それはジョンがプライマリースクール三年生、七歳の時だった。
ジョンは家族との約束を破って、一人でスーパーに向かってこっそり家を出た。自分はもうプライマリースクール三年生で子供ではないのに、家族は、特に九つ上の兄はジョンを赤ん坊のように扱う。ジョンは虫歯になりやすい体質のせいか、母は甘いものを制限してくるし、その時ばかりは兄まで結託してくるのだ。しかもまるで赤ん坊のように「口をあーんって開けるんだぞ」と言って兄の手で優しく一本一本ジョンの歯を磨く。
だからジョンは自分は赤ん坊でないことを示すため、そして甘いものを買うためにスーパーへ出かけた。兄にも何かお土産に買って帰っても良いかもしれないと考えながら。わずかにもらっているお小遣いを握りしめる。
家族と一緒に何度も歩いた道だから大丈夫。けれどなぜかなのかさっぱりわからないが、気づいた時には見知らぬ道を歩いていた。
「坊ちゃん、一人なのかい?」
驚いて見上げると、薄汚れた男が目の前に立っていた。ニヤニヤと笑っている。
「そうだけど……」
知らない人に声をかけられても無視するように言われていたが、実際に声をかけられると答えてしまった。どうしたらいいかわからず周囲をきょろきょろと見渡したが、狭い路地に入ってしまっていて他に人の姿は見えない。
「どうしたんだい? お父さんやお母さんとはぐれたのかい?」
ジョンは答えに窮して視線をうろつかせる。
「ねぇ、実はちょうど美味しいお菓子を持ってるんだ。ほら」
男がポケットから出した汚れた手にはカラフルなチョコレートのパッケージが握られていた。チョコレートだけでなくキャラメル、ピンク色のキャンディ。
母が見たら顔をしかめるような色合いで、スーパーでは買ってくれ類のものだ。目が吸い寄せられる。
「お菓子好きかな? おじさんのうちで一緒に食べないかい? たくさん、好きなだけ食べよう、ね?」
『好きなだけ』という言葉に一瞬心が揺れた瞬間、男は片手でジョンの小さな肩をぐいとつかんだ。かがみ込んでずいと顔を近づけると酒臭い息がジョンの顔にかかる。
「可愛いねぇ……」
その時だった。
男の首筋からぱっと赤が舞った。
赤。
血だ。
脈拍に合わせてビクビクと血が吹き出して、ジョンの頬に飛ぶ。
しかしすぐに男は横に蹴り倒されてジョンの視界から消え、そこには人が立っていた。兄だ。呆然として兄を見上げると、兄はしゃがみ込んで「ああ、ジョン……」と泣きそうな声を出す。
そんな声を聞いたのは初めてだったが、その驚きよりもまるで状況がわからなかった。
「ジョン、怪我はないか?」
「うん……」
兄の視線はジョンの全身を確認して何も変わりがないことを確認した。
「良かった、本当に良かった……」
兄は手に図工用らしきカッターを持っていた。それを地面に捨ててハンカチをポケットから取り出してジョンの頬に当てる。
「血がついてしまったな……すまない、ジョン」
ゆっくりとジョンを包み込むようにして抱きしめる。
「怖かっただろう。大丈夫だ。大丈夫だぞジョン。俺がついているからな」
抱きしめられながら、ジョンはちらりと横を見た。先ほどの男が地面に伏して、血だまりが池のように広がっている。兄のスニーカーにも染みているが、気にする様子はない。
ジョンはひたすら困惑した。
そのまま兄に抱えられて「ごめんな、ジョン。俺がジョンから目を離したばっかりに……」とまるで全ての責任が兄にあるかのように謝り続ける。
兄の隙を見計らって家を出たのはジョンなのに。
ジョンの小さな体は兄の腕の中で包み込まれているので、もう男は見えなかった。ジョンがその男を見ることは二度となかった。
家に戻ると焦った顔の母に安堵が広がった。しかし兄が一言二言言うと途端に困惑した。
「どういうこと? リチャード、詳しく説明して」
「今はジョンを落ち着かせたい」
質問を重ねる母を半ば無視してジョンと兄の部屋に運ぶ。母は戸惑ったまま携帯を手に取った。
部屋の中には二つのベッドが並べられている。
クラスメイトはもう全員が一人部屋で寝ているのに、ジョンはなぜかずっと兄と一緒の部屋でベッドを並べて寝ている。両親は渋っているが兄の強固な意見が続いている。
寝巻きに着替えることもなく、ベッドの上に寝かせられて、兄はそばに座りぎゅっと手を握る。
「大丈夫だからな。俺がついている。怖いことは何もない」
怖いこと。そうか怖い目に合いそうになったのだとようやく気がついた。見知らぬ男に肩を掴まれて酒臭い息が顔にかかった。確かに怖かった。
でも本当に怖かったのは、男の首から血が吹き出る光景だった。地面に倒れた男から血が池のように広がっていった。
ジョンはその晩夢を見た。
ジョンの前には甲冑を着た男が背を向けて立っている。
砂漠だ。
ジョンは砂漠に立っている。
『蹂躙を開始せよ!』
地獄の底から悪魔が吠え立てるような声だった。殺戮の狂気に塗れた声。
『精兵達よ!凱歌を詠え!我らが進軍は戦慄を呼び、蹂躙は光を切り裂くであろう!』
『我が名は獅子心王!
狂乱と血潮を熱望する王なり!』
おぞましい音だった。しかし聞き覚えのある声だと思った。
『兄上?』
ジョンは呼びかけた。
振り向いたのは知らない男のはずだった。しかし兄だった。ジョンの知る兄よりも成長して精悍で顔つきをしていて、黄金に輝くはずの髪は砂塵に塗れて灰色に汚れていた。ざんばらの髪は獣のように背を覆っている。まるで別人のようだが、確かに兄だと感じた。
兄の美しい赤い瞳は濁って錆びた血の色をしていて、瞳孔は開ききって狂気が宿っている。
だがジョンを視界に入れた途端、憑き物が落ちたように『ジョン?』と言葉をこぼした。
『ああ、ジョン』
瞳に徐々に光が差し込む。狂気が瞳からも全身から抜けていく。
『兄上』
『ジョン、お前も呼ばれていたのか。ちょうどいい』
兄は楽しそうに語る。
『今まさに聖杯を奪った太陽王の砂漠を攻め、その後に聖地を蹂躙するため進軍するところだ』
なぜかジョンの手には剣が握られていた。
『はい、良かったですね、兄上ならば、きっと誰が相手でも勝てますよ』
そう言いながら、兄上を刺し殺した。
兄は抵抗しなかった。
ジョンは一気に覚醒した。見えるのは見慣れたはずの天井。自分の部屋だ。いや、おかしい。ここはどこだ?
布団をはねのけ立ち上がろうとしたが、うまく立てない。床についた手が小さい。視界が歪む。
周囲を見渡すといつもの自分の部屋だ。いつもの?
部屋の中に二つのベッドが並んで置かれている。
気分が悪い。うまく立てない。おかしい。助けを呼ばないと。使用人を呼ぶためのベルが見当たらない。使用人?
