玄関の扉を開けた瞬間、私はそのままソファへ倒れ込んだ。
「つかれたぁ……」
鞄が床へ落ちる。制服のまま、靴下も脱がず。私にはもう動く気力すら残っていなかった。
学校。バイト。家事。そして最近は、かぐやとヤチヨとの生活。
毎日が慌ただしくて、気が付けば一週間が過ぎていた。
「もう一歩も動けない……」
思考をシャットアウトするようにソファに顔を埋める。
その瞬間だった。
「いろはーっ!」
ばたばたばたっ。
聞き慣れた足音が近付いてくる。
「ん……」
反応する間もなく。
ぽすっ。
何かが背中に乗った。
「おもい。」
「重くないもん!」
かぐやだった。
私の背中に抱き着いたまま、楽しそうに私の体を揺さぶってくる。
「遊ぼ!」
「今日はもう無理……」
即答だった。
「えー!?」
かぐやが不満そうな声を上げる。
「やだ!」
「やだじゃないよぉ……」
私は半分溶けながら答える。
「今日ほんと疲れたの……」
「でも彩葉いつもどっか行ってて全然遊んでくれないじゃん!」
その言葉に、私は呆れたように返事をする。
「学校なんだから仕方ないでしょ……」
「……それは分かってるけど。」
かぐやは腕を組んでむすっとした。
「いろは全然遊んでくれない。」
「そんなことないよ……」
「ある!」
びしっ。
指を差される。
「あるもん!」
ぷんすか怒るかぐや。
その様子を見ていたヤチヨが、ソファの背もたれから顔を覗かせた。
「かぐや。」
「なに。」
「彩葉もう死にそうだよ。」
「別にそこまでじゃないけど……。」
私は即座に否定する。
「疲れてるだけだよ。」
「顔色悪い。」
「そう?」
「どう見ても悪い。」
断言だった。
私は思わず頬を触る。確かに疲れてはいる。でもそれだけだ。多分。
「大丈夫大丈夫。」
そう言って笑う。
しかしヤチヨは納得していない顔をしていた。
「ちゃんと寝てる?」
「寝てる寝てる。」
「昨日は何時に寝たの?」
「えっと……」
彩葉の視線が泳ぐ。
「二時、とかだっけ?」
「寝てないじゃん。」
「寝てるって。」
「流石に二時は寝るの遅すぎ。」
ぐうの音も出なかった。
そんなやり取りをしている間にも、かぐやは不満そうに頬を膨らませている。
「遊びたい。」
「うぅ……」
そのかぐやの寂しそうな表情と、今にも消え入りそうな声を前にして、私は弱々しく唸った。
少しだけ考える。
そして。
「……分かった。」
「!」
かぐやの耳がぴこんと立つ。
「ほんと!?」
「うん。」
私はゆっくり身体を起こした。
「明日は休みだから。」
「うん!」
「学校も無い。」
「うんうん!」
「バイトも無い。」
「うんうんうん!」
かぐやの目がキラキラ輝いている。
「だから明日は一日中暇。」
「!」
「多分ずっと遊べるよ。」
その瞬間。
「やったぁぁぁぁ!!」
かぐやが飛び跳ねた。
「ホント!?」
「ホント。」
「絶対!?」
「絶対。」
この前の時と全く同じ確認の仕方だった。
私はそれに気付いて少しだけ笑う。
「だから今日はもう休ませて……」
「やったー!」
かぐやはもう聞いていなかった。
部屋の中をぐるぐる走り回っている。
「明日遊ぶ!」
「うん……」
「いっぱい遊ぶ!」
「うん……」
私は再びソファへ沈んだ。もう身体が鉛みたいに重い。
そんな私を見ながら、ヤチヨが小さく笑う。
「彩葉も大変だね〜。」
「ホントにね……」
力なく返事をする。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
明日は休み。久しぶりに目覚まし時計を気にしなくていい日だ。
ゆっくり眠って、三人でどこかへ出掛けるのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、彩葉は重くなっていく瞼を閉じた。
◇
休日の朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋をゆっくりと照らしていた。
