少し前まで青臭かった空気が、最近はめっきり焦げた匂いに変わっている。鼻腔粘膜にこびりつくコンクリートの焦げ付く僅かな匂いに、神経がざらつく。
まだ街の装いは春にも関わらず、目の前まで熱がやってきていた。
夏は好きだ。肌が焦がされる感覚も、動くと体から汗が出る感覚も好ましい。勝己の個性は夏にこそ真価を発揮すると言っても過言ではない。やはり他の季節に比べると夏場は個性の威力が増す。
もう一度深く息を吸い込む。鼻粘膜が、微かに混ざるコンクリートの焦げる匂いを捉えた。
首を左右にぶるぶると振る。まるで水浴びをした犬のように、しつこく。
夏は好きだ。しかし、ここ数年、夏は好ましいものであると同時に苦手なものでもあった。
欲望が我慢できないのだ。腹の底から顔を出した欲望は出口を探して身体中を這い回り、とぐろを巻いている。熱に浮かされた体は、欲望を留めておくにはあまりにも頼りない檻だった。
開け放ったままだった窓から、スーツ姿の男が見えた。勝己の乗っている車目掛けて、一直線にこちらに小走りでやってくる。リュックとは別に、握られている小さめのバックに自然と口角が緩みそうになるのをぎゅっと引き結んだ。
近くまで来ると、男の表情がよく見えた。
右手を上げて、満面の笑みを浮かべている。
「かっちゃん、お待たせ」
「そんな待ってねえよ」
助手席の扉を開けようとする腕を静止した。
「出久は後ろ」
なんでよ、と不満そうにしていたが、それもすぐに終わる。勝己が何を言われても、出久を決して助手席に乗せないことを、出久は理解している。ただ、理解しているにも関わらず、何度も助手席に乗り込もうとしてくるのは、あわよくばを狙っているからだろう。運転している勝己からすれば、助手席も後部座席も変わらないだろうと思う。
出久がシートベルトをしたのを確認してから、車を発進させた。
目的地は熱海だった。
「熱海、行ったことないや」
シートに沈んだ出久がぽつりと言った。話しかけているのか、それとも独り言なのか判断がつかない。少し迷ってから、俺も、と勝己は返事をした。
「救助した方からいただいたんだっけ?」
「そう。旅館のオーナーなんだと」
今回の熱海への旅行は、救助者からの礼だった。戦闘が始まった場所にたまたまいた人物を助けたら、それが旅館のオーナーだった。いらないと何度も首を振ったが、食い下がられてチケットを押し付けられた、というのがこの旅の発端だった。
チケットを押し付けられたことを出久に溢せば、出久は少し考えるように口元に手を当て、それなら僕と行こうよ、と笑った。呆気にとられたが、すぐに頷いた。勝己は誘いたいような相手もいない。それに、一緒に旅行に行くのなら、出久は一番好ましい相手だった。
二泊三日の旅行は短いようで長い。両親にチケット自体を譲ることも考えたが、それはしなかった。チケットを寄越したオーナーから是非勝己にきてほしいと言われたことも理由だったが、出久と行きたいという、薄ぼんやりとした願望が存在していたのも、理由の一つだった。
後部座席から欠伸の音が聞こえる。
「寝ててもいいぞ」
ミラー越しに出久の顔を見ると、眠たそうに目を擦っている。
勝己は今日から四日間、休みをとっている。緊急招集は周りの事務所に連絡が行くよう、手筈を整えていた。大震災の様な、ヒーローが総出で動かなければならない案件が起こらない限り、この休暇は誰にも邪魔されないはずだ。出久も同じ様に手配したとのことだった。
つまり、これからの三日間は二人きりというわけだ。そう意識すると、少しだけ呼吸が苦しくなった気がした。
「や、流石に運転してもらってるのに眠りこけるのは」
そうは言っているが、出久は眠そうに欠伸を噛み殺している。熱海までは車で二時間ほどだろうか。間違いなく車の揺れで眠りに落ちる。意地を張らずにさっさと眠ってしまえばいいのに。そう口にしたら、また出久が反論してきそうだった。何も言わずに、流していた音楽を止める。少しでも出久を眠らせてやろうという配慮だった。
しかし、出久はそうは捉えなかった様だった。
「ちょっと、なんで音楽止めるんだよ。止めなくていいってば」
不満そうな声に素直に眠って仕舞えばいいのにと小さくため息を吐き出した。これから旅行だというのに口論になって空気が悪くなるのも馬鹿馬鹿しい。これがまだ高校を卒業した頃だったなら、きっとうるせえと叫んで喧嘩に発展していただろう。だが勝己も出久ももう大人になった。二十代も半で、そんなことをするほど子供ではない。
勝己は出久に言われた通り、音楽を再生させた。車内に音楽が流れ始めると、出久は鼻を鳴らしてその体を背もたれに凭れさせた。体が埋もれてしまうから、本当にもたれられているのかは定かではない。
出久が黙ると、車内は音量控えめに流されている音楽だけが響く。そのまま無言のまま車を走らせていると、二十分もしないうちに後部座席から寝息が聞こえてきた。規則正しいそれに、勝己はふっと微笑む。あんなことを言っていた癖に、結局睡魔に負けたらしい。初めから素直に眠っておけばよかったのに。
眠りの妨げにならないように、音楽を止める。
熱海に着くまで、出久は休息の時間だ。
ぶつぶつと文句を言いながら出久が数歩遅れて着いてくる。
「起こしてくれればよかったのに」
熱海に向かう道中、眠ってしまったことが不満なようだった。その瞳は恨めしそうに勝己を睨みつけている。
「疲れてるんだから寝ときゃいいだろうが。何を臍曲げとんだお前は」
呆れた声を隠しもせずにそう伝えると、出久は手に持ったバッグを振り回しながら叫ぶ。
「車の中でおしゃべりしたいじゃん!」
叫ばれた内容に、勝己の口がぽっかりと開いた。顎が外れてしまいそうだった。
「……これから三日間も一緒なんだから何も問題ねえだろうが」
ようやっと口にした言葉にも呆れは滲んでいた。
当たり前だった。
これから三日間、嫌でも二人で過ごすことになるのだ。それにも関わらず車内で話したかったと拗ねているこの男が馬鹿に思える。
口にこそ流石に出さなかったが、出久には勝己の考えていることは余すことなく伝わったようだった。
全身で拗ねているのを表して、大きく口を開く.喉の奥まで丸見えだった。
「車の中ってのがいいんじゃん!」
そう叫ばれたが、勝己にはわからないままだった。
拗ねたままの出久を連れて、チケットに記載された旅館へと足を向けた。
勝己が旅館に足を踏み入れると、まるで来る時間がわかっていたかのように女将と思われる女性が入口で待っていた。
爆豪と名乗るよりも早く、漆原からは伺っております、とその女性が口にする。漆原というのは、勝己が助けたオーナーの名前だ。予約する際は漆原に電話をするように言われたため、勝己は漆原に一度電話をしていた。電話をした際にも命の恩人だと何度も言われてうんざりしたが、この様子だとここのスタッフにも盛りに盛った話をしていそうだった。ただ泊まらせてもらえればいいと漆原には口酸っぱくして伝えたが、果たしてどうだろうか。
そのまま手続きを済ませ、部屋に向かう。
案内されたのは、本館から少し離れた場所にある離れだった。そこの鍵を開けながら女将が口にする。
「ここは防音の個性がかかっていますから、どんなに大きな声を出しても周りには聞こえません」
どんな意図を持ってそれを伝えてきたのかわからず、勝己は曖昧に返事をした。
室内には露天風呂、手洗い、洗面所、寝室と茶の間があった。茶の間には固定電話が一つ。固定電話を手で指して、女将が言う。
「何かあればこちらでお申し付けください」
食事はこの離れまで持ってきてくれるとのことだった。どこかへ出かける際はここの鍵を預けてほしいとのことだったが、それ以外は特に制限は何もないようだった。
女将が出ていき、広い室内の中、二人が取り残される。
各々荷物を置き、離れの中を探索する。少し狭めの一軒家といっても遜色のない広さだった。
勝己の前を歩く出久は現れる部屋や小物にいちいち反応を示していたが、勝己は使うものがどこにあるのかを頭の中に入れることに集中していた。
室内の探索が終わり、さてどこに行こうかと勝己が頭の中でプランを立て始めたと同時に、出久が声を上げた。
「かっちゃん、熱海と言えばプリンだ!」
そんなことはねえだろと思いつつ、確かに調べた時に熱海プリンというものが有名だと書いてあった。出久はそれが食べたいらしい。勝己を見る瞳がきらきらと輝いていた。車を降りたばかりの頃は頬をふくらませていた癖に現金なやつめと呆れつつも、勝己は財布とスマートフォンをボディバッグに押し込んだ。
