職員室の扉を開くと、1番に目に入る人がいる。位置が、とかじゃなくてきっと好きな人だから。そう自覚したのはわりと最近で、だからといって職場の同僚っていうことには変わりない。
出勤時間は早くした。彼女が早くに来ていることを知ってから、少しでも2人の時間を過ごしたかった。気持ち悪い自覚はあるけど、この気持ちはしっかりと隠しているから許してほしい。
「佐々木先生、おはようございます」
「おはようございます、いつも早いですね」
「まぁ……授業の準備とかありますし。佐々木先生こそ、早いですね」
なんて、当たり障りのない会話をして席につく。彼女とは、席が遠い。座ってしまえば、背中を向けて彼女を見ることは少なくなる。この少ない会話と、同じ空間で2人で過ごす時間がほしくて、得意じゃない早起きを頑張っているのだ。あと少しすれば、誰かしら来て、彼女と話すことはほとんどなくなる。同じ学年でもなくて、同じ教科でもないと、話すことは少ないのだ。
私は体育で、彼女は現代文。分野が違いすぎて、どんな会話をしたらいいのか、大人になったのにわからない。
そそくさと、1限目から準備を始める。昨日のうちにあらかた進めていたから、確認程度だけど。
「あ、野口先生」
名前を呼ばれて、すぐに返事ができなかった。彼女から声をかけられることなんて滅多になくて、2人しかいないのに自分に声をかけられていると気づくまでに時間がかかった。
「…は、い、どうしました?」
言葉に詰まりながらもどうにか返事ができたのは褒めてほしい。好きな人に声をかけられて動揺って、中学生か、と心の中でひとりごちる。
「あの…チョコレート好きですか?」
「まぁ、人並みに…?」
「じゃあ、これ」
彼女が私の席まで来て、箱を差し出す。白い箱には、チョコレートの会社だろうか、なにかのロゴがあってシンプルだけど少し高級そうな箱だった。
「これは…?」
「昨日、帰りに見つけたんです。チョコレート好きで、時々買うんですけど、美味しくて。誰かと共感したくて、野口先生にお裾分けです」
チョコレート好きなんだ、と、かわいいを同時に感じて彼女の顔を見つめてしまった。
「あ、無理しなくても大丈夫なんですけど…」
「全然、無理じゃないです。いただいていいなら貰います」
そういうと、彼女は箱ごと私に渡してきた。
「え、1つで大丈夫ですよ」
「…実を言うと、野口先生にあげたくて買ったんです。だからもらってくれるとありがたいです」
とんでもない言葉を聞いた気がする。朝少し話すくらいで、そこまで接点のない同僚にチョコレートを買うのだろうか。なぜ、私に、と顔に書いてあったんだろう。少し慌てた様子で彼女は話し始めた。
「いや、あの、なんというか…野口先生と、朝少し話しするのが好きで、えっと、もう少し仲良くできたらなっていう、その…賄賂みたいな…」
「賄賂って……佐々木先生、めちゃくちゃ面白いこと言いますね」
澄んだ綺麗な声で、賄賂とか。それから、何より、仲良くなりたくてなんて。そんなこと思われていたことに舞い上がりそうだった。
早くなっている心臓に、落ち着けと心の中で声をかけて、箱を受け取った。
「賄賂、受け取りました。私も佐々木先生ともっと話したいなって思ってたんです。嬉しいです」
「え!本当ですか…!嬉しいです、これからもよろしくお願いします」
彼女の笑顔を、こんな間近で見つめたのは初めてだった。花が綻ぶような、そんな笑顔だった。
「…じゃあ、感想伝えたいので、今度ご飯でもどうですか」
少し、いやかなり勇気を出して誘った。彼女は少し目を見開いてから、
「是非…!いつにしますか」
少し、食い気味に返答されて、どうしようもないくらい嬉しかった。本当に仲良くしたいと思ってくれているみたいで。
他の先生が来るまでの間に、食事をする日程が決まった。今週の金曜日、仕事終わりに行くことになった。ちらほらと出勤してくる先生がみえてきたので、じゃあ金曜日に、と彼女は席に戻った。
なんだろう、夢でも見ているのかと不安になるくらい、距離を近く感じた。ただ、手に持ってる、箱の質感とか重さがやたらリアルで、夢じゃないと気づく。
こんなに待ち遠しい金曜日が今まであっただろうか。
「じゃあ今日は、ハードル走をやります!」
朝、あんなに嬉しいことがあったとしても、仕事はしなくちゃいけない。教師として、果たすべきことはやる。
ただ、いつもより、元気になっているのはどうか誰も気づかないでほしい。
「野口先生、なんか今日テンション高いね!」
