ライブ前日、会場の空気は独特の緊張感に包まれていた。
照明スタッフが光の調整を繰り返し、ステージ袖では衣装や小道具の最終確認が進んでいる。
メンバーたちは笑顔を見せながらも、それぞれの胸の中には「明日」が重く響いていた。
その中で、衣織は少しだけ周りから浮いて見えた。
マイクを握る手に、力がこもっている。
さっきから何度も喉をさすったり、呼吸を整えたりしているのに、声が思うように出ない。
「……また、ダメだ」
小さく呟いたその言葉は、ステージの広さに吸い込まれていく。歌は得意なはずなのに、今日は高音が伸びず、表情も硬い。
そんな衣織の様子を、すぐそばで見ていたのが舞香だった。
舞香は衣織とシンメになることが多く、ユニゾンやハモリもよく組む。だからこそ、いつもの衣織の呼吸や声の伸び、目線の強さまでよく知っている。
リハーサルが一区切りついた瞬間、舞香は迷わず衣織のほうへ歩み寄った。
「衣織、ちょっと。今日、なんか声が硬い」
「……うん。なんかね、全然出ない」
「緊張?」
「そうかも。考えすぎてるのかな。わかんないけど……」
衣織は俯いたまま、マイクを両手で包み込むように持っていた。その姿を見て、舞香は小さくため息をつき、柔らかく笑った。
「じゃあ、ちょっと一緒に練習しよ。人の少ないとこ行こ」
舞香は軽く衣織の腕を引き、ステージ袖の奥へ。
スタッフやメンバーの視線から少し離れた、物置スペースの横まで連れて行った。そこは舞台の音も少し遠く、声を出すにはちょうどいい。
「はい、深呼吸」
「……はぁ、ふぅ」
「もっと。お腹まで空気入れて」
舞香の声はいつもの冗談混じりではなく、落ち着いた低めのトーンだった。衣織は言われた通りに深く息を吸い、吐いて、少しずつ肩の力を抜いていく。
「じゃあ、私の声に合わせて。軽く“あ〜”から」
「……あ〜」
「もうちょい優しく。ほら、喉じゃなくてここ」
舞香は衣織の胸のあたりを軽く指差し、息の流れを意識させるように促す。
何度か繰り返すうちに、衣織の声が少しずつ柔らかくなっていく。高音も、まだ本調子ではないが、さっきよりも明らかに伸びがあった。
「……あ、出る」
「でしょ?」
舞香は小さく笑って、衣織のマイクに自分の声を重ねる。
「じゃあ……ユニゾンのとこ、ここだけ合わせよ。いくよ、せーの」
二人の声が重なった瞬間、衣織の表情が少しだけ変わった。舞香の安定した声が、自分を支えてくれている感覚。ずっと不安定だった足元に、急に地面ができたような安心感があった。
歌い終わると、舞香は軽く肩を叩きながら言った。
「明日もこんな感じでやればいいよ。全部一人で背負わなくていいから」
「……うん」
「私もいるし、みんなもいるし。ほら、衣織の声、好きな人いっぱいだよ」
衣織は小さく笑って頷いた。
その笑顔は、さっきまでの曇った表情とはまるで違っていた。
そして、いよいよ本番当日。
楽屋は、メイク道具や衣装、小物が所狭しと並び、スタッフの声やドライヤーの音が絶えず響いていた。
客席ではすでに観客のざわめきと拍手が聞こえ、空気全体が熱を帯びている。
鏡の前では、メンバーたちが衣装の微調整やメイク直しをしながら、それぞれの方法で集中を高めていた。
しかしその一角で、衣織は少し硬い表情のまま、膝の上で手を握りしめていた。
「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせるように唇を動かすが、胸の奥にじわじわと不安が広がっていく。
そんな衣織の様子に、最初に気づいたのは杏奈だった。
ちらりと衣織の方を見て、その張り詰めた雰囲気を感じ取る。そして、まるで空気を変えるように、パッと明るい声をあげた。
「よーし!今日も最高に可愛い私たちでいくよ!」
「……杏奈、それいつも言ってるよね」
「だって事実じゃん!」
杏奈は衣織の隣に腰を下ろした。
「衣織、緊張してる?」
「……してないって言ったら、嘘になる」
「だよね。でも、緊張って悪いもんじゃないよ。ほら、みんな衣織の歌、楽しみにしてるんだから」
杏奈はそう言いながら、衣織の背中を軽くポンと叩いた。
「はい、深呼吸!」
「……はぁ、ふぅ」
「もう一回!」
衣織は仕方なさそうに笑って、もう一度深く息を吸い込んだ。
そのやり取りを、楽屋の端で舞香も見ていた。
鏡越しにチラチラと衣織の方を見ながら、口の中で静かに歌のフレーズを繰り返す。
昨日のリハでの感覚を思い出し、衣織に視線を送る。
衣織が少しだけ表情を和らげたのを見て、舞香は声をかけた。
「衣織、昨日の“あ〜”覚えてる?」
「……覚えてる」
「じゃ、今やっとこ。ほら、軽く」
舞香は椅子から立ち上がり、手で軽くテンポを取るようにしながら声を出す。