「……ん。」
私は薄く目を開ける。
時計を見る。
「……六時。」
休日にしては随分早い起床。
だが、不思議と二度寝する気にはならなかった。
学校の日も、バイトの日も、最近はずっとこの時間に起きている。
体に染み付いた習慣というのは恐ろしいものだ。
「せっかく休みなのになぁ……」
小さく呟きながら体を起こす。
その瞬間。
「……あれ。」
少しだけ視界が揺れた。
頭が重い。体も妙にだるい。肩に鉛でも乗っているような感覚だった。
「うーん……」
額に手を当てる。
熱は……多分無い。
多分。
「疲れてるだけかな。」
昨日も疲れていた。
その前の日も。
そのまた前の日も。
だから今日も同じだろう。
そう結論付ける。
何より、今日は休日だ。
久しぶりの。本当に久しぶりの休日。
そして。
『明日は一日中暇だから。』
『ホント!?』
『ホント。』
昨日の約束を思い出す。
かぐやはすごく嬉しそうだった。
今日こそはいっぱい遊ぶと、そう決めていた。
「よし。」
彩葉は気合いを入れる。
「まず朝ご飯作ろ――」
立ち上がった瞬間だった。
ぐらり。
「あ。」
視界が傾き、足元が消える。
次の瞬間。
どさっ。
体が床へ倒れ込んだ。
「いたた……」
受け身は取れた。
だが、予想以上に体に力が入らない。
すると。
「いろは!?」
寝室から大きな声が響いた。
ばたばたばたっ。
私が倒れる音を聞いて、勢いよく飛び出してきたのはかぐやだった。
「大丈夫!?」
「だ、大丈夫だよ。」
彩葉は慌てて笑う。
「ちょっと転んだだけだから。」
「ほんと?」
「ほんとほんと。」
その時。
寝室からヤチヨも姿を見せた。
そして。
「……。」
じっと彩葉を見る。
数秒。
「大丈夫じゃない。」
「えっ。」
「顔真っ白。」
「そ、そうかな?」
「そう。」
即答だった。
彩葉は苦笑する。
「いやいや、本当に平気だって。」
「平気じゃない!」
かぐやが叫ぶ。
「今倒れてたもん!」
「転んだだけだよ。」
「倒れた!」
「転んだ。」
「倒れた!!」
私の主張はかぐやの大声にかき消された。
私は視線を逸らす。
でも本当に大したことはないと思っていた。
少し疲れてて、少し体がだるいだけ。
それに、今日は約束の日だ。
また約束を破るなんて、そんなのは嫌だった。
「ほら、今日は遊ぶ約束だし――」
立ち上がろうとする。
ふらっ。
「わっ。」
再び体が傾く。
その瞬間。
ぎゅっ。
かぐやが彩葉の腕に抱き付いた。
「ダメ!」
「かぐや?」
「今日は遊ばなくていい!」
「え?」
「だから寝て!」
泣きそうな顔だった。
私は言葉を失う。
そこへヤチヨが近付いてくる。
「立てる?」
「立てるよ。」
立とうとする。
ふらっ。
「立ててない。」
「うぐっ。」
反論できない。
「寝室行くよ。」
「いやでも――」
「寝てて。」
静かな声だった。
「でも。」
「寝てて。」
「……はい。」
私の主張はまた通らなかった。
数分後。
彩葉はベッドの上にいた。
しかも。
「逃げないでね。」
かぐやが隣にいる。
「逃げたりなんてしないよ……」
「ほんと?」
「ほんと。」
信用されていない。
その間にヤチヨはどこかへ行っていた。
そして。
数分後。
「持ってきたよ。」
体温計を手に戻ってきた。
「えっ。」
「測る。」
「い、いやいや。」
「測る。」
「そこまでの事じゃ――」
「測る。」
圧が強い。
結局、私は観念した。
体温計を脇に挟む。
数十秒。妙に長く感じる時間だった。
そして。
ぴぴっ。
電子音が鳴り、ヤチヨが体温計を取り上げる。そして画面を見る。
「……。」
無言。
かぐやも覗き込む。
「何度?」
ヤチヨは無言のまま体温計を私へ向けた。
そこには。
37.8℃
と表示されていた。
「……。」
彩葉が固まる。
かぐやも固まる。
ヤチヨだけが冷静だった。
「熱じゃん。」
「……熱だね。」
「じゃあ寝てて。」
「……はい。」
ぐうの音も出ない。
完全に証拠を突き付けられてしまった。
