タソガレドキ忍軍狼隊に属する高坂陣内左衛門に縁談話を寄越したのは、彼が尊敬と敬愛を捧げてやまない狼隊小頭、雑渡昆奈門であった。元はとある筋より雑渡に向けられた話であったが、当の雑渡が「いやぁ、今更結婚する気はないよ。そもそもそのお嬢さん幾つ? 十七? 私と一回り以上離れてるじゃん。年齢差が親子だよもう。それより若いのに回してやろう。陣左なんてもうとっくに身を固めても良い年頃だろう。年齢的にも釣り合いが取れそうだ」と竹筒雑炊を片手に言ったため、では陣左、もとい陣内左衛門へ、と相成った。
言われてみれば高坂ももうじき二十一歳。狼隊での実績も順調に積み、一端の男である。妻を娶っても良い頃合いであろうと、雑渡もその周囲もそう判断したのは同じだ。
さて突然に雑渡から見合い話を回された高坂はと言えば、複雑な心境であった。
尊敬する雑渡に気に掛けて頂いて嬉しい。しかしまだまだ雑渡の元で、お召しとあらばすぐ馳せ参じる己でありたいのに、妻を得てはそうもいかぬことがある。歓喜と不満は後者の方に分があったが、年功序列の世、上役たちから「縁組を受けよ」と命じられては、高坂は「謹んで承ります」と頭を下げるよりない。
「まあまあ陣左、そんな顔しないの」
輿入れの日にちが近付くにつれ憂鬱な顔と溜息を増やす高坂に、雑渡は気楽な調子でそう肩を叩いた。
「しかし、小頭」
「お前が所帯を持つ日が来るなんて、月日が過ぎるのは早いものだね」
にこにこと表するには含みのある笑みは、面白がっていることを隠しもしていない。此処に狼隊小頭側近であり、高坂の烏帽子親である山本陣内がいればきっと雑渡の頭の一発二発を「こら」と軽く叩いているだろうが、残念ながら山本は不在であった。とは言え彼もまた高坂に縁談を差し向けることを良しとした一人である。そういう意味では、彼に味方はいなかった。
縁談相手はタソガレドキの槍大将の娘であった。槍大将には二人の息子と三人の娘がおり、高坂の元へ嫁ぐのは兄姉たちを数えて上から五番目の末娘だ。本来なら何処ぞの若侍にでも嫁ぐべき女が一介の忍びと縁を結ぶことになった程のとある筋とは隠すまでもなくタソガレドキ城主黄昏甚兵衛その人のことであり、甚兵衛の思惑は以前に雑渡昆奈門に侍大将の娘を宛てがおうとした時から変わらない。万事戦の多いタソガレドキだ。黄昏甚兵衛を筆頭に戦場を駆け回る武士と忍び、元来身分差のある者たちの結束を固める橋渡しとして政略結婚は一つの手である。同時に忍軍の地位をある程度向上させる良い機会ともなる筈だった。雑渡の火傷による破談は甚兵衛にとっても痛い失敗となったのだ。暫くの間は娘を忍びに差し出すことを渋る家臣たちの様子から計画を眠らせていたが、雑渡が復帰して以前にも増して鬼神の如き活躍を見せている今、改めてという運びであった。まあ当の雑渡は「ちょっと今更カモ……」と甚兵衛相手に言い放ち、有望株の若手にその話を回したわけだが、甚兵衛としてはそれでも構わない。彼が望むのは軍内の戦力の地盤固めだ。
そんなこんなで縁談話が差し向けられてから僅か半年で、事前の顔合わせもなく妻となる女は高坂の元へと花嫁支度ともにやって来た。
儚げに垂れた眦が高坂を上目に見てはまた逸らされる。見目は愛らしいが、おどおどとした態度ははっきり言って好ましくなかった。武家の娘だというのに周りには傷一つない白い肌の優男しかいなかったのだろうか。戦場に身を置き慣れた高坂の雰囲気はどこか鋭く尖って荒々しい自覚はあるが、女の父である槍大将とて穂先の鋭い槍の如き眼差しを持つ厳格な男であるのに。
上の四人から少々歳の離れた末娘はきっと、蝶よ花よと育てられたのだろう。巌のような男も末娘には甘やかであったのだろうか。そんな娘が忍びと結婚し、人里離れた地で隠れ住むようになって生きていけるのだろうかとその荒れたところのない手指をちらと見る。
「初めに言っておきますが」
それでも、この婚姻は決定事項である。高坂はこの娘を娶り、この娘は高坂を夫とするのだ。であれば、今のうちに心しておいて欲しいことは言っておかねばなるまい。
「私はタソガレドキ忍者として、タソガレドキ城城主たる黄昏甚兵衛様──ひいては私の上司である小頭を第一とする。家庭を持ってもそれは変わらぬし、内向きのことは二の次三の次となるだろう。貴女には悪いが、夫婦間の愛だの情だのといったものはあまり期待しないで頂きたい。勿論私も貴女に妻なれば奥なればといった過度な要求はしない。必要最低限の務めさえ果たして貰えればそれで良い」
我ながら酷なことを告げている自覚はあるが、本心だ。それにこの娘とて、よりにもよって忍びなどに嫁いだのだ。きっと内心は不平不満に溢れているだろう。里の中であれば高坂のことは構わず好きに生きていてもらって構わない。己は家を勘当された身であり、血を繋ぐ必要もないと考えている。欲しいというなら子も作るが、我が子であってもやはり高坂が優先すべきは家の外になるだろう。
そう宣言した高坂は、しかし娘がぱちりと呆けたように瞬きし、目の前にいるのが誰か分からぬという顔でこちらを見つめ、かと思えばふとその眼差しから高坂への興味を消してスウとその視線を下げたので、なんだその反応は、とやや腹を立てた。
「聞いてますか」
目を開けたまま寝ており、たった今目が醒めたような、そんな様子にそう問いただす。
それが全てのことの発端となることも知らず。
「ええ、はい、その……つまるところ貴方には──仕事と家庭を両立出来るほどの甲斐性はないと」
果たして返ってきたのがこの、今しがたぼけっとしていたおっとり娘の口から出たとは思えぬ切れ味のものだったので、高坂は思わず「は?」と低い声を出した。人はそれを逆ギレと言う。
この婚姻は決定事項であり、当事者である筈の二人に覆せるものではない。しかし、今この時をもって両者の間には断崖絶壁に等しい溝が出来、この先の新婚生活には早くも暗雲が垂れ込めていた。
が、この高坂陣内左衛門という男、人よりも負けん気の強い気質の持ち主であった。そして心根はちょっとびっくりするくらい真っ直ぐな男でもあった。
彼は込み上げる怒りにふるふると拳を震わせ、そしてぐわっと大口を開け「上等だ!」と叫んだ。法螺貝がぶわぉぶわぉと脳内と言わず全身に開戦の合図を響かせている。
「良いだろう、そこまで言われて引くはタソガレドキ忍軍狼隊高坂陣内左衛門の名が廃る! 見てろよ、絶対に、甲斐性ありの良い夫だと言わせてみせるからな!」
身を乗り出して先程までとは百八十度違う宣言を人差し指と共に突き付ける高坂に、娘は「……はい?」と首を傾げた。ぱちり、と黒い瞳を瞬かせる姿はやはり愛らしいがそんなものに惑わされる己ではない。そのかわゆい顔のまろい頬を、幸せいっぱいですとばかりに桃色に染め上げてやるからな、と高坂は視線鋭く睨み付けた。
妻を娶った翌日の早朝から深刻な顔で狼隊詰所の己の元を訪れた部下に、山本は何事かという内心の動揺を表に出さぬよう「どうした」と努めて穏やかな声で応じた。例え縁談に消極的であったにしろ、山本の部下である高坂陣内左衛門は一度腹を括ればうだうだといつまでもつまらぬ事を言う男ではない。涼しげな容貌に反してやや脳筋かつ激情型であるので誤解されやすいが、辛抱強い男でもあるので例え新妻との相性に齟齬があってもどうにか円満な間柄となるように腐心するだろう。まして雑渡からの縁である。大元は殿だが、高坂に割り振ったのは雑渡だ。その雑渡の顔を潰すような真似は絶対にしない。