『何が、兄上、違う、なぜ、僕は、何をしたんだっけ?』
ジョンは殺した。刺し殺した。狂気に染まる兄を、何度も、何度でも。座に刻まれた狂気の兄は色々な世界に何度でも呼ばれて、その度にジョンは刺し殺す。どれだけ狂気に染まった兄でもジョンを見たその瞬間、兄の瞳に正気が戻る。ジョンの刃を抵抗せず受け止める。
生前のジョンは無力で無能で愚かで、兄を止めることも代わることも救うこともできなかった。
王位の簒奪を失敗した時にジョンは生きながら死んだ。そのことを誰かに語ったこともある。確か、そう、エフェメロスとか言ったか、あの場所はスノーフィールド。あの一世一代の復讐は失敗し、兄は煉獄で焼かれ続けることが決定してしまった。
「僕は……何だ?」
ああ、そうか。
僕は史上最悪の愚王ジョン。その身はアヴェンジャーとなり、ひたすら兄を刺し殺し続けた。
ジョンは吐いた。フロアマットに汚いものが広がっていく。駄目だ。折角兄と一緒に選んだ新しいフロアマットなのに。
「ジョン!」
兄だ。
何度も見た二十歳ほどの姿ではなく、十六歳で成長途中の若木のような体。それでも今のジョンには大人と同じくらいの大きく感じる。
「ジョン! ああ、可哀想に。怖い夢を見たのか? 大丈夫だ。俺がついている」
兄は吐瀉物も気にせずにジョンを抱きしめる。大事な兄だ。生まれてからずっと、ずっと一緒に育った愛しい兄。その安堵とともに再び吐き気が込み上げる。
こんなにジョンを愛してくれる兄を救えず、殺し続けた。その感触がはっきりと手に残っている。兄の狂気の瞳に理性が差し込んで『ジョン』と呼ぶ声がまざまざと聞こえる。
ジョンはそれから数日高熱を出して寝込んだ。うつらうつらするたびに悪夢で目が覚める。何を食べてもすぐに吐いてしまうので病院では入院と点滴を勧められた。
両親は入院を断ったものの、点滴が行われた。
兄はほとんど泣いているような顔をしてそばに座っている。意識が曖昧だが毎日病院に通って点滴を受ける。面倒だろうし入院させとけばいいのに、と思ったが両親も断固として入院を断って、母は仕事を休み、兄まで学校を休んでずっとそばにいる。夜中も兄がずっとすぐそばにいて、ジョンの手を握り、頭を撫でる。
ある朝、ジョンは唐突に理解した。
自分はかつて愚王の代名詞ジョン王で、兄を救えずアヴェンジャーとなったが、今はただの七歳児である。これが現実だ。
今まで生まれてから七年間、赤ん坊の頃の記憶は曖昧だが普通の人間として生きている。七年間の人生の上にかつての人格が上書きされた感じだ。
高熱の夢を通してジョンの体の隅々まで理解が行き渡った。
そして思ったのは、まぁ別にいいか、である。
兄が今現在、普通の人間として生きている。英雄でも王でもなく、民衆に求められることなく、煉獄の炎に焼かれるでもなく。自由に、平凡に、普通の子供の一人として生きている。それだけで何もかも十分だ。十分すぎる。
いや、早速あの犯人を刺し殺そうとしたけど、両親の話を漏れ聞いた感じ犯人は死ななかったそうだし、以前を考えると誤差である。たぶん。おそらくは。
ジョンの突然の回復は家族を驚愕させると同時に安堵させた。言わずもがな兄は大仰に喜ぶので、ジョンの中の七歳児の部分はニコニコしているが、大部分のジョンは『兄上は大袈裟すぎる』とため息を吐く。
しかしジョンはしばらく学校を休むことになり、今までとは違う病院に連れて行かれる。母の車でニ時間ほどすると巨大な病院が見えてきた。
受付に寄ると少し待って診察室に通される。座っていた医師は優しげな顔で灰色の髪をしていて、しかし歳はかなり若い。
「初めまして。バース医のサンソンと言います」
母は数日前の出来事について言葉を選びながら喋り、その後もジョンが寝込んでいたこと、しかし悪夢を見て飛び起きたり何度も吐いたことなど詳細に語る。
医師はすでにジョンの情報を得ていたらしく、母の話を聞きながら手元の書類を確認したり、そこに少し何かを書き加えたりしている。
「わかりました。それでは次にジョン君本人と話をさせてください。お母様は待合室でお待ちください」
なぜか母は疑問を挟まずジョンの肩にそっと手をのせたあと、素直に部屋を出て行った。
室内に沈黙が満ち、二人で見つめ合う。
「ジョンくん」
「はい」
「覚えているね?」
ジョンはじっと見上げて、サンソンを確認する。
透き通った青の瞳がジョンを見ている。
そうだ、思い出した。
「カルデアで一緒だったことを覚えているかな? ほとんど関わりはなかったけど」
シャルル・アンリ・サンソン。フランスの処刑人でジョンの生きた時代よりもっと後の英霊。大抵はメディカルルームに詰めていて、戦闘では青い炎纏う骸骨の犬と馬を出していた。
「骸骨の犬の、サンソン?」
サンソンは苦笑いをこぼした。
「確か君は犬が好きだったね。まさか僕の印象で最初にそれが出てくるとは思ってなかったけど」
カルデア内でサンソンとの関わりは特別なかった。他に聖杯戦争などで顔を合わせた覚えはない。そもそも聖杯戦争で愚王ジョンをわざわざ召喚しようとするものはいないし、触媒や縁を排して召喚されるほどジョンと波長の合うようなマスターというのもなかなかいなかったのだろう。いや、確か普通の聖杯戦争ではアヴェンジャーは召喚されないし、おそらくジョンにはアヴェンジャー以外の適性がなかったと思う。
ジョンが覚えている召喚はほとんど全てが兄に関する連鎖召喚、もしくはカウンターとしての召喚である。
「別にカルデアで君を避けていたわけじゃないんだが、フランスは時代が違えど君にとってはあまりいい思い出がないかもしれないと思ってね。それに僕は多くの人を手にかけた処刑人だったから」
サンソンの言葉はジョンに対するやや不思議な気遣いと、自己嫌悪が滲んでいた。
確かにジョンは愚王として失策を続けて、大幅にフランスの領土を失った。それは自分があまりにも愚かで無能であったからである。兄を失って、苦しみもがいて、いっそのこと暗君を演じようかと考えたこともあった気もする。もはやジョン自身にもよくわからない。兄を失った後は暗くて月のない闇夜、もしくは霧の濃い幽谷を一人でさまよっているようなものだった。
兄と共に過ごした幼少期やカルデアの日々ははっきりと思い出せるのに不思議なものだ。
そういえばサンソンはアサシンのクラスであり、ギロチンが開発されたことでフランス王妃など敬愛する人を処刑したという。カルデアでも生真面目そうな印象があったが、なんとなく目の前のサンソンの方がより元気がないように見える。
「とりあえず、君は記憶を取り戻しているようだね。いくつか質問してもいいかな」
ジョン王として中世を生きたこと、英霊として存在したこと、聞かれたままに答える。かつての自分であればしょっちゅう自嘲や皮肉を入れたが、どうにもそういう気分にならない。
お医者さんに聞かれたことには素直に答えるものだ、と幼いながらに親に教わった現代人の感覚かもしれない。
自分の喉から出る声は七歳児のもので、声変わりは当分先だ。一生懸命喋っているつもりが、しょっちゅう舌足らずになる。子供が無理に難しい言葉を口にしているようだな、と客観的に思った。
あらかた質問が終わると逆に問いかける。
「この世界は何なんですか? 特異点?」
「うーん、僕にもよくわからないから、皆の総論を伝えるね」
サンソンは語る。
かつて座があり、英霊がいた。人々の存在したいという願いはアラヤと呼ばれ、人類史のために英霊はあった。あったのだが。
