「ドリンクの補充、完了しました」
「お、アレクサ、ありがとなぁ!」
「いいえ、問題ありません」
「アレクサ、こっちのモップ、新しいやつに替えてくれたん? 助かるわ、ありがと!」
「すみません、大丈夫です」
「あはは、そんな恐縮せんといてやぁ」
放課後の体育館。『お手伝いさん』として、少しずつこの場所に馴染み始めた私は、今日もせっせとドリンクを配り、スコアをつけていた。
そして、この稲荷崎の体育館にいると、恐ろしいほどの頻度で、ある特定の言葉が私に向かって降ってくる。
——『ありがとう』。
銀島くんも、アラン先輩も、他の部員たちも。私が何かをするたびに、当たり前のようにその言葉を私に投げてくれる。
けれど、私の返答は、いつだってワンパターンだ。「すみません」「問題ありません」「大丈夫です」。私がそう返すたび、皆は「ええよええよ」と嬉しそうに、でも少しだけ困ったように苦笑いしながら、頭を掻いて去っていく。
「スコアつけてくれてありがとね、アレクサ」
不意に横から、いつの間にか練習を切り上げていた角名くんが声をかけてきた。
「いいえ、問題ありません。大丈夫です」
「あはは。そっか。……じゃ、お疲れ様」
角名くんはふっと優しく目を細めると、私の頭を軽くぽん、と叩いて、更衣室の方へと歩いていった。
「…………」
残された私は、彼らの少し困ったような、でもどこまでも温かい笑顔を見送るたびに、胸の奥がくすぐったいような、どう処理していいか分からない、妙な感覚を覚えていた。
みんながくれる『ありがとう』が、心の中で、行き場をなくしてザワザワと騒ぎ出す。
ふいに、前に北さんから言われた言葉を思い出した。
(『なんで謝るん? 何も謝られるようなことされとらんよ。ありがとな』)
あの時、北さんは真っ直ぐに私の目を見て、そう言ってくれた。謝らなくていい。それは分かっているはずなのに。
(……じゃあ、なんて返せばいいんだろう)
答えの出ない問いを抱えたまま、私は静かに体育館のモップを見つめていた。
その日の夜、自室のベッドの上。
私は、部屋の明かりを消して、ゲームの画面を見つめていた。
(「ありがとう」って言われたとき……何か別の言葉を返した方がいいのかな)
いつも通り、ゲームの中でモンスターを狩りながら、私の頭の中は昼間の体育館のことでいっぱいになっていた。何か別の、もっと彼らが苦笑いしないような言葉。でも、それが何なのかがわからない。それもそのはずだ。
これまでの16年間の現実世界で、私は誰かから感謝されたことなんて、ただの一度もなかったのだから。
(ゲームみたいに、頭の上にリアクションのアイコンが浮かんでくれたら楽なのに……)
そんなことを思いながら画面のボタンをぽちぽちと押していると、ふと、数年前に熱中していたオンラインゲームでの記憶が蘇ってきた。
それは、大人数で巨大なボスモンスターを討伐する、お祭りイベントでの出来事だった。
画面の中には、世界中から集まった何百人ものプレイヤーが入り乱れ、派手なエフェクトと怒号が飛び交う大混乱の戦場。そんな中、私は自分のすぐ目の前で、体力が残りわずかになり、モンスターに踏み潰されそうになっている他プレイヤーのキャラクターを見つけた。
(あ、危ない……)
特に深い理由はなかった。本当に、ただの気まぐれのようなもので。私は自分のキャラクターを操作して、その見知らぬ誰かを守るように、咄嗟に防御スキルを発動した。
ズゥゥン、と激しい衝撃波が私の盾を叩く。
なんとか、その人の盾になって、モンスターの攻撃を防ぎきることができた。するとその直後。助けた相手のキャラクターの頭上に、ピコン、と小さな吹き出しが出現した。
【ありがとう!】
それは、ゲームにあらかじめ用意されている、ボタンひとつで出せる定型の感謝スタンプ。
「っ……!」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
現実世界ではない。画面の向こうの、文字の羅列。……人生で初めて他人から貰った純粋な「ありがとう」の言葉。私は、激しいパニックを起こしてしまった。