だというのに、初夜が明けてすぐさま己の元へ来るとはどういう事だろうか、と穏やかな笑みの下で山本はだらだらと尋常でない汗をかいていた。上手く伝わってなかったなら申し訳ないけど一応お前は今日非番なんだけども、と言うべきか迷った。流石に新婚一日目の若手に忍務を振るタソガレドキ忍軍ではない。
「待機中に申し訳ございません」
「いや、うん。構わないが……奥方はどうされているのだ?」
「あれはまだ寝ております」
おや、と山本はバレぬ程度に片眉を跳ねた。
高坂の様子には切羽詰まった落ち着かなさも、この先夫婦としてやっていけぬと言い出すような慨嘆も見受けられない。「山本様! ご相談が!」と山本の元へ現れた時の勢いは今はなく、けれど表情はまだ硬い。
しかし少なくとも、たった今新妻の様子を語った口調に嫌悪はなかった。
目線だけで話を促すと、高坂は「あの」と一瞬言い淀み、す、と短く息を吸い込むと吐き出す勢いと共に「夫婦円満の秘訣を伺いたくっ!」と頭を下げた。
「夫婦円満の秘訣を」
「はい。具体的には山本様が奥方との結婚生活で心掛けていることなどあればお聞きしたく思います」
「わ、私がか」
「私の知る限り、里内でも一二を争う程度に仲睦まじい夫婦でいらっしゃいますので」
山本の口から「おお……」と特に意味もない呟きが溢れた。間を保たせる為のそれは感嘆とも相槌とも付かなかった。とりあえず、この相談事が他に知れたら己はまた月輪隊の彼の男にじとりとした目で睨まれるのだろうなと思った。
とにかく今は目の前の若者のことだ、と溜息を飲み込む。相談内容は色恋のそれであるのに、高坂は真顔だった。それどういう感情の顔だ。どういう方向性で話したら良いんだ、と悩みつつ「心掛けと言ってもなぁ」と探るように慎重に言葉を紡ぐ。
「別に特別なことは何もないぞ。ただ私が小頭側近という立場にある以上、妻に掛ける心労や苦労も多いだろうから、感謝の念は細かに伝えるようにはしている」
「なるほど」
こくん、と高坂が頷く。その姿にこの青年がまだ元服前の少年だった頃が重なる。山本様、とよく懐いてくれた少年が妻を娶るまでになったのか、と改めて感慨深い。すわ何事かと思わず身構えてしまったが、責任感が強い故に愚直なところもある高坂だ。きっと殿からの縁組ということでこれからの夫婦仲に必要以上に気を遣っているに違いないと山本はホッと肩の力を抜いた。そうして気が緩んだせいか、余計なことまでぽろりと口にしてしまった。
「どうなるかと心配もあったが、お前がそのように前向きに奥方とのこれからを考えていて安心したよ」
「前向き?」
早朝の穏やかな空気の中、ぎら、と高坂の鋭い眼差しが光る。戦場で見せる眼差しにも似たそれに、山本は「え」と狼狽えた。
「誤解なさらないでください。これは私の矜持を掛けたあれとの戦です」
「いくさ」
「難しい戦いとなるでしょうが、必ずや私が勝ち、あれに「良い夫だ」と言わせてみせます」
それってそんなに戦意に満ちてないと言われないものなのか、と山本は思ったが、様々な戦場を潜り抜けた勘が「余計なこと言わんとこ」と口を噤ませた。なにがあったん? とか、藪を突いて蛇を出すようなことも訊くまい。己の名を与えた烏帽子子は可愛いが、それはそれ。犬も食わない面倒ごとには極力巻き込まれたくない。それに「良い夫だ」と言われるために努力すると言うのなら悪いことではない。不穏な様子で宣言することでは絶対ないという事実からはそっと目を逸らした。大人とはこういう汚い技を覚えた生き物である。
「ま、まあ、お前が思うようにしたら良いのではないか」
「はい。心得などをこれから先も色々伺うやもしれませんが、御指導御鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
「いやまあ、構わんが…………陣内左衛門」
「はいっ」
教えを請う姿勢はつまるところ高坂から見て山本は良い夫だと思われている証左であるため少々面映いが、嫌な気持ちにはならない。高坂はこういうところが可愛い男だった。しかしこれだけは、と山本は念を押すように夫初心者に言った。
「私とお前では別の人間なのだから、お前の奥方には、お前の真心を差し上げるのだぞ」
ひとまずまだ寝てるからと言って新婚の奥方を置いて家を出てくるのはやめなさい、と帰宅を促す。女性ってそういうところに厳しいから。減点方式だから。
新婚生活はまず互いの考え方や生活習慣の擦り合わせが主だった。そもそも高坂の仕事には朝も夜もない。基本的に夜こそが忍者の本領発揮となる時間帯だが、城に仕える戦忍びの集団であるタソガレドキは昼日中の忍務も多い。高坂も割り振られた忍務で家を空ける時間が変わる。規則正しく朝に起きて夜に眠る妻とは行動時間にすれ違いが発生するのも稀ではない。おまけに数日帰らないなどもざらにあった。良い夫となるに辺りこれは少々優位性に欠けた。烏帽子親の山本にまだ第一子しか居なかった頃、長期忍務明けに家に帰り、数日の非番の後また家を出ようとすると、幼い我が子に「ちちうえ、またきてね」と無邪気に見送られたと落ち込んだ背中を慰めたことは高坂の記憶にまだ鮮明だ。訊けば所帯を持つ者たちは大概似た経験をしており、雑渡などは「そういえば私も昔父上に似たようなこと言って泣かせたなぁ」と子供側の経験談を持ち出していた。さすが小頭、素晴らしい記憶力をお持ちです、と尊敬の念を強めた高坂は、実は己も似たようなことを高坂(父)に行ったことを忘れている。ちなみに高坂(父)の反応は彼の名誉のためにもここに言及しないでおく。
何はともあれ知彼知己、百戦不殆は兵法の基本である。無論最終的には勝ちを得たいが、今はとにかく情報を集める時だ。だというのに戦略的に時間が足りない。そんな訳で、高坂は家に居る間はなるべく妻のそばに添うようにした。妻は初め「なんだこの人」という顔をし、実際に「あの、何か用でも」と高坂に問うたが、高坂が「気にするな」と言い張ると「気にします」と言いながらもそれ以上追求はしなかった。
高坂の住まいは狼隊の独り身用の長屋から夫婦用の家屋に移ったとはいえ、それなりの屋敷で生まれ育った妻には窮屈だろうが、妻がそういった不満を露わにしたことはない。今も土間で汲み置きの水を淡々と桶に移すその横顔をじっと見つめる。高坂に対して愛想を浮かべない妻は真顔だと人形のようだった。どこもかしこも小さくて細い。長い黒髪が滑る肩は薄く、頼りない指先が水を移し終えた重い桶を持ち上げようとするので思わず「おい」と声を掛ける。
「はい」
「指を痛めるだろう。私が持つ」
「……」
「なんだその顔は」
高坂が重い物や嵩張るものの運搬を代わるのはこれが初めてではない。妻もいい加減そういう時には隣にいる高坂に声を掛けて頼れば良いものを、必ず妻自らが手を伸ばすのだ。夫が居るというのに、身体的に明らかに劣る女人がわざわざ辛い思いをする必要性が分からない。高坂は甲斐性あり頼り甲斐ありの夫を目指しているのだ。だというのにこの有様。仕方なく高坂が声を上げ、妻の手からそれらの荷を取り上げるのだが、その度に何やら生温かい目を向けられる。まるで高坂がしょうもない我儘でも言っているかのような眼差しだった。こちら方面では経験の浅い高坂とて、それが頼れる夫に向けるものではないと分かる。