「今はないみたいなんだよね、全部」
「ないんですか」
「ないみたいだよ」
魔術もないし、魔法もない。並行世界も異世界ももしかしたら存在するのかもしれないが観測されていない。
人類存続のためのアラヤがないなら、ガイヤは? グランドクラスは? 人類悪とか死徒とかも全ていないのだろうか。他にもサーヴァントユニバース?とかあったような。エリザ粒子、サバフェス、足の生えた聖杯、チェイテピラミッド姫路城……。
ジョンは額を抑えてうなった。
「歴史も似たようなところがあってもかなり違うし、僕も時々混乱するよ。以前は当然だった知識や名称が違うこともよくあるし」
「そうなんですか」
「そうなんだよ」
「リチャード1世も存在しないんですか?」
「詳しくはないけど、リチャードはこの世界の中世でもよくある名前だからリチャード1世は存在する。けれど確実に君のお兄さんとは違う人物だろう」
何だか妙な感じだ。かの獅子心王は存在しない世界なんて存在するのだろうか。いや、今ここに存在している。
「ちなみに『皆の総論』というのは、かつて英霊だった人々、そのうちアルファとオメガとして覚醒した人の総論のことだ」
「アルファとオメガ、というと……あの滅多にいない人たちのことですか?」
サンソンは再び頭を悩ませている。
「プライマリースクールの低学年ではどの程度教えているんだったかな。この世界には人間が三種類に分かれていることは知ってる?」
アルファ、ベータ、オメガ。
そういっても、アルファとオメガはほとんど存在せず、世界の99,99%以上がベータである。アルファとオメガはベータとは全く違う存在であるとほとんどの人は考える。彼らは多くが政治家や資産家、芸能人、類稀なる芸術家、時には世を震撼させる犯罪者。
人々にとってアルファやオメガはテレビやネットの中でしか見かけない特別な存在。ベータとかけ離れすぎているので、比較や嫉妬というよりも遠い存在である。
かつてオメガはヒートを起こしてそれが悲惨な事件に繋がったが、数世紀前に開発された薬が今なお進化し続けており、問題は少ない。
「かつて23世紀に生まれて医療系の英霊になった人物が19世紀頃に生まれたらしくて医療技術の進歩が凄まじくてね、技術も格段に違う。宇宙開発も盛んで、いやそれは置いておこう」
誰かが言っていたが、英霊は星の数ほど存在した。座に蓄積されていたのは英霊だけでなく、幻霊も幻霊以下の亡霊も、その情報は凄まじい量なのだそうだ。それらがいろいろな時代に散らばっているのかもしれない。カルデアでいろいろ座について聞いたことがある気がするが、ただのアヴェンジャーだったジョンにはよくわからない。
「それで君は一週間前にオメガとして覚醒した」
「オメガ……」
「本来アルファやオメガに覚醒するのは十代半ばが多い。一桁で覚醒することもないわけではないけれど、七歳で覚醒したというのは僕の知る限り初めてだ」
オメガ。
この一週間、頭の中に流し込まれた過去の情報も相当なものだが、それらもまた飲み込みにくい。
何をどう考えればいいのか、何を聞くべきなのか考えがまとまらない。ただでさえ、思考が体の年齢に引っ張られる。
お腹すいたなぁ、お菓子食べたいなぁという気持ちが湧き上がってくるのを理性で押さえつけようと努力中だ。
「まぁゆっくり考えていいから。君の場合、覚醒したと言っても、ヒートが起こるのはまだ先なのは確実だ。フェロモンを作る臓器が全く発達していない」
フェロモンとは何だったか、授業で習ったような習ってないような。
「ただし問題は……君のお兄さんのことだね」
母と兄は診察室の前の長椅子ではらはらとした表情で待っていた。
兄はほとんど無理やり父に連れられて登校したはずだがなぜいるのか。
サンソンが「お母様、もう一度中へどうぞ」と声をかけたが、隣にいる兄を見て怪訝な顔をした。
「えっと、今日リチャード君は呼んでないはずだけど」
「ジョンが心配で早退して来ました」
「どうやって?」
「自転車で」
かつて兄は幼い頃から乗馬が好きで、ジョンも乗せてあちこち走り回ったものだ。その手綱捌きは見事なもので、大人になると駿馬に乗ってどこへでもすぐさま駆けつけた。ついでに言うと、兄自身の足も早い。
恐ろしいスピードで自転車を漕ぐ兄がありありと想像できた。
兄は半ばサンソンを無視してジョンに駆け寄ると「大丈夫か?」と覗き込んでくる。「よしよし」と意味もなく頭を撫でられる。まるきり子供として扱われていて、カルデアの時より悪化しているなと思ったが、そういえば七歳児なのだった。
「あの、あにうえ、じゃなくて…その、にいちゃんってアルファになる可能性が高いんです、だよね?」
なるべく七歳の自分らしい声を出す。
「うーん、そうだな。でも薬も飲んでるし毎月注射もしてる」
そう、この世界はアルファとオメガに覚醒する人間を少しでも減らそうと全力を尽くしている。
背後でサンソンが大きくため息を吐いた。
夕飯はジョンの好物のフィッシュパイだった。かつてイングランド王室ではシーフードを使ったパイが伝統的に食されていて、かつてのジョンも幼い頃からフィッシュパイを食べたし、今も好んでフィッシュパイを食べて、いた。
『かつて』兄は大遠征から帰ったあと、王位の簒奪を試みて失敗したジョンと話した。疲れ果てて絶望してジョン自身の処刑方法を尋ねると『俺の処刑方法か?』と聞いてきた。
『お前の反逆に罪などない。王たる俺が赦す。さぁ細かい話はこれで終わりだ。市民がお祝いで届けてくれた鮭を食べよう!』
その鮭はフィッシュパイになった。
市民の歓声が聞こえた。英雄として王として兄を求める声。
ジョンの心はあの時に死んだ。
ふと七歳のジョンは目の前のパイを見る。小さな手で切り分けると、パイに入っていたのは鮭だった。
はっとした。民衆の歓声が聞こえる。兄の狂気の声が聞こえる。
剣で何度も兄を刺し殺した感触。
手が震えてカトラリーのナイフを取り落とした。
『僕は……何をした? 何をしなかった? 何をできなかった? 僕は、俺は、私は、余は、何だった?』
トイレに駆け込んで吐いた。吐いて吐いて胃液しか出なくなって、涙は頬をぐちゃぐちゃに濡らしている。背中をさする手があることに気がついて振り向くと兄がいた。兄の目にはうっすらと涙が膜を張り、今にもこぼれ落ちそうだった。
「大丈夫だ、大丈夫だぞジョン。俺がついている」
兄は吐瀉物と涙でぐちゃぐちゃのジョンを優しく抱擁する。九歳年下で体格差も大きく、兄はジョンを潰さないよう包み込む形で抱きしめる。
七歳のジョンの上に上書きされた自分。されてしまった自分。罪。絶望。
なぜこの世界はアルファとオメガの素養がある人間が覚醒して記憶を取り戻すのを阻止しようとするのか。
記憶を取り戻したアルファとオメガは混乱する。大抵は現代人として人格が形成された状態で二つのものが混じり合う。
かつての人生がただの芸術家であったり、穏やかなものであったなら大きな混乱で済むだろう。
しかしかつての自分の行いが現代では大きな罪だったら、どう感じるだろうか。
あるいは、英霊となったあとに逸話などで歪められた状態、オルタやバーサーカーの霊基で全く違う自分が今の自分の中に入ってきたらどうなるだろう。
あるいは、抑止の守護者はアラヤに使い潰されて精神を磨耗して消滅したという。精神が崩壊した記憶が自分の中に入ってくると、どうなる?