バッグに押し込む際にスマートフォンから見えた時刻は十五時を少し過ぎた頃だった。おやつの時間にはちょうどいいだろう。万が一甘過ぎて勝己が食べられなかった場合は、出久に残りを食べさせればいい。
プリンと口ずさみながら先を歩く出久の背中を、今度は勝己が追いかける番だった。
熱海プリンを食べ終えて、そのまま商店街の中をぷらぷらした。土産屋に入っては冷やかし、食べ歩きできるかまぼこ串を購入して、お互いのものを食べさせあったりした。
出久の唇が触れたかまぼこ串を差し出された時、年甲斐もなく心臓が大きく跳ねた。学生時代、何度も出久の裸を見ている。肌に触れたことだって何度もある。今更だった。大袈裟に暴れ回る心臓に呆れつつも、自分の肋骨の中でぐるぐると渦を巻いている感情にどうしたって乱される。
出久が差し出してきたかまぼこ串の味はイマイチわからなかった。出久は勝己の差し出したかまぼこ串を大きく一口食べて、美味しいと頬を膨らませていた。わかってはいたが、ただの友人との旅行と捉えているだろうその様子に腹が立った。味のわからなかったかまぼこ串を大きく齧り取ってやると、酷いと目尻を吊り上げて怒っていた。その表情に小さく笑いを漏らすと、怒っていたはずの出久も表情を緩めた。柔らかく歪む唇に、可愛いと思った。夏の焦げた空気に、閉じ込めている感情の檻が緩んでいる様だった。
商店街の距離はそう長いわけではない。いろいろな店を冷やかしつつ歩いても、せいぜい二時間ほどで終わってしまう。突き当たりまでやってきて、さてどうするか、と勝己と出久は立ち止まった。
旅行に来るにあたり、熱海について調べなかったわけではない。
「車取りに戻って、熱海城でも行くか?」
熱海城の近くにはトリックアート館というものも存在している。勝己はトリックアートに興味があるわけではなかったが、それを見た時、出久は好きそうだと思った。
それを口にしようとするより早く、スマートフォンと睨めっこをしていた出久が、画面を突き出す。
「僕、これ行ってみたい!」
眼前に差し出されたそれには、出久が好きそうだと思ったトリックアート館のホームページが表示されていた。堪え切れなかった笑い声が喉の奥でくつくつと鳴る。
「わかった。じゃあ車取りに戻るぞ」
「うん!」
隣を歩く出久は楽しそうだった。鼻歌を小さく歌いながら、口元を緩く持ち上げている。その姿に小さく息を吐き出す。楽しそうでよかった。
一緒に行くと言い出したのは出久だった。けれど、出久と二泊三日を過ごすとなって、本当に出久が楽しめるかは不安だった。
勝己は出久といられるだけでいい。そこに面白いと思う会話もいらない。ただ隣にいればそれだけで満たされた気持ちになるが、出久はそうではないだろう。勝己は自分が面白い人間だとは露ほども思っていない。どちらかといえば、無愛想で口も悪く、面白くない人間だという自覚があった。
そんな人間と、誰が好んで二泊したいだろうか。自分なら御免だ。
確かに出久は勝己に対して耐性があるし、勝己の人となりを誰よりもよく知っている。だからこそ、本当に大丈夫だろうかという不安が拭えない。
けれど、その心配も杞憂の様だった。
目の前を歩いている出久は楽しそうで、取り繕っている様には思えない。いつの間にか詰めていた息を吐き出す。熱海の空気は潮の匂いが混ざっていて、まだ夏と呼ぶには早すぎる季節にも関わらず、すっかり夏の様相をしていた。思い切り空気を吸い込むと、夏の匂いが染み込んで、肺が大きく膨らんだ。
トリックアート館に向かう車内では、出久が話し続けていた。商店街で食べ歩いたものについて、絶え間なく舌を動かしていた。幼い頃からずっと思っているが、本当に出久はよく喋る。舌が疲れないのかと思うほどだった。勝己と出久の一日で発する言葉の量を調べたら、出久の発する言葉ら間違いなく勝己の三倍近くありそうだ。
機嫌良さそうに話し続ける出久に相槌を打ちながら、勝己は自分の機嫌も上向いていくのを感じていた。
トリックアート館に入館すると、はしゃぐ出久の写真を何枚も撮影した。
トリックアートにこうして関わることは初めてだった。そういうものだという知識はあっても、わざわざそれをピンポイントで扱っている場所に行こうとは、自分では考えない。出久が楽しんでいるから、ということも多大に影響しているとは思うが、勝己も楽しんでいた。出久に写真撮りたい、と言われて頬を寄せて写真を撮る程度には、浮かれていた。
さて今度はあそこに行ってみよう。そう出久と会話をしていると、あの、と背後から蚊の鳴くような声がした。
振り返ると、首まで真っ赤にさせた女が立っていた。無意識で出久が自分の背後に来る様に動いてしまう。侮っているわけでも下に見ているわけでもない。ただ、無個性の出久では、何か個性が発動された時に捕縛が 難しいと思ったからであり、それ以上でも以下でもなかった。出久がかっちゃん、と咎める様に自分の名前を呼んだのがわかったが、構わず出久を背後に隠す様にする。
女は勝己の刺々しい雰囲気に気がついていない様だった。顔を真っ赤にさせたまま、その両手指をもじもじと重ねて動かしている。あの、と声をかけたっきり、何も発しないその口に苛立ちが募る。女から少し距離を置いたところで、友人と思われる数名が待機しているのが、さらに癪に触った。
あまりにも口を閉ざしたままの相手に痺れを切らして口を開きかけた時、女が叫ぶ様に言う。
「あの! デク、と、ダイナマイト、です、よね!?」
「そうだったらなんだよ」
勝己の刺々しい声に、出久に背中を小突かれる。目の前で顔を赤くしている女が敵ではないことは、ここまでくれば勝己にもわかっていた。ただ、心の底からそうだと信じたわけではない。こちらの気が緩んだところで何か仕掛けてくるということがないわけではない。
もっと優しくしてあげて、と言うように、また出久の拳が背中を叩く。今度は叩くだけではなく、逆立っている感情を宥めるように、その指先が布越しに肌を撫でた。ぞわりと後頭部の髪の毛が逆立つのを感じた。そういう、意図していないだろう接触に勝己が動揺していることを、出久は知らない。
「あの、ファンです! 写真とか、あ、握手とか、してもらえませんか?」
勝己の動きが止まった。後ろにいる出久の反応を伺う。これが勝己一人でいる時なら、所謂ファンサービスは行わない。単純に面倒だからだ。チャートのことを考えればした方がいいのだろうが、勝己はそういった、媚びる様なことでチャートをあげたいと思わない。以前これを出久に話したら、媚びる媚びないではない、安心感と親近感を与え、かつ身近に感じてもらうことに繋がると言っていた。わかる様で、わからない。身近に感じてもらう必要があるとは思わないからだ。
自然と張り詰めていた息を細く吐き出す。隠す様にしていた出久の体から、出久が前に出られる様に避ける。勝己は写真も握手もするつもりはない。けれど、出久はきっと、彼女の願いを聞いてやるんだろう。女が何かおかしな動きをしたらすぐ対応できる様に一挙手一投足を観察はするが、出久の好きにさせよう腕を組んだ。
思った通り、出久が一歩前に出る。少し自分よりも低い位置にある緑色の髪の毛が風で揺れる。風に乗って、出久の匂いが鼻に届いた。シャンプーと汗の匂いがする。今日は座学だけでなく、実技もやったのだろうか。まだ出久に個性があった過去が、眼裏に甦ってくる。
勝己が出久の動きを視線で追っていると、出久が口を開いた。出久はお人よしだ。この女にファンサービスをしていたら、きっと周りでこちらの様子を伺っているいくつかのグループも便乗してやってくるのだろう。どれくらい時間がかかるだろうか。三十分、もしかすると一時間くらいかかるだろうか。
出久が見知らぬ人間に対して笑顔を振りまき、自分と過ごすはずだった時間を浪費すると思うと、腹が立つ。けれど、慈愛の心に満ちているのが、勝己の知っている緑谷出久という人間だった。
出久に気づかれない様に深くため息を吐き出す。出久が振り返った。ため息の音は聞こえなかったはずなのに。こちらを見る深緑の瞳に、組んでいた腕に力が籠る。
勝己を一瞥して、すぐに出久の視線は女へと戻っていった。
出久の口元に、柔らかく、人好きな笑みが浮かぶ。
「すみません、今日はダイナマイトとプライベートで旅行に来ているので」
さらりと口から出てきた言葉に、勝己が目を見開いた。柔和な笑みを浮かべているが、たった今口にしたのは断りの言葉だった。