「旦那様、私をよほど繊細な造りだと思っておいでですか」
「思うも何も」
ふ、と溜息を吐く妻の手を、桶を小脇に持ち換えて空いた片手に取る。高坂よりも一回りも二回りも小さい上に、指の細さなど妻の親指が高坂の小指と同じかそれ以下なのでは思うほどだ。その上つるりとして柔らかい。水仕事による多少の荒れがヤケに痛々しく目に付くほどに妻の手はまっさらだ。
「どう見てもそうだろう。背も低いし、軽過ぎる」
「私は女性としては平均です」
ぶん、と妻が高坂に取られた片手を振った。大した衝撃もなかったが、逆に抵抗することで怪我をさせそうで高坂はさっと手を放した。
「里の女性たちも町の娘さんたちも、私と似たようなものでしょう」
「里の女性方はああ見えてその辺の男などポンと投げ飛ばすほどには屈強だし、町娘なんて忍務に関わらなければ特に注視したこともないから分からん」
「じゃあ今度良く観察してくると良いですよ。私よりよほど綺麗な細身の女の子たちがテキパキ働いてるところ」
む、と高坂は眉を顰めた。普通妻は夫が他所の女を見ていれば怒るのではないか。何故推奨されているのだ。高坂は妻の考えが理解出来なかった。知彼知己はこのようにしばしば頓挫していた。しかしここで諦めてはそれこそ良い夫とは言えない。今に見てろよ、とはあの夜からこっち、最も高坂の胸の内に浮かぶ言葉である。
「……とにかく、重い物は私が居る時は私が持つ」
良いな、と高坂はきぱりと言い切って、桶を抱えて上り框に足を掛ける。妻がそのまま二、三歩進む高坂の背中をじっと見ている気配がした。振り返ると、土間との高さの分更に低くなった位置から妻の目と目が合う。
「どうした」
「……いえ」
ふる、と妻が小さく首を横に振る。それから「ああ、いえ」と今度は先の否を否定するような声を出した。
「ありがとうございます」
す、と優しげに垂れた眼差しが細くなる。ゆっくりとした瞬きにも似たそれが笑みだと気が付いた時には妻の顔はまた元の愛想のないものに戻っていた。しかし一瞬のそれが高坂に与えた衝撃は計り知れない。妻が笑った。結婚生活ひと月目にして初めて感じた手応えだ。身体中が沸き立つような昂揚は、手裏剣を握ったばかりの頃にようやく的の中心を打った時に似ていた。この分なら「良い夫」となる日もそう遠くない筈だ、と高坂は気合を新たにした。
「私が礼を言われているではないかっ」
バチコーン、と高坂が己の額を思い切り拳で殴ったので、近くいた尊奈門はぎょっとして振り向いたが、歳の近い兄のような男が額から血を滲ませながらぐぬぬぬと唸る姿に「触らんどこ」とそっと目を逸らした。諸泉の属する狼隊は主に火器火薬の取扱いを専門とするが、別に不用意に火元に近寄りたくはない。派手な火花を飛ばしそうであれば尚更だ。
二人一組で森に罠を仕掛けるという忍務を滞りなく終え、今は退去の合図を待っているところだった。戦準備とは大概が地味な作業ばかりだ。土と草と少々の火薬の匂いのする手をすんと嗅ぐ。慣れ親しんだそれに、高坂の血の匂いまで紛れ込んできた。どんだけ強く殴ったんだよ、と引く。この歳上の男の中には冷静さと苛烈さが矛盾せず同居していて、長い付き合いだというのに諸泉はいまだによく「なんで⁉︎」と驚かされている。高坂を上手く扱えるところもまた諸泉が雑渡と山本を尊敬する点の一つだ。
さて諸泉が無関係を装っても、高坂が「おい」と声を掛ければそれまでである。二人の間の長幼の序は彼らがまだ幼い頃から存分に諸泉に刷り込まれている。悲しいかな、五つ歳上の男に「おい」と言われたら、諸泉は「はい」と背筋を伸ばして返すしかないのだ。
「尊奈門、お前の御両親は仲がよろしいだろう」
「え、は、はい。まあ、悪くはないかと」
諸泉は既に家を出て狼隊の長屋住まいだが、同じ里内で暮らす両親なので疎遠ということもない。世間的には恥かきっ子である諸泉だが、裏を返せば父母がそれほど仲が良いということでもある。実際諸泉が家に帰ると穏やかに会話しながら縁側で並んで過ごしている二人を見ることが多い。雑渡のお陰で九死に一生を得た父は、枕元で泣く母にこれまで泣かせた分笑わせてやろうと決意したんだとか。
そんなことを話せば、高坂はなるほど、と頷く。いい加減額の血を拭ったほうが良い。顔が良いのに頓着しないのは持てる者の余裕だろうかと僻んでしまう。諸泉が額から血を流してなるほどと腕を組んでも間抜けなだけなのに、何故高坂だと深遠な意味がありそうに見えるのだ。真実は自分の額を殴り飛ばしたなどというぶっ飛んだ理由であるのに。そんな風に妬んでいると、鼻筋の横を滑る液体が煩わしかったのかようやっと高坂は額を無造作に手の甲で拭った。地面に血が落ちぬよう装束の目立たぬ位置で手の甲の血も拭き取る。
「しかしなんだってそんなこと訊くんです」
と諸泉はそう問い掛けてすぐ、「そういえばこの人結婚したんだ」と思い出した。それから彼の常で余計なひと言をつい発する。
「奥方と上手くいってないんですか?」
しまった、と思った時には遅く、じろりと三白眼に睨まれる。怒られると覚悟したが、高坂は一拍置いて気まずい様子で目を逸らした。
「え」
「別に、上手くいってない訳ではない」
「あ、そ、そうですか」
「ただ」
──ただ!
高坂の口から溢れる言い訳めいた口調に、諸泉は余計なことを言わぬよう必死に両手で口元を押さえた。ただ! あの高坂が!
「どうにも調子が狂うというか」
調子が!
「何を考えているのかどうにも掴めん」
「…………!」
「おい、うるさいぞ」
ギロ、と高坂が再び諸泉を睨む。
「何も言ってませんよ!」
「顔がうるさい」
「横暴過ぎませんか⁉︎」
諸泉は愕然とした。相談(?)を持ち掛けてきたのはそちらなのにこの言い様。
「もう、奥方にもその調子なのではありませんか⁉︎」
「そんな訳ないだろう! あれほど儚い風情の女人なのだぞ!」
間髪入れず返された言葉に諸泉はぎょぎょっと仰け反った。
「は、儚い、ですか」
「儚いだろう。あんなに細くて真っ白で可愛らしいんだぞ。殿から賜った縁でなくば、私のような忍び風情の元に来るような方ではない」
「は、はあ……」
「まあそれも見目ばかりだが。中身はこの私に真っ向から言い返すほどだ。とはいえやはり見た目はあの様だから、どうにも調子が狂う」
「はあ」
「腕などうっかり握ってはぽきりと折ってしまいそうだ」
「……」
諸泉は高坂の額に薄らと滲む血を見つめた。
「尊奈門、お前ならばなんとする」
「えっ」
「お前に訊くのも癪だが」暴言再びである。「お前があれの夫だとして、いや待て、深く想像はするなよ。あれは私の妻だからな」知らんがな。「私とお前では性格も違うからな。あくまで参考までにだが、忍びと関わりない女性に接するならばお前ならばどう向き合っていく」本当になんなんだこの人。
諸泉は高坂の発言全てに内心で突っ込みを入れつつ、けれど「めんどくせぇ」と思えど長幼の序以下略。息をいっぱい吸い込んでそのまま全て吐き出したい気持ちを抑え、「そうですね」と平坦な口調で答えた。