罪が、別の人格が、精神の崩壊が流れ込んでくる。
アルファやオメガとして覚醒して記憶を取り戻した人間はたびたび心を病む。中には廃人同然になる者、自ら命を断つ者もいる。
アルファとオメガは優れた資質で人の頂点に立つことも多く、法制度を整えた。だから滅多にアルファもオメガも存在しないのに、学校の健康診断にはバース検査が含まれる。
兄は数年前の検査でアルファになる可能性が高いと診断された。ジョンはまだ七歳で、検査が行われる年ではなかった。
恐らく兄と両親はジョンが不審者に襲われそうになったことがトラウマになって、突然オメガに覚醒したと考えている。
違う。
カッターナイフを持つ兄の手さばき。血が吹き出す瞬間。
『もう大丈夫だぞ、ジョン』
同じ言葉。笑顔。
今もかつての兄も返り血だらけなのに笑顔だった。
ジョンは自分があまりにも無能で愚かであったことから、全てを思い出したのだ。
全部吐いた後、何だかよくわからないがスッキリしてリビングに戻るとフィッシュパイを食べた。昔は昔、今は今。よし、切り替えていこう。
(今の僕は七歳児)
今の僕は七歳児。今の僕は七歳児。今の僕は七歳児。
(今の僕は七歳児)
兄は隣で「大丈夫か? 無理してないか?」とおろおろしてジョンがいつ吐いてもいいようにプラスチックの桶を構えている。
「吐いたらお腹すいた」
ジョンがキッパリ言うと兄は疑わしそうな顔をした後「ならばいいんだが」と言ってジョンの食事を邪魔しなかった。しなかったが、いつ吐いてもいいように桶は手放さずに隣に座っている。
兄の怪物性/獣性は兄の奥底で目覚めていない。いや、ちょっばかり目を覚ましかけたが、あの頃のように兄を鋳型に押し込めるもの地位も民衆も戦もない。両親はかつてと違ってごく普通の人間、正確にいうと名家で資産家の人間ではあるが、二人の子供のうち一人がオメガになり、もう一人がアルファになる可能性を抱えていることで困惑している一般人だ。
かつては兄を止めることも代わることも救うことも出来ずにいたが、今回はまだ何かできるのではないだろうか。やはり先日の不審者の件は誤差とする。正当防衛である。幼い弟が襲われていたのだ。正当防衛である。過剰防衛では?と警察に事情を聞かれたが、どう考えても誤差である。
今やるべきは何だろうか? 肉体を鍛えて物理的に兄を止めるようになることだろうか? かつては二十歳を超えてしばらくして兄の身長を抜いたのだが、今回はもっと早くに身長を伸ばせないだろうか。身長は越しても、胴回りや肩幅が兄に比べてまるで足りてなかったし、鍛えても筋肉がつくことはなかったが、こう、何か現代的な特別な手法で身につけることはできないだろうか。
大きくなりたいからいっぱい食べる、と言うと兄は大変喜んだ。
「兄上より1フィート(約三十センチ)くらい大きくなりたい」
「1フィートかぁ。うん、夢は大きい方がいいな」
切り替えていこう、と自分に言い聞かせていると、七歳児の自分が大きく出てしまい、しょっちゅう妙なことを口走っている。
自分の中身がごちゃごちゃしているので「にいちゃん」と呼ぶこともあるが「兄上」と呼ぶことが増えている。家族に対して敬語を使うのは奇妙すぎるが、アルファやオメガの子供は異様に大人びているものらしく、特に気にされていない。両親も爵位こそないものの古くから続く名家の生まれなので、不審に思っていないのだろうか。兄は「にいちゃんでも兄上でも兄貴でもいいぞ!」と言うし敬語を使っても何も気にしていない。
現代人ジョンの中に七歳児とアヴェンジャーのジョンがいる。心が死んで枯れ尽きたジョンもいることはいるのだが、七歳児の無謀さとスノーフィールドで一世一代の復讐の根性を見せつけたアヴェンジャージョンが肩を組んで「やるぞ!!」と叫んでいる感じだ。
今一番注意すべきことは何と言っても、兄がアルファとして覚醒して記憶を取り戻さないようにすることだ。兄は病んだり廃人にはならなさそうだが、圧倒的に現代の価値観に合わない。そうすると兄は現代に合わせて相当に窮屈な人生を送ることになる。
それはどれほどの窮屈さになるだろう。
英雄譚として鋳型に押し込められ、王位と民衆に縛られて、不自由に生きたあなた。
ジョン願いの根本は、兄が自由に生きることだった。怪物でも構わない、自らを鋳型に押し込めることなくありのまま自由に幸福に生きることだった。それが幼い頃から願いで、結局まるで叶わなくて、ジョンは何もできないことを理解し、アヴェンジャーとなって人類史全てを消し去ることを決意した。
現代で兄は自由に幸福に生きることはできるのか。ジョンにはその未来をうまく思い描くことができない。
兄のアルファ計測値は大変に高い。毎日薬を飲み、月に一度注射を受けなければならないという困難さ。ジョンなら早々に投げ出している。
ジョンが毎朝兄が薬を飲むのをチェックすると、兄は苦笑している。
「大丈夫だ。もし俺がアルファになっても、ジョンに危害を加えることは絶対に誓ってありえない」
「別に疑ってはいませんが」
アルファはヒート中のオメガのうなじを噛むことで強制的に番とやらにできると言う。実に奇妙な話だ。
番は結婚とは違って一度してしまうと死ぬまで解除はできない。解除する気にもならないらしい。
デメリットが大きすぎる気がするが、一目で相手を決めて番となる者は多い。『運命』を感じるのだとベータは囃し立てるが、早い話かつて結婚していたり恋仲だったことを思い出しているだけだ。
カルデアでもイチャイチャしている夫婦が複数いたし「ガッツがなければ即死だった」という迷言を聞いたことがある。夫のレイシフトに同行できなくて床でのたうち回って駄々をこねる仙女も見たことがある。運命の番とやらはそういう連中を指すのだ。
兄が無理やりジョンのうなじを噛んで番にすることなどありえない。
「別の心配をしたらどうですか」
「アルファに覚醒するとすごく苦しい気持ちになるというのは理解しているんだ。サンソン先生に何度も説明を受けているし。ジョンや父さんと母さんを心配させたくないからちゃんと薬は飲むし注射も受けるさ」
「そうです、絶対に飲んでください。何が何でも絶対に飲んでください。注射も忘れずに。忘れたら承知しませんよ」
兄の眉尻が下がって悲しそうな顔をする。おそらく(ジョンも覚醒したとき苦しんだもんなぁ。今も苦しいんだろうか)と考えている。それと、ジョンにはいずれ三ヶ月に一度ヒートが来ることも心配している。ジョンのことではなくて、もっと自分のことを考えろ、とイライラする。
ジョンにヒートが来る年齢になっても薬を飲んでいれば明確なヒートは来ないし、ヒートが来ても薬を飲めば治まる。フェロモンも多少は出ても他者に感知されるほどではないらしい。
ジョンもそのうち三ヶ月のうち一週間ほど薬を飲む日々がやってくるだろうが、もっと先の話だ。
まだフェロモンが出ていないのに、ジョンがオメガになったことで兄はすぐさま部屋を分けた。
兄はあんなにも同じ部屋で生活することを望んでいたのに、ジョンから一番遠い部屋、何とガレージの地下室に移り住んだ。ガレージは母屋と離れている上、地下室は納屋として扱われていたので非常に汚かった。それなのに綺麗に掃除するより先に引っ越したのだ。
