放課後。生徒のほとんどが帰った静かな教室で、私は一人、窓際の席で頬杖をついていた。
本当なら、とっくに鞄を肩に下げて帰っている時間なのに、私がいまだにここに居座っている理由は簡単だ。
「ごめん舞香! 今日ちょっとクラスの人と文化祭の準備あるから、残っててくれると嬉しい!」
昼休みに私の席まで来て、申し訳なさそうに、でもどこか楽しそうに両手を合わせて拝んできた幼なじみが、まだ戻ってきていないから。
野口衣織。
私の人生の、そのほとんどの記憶を占めている存在。
幼稚園からずっと一緒だった。一番最初に出会った日のことも、私は今でも鮮明に覚えている。
入園して間もない教室の隅だった。誰も彼もがはしゃぎ回る賑やかな部屋の片隅で、誰とも話せず、お気に入りの小さなぬいぐるみをちぎれそうなほど強く抱きしめて、声を殺して泣いていた女の子。それが衣織だった。
世界のすべてを怖がっているようなその姿が、なぜか当時の私の目を強く惹きつけた。
「なにしてるの?」
退屈しのぎに声を掛けた時、衣織はまるで雨の中に捨てられた子猫みたいな顔で、涙で濡れた大きな目をさらに見開いて私を見上げた。
「……こわい」
「なにが?」
「みんな、いっぱいいて、こわいの……」
今にも消えてしまいそうな情けない返事。いかにも頼りなくて、だから余計に、私が守ってあげなきゃいけないような気持ちにさせられたのを覚えている。
それを見た私は、おかしさのあまり思わず笑ってしまった。そして、何も言わずにその小さくて少し冷たい手をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ、私と遊ぼ」
その日から、衣織はいつも私の隣にいた。
どこへ行くにも、何をするにも、私のスモックの裾を小さな指先でそっと掴み、一歩後ろをついて回った。
お遊戯会で緊張のあまりセリフが飛んで、舞台の上で固まってしまった時は、私が舞台袖から大きな声を出して助けてあげた。衣織は出番が終わった瞬間、私の胸に飛び込んできて、ワンワン泣いた。
かけっこで転んで泥だらけになれば大声で泣き、知らない子に話しかけられたら、すぐに私の背後に隠れる。
そんな衣織の手を引いて、代わりに声を出すのは、いつも私の役目だった。
小学校に入っても、その関係は何も変わらなかった。
むしろ、クラス替えという試練のせいで、衣織の私への依存度は高くなった。
別のクラスになってしまった学年の初め、衣織は休み時間のたびに私の教室の入り口に立って、不安そうな顔でこちらを見つめていた。
周りの子に「あの子、また舞香のこと待ってるよ」と言われるのが、実は少し嬉しかった。
移動教室の時は、必ず私の隣をキープしようと小走りでやってくる。
私が風邪で学校を一日休んだ次の日、衣織は泣き腫らした目で登校してきて、「舞香がいない学校なんて、本当につまんなかった。もう絶対休まないで」と私に抱きついてきた。
中学校に進学した頃から、衣織は少しずつ大人びた落ち着きを見せるようになっていった。
特に、成長するにつれて少し低めの心地いい響きへと変わっていった彼女の声は、どこか特別だった。
合唱コンクールで衣織がソロパートを歌った時、その真っ直ぐで綺麗なアルトの歌声に、体育館中が静まり返ったのを覚えている。
それでも、私に向ける笑顔や中身は、あの頃の泣き虫な衣織のままだった。
「舞香〜……次の時間の英語のスピーチ、本当にやだ。どうしよう」
「まだ三日後じゃん。心配するのが早すぎ」
「三日しかないよぉ……。ねえ、お願いだから舞香が隣にいて? 舞香がいないと私、緊張で一言も喋れなくなっちゃう」
「いるよ。いつも隣にいるじゃん」
そう言うと、衣織はそれまでの不安が嘘だったかのように、安心した顔でふにゃりと眉を下げて笑った。
その顔を見るたび、私の胸は奇妙な全能感と愛おしさで満たされていた。
私がいるから衣織は大丈夫なんだ。
私がこの子を守る。
私だけが守れる。
それは呼吸をするのと同じくらい当たり前で、私だけの心地よい特等席だった。
だから気付かなかった。
ゆっくりと、でも確実に、変わり始めていたのは衣織の方だったということに。