「優しくして差し上げればよろしいのでは」
「している」
「高坂さんは物言いがキツい時がおありですので。私たち相手ならばともかく、荒事に関わりのない女性にはも少し丸く、柔らかく」
「丸く、柔らかく……」
じ、と高坂が諸泉の顔を見つめた。いかに高坂が美男子とはいえ、男に、それも高坂に見つめられても諸泉の心臓はドキとはせずキュッと縮み上がるばかりである。すうと伸びてきた手が諸泉の頬に向かう。え、まさかこの人、私で練習しようとしてる? と諸泉は怯えた。やめてよして触らないで普通に怖いから。しかし諸泉の怯えは無用の長物だった。伸びてきた指はそのまま諸泉の頬をぶにと摘んだ。
「いたっ、あにふんですかっ!」
「丸く柔らかい感覚を掴んでいる」
「いいかげんわらひもおこりまふよ!」
「……尊奈門」
ひたりと高坂の眼差しが諸泉を捉えた。思わず押し黙った諸泉に、高坂は「お前」と眉を顰める。
「己の目方の管理も忍びの仕事のうちだぞ」
「増えてませんよ失礼なっ!」
その後何を騒いでいるとやって来た山本に、諸泉は「高坂さんに惚気を聞かされた」と泣きついた。惚気ではないと高坂は憤慨したが、妻が可愛いだのなんだのと、どう聞いても惚気だろう。暫く高坂と二人きりの忍務は受けたくないと山本に言ったものの、諸泉の意見は大体流されるのが狼隊であるのであまり期待はしていない。
高坂がそばにいることに妻は慣れた様子だった。高坂もまた妻を観察し続け、彼女の大まかな作業を把握し先回りして補助することにすっかりと慣れた。元々粗方の家事を己で熟していたのだ。大半は妻のやり方に合うように修正するだけで済み、他者と呼吸を合わせるのは狼隊で慣れている。それでもやはり会話は思うように弾まない。妻も高坂も多弁な質ではなく、二人でいても黙々と家事を行うか、それぞれで書物を読んだり裁縫を行ったりするばかりであった。
不思議なことに沈黙は苦にならなかった。故に高坂は、ハッと我に返るのが遅くなった。
全然良い夫としての点を稼げていないのでは。
慌てて妻の方を見ると、彼女は黙々と針を進めていて高坂の様子に気付くことはない。白い指先が丁寧に針を刺していく。危うげない手付きは思わず見惚れるほどに優美だった。しばし呆けていた高坂は、妻が一度針を置いて手元の布地を掲げるように広げたところでまた意識を引き戻した。
「どうなさいました」
今度は妻も、視界の端で身じろぐ高坂の様子に気が付いた。
「いや、その、上手いものだと」
「慣れですよ」
「私も忍び装束のほつれなどを修復することがあるが、大した腕前にはならなかった」
妻はきょとんとして、それから高坂の手元を見た。
「ご自分でなさるのですか」
「まあそれはな。独り身であったし、忍務中であれば尚のことだ」
なんてことない高坂の返事に、しかし妻は何か考えるように俯いた。なんだ、と内心少々狼狽えていると、思案を終えた妻がそっと顔を上げ、一瞬躊躇うように目線を彷徨かせた後、また下を向いて「では」と小さな声で囁いた。
「今はどうなさるのです」
おぉ、と高坂は仰け反りかけて踏み止まった。これはなんだ、と高速で思考を動かす。試されているのか。なんと答えるのが正解なのだ。妻に任せると言うべきか。いやしかし、わざわざ妻の手を煩わせるのは良い夫とは言えぬのでは。いやでも夫婦なのだ。此処は逆に妻に任せると信頼を託すのが夫としての正解なのではないか。高坂としては針仕事は苦痛ではないが苦手なので、妻が引き受けてくれるというならば喜んで頼むが、妻が針仕事が得意だからといって好きとは限らない。仕事増やしやがって、と点数が下がるのは困る。だがしかし。けれどでも。
戦場では一瞬の迷いが命取りとなるため迅速な判断を下す高坂だが、こと夫婦間に於ける「正解」は未だ掴み損ねていた。だが悩む間にも妻は返答を待っている。南無三、と高坂は口を開いた。
「貴女に任せる」
細い首がゆるりと持ち上がり、垂れた眦が高坂に向けて真偽を問うようにそっと細められた。
「職業柄、衣服の繕い作業は多くてな。針仕事の上手い妻を得ることが出来て助かった」
此処に諸泉がいれば「もっと言い方があるのでは」と思ったろうが、残念ながら新婚の家に第三者はいない。言い切って口を真一文字に結び返答を待つ高坂に、妻は「構いませんよ」とまた針を手に取った。
「仰る通り、私は貴方の妻ですから」
つん、と鼻先を高坂から背ける横顔は素っ気ない。しかし黒髪からちらりと覗く妻の耳の縁はほんのりと赤く、睫毛の揺れに伏せた眼差しの瞬きの多さが見て取れる。
動揺しているのだ、と気が付き、何故だか高坂の動悸が激しくなった。心拍や発汗を操る術は心得ている筈なのに、膝の上で握った拳の内側は湿りを帯びて、鼓動の音がドコドコと耳の奥で喧しい。妻以外の全てがぼやけて見え、彼女の一挙手一投足全てが鮮明になる。ごくり、と喉が動いたことで、呼吸を細く浅くしていたことに驚いた。
なんということだ、と独りごちる。
まさかまさかである。そりゃあ、初めからそう告げていたのは己であったけども。
この反応は戦場で強い者と対峙した時とまるきり同じであった。
しかし殺意や敵意は生まれていないため、正確には雑渡や山本を相手とした鍛錬時に近いかもしれない。意識の全てが相手に向かい、その僅かな動きまで感じ取ろうと全身で気を張っている。身体の昂りと、一部冷静な思考での算段。
高坂は握った拳から意識して力を抜きつつ、なるほどと頷いた。
ならば、相手にとって不足なし。例えどんな相手であれ侮るなとは忍者の基本であるが、か弱いおなご相手だとどこかで気の弛みがあったのだろう。反省し、これまで以上に身を引き締めてこの勝負に挑まねばなるまい。
これほどまでの強敵の「良い夫」とは、ちょっとやそっとの男ぶりでは駄目なのだ。
ここに諸泉が居れば「支離滅裂過ぎませんか。ちょっと落ち着け」と思ったろうが、思うだけなので居ても居なくても結果は特に変わらない。諸泉尊奈門は余計なひと言をぽろりぽろりと口にする少年だが、いざという時の危機回避能力はタソガレドキ忍者の中でもトップレベルに優れていた。人はそれを悪運が強いと言う。
高坂陣内左衛門はなかなかどうして新妻にぞっこんの愛妻家になりつつある、とタソガレドキの里では噂されていた。情報を扱う忍びの集団であるから、例え話はどれも正確で尾びれ胸びれの類は生えていない。
「休日はいつも奥方と共にいる」
「奥方には箸より重い物を持たせない」
「常よりゆったりとした穏やかな声で話し掛けているのを聞いて思わず二度見した」
そうして話した後、顔を見合わせてゾゾ、と二の腕を摩るのが高坂と同年代の若者たちで、いやぁ、良かった良かったとあっけらかんと笑うのが年長者たち、そして「お、高坂。奥方と仲睦まじい様子で何よりだなぁ」と当の本人に声を掛けるのが狼隊の人間である。
山の一部を切り拓いて作った鍛錬場で身体の関節をほぐしていた高坂は、同じく鍛錬をすべく現れた男に挨拶もそこそこにそう言われ「はあ」とそこはかとない困惑を浮かべ曖昧に頷いた。
「なんだよその顔は」
「いえ、何故だか最近みなさまからそのようにお声掛けをされることが多いのですが……私とあれが仲睦まじいかと言われるとよく分かりませぬので」
