薄いレースのカーテンを透かして、やわらかな朝の光が部屋に射し込んでいた。
窓を開けば、石畳を濡らしていた夜の名残りはすでに乾き始め、通りの向こうからは焼きたてのパンの香ばしい匂いと、目覚めたばかりの街のざわめきがかすかに届く。
古い建物の屋根が幾重にも連なる景色を眺めながら、あの日のジョングギとのやり取りに思いを馳せた。
タイミングが良かったのか悪かったのか、翌日から個人スケジュールで海外に飛ぶ事になっていたため、あれからヤツとは顔を合わせていない。既に一週間が過ぎ去っており、今日の帰国日を迎えている。
こちらに到着して二日が過ぎた頃、突如ジョングギから『今朝、虹が見えました』とのメッセージを添えられて、ビル群に掛かる七色の虹の写真が送られて来た。
ボラへの由来でもある虹は、僕にとっても特別な意味を持ち、気付けば笑みが浮かんでいた。
とは言え、何と返していいか分からず、取り敢えずTATAが親指を立てているスタンプだけ返しておいた。
すると何を思ったのか、そこから朝昼晩と何度も送られて来るメッセージ。
自他ともに認める “スマホを持っている意味がない“ とまで言わしめる男・チョンジョングク。電話をしても出ない、至急連絡よこせとメッセージを送っても、そもそも既読すらつかない。
そんな男が、朝イチのおはようから始まって、何気ない風景や、メンバーの隠し撮り、果てには変顔の自撮りなんかまでせっせと送って来る。
付き合ってる時だって、ここまで頻繁な連絡は来なかった。
こちらも遊びに来ているわけではないから、時差もあいまって返すのは数回に一度程度なのに、気付けば未読がたまっている状態で、いつの間にかそれが楽しみになっている自分に気付き、何とも複雑な気分になった。
フライトを終えて降り立った空港は、日も昇りきらない早朝にもかかわらず人工の白光に満ち、目もくらむほどに明るかった。
メンバーから離れて一人、古い町並みの中で浴び続けていたフラッシュの残像がまだ、まぶたの奥に淡く残っている。自国の地を踏みしめて、ふっと肩の力が抜け落ち、知らず知らずのうちに身体は随分緊張していたこと自覚して、ここに来て一気に疲労感に襲われた。
こんな時間にも関わらず、ロビーに集まっていた人々の合間を潜り抜け、待機していた黒塗りのバンに乗り込む。
「ヒョン!」
車が動き出したと同時に、聞き慣れた声と共に後部座席から黒い塊が身を乗り出して来る。
「は……?お前、何やってんの?」
「お疲れさまでした。迎えに来ました。ヒョン、めちゃくちゃ格好良かったです」
ちゃっかりそのまま隣に座ったジョングギに、思わず前方に視線をやると、バックミラー越しに苦笑いしているドライバースタッフと目が合った。
恐らく……いや、ほぼ間違いなく、無理やり乗り込んで来たに違いない。
「いやさ、今何時だと思ってんの?お前は今日も仕事だろ?寝ないで大丈夫なの?」
「僕は大丈夫です。ヒョンの方こそ、あっちでちゃんと食べれてましたか?」
思わぬ返しに、ぱちくりと目を瞬いた。
確かに人と一緒の時は多少は食べていた。けれど、美味しくもないものを摂取して浮腫みが出るよりは、食べずに撮影に臨んだ方がいいと思い、後半はろくなものを口にした記憶がなかった。
「ですよね。なのでこれ作って来ました。これがユッケジャンクッパ、こっちはデジクッパ、あと一応キンパもありますけど、どれにします?」
何も口には出していないはずだが、訳知り顔でどでかいリュックから次々と取り出される料理。
「………わざわざこれ作って、ここまで持って来てくれたの?」
「放っておいたらまた食べずに寝ちゃうんだろうと思って……味付けをしっかりして、でも胃には優しくなるように考えてみました」
この数日、この子は何を考えてあんな数のメッセージを送って来るのか考えていた。
どうやって僕を説き伏せようか考えていたのだろうか。どんな気持ちでこれを作り、ここまでやって来たのだろうか。
もしジョングギが打算的で計算高い人間だったなら、情につけこんで復縁を迫ろうとするような男だったなら、こんな風に戸惑うこともなかった。
けれど僕は知っている。この子が、決してそんな人間ではないことを。
本心から僕の体を心配して、ただそれだけの理由で、ここまでしてくれるということを。
そんな風に人を思いやれる人間だからこそ、僕はこの子を好きになった。
けれど、ならば何故、とも考えてしまう。その恋心がもう僕の中には存在しないとしても、だ。
困惑、逡巡、滲むような幸福感と、微かな罪悪感。