今まで使っていたベッドを地下室に運び入れることができなかったため、中で組み立てられるパイプベッドを購入した。
「ギターを弾いても音が漏れにくいしちょうどいい」
兄はそううそぶくが、以前の約束を思い出してしまってジョンは憂鬱になった。もし兄が怪物になったら迷宮に閉じ込めると口にしたことを思い出す。迷宮とは勿論ミノタウロスの地下迷宮のことを指した。
兄の部屋の地下室は外から鍵をかけて、兄を閉じ込めることができるのだ。
それに地下室から歌声が聞こえると、幽閉されていたこと、いやジョンも幽閉させ続けようと躍起になったことも思い出す。それは失敗と絶望の記憶と結びついている。
しかし数年後兄はスクールを卒業すると、あっさりロンドンの大学に進学して一人暮らしを始めた。
しかも軽音部でさらに音楽にのめり込み、頻繁に旅行に出かけてほぼ実家に帰ってこない。
ちゃんと薬を飲んでいるか、病院には通っているかとメッセージを送っても、大丈夫だ!の言葉しか返ってこない。
▷
七歳の弟が不審者に襲われている姿を見たとき、リチャードの手は当然カッターナイフを握っていた。学校からの帰りで偶然バックにしまっていた図工用のカッター。本当に運が良かったと思う。あの時リチャードはためらいなく一瞬でカッターを取り出した。図工の時間に教わった優しい持ち方ではなく、強く握りしめて振りかぶった。
母が素早く救急車を呼んだので犯人は死ななかったが、あの瞬間リチャードは明確な殺意を抱いた。
『俺のものに触るな』
体の奥から吹き出す激情。目の前が真っ赤になりそうなほどの激烈な怒りだった。後にも先にもあんな怒りを感じたことがない。
そこでリチャードは自分が弟に対してまともではない感情を抱いていることに気がついた。まともな兄は『俺のものに触るな』などと思わないはずだ。
年の離れた弟は本当に可愛くて可愛くて仕方がなくて、常にべったりして甘やかしていた。リチャードは弟を連れて公園などの外遊びから簡単な一日旅行にまであちこちに出かけた。両親はリチャードが幼い弟を連れ回しているのを見るとたびたび苦言を述べてきたが、別に危険な冒険に行くでなし、遠くに出かける時は両親も交えて家族旅行をした。両親には呆れられていたが、あくまで弟を心底可愛がっているつもりだった。
可愛いジョン。
淡い翠の瞳がじっとリチャード見上げてくる。柔らかな黒毛と滑らかな頬。
可愛い弟のジョン。
しかしあの時『俺のものに触るな』とはっきり思ったことを忘れられない。
ジョンはジョンのものだし、リチャードのものではない。そういう考えはよくない。まるで弟を所有物のように思うなど。
もしリチャードが両親や友人や品物に執着する性質だったら、自分はそういうタイプの人間なのだと認識しただろう。全てのものに執着するタイプだから、弟にも執着するのだと納得したはずだ。
リチャードは両親のことだって大好きだ。他の親戚も、従兄弟たちも兄弟のように大事に思っている。
なのに、どうしてもこんなにジョンだけを思ってしまうのだろう?
本当はその理由をリチャード自身、知っている気がする。ここまで激しくジョンに執着する理由を。
リチャードはたびたび夢を見る。夢の中の自分とジョンはやはり兄弟で、大昔のヨーロッパのような世界だったり近未来SFのような施設にいたり、時にはなぜかジョンを影から見守っていたり代わりに戦っていたりする。
変わらないのは兄弟であることと、弟がいつでもリチャードを見ていることだ。笑っていることもあったが、泣きそうな顔も疲れた顔も多い。ジョンの翠の瞳がリチャードを見ている。リチャードの凶暴性を肯定し、否定し、怒り狂い、リチャードのために泣きそうになっている。
ある夢の中で、リチャードは嬉々として多くの人間を虐殺していた。現実の自分の中の凶暴性を理解しているつもりだったが、その夢の中の自分は完全に気が狂っていた。完全に気が狂った状態で眠ることも食べることもせず、ありとあらゆるもの全ての殺戮を求めていた。
そんな夢の中で弟はリチャードを刺すが、あるとき一撃で仕留めることができず、リチャードは体が完全に壊れる前に素早く弟の体を暴いて自分のものにした。弟はひたすら静かに泣いていて抵抗しなかった。刃で刺されても抵抗しない自分と、組み伏せられても抵抗しない弟。
夢から覚めた朝、愕然とした。自分の中の異常性をある程度理解できているつもりだった。夢には願望が現れると聞いたことがあるが、信じられない。確かに何かきっかけのようなものがあれば、自分の中の異常性が大きくなってしまうことを感じ取っているが、あんな風に弟を害するなど。
一旦凶悪な夢の中の出来事は置いておくとしても、普段からリチャードの中には異常性がある。
それがリチャードのアルファの性質なのかもしれないと思っている。アルファは優れた人間がほとんどの中で、稀に悍ましい犯罪者が出る。世界の闇を裏から牛耳って歴史に残るような犯罪者はまずアルファだ。ある意味、犯罪の方面で優れていると言えるのだろう。猟奇的な殺人を繰り返したアルファもいた。
リチャードがアルファとして覚醒する日が来たら、どうなるのか考える。流石にむやみやたらと人を殺して回る猟奇殺人犯にはならないだろう。しかし明確なイメージがある。
あの夢の中で気の狂った自分のような行い、ジョンに無理やり何かを強いるのだ。
狂った夢をいくつか見るうちに、徐々に弟に対する『俺のものだ』という気持ちが大きくなっていく。夢の中の完全に気が狂ったリチャードはリチャードではないはずなのに。
現実で人を殺したいと思ったことは一度しかない。弟を襲った犯人だけだ。他の誰かを無意味に傷付けようと思ったこともない。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。もしアルファとして覚醒したとしても人を殺す怪物になったりしない。ジョンがいるんだから大丈夫、となぜかそう思う。でも、きっと弟への執着と所有欲と愛欲がリチャードの体から噴き出してジョンを壊してしまう。
アルファ値上昇を抑制するため毎日薬を飲む。
錠剤は一日一錠、朝食後。
毎日飲み終わったら、それ専用のカレンダーに飲んだ記録として丸印を書き込む。
どんなに忙しくても病院には定期的に通う。注射も同じく。月に一回だった注射は一週間に一度にまで増えている。
死ぬまでこれを続ける。
別に大したことじゃない。
あの悪夢から目覚めた朝の感覚と比べたら、全てのことはなんてこともない。
ジョンからは時々ちゃんと薬を飲んで病院に通っているか確認のメッセージが入る。大丈夫だ、俺はまだ大丈夫。ジョンは大切な弟で、弟を傷付ける人間はたとえ自分でも許せないと思える。
薬を飲む。
錠剤は一日一度、朝食後。
リチャードは今日も健康的で倫理的な現代人として人生を進めている。
▷▷
『来月、私たちそろって出張日が重なって数日ジョンを一人にしなければならなくなったんだ。心配だから、帰ってきてくれないか』
父親からのメッセージにリチャードはうなった。イギリスで十五歳の子供を何日も一人で過ごさせるのは常識的ではない。
他の家族や友人家庭などに世話をお願いするのが一般的だ。
両親も親戚も皆遠いところに住んでいるし、ジョンには外泊するほど仲のいい友達がいるとは思えない。繊細な子なのだ。