ヒーローデクはファンサの神。
そんなことを言われている男が、まさかファンからのお願いを断るなんて。
信じられない気持ちで出久を見ていると、断られたファンも勝己と同じ気持ちの様だった。信じられないと言いたげにその瞳は見開かれ、出久を凝視している。
女が何も言わないでいると、出久が小さく頭を下げた。
「すみません、それじゃあ」
そっけなくそう言って、踵を返す。出久は勝己の腕を掴むと、ずんずんと歩き出した。引っ張られる様にして歩く勝己が、小さく耳打ちする。
「お前、いいのかよ」
「何が」
出久の視線は正面を向いたままだ。すでにトリックオアトリート館は回り切ったから、その足は出口に向かっている様だった。
「ファンサービス。大事だって言ってただろ」
「ああ、いいんだよ、今日は」
さらりとまた口にする。
勝己は困惑しきりだった。あんなにファンサービスが大事だと言っていたのに、一体どういう心境の変化だろうか。
掴まれた勝己の腕に、出久がさらに力を込める。僅かに走る痛みに、勝己が顔を顰めた。
「今日は、かっちゃんとの時間を邪魔されたくないから」
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、お、と口から母音だけがぽろりとこぼれ落ちた。心臓がどくどくと激しく脈打ち始める。出久がどんな顔でそれを言っているのかと、その顔を覗き込んだ。が、出久は普段通りの顔をしていた。勝己が出久の言葉に勝手に期待して、胸を高鳴らせただけだった。
トリックアート館を出ると、掴まれた腕が離されて自由になる。触れ合っていた素肌が離れ、あっという間に腕に残っていた出久の体温は風に攫われてしまう。名残惜しさに皮膚を擦った。
「次、ロープウェイでも行く?」
頷きかけて、持ち上がった顎が中途半端な位置で止まった。
ロープウェイで上に登ったら、あるのは秘宝館ではなかっただろうか。そこに出久が行くわけがないとは分かりつつも、なんとなく流れで行くことになってしまいそうだ。なんとなくそれは避けたい。
勝己にとって、出久という人間は、禁欲的なイメージがある。
もちろん成人の男だと知っている。そこらを歩いている男よりもずっと男らしいということも。大抵の男よりもずっと力があるだろうし、個性がないからといって、そこらの一般人に負けるとは欠片も思わない。なんなら五人がかりでも勝てないのではないだろうか。男だと理解している。それでも、緑谷出久という人間と、性欲というものが結びつかない。
「かっちゃん?」
返事をしないでいると、出久が振り返った。不思議そうな顔をしている。勝己たちの横を、団体客が楽しそうに笑い合いながら通り過ぎていった。ごくんと唾を飲み込む。まだ真昼だ。太陽は頭の上で燦々と輝いていて、皮膚を焦がそうとするかの様に光を地上に向かって投げつけている。じっとりと汗が滲み出た体を、風が撫でていく。一瞬冷えて、けれどあっという間に体は熱を帯びる。ほんの少し冷やされたところで、体温は変わらない。
「ロープウェイ乗っても、なんもねぇだろ」
掠れた声が出た。意識しているのがありありとわかって、どうか出久が気がつきませんようにと願うばかりだ。
「あるじゃん」
勝己の言葉に、さらりと出久が言い返す。その顔は、普段と何も変わらない。昼食の話をするかの様に、平坦だった。
「何が」
唾を飲み込む。たった今、出てきたばかりのトリックアート館からは楽しそうな声が風に乗って響いてくる。高い場所にあるからか、やけに風が吹いている。
「秘宝館」
出久の声なのに、どこか体が受け付けない。輪郭が曖昧でふやけている様に感じる。
「行こうよ、せっかくだし」
なにがせっかくだ、と反論しようにも口の中が渇いていた。飲み物が欲しい。返事をしないでいると、出久がまた、勝己の腕を掴む。暑いのか、手のひらが少し湿っていた。
勝己が返事をしないまま、出久は大股でロープウェイの場所に進んで行った。流されるままに、ロープウェイに乗り込む。動き出すと、乗っているロープウェイが大きく揺れた。隣にいた出久の肩がぶつかる。体勢を整えながら、出久が勝己にはにかんでみせた。
「緊張するね」
数年前まで空を自由に飛んでいた奴がそんなことを言う。それに他意がないことはわかっている。それでも、勝己は目頭が熱くなって、奥歯を強く噛んだ。あまりにも強く噛み締めたせいで、歯茎がじくじくと疼く様な痛みがある。
隣では、出久が眼下に広がる景色に小さく歓声を上げていた。そんな光景、いくらでも見てきただろうに。いくらでも見せてやれるのに。
奥歯を噛んでいるのに、世界の輪郭がぼやけていく。
どうして、自分の人生において、緑谷出久という人間はこうも感情を揺さぶるのだろうか。
他にそんな人間はいない。いたことがない。
迸りそうになる感情を、唇を細くして吐息に乗せて吐き出す。
出久のなんてことのない言葉が、世界を歪めてしまう。それが昔は恐ろしかった。今は、どうだろう。
「かっちゃん、そろそろ着くよ」
出久の指先が袖を掴んだ。声の方に視線を向けると、出久の顔が思っていたよりも近くにあって、思わずのけ反った。う、と小さく声が漏れる。勝己の声に反応して、出久が笑った。
「変なかっちゃん」
お前のせいで変になっているんだ。
喉から出そうになった言葉を、ぐっと噛み潰した。
ロープウェイを降りると、外の爽やかな空気が肌を撫でた。ロープウェイに中にいる時には気がつかなかったけれど、中は随分と熱が籠っていた様だ。降りた瞬間、呼吸がぐっと楽になった。
さくさくと歩いていく出久の後ろをついていく。その足は、迷いなく秘宝館の峰へと向かっていた。
これがただの旅行で、出久以外の男とだったら面白半分で秘宝館に行っていただろう。馬鹿馬鹿しいと笑いながら、中を進んでいったはずだ。
出久だからこそ、躊躇している。出久がそういったものを見て、どんな反応を示すのか、知りたい様で知りたくない。
出久と連絡を取らなかった数年間の間、出久が恋愛というものをしてきたのか、一度も聞いたことがない。聞きたくなかった。誰か、それが特定の異性だろうが不特定だろうが、そういうことをしていると聞きたくなかった。禁欲的であってほしいと、勝手に思い込んでいるのかもしれない。
木偶の坊と罵っていた過去を思い出す。身体中に張り巡らされている、出久をいじめていた過去が鮮やかに思い出される。自分は、出久に幸せになってほしくないわけではないのに、そういうもの、恋愛とは離れた存在であってほしいと願っている。それは、自分が言い出すことのできない恋愛感情を出久に抱いているからなのか。
ただ、と思う。ずんずんと進んでいく背中。勝己が自分を置いてどこかに行くわけがないと、自信満々の背中だ。ここで勝己がどこかに消えたら、どうするのだろう。驚くだろうか。少しやってみたい気がするけれど、勝己がいなくなっても動じない顔を見てしまったら落ち込むから、離れないでいる。
ただ、出久には、自分の目の届くところで、何かあればすぐに助けることのできる場所で幸せになってほしい。
鼻の中に、青々とした緑の匂いが飛び込んでくる。商店街にいる時、肺に入り込んでくる空気は暑かった。ほとんど夏と言っても過言ではない。けれど、今、肺に飛び込んでくる空気はひんやりとしていた。標高が高いからだろう。熱せられた空気ではないからか、周りの木々の匂いを強く感じた。青臭く、目の覚める匂いだ。夏が匂い立っている。足元からは、踏みつけた土の香りも僅かに立ち登ってくる。
目の前から、恋人同士と思われる男女が降りてくる。くすくすと笑いながら体を寄せ合っている様に親密さを感じて、純粋に羨ましさを感じた。思わず目でその二人組を追ってしまう。砂利の踏みつける音が止まった。後ろに向けていた視線を正面に戻すと、それまで勝己の存在を忘れた様に歩いていた出久が振り返ってこちらを見ていた。その視線に体が強張る。蛇が獲物を睨みつけている様だった。
なに、と言うよりも早く、出久が口を開く。
「さっきの女の人みたいなのがタイプなの?」
「は?」
「さっき、振り返ってまで見てたから。そうなのかなって」
すれ違った女の顔なんて全く見ていなかった。どんな服装をしていたのかすら答えられない。ただ、あの二人の間に漂う親密そうな空気を羨ましく思っただけだ。
