[b:モテるのに独身寮から出ないカレの話]
「ここがチョンさんの寮になります」
社会人5年目。
それなりの経験を積み、会社からの信頼もそれなりに得てきた僕。今日からここ、ソウルの独身寮へと引っ越すことになった。
元々は釜山(プサン)の部署でチーフとして働いていたのだが、他部署のイ室長が育児休暇に入るらしく、急遽本社でその後任を引き継ぐことになったのだ。
(課長クラスになれば、もっといいアパートに住めるのかと思っていたんだけどな……)
そんな贅沢な不満が頭をよぎるが、会社支給の住宅手当で良いアパートに住めるのは「既婚者」であるのが条件だった。もちろん、すべて自費なら優雅な一人暮らしもできるけれど、僕自身そこまで住まいにこだわりがある方ではない。最初から場所が決まっていた方が手続きもラクだし、これでいいのだ。
「チョンさんは……」
部屋を案内してくれているのは、ここの管理人らしい、40代後半ほどの中年男性だ。なんとなく噂好きそうな顔をしている。ここで問題を起こしたら、翌日には寮中に知れ渡って面倒なことになるんだろうな――そんなことをぼんやり考えながら彼の横顔を見ていると、管理人が契約書などの入った書類に目を落とした瞬間、あからさまに表情をこわばらせた。
老眼なのだろうか、かけているメガネを外したりつけたりしながら、何度も何度も書類を凝視している。
「……どうかされたんですか?」
「あ、いや! なんでもないです、ははは……」
僕が横から覗き込もうとすると、管理人は慌てて持っていた書類を胸元に隠した。
それ、絶対なんかあるでしょう……?
(まさか、昔ここに住んでいた人が自殺したとか、そーゆー類の事故物件なんだろうか?)
いくらこだわりがない僕でも、さすがにそれは勘弁してほしい。あんまり立場を乱用したくはないけれど、僕はこれでもこの会社の「課長」として迎えられる身なのだ。もっと条件の良い部屋にして欲しかったな、HY会社のパク社長!
「……あの、黙ってないで教えてくれませんか?」
「………ええっと、」
もう一度低めの声で問いかけてみたが、管理人は完全に目を逸らし、額にじっとりと汗をかいていた。
これ、もしかして上からの理不尽な力が働いているんじゃ……?
めちゃくちゃ気になるけれど、もしそれが理由なら、これ以上問い詰めるのは管理人が可哀想だ。なんとなく弱い者イジメをしているような気分になってきて、僕は追及するのをやめることにした。
いや、もう1回言うけれど、どんな事故物件なのかはめちゃくちゃ気になっている。
「1202号室、ここがチョンさんの部屋です」
エレベーターを最上階で降り、廊下の突き当たりから2つ目の部屋。オートロックもしっかりしていて、セキュリティには特に問題無さそうだ。管理人から鍵と契約書の控えを受け取り、さっそく部屋へと足を踏み入れる。
「……え、広い」
寮の部屋なんて、どうせ狭いワンルームだろうとタカをくくっていたのに、目の前に広がっていたのは2LDKはあろうかという大空間だった。トイレもキッチンもバスルームも、共同どころかすべて部屋に最新のものが整備されている。
「ここの階はね、一般社員じゃ住めないところなんだよ」
「そうなんですね……」
なんだ、事故物件どころか最高じゃないか。さっきの心の中の暴言は全力で取り消そう。
「まぁ、隣が残念だけどなぁ……」
ボソッと呟かれた管理人の声を、僕の耳は見逃さなかった。
「隣……? 何かあるんですか?」
尋ねると、管理人の顔がまたしても引きつった。「契約を断られたら困るけど……まぁいっか……」なんて、だいぶ大きな独り言をブツブツと言いながら、彼は僕に近づいてきた。
「ここだけの話なんだけどね……」
口元に片手を添え、不穏な気配を漂わせながら、僕の耳元でそっと囁く。
「隣の人、ゲイみたいだから気をつけて」
「………っ?!」
「じゃ、私はこれで! もし何か不都合があったら教えてくださいね。……あ、対人関係のトラブルは受け付けてませんので、そこのところはよろしく……!」
げ、ゲ、ゲイ……!?
