Novel1 years ago · 9.7k chars · 1 pages

忍びめずる若君

るびるび

【ジャンルがいつもと異なります。どうかご確認お願いします】 主人公は某お城の若君です。 前のお話にコメント、ブクマ、いいねをありがとうございました。 毎年、GWは冒険をしてみたくなるので、少し毛色の変わったお話を考えていて、 しかし今年はまとまったお休みがなかったのでメモだけが残っていました。 で、そのメモを供養しました。 本文の内容はフィクションです。 ご確認の上、お進みください。 内容的に無理そうならぜひ、ブラウザバックで。

本文の内容はフィクションです。
ご確認の上、お進みくださいますようお願いいたします。

内容的に無理そうならぜひ、ブラウザバックで。

 昔から、『その何か』は、時折天井辺りに現れた。そして、それを見るのが好きだった。
 だからきゃらきゃら笑って、手を振り回して挨拶したのだ。
 『その何か』以外、優しく応えてくれるものがいなかったから。

 その瞬間、板張りの濡れ縁から、勢いよく押し出された。
 赤い着物の女性が見えた。
 そして、後ろ頭を沓脱石に打ち付ける前に、誰かに頭を支えられ、続いて体も抱えられた。
 呆然として見上げる先、女性の顔は般若のように目元がきりきりと吊り上がり、口元は引き歪んでいた。 

 彼女に、勢いよく突き飛ばされた、と知った。
 そして背後を見て、その誰か―――布で顔を隠していた―――が、助けてくれなければ、相当不味かっただろうことに気がついた。
 ぐっと息が詰まったようになり、打開を求めて息を大きく吸って、そして吐き出した。そうして俺は大声で泣きながら、助けてくれた随分大きな男にしがみついた。

 今生の母、というひとは、この城の城主に、二人目の室として嫁いだ。その時点ですでに正室に男子がおり、七つの歳を越えていた。その第二子もまた男子で、ちょうど立ち歩くころだったという。
 その状況にあって、母は女子―――姫がほしかったようだ。
 嫡子も、そのスペアもいる状態で、外腹の男子を持つよりは、多分、いろんな意味で建設的だったのだろう。母の立場、保身を考えれば、納得できる。
 しかし、彼女が生んだのは、男子―――すなわち俺だった。
 第三子で、三男、庶腹。
 正直、父、正室、母の誰から見ても、要らぬ子だった。
 母は、その要らぬ子をほとんど放置していた。故意に死なせてはまずい、というのはさすがに理解していて、世話役に任せきり、という状態だった。
 そのまましばらくして、彼女は再び懐妊した。
 やがて生まれたのは、待望の女児だった。
 しかし、先年、正室が第三子を出産していた。姫だった。
 正直言って、間の悪いひとだとしか言いようがない。
 それでも、二番目の姫となってしまった子どもを彼女は大事に育てていたらしい。よすがだったろうし、それしかなかったというのもあるだろう。
 しかし、一年もせずに、その子は逝ってしまった。もともと、丈夫に生まれたとは言い難く、病がちだった。それでも何としても、と心尽くした結果がそれである。
 彼女は随分と不安定になっていたらしい。
 子を亡くしてひと月ほど後だった。
 何を考えていたのか、俺のところにやってきた。普段は自分から物理的に距離をとらせ、自室とは別のところで世話させていたというのにだ。
 そして、止めるものも誰もいないまま、俺をつかんで突き飛ばした、というのが顛末だ。

 生まれてから、頭をカチ割られる(未遂)に至るまでの記憶は、今日まで正直曖昧だった。普通に幼児だったせいだと思う。ときに数えで、四つ。
 命の危険にさらされて、大泣きをかましたとき、急に思考がクリアになった。
 そのとき、俺は多分、前世だろうものを思い出していた。
 こんな、大河ドラマや時代劇の舞台のような世界ではなくて、きっちり近代化が進んだ、先の世、というものだったはずだ。そこで普通に勤め人をしていた。

 大人であった頃の記憶を取り戻して、今世の記憶は夢の中のようであったが、第三者的に思い出した。そのあちこちから断片を拾い集めて状況を把握する。それで、事情はわかったが、納得できるかといえば、話は別である。ただ、納得して腹に納めねばここでは生きられない、というのも事実である。
 とりあえず、いまだ大泣きしているところだ。多分、その装束からして、城主―――父親の忍びだろう男にしがみついて。
 囂しく泣きたてる幼児に、男は辟易した様子は見せなかった。
 大きな手で背をあやすようになでる。
 それで、しばらくして、ようやく落ち着いて、というか、体力が尽きてきて泣き止まざるを得なかったのだが、そして、相手をよくよく見た。

