきゅっと抱きしめる。
「あ、あぶないよ、彩葉。そんなに引っ付いてたら、手元が見えなくてハーブティーこぼしちゃうでしょ……?」
「いいよ、そしたらまた新しく淹れればいいじゃん。それより、ヤチヨのこのサテンのお洋服、すごく似合ってるね。私の匂い、ちゃんとする?」
「する、するから……っ。もう、そんなところに唇あてないでよぉ」
首筋の柔らかい皮膚に、吸い付くようなリップ音が何度も響くたびに、身体の芯から甘い熱がじわじわと上がって、お湯を注ぐ手元が狂いそうになる。これまでは私の様子を静かに、完璧な主人の距離感で見守っていた彩葉が、二人きりになった途端にこんなに我が儘で、子供みたいに甘えたがりになるなんて、昨日の夜までは想像もしていなかった。でも、それが私を困らせたくて意地悪をしているんじゃなくて、ただ私から一秒でも離れたくないという、純粋で、どこか焦がれるような愛おしさから来ているのだと分かってしまうから、強く突き放すことなんて絶対にできなかった。
「ヤチヨの前限定だよ、私がこんなに我が儘言うの」
耳元で、少しだけ低く、でも真っ直ぐに囁かれたその言葉に、私は完全に降参するしかたなかった。熱を帯びた吐息が耳に触れて、私は小さく肩を震わせる。
「……じゃあ、大人しく見ててね。火を使う時は、本当に危ないんだから」
「はーい。いい子にして見てる」
全然離れてくれる気配のない彩葉を背中に背負ったまま、私はカチリと音を立ててコンロに小さな火を灯した。銀色のケトルから、シュンシュンとお湯が沸き立つ高い音が響き始める。
私は戸棚からお気に入りの硝子のポットを取り出し、ハーブの乾燥した葉を銀のスプーンですくい上げた。これまでは正確な分量を量るためだけに動かしていた指先が、今は少しだけ緊張で震えている。沸騰したてのお湯をゆっくりと注ぐと、硝子の中で緑色の葉が、まるでお昼の光を浴びて踊るようにゆっくりと開いていった。
それと同時に、キッチンの中に爽やかな、けれどどこか甘いハーブの香りが優しく、幾重にも広がっていく。
それから、小さな鉄のフライパンを火にかけ、黄色いバターの塊をひとかけら落とした。
ジワ、という静かな音を立てて、バターが濃厚な黄金色の液体へと溶けていく。香ばしい匂いが立ち込めると同時に、私は卵をボウルに割り入れ、フォークで静かにかき混ぜた。
これまでは「失敗してはいけない」「主人の口に合わなければどうしよう」という重苦しいプレッシャーの中で動かしていた包丁や道具も、今は驚くほど軽かった。なぜなら、隣で、あるいは後ろで、私の動作の一つ一つに「ヤチヨ、卵割るの上手だね」「凄いね」と、まるで世界一の奇跡でも見るかのように、彩葉がベタ甘に褒めちぎってくる声があるからだ。ただの日常の動作が、彩葉の声によって、特別な儀式のように塗り替えられていく。
「もう……。ただ卵を割っただけで、そんなに大げさに褒めないでよ」
「大げさじゃないよ。ヤチヨが私のために何かをしてくれているっていうだけで、私は世界で一番幸せな人間になってるんだから。この卵だって、世界で一番美味しいオムレツになるに決まってるよ」
彩葉の言葉は冗談なんかじゃなくて、どこまでも真っ直ぐで、大真面目だった。その熱すぎる視線と、背中から注がれる途方もない愛情の塊に、私は顔が熱くて熱くて、フライパンに流し込んだ卵の形が少し不格好になってしまうのを止めることができなかった。
木べらを使って、なんとか形を整える。少し歪んでしまったけれど、表面はとろりとした綺麗な黄色いオムレツと、温かい野菜のスープ。
ようやく出来上がった簡単な食事──時間はもうお昼を大きく過ぎていたけれど、私たちにとっては今日という日の最初の食事──を、小さな木製のテーブルに並べた。
「お待たせ、彩葉。……あんまり豪華なものは作れなかったけど」
「ううん、最高の御馳走だよ。いただきます」
彩葉は本当に嬉しそうに椅子に腰を下ろすと、私が淹れたハーブティーのカップを両手で包み込み、一口、愛おしそうに口に含んだ。お湯の湯気が、彩葉の美しい黒髪を微かに揺らす。
「うん、すごく美味しい。やっぱりヤチヨの淹れてくれるお茶が、世界で一番好きだな。身体の芯まで、優しく溶けていくみたい」
「本当……? よかった……」
私がホッとして胸をなでおろし、自分の席に座ろうとしたその時だった。
