今でも遠い夢のように思える。
「現代の医療では、完治が難しく、症例も少ない難病です。薬で痛みを和らげられますので、これまで通りの生活は送れます。ですが……」
当たり前が崩れ去るのは、初めてじゃない。
家族を亡くし、家がおかしくなった時に知った。そういうこともあるんだって。
それは友達だったり、家族だったり、身近な人間が突然の不幸によって姿を消してしまうことは何も不自然なことではない。
移ろいゆく生活の中で、十分にありえること。
ただ、それがまさか自分自身に起こるなんて誰も思わないだろう。
「高校卒業までの四年。それが、一つの山場になるでしょう」
隣りでお母さんが顔を歪め、涙を流した。
それは確かに現実なのに、突き付けられた重たい事実を、どこか絵本の中で起こっているフィクションのように捉えている自分が居る。
思った事と言えば、父の葬式でも泣かなかった母の、生まれて初めて見る泣き顔に『この人も泣くんだな』って、そんな的外れな感慨だ。
✧・゚: *✧・゚:*
予兆は、実は結構前からあった。
中学一年の夏くらいかな、お兄ちゃんが上京してから程なくして、私は体調を崩すことが多くなった。食べ物の味がしなくなったり、頭痛や吐き気、胸の痛みに息切れ、それぞれは耐えられない程のものでもなかったが、明らかに異常な頻度で起こるので、これはおかしいと思って一度お母さんに病院に行きたいと言ったことがあった。
そんな私にお母さんが放ったのは、甘ったれるなという言葉。
親に却下されたらどうしようもない。中学生の私にひとりで医者にかかる術などなく、私は諦めて、我慢することにした。
けれども、しんどいものはしんどい。
体調は日を追うごとに良くなるどころかどんどん悪くなる。保健室で寝たくても、一度や二度ならまだしも、何度もそれが続くと確実に親に連絡が行って、また怒られる。
家に帰っても同じだ。
体調が悪いから眠ろうと思っても、ずっとそうしていると怠けていると思われる。
地獄だった。
友達からの誘いも断る事が多くなると、人間関係も上手くいかなくなって、私は教室でもずっとひとりだった。
私の世界に、私を助けてくれる人は居なかった。
仮に誰かから心配されても、それすらも偽物に思えて素直に受け取れない。
そうして一年と少し経った頃、時期的には中学二年の六月。梅雨に入って急に気温の湿度が上がったことにより、私の体は限界を迎えた。
体育の授業中に倒れて、病院に救急搬送された。
もう自分がしんどいのか、そうでないのかも分からず、ふとプツと音が鳴ったような感覚の後に、気が付けば目の前には病室の天井があった。
その後のことは、お察しの通りだ。
余命四年。
そこまで不吉な数字にしなくていいだろうと、自分の間の悪さに悪態を付きながらも、どこか清々した気持ちでもあった。
今まで母が言っていたことが、全て否定されたのだ。
上手くいかなかったのは病気のせいで、私が母の言う”甘ちゃん”だったからじゃない。
母のことを恨みはしない。
嫌いだとも思わないさ。
どれだけ「ごめんな」と言われても、少しも響かないってだけ。
病気のことをちゃんと自覚しても、涙は一滴も流れなかった。それは私が強い人間だからじゃなくて、単にもう泣き疲れて涙なんて枯れてしまったからだ。
「今日の夜なに食べたい?なんでもゆってええよ」
変化というと、母の態度が明らかに優しくなった。
キツイ言葉をかけてくる事はなくなったし、私の言葉を遮ることもなくなった。この人もこの人なりに責任を感じてるんだろう。何せ、この人が最初から私のSOSを聞いて病院に連れていっていれば、こんな事にはならなかったのかもしれないのだから。
学校の皆も、それなりに心配してくれるようになった。
少なくとも露骨に険悪な雰囲気になることはなくなったし、気遣われるようになっただけでもマシというものだ。