もう僕自身、自分の本心がどこにあるのかさえ分からなくなってくる。
「じゃあ、これ」
そんな葛藤を呑み込んで指さすと、お前はスープジャーの蓋を開けて、スプーンと共に手渡してくれた。
両手で持った容器はほんのりと温かく、とてもいい匂いがした。でも、思い描く味が僕にはもう届かないことも分かっている。
それでも一口食べると、優しい味がした。驚いてもう一口食べるが、残念ながらモノクロの味に戻っていた。
混乱した脳が、記憶の味を再現してしまったのだろうか。
それでも、じわりと胃が温まる感覚は悪くなかった。完食すると、お前は目尻にたくさんのしわを作って、とても嬉しそうに笑った。
共に宿舎に帰り、自室に戻ろうと思ったが、急に目の前でジョングギが立ち止まる。
どうかしたのかとそのまま待つが、何故か動こうとしない。
「なぁ、そこに居られたら、部屋入れないんだけど」
「……」
後ろに居るので顔は見えないが、薄暗い廊下の空気も相まって、その背中は酷く湿気を含んで見えた。
「……り」
「え?何?」
恐る恐る近付いて耳を傾ければ、ぼそぼそと小さな声音で呟いている。
「……やっぱり、ヒョンが居ないと無理………上手く笑えないし、歌えないし、ずっと怒られてばっかだったし……」
雰囲気のみならず、半べその声にまで湿っぽさが滲み出ている。
おまけに、そのまま膝を抱えてその場に屈み込んでしまった。
「えぇ………」
無理矢理またいで、このまま突っ切ってやろうかとも思ったが、湿り切ったその背中は放っておいたらキノコでも生えそうな勢いだった。他のメンバーへの迷惑も考えて、小さく溜め息を落とす。
「あー、僕の部屋入っていいよ。話聞くからさ」
腕を掴んで引き起こし、僕の部屋に一緒に連れ帰る。一週間閉め切りだった室内の空気を入れ替えようと少しだけ窓を開けた途端、いきなり背後から抱き締められた。
懐かしいその感触に、一瞬身体が固まる。
「ヒョンはもう、僕にこうされても、何とも思わないんでしょ?」
一瞬悩んで、その問いかけに頷いた。
懐かしい匂い、懐かしい温もり、だけど、それだけだった。
僕を抱き締めた腕が、少し震えた気がした。
「お前はさ、一体僕にどうして欲しいの?」
「テヒョンイヒョンが好きだから、一緒にいたい」
「…お前が僕から離れて行ったんじゃん」
「あの時は離れたいって思ったけど、どうしたって離れられなかった。あなたの姿が見えないだけで、上手く息も出来ない……」
あの時は、こいつの言い訳など聞きたくもないと拒絶した。けれど、こうもしおらしくされると、その理由くらいは聞いてやってもいいと思えてくる。だから僕は何も言わず、お前の次の言葉を待つ。
「僕の話を、聞いてくれますか?」
その表情は見えないけど、声の様子からどんな情けない顔をしているのか想像出来てしまう。そのくらいには、ずっとお前だけを見て来たから。
「昔から、あなたの事が、ずっとずっと好きでした」
何も言わない僕を抱き締めたまま、お前は言葉を探すように、ゆっくりと話し始めた。
「だから、付き合えた時はめちゃくちゃ嬉しかった。二人きりで過ごして、あなたと触れ合えて、底なし沼みたいにどんどんと好きになった。怖いくらいに、あなたしか見えなくなった」
微かに震える声は、嘘をついているようには思えなかった。
「あなたが他の人を見るのも、触るのも嫌だった。いつの間にか、どす黒い感情に支配されている自分か怖くなった。それで、耐えられなくなって、あなたから、逃げました……」
逃げた───
その言葉が、頭の中でリフレインする。
胸の中に芽生えた感情は、怒りでも悲しみでも、ましてや喜びなどでもなく、ただ、純粋な疑問だった。
「それさ、そこに一人取り残された僕が、悲しむことは考えなかった?」
「それ、は………」
「しかも、お前が逃げた先には女の子がいた。それを知った僕が、どう思うかは?」
「指一本触れてません!」
「そういう話じゃないよ。まぁ、今更だけど」
「すみません、でした……」
その声から滲むのは悲痛な感情。申し訳なさ、罪悪感、自己嫌悪、そんなものが溢れ返っているようにも感じられた。
けれど、ジョングギが今どれだけ後悔していようと、そのせいで僕は心が壊れる寸前まで追い詰められ、今のこの状況を呼び寄せた事実は変わらない。
「自業自得なのも、どれだけ後悔したって遅いことも、思い知っています」
引かれ合う磁石を無理やり引き離すような緩慢さで僕から離れたお前は、それでも覗き込むように、真っ直ぐすぎるほどの視線を向けてくる。