さっきまでの『疲れてるだけ』という理論が音を立てて崩壊していく。
彩葉は諦めたように布団へ沈む。
「……ごめん。」
ぽつりと呟く。
約束を守れなかったし、心配も掛けた。そんな気持ちだった。
しかし。
「謝んなくて良いから。」
ヤチヨはそう言った。
「なんかいる物ある?」
「え?」
「飲み物とか、ご飯とか、薬とか。」
彩葉は少しだけ目を丸くする。
今まで、こういう事を聞くのは自分の役目だった。
聞かれる側になるのは初めてかもしれない。
「いや、別に……」
「ダメ!」
かぐやが割り込む。
「何も食べなかったら死んじゃうよ!?」
「し、死なないって。」
本気で心配している顔だった。
彩葉は苦笑する。そして少しだけ考える。
「……じゃあ。」
二人を見る。
「ちょっと、お使いしてきてくれる?」
二人が同時に顔を上げた。
「おつかい?」
「うん。」
彩葉は枕元のメモ帳を手に取る。
さらさらと文字を書き始める。
薬局で買う物。コンビニで買う物。簡単な昼ご飯。
そして。
二人でも迷わないように細かな説明。
書き終えたメモを、ヤチヨが受け取る。
「任せて。」
その言葉は不思議と頼もしかった。
彩葉は少しだけ笑う。
「……ありがとう。」
かぐやも胸を張る。
「かぐやも頑張る!」
彩葉は頷く。そして気付く。
自分は今、この二人に頼っているのだと。
少し前までならそんな事は考えられなかった。
でもなぜか今の二人なら大丈夫だと思えた。
「いってきまーす!」
「いってきます。」
玄関の扉が閉まる音がする。
部屋に静けさが戻り、私は天井を見上げた。
心配はあるけど、不思議と不安はなかった。
だから。
「少しだけ……寝ようかな。」
そう呟いて目を閉じる。
すぐに眠気が押し寄せてきた。
そして彩葉は、久しぶりに何も考えず、その身を休息へと委ねた。
◇
アパートを出た二人は、彩葉から渡されたメモを握り締めながら歩いていた。
かぐやは少し早足。ヤチヨはそんなかぐやに合わせるように隣を歩く。
「急がなきゃ!」
かぐやが真剣な顔で言う。
「うん。」
ヤチヨも頷く。
「彩葉が待ってるし。」
「いろは死んじゃうかもしれないし!」
「そこまではいってないと思う。」
「でも熱あった!」
「それはそう。」
ヤチヨも否定はしなかった。
体温計に表示されていた数字を思い出す。
37.8℃。
人間のことは詳しくないが、少なくとも元気な状態ではないのは確かだった。
だから二人は足を速める。
そして。
「着いた。」
彩葉のメモを頼りに歩いていると、目の前に薬局が現れた。
自動ドアが開く。
かぐやは迷わず店内へ飛び込んだ。
「すみません!!」
近くにいた店員へ一直線。
「はい?」
「いろはが死んじゃいそうなんです!!」
店員が固まった。
「えっ!?」
周囲の客までこちらを見る。
「熱があって!ふらふらで!倒れて!」
かぐやは半泣きだった。
「ご飯も食べてなくて!」
「え、えっと!救急車は――」
店員が慌て始める。
その横からヤチヨがひょこっと顔を出した。
「風邪薬はどこにありますか、って聞きたいみたいです。」
沈黙。
「あ。」
店員の動きが止まる。
「そ、そういうこと!?」
ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「びっくりした……」
「でも死んじゃいそうだもん!」
かぐやは真剣だった。
「流石にまだ死なないと思う。」
ヤチヨも真顔で返す。
「たぶん。」
「たぶんなの!?」
かぐやがさらに不安そうになる。
店員は苦笑しながら薬売り場を指差した。
「風邪薬ならあちらですよ。」
「ありがとうございます。」
ヤチヨはぺこりと頭を下げた。
その後も、彩葉のメモを見ながら必要な物を集めていく。
『風邪薬』
『冷却シート』
『スポーツドリンク』
『ゼリー飲料』
『喉飴』
「いっぱいある。」
かぐやが棚を見上げる。
「どれ買えばいいの?」
「分かんない。」
ヤチヨも正直だった。
二人でしばらく悩んだ結果。