どうしよう。何を返せばいいの。どうしていいかわからない。
コントローラーを握ったまま、私の指先は完全に凍りつき、キャラクターはその場でカチコチにフリーズした。何も返せない私の様子をどう思ったのか、相手のキャラクターは、すぐに次の戦闘へと走って行ってしまった。その後も、混戦の中で同じように誰かを助け、その度に【ありがとう!】のスタンプを貰った。やっぱりどう返していいのかは相変わらずわからないままだった。
そうしてパニックになり、完全に動きが鈍ってしまっていたせいだろう。今度は、私自身のキャラクターがモンスターの強烈な一撃を食らい、一気に体力がピンチに陥ってしまった。
(あ、終わった……。ゲームオーバーだ……)
画面が赤く点滅し、私はそっと諦めて目を閉じようとした。その瞬間だった。
シュバッ、と小気味いい風切り音と共に、誰かが私の前に滑り込んできた。視界が、眩しい回復魔法の光で満たされ、私の傷ついたキャラクターを優しく包み込んでいく。
「え……」
助けられた……?今度は、私が。
驚きながら画面を注視した私は、ハッと息を呑んだ。私の前に大きな盾を構えて立ちはだかり、モンスターの追撃を完璧に弾き返してくれたその背中。身につけている装備、そして頭上に浮かぶハンドルネーム。——間違いない。数分前、私が気まぐれで盾になって救った、さっきのプレイヤーだった。
バクバクと激しく波打つ胸を片手で押さえながら、私は震える指先で、必死にゲームのコマンドウィンドウを開いた。今ここで返さなきゃ、きっともう二度と返せない。そんな気がして。
私は、人生で初めて、自らの意思で
誰かに【ありがとう】の文字を送った。
すると、私を窮地から救ってくれた、あの時の相手は——走り去る間際、すっとこちらを振り返り。
【サムズアップ】。
画面の中に、ぽんと親指を立てるリアクションの絵文字を、私に向けて残していった。
(あ……そっか)
画面の中で揺れる、小さな親指のマーク。これでいいんだ、と、すとんと胸の仕えが取れたような気がした。
それが、私が生まれて初めて学んだ、「ありがとう」に対する正しい回答の形。
……ただし、ゲームの世界に限る。
画面を見つめたまま、私はベッドの上でぽつりと呟いた。
「ゲームの中なら、ボタンひとつで出せるのに……」
画面の中で、ぽんと親指を立てるキャラクターの親指。あのとき貰った【サムズアップ】のスタンプは、現実世界では一体、何に置き換わるのだろう。明日、もしまた侑くんや角名くんに「ありがとう」と言われた時、私は彼らにどんなリアクションを返せば、あの苦笑いを消してあげられるんだろう。
そんな、現実世界のアップデート方法について深く悩みながら、私はいつの間にか高難易度ダンジョンの奥深くへと足を踏み入れていた。
ガサリ、と不穏な風切り音が響く。
「あ……っ!」
現実の考え事に気を取られていたせいで、完全に索敵を怠っていた。暗闇から突如として現れた、このエリアのボス級モンスター。巨大な爪が私のキャラクターを容赦なく捉え、凄まじい衝撃と共に、私の画面は大きく横へと吹き飛ばされた。ドサリと床に倒れ込み、体力のゲージが一気に危険域(赤色)まで減少する。
まずい、追撃が来る。
私は心臓をバクバクさせながら、慌ててコントローラーのボタンを連打してキャラクターを起き上がらせた。防御体制を取ろうと、必死に画面を構える。
……けれど、追撃は来なかった。
「え……?」
砂煙が晴れた画面の先を見て、私は思わず目を丸くした。さっきまで凶悪な咆哮を上げていたはずのモンスターが、なぜか、跡形もなく完全に討伐された状態で、床に横たわっていたのだ。静まり返ったダンジョンの床には、ボス級モンスターが倒された時にしか出ない、超レア枠のドロップアイテムが、きらきらと光を放ちながらポツンと落ちている。
「あれ? 誰かが……今、倒してくれた?」
慌てて周囲を見回し、近くのプレイヤーの存在を確認してみる。けれど、ここには、私の他には誰もいない。完全にソロの状態だ。
(自爆攻撃をするタイプのモンスターだったのかな……?)