何かに縋るような声、熱のこもった瞳。
それらはもう、二度と僕には向けられないと思っていたものだった。
けれど、その真ん丸な瞳の奥にあるのは、どうしようもない悲悔の色。それでも煌めく小宇宙のような瞳はどこまでも美しい。そんなお前の目が、かつては大好きだった。愛していた。
だけど、ときめく事はもうなかった。
「あんな終わり方になったけど、僕はお前を好きになったこと、後悔してないよ。お前を好きだった僕自身を、僕は結構好きだった。大丈夫、お前もすぐ僕のことなんか忘れて、違う恋を見つけられるよ」
「僕だって!あなたを好きになった事は後悔していない…!過去形になんて出来やしない。あなたじゃなきゃダメで、あなたさえ居てくれれば、僕は他に何もいらないんだ……」
言葉の勢いはどんどんと失われていき、最後は消え入るような声量だっだ。
共に居た時、確かに愛されていると感じていたのは勘違いではなかったのだと知り、少しの安堵が滲む。二人にとって、あの時間はやはり特別なものだったと知ることが出来たから。だからこそ、あんな終わり方になってしまったのが悔しくもあるし、再び簡単に心を寄せることも出来なかった。
「そんなこと言って、またしんどくなったら捨てるんだろ」
「そんな日は、もう二度と来ません」
「口先だけなら何とだって言える」
「……今はまだ信じてくれなくていいです。でも、僕をあなたの傍に置いて」
僕の大好きだったその真ん丸な瞳から、ポロポロと大粒の星屑が零れ落ちていく。昔からこいつが泣き虫なのは知っている。それでも。
「何でお前が泣くの?それはずるいだろ」
久しぶりに、胸の奥がチクリと痛んだ。可愛いこの子の涙は好きだけど、それと同じくらい苦手でもある。
付き合う前からずっと抱え続けていた熱はもうどこにもない。
一方的に別れを告げられたあの日からずっと、全てが遠くなってしまったから。
それでも、僕の感情の深いところを揺り動かすのは、いつだってこいつなんだ。
「ごめんなさい……」
「お前の期待には添えないよ?」
「分かってます。僕がただ、あなたの傍に居たいんです。それは、許してもらえますか……?」
「……ホントずるいよな。そんなの、僕がダメって言えないの分かってるくせに」
掠れた声だけがこぼれた。
お前は何も口にせず、ただ少し目を伏せる。
窓の隙間から流れ込む空気はひんやりとしているのに、不思議と寒さだけではなかった。
遠くに、春の匂いがした気がした。
あれ以来、ジョングギはせっかく買ったマンションにも帰らず、毎日宿舎に戻って来る。
やり直したいからか、それとも償いの気持ちからなのか、あの日から時間の許す限り僕の傍から離れなくなった。『献身』とはこういう事なのだろうな、と思うくらいには尽くされている。
しかも距離感は心得ているようで、不用意に触れて来る事はしない。
周囲にも、そのことを一切隠そうとはしなかった。
少し形を変えた僕たちの関係に、メンバーや近しいスタッフたちは最初こそ少し戸惑ったようだが、今は『スパダリ』だなんて揶揄ったりもしている。
そんなジョングギと過ごす時間は、凪いだ海のようだった。
付き合っていた頃でさえ、こんなにも穏やかな時間はなかったんじゃないかと思えるほどで、そんな空間を幸せだと感じてしまう自分がいた。
◇
「テヒョンア、悪い、レコーディング録り直しになったから今日行けなくなった」
退勤の準備をしていたら、ジミニが戻って来るなり僕に向かって手を合わせた。
「え、マジで」
「店には連絡入れとくから、誰か誘って行ってきなよ」
「時間掛かりそう?」
「今日はちょっと読めない感じだわ。悪いな」
「それじゃ仕方ないよ、頑張って」
僕が前から行ってみたいと言っていた店のオーナーとジミニの友達が顔馴染みだったらしく、今日の予約を取ってくれて二人で行く予定だった。
正直、今の僕が行っても余り意味はないのだが、ジミニの気持ちが嬉しかったし、店の雰囲気だけでも楽しめそうだったから、その誘いを受けた。
「んー、誰かいるかなぁ…」
せっかく席を用意してもらっている訳だし、とスマホを手にする。しかし、さすがにこの急な呼び出しに応じてくれる人は少ないだろう。
「なら、僕と一緒に行きませんか?」
連絡欄をスクロールしながら考えていたら、声を掛けられて顔を上げた。
そこには、さっき退勤したはずのジョングギがいた。
「あの、忘れ物して戻って来たら、そこでジミニヒョンと会って……」
