Novel15 days ago · 8.5k chars · 1 pages

最も忘れたくて、一番忘れたくない記憶

遙

10年くらい経ってから何らかの形で再会して、すっげえ後悔してた松田が「絶対ぇ逃がさねえ」と押せ押せドンドンして、外堀埋めて逃げ道塞いで俺の女ムーヴかまして、砂糖とハチミツとメープルシロップのコーティングラブしちゃえばいいと思う

それは本当に偶然だった。たまたま早く目が覚めて、たまたま早く家を出て、たまたま電車にすぐ乗れて、たまたま信号に引っかからずに登校した週初めのこと。朝練中の野球部を横目に校舎に向かっていると、頭上でカラカラと窓の開く音がした。は? 横の校舎は旧校舎だろ? 滅多に使わねえとこだよな? と、不穏を覚えて見上げると、にゅっと金色の朝顔が咲いた。
 思わず足を止める。待て、だから何なんだ? 疑問しか湧かない状況に呆然としたままでいる俺など関係なしに、青空に突き抜けるような張りのある音が響いた。

「……はあっ!?」

 何でそこで胃腸薬の曲なんだ! 見ろ、ノッカーが打ち損ねちまったじゃねえか!? 登校中の奴らも爆笑してんだろ!! 無意識のうちに睨みつけてしまっていたトランペットの広がった先端があっという間に引っ込む。続けて「これ恥ずかしいんだけど!?」「せめて部室にいてよ!」「ねえ! 聞いてる!?」と一方的な抗議の声が小さく聞こえてきた。
 女子か、女子が吹いたのか今の! すげぇ度胸だな!? あんぐりと見上げていた窓はいつの間にか閉められていて、もう声も聞こえやしねえ。普段の俺ならもう気にも留めずに歩き出しているだろう。しかしいつもと違う行動をとっていたせいか、『フザけたことした犯人を突き止めてやろう』って好奇心が首をもたげた。
 旧校舎の出入り口はすぐそこだ。登校してくる生徒がだんだんと増えて来たのに紛れてウロウロしていると、10分ほど経ってからシレッとした顔で女子が出てきた。肩に通学鞄、手には少し独特な形のバッグ。こいつかよ、と目を剥いた俺は悪くない。

「……よお、正露丸」

 俺の開口一番に今度は女子が目を見開く。それからものすげぇ速さで制服のポケットに手を突っ込んだかと思うと何かを取り出し、有無を言わさず俺に握らせた。

「………なにとぞご内密に」

 上下で包み込むようにしてぎゅっと握ってくる小せぇ手から自分の拳を抜いて広げてみりゃ、そこにあったのはミルクハーブのど飴だった。ブツを確認した俺に一つ頷くと、どう反応すりゃいいか迷っている俺を残してそいつは減りつつある登校の流れに乗って教室に向かった。

「…待てよ、沢西」

 大股で数メートル歩いて追いつき、隣に並ぶ。俺の肩辺りにある目が恐る恐るって感じでこっちを見た。同級生、なんなら同クラ、だけど挨拶もしたことがあるか怪しい。こいつ、沢西真依は、俺みてえな男が接触しちゃいけない雰囲気を持っている。萩原を囲むザ・女子高生とも、教室の端のほうで固まっている女子達とも違う、なんつうか珍種。繊細な手巻き時計みてえな雰囲気の奴だと思ってる。

「………足りなかった? じゃあハチミツ味もあげるから…」
「じゃなくて。さっきのあれ、何?」
「喇叭譜・食事」
「は…?」
「って曲名だよ。曲名って言うか、旧陸軍の信号ラッパの一つ」
「へえ。じゃねえよ、何であんなとこで外に向けて吹いたんだ?」
「えっと…あー……、内緒にしてくれる?」
「ああ」
「絶対だよ? ……罰ゲーム」
「あ?」
「勝負に負けちゃって罰ゲーム中なの。毎朝8時、指定のワンフレーズを屋外に向かって吹け。ほんと、私だってバレたくないから内緒にしてね?」

 沢西が「内緒だよ」と何度も言い重ねる。目が真剣味を帯びている。こいつとこんな風に話すなんて想像もしなかった。ほとんど接点がないからどんな性格か全く知らなかったし、興味もなかったし、うかつに触れちゃいけねえ奴だと思ってたから。下駄箱で上履きに履き替え、何となく並び立って教室へ向かう。

「あれっ、陣平ちゃん!? 今日は俺より遅えの!?」
「あ? まあな」
「てか沢西ちゃんと一緒だったの!?」
「さ…さわにし、ちゃん………」
「………萩の癖みてえなもんだから気にすんな。うっせえ萩、そこでたまたま一緒になっただけだ」