 子どものころから時々見かけていた、『その何か』だった。
 幼い子どもはそれが天井に浮かんだ何か丸い生きものと思っていたが、単に天井の羽目板を外して、顔を覗かせていたのだとようやく気づいた。
 頭は忍び頭巾で覆われているから、『その何か』がこの男本人だったとは限らないが、城内警邏中の忍びの誰かだったというわけだ。
 疑問なのは、わざわざ羽目板を外してまで顔を出していたことだが、とりあえずおいておく。相手が俺を下ろそうとしたからだ。とっさにしがみつきなおす。
 先ほどまでは泣くことに専念していて気が付かなかったが、かすかに草のような青い、苦い香りがした。漢方薬のような、そんな匂いだった。
「若様」
 さすがに困ったような声がした。
「若様」
 今度は俺の乳母の声だった。振り向く気にもならず、ぎゅ、と顔をおしつける。安全圏から離れたくない。
 お前、さっき、全然庇わなかっただろ、むしろ般若に差し出してたろ。
「若様」
 もう一度、男に呼ばれて顔を上げる。確かに、いつまでもこうしてはいられない。
 見上げた先、男が一つ目―――頭巾から除くもう片目は包帯に覆われていた―――で、困ったように笑っていた。
「落ち着かれましたら、移動しましょう―――殿がお呼びです」
 いつ、そんな流れになったのだろう。
 大体、今世の父親など、ほとんど顔を合わせたことがない。
 今度は、そっちに首落とされたりしないだろうな、と不安になる。
 だから、訊ねた。
「いっしょ?」
 一緒に来てくれるのかと問えば、目を丸くして見せたのちに、ゆるく弧を描いてたわませた。
「若君が、よろしいなら」

 沓脱石の脇で、俺を抱えたまま男は軽く膝を曲げたように思った、その次の瞬間には空中にいた。俺のいた―――側室が置かれていた―――奥御殿の西の対にある屋敷はあっというまに遠ざかった。植え込みや木々を飛び越え、向かうは恐らく表御殿の方だ。
 昼少し前の今時分、侍たちのワーキングアワーなら、城主だってそうだろう。

 乳母に連れられたのなら、絶対にそんなところは通らない。
 そんなコースで、あっという間にたどり着いたのは、とある建物の前庭だった。
 閉ざされた障子の前に、俺を抱えた忍びと同じ装束の男が膝をついて控えており、こちらを見ていた。
 到着を確認すると、中に一声かけて、障子が開かれた。
 奥の文机で作業していた男がこちらにちらり、と視線を寄越した。
 路傍の石に目を向けるような感じであったが、しかし、その視線の色が変わった。何か、面白いものを、見る目になった。
「―――楽しかったか?」
 問いは端的だった。
 何のことかと一瞬思ったが、すぐわかった。今の俺の顔を見て判断したなら、きっとそうだろう。
「はい」
 その答えに、男ははっきりと愉快そうになって、手にしていた筆を置いてしっかりとこちらを見た。
「空からの眺めはどうだった」
「面白う、ございました。鳥が飛ぶように、風に乗るように、空を駆けた、は初めてに、ございますれば」
 そう、短い一瞬のことだったけれど、前世のアトラクションになれた身であれば、ただスリリングで面白かったし、興奮した。今その名残で、頬が火照っているから赤くなっているだろうし、目も輝いている自覚がある。父親に会う緊張よりも、空を飛んだ喜びの方が大きいのは、自分の中のどこかに残る、子どもの精神がそうさせるのかもしれない。

 言葉は流暢に、とはいかず、つっかえつっかえだったが伝わったようだった。城主が、そうか、と言ってにやりと笑ったのが見えた。
 俺を抱えた男は突っ立ったままだったが、その場で礼をとれば、俺が向こうから見えにくくなると踏んでのことだろう。第一、庭に立っていて、城主からは一段も二段も低いところにいるから問題ないのだろう。
 抱えられたまま、男の袖をつかんで、見上げる。もちろん、尊敬のまなざしだ。
 だって、すごいじゃん。人間業じゃねえもん。

 男がやや困ったように眉を下げたのを見ていたら、再び声がかかった。
「それが気に入ったか」
 これは質問の意図をくみとれなかった。何と答えたら正解なのかも。戸惑う様子は見せずに、黙って相手の出方を待った。
「だが、それはわしの道具ゆえ、そうだな」

 乳母の代わりに新しくつけられた女中(?)は、多分忍びだと思う。呼び名はお鈴。
 ただ女中というには、物理的に力が強い。有事の際には俺を軽々と抱えて、ひょいひょい走ることすらできる。そして、内面も今まで側にいた女性連中とは、まったく違うものを感じる。俺に対する憐憫やそれの延長線上にある蔑み、持て余され爪弾きにされる気配、いずれも彼女は持ち合わせていなかった。
 なので、大変過ごしやすくなった。
 時間通りに世話をされ、会話にも応じてくれる。たったそれだけがうれしいというのが、今までを思うと、ちょっと泣けてくる。