背負ったリュックの肩紐を両手でぎゅっと握り締めて立ち竦むお前は、所在なさげに視線を足元に落とす。
その何気ない言葉が、普段なら軽口と共に飛び出すような誘い文句すら、今のこの子には緊張を強いるものらしい。
「いいよ」
行こう、と手を差し伸べれば、戸惑うようにそっと手を差し出してくるので、その手を取って歩き出すと、少し後ろから慌ててついてくる。
可愛いな。
僕がこの子を好きになったのは、どういう経緯だったろう。恋心がなくなっても、その記憶は残っている。でもこれは、そう、恋をした “思い出” というやつなのだろうか。
「こういうの、何か懐かしいね」
人見知りで引っ込み思案なこの子の手を引くのは、いつだってヒョンである僕の役目だった。けれどいつの間にか、この子に手を引かれることが増え、それにも慣れて、年下のこの子に甘えることが普通になっていた。
黄金マンネと呼ばれるほどの、オールラウンダー。有り余る才能を持ってなお、努力を惜しまない情熱家。
なのに、後先考えず逃げ出してしまう弱さも合わせ持つ。
この子への恋心を捨ててなお、まだこの子に振り回されている。だけど不思議と、それを嫌だとは思わなかった。
心はどこまでも、晴れやかだった。
残念ながら味はよく分からなかったけど、店の雰囲気や料理の美しさは楽しめた。とは言え、いつもの事ながら、食後の満足感はない。
「あの、良かったら、うちで何か少し作りましょうか?」
肩をつつかれて耳打ちされ、僕は目を瞬いた。
だが、食後のこのタイミングでそんな風に尋ねられたのには理由がある。
何故かジョングギの作る料理だけは、僅かながらも味を感じるようになっていた。信じられなくて、その事を確かめるために鼻を摘みながら食べているところを見られ、こいつを大いに焦らせたものだ。
もっとも、その事実は告げていない。ただ、この子の作る料理は割りと食べるので、テンションの上がりきらない僕の様子に気遣ってそう言ってくれたのだろう。
そして、その理由も何となく分かるような気がしている。僕の心の在り処に端を発しているのだから、ジョングギの存在と僕の味覚は切っても切れない関係だ。なくなったはずの味覚が朧げながら戻って来た時に、同じくして、胸の奥に小さく芽吹く温かな何かを感じていた。
「大丈夫、ありがとう」
遠慮でも拒絶でもなく、その心遣いは本心から嬉しいと思った。
断り文句だったにも関わらず、この子がホッとしたように笑ったのは、そんな僕の気持ちがちゃんと届いたのだろう。
店のスタッフに頼んで呼んでもらったタクシーが、すぐ近くの大通りに着いたと聞き、外へ出た。
店の立地が細い路地沿いであったため、後ろから来た車に気付いたお前は、そっと僕の腰に手を添えて、反対側へ寄せた。
そのままエスコートするみたいに歩き出しかけて、パッと手が離れる。
振り返ると、お前はふと目を逸らした。恐らく、今はもう、気軽に触れていい関係じゃない、そんなことを遅れて思い出したような顔だった。
だからこそ、それが無意識に伸びた手だったことが分かって、胸の奥にくすぐったさが滲んだ。
そう、こいつは、いつだってそうだった。
女子供でもないこんな男の僕を、いつだって危なくない方へ寄せてくれる。
何かに気を取られて、ふわふわとどこかへ行ってしまいそうになる僕を引き留めてくれるのも、この優しい手だった。
──ふわりと温かな光が胸に灯る。
無言のままイヤホンの片耳だけが差し出され、流れて来たのは以前二人でよく聴いていたプレイリスト。
特別な会話はなくとも、同じ曲を聴きながら歩く沈黙は、以前よりも静かで心地よい。
──また、ふわりと温かな光が胸に灯る。
ずっと空洞だった胸のところに、ふわりふわりと光が灯っていく。
それは、きらきらと輝く、紫色の優しくてまあるい光。
───なんだ、まだここにあったのか。
大切で、捨てたくなくて、だけど自分一人じゃ抱えきれなくて、このままでは壊れてしまいそうで一度は捨てようとしたもの。
だけど、天使さまは本当は捨てちゃダメだって知ってたから、分からないように隠してくれていただけだったんだ。
だから今、こうやってまた再会出来たことを、素直に嬉しいと思う。
天使さま、僕の恋心を、守っていてくれてありがとう。
「どうかした?」
「ううん、何でもない」
だけど、怖さが消えたわけじゃない。
また始めて、また同じ痛みを繰り返すかもしれない──そんな臆病さが、まだ胸の奥にくすぶっている。
一度心に刺さった棘は、無理に抜こうとすると余計に痛んだ。だけど、もうこれ以上傷は深くならないと知れただけで、心は平穏を保てている。