 予鈴ギリギリに教室に入ると、先に登校していた萩原が目を丸くしながら突っ込んできた。おそらく萩原に名前を呼ばれるのが初めてだろうに、いきなり『ちゃん』をつけられた沢西が軽くキョドっている。それをフォローしつつ沢西から離れ、いつものように萩原とつるんだ。
 『罰ゲーム中』『毎朝8時』と沢西は言った。それならもしかして明日も………。

 いつもより早い目覚ましに機嫌が悪くなることもなく起き、いつもより早く家を出て、いつもより早い電車に乗り、2つばかり信号に引っかかり校門をくぐった。
 上履きがないから勝手に来客用のスリッパをつっかけ、旧校舎3階までペタペタ音を立てながら歩く。古い音楽室はそれでも防音性を保っているらしく、重い扉を開けるまで俺がいることに気づかれなかった。

「まっ…つだ、くん……」
「はよ」
「え、あ、おはよ……え?」
「もしかして今日もかと思って来てみた。お前『罰ゲーム中』っつってたろ」
「……よく聞いてることで」
「まあな。今日は何を吹くんだ?」

 窓近くの席に座っていた沢西の前の席に荷物を下ろし、後ろ向きに跨いで座る。沢西はピクリと眉を動かして目を細めた。

「えっ、松田君って音楽に興味ある系?」
「いや別に。沢西が何を吹くかは興味ある。んで?」
「んー…聞けば分かると思うよ。私そろそろ準備しなくちゃ」
「準備?」
「グループで生配信」
「えぐ」
「でしょ」

 嫌々って表情を隠しもしないで沢西が立ち上がる。内ドアで繋がっている準備室から譜面台を持ってくると、端末を置いた。チラリと見えたのは俺も見慣れた画面で、マジでエグい罰ゲームだなと苦笑が漏れる。沢西が時計を確認して息を一つ吐いた。

「声出さないでね」

 黙って頷き返せばにこりと微笑まれる。昨日、今日で分かったのだが、知らなかっただけでこいつは表情が豊かだ。ケースからトランペットを取り出した沢西が昨日と同じように窓を開ける。そして奏でられた曲に俺は顔と腹に力を込めた。
 声を出しちゃいけねえ。つまり笑っちゃいけねえ。外から聞こえてくる「冒険の旅に出ようぜ!」「ひのきのぼうはどこだ!?」っつう男子のウキウキ声がまたツボる。この際だからレベルアップしてえな!

「……好きなだけ笑っていいよ」

 沢西から顔を逸らして息をしないように我慢しているもんだから、体が勝手に震えてくる。それを見られたのか、窓を閉める音と一緒に嫌そうな声で言われた。

「わ…わりぃ」
「ご満足いただけたようで何よりです」

 そして無表情でトランペットを構えたかと思うと、レベルアップのフレーズ。噴き出さねえほうがおかしいだろ。

「ぶっ! ははっ!」
「笑ってくれてよかった」

 スンとして肩を竦めると、沢西はさっさと片付けに入った。未だに笑いを収められない俺を横目に、譜面台を戻し、トランペットを分解し始める。パーツを一つずつ外してオイルを塗って馴染ませたり、クロスで拭いて汚れを落としたり、トランペットをバラしてるとこを見るのは初めてでついマジマジと見てしまった。

「…もしかして松田君、楽器に興味ある人?」
「演奏って意味なら全然。構造は気になるから一度全部バラしてみてえ」
「………お高いからやめてね」
「しねえよ。ソレ毎回するもんなのか?」
「お手入れ? するよ」
「じっくり見てみてぇ」
「えっ……。うーん…と、放課後って時間ある?」
「いつの?」
「いつでもいいけど」
「明日空いてる」
「遅くなっても大丈夫?」
「ああ」
「じゃあ、明日の部活後の片付けの時とかどう?」
「沢西がいいんなら」
「私は平気だよ。じゃあ6時くらいにここに来てもらっていいかな?」
「ん」

 慣れ切っているが丁寧さを絶対に忘れない、と言った手つきでトランペットがケースにしまわれた。沢西が制服のポケットからリップを取り出して唇に塗る。反対側のポケットから出てきた今日の口止め料は、蜂蜜のど飴だった。