「また店員さんに聞こう。」
「それだ!」
実に平和的な解決だった。
店員の助言を受けながら買い物を進めていく。
そして。
「あ。」
かぐやの目が輝いた。
チョコレート。
クッキー。
ポテトチップス。
魅惑のお菓子コーナーがふと視界に入る。
かぐやはそっとチョコレートを手に取る。
そして、こっそりカゴへ入れた。
しかし、ヤチヨの目を誤魔化せる訳もなく、無常にもチョコレートはカゴから取り出されてしまった。
「だめ。」
「なんで!?」
「今は彩葉の買い物。」
「ちょっとぐらいいいじゃん……」
「彩葉が死んじゃっても良いの?」
「ヤダ!!」
即答だった。
「じゃあメモに書いてあるやつ探してきて。」
ヤチヨがメモを渡す。
「このスポーツドリンク。」
かぐやはメモを見る。
そして。
「分かった!」
かぐやは勢いよく走っていった。
角を曲がって見えなくなった辺りでコケた音がしたけど、多分気のせいだろう。
◇
薬局を出る頃には袋が一つ増えていた。
二人が次に向かったのはスーパーだった。ここでも彩葉のメモが活躍する。
『玉ねぎ』
『鶏肉』
『豆腐』
『ネギ』
など、メモに書かれた必要な食材を一つずつカゴへ入れていく。
その途中。
「ヤチヨ!」
「なに。」
「これも必要じゃない?」
かぐやが持ってきたのはアイスだった。
「彩葉、熱あるし。」
「……まぁ、確かに。」
自分の案が採用された事、今度は怒られなかった事に対して、かぐやが嬉しそうに笑う。
ヤチヨは三人分のアイスをカゴに入れた。
◇
レジを終えてスーパーを出る。
ヤチヨの両手には袋。
おつかいは大成功だった。しかし、かぐやには心残りがあるようで、その表情は少し暗かった。
「お菓子買いたかった……」
まだ言ってるの?、とヤチヨは苦笑しながら彩葉のメモをもう一度確認した。
そして。
「あ。」
足が止まる。
「え?」
かぐやが覗き込む。
メモの一番下に、小さな文字が書かれていた。
『頑張った二人にご褒美』
『近くに駄菓子屋があるから好きなの一人三つまで』
『迷ったら半分こすること』
『ちゃんと仲良くね』
「……。」
ヤチヨはしばらく黙った。
その文字をじっと見つめる。
彩葉は寝込んでいたはずなのに。
それでも、二人のことを考えていたらしい。
その事にヤチヨは小さく息を吐いた。
「彩葉ってさ。」
「うん?」
「変な人だよね。」
「そう?」
「……彩葉がお菓子買っていいって。」
「えっ。」
かぐやの耳がぴんっと立つ。
「ホント!?」
「ホント。」
「やった!!!」
その場で飛び跳ねる。
近くを歩いていた人がびっくりしていた。
「じゃあ急ご!」
「転ばないようにね。」
「分かってるよ!」
言った直後。
勢い良くつまずいた。
「わっ。」
「……ほら。」
「これはノーカウントだから!」
「何が?」
ヤチヨは呆れながらも少し笑う。そして二人は並んで歩き出した。
彩葉が教えてくれた駄菓子屋へ向かって。
その先にある、小さな寄り道へ向かって。
◇
駄菓子屋はスーパーから少し歩いた先にあった。
昔ながらの小さなお店。
色褪せた看板。店先に並ぶカラフルなお菓子。開け放たれた引き戸の向こうから、どこか懐かしい匂いが漂ってくる。
「おぉー……」
かぐやが目を輝かせた。
「いっぱいある!」
「ほんとだ。」
ヤチヨも思わず辺りを見回す。
店内には所狭しと駄菓子が並んでいた。
チョコレート。ラムネ。スナック菓子。ガム。グミ。見たことのない物まで沢山ある。
かぐやは早速メモを取り出した。
『一人三つまで』
『迷ったら半分こすること』
『ちゃんと仲良くね』
彩葉の字。
「ちゃんと守る。」
かぐやは真面目な顔で頷く。
「うん。」
ヤチヨも頷いた。
そして二人は考える。
三つまで。
……三つ。
私達は三人いる。
「……。」
「……。」
二人は顔を見合わせた。
「一個は彩葉のだよね。」
ヤチヨが言う。
「うん。」
かぐやも当然のように頷いた。
「だって彩葉いないし。」