それを素直に答えようとして、口を閉じた。そんなことを言えば、まるで恋人が欲しいと言っている様だ。それだけで自分が出久に抱いている感情がバレるとは思わないが、あまりそういうことを言うのもよくない気がした。けれど、顔を覚えていないどころか服装すら思い出すことのできない相手をタイプだと誤解されることも嫌だ。そもそも、自分のタイプというものすらわからない。気がつけば出久が好きだった。出久だけが自分の心の柔らかいところに居座っている。当たり前に自分の中に存在しているのは出久だけなのに。
「香水くせぇなと思っただけ」
香水をつけていたかも定かではなかった。けれど、これ以外にいい言い訳が思いつかない。
出久は納得したのかしていないのかはっきりしない、ふうん、という言葉を吐いて、また前を向いた。大股で進んでいく。怒っているようだった。何が気に食わなかったのかわからない。
秘宝館に行きたいと言ったのは出久のくせに、秘宝館を回っている間、ずっと不機嫌そうな顔をしていた。
館内では男だけのグループともすれ違った。そのグループは展示されているものを指さして、くだらねえ、と笑い合っていた。勝己と出久は、そういった雰囲気には一度もならずに、二人してむっつりとした顔をしたまま、展示されているものを眺めていた。おそらく、性行為や性器に関する展示を、こんなにもむっつりとした難しい顔で見つめていた来館者は、過去にもこれからも、出久と勝己以外存在しないだろう。
秘宝館を出てからも出久は不機嫌そうで、その不機嫌の原因がわからない勝己は、どう言葉をかけようかとぐるぐる考えていた。
なに不機嫌になってんだよと怒ることもできる。それは最終手段にしたい。せっかく出久と旅行にきたのだ。なるべくなら仲のいいまま過ごしたい。当たり前の感情だった。
ロープウェイが来るのを待っている間も無言だった。勝己たちが着いた直前にロープウェイが行ってしまった様で、駅には二人しかいなかった。係員の姿もない。木々の葉が擦れる音が時折聞こえてくる。眼下には緑の多い熱海の街並みが広がっていた。
スマートフォンに視線を落とす。すでに十七時に近い。今日はもう宿に戻るのがいいだろう。
ちらりと横目で出久を見る。出久は口を閉ざしているが、不機嫌そうな顔ではなくなっていた。歩いている間に感情の整理がついたのかもしれない。
これなら話しかけてもいいかもしれない。
意を決して口を開く。心臓が大きく脈打っている。出久に話しかけるのが怖いと思ったのは、これが初めてかもしれない。
「旅館戻るでいいか?」
たったそれだけを口にするのに、舌が粘ついてもったりとする。出久が返事をする前に、係員が戻ってきてしまった。せっかく二人きりだったのにと少しだけ残念に思って、旅館に戻れば否が応でも二人きりだと思い出す。二人きり。あの広い離れの中で。口の中に湧き出てきた唾を飲み込む。何が起こるわけでもないとわかっているのに、指先がじんと痺れる。期待をしても、肩透かしを食うだけなのに。
無意識に胸の辺りのシャツを握り締めていた。出久が顔を上げる。数十分ぶりに視線がぶつかる。
「うん。お腹空いた」
それを証明するかの様に、出久の腹がくう、と可愛らしい音を立てた。
鍵を受け取りに母屋へ行く。女将がすっと現れて、いつ頃食事をお持ちしましょうか、と言った。出久に視線をやると、出久も勝己を見上げている。身長は六センチほどしか違わないのに、出久は上目遣いをしてくることが多い。そういった視線を向けてくることに他意はないとわかっているのに、それに馬鹿みたいに心臓は高鳴る。
「すぐ持ってきてもらうか?」
ううん、と出久は唇に指を押し当てて考えた後、頷いた。
「承知致しました。準備してすぐお持ちいたします」
そう言うなり、女将はすぐに下がった。厨房に向かったのだろう。
鍵を受け取り、離れに戻る。案内された時も思ったが、離れは母屋から随分と離れている。防音の個性をかけられていなくとも、母屋にこちらの声が聞こえることはなさそうだ。
靴を脱いで室内に入る。洗面所、と呟き、洗面所のある方向とは反対方向に進もうとしている出久の腕を掴んだ。
「こっち」
腕を掴んだまま廊下を進む。ぎし、と床板の軋む音がする。室内には、足音と床板の軋む音が時折聞こえるばかりだ。衣擦れの音がやけに響いている様に思える。二人きり。頭の中で、その単語がちかちかと明滅を繰り返す。
洗面所に着くと、出久は恥ずかしそうに笑った。
「ありがと。よく覚えてたね」
「出る前に確認してたから」
「そっか。さすがだね。僕は浮かれてて、そんなのすっかり忘れてた」
浮かれてて、という言葉に、頭の芯が痺れる様な感覚があった。
勝己はまた、胸元を押さえる。
出久が何を考えているのか知りたい様で、知らないままでいたい気持ちだった。
手洗いを済ませて茶の間に戻る。腰を落ち着けたと同時に、呼び鈴が鳴った。立ち上がった出久を座らせて、勝己が玄関に向かう。扉の向こうには人影がいくつもあった。
「食事をお持ちしました」
鍵を開ける。女将を先頭に、数人が膳の準備にやってきていた。
女将たちは言葉少なに食事の準備をすると、ごゆっくり、と言った。食事が終わりましたらご連絡くださいという一言を残して。
玄関の鍵が閉まる音がする。それまで室内にあった人の空気がふっと消える。これで本当に、こちらから連絡をしなければ二人きりの時間だった。
二人きりだと実感すると、勝手に体温が高くなっていく。どうしようか、と室内を彷徨う勝己の視線を、出久の声が落ち着かせた。
「かっちゃん、お酒飲む?」
気がつけば、膳の前に行儀よく座っていたはずの出久の姿が備え付けの小型冷蔵庫の中に移っている。小型冷蔵庫の中は出久の体に隠されていて見えない。その頭が、種類を吟味する様に動いた。
「いや、いいわ」
こんな状態で酒を入れたら、何を口走ってしまうかわからなかった。
誤って出久を好きだなんて言ってしまった時には目も当てられない。
「そっか。僕もそれならいいや」
「出久は飲めばいいだろ。俺は明日運転するかもしれねぇから、酒抜いとこうってだけ」
「かっちゃんが飲まないのに一人で飲んだって楽しくないじゃん」
その言葉にぐう、と喉が鳴った。確かにそれはそうかもしれない。
勝己は酒を飲む習慣がない。飲み回に参加すればある程度は飲む。付き合いがあるからだ。ただ、好んで飲まないせいか、酒に耐性がない。あまり飲みたくはない。けれど、自分のせいで出久が酒を飲むのを我慢するのは嫌だ。
悩みに悩んで、勝己は
「ビール一本だけなら飲む」
と口にした。出久は無理しなくていいよ、と言っていたが、勝己は首を左右に振った。
「出久が楽しいのがいいから」
自分の気持ちを素直に言葉にすると、胸がむず痒かった。こんなに素直に自分の感情を口にしたことがないからか、言われた出久もきょとんとした顔をしている。それが可愛らしくて、口元が緩む。それと同時に、今までたくさんの時間を共有してきたのに、まだ知らない顔があるのかと驚く。もっと出久の色々な表情を見たいと心から思う。
用意された食事はどれも美味しかった。ビールを一本だけと思っていたが、出久が明日はタクシー出回ればいいじゃない、という言葉に流されて、勧められるままに日本酒やらワインやらを開けた。出久も楽しそうに酒をどんどん胃の中に入れていた。
食事が終わり、固定電話から片付けてもらう様に連絡を入れる。すぐに片付けにやってくるということだった。
片付けが終わってしまうと、茶の間はすっきりとする。時刻はまだ二十時になったばかりだ。風呂に入って、また酒を飲んでだらだらするのもありかもしれない。
同じことを出久も考えた様で
「そろそろお風呂入ろうか」
と脱衣所を指差す。
「先入っていいぞ。俺は後から入る」
出久の体を見て、下半身が反応しない自信がなかった。酒で理性の壁は曖昧になっている。普段なら、全裸を見ても反応しないでいられただろうが、今はどうかわからない。
自分と、出久の身を守るための発言だったが、出久は不満そうに声を上げた。
「一緒に入ろうよ。露天だから、のんびりしようよ」
「別にばらばらでいいだろ」
「お水とか持っていって、話しながら入ろうよ」
「明日も一緒だろうが」
勝己の言葉に、出久が深いため息を吐き出した。子供の不出来を嘆く母親のような顔で、出久が口を開く。
「かっちゃん、来る時もそうだったけど、露天だからいいんだよ。わかる? 風情だよ、風情」
黙ったままでいると、出久が近づいてきて、隣に腰を下ろす。ほとんど肩が触れてしまいそうな距離だった。出久の右手が勝己の心臓のある位置に触れる。体が近づいて、出久の体臭が鼻に忍び込んでくる。昼間、歩いたからか汗の匂いがした。濃い体臭に眩暈がする。
