むすんで ひらいて
めをとって むすんで
またひらいて めをとって
そのめを あなたに
むすんで ひらいて
うをとって むすんで
またひらいて うをとって
そのうを あなたに
むすんで ひらいて
こをとって むすんで
またひらいて こをとって
そのこを あなたに
誰がための
雪は降っていなかった。
それなのに、その集落はまるで吹雪の中のように外界から閉ざされていた。
山深い獣道を進む狼星と凍蝶の前を、1人の里人が黙々と進んでいく。深く被られた編笠がその顔を隠してしまっているが、声と背格好から見て、壮年の男が案内人を務めていた。
編笠に金糸で縫い付けられた六芒星が、歩く度に日の光を煌めかせている。
「………やけに閉鎖的だな。道はこれしかないのか」
辺りを見渡しながら、凍蝶が案内人へと言葉を投げかけた。吐き出された白い息には、あからさまな疑念が内包されている。
車を降りてからもう大分歩いているが、集落の屋根1つすらまだ見えない。
秘境の隠れ里といえば聞こえはいいが、万が一の退路も、この細い獣道のみだというなら、あまりにも守りが脆い。
「必要がありませんので」
案内人は短くそれだけを答え、再び沈黙した。
理由になっていない返答に凍蝶はこめかみをひくつかせたが、すぐに務めて穏やかな声音を意識する。
「一事が万事ともいいます」
教本の様な微笑みの下で冷えきった瞳を見つけた時、狼星はやめておけばいいのにと1人首を振った。間違っても口には出さない。
「侵入の道はこれ1つでも、退路は複数あった方が良い。もちろん、秘匿されている事が絶対の条件ですが」
あぁでも、と凍蝶はわざとらしく首を竦める。
「私のような一介の護衛ごときに、その様な大切な情報を教えられるわけがありませんでしたね」
「…………………」
明らかに挑発されているとわかっているはずなのに、案内人は口を強く引き結んだまま、声を発さなかった。
チッ。と吐き捨てられた凍蝶の舌打ちを自分の耳が拾い上げた時、狼星は己の聴覚の優秀さに嘆息した。
この山に来てからというもの、凍蝶はずっと機嫌悪く狼星の後ろを歩いている。普段ならば、珍しい事もあるものだと冷やかし、そんなにイライラして更年期か?とおちょくるのだが、今回ばかりは原因も理由も自分にあるため、この最悪な空気のサンドイッチを甘んじて大人しく受け入れているのだ。
狼星はつい癖で襟に手を入れたが、手にした扇子を見てがっくりと肩を落とした。
普段のものと違い、金やら銀やら紫やら、ふんだんに豪華な装飾を施されたそれは、とある儀式に参加するために里長から渡された物だった。
『冬結びの儀』
───冬の神より授かった権能へ礼し、舞を奉納せよ。
と、命じられるがままに訪れては来たが、その詳細は、当事者である狼星もあまり詳しく知らない。秘匿事項があまりに多く、また、何十年に1度しか行われないが為に人の記憶からも薄れてしまっていたのだ。
そして、父や母、そして護衛にもこの儀式のことは言ってはならぬと、幼少よりキツく言い含められていた。だから凍蝶にこの儀式のことを初めて教えたのは、今日の朝になってからだった。
「長く歩くのは別に構わないが、そろそろ詳しく教えてくれてもいいんじゃないか」
ここでは言えぬ。儀式の仔細は案内人に聞け、とは里長からの言葉だ。
「私が聞いてもいいのか?」とわざと聞いてくる凍蝶に狼星は睨みを利かした。
この男は朝からずっと、狼星が自分に隠し事をしていた事に拗ねているのだ。
「………最後に行われましたのは、先代の代行者様が十八になられた年。もう、何十年も昔になります」
案内人の声音は、まるで舌に鉛を乗せられているように重苦しかった。
「冬の代行者様が数えで成人を迎えられます年に、この祭祀は行われております。三日三晩に渡り、ご来訪される神をもてなすのです」