鋭い。生徒たちは、本当に教師という存在をよく見ている。自分が見る側なのになぁと思いつつ。
「ハードル走好きだからね!先生の得意分野です」
「えーー、じゃあ絶対ハードじゃん…」
なんとか誤魔化して、怪我をしないよう十分に準備させてから、授業を開始する。
生徒達がそれぞれ授業に取り組む中、1つの教室が目に入る。
彼女が、授業をしているクラスだ。背筋がぴん、と伸びていて何かを話してる。どんな授業をしているかは知らないけど、いいなぁ、私も受けたいなぁなんて。
体を動かすのが好きで、あまり座学は得意じゃなかった。もう少し真面目にやっていたら、彼女と同じ教科で、教師になれていたのかなとか、そんなことを考える。
教室の方をみつめていると、ふと、彼女もこちらを向いて、目が合った気がした。なんとなく。そこそこ距離はあるから、気のせいかもしれないけど、私は視力はいいほうだから気のせいじゃないと思いたい。
「…あ」
なんだか嬉しくなって、表情が緩む。彼女の表情も、少し柔らかくなった。…ような気がした。視線が逸れて、自分も授業に戻る。
教師をしていて、自分も学生気分に戻ったような気がする。
「野口先生!なんでニヤニヤしてるんですかー?」
「なんでもありません、はい、続きやる!」
「えー、もう疲れたよぉ…」
また、生徒に見抜かれて、そんなに私は分かりやすいのかと自覚する。気をつけないと。
授業が終わり、片付けをして、1度職員室に戻ろうと廊下を歩いていた時だった。彼女が前から歩いてくるのが見えて、少し足が速くなる。
「お疲れ様です」
彼女から先に声をかけられた。少し遅れて
「お疲れ様です」
嬉しくて浮ついた声が出ないように、少し低めに返す。
「さっき、教室から野口先生見えて。目が合いましたね」
ふ、と笑った彼女に見惚れつつ、やっぱり気のせいじゃなかったと嬉しくなる。
「合いましたね…」
としか言えなくて、会話下手すぎるだろって自分につっこむ。もっと何か返せればいいのに。
「野口先生、足速いですね。羨ましいです」
「いやぁ…それくらいしか取り柄ないんで」
「私は運動できないので羨ましいです、かっこよかったですよ」
ひゅっ、と、変な呼吸をしてしまった。息の吸い方が分からなくて、ひどく驚いたんだと気づく。
今日は、やけに彼女と話すことが多くて、彼女から与えられる言葉にずっと動揺してる。
「え、あ、かっこよくはない、と思います…」
「あはは、野口先生、顔赤いですよ」
しまった、表情に出てしまっていた。とても恥ずかしいけど、彼女の笑顔が見れたならいいか、とつられて私も笑う。
こんなやりとりを、ずっとしてみたかった。夢が、ずっと続いているようで、少しふわふわした気持ちになる。
「じゃあ、また」
「はい、また」
彼女が私の横を通り過ぎて、風に乗った香りが、私を掠めていく。彼女の香りを感じて好きだなぁ、と実感するとともに、より頬が熱くなるのを感じる。ただし、決して変態ではないと断言させてほしい。
「……やば」
呟いた言葉も、廊下を抜ける風に乗って、消えていった。
怒涛の毎日を過ごして、約束した金曜を迎えた。
本当に、怒涛だった。仕事はもちろん大変だけど、それ以上に彼女の距離の近さに慣れなくて、本当に大変だった。
朝の会話が増えた。背中越しに感じていた彼女は、隣にいることが多くなった。グラウンドから見える教室にいる彼女とよく目が合うようになった。すれ違う時、挨拶だけじゃなくて一言話すようになった。
些細な、距離の近づき方が、どうにも慣れなくて。ただ、距離が近づくたびに、好きが大きくなっていく。ひっそりと、秘めていた思いは自分の中だけに収めておくのが難しくて。どうにか、抑え込んで、ただの同僚として接することを意識した。
18時を少し過ぎたところで、彼女の方に目を向ける。彼女はまだ仕事が残っているようで、まだかかりそうだった。同じ学年を担当していたら手伝えてたのになぁ、と思いながら、帰る準備を始める。外で待っていようと思ったが、そういえば彼女の連絡先を知らない。聞くタイミングなんていくらでもあったのに。
付箋に、一言『お疲れ様です。近くのカフェで待ってます。急がなくて大丈夫なので、無理せず頑張ってください』と、書き、彼女の席の近くへ歩く。
彼女の左手の少し横に、その付箋を置いて。
「…お疲れ様です、お先失礼します」
少し冷えてきた外へ歩き出した。
30分くらい経って、もう少しでコーヒーがなくなりそうな時、店の入り口の方からバタバタと音が聞こえた。音のする方を向くと、息を切らしながら、こちらへ向かってくる彼女がいた。