頭がくらくらする。布越しに感じる出久の指の熱に、元々滲んでいた理性の壁がさらりと砂になって砕けていく様だった。
「一緒に入ろ?」
至近距離で見上げられて、勝手に首が動いていた。
出久に腕を引かれて歩くのは何度目か。酒でふやけた頭では回数を数えることもできない。
誘われるままに脱衣所へ向かう。脱衣所に着くと、勝己を連れてきてくれた腕はあっという間に離れてしまう。のろのろと勝己が服を脱いでいる間に、出久はさっさと服を脱いで露天風呂へと向かってしまった。あんなに一緒に入りたいと言ったのは出久のくせに、と少し拗ねてやりたい気持ちになった。
水の跳ねる音が聞こえてきて、ふやけた頭の中でも出久が体を洗っている場面を想像してしまった。
勝己はまだ履いている下着の中で、自身が反応していないことに安堵の息を漏らした。出久の肌の上を滑る泡を想像すると神経が昂るのを感じる。けれど反応はしない。ということは、酒の飲み過ぎでそもそもその機能がうまく反応しない様になっているわけである。これは好都合だった。
下着を脱ぎ捨てて、扉を開ける。出久が体を洗い終えて、露天に片足を入れているところだった。
扉の音に気がついた出久が顔をこちらに向けてくる。濡れた髪の毛が、頬に張り付いていた。
「遅い。一足先に入ってます」
ちゃぽ、と軽い音がして出久の体が露天に沈んだ。
勝己も手早く髪の毛と体を洗うと、露天に体を滑り込ませた。
湯に浸かった場所からじんわりと体に熱が広がっていく。熱すぎない湯に浸かっていると、強張っていた筋肉の繊維一本一本が解れていくようだ。
あー、と情けない声が口から飛び出す。ひと足先に露天に浸かっていた出久が吹き出す。
「かっちゃんもそんな声、出すんだ」
どういう意味だとじろりと睨みつければ、また出久がおもしろそうに笑う。
「嫌味じゃなくてさ」
水面が揺れる。出久が体を動かして、こちらに滑る様にやってきた。露天にはいくつか照明が配置されている。外は暗くとも、その照明のおかげで露天内は明るい。そして都合が悪いことに、露天の湯は透明だった。つまり、出久の体が丸見えだった。高校時代にいくらでも見たはずの体が目の前に晒されている。いくつも傷のある腕に、うっすらと色づいている肌。見ない方がいいと理性ではわかっているのに、欲がそれを押しのけている。ぐら、と目の前が揺れて、体が熱くなった。その少し後、鼻から何かが伝う感覚がある。
「えっ鼻血!」
勝己が鼻に触れると、確かに鼻血が出ていた。慌てて立ち上がり、露天から出ようとすると出久も同じ様に慌てて立ち上がる。
「ちょ、大丈夫だから。お前風呂入ってろ。もったいねえだろ」
「いや、鼻血出してる人ほっとけないでしょ!」
勝己を支える様にして歩く出久に、勘弁してくれと勝己は泣き出しそうだった。酒で理性だけでなく、涙腺も緩んでいる様だった。じわりと涙が出てきて視界が滲む。
勝己がやると言っても出久は聞かず、勝己の体と頭を手早く拭き、ドライやーで髪の毛を乾かし、なぜか膝枕をしてくれた。その間も勝己の鼻血は止まっていない。
「早く止まるといいねえ」
心配してくれているとわかってはいても、本当に放っておいてほしかった。
勝己の鼻血が止まるまでにはそう時間がかからなかったが、股間を含む全身を出久に拭かれ、膝枕まで体験してしまった勝己はすっかり酒が抜けていた。隣で歯を磨いている出久は眠たそうだったが、勝己は目が冴えて仕方がなかった。
寝室に向かうと、隣合った布団が二人を出迎える。香が焚かれているのか、襖を開けた瞬間、甘く濃厚な香りが鼻を擽った。やたらと甘い香りだった。出久はそれになんとも思わないのか、平然とした顔で寝室に入っていく。
「この香、女将がやったのか?」
窓を少し開けながら言うと、僕だよ、と思ってもいなかった答えが返ってくる。振り返ると、出久と目が合った。勝己のことを真っ直ぐに見ている。その口元が強く結ばれている様に見えて、勝己は狼狽する。
「僕がやった」
もう一度、出久が繰り返す。やけに明瞭な発言だった。
「なんで」
勝己の声に、出久は怒った様な顔をした。そのまま片方の布団に潜り込むと、すっぽりと顔を覆い隠して
「なんでも!」
と叫ぶ。
はあ? と勝己が首を傾げていると、おやすみ、と叫ぶ様に言って動かなくなってしまった。
窓を少し開けたくらいでは薄れない甘い香りの中、一人放置された勝己は首を傾げるばかりだった。部屋に充満していた甘い香りをほとんど感じなくなってから、窓を閉めて自分も布団に転がった。柔らかく、清潔な香りがする。それまで感じていなかった疲労感が、柔らかい布団に引き出されたかの様に一気に睡魔がやってくる。瞼を閉じれば一瞬で眠ってしまいそうだった。
出久は布団に丸まったまま、身じろぎ一つしない。眠ってい流のかもしれなかった。おやすみ、と声をかけたが、返事はなかった。
スマートフォンでアラームをかける。明日は何をしようか。そんなことを考える間もないまま、勝己は眠りに落ちていった。
アラームが鳴って目が覚める。アルコールを飲んだせいか、少しだけ頭痛がする。のっそりと体を持ち上げると、隣の布団はすでに空だった。乱れているそこに触れると、すでに冷たい。出久が起きてからそれなりの時間が経過している様だった。
洗面所で歯を磨き、顔を洗ってから茶の間に向かう。いない。どこにいるのか。露天にでも入っているのかと脱衣所に足を向けてみると、扉の向こうから微かに水の跳ねる音がした。
着衣のまま露天に続く扉を開ける。床には出久が昨晩着ていた浴衣が丸まったまま放置されている。朝風呂をしている様だった。
からりと音を立てて扉が開く。露天の中に、生白い背中が見えた。
勝己が来たことに気がついていないのか、出久はこちらを向かない。その背中に声をかけた。今日初めて声を発するからか、掠れていた。
「出久」
その声に出久が振り返る。ゆらりと立ち上る煙の中、額に髪の毛を貼り付けた出久が振り返った。あ、とその唇が薄く開く。
「かっちゃん」
「おはよう」
「うん、おはよう。よく寝てたね」
扉を開けた体勢のまま会話をしていると、出久がこちらに体を向けて、手招きをしてくる。おいで、とその唇が動いた気がした。
思わず目を背ける。昨日はすぐに鼻血を出したから、そう長い時間出久の裸体を目にすることもなかった。今はダメだ。朝の光に照らされて、出久の体が昨日よりも鮮明に見える。照明に照らされている時も鮮やかで生々しい肌に恐ろしさを感じていたが、朝日に照らされた今の方が、よっぽど生々しい。体温がそこにあるのを、空気で感じる。空腹を唐突に強く感じた。茶の間に戻って、朝食を運んできてもらう様に連絡しなければならない。奥歯がジクジクと疼いた気がした。
目を背けたまま、扉を強く掴む。ネジが指の腹に刺さって、少し痛い。
「かっちゃん、おいでって」
出久の傷だらけの腕がゆったりと動く。腕にいくつもついている傷が、蛇の模様の様だった。深緑の瞳が、こちらを瞬きもせずにじっと見つめている。湯気越しの体ですら直視できないのに、どうして近くに寄ることができようか。
「……俺、浴衣着たままだし」
「脱げばいいだろ。今日、どうせ新しいもの用意してくれるんだし。濡らしたって構わないよ」
「でも、下着つけたまんまだからどっちにしろ立ってなきゃだろ。それならここでも変わんねえ」
「そしたらそこで脱げばいいじゃない」
出久の首が傾げられる。髪の毛から、水滴がいくつもその肩に向かって落ちるのが見えた。
ごくんとまた唾を飲み込む。鳥の鳴き声が聞こえてくる、清々しい朝だった。雲ひとつない青空が、頭上では広がっている。にも関わらず、出久からは夜の匂いが漂っている気がした。
かっちゃん、と出久の口が動く。ひとつひとつの発音がやけに明瞭で、心臓を鷲掴みにされた様だった。
「飯の準備、してもらってくる」
このままここにいたら、出久の言う通りにしてしまいそうだった。勝己が踵を返すと、出久の声が背中に追い縋ってくる。
いいじゃんか、かっちゃあん。
歯を磨いたはずなのに、口の中が粘ついていた。頬の肉を噛んで湧き出た唾を飲み込む。
自分の肌にまとわりついている夜の雰囲気を蹴散らす様に、早足で廊下を進んだ。
朝食の準備をしてもらっている間に、出久は自分の服に着替えて戻ってきた。細身のパンツに、シャツという軽装だった。一番上の釦が開けられていて、そこから覗いている鎖骨に視線がいく。普段はきっちりとした服装をしているからこそ、ちらちらと覗く肌色に視線がいくのは仕方のないことだった。
