SGJH in the bar 02 @Soul
ラッシュアワーのように騒がしかった脳内の全部の音が止まって、はい、というその低い声だけが鼓膜を支配した。それは僕がさっき落とした僕のスマートフォンで、それを差し出している骨っぽい大きな手はユンギさんの手で、よく知っている、だけど、
「ほら、」
受け取ろうとしない僕を覗き込んできた。
肩を掴まれたから我に返った。
「おい、」
「…何でいるんですか、」
やっと言えたのがそれで、無礼だったけど、とにかく訊きたかったのはそれだったから仕方がなかった。慌てて挨拶を付け加えたら、苦笑いされて、
「行くって言ったよ。聞いてない?」
彼は僕の胸にスマートフォンを押し付けて、目を開けたまま寝てんのか?と呆れた。
「聞いてません」
会社から打ち上げのサプライズと出欠席について訊かれたので、行けたら行く、と答えたらしい。
そういうのって大概行かない、って方にカウントされるんじゃないだろうか。
ユンギさんのマネージャーとドライバーがウェイティングルームに下がったのが見えた。どうやら、たった今到着したばかりらしい。
「ありがとうございます。来てくれて」
「あ。俺が先にツアーのスタートおめでとう、って言おうと思ってたのに」
わざわざそんなこと、いいのに。テキストもくれたし、楽屋にお花と差し入れも。
僕は嬉しくて言葉は出ないけど笑顔になってしまって、そしたらユンギさんも笑って、ここだけの話、その笑顔が子供みたいでとても可愛いと思ってしまった。
「ありがとうございます。大きなトラブルもなく順調でした」
「確かに。俺もそう思う」
「え、」
「観たから」
「え?」
「観てた」
関係者席にはいなかった。招待はしたけれど入るとは聞いていない。そもそも僕は見間違えない。ゲストの確認は昨日した。ユンギさんの名前はなかった。だからセキュリティの手配はしていなかっただろうし、どういうことだろう。観ていた、って?
「分からなかった…、僕は知らなくて、」
そんなことってありえない、メンバーが入るのに僕が聞かされていないなんてありえない。説明が欲しい。マネージャーを探した。変わらず打ち合わせを続けている。なんでだよ。
「言うなって言ったから」
「え?」
「俺が今日観ることをおまえに知らせるなって頼んだから」
「どうして!」
大声を出してしまった。
周囲の人たちが振り返り、僕と彼を見てそれから遠巻きに微笑まれた。
ユンギさんの存在が良くも悪くもみんなに気を使わせ、持っているオーラが結界を張り、僕らは二人で会話することができた。
「知ってた方が良かった?」
グラスを持った手で指差されて、からかわれていることに気がついた。笑わないように目を逸らし、おめでとう、とカウンンターに放置していた僕のシャンパングラスに勝手に짠した。意地悪だ、ロックで何を飲んでいるのだろう、以前ハマっていた日本酒まだ好きなんだろうか。
「…それは、」
僕が答える前にもう笑っている。責めようとしたら目が合って、彼は僕をじっと見ていて、わずかに微笑んでくれて、それで何も言えなくなってしまった。痩せたと思う。愛用の眼鏡が大きく見える。そして、肌は明け方の新雪のように滑らかに透き通っていて、唇だけが紅い。
「俺がいる、って知ってた方が良かった?」
きっと髪は短いままだろう。キャップを深く被っていて、襟足はフードで隠れているからわからない。
グラスを軽く包み込むようにしている骨ばった指には複数の切り傷のうような跡が残っている。
もしも二人だけで会えたなら、話したいことがあった。だけど、時が過ぎた今、言うべきではないことはわかっている。
彼は僕のことを、大切な弟だと言った。キスをしたのはそうしろと言われたからだ、と言った。
「知っていたかったです」
「…意外だな」
「知っていたら、あなたのために歌うことができたから」
結論は出たのに、僕は正面から正当な理由で100%フラれたのに、こうしている今も、何かの間違いで、天変地異で、タイムリープで、最悪夢オチで、それを覆そうとしている。
「おまえって普通にそういうこと言うタイプ?」
「言うタイプです」
「へー」
「何で赤くなってるんですか、」
「ジョングクに刺されるぞ」
「僕が?ヒョンが?」
彼の立場も心情も無視して、弟であることを利用してわがままを通そうとしている。
「俺かおまえか、二人まとめてか」
ジョングクの名前を出して僕を敬遠している。距離を取ろうとしている。今日は流石に特別な夜で、僕にとって人生の大きなフェーズにあるから、イレギュラーだから、きっとこれは彼の優しさで会いに来てくれた。