「ほーん?」
此処でこの狼隊の年長者の一人である何某は、オモロの気配を敏感に感じ取った。彼はニマリとした笑みを一瞬浮かべ、すぐさまそれを分別ある大人の笑みの下に隠す。
「なんだ高坂。そう謙遜せずとも良い」
「はあ」
「お前が数日家を空けるたびに奥方に土産を持ち帰っているのは知っているぞ」
「いえ、それは別に私以外の家庭を持つみなさまも同じで」
「里内を共に歩く時は手を繋いでいるし」
「あれは鍛えておらぬので、町のように整備されていない道を歩くに不慣れなのです」
「会話は多くないが、短い一言で通じ合っているようではないか」
「元々物静かな女で、生家でもあまり誰ぞと話すことは多くなかったと申しておりました。まあ顔に大体表れているので、なんとなく言いたいことは分かりますから」
「…………」
「……あの?」
「お前、それは普通に、仲睦まじいと言うのではないか?」
そうですか? と高坂は首を捻ったが、ちらほらと聴き耳を立てていた他の者たちはうんうんと内心頷き、仲良しじゃんね、と思っていた。
高坂はしばし考えるような間の後、ですが、と前置きして答えた。
「やはりどうにも、しっくりきません。仲睦まじいというのなら、互いに好意があるということでしょう」
「うん? 違うのか?」
「少なくとも妻からはそういったものは感じませんし、私も特には」
淡々と言う高坂に何某は「んん」と小さく首を傾げたが、次いで聞こえた言葉に「んんっ⁉︎」と先程とは反対側に勢いよく首を曲げた。
「そもそもあれと私は婚姻の日から今現在まで戦の最中ですので、先輩が先程述べられた数々も戦略的手段の一つです」
「どゆこと」
「良い夫となるべく精進しているのです。必ずや妻にそう言わせてみせます」
「……よく分からんが、つまり奥方にそう称された後は、態度を変えるということか?」
少々低い声になった何某に気付かず、高坂は「何を仰っているんですか」と盛大に顔を顰めた。
「良い夫や甲斐性など抜きにしても、妻となった女性を大切にするのは突然のことでしょう」
「お前が何を言ってんだよ!」
おじさんもう若い子の考え方が分かんないよ〜、と何某は嘆き、今後オモロの気配を感じたからと言ってすぐさま飛び付くのはやめようと固く決意した。オモロと恐怖は同時にやってくる。何某は学んだ。
忍務を終えた後には気が昂って仕方のない時がある。ピリピリとした殺気が抑えても漏れ出てしまうので、帰宅したのが夜も大いに更けた丑三つ時で良かったと高坂は安堵した。妻はきっと深く眠っているだろうから、己はこのまま水でも浴びて気を鎮め、詰所に戻って適当に身体を動かしてから眠れば良い。端から詰所に行ければ良かったが、うっかりしたことに装束を汚しており、着替えが必要だった。
夜目が利いて助かったと闇と静寂に満ちた室内に踏み込む。音と気配を消して眠る妻のそばを通る時、「旦那様?」と小さな声が囁いた。
「……すまない、起こしたか」
「そろそろお戻りになる頃だろうと思っておりましたから」
つまり元から眠っていなかったらしい。素人の寝息を聴き間違えるとは、と密かに顔を顰めた高坂をよそに、身を起こした妻が灯りをつけようとする気配がする。
「私がやる」
こうなっては今更だ、と高坂は諦めて行灯に火を灯した。途端に橙の光が暗闇に広がる。
「おかえりなさいませ」
「嗚呼。いつも留守にして悪いな」
「まあ……」
妻は片膝を突いた高坂を見つめ、おかしげに目を細めた。白い頬を橙がちらちらと照らしている。寝転んでいたことで少々乱れた結い髪の一筋が額からさらりと滑り落ちた。今にも口の端に触れそうなそれに指を伸ばしてそっと避けてやる。
「なんだ」
「いえ。初夜の床で仕事を優先すると仰っていた方の言葉とは思えず」
相変わらず容赦なく刺してくる女である。だが最近よく見せてくれるようになった柔らかな表情と共にそう言われては、高坂は「ぐっ」と口籠るよりない。そんな高坂の反応に珍しくくすくすと笑う妻は、どうにも機嫌が良いようだった。
「お湯をご用意いたします」
苦虫を噛み潰したような高坂の表情には気付かず、布団から立ちあがろうとしたのを「いい」と言葉で制す。
「自分でやる。貴女はもう寝なさい」
「ですが、お疲れでしょう」
行灯の火を柔らかく反射した眼差しが労わるように高坂の全身を見て取る。そういえば己は薄汚れた格好のままであった。サッと立ち上がり、「着替えたらすぐに詰所に行く」と告げた。
「……お仕事が残っておいでですか?」
「いや、報告はあるが明日で良いと言われている。ひとまず仮眠を取って朝にはまた戻る」
「よく分かりません。このまま家で眠っては駄目なのですか?」
不可解、とばかりに眉を寄せた妻に「戦場の気配が燻っていてこのままでは眠れない」とはまさか言えず、高坂は「そういう訳ではないが」と言い訳を紡げずにいた。いつもならば鍛錬場で身体を動かして燻る熱を発散させ、それから眠るのだが。きっと詰所に迎えば同じ理由で眠れない同僚がいるだろうし、組み手でもしようと思っていたのだ。
「その、だな……」
「はい」
「…………」
「………………」
「………………身の内が騒ついて、目が冴えている」
長い沈黙の末、高坂はぼんやりとはぐらかしつつも白状した。
妻は「まあ」と瞬きをし、それからキリッと表情を引き締めた。しかし目元が優しい顔立ちなので、どうにも迫力は今ひとつだ。
「旦那様、私は貴方のなんです」
けれど、高坂はたじたじと怯んだ。
「つ、妻だろう」
「そうです。妻ですよ。此処で私を使わずになんとしますか」
「おい、それは……」
使うなどと、と高坂は反論仕掛けたが、かわゆい顔でキッと睨み付けられて口を閉じた。
「とにかく、旦那様は速やかに寝支度を整えてください」
「いや、だから」
「なんです。お早く」
戦いの場に身を置いたこともない娘に、高坂は負けた。負けて、「準備はしておきます」という言葉を背にすごすごと寝巻きと共に井戸に向かった。
頭から水を被ったと言うのに、帰宅時までとは違う昂りが胸の内で収まらない。どこか浮ついた足取りで妻の元まで戻ると、彼女は高坂の布団の上でちょこんと正座して待ち構えていた。
「やはりお湯を沸かしましたのに」
戻ってきた高坂の顔を見るなりそう言う妻の髪と寝巻きの合わせは整えられていた。高坂は「問題ない」と返し、そしてゆっくりと、実態はどこかふらふらと、妻の元まで歩む。正座した妻の前に座り、そうして薄い肩に片手を伸ばす──より前に、妻が「さ、お早く。こちらに」と掛布を片手でめくってもう片手でパンパンと敷布団を叩く。
「?」
「何をしておいでですか。早くお入りになってください」
「あ、嗚呼……?」
頭の中を疑問符でいっぱいにしながらも大人しく布団に入ると、妻は満足そうに頷いた。
なんだなんだと混乱する高坂にその細い手が伸びてくる。頬でも撫でられるかと思ったのに、その手は何故か高坂の腹を掛布の上からぽんぽんと軽く叩いた。そこに色めいた雰囲気は微塵もない。
「は?」
「眠れない子には寝物語をするものですものね」
「は?」
その瞬間心の声と実際の声が一致した高坂に、妻は慈愛に満ちた……例の生温かい眼差しを向け、ゆったりと唇を開いた。
「今は昔…………」
「は?」
────は?