朝食を無言のまま食べ終える。食事が終わったことを伝えると、すぐに膳が下げられて、離れの中からはあっという間に他人の空気がなくなる。
外から聞こえてくる車の走行音と鳥の囀り以外に聞こえるのは、自分たちの呼吸音だ。
時折畳に擦れた音が耳に飛び込んでくる。静かな朝だった。風呂から戻ってきた出久の体からは、すっかり夜の匂いが落ちている。汗の様に、露天で流してきた様だった。
スマートフォンで時間を確認すると、まだ八時になったばかりだった。どこに行こうにも、まだ店は開いていないだろう。今日はどこに行こうか。そのままスマートフォンに指を滑らそうとした時、それまで庭園を眺めていた出久が振り返った。
「海に行かない?」
それに反論する理由もない。勝己は素直にそれに頷いた。
母屋に鍵を置き、二人は人気の少ない道を歩いて海まで向かう。
熱海という街は、海までがかなり近い。昨日散策した商店街の中にいても、潮の匂いを感じるほどだ。二人が宿泊している旅館から、歩いて十分もしない距離に海がある。
時々犬の散歩をしている地域住民とすれ違う以外、静かだった。
海に向かって足を進めると、それまで朧げだった波の音がだんだんと大きくなっていく。ざざぁん、と押し寄せる音に、つい大きく息を吸い込む。 濃い潮の匂い。肌が潮風に撫でられて、微かにベタつく。
出久は勝己の一歩前を歩いていた。隣に並ぼうとすると、その足が早足になるものだから、並ぶことは諦めてゆっくり歩いていた。
朝、風呂に入っていた出久の体からは、人工的な石鹸の甘い香りが肌から漂っている。昨日の寝室で焚かれていた香も甘い匂いだったが、それとは違う。言葉を選ばずに言えば、香の匂いはどこか性的なものを感じさせた。こちらの欲を煽ろうとしている様な。今、出久の体からは性的なものを感じ取ることは難しい。
砂浜をなぞる様にして作られている歩道を、辿って歩く。五分ほどして、ようやっと歩道の切れ目が現れる。砂浜に降りる階段を見つけて、出久が小走りで向かった。それまで横顔さえ見ることが許されなかった出久の顔が、勢いよくこちらを向く。
「行こう」
笑っていた。随分と楽しそうだった。
砂浜に降りると、それまでコンクリートを踏み締めていた足裏が、柔らかいそこに驚く。知っているはずの感触なのに、足首の沈む感覚に一歩が重たい。
ずんずんと砂浜を進んでいく出久の背中を、また追いかけるようにして歩いた。勝己は足首の沈む感覚にまだ慣れないというのに、出久はまるで歩き慣れた道のように軽やかに足を動かしている。
出久、と名前を呼ぶと、砂浜を進むスピードが少しだけ遅くなる。けれどそれも一瞬で、瞬きを数回繰り返すと、あっという間に元の速度に戻った。
一体なんなんだ。
勝己の腹に、苛立ちが溜まりだす。
昨日の夜から、出久が何を考えているのかわからない。言いたいことがあるなら言えばいいのに、言葉にしようとしない。言葉が足らない。そう思われるのは自分だと思っていたが、昨日今日に関しては、圧倒的に出久からの言葉が不足していた。
「出久!」
あんまりにも勝己を気にせずに歩き続けるものだから、腹がたって声を荒らげた。すると、ぴたりと前を突き進んでいた出久の足が止まる。振り返った出久の顔は、平坦な表情をしていた。紙に目や鼻を貼り付けたような、のっぺりとした表情だ。
出久、とまた勝己が声をかけると、出久が顔を背けて言った。
「そろそろ行こうか」
今度は来た道を戻り始める。勝己の横を通り過ぎる時、その視線は砂浜をじっと睨みつけていた。
海に来たいと言ったのは出久なのに、あっという間に帰ろうとすることも、わけがわからなかった。これではただの腹ごなしの散歩だ。海に行きたいと言ったくせに、砂浜をただ歩いただけだった。
階段を登る背中を追いかける。出久は振り返らない。ただ、砂浜を歩いていた時と同じように、足をちゃきちゃきと動かしている。
何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
元々緑谷出久という人間の全てが理解できたと思ったことは、これまでの人生の中で一度としてなかった。それでも、なんとなく、七割程度は理解できているという自負があった。今、その自負ががらりと音を立てて瓦解していく。わかっていると思っていたのは、勝己だけだったのかもしれない。
二日目は、特に何をしようとは考えていなかった。はてさてどうしようかと、旅館までの道を戻りながら勝己が考える。どこに行こうか。美術館でもいいし、遊覧船に乗ってもいい。出久は何がしたいだろう。
旅館の母屋で一度鍵をもらい、離れに戻った。荷物を手に取り、また母屋に鍵を預ける。
どこに行くかと勝己が口を開くよりも先に、出久が口を開いた。
「遊覧船に乗りたい」
勝己は行きたい場所も見たい場所もなかったから、それに頷いた。
遊覧船に乗り込む。人はそう多くはなかった。海が見えて、かつあまり人がいない場所の椅子に腰掛ける。二つ並んだ座席は思ったより近く、肩がぶつかった。出久の体格はそういいわけではない。普通の成人男性くらいだろう。勝己は個性の関係上、上半身、特に肩周りを鍛えているから、一般的な体型よりも大柄だった。一般的な体型であればぶつからないだろう距離感に置かれた椅子は、勝己にとっては狭かった。
船が揺れるたび、互いの体がもたれる形になる。肉の重さを感じるたびに、じわりと汗が滲み出した。
「潮の匂いが濃いね」
「おう」
すん、と隣で鼻を鳴らす音が聞こえる。出久がいる体の感覚が鋭くなっている様だった。微かな音でさえ、鼓膜が察知していた。
「遊覧船、乗りたかったんか」
ううん、と唸り声が一つ。出久の言葉を待っていると、鳥が急降下してきて驚く。声が出そうになったが、奥歯を噛むことでなんとか堪える。人馴れしている様で、餌をもらいに降りてきた様だった。勝己が何も餌を持っていないとわかると、さっさと上空に戻っていってしまう。あの鳥の名前は確か、うみねこだ。至近距離で見るのは初めてだった。普段目にする鳥と言えば、カラスか雀くらいだ。あんな顔をしているらしい。
一人感心していると、唸るのをやめた出久が口を開く。口を開いたタイミングで、遊覧船が波で大きく揺れた。勝己の体に、出久の体がぶつかる。そのまま胸元に頭が押しつけられる。偶然のそれに、勝己は思わず舌を噛んだ。勢いよく舌を噛んだせいで、鉄臭さが口腔内に広がっていた。
「ここでなら、ゆっくり話ができるかと思って」
「……別に部屋でもできただろ」
「うん、そうなんだけどね」
苦笑が返ってくる。
「なんか、緊張しちゃって」
「俺相手に?」
「かっちゃん相手に」
ふふ、と笑い声が聞こえてくる。胸元にもたれたままの頭に視線をやると、こちらを見上げていた緑の瞳と視線がぶつかった。ばちん、と音がしそうなほどだった。視線をそらそうにも、すでに遅い。じっと見上げてくる瞳から視線を逸らすことができない。
「本当は、朝の海で話そうかとも思ったんだけど、ちょっとだけ、人通りが気になって」
「こっちの方が人いんだろ」
勝己の言葉に、出久の頭がさらに押しつけられる。そうだけど。出久の声が、潮に飲まれそうにながらも、勝己の耳に届く。
「こっちは、みんな海に夢中で、僕らのことなんて気にしないと思うから」
「ふうん」
海の人通りが気になってと出久は言ったが、そう人通りは多くなかった。歩道にランニングや散歩をしている人が時折通るだけで、ほぼ無人だったはずだ。つまり、人通りが気になったというのは後付けの理由なのだろう。朝、海辺に人がいたら気になりはするが、砂浜に降りているその声は聞こえない。わざわざ聞きに行こうと人が近づいて来なければ、他人に聞こえる恐れもなかった。
出久は一体、何に緊張しているのか。
他人に対してしっかりと線引きをしている出久が、唯一それを気にしない相手というのが自分だと、勝己は思っている。その勝己相手に緊張をしている。皆目見当もつかなかった。
遊覧船が波に煽られて揺れる。うみねこの鳴き声が、潮に乗って船内に響いている。
「かっちゃんってさぁ、彼女いたっけ」
波とうみねこの鳴き声の隙間に、出久の声が滑り込んでくる。あまりにも滑らかなそれに、反応が遅れた。
「ね、教えてよ」
波音にかき消されてしまいそうな声量だった。けれど、出久の声というだけで、勝己の耳にはなんの障害もなく届く。
「いねぇけど」
返答しながら、神に祈りたい気分だった。