首を傾げながら、私は床に落ちていたきらきら光る最高級のドロップアイテムを、遠慮なくカバンへと拾い上げた。なんだかよくわからないけれど、ラッキーだ。これでまた一つ、装備を強くできる。
そんなゲーム内の不思議な幸運に、現実世界の悩みは少しだけ霧散してくれた。
結局、あの「サムズアップ」の現実での置き換え方は、まだよくわからないけれど。
(……まぁ、いっか。明日も朝が早いし、早く寝よう)
私はゲーム機の主電源をブツンと切り、そっと温かい掛け布団を頭まで被った。
翌日の土曜日。
この日は、他校を迎えての練習試合だった。体育館はいつも以上の熱気に包まれていたけれど、試合が進むにつれて、コートの中に妙な違和感が漂い始める。
原因は、治くんだった。
今日の彼は、あからさまに調子が悪かった。レシーブに入るのが微妙に遅かったたり、スパイクの打点がいつもよりわずかに低かったりして、なかなかいつものキレが出ない。かろうじて稲荷崎が勝利を収め、相手校を見送った後の体育館。モップがけをする部員たちの間で、一触即発の獰猛な空気が爆発した。
「おいサム、何や今日は。 全然跳べてへんかったやないけ、このど下手くそが!」
「あぁ!? お前やってサーブ何本ネットに引っ掛けとったんやボケ!」
「俺のサーブの話なんかしてへんわ! お前の動きがクソやった話をしとんのじゃ!」
「っ、……そんなん、自分が一番ようわかっとるわ……!」
治くんが、悔しそうに拳を握りしめて歯噛みする。なぜ、いつものように身体が動かなかったのか。なぜ、いつものように跳べなかったのか。原因が自分でもわからず、焦りとイライラが彼の中で限界を迎えているようだった。
掴み合いの喧嘩が始まる寸前。
「治くんは、今日からシューズを新しいモデルに変えました」
「……え?」
予想外の方向から飛んできた私の言葉に、治くんだけでなく、侑くんもピタリと動きを止めた。
「その新しいシューズの靴底のゴムの仕様が」
「ゴム……?」
「治くんが前に履いていたメーカーのものに比べ、そのメーカーはゴムが若干硬く、床へのグリップ力が強い仕様になっています。そのため、ステップの際に床に足が引っかかり、いつもの感覚で踏み切ると、ほんのわずかにジャンプのタイミングが狂って、最高到達点が下がった……の、かも、しれません。……身体の不調ではなく、装備品の不一致の可能性が」
体育館が一瞬、静まり返った。 治くんは、自分の足元の黒いシューズをぽかんと見つめ、それから「……あ」と、何かに気づいたように目を見開いた。
「前のシューズ、破れてもうたから……これ、おかんに同じようなの買うてきてって……え、メーカーの違いとか、そんなん気にしたことなかった……。言われてみたら確かに、なんか踏み切る時に、足の裏が重かった気が……」
「まぁ、俺やったら、そんな雑な自己管理せえへんけどな」
「うっさいわ!急やってんから仕方あらへんやろ!つまりは、お前に下手くそ呼ばわりされる筋合いはなかったっちゅーことやないかい!」
原因が判明したことで、治くんの肩からすっと無駄な力が抜けていく。双子の衝突は、なし崩し的に綺麗におさまっていった。
部活が終わり、部員たちが次々と更衣室へ向かう中。片付けを終えた私が体育館の出口へ向かおうとすると、後ろから大きな影が近づいてきた。
「……あの」
振り返ると、そこには、少しバツが悪そうに頭を掻いている治くんが立っていた。
「……自分がおらんかったら、俺、ずっと原因わからんくてイライラしとったかもしれん。ありがとうな……アレクサ」
……ああ、また、『ありがとう』。
昨日の夜、ベッドの上であれほど悩んでいたはずなのに。いざその言葉を目の前にすると、やっぱり私は、頭が真っ白になってフリーズしてしまう。現実世界での、正しい返答は、まだわからない。
パニックになりかけた私の右手が、脳内の焦りと、昨夜の記憶に連動するように、勝手に動いた。
すっ、と。私は無表情のまま、治くんの目の前で、右手の親指をまっすぐに立てる。
——【[b:サムズアップ]】。
オンラインゲームの中で、画面の向こうの見知らぬ誰かから教わった、私が知る唯一の回答の形。
「…………」
「…………」
静まり返る夕暮れの体育館の入り口。至近距離で親指を突き出し続ける私を、宇宙人でも見るような目で見つめる治くん。
「……[b:ぶふォ!!!] ひははっ!真顔で親指立てんなや!なんでやねん!」
「すみません。コマンドの選択を誤ったようです」
「なんやねんコマンドって!」
治くんはもう一度ぷっと吹き出すと、それから、いつもの何気ない、優しいトーンで私に問いかけてきた。
「……なぁ、アレクサっておにぎりの具、何が好き?」
「すみません、よくわかりません」
「まぁ、おにぎりはどれも美味いしなぁ。定番で言うたら、鮭、昆布、ツナマヨ、あとは……」
「たらこ」
「そうやなぁ、たらこも美味い……って、アレクサ、たらこ好きなん?」
私の口から、すっとその単語が滑り落ち、治くんは羅列していた言葉を止め、目をまん丸くして私を見た。
「いいえ。ただ、私がコンビニで、手に取る回数が統計的に一番多いです」
私の回答に、治くんは一瞬呆れたような顔をして、それから、目を細めてクスクスと笑った。
「自分なぁ……人はそれを、『好き』っちゅーんやで」
治くんの言葉が、私の心の防壁の隙間に、すとんと落ちていく。胸の奥のザワザワとした騒ぎが、じわりと温かい熱に変わっていって。
——外の世界から届いた、『好き』の定義。
えんじ色のジャージの袖を少しだけ握りしめながら、今日は、コンビニでたらこおにぎりを買って帰ろうと、そう思った。


