「おい、なんで桃から産まれた姫が全国各地を武者修行で巡った挙句に求婚者をばったばったと薙ぎ倒すんだ」
「己より強い者を夫とすると申しましたでしょう」
「この姫途中で鬼ヶ島の鬼を家来にしてなかったか⁉︎ 誰が勝てるんだそんな女に!」
「まあ聞いてください。この後南からやって来た姫とは逆に、北から赤い前掛け一丁の男が熊に跨り現れてですね」
「変態ではないか!」
「まさかりを担いで全国各地の木を伐っては特に必要のない場所で川に橋をかけたり断崖絶壁に梯子を掛けたり山の中腹に穴をあけたりしておりまして」
「迷惑行為だろう!」
「ですが何故か行いの尽くが結果的に人々を救い、勘違いされて評価されています」
「どんな天運の持ち主だ!」
「口癖は「悪しかれと思って」」
「おい桃姫やめろそんな男!」
その夜は大変盛り上がり、高坂は翌日寝不足の顔で報告に向かう羽目になった。噂がひとつ増えた。
とある領にて領主の指示で新型の火器が開発されていると情報がもたらされ、その火薬の調合方を確認し、場合によっては破棄すべく山本と高坂はその領内に潜り込んだ。二人の他にも幾人かが散らばって潜入しており、数日後に落ち合う算段だ。怪しまれぬよう商人に身をやつし、城下の様子を伺いつつ練り歩く。
「この地では染め物が名産でしたね」
「この辺りによく咲く花が染料として優秀だからな。近くに大きな川も流れているし」
ちょうど通り掛かった小物屋で、青みがかった白地に華やかな柄が精緻に描かれた布を使用した小物が店先に並んでいた。それなりに身なりの整った、端正な顔の男が興味を持ったことに店の主人が「おや」と顔を綻ばせる。
「お兄さん、どうです。奥様への手土産に一つ。そちらの旦那さんも」
高坂のそばにいた山本にも如才なく目を配り、商品の中でもそれなりに値の張る者をさりげなく押し出す手腕は流石と言えよう。山本は「そうだなあ」とにこやかに応じて品物を眺める。
「これはなんだろうか」
「お、お目が高いですな。これはうちのお抱え職人の着想で作ったものでね。紅筆なんかの散らばりやすい化粧道具を入れて、こう端からくるくると纏めてこの紐で止めてしまえば、ほら、持ち運ぶにも便利でしょう」
「ほう、なるほど。いや、面白いですな」
にこにこ、にこにこ、と男たちが笑い合う。その横で高坂も商品の一つに目を留めた。
高坂の掌に収まるような櫛と、それを入れる薄い作りの袋だ。櫛には派手ではないが美しい鳥の姿が丁寧に彫られている。袋にも華やかな色柄の中に同じ鳥が描かれていた。
「鶴か」
首の長い優美な鳥は、伏し目がちに櫛の中に佇んでいる。
「鶴は夫婦円満の象徴でもありますからね。奥様へ差し上げるには持ってこいかと」
にこにことした顔が高坂に惜しみなく向けられる。山本も高坂の横から覗き込み「へえ、良いじゃないか」と明るい声を上げた。
「買って帰ったらどうだ」
「……そうですね」
頷いた高坂だが、ではこれを、と指差したのは鶴の意匠の物ではない。
「お、そっちにするのか?」
「はい」
これを包んでくれ、と高坂が指差す先には、こちらにつんと横顔を向けた兎が彫られた櫛が並んでいる。
またどうぞ、と見送られ店を後にして暫く歩いた頃、山本が「お前にしては珍しい物を選んだな」と言った。
「そうでしょうか」
「嗚呼。鶴の方が、お前の好みであったろう」
鶴と兎では入れ物の袋の色柄も異なっていた。兎は繊細で可愛らしい印象で、柄は細やかで色合いは淡い。鶴は上品だが華やかで人目を引く大振りな柄と大胆な色遣いが特徴だった。山本の言う通り、高坂の好みはどちらかと言えば後者である。
さては奥方の雰囲気に近い物を選んだか、と山本は揶揄うように微笑んだが、高坂は「妻への土産ですので」とさらりとした口調で答えた。
「私の好みではなく、あれの好みを優先すべきでしょう」
お……、と山本は言葉を失う。
一方高坂はそれがあくまで当然の何気ない選択であったため、恥も照れもない様子で懐に収めた土産を着物越しに撫でた。
「まあ、似ていたというのも否定はしませんが」
そうして高坂にしては珍しい、柔らかな笑みを口元に浮かべるのに、山本は「こ、これは」と内心で打ち震えた。
(尊奈門、これは確かに、とんでもない惚気だ)
いつぞやの泣きつきを思い出し、脳内で最年少の部下に語り掛ける。部下は丸い頬を更に丸くし「ですから言ったではないですかぁ」と泣きべそをかいた。
油断した訳ではない。火器の情報が出回っていると知れた敵は警戒しているに違いなく、場合によってはこうなることも予見していた。
落ち度があったのは高坂ではないが、偶々手を伸ばせる範囲で事が起こり掛けていたものだから思わず身体が動いていた。
「──っ!」
味方を庇って二の腕を掠めた苦無には毒が塗られていた。同時に放った手裏剣は過たず敵の喉元に当たったようだ。短い呻き声と共に重い音が響くのを何処か遠くに聞く。しっかりしろ、と傷口付近を強く縛られた。負傷したのが忍務を遂行し終えてからで良かったと考えていると、「撤退だ!」という指示と共に誰かに担がれる。
「おい、意識を保てよ!」
「ぐっ……、はい」
「俺を庇って死なれたらお前の奥方になんて言やぁ良いんだ!」
おじさんこの歳で若い娘の恨みなんて買いたかねぇよぉ〜、と泣き言が耳の近くで煩い。
「とにかく心臓しっかり動かしといてくれ! いやあんま動かしすぎると血が巡って残った毒が回るし出血もやばいから、ほどほどに!」
「無茶言わないでください……」
「出来る出来る君なら出来る!」
頼むから耳元で珍妙な歌を歌わないでくれ、と高坂は思った。口内に感じる血の味を無理矢理に飲み込んで、霞む意識の中呟く。
「死にませんよ。あれに、甲斐性なしと言われたくないので……」
こんなところで間抜けにおっ死んだら、それこそ男が廃る、と高坂は唇を噛み締める。
仕事と家庭を両立する、甲斐性のある良い夫を目指しているのだ。
「おい、高坂! おい!」
ああ、本当に煩い、と高坂の思考はそこで途切れた。
「陣左の様子はどうだった?」
雑渡にそう問われ、山本は「元気そうでしたよ」と答えた。
「やっぱり私も後で見舞いに行くよ」
「おやめください。喜びはするでしょうが、興奮して頭に血が昇り、傷口が開きそうです」
「負傷箇所って二の腕じゃなかったっけ」
まあそれはともかく、と雑渡は眼下で鍛錬に励む部下たちを観察しつつ、腰掛けた木の枝で揃えた膝に頬杖を突いた。
「大事にならなくて良かった」
「ええ。あの時は肝が冷えましたよ」
「まさか苦無を掠めた直後になんの躊躇いもなく自分の傷口を抉るなんて」
「力技にも程があります。小頭からも高坂が復帰した際にはよくよく注意していただきたく」
あれが意識を失った理由の大半は己の自傷による出血多量です、と眉間を抑える山本。
「ところで元気そう、て言ってたけど、直接見舞わなかったの?」
「……」
嫌なとこに気付くな、と山本は目を細めた。オモロの気配を感じ、雑渡は「なに」と容赦なく話を促す。
「いえ、私が伺った時、ちょうど奥方と高坂が話をしておりまして」
山本は声を掛けようとしたのだが、奥方の静かな声がゆっくりと紡ぐ言葉に思わず気配を消してしまったのだ。
「なに。そんな変な会話だった?」
「変、と言いますか」
山本は珍妙な顔をした。笑っても良いものか、と悩むような顔だった。
「なに」
「いえ。奥方は何やら御伽話を聞かせていたのですが」
「…………陣左に?」
「はい」
「……続けて」
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめき給ふありけり」
ぱちり、と雑渡は包帯の隙間から覗く片目を瞬いた。
「源氏物語?」
「──野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり」
「なんで?」
山本は遠い目をした。
「高坂は「逞しいな」と感嘆しておりました」
「なんで?」
なんで帝のご寵愛著しい姫君が、野山で竹を取って生計を立ててるんだ。どんなわんぱく娘だ。
「それ最後はどうなるの」
「かけっこで兎に勝ちたい亀に特訓を施し、見事優勝に導いたと竜宮城に招待されておりました」
「ごめんやっぱり過程も教えてほしい」