「はぁ、すみません、おそくなり、ました…」
そういえば運動が苦手だと言っていたっけ。そんな彼女が、走って自分に会いにきたという事実に、心臓の音が早くなるのを感じた。
「全然待ってないですよ。むしろ、そんな慌てさせてしまってすみません」
「いえ、早く野口先生とご飯いきたかったので…」
そう言って微笑む彼女に、動揺してるのを悟られないように、表情を作る。
「私も楽しみにしてました。でも、少し休んでから行きましょうか、疲れましたよね」
「いえ、大丈夫です。行きましょう、ご飯」
彼女は意外と頑固で、こちらが何を言っても折れないことを最近増えた会話の中で知った。行くと言うならもう行くのだろう。荷物を持ってカフェを出ることにした。
「佐々木先生、何食べたいです?」
「そうですね…和食とかどうですか?」
「ありです、実は私も和食の気分でした」
「何それ、絶対嘘でしょ」
少し砕けた話し方に、優しい笑い方。それがどれも自分に刺さって、見つめてしまう。息の仕方を忘れて、ただ見惚れてしまう。
「…え、何か顔についてます?」
「あ、いえ、何にもないです、大丈夫です」
「変な野口先生」
職場を抜けると、ここまで彼女は緩くなるのか。これは知らない部分で、それに動揺しているのを彼女に悟られはじめている。全部知られる前に、早く話をご飯に戻さねばと、店決めに全力を注いだ。
2人で初めて食べたご飯は、緊張であまり味は覚えてないけど、ここ最近で1番楽しい時間だったことは覚えている。仕事の話とか、お互いの私生活のこととか。…恋人がいないことも、流れで知った。別にチャンスがあるとか、そういうのではないけど。アピールは、少ししてもいいのかな、と思っている。多分。
「そろそろ出ましょうか」
私がそう声をかけると、少しだけ、気のせいじゃなければ寂しそうな顔をした。もう帰るのか、とそんな表情に見えて。自惚じゃないと思いたい。私だって、もう少し一緒にいたいと思っているのだ。
「…佐々木先生が良ければ、家とかで少し飲みます?」
「いいんですか?」
「全然、ちょっと部屋汚いんで片付けする時間欲しいですけど」
「一緒にやります」
「いや、それはさすがに」
「やります」
「…はい、じゃあ出ましょうか」
会計に行き、支払いを済ませる。彼女が財布を開けたとき、何か落ちる。拾い上げると、見覚えのある付箋。私の、書いた付箋。なんでこんなものが、ここに落ちているのか。
とりあえず、手に持って、彼女に言い出せないまま、店を出る。
「…あれ」
財布をしまうとき、彼女がぽつりとこぼした。なにかがない、そんな声で。
財布をもう一度開けて確認したり、カバンの中を、なにかがない様子で、必死に探している。
「野口先生すみません、落とし物したかもしれなくて。店に戻ってきてもいいですか?」
席を立つとき、忘れものなんてなかったはず。彼女が探しているのは、私の手に持っているものなんだろうか。
「……忘れ物は、もしかしてこれですか」
手に持っていた付箋を彼女の前に持ってくる。彼女がそれを目にすると、見つけたという安心した顔をして、すぐに真っ赤に染まった。
「あ、え、い、いつこれを」
「さっき会計してるときに落ちたので、一応拾っといたんです…」
沈黙が流れる。ただ、嫌な沈黙ではなかった。
ただ、その付箋を大事に持っていた、その事実にきっと浮かれていたんだと思う。
「好きです、舞香さん」
いつもみたいに、風に乗って消えてはくれなかった。しっかりと、この言葉は彼女の前に落ちていった。口にしてから、自分が何を言ったか気づく。
舞香、なんて、下の名前で呼んだのも初めてだった。
「…それ、どういう意味ですか」
彼女の瞳が、私を映す。綺麗だなぁ、とかもっと見てたいなぁとか、少し場違いなことを思う。
「そのままの意味です。好きな人に言う意味の方」
遠回しな言い方で、真っ直ぐに言えなかったことに少し後悔する。
彼女は視線を逸らして、何かを決めたような顔をした。彼女に好かれてはいたかもしれないけど、私と同じ意味ではないことはわかる。
「…野口先生」
先生、いつもの呼び方に見えない距離を勝手に感じた。せっかく近くなった距離が離れていくのか。自分で壊したくせに、泣きたくなる。せめて、恋人じゃなくても、同僚でもいい。何かしらの形で側にいれればそれでよかったのに。
足りなかった。もっと求めてしまった。溢れてしまいそうな思いに、蓋ができなかった、それだけだった。