だから今は、急いで傷を塞ごうとせず、時間の中で、自然に棘が抜け落ち、癒える日を待てばいい。
拗れて、捻じれて、離れて、それでもまた戻ってきた。何度も解けかけながら繋ぎ直した先に、どんな僕たちがいるのだろうか。
いつの間にか、“信じて欲しい” とお前が言うのなら、その言葉を受け取ってみたいと思えるようになっていた。
まだ冷たさの残る春の夜風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
けれど繋ぎ損ねたままだった心をもう一度結び直すには、きっとちょうどいい季節だと感じた。
──ある春の日、味覚と恋心と、そしてチョンジョングクが、僕の元へと帰ってきた。
いつから、なんてもう分からない。
けれど多分、出会った時から特別な人だった。
憧憬、敬愛、そんな感情をずっと抱いていた。
何がきっかけだったのかも、もう覚えていない。
ふいに、あなたが笑ったその姿にぶわりと満開の花が咲いたかのような光景を見た。真夏に咲くひまわりのように鮮やかに、美しくもあどけない笑みを浮かべたあなたに、僕の心臓が大きく跳ねた。
年上の男の人なのに、可愛いな、と思ったのだ。
鼓動がうるさくて仕方がなかった。胸の内に次々と湧き上がるこの落ち着かない感情の正体がわからず、僕は大いに混乱した。
好きと呼ぶにはあまりにも曖昧で、慕うだけでは説明がつかない。あなたを見つめる度に心は満たされるのに、同じだけの渇きが残る。その感情にまだ名前はなかった。けれど確かに、僕の心はあなたで満ちていた。
そのうちに、あなたの視線にも僕と同じものが混ざっている気がして。
それから注意深く観察し続けた。無意識に視線で追うようになって、他のヒョンからよく見すぎだって注意を受けた。
でもだから分かった。あなたの視線は、春の陽射しのように、ひっそりとしていて、それでいてあたたかい。きっと、その恋心を胸の奥にしまい込み、決して表へ出さないようにしているのだろう、と。
今は確かに、僕のことを大切にしてくれている。
けれどこのままでは、いつか彼は他の誰かを見つけて、僕の手から離れて行ってしまうのだろう。
それは絶対嫌だと思ったあの時、気付けば想いを口にしていた。怖がらせないようにあくまで軽く、だけど逃げ道は塞ぐように巧妙に。
真っ赤になっているあなた──テヒョンイヒョンは、やっぱり可愛いなと思った。
それから僕は、あっという間にあなたという沼へ落ちていった。
触れ合うことを許されたあの日、デビューした日よりも緊張した。
大好きで、可愛くて、一緒にいるだけでどうしようもない程に幸せだった。
なのに、好きになればなるほど、頭の中では警鐘が響き渡る。
あなたが誰かと話していたら、誰かと仲良くしていたら、誰かに触れるその指先にさえ、苛立ちを感じるようになった。
綺麗で、温かくて、柔らかなものだけをあなたに向けていたいのに、その想いは次第に重く、深く沈んでいく。
それはもう独占欲なんて可愛らしいものではなく、どす黒い執着の塊だった。
恋愛ごときに振り回されるなんてあり得ないと思っていた。何なら、心の中ではそんな人間を見下してすらいた。
だからまさか、自分がそうなるだなんて想像したこともなかった。もっと上手くやれると思っていた。
だからこそ、この想定外の感情に引きずられている現状が恐ろしかった。煩わしくもあった。
ついには仕事中ですら感情を制御しきれなくなり、自分が自分でなくなっていくようで、とてつもない恐怖を覚えた。
──そうして、僕は逃げた。
全部なかった事にしてしまえば、元通りになると思ったからだ。何の根拠もないのに、テヒョンイヒョンとの関係も元に戻る、そう思っていた。そうすればこのコントロール不能な苛立ちや、不安、そして得も知れぬ恐怖から開放されると信じて、一方的に別れを告げた。
──だがすぐに、自分の考えがいかに甘かったかを嫌というほど思い知らされる事になる。
あの人が僕のジャケットを羽織る姿を見ただけで、堪らなく愛おしいという想いが膨れ上がった。
立場を変えても、あの人への執着は全く消えなかった。その上、もう触れることは出来ないという苛立ちは想像以上に大きく、僕を更に混乱させた。
ならばと、他の人との関わりを増やした。意識が一人に集中するからしんどいのであって、それならその執着を分散させればいいと思った。その噂が広がるのも厭わないくらいには、追い詰められていた。
