レッスンスタジオに入った瞬間、
何かがおかしかった。
いつもなら誰かしら話していて、
笑い声も聞こえる。
でも今日は静かだった。
妙な緊張感が漂っている。
「おはようございます」
挨拶をする。
返事は返ってきた。
でも空気は重いまま。
舞香は眉をひそめた。
「どうしたの?」
誰もすぐには答えなかった。
嫌な予感がする。
心臓が少しずつ早くなる。
視線を巡らせた時、杏奈と目が合った。
杏奈は少し迷うような顔をしてから口を開く。
「舞香」
その声だけで分かった。
良くない話だ。
「衣織が事故にあった」
頭が真っ白になった。
一瞬、意味が理解できない。
「……え?」
間抜けな声が出る。
事故?
誰が?
今、誰って言った?
「今朝」
杏奈が続ける。
「移動中だったみたい」
舞香の耳にはほとんど入っていない。
事故。
衣織。
その二つの単語だけが頭の中でぐるぐる回る。
「怪我は?」
やっとそれだけ聞けた。
「命に別状はない」
その言葉で少しだけ息ができるようになる。
でも安心はできなかった。
「病院にいる」
杏奈が言う。
「みんなで行こう」
舞香は頷く。
頷いたつもりだった。
自分の体なのに感覚がない。
もし、もしも。
最悪の想像ばかり浮かぶ。
もう会えなくなったらどうしよう。
もう声が聞けなくなったら。
もう笑ってくれなくなったら。
そんなことを考えた瞬間、胃の奥が冷たくなった。
―嫌だ。
それだけだった。
復縁できなくてもいい。
許してもらえなくてもいい。
嫌われたままでもいい。
でも、生きていてほしい。
それだけでよかった。
本当に、それだけで。
病院へ向かう車内、誰もあまり話さなかった。
舞香は窓の外を見ていた。
景色なんて全然見えていない。
気付けばスマホを握り締めていた。
トーク画面を開く。
最後のやり取り。
一週間前。
仕事の連絡。
それだけ。
個人的な会話はない。
当然だ。
別れているのだから。
それなのに胸が苦しくなる。
もっと話しておけばよかった。
もっと連絡しておけばよかった。
今さら思っても遅いのに。
病院へ到着する。
案内されたフロア。
白い廊下。
消毒液の匂い。
全部が落ち着かない。
医師との面談が先だった。
説明を受けるため、舞香たちは小さな会議室へ案内された。
医師は資料を見ながら話し始める。
「怪我自体は軽傷です」
みんながほっと息をつく。
舞香も肩の力が抜けた。
しかし医師は表情を崩さなかった。
「ただし、頭部への衝撃の影響で記憶に混乱が見られます」
杏奈が眉をひそめる。
「記憶の混乱……ですか?」
「はい」
医師は資料をめくった。
「ご本人はご自身の名前や仕事、メンバーのことは覚えています」
そこまで聞いて、みんな少し安心する。
だが次の言葉で空気が変わった。
「一方で、ここ二年ほどの出来事が抜け落ちている可能性があります」
誰も声を出せなかった。
「可能性、というのは?」
瞳が聞く。
「記憶というものは本来もっと複雑です。きれいに二年分だけ消えるわけではありません」
医師は慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、本人の認識は二年前で止まっているように見えます」
舞香の呼吸が浅くなる。
二年前。
それはまだ――
衣織が自分の恋人だった頃。
「記憶が戻る可能性はあります」
医師は続ける。
「ただし精神的な負荷は避けてください」
「強いショックを与える情報は控えた方がいいでしょう」
舞香は何も聞こえなくなっていた。
二年前、衣織はまだ舞香の恋人だった。
面会の許可が下りる。
病室の前、ドアノブに手をかける。
指先が震えていた。
怖い。
何が待っているのか、怖かった。
杏奈が小さく言う。
「行こう」
舞香は頷く。
ドアが開く。
ベッドの上に衣織がいた。
額に小さなガーゼ。
それ以外は思ったより元気そうだった。
その姿を見た瞬間、全身の力が抜ける。
生きてる。
本当に。
生きてる。
涙が出そうになる。
その時衣織が顔を上げて、ぱっと表情を明るくした。
「舞香!」
部屋の空気が一瞬止まる。
舞香の心臓も止まりそうになった。
懐かしい笑顔だった。
一年半前まで何度も向けられていた笑顔。
「来てくれたんだ」
嬉しそうに笑う。
その様子に杏奈と瞳が顔を見合わせた。
瞳が小さく息を飲む。
衣織は気付いていない。
何も。
別れたことも。
一年半離れていたことも。
「心配した?」
衣織が聞く。
舞香は言葉が出ない。
「舞香?」
不思議そうに首を傾げる。
そして、当たり前みたいに手を伸ばしてきた。
「どうしたの?」
その仕草も。
声も。
視線も。
全部、恋人に向けるものだった。
舞香の胸が苦しくなる。
嬉しい。
嬉しいのに、苦しい。
どうしていいか分からない。
衣織は何も知らない。
別れたことも、
復縁を断ったことも、
一年半離れていたことも。
全部、知らない。
「舞香?」
もう一度名前を呼ばれる。
舞香はようやくその手を握った。
温かい。
生きている。
それだけで泣きそうになる。
後ろで瞳が視線を伏せる。
この状況に戸惑っているのが伝わってきた。
衣織を守りたい。
だからこそ、このままでいいとは思えない。
そんな表情だった。
一方で杏奈は何も言わない。
ただ静かに舞香を見ていた。
舞香の気持ちを知っているから。
「……よかった」
舞香からやっと出た言葉だった。
衣織が少し笑う。
「大げさだなあ」
そう言いながら、指を絡めてくる。
恋人のように。
いや、衣織にとっては恋人なのだ。
今もまだ。
舞香は視線を落とした。
この瞬間、どうしようもなく思ってしまった。
神様、もう少しだけ。
あと少しだけ。
この夢を見ていてもいいですか。
そんなことを願ってしまった。


















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