高校に入ってから、衣織は驚くほど急激に、そして圧倒的に綺麗になった。
元々整った顔立ちをしていたけれど、成長するにつれて、彼女自身の持つ魅力が一気に開花したのだ。
ハッとするほど大人びた綺麗さがあるのに、立ち振る舞いは凛としていて、どこか格好いい。なのに、私の前でふにゃりと笑う瞬間は、昔と変わらずたまらなく可愛い。
そんな、すべての魅力をずるいほど兼ね備えた彼女は、すぐに校内で噂の的になった。
「なぁ、二組の野口さんってめっちゃ綺麗じゃない?」
「わかる。綺麗だし格好いいのに、笑うとめっちゃ可愛いんだよね」
「なんかさ、全部持ってるよね。そりゃモテるわ」
廊下ですれ違う他クラスの生徒たちがそんな会話を交わしているのを聞くたび、最初は誇らしかった。
当然だ、とさえ思った。
衣織の魅力を世界で一番知っているのは自分だという自負があったからだ。
けれど、その誇らしさは、時が経つにつれてじわじわと焦燥感へと変わっていった。
「野口さん、今日の放課後、一緒に駅まで帰らない?」
「え? あ、うん! いいよ!」
「野口さん、次の学祭の実行委員やろうよ。お願い!」
「えっ、私でいいの?……うん、足引っ張らないように頑張る!」
男子からも女子からも関係なく、気付けば衣織の周りにはいつも誰かの姿があった。
クラスの中心で大声を出すタイプではないのに、その誠実さと、楽しそうに笑う姿で、誰からも慕われ、愛されていた。
昔は私にしか見せなかったはずのあの笑顔を、今は私の知らない人たちに向けている。
他の誰かと楽しそうにハイタッチをし、談笑する衣織の後ろ姿を見るたび、私の胸の奥は鋭くざわついて、面白くなかった。
幼なじみとしての過保護な心配だと言い訳をして、必死にその感情に蓋をしていた。
けれど、高校二年の春、その蓋は跡形もなく吹き飛んだ。
「ねえ、舞香。……私、さっき告白された」
一瞬、心臓が泥を塗られたように跳ね上がって、頭の中が真っ白になった。
「……へぇ。そうなんだ。誰に」
「ちょっと反応薄くない? こっちは心臓バクバクだったんだからね。同じクラスの、ほら、前の席の男子だよ」
困ったように笑う衣織の前で、私は逆立ちしても笑えなかった。
その日の夜、家に帰って部屋のベッドに飛び込んだ瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。
枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
告白。
付き合う。
恋人。
その言葉が何度も頭の中で不吉に反響する。
もし衣織に恋人が出来たら、毎日の帰り道も、休日の予定も、夜遅くの長電話も、夏祭りに一緒に行く約束も、全部私の知らない「誰か」のものになる。
その時、私は初めて心から理解した。
自分が抱いていた醜い感情の正体を。
それは綺麗な保護欲なんかじゃなかった。
姉妹のような愛情でも、ただの友情でもない。
もっと独りよがりで、もっと独占欲に塗れた、激しい感情。
――私は、衣織に恋をしている。
気付いてしまった瞬間から、世界は完全に変わってしまった。
今まで当たり前だった近すぎる距離が急に過剰なものに思えて、偶然触れる肩や向けられる笑顔のすべてに心臓がうるさく騒いだ。
なのに衣織は何も知らないまま、昔と同じ無邪気な顔で私の隣にいる。
それが苦しくて、愛しくて、どうしようもなかった。
正式に自分の恋心を自覚してからは、衣織に名前を呼ばれたり、不意に近くに寄られたりするだけで、耳の奥が熱くなるようになった。
昔の可愛らしさも大好きだった。
けれど今の彼女の、少し低くて胸に深く届く声で「舞香」と呼ばれるたび、幼なじみの枠を飛び出して抱きしめたくなってしまう自分を、必死に抑え込んでいた。
そして、季節は流れ、高校三年の秋。
文化祭の準備に追われる放課後、私は衣織を迎えに行く途中、校舎の裏手で、恐れていたその瞬間を目撃することになる。
校舎の裏手。
そこに、真っ直ぐに想いを伝える男子生徒と、それに向き合う衣織の姿があった。
それを見た瞬間、私の脳裏には冷たい恐怖がどっと押し寄せた。
目の前にいるのは、もうあの頃の泣き虫な衣織じゃない。
弱くもない。