彩葉は自分のフォークを使って、私が作った不格好なオムレツを少しだけ小さく切り分け、それを私の口元へと優しく差し出してきたのだ。
「はい、ヤチヨ。あーんして?」
「え、えぇっ!? 自分のお皿にあるじゃん、自分で食べられるよ……っ」
「やだ。最初はヤチヨに食べさせてあげたいの。一生懸命作ってくれたんだから、一番最初の美味しいところは、ヤチヨの口に入らなきゃダメだよ。ほら、あーん」
お屋敷の主人にスプーンやフォークを向けられて、あーんをされる元奴隷なんて、世界のどこを探したっていやしない。そんなことをされたら、普通なら恐怖で身が竦むか、身の程を知れと怒られるはずなのに。
けれど、目の前に差し出されたフォークの先にあるオムレツと、私のことを世界で一番大切な宝物のように見つめている彩葉の、どこまでも真剣で、愛に満ちた瞳を見つめているうちに、私の胸の奥の頑なだった部分が、またトロンと、音を立てて溶けていくのが分かった。
「……ん」
恥ずかしさに耐えかねて、ぎゅっと青い瞳を瞑りながら、私は小さな口を開けて、オムレツを迎え入れた。
口の中に広がったのは、自分が作ったはずの、少し塩気の強い、でもバターの温かい、優しい味。
モグモグと不器用に応えながら噛みしめていると、彩葉が本当に愛おしそうに目を細め、私の少し膨らんだ頬を白い指先でツンと優しくつついた。
「どう? 美味しい?」
「……うん。自分で作ったやつだけど、彩葉に食べさせてもらうと、なんかいつもより、ずっと美味しい気がする」
顔を耳の根元まで真っ赤に染め上げながら、消え入りそうな声でそう呟くと、彩葉は一瞬、本当に息が止まったかのように動きを止め、それから私の両頬を両手で優しく、けれど強く包み込んできた。そのまま、私のおでこに、痛いくらいのキスを何度も何度も落とした。
「ああ、もう……! ヤチヨ、本当にどうしてそんなに可愛いの? 私、今日お仕事お休みにして、あなたをこの腕の中に閉じ込めておけて、本当に本当によかった……!」
「もう! 彩葉、ちゅーしすぎ……! 早く彩葉も食べてよ、せっかくのスープが冷めちゃうでしょ!」
私がふくれっ面をしながら恥ずかしさに怒ると、彩葉は「ふふ、そうだね」と声を立てて笑って、今度は自分の口へとスープを運んだ。
義務の味なんて、そこには一欠片も残っていなかった。
お互いに「美味しいね」「次はこれ食べてみる?」と言い合いながら、時に指先を触れ合わせ、タメ口で、他愛のないことで笑い合いながら突く食事。
窓から差し込む昼下がりのあたたかい光が、私たちの小さなテーブルを白く、優しく包み込んでいた。これまでの暗い過去のすべてを、この温かい湯気とハーブの香りが、跡形もなく消し去ってくれるような気がした。
食事を終えた後のキッチンは、お湯の温かい湯気の残香と、ハーブの甘い匂いで満たされていた。
彩葉が私の手を引いて、ゆっくりと立ち上がる。テーブルの上を片付ける私の手元を、彩葉はまるで一秒でも離れるのが惜しいとでも言うように、ずっとその綺麗な瞳で見つめていた。
「さあ、ヤチヨ。準備はいい?」
彩葉が私の手をもう一度、指と指を深く絡ませるようにして、ぎゅっと強く握りしめてくれた。
手のひらから伝わってくる、彩葉のいつもの高めの体温。それが私の肌を通じて心臓へと流れ込んでくるようで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「うん……お庭、行く」
私は小さく頷いて、彩葉の隣に並んだ。
彩葉のサテンの部屋着を着た私の足元は、床を歩くたびにツルツルと滑らかな音を立てる。廊下を進み、お屋敷の大きな玄関の扉へと向かうにつれて、窓から差し込む光の量がどんどん増していくのが分かった。外の世界へと繋がる、あの重厚な木製の扉が、すぐ目の前に迫ってくる。
その瞬間だった。
ガチリ、と私の身体の芯が、冷たい拒絶の音を立てて強張った。
(あ……)
扉の向こうにあるはずの、広大な空間。
私の脳裏に、記憶の底に沈んでいたはずの、あの暗くてジメジメとした奴隷市場の光景が一瞬だけフラッシュバックした。檻の鉄格子の冷たさ。私をモノのように値踏みする大人たちの、残酷で冷徹な視線。そして、昨日このお屋敷で、彩葉が帰ってこないかもしれないという恐怖に押し潰されそうになりながら、一人きりで震えていたあの寂しい時間の影。