馬鹿馬鹿しい、神など来るはず無いだろう、と狼星は鼻で笑った。
冬の神がこの大和に全く来訪しないせいで、自分は代行者などとという面倒な役に押し込まれているのだ。
ぷち、と案内人は脇に生えていた柊の葉を1枚ちぎりとった。そしてそれを手のひらに乗せて、狼星へ差し出す。
「魔除けに、おひとつ。」
狼星は手を動かさなかったが、案内人は気にした様子もなく、葉ごと拳を握りこんだ。
「神に見立てる依代は、式場にもう用意しております。そこで、1日目には酒を。2日目には舞を。最後の3日目には禊を奉納していただきます」
「………酒と舞は分かる。だが、禊を奉納するとはどういうことだ」
怪訝に思い、凍蝶へと振り返った。この男も、狼星と同じように眉間に皺を寄せていた。
「禊とは、身を清め、罪や穢れを落とすことのことだろう。それがなぜ、最後の締めくくりに選ばれているんだ」
それではまるで、その祭祀でこの身が穢れるみたいじゃないか。
強い疑問をぶつけていると言うのに、案内人から返ってきたのは「それが決まりですので」と理由になっていない答えだった。
こいつには考える脳が無いのか。
それとも、意図的に秘匿しているのか。
どちらにせよ、今まで1番面倒くさい祭祀に変わりはない。
狼星は額に手を当てた。
「こら、気を付けなさい」
ぼーっとしていたつもりは無かったが、道に飛び出していた柊の枝を凍蝶が持ち上げていた。その下を潜ったときに、ふと目につくものがあった。
「この山はやけに、柊の木が多いな」
雪の上に落ちた赤い実が、よく目立っている。
昔はよくこれで雪うさぎを作っていた。
「わざと植えたんだろう」
凍蝶が枝から手を離すと、その上に積もっていた雪が音を立てて滑り落ちた。
「わざと?」
「あぁ。赤い実が着くのは西洋から来たものだけだ。大和に元からある柊に、実はつかない」
披露された凍蝶の豆知識に、狼星の中でますます疑念が深まる。
「………魔除け、か」
魔除けの木に、隠すように位置された集落。
そして、秘匿された儀式。
どうにもなんだか、きな臭い。
「なぁ、案内役の方。今更だが、俺達はあんたの事をなんて呼べばいい?」
別に名前なんてどうでも良かった。
聞いたのは、相手の気がこれでもし緩んで何か情報を漏らしてくれないかな、という打算からだった。
案内人は暫しの沈黙の後、「ガン」と名乗った。
* * *
ようやくついた集落の空気は、拍子抜けするほど穏やかなものだった。
丘を切り崩したような段々畑が、視界いっぱいに広がっており、その隙間を縫うように小さな家が点在している。
子供の声だろうか。どこからか「おじちゃーん!」と舌っ足らずな山彦が響いていた。
あれだけ疑り深くなっていた先程までの自分が、なんだか馬鹿らしく感じる。
「のどかだな」
凍蝶はわずかに表情を緩め、狼星の横に並び立った。道中は襲撃を警戒し、ずっと狼星の3歩後ろを歩いていたのだ。
腰の刀からも手を離している。この集落に危険は無いと、護衛官のお眼鏡に叶ったらしい。
「あ!待ちなさいっ!!!こらっ!!!!」
すぐ側の畑の上から、土埃が舞い落ちた。
あと、年若い女の焦った声もだ。
視線を向けると、十歳ほどの男児が頭を下げるように押さえつけられていた。
「ねぇちゃん、ガンちゃん帰ってきたよ?」
「行っちゃダメよ。今ガンさんはお勤めの最中なの。神様が来られたのよ」
「え!みたい!ジン、神さまみたい!」
「もうお願いだから静かにして!!!」
小声のつもりなのだろうが、やりとりは丸聞こえだ。
2人揃って深々と頭を下げられている相手はきっと自分だなと察し、狼星は口の中が苦くなった。
市街では無遠慮にカメラを向けられることの方が多いため、この様に畏まった態度を取られると逆にどうすれば良いか分からない。
声を掛けることも早足で立ち去ることも出来ず、参っている狼星を見て、凍蝶は棒立ちでにこにこしていた。