「だからって彩葉だけ無しは可哀想。」
「うん。」
その結果。
自然と結論は出た。
自分用二つ。
彩葉用一つ。
これなら三人とも二個ずつは食べられる。
「これで完璧!」
「うん、完璧。」
二人は満足そうに頷いた。
◇
かぐやはすぐ決まった。
「これ!」
チョコレート。
「あとこれ!」
いちご味のキャンディ。
「はい、決まり!」
早い。
驚くほど早い。
ヤチヨもそれなりに早かった。
「これ。」
ラムネ。
「あとこれ。」
小さなゼリー。
こちらも終了。
しかし、問題は。
「……。」
「……。」
彩葉の分だった。
二人はお菓子棚の前で腕を組む。
「いろは何が好きなんだろ。」
かぐやが呟く。
「分かんない。」
ヤチヨが即答する。
「聞いたことある?」
「多分ない。」
それは事実だった。
彩葉はいつも。
『二人は何食べたい?』
と聞いてくれる。
でも。
『私はこれが好き。』
と言っているのは聞いたことがない。
「甘いのかな?」
「どうだろ。」
「それともしょっぱいの?」
「う〜ん。」
「じゃあ辛いのは?」
「風邪なのに?」
「あっ。」
確かに。
今は風邪だった。
「じゃあ辛いのはダメ。」
即却下された。
再び悩む。
「チョコ好きそう。」
「でもしょっぱいのも好きそう。」
「なんで?」
「……なんとなく。」
「なるほど。」
納得するかぐや。
でも決まらない。
甘いのか。
しょっぱいのか。
分からない。
だって彩葉は、いつも自分達の好きな物ばかり買ってくれるから。
彩葉の好みなんて考えたこともなかった。
「難しい……」
かぐやが唸る。
すると。
「決めた。」
ヤチヨが棚へ手を伸ばした。
「え?」
かぐやが振り返る。
ヤチヨの手には二つのお菓子。
一つはチョコレート。
もう一つは小さなスナック菓子。
「二個ある。」
「うん。」
「あと一個じゃないの?」
ヤチヨは少しだけ考えてから答えた。
「私が買う分は甘いの。」
チョコを持ち上げる。
「かぐやが買う分はしょっぱいの。」
スナック菓子を持ち上げる。
「これでどっちも買える。」
「なるほど!」
かぐやの耳がぴんっと立つ。
「どっちか好きかもしれない!」
「どっちも好きかもしれない。」
「天才!」
「でしょ。」
少しだけ得意げだった。
そして二人は顔を見合わせる。
「彩葉、喜んでくれるかな。」
かぐやがぽつりと呟く。
その声には少しだけ不安が混ざっていた。
初めてだったからだ。誰かのためにお菓子を選ぶのは。誰かの為に何かを選んで贈るのも。
しかも相手は彩葉。
いつも自分達に色々してくれる人。だから失敗したくない。
ヤチヨは手の中のお菓子を見る。
それから小さく笑った。
「……どうだろ。」
「え〜。」
「でも。」
ヤチヨは歩き出す。
「彩葉の事だし。」
振り返る。
「大丈夫じゃないかな。」
かぐやは少し考えて。
それから笑った。
「うん!」
そして二人はレジへ向かった。
薬と食材と、少しだけ悩んで選んだお菓子を抱えて。
家で待っている、大切な人のもとへ帰るために。
◇
夕暮れの街を歩きながら、かぐやは紙袋をぎゅっと抱えた。
「早く帰ろう!」
「走らないでよ。」
ヤチヨが言う。
「転んだら大変だからって彩葉がよく言ってるでしょ。」
「むぅ……」
かぐやは少しだけ頬を膨らませたが、ちゃんと歩く速度を落とした。
彩葉に頼まれた買い物。
薬も買った。
食材も買った。
お菓子も買った。
だから今はもう帰るだけだ。
アパートが見えた瞬間、かぐやは少しだけ嬉しくなった。
「いろは起きてるかな。」
「寝てると思う。」
「だよねぇ。」
そんな話をしながら階段を上る。
そして。
がちゃり。
静かに扉を開けた。
家の中は静かだった。朝の騒がしさが嘘みたいに静かで、かぐやは思わず声を上げそうになる。
「いろは――」
しかし。
「しーっ。」
ヤチヨに口元を押さえられた。
「ふがっ。」
「彩葉寝てるかもでしょ。」
小声。
かぐやも慌てて声を潜める。
「ご、ごめん……」