となると、圧倒的に選択肢はリチャードである。
現在リチャードは両親と同じく法廷弁護士になるべくロンドンの法科大学、専門研修コースを終えている。次はどこかの法律事務所で実務研修をこなさなければならず、父の事務所に誘われているが、それのらりくらりとかわしてあちこちを旅行している。
父に『用事がある』と伝えたが『実はジョンの周囲にウロウロしているアルファが複数いるみたいで特に心配なんだよ。どうしても外せない用事なのかい?』と返ってきた。
驚いて尋ねてもジョンも詳しく話さないらしく、弟本人メッセージを送ると『大したことはないです。放っていてください』とにべもない。どう考えても一大事だ。
リチャードは重すぎる腰を上げて実家に戻ることにした。
季節は夏真っ盛り。最も暑い季節だ。ヨーロッパの中では高緯度の国だが、年々暑さを増している。リチャードは新陳代謝がいいというか汗っかきなので、歩いているとじんわり汗がにじむ。
飛行機とバスを乗り継ぐと懐かしい光景が目に入った。弟と手を繋いで歩いた海岸。弟と何度も遊びに行った公園。弟を背負って登った坂道。
いつも懐かしく感じるものの、実のところ、リチャードは弟の誕生日だけは帰省しているので数ヶ月ぶりだ。誕生日の夕飯を家族とともに過ごし、しかし泊まることもなくロンドンに戻る。
そのたび弟はいつも何か言いたげだが、リチャードから重要なことは何も話さないし弟も聞いてこない。もしそういったものに触れそうになっても、ありきたりな話題に変えるので重要な話をしていない。
今もリチャードとジョンは仲の良い兄弟だ。幼い頃は仲良くしていても、大人になるうちに疎遠になることもよくあることだ。
ジョンも今は多感な年頃で子供だが、そのうち大人になれば兄弟なんて滅多に連絡を取らなくても普通だ。
リチャードは今その普通へ向けて順調に突き進んでいる。
薬を飲んでいる。
錠剤は一日一度、朝食後。
もしものために、今日は緊急時のための薬をかなり多く持ってきた。ジョンに会う際はいつもだ。
実家は静かな郊外にあって、庭はかなり広い。リチャードは幼い頃から外遊びが大好きな子供だったので、わざわざ父は隣の空き地を買い取って庭を大きくした。
奥の方に立っている大きな木には何度も登った。弟も一緒に登りたがったが、弟が登る時はリチャードは下に立っていつ弟が足を踏み外してもいいように構えていた。
『ジョン、そんなに高いところまで登ったらいけない』
『大丈夫だよ。もしものときは受けてめてくれるんでしょ?』
弟がきゃらきゃら無邪気に笑ったのを最後に見たのは六歳の時で、それ以来大きな声で笑うことがなくなった。少し寂しそうに笑うようになってしまった。
チャイムを押して「俺だ、リチャードだ」と言うと、無言で扉が開かれた。
「お久しぶりです、兄上」
「ああ、久しぶり」
弟のやたら丁寧な言葉は普通の兄弟なら距離を感じるものなのかもしれないが、リチャードにとってはジョンらしいと感じる。
ジョンは迎え入れながら「本当に帰ってくるなんて」と大きくため息を吐いた。
笑って応えようとして、リチャードは呼吸が止まった。誰かいる。家の中に、誰か、アルファがいる。
リチャードはアルファとして覚醒しているわけではないが、なぜか異常に鼻が鋭い。「兄上は何にでも才があるので、その一つなんでしょう」とジョンは言っていた。
だからわかる。
敵がいる。
「あれぇ〜?」
現れたのは白い髪の男女だった。顔立ちはそっくりで、まるで同一人物の性別を逆にしたような容貌。
「やぁやぁ初めまして?」
「みんな大好き、プレラーティの登場だよ!」
ニコニコ、ニヤニヤ。そっくりの男女は弟を挟んで、その肩に手を置く。
「まさか、君とここで会うなんて! 何という偶然だろう! 驚いたよ!」「もちろん、嘘だけどね!」
お互いに被せるように言葉が続く。弟は心底不機嫌な顔で、両肩に乗った二人の手を乱雑に振り払った。
「この二人のことは気にしないでください。帰るところですから」
「えぇ〜酷いなぁ。私たち来たばかりだよ? どうしてそんなに冷たい態度を取るのかな?」
「僕たちの仲じゃないか! いつものように一晩中一緒に遊ぼう!」
リチャードは大股で寄って、弟の両肩に再び乗せようとする二人の手を振り払った。
「何てことするんだい? 酷いなぁ」
リチャードは努めて笑みを作った。
「友人か? ジョン」
ジョンは心外だと言わんばかりの顰めっ面で「そんなわけないでしょう。兄上の目は節穴ですか?」と言い放った。
「単なる知り合いです」
「ええっ、そうなの?」「そんな、酷いや!」
二人は「シクシク……」とわざわざ言って泣き真似をする。
弟はイライラと自分のこめかみを揉んでいる。
「見てわかると思いますが、僕をからかって遊んでいるだけです」
「だが……」
リチャードは言葉に詰まった。
「知り合いだとしても……ジョンが家に迎え入れるなんて珍しいな。それとも君たちが無理やり押し入ったのか?」
二人は口を尖らせたり膨らませたりして「そんなわけないじゃないか」と言う。
「僕たちは運命の出会いをしたんだよ」
運命、という言葉に思わず心臓が嫌な鼓動を立てた。弟の顔を見ると不機嫌そうに口を開く。
「運命なんて馬鹿げたことを。偶然街中で目が合っただけです」
「それを運命って言うのさ! 雑踏の中で偶然目が合い、お互いがアルファとオメガだと認識するなんて。これって運命だと思わない?」
二人はニヤニヤしてリチャードの顔を見る。わずかな会話で人となりがわかってきて、リチャードをオモチャにしたいのだと理解する。
「……アルファとオメガは誰でも目が合えばわかるものなのか?」
「まさか! アルファもオメガも滅多にいないけど、全体量としてはかなりいるんだよ? 街中ですれ違ってもわからない方が多い。私たちは分かったけどね!」
「兄上、こいつらの言うことを間に受けないでください。『嘘だけどね』が口癖のような連中なんです」
「しかし……目が合ってアルファとオメガだと理解したのは本当なのか」
「まぁ、はい」
「ジョン君はアルファじゃなくてオメガって顔してるからね」「僕たちはアルファの顔してるだろう?」
「どんな顔だよ……」
リチャードにはわからない。オメガのような顔だとかアルファのような顔だとか、一目見てわかることがない。アルファもオメガも有名人が多くて画面上で目にするが、共通点は感じない。そんな話も聞いたことがない。
「とりあえず玄関に立ちっぱなしも何だから、中に入りなよ」「座って座って! ジョン君のお兄様!」
リチャードは言いたいこと、考えたいことが山ほどある。しかし考えてはいけない気がする。そうだ、だめだ、考えてはいけない。
自称友人の二人の言うことはもっともなので、仕方なく家に入って客間に通そうとしたが、二人は当然のように居間の方へ入っていく。
家の間取りを完全に知られている。弟は何も言わない。
二人は慣れた仕草でソファに腰掛け、リチャードは対面のソファに座った。家の中は数ヶ月前と特に変わりない。柔らかなソファ、厚みのある絨毯、大きな薄型テレビ、壁には家族写真、少し古くなっているテーブルの足の部分には幼い頃二人で落書きしたお互いの名前が残っている。