 3日目。沢西は今日も旧校舎の音楽室にいた。「松田君、飽きないねぇ」って、飽きる要素ねえだろ。今日は何を吹くのかも、こいつが吹いているところを斜め後ろから見るのも、楽しみだ。足を肩幅に開いて重心を真ん中に置いて、背中を伸ばして、胴体の真上に頭を乗っけて、トランペットを水平に持って、………目が勝手に引き寄せられる。
 そんでそこから聞こえてくるのが正露丸に冒険の曲だからな。なんつうか、見事に裏切ってくれる感じがたまらなく可笑しくて、「今日も」って期待しちまう。
 今日のはなんかのCMで使われてた曲だった。イントロの駆け上がりがこれぞトランペットって映えてるヤツ。曇りない音がすうっと伸びてすげぇ気持ちいい。貰ったグリーンミントのど飴みてえに。

「陣平ちゃん帰ろうぜ」
「野暮用あんだわ。先に帰ってくれ」
「え? 待ってるけど?」
「待たなくていい」

 放課後に野暮用で、いつも一緒に帰ってる奴が先に帰れと言う。萩原はニヤリと笑って「オッケー、また明日な」と俺の肩に腕を回してから他の奴らと帰っていった。残念だな萩、お前が考えてるような『野暮用』じゃねえよ。
 適当に時間を潰して人気がだいぶ少なくなった校内。約束の時間に約束の場所へ向かう。来客スリッパを拝借して、ペタペタと鳴らしながら進んだ先の重い扉を開けた。

「よう」
「うん、お待たせ?」
「いや別に。てかお前、吹奏楽部じゃねえんだな」
「ああ、うん。4人だけの同好会」
「んなのあったか?」
「音楽同好会。今年作ったし、部員は集める予定ないから知らなくて普通だよ」
「活動終わりなんだよな? 他の奴は?」
「今日は先に帰った。お手入れしてから帰るって言ったから」
「へえ。横で見ていいか?」
「どうぞ」

 机の上にはトランペットとたぶん手入れに使う道具がすでに用意されている。俺が沢西の横に陣取ると、こいつはさっそくトランペットを分解し始めた。パーツ1つずつ名前を言いながら俺に見えるようにゆっくりと取り外し、外した部分を一回一回俺に見せる。

「…思ったより薄いんだな」
「うん。だからぶつけてえくぼ作らないように気を付けないといけなくて」
「えくぼ?」
「ボコってへこみのこと。ちょっとぶつけただけでへこんじゃうから。ベルの部分とかよく見るとえくぼある人結構いるよ」

 話しながら丁寧に取り外した10個くらいのパーツを入れた容器と本体を沢西が、手入れ道具を俺が持って廊下に出る。躊躇いなく水をかけ流すのに驚けば、丸洗いできるらしい。専用の道具も特殊な形をしていて、正直やってみたかった。値段聞いてビビったが。いやお前、もっと丁寧に扱ってもいいんじゃねえの?

「パーツつけてみる?」
「………いいのか?」
「壊さなければ」
「加減なんて分かんねえぞ、俺」
「無理にはめ込んだりしなきゃ大丈夫だよ。向きは教えるし」
「………じゃあ」
「ふふっ、目がキラキラしてる。分解とか組み立てとかが好きなの?」

 まるで好きなことを目の前にした小せぇガキのようだと言われたみてえで、カッと頬が熱くなる。見られたくなくて顔を背ければ、ごめんごめんと余計に笑われてしまった。

「悪い意味じゃないよ? 男の子だなぁって思っただけ」
「……あっそ。んで、どうやんだよ?」

 パーツにオイルやらグリスやらをつけ、沢西の指示通りに本体へ取り付ける。工具を使わねえから物足りないのは否めねえが、初めての作業は楽しかった。あっという間に付け終わってしまい、完成したトランペットが手元に残る。重さは1kgってところか。次は外すのもやってみてえと思いながら沢西に返す。

「ん、サンキュ」
「器用だね、松田君。擦ったりぶつけたりすることがなかった」
「そりゃ気ぃつけてたからな」
「うん、ありがとう」
「そう言や罰ゲームっていつまでなんだ?」
「あと2日。今週いっぱい」
「へえ。他の奴だったら何してた?」
「えぇと…、ストピ1週間、ベース担いで階段ノンストップ5往復、リズム変化耐久1時間クリアできるまで、……だったかな」
「ストピ?」
「ストリートピアノ。エキナカにピアノ置いてあるでしょ?」
「ああ、あれか…。ベースってのは?」
「コントラバス。バイオリンの超大きい版。よく立ってボンボン弾いてるアレ。ちなみにケース含めて15kgいかないくらい」
「担いで止まらずに階段5往復……。最後のは?」
「右手と左手でそれぞれ指定されたリズムを刻むの。右手2拍子、左手3拍子。右手5拍子、左手8拍子。とかを狂わずに1時間。指令はランダムで変わるし、判定はその子以外の私達」