だから勘違いをしては、調子に乗っては、ボタンを掛け違えてはいけない。
「ステージキング。おめでとう」
僕にはジョングクがいて、ジョングクは僕を愛していて、僕は何もかもをジョングクに許して、欲しいものは全部捧げているのに。ジョングクは冠水するくらいの愛の中で僕を泳がせてくれて、これ以上ないくらい満たされて幸せなのに。
「おまえのこと、誇らしかった」
それなのに、彼が僕を見るとき、鼓動が早くなってしまう。
彼が僕に語りかけるとき、鼓膜が熱く燃えて溶けてしまう。
誇らしかった、と美しい瞳で見つめられたら、喉が詰まって苦しくなって鼻の奥が痛んで視界が滲んだ。
誰よりも、僕のことを見ていて欲しかった。認めて欲しかった。誰よりも、僕を好きになって欲しかった。そう望んでいた。決して口にはしなかったけど、する必要はないと思っていた。言葉にしなくても僕の望みは伝わっていると自惚れていた。だけど、そうじゃなかった。
「これ飲んだら帰るよ」
だから、勘違いをしては、調子に乗っては、ボタンを掛け違えてはいけない。これは彼の年長者としのて優しさで思いやりなのだから。二度と自惚れてはいけない。
「…作業室ですか?」
ボタンを掛け違えてはいけない。
「いや、家、自宅」
きっと髪は短いままだろう。キャップを深く被っていて、襟足はフードで隠れているからわからない。
どんな風に暮らしているのだろう。グループチャットではほとんど発言しないし、たまに美味しかった食堂のランチミールと街で撮った野良猫の写真をあげてくれるだけだから何も知らない。
「少し痩せましたか?」
「何その話し方、」
まるで大人みたいだな、と笑って頬をつねられた。それが以前の僕たちみたいで、変わってしまう前の僕たちみたいで懐かしくて嬉しくて、寂しかった。僕にはジョングクがいて、愛している。本当に。ジョングクがいなければ、僕は眠ることも食べることも、生きていくこともできない。愛している。
あともう一度グラスを手に取ったら、あともう一口それを飲んだら、
「帰るよ」
傾けた氷で唇が濡れた。それを拭うのを見ていた。
「待って、」
勘違いをしては、調子に乗っては、ボタンを掛け違えてはいけない。
「帰らないでください、」
みんなおまえを待ってるんだよ、と言い聞かせるように言うユンギさんの視線の先にはスタッフと仲間達がわいわいと談笑している。
「もう行くよ、」
小さく笑ってぽんぽんと頭を軽く叩いて、きちんと薬を飲んで早く寝ろよ、と僕にだけ聞こえる声でそう言った。
「僕は、」
ボタンを掛け違えてはいけない。
「僕は、ブルックリンに、」
どう伝えたらいいのか分からなかった。スツールを降りかけていたユンギさんは、僕に身体を向けて掛け直した。僕の顔を覗いて小さく首を傾けた。意図が分からなくて、混乱しているようだった。それは僕自身も同様だった。
「フライトが、…来週です」
「そっか。来週」
どこから言えばいいのか分からなかった。最適で最速を考えたら言葉に詰まってしまった。じゃあ、気をつけて行ってこいよ、楽しんで、と言われるのは嫌だった。そんな風に平均化されるのは耐えられないし、傷つく。僕はどこかでずっと、彼にとって特別な存在であるという自尊心を捨てきれない。
「…だから、」
「だから?」
混乱している。僕も彼も。
「だから、きっともう会えない」
結論は出たのに、それを覆そうとしている。
「春が終わるまでソウルには戻りません」
混乱している。僕も彼も。
骨ばった指にはシルバーのリングが、そして複数の切り傷のうような跡が残っている。
「戻るのは6月です」
どうしてあんな怪我をするのだろう。毎日どんな仕事をしているんだろう。何も知らない。提供される給食よりも、奇妙な柄の野良猫よりも、僕はあなたを知りたかった。彼は正しい距離を保って人知れず僕を見守っている。他の誰にも分からなくても僕だけは気づいている。
どうしてこんな怪我をするのだろう。毎日どんなルーティーンで生活しているのだろう。
骨ばった指にはシルバーのリングが、そして複数の切り傷のうような跡が残っている。
触れたら、思っていたよりもあたたかくて、そして思っていた通り、滑らかだった。
「僕も行っていいですか、」
滑らからで、でもその傷は可哀想で、包んであげようと思ったけど、僕の手が小さくてできなかった。
思っていたよりもあたたかくて、手のひらに感じるリングだけが冷たい。