そのクセ、あの人以外には1ミリの興味さえ湧かなくて、結局ひとりと食事をしただけで、途中からは面倒になって片っ端から切り捨てた。
それでも、あなたの縋るような視線は、まだ僕を想ってくれているのだと告げているようで、そのことに僕はどこか安堵を覚えていたのもまた事実だった。
なのにある日から、あなたの瞳に宿っていた熱がパタリと消えた。次第に笑顔が増えて、ボディタッチも戻って来た。まさしく、僕が望んだ “元通り” の関係だったのに、胸が痛くて痛くて仕方なかった。
そしてその頃から、テヒョンイヒョンはあまり食べなくなった。口が回らないほど大口を頬張り、美味しそうに食べる姿が好きだったのに、いつしかそんな姿を見ることがなくなっていた。
久しぶりに二人で食事をして、薄々感じていたことを確かめた。
突拍子もないことを言い出したあの人に、一瞬唖然とした。けれど次の瞬間には、不思議なほどストンと胸に落ちていた。そう言われると、もうそうとしか思えなかったから。
……久しぶりだった。
怒りと絶望で目の前が暗くなる、という経験は。もちろん、怒りは馬鹿な自分に対してだ。
追い詰められていたとはいえ、僕はあまりにも自分本位だった。
彼のことを考えていなかったわけではない。ただ、この人なら分かってくれると、どこかで甘えていたのだ。この人が抱く情の深さを、僕は何一つ理解出来ていなかった。
自業自得。
その一言で片付けられるほど単純な話ではないのに、その言葉以外に当てはまるものも見つからなかった。
痛かった。
胸の奥を鈍い刃で抉られるように。
そして知る。こんな痛みを、この人にも味わわせてしまったことを。
しかも、何の前触れもなく、いきなりこんな仕打ちを受けたこの人の痛みと戸惑いは、どれほどのものだっただろうか。こうなって初めてそんなことに気づくだなんて、情けないにも程があった。
僕が逃げ出したせいで、彼はもう二度と僕の手の届かない場所へ行ってしまったのだ。
以前よりもずっと苦しんでいる自分が滑稽で、乾いた笑いが漏れた。
それでも、何をどうしたって、あの人のことが好きだった。彼のいない世界は、まるでモノクロ映画のようだと思った。
◇
「おい、何だその腑抜けた歌は」
ユンギヒョンが静かな怒りを滲ませて、ギターの弦から視線を上げる。
「すみません………」
「……テヒョンイか?」
その言葉に顔を上げると、ユンギヒョンの視線の圧が薄れて、呆れたような声になる。
「……分かってるなら、さっさと仲直りしろ」
「でも、きっともう、許してもらえないです…」
「なら、諦めるのか?」
深く聞かれるのは困る。けれど、誰かに聞いて欲しくもある。そんな相反する感情を抱えたままそれだけ答えると、間髪入れずにそう言われた。
「無理、です……」
ユンギヒョンがどこまで分かっていてそう尋ねて来たのかは不明だけれど、諦められるなら、もうとっくに諦めている。
「あいつをそこまで怒らせるなんて相当だ。なら、お前はもう誠意を見せるしかないだろうが」
「誠意……それは、その、慰謝料的、な……?」
「あほか。んなもん積んだら、それこそもう一生許してもらえねぇわ」
至極ごもっともな意見だ。金で解決だなんて、あの人から絶対零度の視線を向けられる想像しか出来なくて、背筋が凍った。
「なら、僕はどうすれば……!」
「あいつは謝罪なんて望んでないんだろ。なら、仲直りしたいって気持ちを、行動で示せ」
「行動……」
「猪突猛進なのがお前の持ち味だろーが」
「そ、それでも、許して貰えなかったら……」
「安心しろ。良くも悪くも、俺らは離れられないからな。お前が諦めない限り、何度でもトライ可能だ」
「何度でも……」
「だけど、間違っても恩着せがましくするなよ。あいつはそんなもの、望んじゃいない。あくまでそれは、お前の自己満足だ。そこを履き違えたら、もう先はないと思え」
キツイ言葉だったが、それでも先の見えなかった暗闇に、微かな光が射した気がした。
しかしながら、肝心のテヒョンイヒョンは今国内に居ないときた。
SNSには最新のテヒョンイヒョンが次から次へと流れて来る。こいつらはこの姿を間近で見ているというのに、僕は小さな画面の中で笑う彼の姿を追うことしか出来ない。何という理不尽。
めちゃくちゃかっこいい。神がかってる。いっそ、ヘアメイクに転身したら、ヒョンのソロ活動にも帯同させてもらえるのではないか。そんなことを本気で考えるくらいには精神がヤラれていた。
ひたすら流れて来るテヒョンイヒョンの画像を、片っ端から保存しつつ見ていてふと気付く。