もしもここで出久が自分の恋愛話なんて始めたら、勝己はそのまま海に飛び込んでしまいそうだった。
恋愛感情を抱いている相手との旅行中、浮かれて風船の様に膨らんでふわふわと浮いている心を薄刃で刺される様なものだ。顔に出さない様にしようとしても、出ない訳が無い。思い出になるはずの旅行が失恋旅行になるなんて目も当てられない。
「そっか」
遊覧船がまた揺れた。出久の体が離れていってしまいそうで、思わずその肩に手を回した。ぐっと抱き寄せる。出久の骨の感触が皮膚に伝わってきて、勝己はじわりと体温が上がるのを感じた。悪いと言って、肩に回していた腕を離すが、出久はもたれたままだった。
「僕さぁ、ずっと好きな相手がいるんだけど」
唐突に出久の口が滑る様にして動き出した。その言葉を理解した瞬間、すっと体温が一度下がった。
「その相手が自分のことをどう思ってるのかわからなくて、何もできないでいたんだけど、勇気を出して、行動を起こそうと思ったんだよね」
出久が話すと、その振動が胸に伝わってくる。微かなそれが、現実たらしめている。夢であってほしいのに、夢ではないと実感させられてしまう。
へえ、と返すのがやっとだった。
失恋旅行になったらと考えたのが悪かったのだろうか。言霊、という単語が頭の中に浮かんでくる。思わなければよかったと後悔しても、もう遅い。出久の声が続く。
「昨日、行動を起こしてみたんだ」
その言葉に拳を強く握った。
なんて酷い男だ。勝己と旅行に来ているくせに、違う人間のことを考えていたらしい。最悪だ。暴力が肯定されることなどどの時代にもありえないだろうが、こんな酷いことを言ってのける男を殴りつけることくらい、許してもらえないだろうか。
胸元に擦り寄っている出久の頭を見下ろす。腹が立つ。何を考えて、勝己に寄り添っているつもりなのだろう。
「そうですか」
硬い声が口から落ちる。これ以上、出久の恋愛話なんて聞きたくない。出久相手に使うことのない敬語が口から飛び出てくるくらいに、感情が乱されている。叫び出したい感情を、奥歯を噛み締めることでなんとか堪える。
「でも全然伝わらなくて。僕がわかりにくかったのかもしれないけど」
そこで言葉が途切れる。深いため息が出久の口から溢れた。出久が自分にもたれていることに腹が立って、少し身を捩る。退けと言うこともできたが、それはなんとなく勿体無さを感じてできなかった。
それまで勝己に体重を預ける様にしていた出久の視線が持ち上がる。勝己が身を捩ったせいで頭の位置がズレたのか、咎める様な視線を向けてくる。そのまま頭を退かせばいいのに、ふんと鼻を鳴らして頭をずらした。
「脈ねえんじゃねえの」
すっかり気分が盛り下がっていた。まだ一泊残っていたが、勝己は今すぐにでも車に飛び乗って帰りたくなっていた。別の誰かを好いている、片思い相手と同じ部屋で一晩過ごしたくない。こうして恋愛の話をされた以上、聞きたくもない相手とのやりとりを聞かせられることになるかもしれないのだ。嫌すぎる。胃がむかつきを覚え始めた。決して波のせいだけではない。
「ううん、どうだろう。脈、ないかな?」
胸元にあった頭が持ち上がった。離れていったのに、出久の頭があったそこだけが熱を帯びている。上体をすっかり起こした出久が、勝己の顔を正面から見つめていた。
「知らねえ」
ぶっきらぼうに返事をする。
勝己はふいと顔を逸らしたが、頬に出久の視線を強く感じていた。まるでそこに視線だけで穴を開けようとしているみたいだ。あんまりにもしつこいそれに負けて顔を正面に戻すと、視線がぶつかる。
「僕は脈、あると思うんだけどなあ」
出久の声に、唾を吐きたい気分だった。
熱海をぶらついている間も、気分は最悪の一言だった。
遊覧船を降りてから、出久は一言も好いている相手の話をしなかった。さっきまであんなにしつこく話をしていたのに、忘れてしまったかの様だった。
無邪気に動き回る出久の姿に、苛立ちと胸の戦慄きを同時に感じて、頭がおかしくなりそうだ。感情の整理がつかない。
昼食に海鮮丼を食べたのに、少しも味がわからなかった。出久は美味しいと言って大口で食べていた。本当は勝己も、新鮮な海鮮に舌鼓を打っているはずだったのに。あんな話をした出久のせいだと、恨みがましい視線を向けた。
離れに戻って夕飯を食べた。出久は朝の無言が嘘の様に舌をべちゃくちゃと動かしていた。よくそんなに舌が回るなと感心するほどだ。食べ終えて、膳を下げられてからも、出久の喋りは止まらなかった。
機嫌が良さそうな出久とは対照的に、勝己は重たい気持ちのままだった。
出久は大量に土産を買い込んでいた。大抵は友人、職場へのものだろう。その中に、好いている相手へのお土産を買っていたらと思うと、腹がたつ。自分と一緒にいるくせにと、嫉妬で頭を掻きむしりたくなる。そもそも出久の好いている相手は、どんな人間なのか。仕事人間である出久は、教職をしていない時はヒーロー活動に精を出している。ということは、同業だろうか。同業だとしたら、誰だろう。いくつも頭の中に顔が浮かんでくる。そもそもこいつは女が好きでいいのだろうか、男の可能性もあるのだろうか。頭を抱えてしまう。同業なのだとしたら、教えてくれたっていいじゃないか。出久の一番近くにいるのは自分だろうと思い込んでいた勝己は、勝手に裏切られた様な気分だった。
勝己の心にはどんよりとした重たい雲がかかっているというのに、その雲をかけた張本人である出久は少しも気にした様子がない。腹立たしくて、出久が楽しそうに話しているのに、少しも会話が耳に入ってこない。部屋の隅に置かれた土産屋のビニール袋が視界に入るたびに、苛立ちが胃を重たくさせた。
思わず舌打ちが飛び出す。飛び出した瞬間胃しまったと思ったが、幸いにも喋り続けている出久の耳には入らなかった様だ。
ああ、とかうう、とかそんな曖昧な相槌と呼ぶのも烏滸がましい相槌を打っていたが、出久の口から好きな相手が、という言葉が出てきたのをきっかけに我慢の限界だった。床とくっつきそうだった尻を勢いよく持ち上げて、茶の間を出る。
「どこ行くの?」
出久の声が背中を追いかけてくるが、それには振り返らずに返答する。
「風呂!」
「僕も行く!」
後ろで慌ただしく出久が立ち上がる音がしていた。無視して廊下を進んだ。好きな相手の話なんて聞きたくない。
出久に追いつかれまいと早足で廊下を進み、脱衣所に飛び込む。荒々しく服を脱ぎ捨てた。扉を開けながら、脱ぎ捨てた服のことを考える。苛立ちのまま脱ぎ捨てたはいいが、風呂から出たらあれを畳んでカバンにしまわなければならない。散らかして少し気分がスッキリしたが、結局片付けるのは自分だと思うと、初めから畳んでおけばよかったと後悔が芽生えた。
勝己が体を手早く洗っていると、扉の向こうから走り込んでくる音が聞こえた。どうでもいいところで負けん気が発揮される。出久が露天にやってくるまでに体を洗い終えて風呂に浸かってやるという、どうでもいい闘争心が芽生えた。苛立ちの行き先がなく、こんなことを考えているのかもしれない。
猛然と体を洗い、肌にまとわりつく泡を流していると、扉が開いた。全裸の出久が入ってくる。視界の端に肌色が見えて、一瞬心臓がぎくりと動きを止めた。すっかり頭は洗い流してあったが、あらぬところが反応しそうになり、頭から湯をかぶる。滝の様に降り注ぐ湯に呼吸が苦しくなる。頭をもたげかけた下半身が、薄くなった酸素で平常に戻る。僅かに花開きそうだった欲も、すっかり萎んでいた。
露天にざぶりと体を沈めたタイミングで、出久が勝己の傍に寄ってきた。
「僕も行くって言ったのに」
膨れ面をしている。これが出久ではない他の旧友がやっていたのなら、気持ち悪いとの一言で終わりだ。ただ、自分が好いている相手だから、可愛いと思ってしまう。恋をした方が負けだと誰かが言っていたが、それを痛感させられている。好きになってしまえば、相手のどんな挙動も受け止められるようになってしまう。勝己は頬の肉を噛んだ。
視界いっぱいに出久の肌色が広がっている。
「目ぇ腐るわ」
「ひど」
そんな言葉を吐きながらも、勝己の瞳は出久の胸元に釘付けだった。下半身はタオルで覆われている。シミひとつない白い布に覆われたそこが晒されていたらそこを凝視していただろうが、そこが見えないとなれば胸元を見てしまうのは仕方のないことだった。
まだ見たいと駄々をこねる眼球を、えいやっと勢いよく顔を背けることで視線を引き剥がした。