「………お許しください。まだ道理もわからぬ子供なのです。」
ガンは編笠をわずかに持ち上げて、頬をポリポリかいた。今日初めて見せた、血の通った仕草だった。
よく見れば揃いなのか、男児とその姉の着物にも、ガンと同じ魔除けの六芒星の刺繍がそれぞれ脇腹と胸に縫いつけられていた。
「ずいぶん懐かれていますね」
凍蝶の感心した声に、「私が、親代わりなもので」とガンは答えた。
「ここは、何代か前の冬の代行者様が作られた、身寄りのない者たちが集まる場所なのです」
ガンの声音は穏やかだった。
「あの子達の親は、先代の冬の代行者様の護衛を務めておりました。ですが………」
殉死したのだろう。
狼星と凍蝶は何も言わず、ガンの口元をじっと見つめた。
「………子どもとは、誠に愛らしい宝です」
ガンは右手を腹の辺りまで持ち上げた。
子供たちに手でも振るのかと思ったが、途中でハッとしたように狼狽え、勢いよく編笠を深く被り直した。
もう口元すら見えない。
ガンの網傘に縫われた六芒星が、まるでこめかみを流れる冷や汗の様にキラキラと光っていた。
「神さまーーー!晩飯の魚、オレが取ったんだよーーーー!」
ガンに追い討ちをかけるように、男児が腹の底から声を響かせた。
顔を上げずに慌てふためいている女を哀れに思い、狼星はガンに「返事をしてやらないのか」と聞いた。
ガンは先程までの穏やかさを消し去り、再び舌に鉛を乗せたような口調で、「構いません」と答えた。
「こちらへ。式場はこの畑を超えた先にございます」
早足に歩き出したガンの赤い首筋を見て、狼星は柄にもなく後ろへ振り返り、手を振ってしまった。
凍蝶が目を開き、「狼星お前そんなファンサービスが出来たんだな」と驚きの声を上げている。
それに「うるさい」と答えて、はしゃぐ子供の声を聞いてから満足気に前へ向き直った。
* * *
儀式の為の式場と呼ぶのだから、もっと厳かな装飾を想像していたのだが。
案内された場所は、何の変哲もないただの屋敷だった。
冬の里にある家々に比べれば小さいが、それでも立派な玉砂利の庭園付きで、屋根の上でシャチホコが睨みを効かせている。
「本日より、祭りが終わるまでこちらで過ごしていただきます」
玄関を潜ると、老婆が1人床に膝を着いていた。
「………………」
老婆は黙り込んだまま、面を下げ続けている。
何か声を掛けねばならないのかと、狼星が思案をはじめかけた時、ガンが老婆の肩を叩いた。
ゆっくりと、老婆が身を起こす。
「この者は、シンといいます。」
流れた白髪が、顔の横へするりと落ちる。
目鼻立ちはくっきりとしているのに、その顔の横には、あるはずの凹凸が存在しなかった。
「シンばぁ は、耳が聞こえぬのです。」
本来形があるはずの場所が、2つとも潰れていた。
シンはにこりと笑って、自分の横に置いてあった紙を手に取った。
白い紙に達筆な文字で、気軽にシンばぁと呼んで欲しいことと、世話係の務めを果たせる事への喜びが綴られていた。
淡々と、ガンはシンの紹介を進めていく。
「唇の動きが読めますので、会話に差支えはありません。前回の祭祀にも参加しておりましたので、細かな所にも気が回ることでしょう」
「…………正直、驚いた」
欠損のある者を見るのは初めてではないが、ここまで堂々と晒している者は初めてだった。
「それは心強い。こちらこそ、短い間ですが」
凍蝶はなんの配慮もせず、いつものような速度で喋ったが、シンはその唇の動きをじっと読み取り、任せなさいと言わんばかりに自分の胸を叩いた。
笑ったその顔は、歳の割に随分と茶目っ気がある。
ほら、と凍蝶に促され、狼星も「よろしく頼む」と頷いた。
「私は暫し席を外させていただきます。後のことは、この者にお聞きください」
ガンはこちらが止める間もなく、玄関からさっさと出て行ってしまった。