腫れ物のように扱われることに、思う所がないかと言えばウソになるけど、それを言った所でどうにもならない。
兄も、私の病気のことを知って、週に一度は帰ってきてくれるようになった。これまで放っておいたこと、自分一人で家を出たことを謝られたっけ。
しかし、私の心はどこまでも冷めきっていた。
母の優しさも、兄の心配も、クラスメイト達のそれも、全部……全部。あまりにも今更過ぎる。どれだけ受け取っても、全部”偽物”なんでしょって思えて、そんな自分すら嫌になって余計に辛くなる。
発作で胸が痛くなるたびにトイレで苦しみながらお薬を飲んで、こんな事ならいっそさっさと死んでしまえたらとすら思った。
思いからの涙は出ないのに、痛みによる生理的な涙ばかりが流れる。
手元にある半分以下にまで減った薬は、きっとそれなりに高いものだ。
それを見て、私は、自分が酷く脆い、何の意味もない存在に思えた。
何かを生み出すこともなく、薬という形あるものから、誰かの気遣いや心配といった形のない貴重な物を無駄遣いする。
医者は、必ず四年以内に死ぬとは限らない。
十年、二十年と経っても元気に生きてる人は居ると言っていたけれど、果たして私はこんな状態のままで長生きしたいのだろうか。
「……そっか」
この時、私は思った。いや、理解したと言った方がいいのかもしれない。
「私……もう、ここに居たくないんだ……」
上京を決意したのは、この時だった。
■
全てが嫌になる、というプロセスはきっと全ての人間がいつかは踏むプロセスだ。
その日、丁度兄が帰ってきたタイミングで私は打ち明けた。
「……東京の高校に進学したい」
そう言った時、母は久しぶりにあの低く怖い声を発した。
「あんた……自分が何を言っとるのか、分かってるん?」
「うん……」
語気が強くなる。少し前までは、怖くて仕方がなかったそれが、今は不思議とそうでもない。まるで何かに憑りつかれたような、何かを怖がるような色が見えて、そういう本質が見えてしまえばもうどうってことなかった。
「彩葉。私もこんな事言いたくないけどね。あんたは病気やねん。誰かの助けなしじゃ、二日も三日も生きられへん。薬がなかったら、一日中まともに過ごす事もままならん」
「わかってる」
「わかってないやろが!!!」
母が声を荒げた。
今までにない感情的な怒声にも、私は動じない。兄も成り行きを見守るつもりらしく、止めに入る様子はない。或いはかける言葉がないのだろうか。どっちでもいい。兄がいるタイミングを選んだのは、この人が現在東京に住んでいて、私の計画の足掛かりになると思ったからだ。
「私には幾らでも迷惑かけたらいい。食いたいもん食わせたるし、買いたいもん買ったるわ。でもな。もうすぐ死ぬいわれてる娘が、そんな遠い場所に行きたい言うても認められるわけないやろ?」
その間にも、母のマシンガンみたいなお小言は続く。
「第一、どうやって生きていくつもり?まさか朝日の所で世話になるとかいわんやろな?」
「母さん、俺は……」
「一人暮らしする。薬だって、向こうの病院でも貰えるらしいし、こんだけ向き合ってたら大体の事は分かるようになった。誰にも迷惑かけへん」
兄の言葉をさえぎって、きっぱりとそう言い放つ。
痛み止めを飲めば発作による胸の痛みは収まるし、それ以外の症状は二つ三つほどの薬を飲む事で予防できる。事実として、常に誰かの介護が必要な訳じゃない。
「どうやろね。あんたみたいな甘ちゃんに、そんな風にできるとは到底思えへんけどね」
甘ちゃん。
私を呪いみたいに縛り付けてきた言葉。
「またそれ……お母さん、結局私にどうして欲しいん?ここに居て欲しい?なんで?目の届かん場所で誰かに迷惑かけられると困るから?それとも、今更親らしく死なれるのが怖いとか思ってる?」
もう、うんざりだ。
そんなの私が一番わかってるんだよ。