外に出るということは、この安全な、彩葉の匂いで満たされたお部屋という聖域から、一歩踏み出すということだ。
もし扉を開けた向こう側に、またあの冷たい世界が広がっていたら。もし、ここが私の居場所ではないと告げる誰かが待っていたら──。
そんな根拠のない恐怖が急に足元から這い上がってきて、私の膝がガクガクと小さく震え始めた。玄関の手前で、私の足が完全に床に縫い付けられたように動かなくなってしまう。繋いでいた彩葉の手を、無意識のうちにちぎれそうなくらい強く握りしめていた。
「ヤチヨ……?」
私の異変に、彩葉はすぐに気づいてくれた。
彩葉は扉へ向かっていた足を止め、私の正面へと回り込むと、私の両肩をその優しい手のひらでそっと包み込んだ。漆黒の瞳が、不安に揺れる私の青い瞳を真っ直ぐに捉える。
「どうしたの? 身体、どこか痛くなっちゃった?」
「ううん……違うの。痛くないの……」
私は首を振ったけれど、どうしても玄関の扉に視線を向けることができなかった。喉の奥がヒュッと小さく縮こまる。
「お外、行くの……ちょっとだけ、怖くなっちゃって。扉を開けたら、またあの暗い場所に繋がってるんじゃないかって……彩葉が、いなくなっちゃうんじゃないかって、変なこと考えちゃって……」
タメ口のまま、情けない本音をポロポロとこぼす私を、彩葉は責めるようなことは一切しなかった。それどころか、あの子の瞳には、胸が張り裂けそうなくらいに愛おしそうな、そしてすべてを受け止めるような深い優しい光が満ち溢れていた。
「そんなこと、絶対にないよ」
彩葉はそう言うと、私の両手を包み込み、自分の胸元へと引き寄せた。
「大丈夫だよ、ヤチヨ。ここは本家の誰も、あなたを傷つける奴らも、誰も入れない場所。私たちが暮らす、私たちだけのために守られた特別なお庭なんだよ。だから何も怖がる必要なんてないの」
彩葉の細い指先が、私の手の甲を何度も優しく撫でさする。
「それにね、ヤチヨ。私のこの手が、あなたをずっと繋ぎ止めているでしょう? 私があなたを離さないし、あなたも私を離さなくていいの。もしお外に出て、少しでも怖いって思ったら、すぐに私の胸の中に隠れていいんだから。ね?」
彩葉の真っ直ぐな言葉と、その手の圧倒的な温もりが、私の凍りつきかけていた心の奥をじんわりと、優しく溶かしていく。
彩葉が隣にいてくれる。私の名前を呼んで、こんなにもベタベタに甘やかして、私を必要としてくれている。その絶対的な事実が、私の足元に勇気という名の温かい熱を灯してくれた。
「……うん。彩葉がずっと一緒にいてくれるなら、私、お外見てみたい」
「ええ、一緒に行こう」
彩葉は嬉しそうに微笑むと、片手でゆっくりと、大きな玄関の扉を押し開けた。
ギィ……と静かな音を立てて扉が開いた瞬間、私の視界に、眩いばかりの黄金色の光が飛び込んできた。
思わず目を細める。けれど、そこに広がっていたのは、暗い市場の檻でも、冷たい本家の廊下でもなかった。
「わあ……っ」
私の口から、感嘆の声が自然と溢れ出していた。
目の前に広がっていたのは、太陽の光をいっぱいに浴びて、キラキラとエメラルド色に輝く美しい芝生のお庭だった。
風が吹くたびに、青々とした木々の葉がサラサラと心地よい音を立てて揺れ、そこかしこに植えられた色とりどりの可愛いお花が、お昼の光を反射してまるで宝石のように煌めいている。空気は驚くほどに澄んでいて、お部屋の中の白檀の香りに、外の優しい緑の匂いと、お花の甘い香りが優しく混ざり合っていく。
「綺麗……っ。お外って、本当はこんなに綺麗だったんだね……」
私は一歩、また一歩と、彩葉に手を引かれながらお庭の芝生へと足を踏み出した。
サテンの部屋着の裾が、柔らかな芝生の先端に擦れてカサカサと小さな音を立てる。上を見上げれば、どこまでも高くて青い空が広がっていて、白い雲がのんびりと流れていた。
「これまでは、お外の景色を見る余裕なんてなかったもんね」
彩葉が隣で、私の横顔を愛おしそうに見つめながら優しく語りかけてくる。
「でもね、これからは毎日、この景色を好きなだけ見ていいんだよ。ここにあるお花も、木も、このお空も、全部ヤチヨのものなんだから」
「私のもの……?」
「そうだよ。私の大切なヤチヨが笑顔になるためのものなんだから、全部ヤチヨのもの。……ううん、私という存在だって、全部ヤチヨのものだよ?」