「あの2人の元へ、といったところか」
「怒られているかもしれないな」
「きちんと怒って貰えるのも、子供の特権だ。私も何度お前を叱ったことか」
「………昔の話を今ここでするつもりか」
「何が昔だ。今でも本当に手のかかる子供のくせして」
狼星はムッとして言い返そうとしたが、そういえばこの場にはもう一人居たのだと、開けた口をすぐに閉じ直した。
シンはにこにこと笑って、2人のスリッパを用意していた。
唇の動きが読めるとガンが言っていたが、果たしてこの会話はどこまで聞かれてしまったのか。
気まずい無言のまま、皺だらけの手で促されるままに靴を脱ぎ、スリッパに足を通す。足先がとてもふかふかしていた。
シンばぁは立ち上がってもなお随分と小柄な女だったが、歩く速さは狼星達と変わらぬほどキビキビしていた。
通されたのは、屋敷の中程に位置する和室だった。床の間に掛け軸と花瓶が飾られている。
先に敷居を跨いだシンが、机の上を指さした。
手書きで作られた屋敷の簡単な地図と、その説明書が置かれていた。
シンは着物の袂を抑え、指でゆっくりと『決まり事』と書かれた部分をなぞった。
「『夜に出歩いてはなりません。熊が出ます』」
狼星が声に出して読むと、満足そうにシンは笑った。
その次に書かれた文字を、凍蝶が読み上げる。
「『血は穢れ。祭りの期間、刃物を握ること、権能を振るうことは禁事でございます』」
凍蝶の腰に指してある刀を、シンが指さす。
「これも禁止だと?」
私は儀式を行わない、ただの護衛なのだが。
「………………」
シンは困った表情で凍蝶に手を差し出したが、さすがにこれを取り上げられては堪らない。
凍蝶はぐっと刀を腰に寄せて、首を振った。
シンはしぶしぶと行った体で手を引っ込め、また説明文を指さした。
3つ目4つ目と凍蝶が最後まで読み上げるのを聞き終えてから、狼星はシンに疑問を投げかけた。
「やけに決め事が多いように見える」
狼星はそう呟きながら、ふとシンの横顔へ視線を向けた。
「俺達は、”冬結びの儀” の為にここへ遣わされている。だがお前達は、随分親しみを込めて”祭り”と呼んでいるようだな」
「………………」
「別に、それが気に入らないという話じゃない。ただ、里長も案内人も、聞いても何も答えなかったからな」
前回の儀式に貴方は参加していたのなら、と狼星は言葉を続ける。
「この儀式………いや、”祭り” は、いったい何で、何のために行われている」
無言のまま、声を出すことの出来ない老婆の、伽藍堂な顔の穴を狼星はじっと見ていた。
正確には、その近くに彫り込まれた六芒星の印を。
ガンの網傘にも、二人の子供の着物にも、この印は縫い付けられていた。魔除けと呼ぶには、つけられた位置に統一性を感じられない。
柊に囲まれた山といい、穏やかな雰囲気の集落といえど、妙なものばかり目にしている違和感はずっと頭の隅に残っていた。
無言のまま、狼星は手に冬の権能を宿した。
それに呼応するかのように、凍蝶が親指で刀の鍔を押し上げる。
シンは怯えこそしなかったが、それでも困ったように肩をすくめ、卓上のペンを手に取った。
『神様に依代を捧げ』
黒いインクが、ゆっくりと紙の上を滑る。
綴られていく文字を確かに目は追っているのに、狼星の脳はそれを理解を出来ず、2度3度と何度も文字を読み返した。
………唖然とするが、読み間違いではない。
『代行者様には、”アレ” と祝言をあげていただくのです』
強く吹き込んだ風が、掛け軸をはためかせる。
シンに指さされた絵の中の女人の瞳が、笑うでも泣くでもなく、じっと狼星を見つめていた。
「……………は?」
シンは紙を裏返し、慣れた手つきでペン先を動かし続けた。
まるで何十年も、書きなれた言葉のように。
『私達は、こう呼んでおります。
───珠縒の祭り、と』
むかしむかし。