普段は決して口から出ないような言葉が、ここに来て次々と表出する。
「自分が甘ちゃんだなんて、そんなの私が一番分かってるよ!ご飯も全然喉を通らなくて、腕とか足がどんどん細くなって……出来ることは減ってばかりやのに、使う薬の量はどんどん増えていく。誰かに心配されても、それすら素直に受け取れない」
母は何も言い返さない。
兄も黙っている。
それを良い事に私は心の中にしまってあったものを無造作に投げまくる。
「そんな日々が、辛くないわけないじゃん!自分が生きてる意味のない人間だって、常日頃から突きつけられて……もう、限界。嫌。誰も、私の事を知らない場所に行きたい。どうせ死ぬなら……」
そして私は、決定的な言葉を吐いた。
「誰も居ないところで、一人で死にたい」
こんなに大声を出したのは、久しぶりだ。こうして誰かに本音を言えれば、少しスッキリするかなって思ってたけど、そんな事は無い。
苦しみを言葉にして誰かにぶつけたところで、残るのは後味の悪い感触だけ。
「そう……か」
母は、先程までの勢いが嘘のように消沈した。
リビングを重苦しい沈黙が支配する。
時計の針が進む音があるから、きっと時間は流れている。言っちゃったな。しょうがない。自分のやった事の意味を自覚しては、言い訳ばかりがぐるぐると回って、しかし言ったことは取り返せない。
もしもこれで母が私に愛想を尽かして放逐してくれたら万々歳だが、きっとこの人はそんな事はしないし出来ない。
――最低だな。私……
そう心の中で吐き捨てると同時に、リビングの沈黙が唐突に破られる。
「なあ、彩葉。お前にも……色々と思う所があるのはわかる。いや、分かっちゃいけないか……俺も同罪やしな。こんな事言うのは、虫が良いってのも分かってる……でもさ」
兄だった。
ここまで何も言わなかった兄が、そう口にする声は酷く緩やかで優しく感じられて、そこに含まれた悲しさが、私の胸にすっとしみる。
続く言葉はなんだろう。何を言われるのだろうか。分からない。ワガママ言うなと怒られるのかな。
お兄ちゃんに怒られるのは嫌だな。
そんな風に色々と考えていたのに、兄はそのどれとも違う事を言った。
「顔くらい、見てやれよ」
「……え?」
そう言われて初めて、自分がずっと俯いていたことに気付く。
顔を上げて前を見ると、そこには母の顔があった。生まれてからずっと見てきた家族なのに、そこにあったのは一度も見た事が無い表情だった。
まるで道に迷ってしまった子供みたいにも見えるし、寸前で涙を耐える強がりにも見える。
とにかく、母のそんな顔を見るのは初めてだった。
「……なによ。それ……」
母の涙を見るのは初めてじゃない。
病気が発覚した時にも一度だけ見た。しかし今回のそれは理由が全然違うし、ましてや私の言葉が母を泣かせるなんて、夢にも思った事が無く、少しも現実味がなかった。
「なんで、母さんが泣いてんの……?いつもなら、怒って、理論武装で言い返して……ボコボコにしてくる所でしょ……やめてよ。そんな事されたら、私……」
まるで私が悪いみたいだ。
そうだ。さっき私はなんであんなことを言ったんだ?
カっとなって、思った事全部言ってやりたくなったのは覚えている。どうせ冷え切った家族仲だと、見限っていた気持ちがそうさせた。じゃあこうして誰かを泣かせたかったのかと言うと、そうじゃないんだ。
分からない。私は―――
「……上京の事は、考える。彩葉がそうしたいんなら、そうしな……」
母は最後にそれだけ言って、リビングを出て行った。
そこでようやくやってしまったと感じたけど、もう遅い。横を見ると、兄は私を責めるでもなく、ただ複雑な思いを絡ませた目をテーブルの上に落としていた。
それから一年後。
私はあれ以降、一度も母とまともに話せる機会を得られないまま、自らが望んだ東京へと旅立った。






