彼の立場も心情も無視して、弟であることを利用してわがままを通そうとしている。
決して通してはいけないわがままを通そうとしている。
「…何言ってんだ、」
「このまま一緒に、」
「何言ってんだよ、」
ユンギさんは痛むような憐れむような目で僕を見つめて、首を横に振った。
大きな手で僕の手を剥がし、何言ってんだ、ともう一度繰り返し、ため息をついて目を逸らした。眼鏡のブリッジを軽く押さえてから口元を覆うような頬杖をついた。呆れているようだった。こちらを見ない。視線を上げてもくれない。僕は情けなく、惨めだった。いま、何を言い、何をしようとしたのか。
「おまえ、ジョングクに、」
ジョングクの名前を出して僕を敬遠している。距離を取ろうとしている。
その時、カウンターに置いていたスマートフォンが震えて着信を教えた。ディスプレイが明転しJUNG KOOKと表示されている。出来すぎた流れだった。フィクション、バラエティ、コメディ、僕の人生はそんな感じなのかもしれない。
黙ってディスプレイを見ている僕を、黙って見ているらしかった。こんな姿は見られたくない、顔を上げることができない。僕はずるいだろうか。醜いだろうか。耐えきれず着信に応えようとも思ったけれど、手に取って、そしてカウンターに伏せてしまった。しばらくして、着信は途絶えた。
視線を上げたら、彼は僕を見ていた。ジョングクを無視する僕をずっと見ていた。深く被ったキャップ、フレームの太い眼鏡の向こうの深海のような濃紺がかった黒い瞳。眼差しは冴え冴えと冷たく、僕を射るようで苦しい。苦しくて、苦しくて、甘い。蔑まれてもいい、そんな風に僕のことだけを強く見つめてくれるのなら、僕はもっともっと愚かな行動を取って最低な奴だと軽蔑されたい。どんな意味でもいい、彼の強い眼差しが欲しい。
「僕はジョングクを愛しています」
嘘ではないのに。何かの間違いで、覆そうとしている。
グラスに残されたロックアイスはほとんど元の形を保っている。もっとゆっくりと時間をかけて。側にいてくれるだけでよかったのに。
未晒のペーパータオルにプリントされたライオンの顔に見えるQRコード。
グラスから流れた結露がじわじわと侵食していく。
ユンギさんは何も言わず、スツールを降りた。
ああ、もう春が終わるまで会えない。
きっと言葉を交わすこともない。
また自分から壊してしまった。
ステージを終えハイになった精神状態のまま、そんな時に大きな決断をしてはいけなかったのに。急激に疲労を感じた。アルコールが回っている。身体がふわふわする。ふわふわとこのまま今起きたことは、僕の過ちは、何もかも忘れてしまいたいと思う。
目を閉じて足音が遠ざかるのを待った。無意識に伏せたスマートフォンに手を置いていた。すると再び、手のひらの中で震えた。それが誰からなのか、どんな要件なのか通話に出なくても分かる。だけど今は、何もかも忘れてしまいたいと思う。
違和感を覚えた。足音が、気配が遠ざかっていかない。目を開いた。彼はそこにいた。
乱暴ではなかった、でも気遣われてもいない、ユンギさんは唐突に僕の手をスマートフォンごと強く握った。
「出るな。それに、出るな」
全部の音が止まった。その低い声だけが鼓膜を支配した。
凍てついた冬の夜空のような深い色の瞳が、僕を見ている。
大きな手が軽々と僕の手を包み強く握られた。
スマートフォンは震えている。身体がふわふわする。鼓動が大きくなっていく。
胸が苦しい。
「ホソク、」
その紅い唇が僕の名前の形を作って、そう呼んだ。
鼓膜が熱く、耳が、頬が身体が、燃えて溶けたかもしれない。
僕のことは大切な弟だと言った。キスをしたのはそうしろと言われたからだ、と言った。
彼に手を掴まれたまま引っ張られる格好でスツールを降ろされた。
僕に選択肢はない、発言する隙も与えられない、混乱しているけれど、それはお互いに暗黙の混乱だった。
店内には僕がリリースした曲が大音量で響いていて、みんなは心地よく談笑していて、マネージャーは打ち合わせを続けていて、彼に握られた僕の手の中でスマートフォンが震えていて、彼は前方だけを見据えて足早に、彗星のように僕をさらった。
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ドキドキしながら読みました😲まさかこの二人に続きがあるなんて❗引かれあってしまうことはやはり抗えないものなのでしょうか🥺誰かを思う気持ちは断ちきれない、恋愛の深淵をのぞいた気がしました