「はい」
どうにか返事をする。彼女とは目が合わないままだ。さっきの沈黙とは違って、今回はちゃんと重い。
「………私も同じ意味で、好きですよ」
「へ?」
だいぶ、間抜けな声を出した気がする。彼女がなんて言ったか、聞こえたようで聞こえなかった。でも確かに、好きと、言った。
「え、あ!え!?」
「ちょっと…!声大きいです」
1人で大騒ぎしてると、彼女に口を塞がれる。近い。離れると思っていた距離は、もっと近くなっている。
口を塞ぐ彼女の手をとって握ってみる。少し驚いたように固まったけど、ゆっくりと力が入って、握り返される。
そこに、彼女の好きが詰まっている感じがして、嬉しくなる。
「勝手に呼んだんですけど、学校以外では舞香って呼んでもいいですか」
「…………どうぞ」
「敬語も、やめていい?」
「……好きにして」
「付き合ってくれる?」
「…………うん」
「かわいすぎる」
心の声をそのまま口に出してしまった。彼女は、赤い顔を、より赤くして、こちらを睨む。
「うるさい」
「えー、舞香って付き合うとこんな感じになるの?まって、かわいい。好きが止まんない」
「ほんと黙ってほしい、恥ずかしくないの」
「全然。むしろ全部伝えたい」
「逆に衣織は付き合うとそんな感じなんだね……」
衣織。確かに、彼女は呼んだ。
「衣織だって…えー!どうしよう、私学校で普通の顔して会える自信ない」
「学校では呼びません」
学校で見ていた彼女とは全然違うのに。こんなに可愛いのかと1人衝撃を受けている。惚れた弱みか、これが。
「とりあえず、私の家行く?」
「そうする」
店を出る前の、ちょっとした隙間が今はない。すぐ横に、彼女がいる。
この日、少し遠かった彼女は、私の隣にきた。
いつもの朝。いつもの時間。職員室の扉に手をかける。ただ、いつもより深く息を吸って、扉を開けた。
目に入る人。少し前に、恋人になった人。せっかく整えた呼吸が、少し乱れる。
「ま………佐々木先生、おはようございます」
「……おはようございます」
まずい、舞香って呼びそうになったのに気づかれた。じっと睨むようにこちらをみている視線にいたたまれなくなって、そそくさ自分の机に座る。
昨日も、その前も会っているけど、やっぱりこの朝の時間は特別で、関係性が変わっても出勤時間は変えなかった。
これ以上話すと余計なことを言いそうで、授業の準備を黙々とする。集中していたせいで、彼女が隣に来たことに気づかなかった。
「ねぇ」
「うわ!?え!?なに!?」
「うるさ…静かにして」
声をかけられて声のする方を見ると、思ったより近いところに顔があって思わず大きな声がでた。佐々木先生の距離でも話し方でもなくて、舞香としての話し方に少し動揺もして。
「な、なに…どうしたの」
「んー、なんとなく来ただけ」
「なんとなくって、もうすぐ他の先生来るから」
言い訳をして、彼女を離す。こんなにも近いと、自分が何をするかわからない。また夜会える。その時に思う存分、彼女を感じれればそれでいい。
「…………衣織」
「な、」
珍しく学校で呼ばれて、自分だけ名前で呼ぶなんてずるいと思いながら、返事をした時だった。ほんの少しだけ彼女の唇が私のに重なって、すぐ離れた。呆気にとられてる私を置いて、彼女は自分の席について仕事を始めている。
「…え」
何をされたか分かってはいるけど、分からない。え?舞香が?学校で?なんで?という言葉が頭の中でぐるぐるしている。
「え!!!痛っ……!」
大きな声を出すと同時に思いっきり膝を机にぶつけた。どんだけ動揺してたんだ、私。
「くっ……あはは!」
後ろで笑い声がする。私の様子を見て楽しんでいるんだろう。悔しい。
「ちょっと、まい」
「おはようございます〜」
名前を呼ぼうとしたところで、別の先生が出勤してきた。なんというタイミング。
「野口先生、大きな声出してましたけど、どうしたんですか?」
廊下にまで聞こえていたのかと恥ずかしくなる。
「え、いやぁ…えっと……」
「野口先生、嬉しいことあったみたいで喜んで膝をぶつけてたんですよ」
舞香のせいなのに!と叫びたくなるくらい、彼女は平然と言って、自分はなにも関係ないとでもいうように仕事を再開する。
「えー!そうなんですか。どんないいことあったんですか?」
「いやぁ…それはちょっと、言えないですね……」
いつもの特別な朝が、もっと特別になった日だった。


















良すぎます。脳みそ幸せ。続きもみたい気持ちです。