何をするにも私の後ろに隠れて、私の服の裾を掴んでいた女の子ではない。
綺麗で、格好よくて、可愛い、一人の女性として強く恋をされる人になったのだ。
もう、私の後ろに隠れていただけの幼い衣織ではないのだと、突きつけられているようだった。
「――ずっと好きでした。俺と付き合ってください」
男子生徒の、震えるけれど真っ直ぐな声が響き渡る。
その言葉が耳に突き刺さった瞬間、私の頭の中は完全に真っ白になった。
次の瞬間、衣織がどんな顔をして、どんな答えを出すのか。
それを聞くのが、狂おしいほどに怖かった。
もし衣織が、私の知らない誰かの想いを受け入れてしまったら。
その現実をこの場で突きつけられたら、私はきっと正気ではいられない。
「あ……」
喉の奥から小さな悲鳴が漏れそうになるのを必死に抑え、私は衣織が口を開くより前に、その場から逃げ出した。
衣織の返事を聞くことから、その結末から目を背けるように、ただ無我夢中で走り続けた。
気づけば、校門を飛び出した私の足は、二人のいつもの待ち合わせ場所である、通学路の古い公園で止まっていた。
錆びついたブランコに腰をかけ、鎖を壊れるほどの力で握りしめながら、膝に顔を埋めた。
「……最低、私」
衣織がどんな返事をしたのかさえ分からないのに、涙が次から次へと溢れてくる。
もし衣織があの告白を受け入れて、誰かのものになってしまっていたら。
幼なじみとして祝福してあげなきゃいけないのに、胸が引き裂かれそうに痛い。
男子生徒の「付き合ってください」という言葉だけが頭の中をぐるぐると回り、私を容赦なく抉る。
私のあの特等席は、もう消えてしまったのだろうか。
これからどうやって衣織の隣にいればいいのか、まったく分からなかった。
その時だった。
「――みーつけた」
突然、頭上から降ってきた、世界で一番大好きだけど、今は少しだけ聞くのが苦しいその声に、私の心臓が跳ね上がった。
慌てて顔を上げると、そこには少し息を切らせた衣織が立っていた。
カバンを両手で持ち、少し前かがみになって私の顔を覗き込んでいる。
その美しい瞳には、かつて私の後ろに隠れていた頃のような、不安げな色が浮かんでいた。
「図書室にいなかったから探したんだよ? 先に帰っちゃったのかと思った」
衣織の姿を見た瞬間、さっきの告白の場面がフラッシュバックする。
もう、彼女は他の誰かと付き合ってしまったのだろうか。
そう思うと、私はわざと視線を逸らし、冷たく突き放すような声を出してしまった。
「……ちょっと、風に当たりたくて」
そんな歪んだ態度を取ってしまう自分が嫌でたまらないのに、言葉がうまくコントロールできない。
「舞香、怒ってる……?」
「怒ってない」
「嘘。舞香、隠し事するとき、いっつもそうやって左側向くもん」
衣織はそう言うと、私の隣のブランコに腰掛けた。
鎖が軋む音が、静かな公園に響く。
衣織のその真っ直ぐな瞳は、私の嘘を簡単に見抜いていた。
少しの沈黙の後、衣織は静かに、けれど明確に切り出した。
「断ったよ。さっきの、校舎の裏のやつ」
「え……?」
思いがけない言葉に、私は思わず衣織を振り返った。
衣織は夕闇に溶けそうなほど穏やかな顔をしていた。
でも、その少し低めの声には、隠しきれない切なさが滲んでいた。
「あ、やっぱり見てたんだ。途中で走って逃げていく後ろ姿が見えたから、すぐに追いかけてきたの」
「……うん」
「ちゃんとお断りしたよ。『好きな人がいるから、付き合えない』って」
「好きな、人……?」
私の声が震える。
断ってくれた安堵も束の間、衣織に、私の知らない大好きな人がいたという事実が、また新しい刃となって私の胸を刺した。
「……うん。ずっと、昔から大好きな人。……ねえ、誰か分からない?」
「分かるわけないじゃん」
「本当に?」
「分かんないよ……っ!」
思わず声を荒らげて俯いた。
これ以上、自分の知らない誰かの名前なんて聞きたくなかった。
胸が苦しくて、引き裂かれそうで、視界が涙でめちゃくちゃに滲む。
その瞬間、隣のブランコから鎖の音が激しく鳴り、衣織が私の目の前に一歩、踏み込んできた。
「……っ、何で分かんないの、ばか舞香……!」
