同居生活が始まって一週間。
不思議な時間だった。
朝起きると衣織がいる。
先に出る日は「行ってらっしゃい」と言われ、
遅く帰れば「おかえり」と迎えられる。
一年半前までは当たり前だった。
でも今は違う。
全部が奇跡みたいだった。
そして、全部が苦しかった。
その日はレッスンのあと個人仕事の予定だった。
朝、準備を終えて衣織とスタジオへ向かう。
不意に呼ばれた。
「舞香」
振り向くと、少しだけ迷うような顔をした衣織。
「ん?」
「今日帰り遅い?」
何気ない質問。
でも、今なら分かる。
これはただの確認じゃない。
衣織は昔からそうだった。
会える時間を知りたかった。
一緒にいられる時間を知りたかった。
ただそれだけだった。
なのに、昔の私は面倒だと思っていた。
『今日何時くらい?』
何度も聞かれた。
『分かんない』
私はいつもそう返した。
『そっか』
衣織は笑った。
でも、あれは寂しかったんだ。
今なら分かる。
「20時には帰れると思う」
舞香は答えた。
衣織が少し目を丸くする。
「早いね」
「うん」
「そっか」
ふわっと笑う。
その笑顔を見て、舞香の胸が締め付けられた。
たったそれだけでこんなに嬉しそうな顔をするんだ。
「待ってて」
気付けば言っていた。
衣織が瞬きをする。
「え?」
「帰ったら一緒にご飯食べよう」
数秒。
衣織は固まった。
それから、少しだけ照れたように笑った。
「うん」
その返事が嬉しそうで、舞香はまた苦しくなった。
レッスンの休憩中。
舞香が自販機の前でスポーツドリンクを買っていると、後ろから声がした。
「ちょっといい?」
振り返ると瞳がいた。
瞳は少しだけ言いづらそうな顔をした。
「昨日連絡した件だけど…」
舞香はすぐに察した。
衣織のことだ。
二人で人気のない廊下へ移動する。
少しの沈黙。
先に口を開いたのは瞳だった。
「舞香さ」
「ん?」
「二年前の衣織、覚えてる?」
胸が小さく痛んだ。
覚えている、そう思った。
だけど、本当に覚えているのだろうか。
「覚えてるよ」
瞳は首を横に振った。
「多分、覚えてない」
舞香は何も言えなかった。
「衣織ね」
瞳は壁にもたれながら続ける。
「結構しんどそうだったよ」
心臓が重くなる。
「でも全然言わなかった」
「言わなかったっていうか、言えなかったのかな」
舞香は俯く。
「あの頃、舞香も忙しかったじゃん」
「うん」
「だから余計に」
瞳は苦笑した。
「我慢してた」
その言葉が刺さる。
我慢。
衣織らしい言葉だった。
「クリスマスの時、覚えてる?」
舞香が顔を上げる。
「仕事終わりに友達と飲みに行った日」
胸がざわつく。
覚えている。
「衣織、レッスン終わっても帰らなかったんだよ」
瞳は静かに言った。
「舞香から連絡来るかもって」
舞香の呼吸が止まりそうになる。
「結局来なかったけどね」
責めるような言い方ではない。
だから余計に苦しかった。
「でもさ」
瞳が続ける。
「衣織、一回も舞香の悪口言わなかったよ」
舞香は目を見開く。
「寂しいとは言ってた」
「泣いてたこともあった」
「でも」
少しだけ笑う。
「好きだったから」
胸が痛い。
「だから舞香が気付いてくれるの待ってた」
舞香は何も言えなかった。
「……瞳」
声が掠れる。
「なに?」
「ありがとう」
瞳は少しだけ驚いた顔をした。
「別に」
そう言って視線を逸らす。
「ただ」
少し間を置いて。
「今の衣織、大事にしてあげて」
舞香は目を閉じた。
失った二年間は戻らない。
傷付けた事実も消えない。
それでも今だけは、
今の衣織が隣にいてくれる間だけは、
もう見落としたくなかった。
もう二度と。
その日、舞香が約束通り20時に帰ると、
嬉しそうな衣織に出迎えられた。
「ちゃんと帰ってきた」
「約束したし」
衣織が少し笑う
「なんか変だね」
「え?」
「分かんないけど、すごく楽しみにしてた」
ただ帰ってきた。
それだけのことに喜ぶ衣織を見て胸が痛んだ。
約束通り二人でご飯を食べた。
「美味しい」
衣織が笑う。
「よかった」
「最近舞香優しいね」
心臓が止まりそうになる。
「そう?」
「うん」
衣織は少し考える。
「なんかちゃんと向き合ってくれる」
苦しい。
その言葉が、一番苦しい。
向き合えていなかった昔の自分を思い出させるから。
食後、二人でテレビを見る。
衣織が隣に座る。
肩が触れる。
近い。
近すぎる。
でも離れられない。
「舞香」
「なに?」
「眠い」
「寝れば?」
「ここで?」
「好きにすれば」
衣織は少し笑う。
そして、当然みたいに肩にもたれた。
心臓がうるさい。
衣織は目を閉じる。
安心しきった顔。
無防備な寝顔。
昔、何度も見た顔。
もう見られないと思っていた。
胸がいっぱいになる。
しばらくして、衣織が小さく呟いた。
「安心する」
舞香は固まる。
「え?」
「舞香といると」
眠そうな声。
半分夢の中みたいな声。
それだけ言って、衣織は眠ってしまった。
舞香は何も言えなかった。
衣織の手が無意識に舞香の服を掴んだ。
まるで離さないように。
昔も、きっとそうだった。
安心したかっただけ。
そばにいてほしかっただけ。
なのに私は、
一番大事なものを後回しにしてたんだ。
静かな部屋。
眠る衣織。
舞香はそっと髪を撫でる。
起こさないように。
気付かれないように。
そして小さく呟いた。
「ごめん」
何度目か分からない謝罪。
今さら謝っても過去は変わらない。
だからせめて今だけは、
もう二度とこの笑顔を見落とさないように。
失った二年間は戻らない。
でもこれからの時間なら、まだ間に合うかもしれない。
衣織の手はまだ舞香の服を掴んだままだった。舞香はその手をそっと包む。
今度こそ離さないように。
そう思いながら、
眠る衣織の横顔を見つめ続けていた。

















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