雪のまだ名を持たぬ頃、冬を司る神がおわしたなり。
その御姿はうるわしく、男とも見え、女とも見え、またそのどちらとも違うとも言われけり。
されど誰もが、その御顔を見れば心安らぎ、その御声を聞けば冬を愛したという。
さて。遠き空の彼方に、一柱の龍神がおわしたなり。
龍神は冬の神を見初め、その御許へ通いけり。
一夜には酒を持ち、二夜には歌を持ち、三夜には玉を持ち白椿の枝に結び付けたり。
されど冬の神は微笑むばかりにて、ついに首を縦には振らざりけり。
龍神は困り果て、どうしたものかと思案しける。
ある夜のこと。
龍神は細き蛇の姿となりて、冬の神の御殿へ忍び入りけり。
されどそれを見つけたるは、冬の神に仕えし巫女なり。
巫女は申した。
「神さま、神さま。今宵はどうかお休みくだされ」
そして冬の神を奥へと案内し、自らがその御座を守りけり。
夜が明ければ、龍神も巫女も顔を見合わせて驚きけり。
されど神の結びし縁は解けぬもの。
龍神は巫女を大切にし、巫女もまた龍神を支えけり。
それより後、龍神は三つの願いを残したという。
一夜には酒を。
二夜には舞を。
三夜には清き水を。
ゆえに今も、神を迎える折には酒を供え、舞を奉じ、身を清めるなり。
これを珠縒の祭という。
冬の神と龍神の結ばれし縁を、忘れぬための祭なりけり。
「めでたし。めでたし!」
誇らしげな声音で男児───ジンは、狼星達に強請られるままに言い伝えを語り聞かせた。
頭の硬い大人と違って、子供とは無邪気なものである。
昼間の宣言通り、ジンは自分が取った魚を夕食に仕上げ、狼星達が滞在するこの屋敷に運び込んできた所を、悪い大人と甘いお菓子に捕まってしまったのだ。
ちなみに、老婆のシンは集会所に用事があるからと席を外している。
凍蝶は「ありがとう。立派な囃家さんだ」と手を叩き、ジンの前に夕食の小皿を一つ差し出した。この刺身が、ジンへの褒美である。
だがジンは受け取ろうとせず、「うーん」と悩んだ声で首を傾げて、ひょぃっと刺身の下にあった輪切りの柚子をつまみ上げた。
「オレ、刺身食えないんだよね」
だからこれだけ貰うよ。
ジンは柚子を口に放り込んで、「すっぺうめぇ!」と両手を顔に当てて肩を震わせた。
「魚は取れるのにか」
狼星は、立派な川魚の塩焼きを箸で摘んだ。
「うまい?」と聞かれたので、頷く。
するとジンは大袈裟に飛び跳ねて、「神さまのお眼鏡に叶った!」とはしゃいだ。
狼星は、凍蝶に生ぬるい眼差しを向けられていることに気付いて、頬を引き攣らせた。
なぜだか分からないが、脳裏に幼い頃の光景が蘇る。食事中に飛び跳ねたら、とんでもなく怒鳴り散らされた時のいやな記憶だ。
その記憶を頭の隅に追いやるように、再度「釣れるのに食えないのか?」と早口で聞いた。
「釣るのも食べるのもスキだよ。でも、魚も肉もあんまり食えねぇんだぁ」
ジンは自分の脇腹を擦った。
「姉ちゃんにも食うなって言われてるし」
「畑で共に居た女性だな」
凍蝶の問いに、ジンは「うん!あの後すっげぇ拳骨された!」と力強く頷いて、「べっぴんさんだろ!」と胸を張った。
「料理もとびきり上手なんだ。姉ちゃんが漬けた蜂蜜柚子が、オレは世界で一番大好きだ」
「へぇ。是非ともご相伴にあずかりたいものだ。姉君のお名前は?」
ジンは一瞬だけ黙り込んで、「なんで知りたいの?」と訝しげに凍蝶を見上げた。───踏み込みすぎたか。
凍蝶は微笑みの中で瞳だけを曇らせた。
「……………ランだよ」
ジンは凍蝶をじっと見たまま、足を1歩前に出し、ぐっと背を伸ばした。
その姿は、敵を前にした野良猫が毛を逆立てている様だった。
「なぁ、護衛の兄ちゃん。オレさ、魚釣ったらさ、すぐに血抜きするって決めてるんだ」
凍蝶の首筋を、とてつもない寒気が襲う。
ジンは指で作ったハサミを、チョキン、と動かした。
「なぁ」