「他の部下からお聞きください。私はもう何が何やらで」
ぐったり、と肩を落とす山本に、雑渡はそれ以上の追求を諦めた。あまりにも哀愁が漂っていたもので。
姉二人は煌びやかに美しく、末娘の私は地味で平凡だった。
父は無骨な武士の男で、それなりの地位にいるようだった。兄たちは父に似て無骨で、家庭内の空気に鈍感である。母は私を産んですぐに流行病で亡くなっていて、姉たちは実質この家の女主人だった。
美しい女がみんなそうとは言わぬが、少なくとも姉たちは美貌を鼻に掛けて傲慢で、地味な妹はていの良い召使いのようなものだった。幼少期から彼女たちの我儘に付き合わされ、振り回されて、事あるごとに容姿の差を揶揄されては、自尊心はがりがりに削られる。年頃を迎えた二人が順番に嫁いでいってからは多少平和になったが、その頃にはすっかりと卑屈が身に付いた。
地味な自分にも縁談話は回ってきたが、相手は武家の家柄ではなかった。父の仕える殿が重用している忍びの集団、その一人だという。
これは大切なお役目であるのだぞ、と滅多に顔を合わせない父はそう言った。
「殿は忍軍の者たちを同じタソガレドキに仕える家々と婚姻という形で縁付かせることによって、内部を盤石に整えようとしておいでだ。であれば、お前の為すべきことは分かるな」
「はい、父上……」
下を向く娘に、父が頓着することはない。言いたいことだけ言って、さっさと私を嫁に出した。
けれどがっかりした気持ちと、同じほどに気楽でもあった。
地味で平凡でなんの取り柄もない女が、父や兄のような武士の男に嫁いでも期待外れと言われるがオチだ。であれば、身分低い忍びの男であれば、逆に大した期待もされまいと。実際には身分低い男に嫁ぐそれなりの身分の娘となれば、逆に期待されるだろうと今ならば思うけれど、その頃の私は世間知らずで浅い考えの小娘だったのだ。嗚呼良かった、と傷付きながらも安堵していた。
事前の顔合わせもなく嫁いだ相手の顔を見るまでは。
目付きは鋭いがクセのない端正な顔立ちの持ち主が私の夫となる男だった。周りは厳つい顔の荒々しい男ばかりだった私は、忍びとはみんなこうなのかと混乱し、直視も出来ずちらちらと見つめるばかりだった。
だって、顔が良いのだ。
姉たちの華やかな美貌とは違う、押し付けがましくない涼やかな顔貌。私のような地味な女はこういった政略でもなければ絶対に縁付かない相手だ。
この男とこれから夫婦となるのか、と世間知らずの小娘は期待した。だというのに。
「初めに言っておきますが」
目付きの鋭い男は、少しもその眼差しを和らげることなく、夫婦の仲を期待するなと言い放った。
は、と呼吸が浅くなる。なにを、と狼狽えて、言われた言葉の意味を全てを飲み込み終えた時。
──何言ってんだこいつ。
ふわりと浮かんだのは心底からの呆れだった。
私は私のままで、それでいて私の中に目覚めた「私」。地味で平凡でなんの取り柄もない、それでいて夢見がちな小娘の中には、もう少し先の未来を生きていた女が眠っていた。
未来の女はすっかりと醒めた目で夫を見つめ、はん、と鼻で笑う。なんだこいつ、おい、見ろよ私、と語り掛ける。
こいつ、自分が甲斐性なしのヘタレですって宣言したようなもんだぞ。
傑作だな、おい、と笑う私と、そんな、と狼狽える私。両者が拮抗する間、私の意識は目の前の夫から逸れていた。
それに気付いた夫に声を掛けられた瞬間、私は半ば無意識に口を開いていた。
「ええ、はい、その……つまるところ貴方には──仕事と家庭を両立出来るほどの甲斐性はないと」
新生私の爆誕の瞬間である。
そして同時に離縁までのカウントダウンの瞬間でもあった。もう仕方ない。だってこれ以上、周囲から自分を蔑ろにされることに嫌気が差していた。
もうどうにでもなぁれ、とやさぐれた目で見上げた私に、夫は斜め上の反応を返してきた。
良い夫と言わせてみせる、だなんて宣言をする夫の目は、真っ直ぐに私の目を射抜いていた。
夫は変な男だった。この言い方では語弊がありそうだが、変としか言いようがない。
忙しいのは事実のようでしょっちゅう家を空けているが、その分家に居る間は私のそばで何かと私に構った。どうやら仕事と家庭の両立を心掛けているらしい。しかし私とて別にここまでは望んでいなかった。二の次三の次にするとわざわざ宣告されたことが腹立たしかっただけだ。時代を考えれば夫婦の力関係は致し方なく、例え夫が非番の日は家で寝転んでいようとも文句は言えない。最低限私という存在を無視しなければそれで良い、と考えていたのに、夫は何故だかバリバリに家事をこなした。手伝いとかいうレベルではない。私が居るのにおなごが重い物を持つな、私が居るのに高い所に手を伸ばすな、私が居るのに以下諸々。ではこれら全てが「良い夫」アピールかと言うと、どうにもしっくりこない。何故なら夫は良い夫アピールの際には「私は良い夫を目指しているからな」と力強く胸を張る。しかし日常の大半で差し伸べられる手はごく自然で、夫も特に意識してないようだった。
「道が荒れている」
と外ではごく自然に私の手を取り、私の歩調に合わせる。その横顔をじっと見つめる私に気が付けば、躊躇いなく腰を曲げて「なんだ」と耳を傾ける。会話がなくとも時折向けられる眼差しは私に何か不自由が起きてないか確認していて、些細な違和感にはすぐ気が付いて「どうした」と寄ってくる。
多分夫は、当人が無自覚なだけで初めから良い夫であったのだ。良すぎるほどである。もしかして私、いつのまにかとんでもない美姫にでもなってたのか、と錯覚しかけるくらいこれでもかと大事に扱われている。
夫がそうであるから、私も彼の良い妻であろうと思うくらいには良い夫だ。
だが長年染み付いた卑屈さが、どうにも二の足を踏ませた。今更妻面するのも気が引ける。けれど此処で引いてはそれこそ女が廃る。やったらぁ、と心の腕捲りをし、到来したチャンスに清水の舞台から飛び降りる覚悟で飛び付いた。
「私は貴方の妻ですから」
そう言って、やはり気恥ずかしさに裁縫に夢中なフリをする。大丈夫、別におかしなことはないはずだ、とバクバクとうるさい心臓を宥める。妻であるからと頼まれたので、妻なので、と応えただけだ。何もおかしなことはない。だって妻なのだし、裁縫は得意だ。妻なのだから、夫の繕い物だって私がやるのだ。良い夫となるべく努力してくれている男に、良い妻であると努力するのだ。夫にばかり良い面をさせてたまるか。夫婦なのだから、お互い同じほどに大事にしあわなければ。
それなのに、何故だか夫の態度が加速した。
なんでだよ、と崩れ落ちる。置いて行くな。夫婦なんだぞ二人三脚であってくれ。一人でどんどん良い夫のレベルを上げていくな。頼むから朝は起こしてくれ。私より早く起きて家のことを色々済ませておくな。家を空ける時に「これとこれは帰ったら私が片すから、放っておくように」と面倒な作業を残させようとするな。これでは私はただ家で寝て起きて食ってるだけのぐうたらな悪妻である。
負けるものか、と拳を握る。
もはやなんの勝負をしているのか不明だが、とにかくこのままではいかんと焦りが募る。
必ずや、夫に良い妻であると思わせてやるのだ。
そうして手始めに眠れぬ夫に寝物語を語ったところ、今までで一番会話が盛り上がった。
夫もそう感じたのか、共寝の際には物語をねだられるようになった。夫の腕の中で髪を撫でられつつ物語を語るのはなかなか悪くない。活きの良い反応を返してくれるので語り甲斐がある。
そうして日々接していれば、段々と夫の性格も見えてくる。つまりこの男は、どうしようもなく真面目で、優しいのだと理解した。
恐らく初対面でのあの最低な宣言も、夫なりの私への気遣いであったのだ。何も悪意あってのものではなく、押し付けられた妻への牽制でもない。
夫はただ、家庭を優先出来ないから悪しからず了承してくれ、その代わり私も妻としての役割を口煩く問わないから、里の中で自由に過ごして欲しい、と言っていたのだと思う。なんだそれは。口下手にも程があるだろう。
分かるかよそんなこと、と縁側で脱力する私を見つけた夫が「どうした! 体調が悪いのか⁉︎」と慌てた様子で心配するので尚更アホらしい。額や首筋に触れる手は優しくて、このノンデリめ、と内心で悪態を吐く。