つまり、過去に隣の住人との間で何かトラブルがあったということだろうか。
とりあえず、左隣の部屋をチラチラと気にしながら足早に去っていく管理人を見送り、僕はパタンと重い扉を閉めて部屋に入った。
こーゆー時って、一応お隣さんに挨拶した方がいいんだろうか……?
いや、でも管理人さんは過去に対人トラブルがあったような言い方をしていたし。明日から新しい職場での仕事なのに、今ここで余計なトラブルに巻き込まれたら目も当てられない。
……よし、今日はやめておこう。
そんな風に自分に言い訳をしながら、実家から送られてきた大量の段ボール箱を一つずつカッターで開けていった。
────
「はい、みんな注目〜!」
翌朝。本社とはいえ、基本的な業務内容は釜山時代とさほど変わらないはずだ。けれど、ソウルにはソウルの暗黙のルールがあるかもしれない。会社のトイレの場所すら分からない僕に、色々と社内を案内してくれる教育係のような担当を任されたパク・ジミン氏が、パンパンと手を叩いて声を張り上げる。一気に社員たちの視線が僕へと集まった。
「今日からイ課長の代わりに配属された、チョン・ジョングクです。よろしくお願い致します」
カチッと頭を下げて顔を上げると、部署の面々は皆「よろしく〜」「歓迎します!」と、上下関係のあまりない、明るい声を返してくれた。ソウルというだけで勝手に冷たい大都会のイメージを持っていたから、元々いた釜山の社員たちと変わらないアットホームな雰囲気にホッと胸をなでおろす。
ただ、たった一人を除いて。
「……彼は?」
一度だけこちらをチラリと見たものの、すぐにパソコンの画面へと視線を戻し、挨拶すらしてくれなかった無愛想な男。
そこまで服装チェックが厳しい会社ではないけれど、基本的には黒髪が多いこのオフィス。
その中で、彼の髪色はかなり明るい茶髪で、嫌でも周囲の目を引いていた。
気になって隣のジミン氏に小声で尋ねると、名前はキム・テヒョン。ジミン氏とは仲の良い同僚らしい。
他人からは少し理解されづらい独特な性格の持ち主で、どうやら過去の経験から人間不信になっているのだとか。それなら、あの無愛想な態度も仕方がない。初対面でヘタに刺激しなくて良かった。
「……キム・テヒョン、か……」
「ん? テヒョンがどうした?」
「いや……名前を確認しただけです」
キムという名字は多すぎるから、呼ぶときは「テヒョン氏」って呼ばないといけないよな。
人間不信だという彼に、いきなり距離を詰めて名前を呼んだら失礼になるかもしれない。
しかし、それにしても……。
横顔を盗み見て、思わず息を呑む。顔立ちがめちゃくちゃ綺麗なのだ。
ふと見渡せば、周囲の女子社員たちもチラチラと彼の様子を伺っている。仕事に集中してほしいところだけれど、黙って座っているだけで目を惹きつけるような独特のオーラが、確かに彼からは放たれていた。
「……チョン課長、見すぎ」
ジミン氏にポンと肩を叩かれ、ハッと我に返る。
僕、そんなにテヒョンのことを見つめていたのか。なんだか猛烈に恥ずかしくなってきた。特に、彼の親しい同僚であるジミン氏に見られていたなんて。
「……あの、課長じゃなくていいです。チョンでもジョングクでも、好きなように呼んでください」
テヒョンを凝視していた事実をごまかしたくて、口から無意識に言葉が飛び出した。まぁ、その方が社員たちも僕に話しかけやすくなるだろうし、僕自身も早く職場に馴染めるだろうから、結果オーライだ。
「じゃあ、気が向いたらジョングクって呼ぶわ!」