ジョンが「何か飲みますか?」と聞いてくる。
「いや気にしなくていい」
「汗かいてるじゃないですか。紅茶を淹れてきます。僕も飲みたいので」
そう言うとさっさと居間を出ていき、一度振り返って「兄上に余計なことを言うなよ、絶対に」と二人を睨んだ。
「当然じゃないか! お兄様に余計なことなんて言わないよ!」
弟はもう一度二人を睨み「兄上、もう一度言いますがこいつらの言うことを間に受けないでください」と言うと去っていく。
リチャードと二人の間にわずかに沈黙が落ちた。二人は心底楽しそうにリチャードを見ている。
「さて、お兄様は聞きたいことがいっぱいあるって顔だね」
「お兄様じゃなくてリチャードと呼んでくれ」
二人はクスクス笑う。
「僕はフランソワ」「私はフランチェスカ」
「フランソワとフランチェスカ。ジョンは単なる知り合いと言ったが……本当に無理やり家に押し入ったわけではないんだな?」
「当たり前だよ?」「あの用心深いジョン君が招き入れてくれるくらいの仲なんだよ。ジョン君は照れてるだけなのさ」
リチャードは二人をじっと見た。嘘ばかり言う人物なのはすでに分かったが、弟と知り合いなのは確かだ。まさか本当に照れているだけなのか、という考えが一瞬浮かんで打ち消す。
「運命というのは?」
「言葉通りの意味だよ。君も知っているんじゃないかな? 運命のアルファとオメガは一目見ただけでわかるものだって」
クスクスと笑い声がいつまでも続く。
「……君たち二人とジョンが……運命だとでも言いたいのか? 合わせて三人で運命だとでも?」
自分で口にしておいて心が凍るようだった。運命なんて所詮お伽話だとリチャードは思う。思いたい。けれど、一目見ただけでお互いを認識して番になり、一生を共に過ごすアルファとオメガは少なくない。
「うーん、そうだね? でも僕たちは二人で一人だから」
「双子なのか?」
「そうだよ。すごく不思議なことに双子なんだよ。特別な双子ってこと」
男女の双子は一卵性にはならないのでそっくりにはならないはずだが、それはアルファだからとでも言うのだろうか。
「でも二人より三人の方がいいんじゃない? 絶対に楽しいし!」「そうそう! 二人でするのってマンネリがくるかもだし、三人の方が刺激的、より背徳的なことができるんじゃない? あーあ、前も僕とフランチェスカが一緒だったらジルともっと楽しかったかなぁ?」
文脈から察するにジルというのがどちらかの過去の恋人か何かなのだろうが、どうでもいい。
「同時にジョン君のうなじを噛めば三人で番になれるかな?」「やってみないとわからないことは、ぜひぜひ実践しよう!」
「やめてくれ」
リチャードの声は思ったより大きくなり、居間中に響いた。
「面白くない冗談だ」
リチャードはなるべく静かな声を出したつもりが、低くかすれる。
「ふぅん?」
クスクス。ニヤニヤ。
「でもさ、君はジョン君の単なる兄だろう? バースが覚醒しているわけでもないし、弟の事情に首を突っ込むのは違うんじゃないかな?」
「家族として弟の心配をするのは当然だ」
「本当に『家族として』?」
不愉快な笑みを消して、何もかも見通す目で双子はリチャードを見る。
「本当に?」
リチャードは一つ呼吸をして気持ちを落ち着かせる。静かに、静かに言う。
「お前たちが何を知っていると言うんだ?」
「うーん、カルデアでのことも知ってるからねぇ。あの時も面白かったし」
「カルデア?」
「あっ、言っちゃった! 今のナシね!」
おどけた風に口を塞ぐ仕草をする。
カルデア。聞いたことがある気がする。どこで聞いたのだったか思い出せない。
「おい」
双子をキツく睨むジョンが紅茶の乗ったトレーを手に立っていた。
「余計なことを言うなと……言ったよな?」
強い怒気を含んだ声に双子は申し訳なさそうな顔を作る。
「ごめんごめん! ちょっと口が滑っちゃって!」
「そうそう! フランソワのことを許してあげて! 口が滑っちゃっただけなの!」
「白々しい! もう我慢の限界だ! 出ていけ! 今すぐに!」
「えぇ〜そんなぁ」
「俺の腕だけならともかく、兄上は本気でお前たちを玄関を叩き出せるぞ」
双子はひたすら空虚な文句を言いつつ肩を落として悲しそうにするが、ジョンは二人の背中をぐいぐい押していき、客間を、玄関を出ていく。リチャードはそれを無言で見守る。
しかしパッと笑顔を作ると「また来るね! 何度でも!」と言い残して扉を閉めた。
「二度と来るな!」
ジョンは怒り心頭という顔のままテーブルに二人分の紅茶を並べる。
「兄上、何を言われたか知りませんが、一切信じないでください。人をオモチャにするのを人生の糧としている連中です」
「そんな連中と知り合いで、家に入れたのか?」
弟は不機嫌そうに口を尖らせたままソファに座り、視線を逸らした。
「……まぁ、僕の知っているアルファはサンソン先生とあの二人だし、サンソン先生は大人で忙しくしているので。双子は学校の連中よりかは話が合うだけです」
「話が合うのか」
「比較の問題です。学校の連中は僕のことをオメガだとしか思っていなくて、勝手に自分たちとは違う存在だと思っているんです。その方が清々しますけど」
相変わらず友達いないようだが、それよりも気になることがある。
「比較だとしても、双子と仲が良いのか」
「仲良くないです。家に入れたのは不覚でしたけど、あいつらには失言してもいいし気楽に会話できるだけです。アルファですから」
「俺もアルファみたいなものだろう?」
弟は一瞬怪訝な顔をした。
弟とは最近まともに会話していない。何せリチャードが弟を避けているようなものだ。重要な話をすることで、リチャードの中身がこぼれ出て弟を傷付けることはしたくない。
リチャードたち二人が本当の意味で気楽な話を最後にしたのはいつだろう。思い出せない。
弟は紅茶を手に取って口に運び、何かを深く考え込んでいる。
リチャードも紅茶を手に取り、水面を眺める。そっと手に取ったので、水面には波一つ立たず穏やかだ。リチャードの普通の顔が水面に映っている。それを眺める。
「兄上には……絶対にアルファになってほしくない」
リチャードだって自分の中の異常性を理解している。それはアルファの計測値と比例してどんどん大きくなっていっている。
『もう限界かもしれない』とサンソンは何度も言った。
しかし羊皮紙一枚分、紙一重であれど、まともに踏みとどまらなくてはいけない。
「それは、覚醒すると本人が苦しむことが多いから、という理由だけか?」
「どう言う意味でしょう」
「俺がお前を傷付けると思っているんじゃないか」
弟は何故か胡乱げな目つきでリチャード見る。
「まさか。以前も言ったでしょう。疑っていません。僕が……恐れているのは……」
弟は深いため息を吐いて、しばらく黙った。
「……兄上が思い悩むようになることです。実のところ、兄上がアルファなるかならないか、という自体の話ではないんです。ただ、その結果として兄上が苦しむことになってほしくない」
「俺が本当に苦しむことなんだと思う? ジョン、お前を傷付けることだ」
「あのですね、別に僕を傷付けるのは全然構わないんです」
至極当然の顔をして弟は言い放った。
「僕を傷付けることはいいんです。兄上が苦しむことになるのはそれじゃない……」