降ってきたその言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。
目の前にいる衣織は、今にも張り裂けそうな泣き顔をしていた。
その大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちている。
「私、ずっと、ずっと舞香が好きだったのに……! 私がずっと見てたのは、舞香だけなのに……!」
時間が、完全に止まった。
「……え?」
「ずっとだよ。幼稚園の時から、ずっと舞香だけだよ!」
衣織の言葉は、激しい感情の奔流となって、私の心を直接揺さぶってきた。
必死に想いをぶつけてくるその姿は、あの頃の衣織そのものだった。
「舞香は覚えてないかもしれないけど、私、本当に何もできなかった。みんなが怖くて、毎日泣いてばかりで……でも、舞香が手を引いてくれたから、笑えるようになった。お遊戯会で助けてくれた時も、私が風邪引いたって大泣きした時も、私の世界を救ってくれたのは、いつだって舞香だったんだよ」
衣織は涙を流しながら、堰を切ったように言葉を紡ぎ続ける。
「……でも、高校に入って、舞香の周りにもたくさん人が集まるようになって、私、すごく怖くなったの。自分が何もできなくて、いつも舞香の後ろに隠れてるだけの存在だったら、いつか舞香に呆れられて、置いていかれちゃうんじゃないかって」
衣織の声が震える。
それでも、彼女は逃げなかった。
昔みたいに私の後ろに隠れるのではなく、私の目の前に立って、自分の言葉で、自分の想いをぶつけていた。
「舞香の隣にいても恥ずかしくない人になりたかった。舞香と対等になりたかった。だから、いろんな人と話す練習もしたし、自分を変えようって必死に頑張ったの」
気付けば、衣織の手が伸び、私の頬に触れていた。
幼稚園の頃の、あの小さくて震えていた手ではない。
昔より少し大きくなって、でも、あの頃とまったく変わらない、愛おしい温もり。
「全部……全部ね、舞香の隣にずっといたかったからなんだよ? 舞香のためだったんだよ……っ」
限界だった。
私の目からも、堪え切れない涙が溢れ出していた。
私は狂おしいほどの愛おしさに突き動かされ、目の前の衣織の身体を、壊れてしまいそうなほど強く抱き締めた。
「ばか……!」
「う、ぐすっ……うん」
「そんなの、知るわけないじゃん……っ!」
「だって、舞香が全然気づいてくれないんだもん……」
「ずっと言えよ……っ! 私だって、私だって衣織が好きなのに……! 幼なじみとしてじゃなくて、他の誰にも渡したくないくらい、大好きなのに……!」
抱き締める腕に、さらに力を込める。
衣織の返事を聞くことから逃げ出し、絶望していたあの時間が嘘のように、お互いがお互いを想うがゆえにすれ違い、積み重なってきた重すぎるほどの感情が、今、夕闇の公園で完全に一つに溶け合っていく。
二人の泣き声と、重なる鼓動だけが、静かに響いていた。
しばらくして、衣織が私の肩に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟いた。
「ねえ、舞香」
「なに……」
「もう、後ろは歩かないよ」
衣織が顔を上げる。
涙で濡れた瞳の中に、かつての守られるだけだった泣き虫な少女の面影は、たしかに残っている。
でも、それだけじゃなかった。
そこにはもう、一人の美しい女性としての、強い意志があった。
「これからは、隣。ずっと隣にいる。いいでしょ?」
その、どこかホッとするような低めの声で紡がれた言葉に、私は涙を拭いながら、今日一番の笑顔を返した。
「うん。私の隣は、衣織じゃないとダメだから」
完全に夕闇が街を包み込み、街灯の柔らかな光が私たちを優しく照らし出す。
置いていかれる恐怖も、失う不安も、もうどこにもない。
私たちはどちらからともなく、ぎゅっと手を繋いだ。
幼稚園のあの春の日、初めて繋いだあの日と同じように。
でも今度は、守るためでも、縋るためでもない。
一緒に未来へ歩むために。
前でも後ろでもない。
私たちは並んで、いつもの帰り道を歩き出す。
これから先もずっと、隣同士で。
