出久は勝己と会話することをやめて、体を洗うためにさっさと立ち上がる。
石を叩く水音に、頭がぼんやりとしてくる。
今日は酒を入れていないのに、アルコールを飲んだ時のように視界がふやけている。湯気のせいにしては、露骨に輪郭が曖昧だ。
勝己の、叶わないことを悟った恋心が、しまっていた小さな箱から溢れ出して全身に広がっているのかもしれなかった。それを吸収した細胞たちが、ふやけて境界が不鮮明になっているのだとしたら、視界がふやけているのも納得だった。
ちゃぽ、と水面の揺れる音がする。視界に入り込んでくる出久の肌色から逃げる様に、視線を緑に逃した。
露天の周囲は木々が鬱蒼と茂っており、少しの隙間もない。上が覆われていないことを考えなければ、小さな箱庭だ。防音の個性がかかっていると女将は言っていた。ここで出久に襲い掛かったとしても、誰にも見られることはないし、音を聞かれることもない。指先が疼く。ここで出久を押し倒したら。濡れた前髪が落ちてきて、視界を遮る。そんなことを考えるなと嗜められている様だ。右手で髪の毛を掻き上げる。顕になった額を夜風が撫でた。濡れている肌は、あっという間に冷やされていく。体は湯に浸かっているから暑いくらいなのに、水面から出ている肩から上は、対照的に冷えていた。昼間はあんなに夏の空気が我が物顔で存在しているのに。こんなに夜が冷えるのは、海が近いからなのだろうか。
目を閉じる。出久が体を流している音が聞こえてくる。随分とゆっくり体を洗っている。高校の時はどうだったろう。覚えていない。当時は大浴場で、大勢がほとんど同じ時間帯に洗い場にいたから、周りを気にする余裕なんてなかった。他人と肌がぶつかるのが嫌で、手早く体を洗って、まだ人の少ない時に湯船に体を滑り込ませていたのだ。勝己が風呂を出る頃に出久はやってきていた気がする。轟や飯田といった、出久と親しくしていた人間と連れ立ってきては、話しながら体を洗っていた様な気がする。
出久と一緒に、二人だけで風呂に入ったことがあるのは、本当にまだ幼い、勝己と出久が五歳になった頃が最後な気がする。出久に個性が出ず、馬鹿にしていたあの頃。普通に考えれば自分を馬鹿にしてくる相手を遠ざけようとするはずなのに、出久はそうではなかった。勝己の周りをうろちょろと動き回って、それが当時は鬱陶しかった。小学校、中学校と成長して、勝己が出久を遠ざける様になってもそれは変わらなかった。高校になって、それに違う感情が少しずつ混ざり始めた。
今思うと、出久が勝己から離れていかないでよかった。出久が離れていったら、勝己はどうなっていただろう。
お互いの人生に大きく関わっている相手だった。そこに恋愛感情が混ざっていなくても。
どうしたって、勝己の人生に緑谷出久という人間は切り離すことはできない存在だった。
足音が聞こえる。濡れた石の上を、ゆっくりと歩いている。それまで静かだった水面が揺れて、勝己の肌に小さな波が当たった。視線は緑に逃したままだが、視界の端に肌色がちらついた。
湯に浸かった出久の口から、ふう、と吐息が漏れる音がする。
しばらく黙り込んでいた。時折、どこかで水滴が地面に落ちて濡れた音を立てる。
静かだった。なにも考えず、熱い湯に体を沈めているのにちょうどいい静寂だった。
ずっとこのままでいたい。
そう勝己が考えたと同時に、滑らかだった水面が大きく揺れた。それまで身じろぎせずにじっとしていた出久が、体を滑らせる様にして勝己に近づいてきていた。
やめてほしい。ずっと我慢しているのだ。
勝己は舌先を前歯で噛んだ。ちりりとした火花の様な小さな痛みが、噛んだ場所を起点に全身に広がっていく。湯に浸かって解けていた筋肉が、出久の動きに合わせて揺れる水面が肌にぶつかるたび、緊張していく。
出久の無防備さに腹が立つ。どうしてそんなに無防備にも自分に近づいてくるのか。
昔からそうだった。こちらが苛立ちを隠していないのに、それに気づいていないのか知らん顔で近づいてくる。いつもそれに、肌がざらつく様な感覚を覚えていた。今だって、勝己に近づく必要もないのに無遠慮に近づいてくる。そんなに近づく必要なんてないのに。パーソナルスペースという言葉を、こいつは知らないのだろうか。
細く息を吐き出した。腹の底で唸り声を上げている、自分の感情を落ち着けるために。勝己がどんなに乱暴な感情を出久に抱いているのか、思い知らせてやりたい気持ちと、このまま隠しておかなければという禁欲的な思考が血流に乗って全身を駆け巡っている。
ちゃぽ、と水音がする。いつの間にか、出久が隣にやってきていた。
「……なに」
不機嫌そうな声が口から飛び出す。
透明な湯の下で、出久の肌色が揺れている。
それを見ていたら、胃が重たくなって思わず拳を握りしめていた。
「昼間に好きな人がいるって話、しただろ」
またその話かと舌打ちが出る。聞きたくない。緑色の瞳が自分を見ていることにすら腹が立って、顔を背けた。
返答をしていないのに、出久の口が動く。勝己の返事なんて、欠片も期待していない様な仕草にも苛立つ。ただの壁打ちじゃないかと、大きく膨らんだ苛立ちは、出久の口から溢された言葉で一気に萎んだ。
「君だって言ったら、どうする」
は、と勝己の唇から細い声が漏れた。
一体なにを言っているのか。
目の前の男をじっと見つめる。冗談を言っている顔ではなかった。
「ねえ、どう思うの」
硬い声だった。勝己を見つめる瞳には、怯えが滲んでいる様だった。ゆらりと揺れる緑色は湯気のせいだけではない。いくつもの感情が出久の中に同時に存在していて、それが浮き上がっては沈み、別の感情が滲み出ているからだった。
ゆらゆらと不安そうに揺れている瞳を見ていると、嫌でもわからされてしまう。出久が勝己のことを、本当に好きなのだということを。
ごくりと唾を飲み込む。湯に長時間浸かっているだけではない火照りが肌を赤くしていた。
出久は勝己から視線を逃さない。恋愛感情を打ち明けたのにも関わらず、少しも不安の見えない表情に驚いて、すぐに脈があると思うと言っていたことを思い出した。勝己が必死になって隠せていると思っていた恋愛感情は、出久には筒抜けだったわけだ。なんとも間抜けだ。どうせ出久は自分のことを好きにならないだろうと臍を曲げていたのも、きっと出久は気が付いていたわけだ。
情けない。
両手で湯を掬い、顔を叩く様にして濡らした。熱い湯が肌の上を滑り、外気があっという間に冷やしていく。その落差に、ぼんやりと滲んでいた頭がすっきりした。
深く息を吸い込む。近くに駐車場があるからか、排気ガスの酷い匂いがした。観光をして、ようやっと戻ってきた車があったのだろう。長年抱え込んできて、発酵していてもおかしくない恋愛感情を吐露するにはぴったりなロケーションかもしれない。自分たちの間に、ロマンティックさなんていらない。今までずっと、泥と汗と、そういった汚らしいものに囲まれてきた。今更綺麗なものに見せようとしたって、意味がない。
下腹にぐっと力を入れて、口を大きく開けた。
「俺のがずっと好きだった!」
個性の関係なのか、野外にも関わらず声が反響している。エコーとなって自分の声が周囲に響いているのが、馬鹿馬鹿しくて恥ずかしくて、同時に声に出してもいい事実に嬉しくなる。
出久が瞬きをした。睫毛に水滴が付着していて、瞬きを繰り返すたびに、それが頬を滑り落ちていく。
くく、と喉を震わせた出久が、口を開く。その頬が赤い。
「ちなみにいつから? 僕はね、アーマーをもらってから」
緑の瞳が濡れている。涙なのか、湯気でそう見えているだけなのかわからない。
両手を持ち上げると、水面がざぱりと大きな波を立てた。その顔を両手で引き寄せる。濡れた髪の毛が指に絡む。右手は出久の後頭部に、左手は、出久を抱きしめてしまったら我慢ならなそうで、強く拳を握りしめた。
出久の顔を引き寄せる。鼻先がぶつかる位置で、一度引き寄せる手の動きを止める。このままキスをしてもいいだろうかと不安で出久の顔を覗き込むと、面白そうに笑ってその瞳が瞼に隠された。馬鹿にされている様な表情に腹が立った。握りしめた拳も、腐らせるだけだと思っていた恋愛感情が成就した喜びで手のひらが痛いほどだ。
なにも言わず、身を任せるままの出久の唇に、自分のそれを押し付けた。
初めて触れた他人の唇は濡れていた。強く押し付けた唇の感触と共に鼻腔に感じたのは、出久の体臭ではなく、排気ガスと、自分の個性が暴発した焦げた香りだった。




