「おい、熱はなさそうだが、何処か具合が悪いのか?」
「……元気ですよ。ちょっとグタッとしていただけです」
すい、と頬に触れる手を退けると、夫は不可解という顔をしながらも手を放し、そして何故か私を抱き上げようとした。
「なんですかっ」
「昼寝がしたいなら布団でしろ」
「結構です。するにしても自分で行けます」
何故不満そうな顔をするのだ。例えどれほど良い夫でも、昼寝をしたい妻を布団まで抱き上げていくことはないと思う。
「咄嗟のこととは言えご自分の指で傷口を抉るなんて、一歩間違えば腕が動かなくなっていてもおかしくなかったと医師が呆れておりましたよ」
枕元から見下ろせば、横たわる夫がきまり悪そうに視線を逸らした。毒を貰ったと意識のない夫が運び込まれて、てんやわんやとなったのが一昨日のこと。幸い目覚めたのはそれからすぐだが、夫婦二人きりになったのは今になってようやくだった。
「今は分からなくてもこれから痺れや痛みなどがあればすぐ言うようにとのことです……本当に、問題なく動くのですか?」
本当に毒が残っていたり神経を傷付けていたりしていないのかと掛布の下の腕の辺りを見つめれば、太い盛り上がりがもぞもぞと動いた。
「旦那様、なにを──」
「動く」
青白い顔で何をキリッと言っているんだ。呆れて半目になる私に、誤魔化すように咳払いした夫は「貴女が訊いたのだろう」と拗ねたような口調で呟いた。
「……とにかく、傷が塞がるまでは安静になさってください。まだ熱もおありですし、医師様も暫くは大人しく寝ているようにと仰せでした」
「すまない。世話を掛ける」
しゅん、とそんな音が聞こえてきそうな夫の額に「何を仰います」と冷やした手拭いをのせる。
「妻なのですから、夫の看病くらい致します」
「……」
「お水を飲みますか」
顔を覗き込むと、微かに首を横に振る。
「いや……今さっき医師にたらふく飲まされたところだ」
そういえば、と何やら酷い匂いのする薬湯を半ば無理矢理飲ませ、その後大笑いしながら水を渡していた医師の背中を思い出す。匂いどころか味も相当だったようで、夫は無言で二杯も三杯も水を飲んでいた。思い出してげっそりと宙を見つめる夫の汗ばんだ首筋に、では、と提案する。
「身体を拭いて、着替えましょうか。今ご用意します」
そう言って身を翻し、立ちあがろうとした私の動きは力強い手に阻まれた。振り返ると、無理矢理に上体を起こしたような態勢で、怪我をした腕を伸ばした夫が私の手首をしっかりと握りしめている。ぐ、と脂汗が浮かぶ顔に、慌てて膝立ちから座り直した。
「何をなさっているのですかっ」
「う、その、貴女がどこかに行こうとするから」
「着替えを取りに行こうとしたのです!」
夫へ向き直っても手首を掴む手は外れない。仕方なく空いた片手で夫の動きを支えて布団に戻す。こちらはどうにか傷に響かぬようにおっかなびっくりだというのに、夫は己の重傷には頓着せず寝転がりながらも「今は此処にいてくれ」と念を押してきた。
「行きたくてもこうして貴方に掴まれていては、一歩退がることすら出来ませんよ」
まるで熱で心細い子どものような有り様に苦笑しつつ、額から滑り落ちていた手拭いを拾い上げる。今の一瞬でびっしょりと汗に塗れた顔を拭いてやると、目を瞑って溜息にも似た深い息を吐いていた。やはり随分としんどいようなのに、未だに手首を拘束する手の力は緩まない。怪我をしているのにこの力強さ。安静からは程遠い。治るものも治らん、と思わず顔を顰める。
「旦那様、手を」
「──毒に気付いた時、此処で死んでは、それこそ甲斐性なしと、貴女に……」
目を瞑ったままの夫がぽつりとそう呟く。声は静かなのに、手首を掴む手の強さはほんの少し増したようだった。見損なわれるのではないかと、と常の夫には考えられないような小さな声がそっと枕元に落ちた。
それを聞いた私は暫し黙ったまま、血の気が失せて青白いのに、熱のせいで頬ばかりが赤い顔を見下ろす。
「私はそのように非情な女に見えますか」
ぐ、と端正な顔の眉間に皺が寄る。夫は目を開けようとしないまま、「──いや」と掠れた声で返した。
「違う。そうではない。そうではなくて、あそこで、あそこで私が毒で倒れたとして、きっと貴女はまたいずれ、新しい夫を得るだろうから」
熱が上がってきているのか、うわごとのようにふにゃふにゃとした言葉尻。薄らと開いた瞼から、潤んだ三白眼がぼんやりと私を見上げる。
「貴女は私の妻なのに、そんなことは許せない。そう、思って」
ずるり、と手首に回っていた指が滑る。怪我に障ると咄嗟に落ちていく手を掴んだ。ずしんと重いそれをそっと布団の中に戻してやりつつ、恐る恐る夫の様子を伺えば、彼は既に寝息を立てていた。
「………………え」
すーー、と微かな寝息の中、私はもう一度「え?」と呟いた。
「組頭はまた忍術学園に行かれたのですか」
そう問えば、詰所で報告書を確認していた山本が苦笑した。
「尊奈門が土井殿と決闘すると出掛けるところに出くわして、同行なさると」
「あの馬鹿はまだ諦めていないんですね」
本人は拮抗していると信じているが、客観的に見て忍術学園の若い教師と諸泉の実力の差には、天と地とまでは言わぬがそれなりの開きがある。諸泉も狼隊として有象無象の忍びよりは鍛えられているが、あの若い教師は優男の見た目からは想像も付かぬほどの修羅場を潜ってきたに違いなく、高坂とて一対一で対峙すればそれなりに手間取るだろう。負けるとは思わぬが、勝てるとも言い切れぬ。
高坂がそれであるのだ。諸泉は決闘などと口にするが、実態はそんな対等の闘いではなく、指導に近いのだろうなと狼隊の誰もが察していた。授業料お支払いすべきかな、と雑渡が山本に半ば本気で相談するのを高坂も目撃している。
「決闘と言えば……」
諸泉が戻ってきたら組頭にご迷惑をお掛けするなと説教せねばと考えていると、山本がそんな風に声を上げたので意識を戻す。
「はい」
「ああいや、決闘と言えばで思い出すのもおかしな話だが、高坂はどうなんだ。以前その、奥方と戦をしていると言っていただろう」
「嗚呼」
数年前に己が山本にした話を高坂も思い出し、そのことですが、と居住まいを正す。聞かれたからには現状をきちんと報告すべきだと思ったのだ。
「な、なんだ。相変わらず仲睦まじいようだから、てっきり戦云々は有耶無耶になったものかと思っていたが……」
何故か山本が狼狽えているが、別に妻と己は不仲にはなっていないし、有耶無耶にもなっていない。一度始めたことを尻切れトンボで終わらせるなど高坂の矜持が許さない。あれにはきちんと結論が出ている。ただ山本に報告していなかったのは、それが決着という着地には至らなかったからだ。
「妻が言うにはですが、良い夫かどうかなんて一年二年で分かるものではないと。人生を連れ添って最期にようやくどうだか判断出来るものだから、今際の際に考えると。なのでまだ戦の最中です。現段階であれに良い夫と言わしめない私の力不足から、小頭に良いご報告を出来ず不甲斐ないことこの上ありませんが……」
途中経過でも「今のところ良い夫です」とすら評価されない己の力量に、散々教えを請うた山本に呆れられても仕方ないと唇を噛む。子育てとて忍務の抜けが多い分妻に負担を掛けているから、非番の日には積極的に赤ん坊の相手をしているつもりだが、それもまだ足りていないのかもしれないと己を見つめ直しているところだ。しかし無意識に下を向いていた高坂は、山本の「はは」という明るい笑い声に顔を上げた。
「そうかそうか、今際の際に!」
「小頭?」
山本は朗らかな人柄ではあるが、部下を相手に腹を抱えて高らかに笑うところなど滅多に見ない。そんな希少な大笑いをぽかんと見つめていると、ようやっと笑いを収めた山本が目尻を指で拭いながら「良かったなあ、陣内左衛門」と柔らかに言った。
「ではきちんと結果を聞けるように、奥方と長生きせねばならんな」
高坂の返事を待たず、良かった、良かった、とまた報告書に向き合う山本は、きっと敢えてそうしてくれたのだ。
なにせ高坂は顔と言わず首と言わず、全身を赤く染めていたのだから。






