 えぐ。どれもエグいな。音楽同好会とやらのメンツはどうなってんだ? こいつのイメージからは想像できねえ罰ゲームなんだが。

「………何のゲームしてたんだ?」
「音当てだよ。適当なものを叩いた音がなにかを当てるだけ」
「もしかして沢西、絶対音感持ち?」
「………持ってたら負けなかった」
「…おう、だな。でも何問かはいけたんだろ?」
「まあ、少しは……」

 深く溜息をついた沢西に思わず笑っちまったら睨まれた。身長差で俺のことを見上げてくるしかねえから必然的に上目遣いってやつになっちまっていて、全然怖くねえ。それがおかしくて漏れた息に沢西はプイっと横を向いてしまった。

「悪ぃ悪ぃ、女だなって思っただけだ」
「………意地悪」
「ははっ」

 互いの家は反対方向なため、最寄り駅の改札で分かれる。「じゃあな」に返ってきたのが「ばいばい」で、なぜか不満に思った。

 残り2日か、と柄にもなくセンチメンタルな気持ちになる。別にこれで沢西と会えなくなるわけでもねえのに。
 教室に入る前の30分足らずを楽しんでいる俺がいて、どこか非現実的な時間に優越感を抱いていた。数百人が通っている学校で噂になりつつある朝のファンファーレを吹いているのが沢西だと知っているのはわずかな人数で、その中でも実際に見ているのは俺だけだ。グループ生配信を除けば、だが。天に突き抜けるような張りのある響きを聴覚だけじゃなくて視覚でも堪能させてもらっている。優越感も抱くだろそりゃ。
 いつものように準備を終えた沢西は人差し指を唇に当てて無音を要求してくる。数秒の静寂の後、高らかに仕事人が必殺をかました。続けて聞こえてきた金属バットの振り抜く音、初日に比べて明らかに多い登校した奴らのどっと沸く歓声。生配信を止めて振り向いた沢西と目が合って一拍後、俺も沢西も崩れるように笑い転げた。

「やべえ」
「できすぎ」

 机に突っ伏す俺が呟けば、トランペットを抱えるようにして床にしゃがんだ沢西もフルフルと体を震わせて頷く。夏は予選すらまだ始まってねえっつうの。

「ホ、ホームラン、祝って、やれよ」
「無理っ、それ、どころ、…ない」

 喋る合間に笑う、じゃなくて、笑う合間に単語を発する。腹を抱えつつ顔だけ横に向けて沢西を見ると、未だに笑いながらも立ち上がってトランペットを片付け始めた。流れるような慣れた手つきだが丁寧に愛器を扱うこいつの目がすげぇ柔らかい。手元ばっかり見ていたがこんな顔をしていたのか。昨日も一昨日も、顔も見りゃよかったぜ。もったいねえ。
 トランペットを片付け終えた沢西は、これまたルーティーンのようにリップを塗る。軽く唇を開いてスティックを滑らせ、馴染ませるために「んぱっ」と動かした。
 ふにふにと柔らかさを主張する沢西の唇をガン見してしまう。「シー」の人差し指が沈むさま、上唇と下唇を合わせたプレス感、薄く開いた時にほんの僅かに覗く舌。イケナイモノでも見ちまった気分だ。かっと熱を持った頬を片手で隠して顔を逸らす。

「松田君?」
「………教室行くか」
「だね。はい、今日の口止め料」

 白い手のひらには林檎のど飴と桃のど飴。沢西はそれを両手で包んでシャカシャカ振り、左右の拳に隠す。こっち、と沢西の右の手首を掴んでひっくり返せば、開いて出てきたのは林檎のど飴だった。

 今日の沢西は機嫌がよさそうだ。まあ、今日で罰ゲームが終わるんだから気分はいいわな。だがそんな沢西に俺は苛ついていた。

「今日は何だ?」
「トランペットと言えばコレ、って曲。しかも一曲まるまる」
「最後にいっちゃんエグいの来たな」
「でしょ」

 わざとらしく肩を竦める沢西だが、トランペットを準備する手つきからは優しさしか感じられない。俺の中で沢西真依の印象はすっかり違うものになっていた。他の女子と同じように表情をコロコロ変え、そこそこノリもよく、他の女子よりも隣にいて楽な奴。どこにでもいるような、だが他の奴よりもトランペットが上手い女子。
 いや、トランペットに関しちゃ俺は何も分かんねえから断定はできねえけど、きっとかなり上手いと思う。だって沢西の音は天を突き抜けてどこまでも伸びるように感じるから。曇りのない金属のように輝くクリアな音。いつかちゃんとした演奏を聞いてみたいもんだ。