「もう、彩葉ったら……またそういう大げさなこと言うんだから」
私は顔を赤くしながらふくれっ面をしてみせたけれど、胸の奥は嬉しさで破裂しそうだった。彩葉と並んで歩くお庭は、昨日まで私が知っていた世界のどこよりもあたたかくて、優しかった。彩葉と一緒にいるから、世界がこんなにも美しい色彩で満ち溢れているのだと、心の底から実感できた。
お庭の奥へと進むと、大きな大きな木の下に、白い木製のベンチが静かに置かれていた。木漏れ日がベンチの上に丸い光の粒をいくつも落として、まるで絵本の一ページのような綺麗な場所。
「ヤチヨ、あそこに座ろっか」
「うん」
二人の足音が芝生を踏み締める音を響かせながら、私たちはベンチへと近づき、並んで腰を下ろした。
木陰に入ると、お昼の強い日差しが遮られて、涼しくて心地よい風が私たちの髪を優しく撫で上げていく。私の銀髪と、彩葉の漆黒の長い髪が、風の中で一瞬だけふわりと重なり合った。
ベンチに座ってからも、彩葉は私の手を離そうとはしなかった。それどころか、彩葉は少しだけ身体をずらすと、私の華奢な身体をひょいと持ち上げて、自分の膝の上へと手際よく抱き上げてしまったのだ。
「ひゃっ!? ちょ、彩葉……っ?」
「ふふ、特等席だよ。ここが一番落ち着くでしょ?」
後ろから彩葉の細い両腕が私のしなやかなお腹に回され、完全にバック抱っこの形になる。私の背中には、彩葉の温かい胸の鼓動がぴったりと張り付いていて、お部屋の中にいた時よりももっと、彩葉の体温がダイレクトに伝わってきた。サテンの生地が擦れ合うツルツルとした音が、木漏れ日の中で静かに響く。
「照れなくてもいいのに。お庭には私たち二人しかいないんだから、誰にも見られないよ?」
彩葉は私の首筋に自分の顎を乗せるようにして、クスクスと楽しそうに笑っている。その吐息が耳元に当たって、私は身体を小さく竦めることしかできなかった。
「恥ずかしいよぉ……。お外なのに、こんなベタベタするなんて……」
「いいじゃん、私の我が儘なんだから、付き合ってよ。ねえ、ヤチヨ?」
彩葉の細い指先が、私の部屋着の袖口から覗く手のひらを優しく包み込み、指を一本ずつ絡ませていく。その丁寧で、どこまでも愛おしそうな動きを見つめているうちに、私の胸の奥に、ある一つの小さな、けれどどうしても伝えたい願いが浮かんできた。
私は彩葉の腕の中で、少しだけ身を翻して、後ろの彩葉の顔をじっと見つめた。お昼の光を浴びて、彩葉の漆黒の瞳が、まるで夜の海のように深く、優しく輝いている。
「彩葉……」
「なあに、ヤチヨ?」
私は、彩葉と繋いでいる自分の手に、ぎゅっと力を込めた。指と指がこれ以上ないほどに密着して、お互いの皮膚の境界線が分からなくなってしまいそうなくらいに。
「彩葉。私のこと……もう絶対に、ほどかないでね」
私の口から溢れたのは、小さな、けれど私の持てるすべての感情を込めたおねだりだった。
私のこの手を、私のこの身体を、私のこの心を。もう二度と、あの冷たい過去の暗闇へ突き落としたりしないで。ずっと、ずっと、この温かい手のひらで、私を繋ぎ止めていてほしい。様を外したこのタメ口で、一生、彩葉の隣で笑っていたい。
私の真っ直ぐなおねだりを聴いた瞬間、彩葉は一瞬、本当に息を呑んだようにその美しい目を大きく見開いた。
それから、あの子の胸の奥で、私の言葉がこれ以上ないほど甘く爆発したのが分かった。彩葉の漆黒の瞳が、熱を帯びた、とろけそうなほどの深い溺愛の色に染まっていく。
「──ええ、もちろん。約束するよ、ヤチヨ」
彩葉は愛おしそうに目を細めると、私の頬を両手で優しく包み込んだ。
「私のこの手をほどくのは……ヤチヨのこの可愛いお洋服を脱がせる時だけだよ。それ以外は、一生、死ぬまであなたのことを離してあげないから」
「あ……もう、彩葉のえっち……っ」
私が顔を真っ赤にして照れるよりも早く、彩葉の美しい顔が目の前に迫ってきた。
木漏れ日の光がキラキラと降り注ぐ中、二人の唇が、ゆっくりと、深く重なり合う。
ハーブの甘い残香と、お庭の風の匂い、そしてお互いのサテンの衣服が擦れ合う滑らかな音が、静かに世界に溶けていく。
繋いだ手の温もりは、どこまでもあたたかく。私たちの前には、もう二度と閉ざされることのない、光に満ち溢れたあたたかい明日が、どこまでも真っ直ぐに広がっていた。
