追い詰められた視線が、出口と男児を往復する。
「…………アンタ。もしかして姉ちゃんのこと、狙ってんの」
「……………………………………………………」
いや、と否定する声のあまりのか細さに。
狼星は終ぞ耐えきれず、膝を叩いて笑い転げた。
* * *
凍蝶にその気はないとようやっと納得したジンは、文字通り嵐のように慌ただしく自分の家へと帰っていった。
その姿が見えなくなるまで門前で手を振って、狼星は凍蝶を見た。
「どう思う」
問うたのは、当たり前だがランという女についてではない。
ジンが語った、古い言い伝えについてだ。
「言い伝えというのは、大抵、子供向けに中身をマイルドに変えられているものだ」
凍蝶は夕焼けに目を細めながら、顎に手を当てた。
蛇となって寝所に入り、龍神はそこで冬の神に何をしようとしていたのか。
「俺は、とんでもなく粘着質なストーカーと、とんでもなく胆力のある女の話だと思った」
狼星の見解に、凍蝶も頷いた。
「異論なし」
恋は ”執着” となり、執着は ”欲” となり、欲は ”飢え” へと変わったのだろう。
自ら寝所に横たわり、その嘆きも、怒りも、人でありながら受け止めた巫女の末路は、果たして明るいものと呼べたのだろうか。
「実際にあったことかはさておき。これが、珠縒の祭りの起源だろう」
凍蝶が門扉を押さえている間に、狼星はその屋根をくぐった。
「…………………」
その時、1枚の絵が脳裏を掠めた。
あの床の間に飾られていた、女人の絵だ。
はるか昔に描かれたのか、色あせ図の分からぬ部分も多くあったが、女人は白っぽい薄布を纏い、その腕に玉と白椿を抱いていた。
言い伝えにも、確か玉と白椿の話しが出てきたはずだ。
龍神が冬の神に送り、決して受け取られることのなかった物。だがそれを神嫁となった巫女でならば、手にすることが出来るのではないか。
もし。もしも。
あの絵の女人が、ただの依代としての花嫁ではなく、言い伝えに出てくる巫女だとするならば───
狼星はギリッと奥歯を噛み締めた。
我ながら嫌な考えだ。だが、少しでもその可能性に気づいてしまうと、確かめざるを得ない。
自分の懐から、里長から渡された扇子を取り出した。乱暴に開かれた扇面が、夕日を受けて金を返す。
表には白椿が。
裏には玉紋が。
どちらもら掛け軸の女人が抱いていたものと同じだった。
「どうした?」
立ち止まった狼星の肩口から凍蝶がその手元を覗き込み、固まった。
だが狼星が何も言わずとも、彼は理解するだろう。
「…………なるほどな」
炙った氷の様な低い声だ。
掛け軸の女人。
扇子の白椿、そして玉紋。
同じ意匠など、偶然ではありえない。
あの掛け軸と狼星へ渡された祭具は、初めから对になっていた。
あの時。
あの獣道で、ガンは言った。
依代を神に ”見立てる” のだと。
あの掛け軸の前で、シンは言った。
依代を神に ”捧げる” のだと。
そのどちらもが、矛盾なく正しいのだとしたら。
狼星の喉が上下する。
ゆっくりと、何かがひとつの形を取り始める。
巫女。見立て。捧げる。祝言。
そして───代行者。
「狼星」
珍しく、掠れた声だった。
サングラスの奥で、凍蝶の瞳が酷く揺らいでいる。
嫌な予感は、もう形を持ってしまった。
なぜ扇子は狼星に渡された。
なぜ三日三晩儀式は執り行われる。
なぜ誰も詳細を語ろうとしない。
「狼星、お前は」
四季の神の代わりと成り、その生全てを神へと捧げている、代行者ならば───
「………俺自身が、依代なのか」
───神の花嫁に、足りうるということか。
『たまよりびめよ』
金泥で書かれたその文字が、夕日に濡れて揺らぐ。まるで細長い蛇が、面を這っているかのように。
扇子は初めから、狼星をそう呼んでいた。
──────────────
題『誰がための依代』




