「……松田君?」
「………あ? 何だ?」
「うぅん、ボーっとしてるように見えたから」
「…んなことねえ」
「そっか。それじゃ、いつものようにシー、ね?」

 白い雲がたなびく青空に沢西の音が響く。一日の始まりを報せる曲、鳩が飛んでりゃ完璧だな。一筋の音が空気を震わせながら俺のところまでたどり着く。今日を爽やかに過ごせそうだ。音楽なんて全く分かんねえ俺でも分かる。沢西は上手い。
 これまでで一番長いとは言え1分程度だからあっという間に終わってしまった。外からは拍手が聞こえてくる。確かに『トランペットと言えば』と問われたらすぐに浮かぶ曲だ。………あーあ、終わっちまった。
 カラカラと窓を閉めた沢西が端末に向かって「完っ遂っっ!!」と宣言した。ご丁寧にピースサインまで付けて。その晴れやかな顔が腹立つぜ。ルンルンと音符を飛ばしてそうな空気でトランペットを片付け始める沢西を黙ったまま見つめる。愛器を慈しむその手もその眼差しも、今日で見納めかと思うと焦燥が胸を掻き回した。

「………松田君?」
「……あ?」
「やっぱりボーっとしてない? 調子悪いとか?」
「いや」
「そう…? まあ、無理はしないでね。連日のご清聴ありがとうございました。松田君がいたからかな、途中から楽しかったよ」
「そりゃよかった」
「ふふ、最後の口止め料。今日は大サービスで2つあげちゃう」

 選んでいいよ、と皿のようにした両手を差し出される。手のひらにあるのは数個ののど飴で、これまでにもらったモノもありゃ新しいモノもあった。どんだけのど飴が好きなんだよ。フッと息で笑い沢西の顔を眺める。目に入ったのは唇で、あの音はココから出ているのかと無意識に手が伸びた。俺の指が沢西の唇をなぞる。瞬間、激しく血が騒いだ。

「っ、んっ…!」

 食いつかんばかりの勢いに沢西の手からのど飴が落ちる。その小さな音を意識の端で捉えながら、全ての感覚は沢西に向いていた。唇で啄む、食む、舌でなぞる、舐める、差し込む、絡める、吸う。激しく、激しく血が騒いだ。
 ハッと気が付いたときにはやらかしちまっていて、潤んだ目でじっと見つめてくる沢西から逃げるように旧校舎から飛び出した。そのまま教室まで一息に走り切る。足音荒く入った俺に萩原がギョッとして近寄ってきた。

「どったの陣平ちゃん!?」
「………んでもねぇ」
「いやいや、何でもなくねえっしょ! 絶対ぇなんかあったし!」
「何でもねえっつってんだろ! っ……」
「………」
「………悪ぃ」
「いーよ。顔赤いぜ、洗ってくれば?」
「………ん」

 どこから取り出したのか、タオルを持ってきた萩原に礼を言って廊下に出る。水道でじゃぶじゃぶ顔を洗い、顔にタオルを当てて、大きく溜息をついた。

「あ゙ーーー………」

 くそっ! 何だよこれ。頭が働かねえ。なっんも考えらんねえ。沢西のことしか出てこねえ。ふざけんな、マジでふざけんなよ。バカになった脳でも『顔を拭く』という指令は出せるらしい。雑に顔を拭いてると、キュッと上履きが鳴る音が聞こえた。その音にタオルを顔から離すと、そこにいたのは沢西だった。
 洗った顔に一気に熱が集まる。こいつが何か言おうと口が開きかけるのを見て即座にその場を離れた。だってその唇は、舌は。ただ濡れただけのタオルを乱暴に萩原へ返して、机に突っ伏す。やっぱり俺は接触しちゃいけなかったんだ。
 昼休みに1回、終礼後に1回。沢西と目が合ったが、顔ごとバッと逸らして避けてしまった。萩原が訝し気に俺を見るが無視だ、無視。言えるか、こんなこと。

 それから卒業するまで沢西とは目が合わなかった。

— End —

Comments 3

3
3℃さん14 天前

必殺仕事人と鳩と少年だけわかった。あとはわからない…(panic2)

やさか15 天前
Sticker
A
amaterasu15 天前
Sticker
Sakuria
Where every work blooms
Click anywhere to skip