衣織もそれに合わせ、力を抜くようにして続いた。
ほんの数秒のやり取りだが、その短いウォーミングアップは、衣織の呼吸を少し落ち着かせた。
「うん、その調子。今日も私が横で歌うから、安心して」
「……ありがとう」
「いいって。こっちも、衣織の声がないと困るし」
そんな二人の会話を、杏奈は少し離れたところから微笑ましそうに眺めていた。そして、明るく声を張り上げる。
「はい!そろそろ円陣組むよー!」
全員が自然と中央に集まる。
緊張と高揚が入り混じった空気の中、衣織は隣で笑うメンバーたちの温もりを感じながら、心の中で静かに呟いた。
大丈夫、みんながいる。
暗転したステージに、観客のざわめきが高まる。
イントロが流れ始め、照明がつくと同時に、メンバーたちは立ち位置へ駆け出した。
1曲目は「青春サブリミナル」
アイドルらしいダンスと伸びやかな歌声が魅力の、ライブの幕開けにふさわしい曲だ。
衣織はポジションにつき、笑顔を作りながらも心臓の鼓動が耳の奥まで響いてくるのを感じていた。
足は軽やかに動く。ダンスは完璧。
だが、最初の歌い出しからほんのわずかに、声が震えていた。
自分でもそれに気づき、焦りがじわりと胸の中に広がる。
「やばい、このままじゃ……」
必死に笑顔を保ちながらも、どこか心が置き去りにされたような感覚。観客の歓声も、ライトの眩しさも、少し遠くに感じていた。
曲は進み、迎えた後半。舞香とのハモリパート。
その時、衣織と舞香はステージの端と端、1番離れた位置に立っていた。
本来なら遠くて表情までは見えないはずの距離。
それでも、舞香は迷うことなく、まるで真っ直ぐ射抜くように視線を送ってきた。
その目は、優しかった。
(大丈夫だよ)
声に出さなくてもそう伝えてくるような、柔らかく包み込むような眼差し。
ほんの一瞬、衣織の体から力が抜けた。
次の瞬間、舞香の声と衣織の声が重なり合う。
舞香の声は決して前に出すぎず、でも芯があって温かい。自然に寄り添い、支えてくれる。
その瞬間、衣織の声は安定を取り戻していた。
音程も、息の流れも、すべてが落ち着いていく。
(やっぱり私、この子と一緒に歌えることが誇りだ)
ハモリパートを終えると、衣織は自然と笑顔になっていた。それは演技ではなく、心から溢れたものだった。
残りのステージも、その笑顔のまま全力で駆け抜けていく。隣に舞香がいて、背中を押してくれる限り、もう怖いものはなかった。
ステージから降りた瞬間、全員の体から一気に熱気が吹き出すようにあふれた。
「おつかれーっ!!」
「最高だったー!」
スタッフやメンバーの声が交錯し、楽屋はすぐにお祭り騒ぎのようになった。
鏡の前では杏奈と花菜がスマホで自撮りを連写している。
反対側では、樹愛羅と瞳がケータリングの唐揚げを争奪戦のように取り合っていた。
「あー!瞳ちゃん!それ最後のやつじゃん!」
「はやい者勝ち〜!」
そんな笑い声とシャッター音が絶え間なく響く。
その賑やかさの中、衣織はタオルで顔を押さえたまま、そっと舞香の方へ歩み寄った。
舞香は椅子に腰掛け、水のペットボトルを片手に息を整えている。
衣織は隣に腰を下ろし、少し間を置いてから、小さな声で言った。
「……ありがと」
「ん?なにが?」
「今日のハモリ。あの瞬間、舞香が目合わせてくれたから……ちゃんと声出せた」
舞香は一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。
「なにそれ。メンバーなんだから当たり前でしょ」
「でも私、あの時ちょっと焦ってて……。ほんとに救われた」
舞香は肩をすくめながらも、視線を少し逸らす。
耳のあたりがほんのり赤くなっているのを、衣織は見逃さなかった。
「……ふふ。照れてる?」
「照れてないし。ただ……あんたがちゃんと歌ってくれると、私も気持ちいいってだけ」
その言葉に、衣織も思わず笑みをこぼした。
二人の周りでは、相変わらず杏奈が「はい、次こっち向いて!」とみんなを呼び寄せ、メンバー同士が肩を寄せ合って笑顔を作っている。
でも、その賑やかな空間の中で、衣織と舞香の間だけは、不思議と落ち着いた空気が漂っていた。
言葉は多くなくても、互いの存在を確かめ合うような沈黙が心地いい。
「……じゃあ、次のライブも頼りにしていい?」
「んー……気分次第」
「またそういうこと言う」
「でもまぁ、目くらいはまた合わせてあげる」
舞香がそんなふうに小さく笑った瞬間、衣織は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。周りの喧騒とは別に、二人だけのステージは、まだ続いているようだった。
完。



