どんな場面のテヒョンイヒョンも、ずっと完璧な仮面を被ったVのままである事を。
ずっとオンのまま、オフに切り替えられない重圧と疲労感は、嫌というほどに知っている。
そんな時、窓の外に虹を見つけた。
あの人は、虹を見つけると子どものようにはしゃいで、必ずスマホにおさめていた。
気付いた時には、屋上に駆け上がっていた。
目の前に広がるその風景を、あの人にも見て欲しいと思った。一瞬でも心が休まればいいなと思った。その一心で、そこから少しでも心惹かれたものは全て写真におさめた。その中で厳選したものをあの人に送り続けた。
返信は数回に一度の簡単なものだけだったけど、それでも嬉しかった。
スケジュールも明日で終わる頃、テヒョンイヒョンのフェイスラインが更にシャープになっている事に気付く。きっと、殆ど食べずに過ごしているに違いない。
もともと料理する楽しみを知った頃に、テヒョンイヒョンとお付き合いを始めたものだから、彼に僕の作った料理を食べてもらいたくて、本格的に料理を始めた。自慢じゃないが割りと器用な方なので、上達も早かった方だと思う。
だから、彼の食べやすそうなものを調べて、会社の迎車に半ば強引に乗り込んで、一緒にお迎えに行った。
テヒョンイヒョンがそこにいるだけで、僕の世界が一気に色彩豊かなものに変わった。ようやく息が出来た。正しく彼の存在の大きさに、改めて打ちのめされた。
あの時の僕は、どうしてああも簡単にこの人を手放してしまえたのだろうか。
追い詰められていたとはいえ、あまりにも馬鹿だった。大馬鹿者だった。もしもあの瞬間に戻れるのなら、己の横っ面をひっぱたいてでも食い止めるのに。
そんな僕を、テヒョンイヒョンは何だかんだと受け入れてくれた。傍に居てもいいと言ってくれた。本当に優しすぎる人だった。
だけど、それはあくまでメンバーとして、弟として、という意味だと、再び彼の傍で過ごすようになって思い知らされた。
近付けば近付くほど、何とも思われていないことが身に染みて分かる。
「はぁ、つら………」
それでも僅かな救いは、あの人が僕の作った料理をわりと食べてくれるようになった事だ。
テヒョンイヒョンの好みは知り尽くしてるつもりだから、多少は食べやすいのかもしれない。
僕があの人から、人生のささやかな歓びのひとつである食事の楽しみを奪ってしまったという罪悪感は、日を追うごとに募っていった。
だから、少しでも彼に食べて欲しくて、料理の研究に打ち込んだ。やり切れない思いを料理に注ぎ込むことで、どうにか心の均衡を保っていたとも言えた。
◇
厳しい冬は遠く過ぎ去り、柔らかな陽だまりに満ちた春もまた、静かに幕を下ろした。そして気付けば、眩しい陽射しをたたえた夏が、すぐそこまでやって来ていた。
ヒョン達には『テヒョンイの金魚のフン』とまで言われるくらいに、あの人に付き纏っている。自分でもストーカー染みていると思うが、心が折れそうになる度にユンギヒョンの言葉を思い出して、気合いを入れ直した。
僕が諦めない限り、終わりはないのだから。
「そういや、こないだのアンケート用紙、お前に預けてるって聞いたけど?」
ふと思い出したようにテヒョンイヒョンが顔を上げた。
僕のマンションで食事を始めようとしたタイミングだった。
たまにこうやって、この家で一緒に食事をするようになっていた。最初はあまり乗り気でないように見えたテヒョンイヒョンも、最近は割と気軽に遊びに来てくれるようになっている。
「あー……」
今日の仕事の待ち時間に、テヒョンイヒョンが書いた雑誌のアンケートをスタッフが持ってきた。
意味が分からない部分の補足するようにとの話だったが、その時ヒョンは眠っていたから起こすのも可哀想で、僕が一旦預かることにした。
何気なく内容を見れば、確かに第三者には分かりにくい部分がいくつかあったものの、僕にはその意図が読み取れたため、代わりに修正しておくことにした。
「ヒョンの言いたいことは分かったから、適当に僕が書いておきました」
「それまだ持ってんだろ?」
見せて、と手を出してくるので、立ち上がってリュックの中から出して手渡すと、あなたはそれを見て噴き出した。
「どこが適当だよ、めっちゃ細かく補足されてんじゃん」
書き足していると、テヒョンイヒョンのいいところはあれもこれもみんなに知って欲しくて、確かについ力が入ってしまったかもしれない。
「さすがジョングギ、僕のことをよく分かってるね。これ、すげー分かりやすい。けど、ちょっとこのへんはナルシストっぽいからやめようか」