「……どうぞ、お好きなように」
気が向いたら、って何だ? とは思ったけれど、好きに呼んでくれと言ったのは僕の方だ。多少引っかかりはするものの、深く気にしないでおこう。
ふと腕時計に目をやると、自己紹介と朝礼をしてからもう既に1時間が経過していた。そろそろ仕事を始めないと、さすがにまずい。部下たちに「新しい課長は初日からサボっている」と思われるのは避けたいし、何より引き継いだ仕事の量はそこそこ多い。残業が当たり前になりつつある世の中だけど、せめて自分のチームの作業時間は減らしたいのだ。
「ジミン氏はもう席に戻って大丈夫ですよ。ご自分の仕事をしてください」
「ほーい」
課長って呼ばなくていいとは言ったけれど、ここの人間(いや、このジミン氏だけか?)はこんなに自由な感じなのだろうか。まぁ、仕事さえちゃんとしてくれれば何でもいいや。
初っ端から部下に残業させるわけにはいかない。
仕事のスピードにだけは絶対の自信がある。そう自分を鼓舞しながら、僕は新しいデスクに山積みにされた書類と向き合った。
◇
仕事のスピードには自信がある――そう思っていたはずなのに、気づけば窓の外は真っ暗だった。ふとオフィスを見渡すと、僕の部署の社員は誰一人として残っていない。
「もう21時か……」
腕時計の針を確認しながら、椅子の背もたれに体を預けてぐっと両腕を伸ばす。首や肩の関節がコキコキと小気味よい音を鳴らした。初日からさすがに働きすぎたかもしれない。
提出期限にはまだまだ余裕があるものばかりだ。なにも今日中にすべてを終わらせる必要はなかった。
「……お腹すいた。もう帰ろう……」
寮に戻ったところで、僕の帰りを待って癒してくれる可愛い彼女なんていう存在は、残念ながらいない。せめて帰り道に好きなものでも買って、胃袋だけでも癒されよう。時間的には晩御飯というより、もはや夜食に近いけれど。何を食べようかな……頭の中にチキンやラーメンの画像を思い浮かべながら荷物をまとめ、会社を後にした。
夜の風を浴びながらトボトボと歩いていると、ふと前方に、見覚えのあるシルエットを見つけた。
「……あれ?」
あの鮮やかな髪色に、彫刻のような横顔。どこからどう見たってキム・テヒョンだ。
こんな時間まで会社に残っていたのだろうか?
ストーカーをするつもりは全くないけれど、昼間あんなに無愛想だったテヒョンが、今は見たこともないような満面の笑みを浮かべているのが気になって、どうしても目が追ってしまう。
テヒョンが嬉しそうに手を振る先には、街灯を反射して艶やかに輝く、高級そうな外国産のモダン車が停まっていた。車のフロントガラス越しに、運転席の人物の顔が見える。
「え、パク社長……?」
我が社のトップ、パク・ソジュン社長の姿だった。社長もまた、駆け寄ってくるテヒョンを見て、とても父親のようであり、あるいはそれ以上の、優しくにこやかな笑みを浮かべている。
助手席にテヒョンを乗せた高級車は、静かにエンジン音を響かせながら、そのまま夜の街へと走り去っていった。
(なんで、パク社長とテヒョン氏が……???)
テヒョン氏はただの一般社員のはずなのに、一体どーゆー関係なんだ……?
誰かに尋ねてみたいけれど、夜の21時に男二人が高級車で、というのは……
なんていうか、その、ね? 非常に微妙な時間帯だ。
僕、ひょっとして初日からとんでもない社内機密を目撃してしまったのかもしれない。もしこのことを明日ジミン氏にペラペラと話したりしたら……?