「お前を傷付けて俺が苦しまないと思うのか」
弟は首を横に振った。
「平行線ですね。兄上は今アルファじゃない。今後アルファになることもないよう努力している。そうでしょう?」
「もちろんだ」
「ならば、この会話は無意味です」
「何故だ」
「兄上はアルファではないからです」
絶対にアルファになってほしくない、と言いながら、やんわりと線を引かれている気がする。その線の向こう側にいるのはアルファとオメガ。ジョンにサンソンに、あの双子、フランソワにフランチェスカ。雑踏の中で目が合っただけでお互いを認識したアルファ。
リチャードは黙る。考える。いや、考えては駄目だ。ここで兄として言うべき言葉は何か。
「……アルファなら気楽に話せる、というのならば他にアルファを探そう。すぐ近くにはいなくとも、国内であればいるはずだ。互助会のようなものもあるそうだから」
ジョンは嫌そうに首を横に振る。
「冗談じゃない。僕が友達を欲しがっているようにでも見えるんですか? あの二人は友達じゃないです。勝手に押しかけてくるだけで」
口ではそう言っても、明らかに心を許している。学校に友達がいないらしいジョンが気楽に話せる相手なんて、あの双子だけなのだろう。
喉の奥が苦しい。
あの犯人に思った言葉が胸にうちに蘇る。
『俺のものに触るな』
あの狂気の夢が浮かぶ。弟に刺されることに安堵しながら弟を組み敷いて、体をあばく狂気の夢。
どうしてだろう、唾棄すべき狂気の夢なのに、弟の感触が手に残っている。
「……そう言えば、チョーカーをつけるようになったんだな」
数ヶ月前ジョンの首には何も巻かれておらず、白いうなじをさらしていた。今は上品な黒いチョーカーが弟の首を守っている。今までリチャードの身長差からその白さを何度眺めたことだろう。最近は年に一度、家族で夕食を一緒に過ごしていただけなのに。
ジョンは再びいぶかしげにリチャードを見る。
「まぁそうですね。ヒートがいつ始まってもおかしくない年齢ですから」
「父さんか母さんに買ってもらったのか」
「いえ、あの双子がくれたんです」
チョーカーを見る。眺める。細くて頼りなさそうなチョーカー。上品にも見えたが、どこでも売ってそうな安っぽいチョーカー。オモチャみたいだ。
「なぜ?」
「え?」
「なぜ双子からもらったんだ?」
何故か弟は酷く動揺している。リチャードの目を見て尋常ならざる感情を見て取ったようだ。リチャードの本心がわからないという顔をしている。そんなことあるだろうか。弟はいつもリチャードのことを理解してくれる。リチャードはずっと弟の理解者になりたかったが、それはできなかった。ジョンはリチャードの光で、あまりにもまぶしくて、目を開けていられないほどの明るさだった。
リチャードの光。
リチャードの良心。
リチャードの唯一。
「別に……両親が急かすからそろそろ買わないと思っていましたが、正直面倒だったので。近いうちにちゃんとしたものを自分で選ぶつもりです。それまでは双子のくれたチョーカーをつけておくだけです」
双子が何故弟にチョーカーを贈ったのか理由は聞かなかった。
「そうか」
▼
リチャード一晩寝ずに考えて、朝が来た。ジョンと一緒に朝食を取る。
錠剤は一日一度、朝食後。
のはずだった。
今までずっと、ずっと何年間も欠かさずに飲んできた薬だ。
リチャードは飲まないことにした。全部ゴミ箱に捨てた。
サンソンは何年も前から『もう限界かもしれない。いつアルファになってもいいように心積りをしておいてほしい』と言っていた。
その日はかつてのように弟と水族館に出かけた。弟は外出を嫌がるが、辛うじて動物園と水族館には「一緒に行ってあげてもいいです」と言う。
水族館はちょうどイベントを休止している最中らしく、予想よりも客がおらず空いていた。常にべったりくっついていると、弟は大層嫌がって本気で押しやってきたが、リチャードの折れない姿を見て、人目がないところでは諦めた。『どうせ思いつきだ。数日もすればさっさとロンドンに帰るだろう』と顔に書いてある。
巨大な水槽や、ペンギンたちを見て、クラゲやウツボが展示されているコーナーに入る。全体的に暗くて、小さな水槽一つ一つに照明が絞られている。
その光に照らされるジョンのチョーカーとうなじを眺める。
翌朝も薬を飲まなかった。ゴミはすでに収取車に回収されて、手元には何もない。
その日は一日家にいて、ジョンの宿題を見たり映画を見たりする。
「放っておいてください。そもそも帰っていただいて構いません」
リチャードは笑って断った。
常にべったりそばにくっついて、気づかれない程度にリチャードの中にある何かを弟に向ける。弟はまだ何も気がついていない。
その晩、夕食を終えて並んで皿を洗っていた。
ジョンの首元からうっすらと匂いが鼻に届く。フェロモンだ。
フェロモンがどういうものかについてはいろいろと噂話を聞いていたが、弟のものは幼い頃一緒に登った大木の若葉のような匂いだ。甘いようでもあり、それでいて爽やかな匂いなんだなと意外に思った。
「ジョン」
皿を洗い終わって手を拭いているジョンの顔を見る。
「俺の顔を見ろ」
「はい?」
弟の両頬を優しく両手で包んで見下ろす。
「自分からフェロモンが出ていることに気がついているか?」
「え?」
「これだけべったり一日中アルファが隣にいるんだ。ヒートが来ても何もおかしなことはないだろう?」
「え、え? そんな、わけが……」
弟は呆然とリチャードを見る。
「ジョン、俺の顔を見ろ。感じるか?」
オメガにフェロモンがあるように、アルファにもフェロモンのようなものがある。威圧感の塊だと表現する者もいる。アルファとオメガがお互いを認識するのは、どちらもフェロモンを発しているからだとも聞いたことがあるが、定かではない。
ただ、自分の内側にずっとこもっていた何かを全てジョンに向かって思い切りぶつける。多分だが、これがアルファのフェロモンというやつだろう。
見る。見つめる。ジョンの翠の瞳を見つめる。両頬を包み、幼い頃内緒話をしたように顔を近づける。
弟は一歩後ずさったが、一瞬も許さずに詰め寄る。ジョンの背後はシンクで逃げ場はない。
「俺を感じるだろう?」
ジョンの顔が途端に真っ青に染まり、リチャードの胸を押して逃げようとする。それをあえて受け入れて、逃げる弟の背を見る。
肉食獣から命からがら逃げようとする小動物のようだ。
リチャードは一瞬で距離を詰めると、後ろからチョーカーを掴み引きちぎった。なんと安っぽいチョーカーだろう。ジョンには似合わない。
どうせ二度とつけることもない。適当に床に捨てた。
リチャードは必死にもがく弟を引き倒して、背後から床に押し付ける。
「そんな、にいさま、とつぜん、なぜ、」
「なぜって?」
ずっと何度も頭の中でこの妄想を繰り返した。ジョンはリチャードのものだから。
リチャードはジョンのうなじに歯を沈めた。
柔らかい、ジョンのうなじ。
血が出るほど何度も噛んでいるうち、弟はずっと泣いていた。





















最高でした😭👏✨ まだ完全体ではない(記憶朧気)ので、ジョン君からしたらそれさえ知ればまだ救いがありそうな……なさそうな……(鎮痛)。