確かにこれを本人が書いたとするならば、そう取れなくもない。ちょっと残念ではあるが。
「なんか、余計なことしてすみません……」
「お前が謝ることなんて、ひとつもないよ。僕が疲れてんの見て、代わりにやってくれたんだろ」
「いや…そういうわけでは……」
違うと言えば嘘になるし、そうだと言えば恩着せがましい。どう答えていいか分からなかったから、取り敢えず曖昧に濁してみた。
「お前のそういうとこ、好きだよ」
不意に告げられた “好き” という言葉に、心臓が大きく脈打った。
ハッと顔を上げれば、あなたはいつも通りのヒョンの顔で、微笑みながら僕を見ていた。
分かってる、今のその言葉に、深い意味なんてない。
「………………ありがとうございます」
「何か今、めちゃくちゃ間があったな」
「今の僕に、その言葉は毒ですから…」
「そう?せっかく好きだなって実感してたのに」
悪気など欠片もないのだろう。だからこそ厄介だった。
ひらりとかわされたような気がして、どうにも調子が狂う。
「……弟として、って意味でしょ?」
「うーん、なんだろ、チョンジョングク、として?」
思わせぶりなことばかり口にするあなたに、恨めしげな視線を送りながら、すごすごと自分の席に戻る。
「ところでジョングガ、これ、ニンニク入れ過ぎじゃない?」
「それはヒョンが少しでも味が分かりやすいようにとおも、って、…………え?」
ちょっとばかし不貞腐れた気分のまま説明しようとして、ふとその言葉の重大さを理解する。
「わ、分かるんですか?!」
「なんか、分かるみたい。隠し味は魚醤かな?」
「………ッ、よかっ、た、……!」
心底、ホッとした。
だが、ヒョンの味覚が恋心と一緒に消えたなら、もしかするとまた他の誰かを好きになれば戻って来る可能性があると考えていた。故に、その未来を願うことが僕にはどうしても出来ず、ずっと葛藤し続けていた部分でもあった。
「あ、あの、戻ったのはそれだけ、ですか……?」
「んー、どうだろ?」
いたずらっぽく笑うあなたの瞳に、久しぶりに見えた柔らかな熱。
それは今、紛うことなく僕に向けられていた。
──心臓が、不自然なほどに跳ねた。
そしてそれは、春の陽射しに解け出す雪のように、ずっと凍て付いていた僕の心にも、少しずつ温もりが染み込んでくるかのようだった。
「で、でも、隠し味それ合ってるし、さっきチョンジョングクが好きだって!」
「うん、なんか、好きかもしれない」
「そ、そこは、好きって言い切ってよ!」
「だって、まだよく分かんないし」
「それ、どうしたら分かってもらえるんですか?」
「んー、取り敢えず、僕に一万回好きって言ってみて?」
「好きです。愛してます。ホントに好き、めちゃくちゃ好き、死ぬほど好き」
「さすがにちょっと、安売りしすぎじゃね?」
「理不尽!今あなたが一万回言えって言ったのに!」
「僕に言われたから言うの?」
「違う。違います。溢れて止まんないから言うの。この数ヶ月、どれだけあなたへの想いを口にするの、我慢してたと思ってんの?多分、一万回言っても言い足りないから!」
あなたの負担になりたくなかったから、決して口にはしなかった言葉。だけど、許しが出たのなら何度だって伝えたい。
「…あとさ、お前に嫉妬されるの、結構好きだったよ」
「え……?」
「だってさ、なんか愛されてるみたいで嬉しいじゃん」
「みたいじゃなくて、愛してます!」
「なら、今度は勝手に結論出す前に相談してよ。二人でなら、何か良い解決策が見つかるかもしれないじゃん」
「はい!絶対に相談しま、す……って、……あの、そ、それって、もしかして……」
「チョンジョングク」
「はい!」
「僕たちもう一度さ、いちからやり直そ、」
「テヒョンイヒョン!愛しています!もう一度僕と付き合ってください!」
その場で勢いよく立ち上がり、頭を下げて手を差し出した。
「最後まで聞けよ」
「え………早とちり、でしたか」
一気に不安が込み上げて来て、咄嗟にその手を引こうとした。だが、その手は強く掴まれた。
「いや、あってはいる」
「じゃあ、返事は……」
「ん、改めてよろしくな」
そう言うと、あなたはかつて僕が大好きだった、真夏のひまわりのような笑顔を浮かべた。
ある冬の日に手放したその手は、気の遠くなるほど長く感じた春を越え、眩しい光の中でようやく再び重なり合った。



















😭良かったです~😭😭😭 続編をぜひ!!!