想像しただけで自分の首が綺麗に飛ぶ未来が見えて、思わず身震いした。
「……今のは全部忘れよう。うん、そうだ。何も見なかった。いいね?」
誰もいない道で、まあまあ大きな独り言をこぼす。
ぶんぶんと首を横に振りながら、「忘れるんだ、ジョングク。お前は何も見ていない」と何度も自分自身に自己暗示をかけ、僕はトボトボとコンビニへ寄り、独り言をつぶやきながら寮へと戻った。
────
「……ただいま」
暗い部屋に僕の声の虚しい余韻だけが響き、なんだか急に切なさが押し寄せてきた。実家暮らしだった頃のクセが抜けきれず、一人暮らしだと分かっているのに、つい口に出してしまう僕が悪いんだけど。
(あぁ……僕を笑顔で迎えてくれる可愛い彼女はどこにいるんだ……)
これまでの人生、それなりにチャンスはあったはずなのだ。けれど、その時は仕事に必死で恋愛をする気分になれず、すべてお断りしてしまっていた過去の自分を思い出す。もしあの時、きちんと誰かと向き合っていれば、こんなに寂しい夜を過ごすこともなかったのだろうか。
僕もそろそろ、本気で将来のことを考えないといけないな。
疲れているせいか、それとも静かな夜のせいか、そんなセンチメンタルな思考がぐるぐると頭を巡る。
せめて美味しい晩御飯にするって決めたくせに、結局、健康のことを気にしてコンビニで買ったのは味気ないパックのサラダ。
プラスチックの蓋を開け、ドレッシングをかける。
――ガタンっ!!!
その時、左隣の部屋から、壁を突き破らんばかりの凄まじい物音が響いた。
口元に運びかけていたレタスをフォークごとピタリと止める。
「……おいん(오잉)?」
大丈夫だろうか、壁が薄いわけじゃないのにあの音は尋常じゃない。
そう思った次の瞬間、僕の部屋のインターホンがけたたましく鳴り響き、同時に、扉が壊れるんじゃないかというほどの勢いでドンドンと激しく叩かれた。
「ひ、今開けますか、ら……っ」
慌てて鍵を回した瞬間、強引に扉がこじ開けられた。
顔を確かめる隙すら与えないほどの勢いで、部屋の中から伸びてきた細い腕が、驚くほどの力で僕のワイシャツの袖を引っ張る。
「……わっ、ちょっと!」
「……お願い……助けて……っ」
弱々しく震える声。潤んだ大きな瞳で、すがるように僕を見上げてきたのは――。
「……え、てひょ……」
そう、昼間あれほど無愛想だった同僚、キム・テヒョンだった。
しかも、僕が強制的に引っ張られ、連れ込まれた先は、僕の部屋の「左隣の部屋」。
脳裏に管理人の言葉がフラッシュバックする。
――『隣の人、ゲイみたいだから気をつけて』。
バタンッ! と背後で絶望的な音を立てて扉が閉まった。
一畳あるかないかの、このひどく狭い玄関先で、噂のゲイ、しかも超絶イケメンと二人きり。
一気に体中から冷や汗が噴き出してくる。
(え、僕、このまま何かされちゃうわけ!? ていうか、彼が、本当にゲイ……???)
こんな綺麗な男の人が? 信じられないけれど、信じたくないけれど……。
さっき、パク社長と夜の街へ消えていったあの光景を思い出す。つまり、そういうことなのか……!?
「……オーマイギャッド(omg)」
彼は何かに怯えている様子だけれど、こっちからすれば、僕は完全にあなたに怯えている。一刻も早くこの密室から脱出したい。そう思った、まさにその瞬間だった。
「わっ! ゴキブリ!! そこにいるって!!!! むりむりむりむり……!!!!」
恐怖に震える僕の思考に追い打ちをかけるように、テヒョンが僕の胸元に思いきり抱きついてきた。
ゴキブリなんて、僕からすれば手づかみでもいけるくらい全然平気だけど……!!!
「ねぇ、お願い……早くして……っ?」
ギュッと僕の体にすがりついたまま、テヒョンは今にも泣き出しそうな顔で、上目遣いに僕へ「強硬な要求」を突きつけてくる。
理性が、これがただの害虫駆除の要請であると言っている。
分かっている。
分かっているのに、彼がゲイだという先入観が頭から離れない僕の脳内では、その言葉がとんでもないピンク色のセリフへと変換されていた。
「ちょっっっ、、、、僕の気持ちが無理ですって……!!!!!」
ゴキブリの生命力を一撃で奪い去れそうなほど、僕の多大な勘違いを含んだ大音声が、夜の独り身の部屋に虚しく響き渡るのだった。







次回も楽しみにしています💜