ヤチヨは買い物袋を置くと、そのまま寝室へ向かった。
かぐやも後を追う。
◇
寝室。
薄暗い部屋に、カーテンの隙間から差し込む夕陽。
その中で、彩葉は静かに眠っていた。
「……。」
かぐやは思わず足を止める。
布団に埋もれた彩葉。
少し赤い顔、額に浮かぶ汗。規則正しい呼吸。
だけど。
時々少しだけ苦しそうに眉を寄せる。
「……。」
かぐやはじっと見つめる。
そういえば。
彩葉が眠っている姿を、こんな風に見るのは初めてかもしれない。
彩葉はいつも起きている。
夜遅くまで何かしていて、朝は誰よりも早く起きている。
気付けばご飯が出来ていて。
気付けば洗濯も終わっていて。
だから。
こうして眠っている彩葉は少し不思議だった。
「……寝てる。」
当たり前のことを呟く。
「うん。」
ヤチヨも小さく頷く。
「彩葉もちゃんと寝るんだね。」
「当たり前。」
ヤチヨは少しだけ笑った。
そして買ってきた冷却シートを取り出す。
「起こさないようにね。」
ぺたり。
額に貼る。
彩葉は少しだけ身じろぎしたが起きなかった。
「おぉ……」
かぐやが感心する。
「これで治る?」
「たぶん少し楽になる。」
「こんなので?」
「うん。」
「すごい!」
二人は冷却シートに謎の信頼を寄せていた。
◇
やるべき事はまだある。
二人は静かにリビングへ戻って、買ってきた食材を並べる。
そして。
「ご飯作る?」
「作る。」
彩葉のメモを広げる。
そこには丁寧な字で書かれていた。
『おかゆ』
『お米半合』
『水多め』
『卵があれば卵おじやでも可』
「おじや?」
「分かんない。」
「じゃあおかゆ!」
「うん。」
満場一致だった。
炊飯器を使い、鍋を使い。二人は思った以上に順調に料理を進めていく。
しばらくして。
「……。」
ヤチヨはふと横を見て、手を止めた。
「どうしたの?」
「なんか。」
ヤチヨは鍋をかき混ぜているかぐやを見る。
「かぐや、料理上手いね。」
「そう?」
本人は不思議そうだった。
「うん。」
「えへへ。」
かぐやは少し嬉しそうに笑う。
「いつも彩葉が作ってるの見てたからかな〜。」
「あぁ、そっか。」
ヤチヨは納得した。
彩葉は気付いていないかもしれない。
でも。
二人はちゃんと見ていた。
毎日のご飯も。
包丁の使い方も。
味付けも。
全部。
「彩葉に教えてもらってたんだ。」
「うん!」
かぐやは得意げだった。
その時だった。
◇
「……ん。」
何か良い匂いがする、と彩葉はゆっくりと目を開いた。
頭はまだ少し重いし、体もだるい。
けれど。
とにかく空腹だった。
それに。
どこからか優しい匂いが漂ってくる。
「……?」
ゆっくり起き上がる。
すると、額に貼られた冷却シートに気付く。
「……。」
誰が貼ったのかなんて考えるまでもなかった。
彩葉は少しだけ笑う。
そして、ふらふらと部屋を出た。
「あ。」
最初に気付いたのはヤチヨだった。
「起きた。」
「えっ?」
かぐやが振り返る。
「いろは!」
ぱっとかぐやの表情が明るくなる。
彩葉はそんな二人を見る。机の上には湯気の立つおかゆ。切られた果物。ゼリー。薬。
そして。
買い物袋から少しだけ見えている駄菓子。
「……。」
彩葉はしばらく何も言わなかった。
代わりに、二人の頭へ手を伸ばす。
「わっ。」
「ん。」
ぽんぽん。
優しく撫でる。
「頑張ったね。ありがと。」
その一言だけだった。
けれど。
かぐやは嬉しそうに笑った。
ヤチヨも少しだけ目を細める。
「うん!」
「頑張った。」
どこか誇らしげな二人を見て。
彩葉はまた小さく笑った。
熱で少し重かった胸の奥が、不思議なくらい温かくなっていた。
◇
「いただきます。」
彩葉の言葉に、
「いただきます!」
「いただきます。」
二つの声が重なる。
いつもと同じはずの食卓。けれど今日だけは、少しだけ違って見えた。
湯気の向こうで笑う二人を見ながら、彩葉は静かに匙を手に取った。
























何だこの優しい世界 尊すぎて㍋