 それから、護衛を兼ねてなのか、不惑を越えていると思われる男が世話役としてついたが、どうもこれも忍びではないだろうか。家名は高坂、名は兵衛。随分、体格がよくて、単なる下男というには無理がある。最初は傅かと思ったのだが、どうも城内での立ち居振る舞い、扱われ方を見るに、苗字はあるがきちんとした士分ではないようだった。顔立ちはまるで役者のように整っている。若かりし頃はさぞや女性に騒がれたであろう、年を経てもなお、イケオジである。
 そして、寡黙ではあるが、やはり俺に優しい。
 体術や剣術を教えてくれるので、もちろん厳しくはあるのだが、全然嫌ではない。むしろ大好きだ。

 新しい二人とともに、俺には新しい部屋が与えられた。
 奥御殿は寝殿造りに似たつくりになっていて、主屋敷の左右に渡り廊下でつながれた対屋がある。その一方に、正室と三人の子、もう一方に二人の側室とその子ら、というように、うまいこと離して住まわされていた。ちなみに側室は母の後に新しくもう一人、迎えられている。よその城主の娘とのことなので、まごうことなき、政略だ。
 俺が与えられたのは、なぜか主屋敷の一室だった。もちろん、城主の私室とは離れていて、その片隅、文字通り隅っこだったが、それでも城主と一つ屋根の下だ。

 いろいろ勘ぐられるのは、とても自然なことだった。

 移って三日目に、ちょっと偉そうな女中、後で聞いたら正室つきらしい、が偵察にやってきた。主屋敷の出入りは、たとえ正室本人であろうとも、もちろん制限がかかっているので、何かの用事で許可があった際、これ幸いと、無理矢理に通りがかったらしい。
 すぐにお鈴が慇懃無礼に追い払ったが、捨て台詞にお鈴のことを、下種の分際で云々、と言っていたので、いつかのための心の中の復讐リストにきちんと書き込んでおいた。活用する機会はないだろうが、そうでもしないと腹の虫が収まらない。
 さらにその少し後に、夜分に招かぬ客がやってきた。俺を抱えて安全圏に駆け出したのがお鈴で、苦無を抜いて応戦したのが兵衛だ。そのとき、再び短い空中旅行が味わえたので、お鈴が忍びと確定した。得物からして、兵衛もそうだろう。
 少し時間をおいて部屋に戻ったら、刺客の死体も、壊れた調度品も何もなく、もういつもの様子で、兵衛が心配顔で迎えてくれただけだった。
 ―――俺は一切気にしないことにした。
 兵衛とお鈴が無事なら、それでよかった。

 城主―――親父殿の意図は何だろう、と最初は訝った。
 しかし、箸にも棒にもかからぬ三男坊をわざわざ死地においやるためだけ、ということはないだろう。
 死なぬように、優秀な忍びを二人もつけているのだから、それは間違いない。逆に、優秀な忍びが二人もついているのだから、いつでも親父殿は俺を殺すことができる。
 であれば、と割り切った。
 生殺与奪の権は向こうにあり、この幼き身はまだ与えられることしかできぬのだから、与えられたものの中で、精一杯生きるだけだ。 

 そして、教育係がつけられた。
 学ぶことは好きだから、これはありがたかった。生まれて数年は、何を考えていたか覚えていないからわからないが、何もすることがなく、退屈だったのではないだろうか。
 ただし、そのおっさんは、一応武家だが、だいぶマッドサイエンティストだった。
 この時代の知識人階級が身につけるべき教養、知識も礼儀も含む、を人に教えられるレベルで身につけていて、それだけなら学者なんだろうと判じるところだ。しかし、いかんせん、怪しい実験もするし、師事して二年もしたら、それに俺を付き合わせるようになった。
 革袋を膨らませてものを浮かべる実験やら、大きな風車を荷馬車につける実験やら、空を飛ぶ機械の試作などというのもあった。
 俺が早く解放されたい余りに余計なことを言ったりやったりしたせいで、余計に頻度は高くなった。ところで、空を飛ぶなら、忍びに頼む一択だ、と俺は常に思っている。
 それに加えて、どうも、親父殿の御伽衆でもあるらしく、政務の空き時間に呼ばれてはでかけてゆくことがある。
 さらに親父殿と同じ南蛮かぶれでもある。服装はいたって普通の武家装束だが、南蛮大好きっ子だ。おかげで、向こうの書籍や事物にも触れることができて大変によかった。
 ただ、少しの手ほどきで俺が異国語―――英語圏以外の―――の本を読めるようになったとばれると、今度は書物の翻訳にも付き合わされるようになった。
 いろいろ学べるのはありがたいが、度を超えてるのは確かだった。
 最近は、俺の部屋に先生といると、いつの間にか親父殿が混じっていることがある。
 先生が翻訳したばかりの本を読み、先生がつくった怪しいからくりをいじり、自身で持ち込んだ南蛮の茶を小姓に淹れさせ、それを喫してはリラックスしている。
 おい、やめろ、また刺客が来るだろうが。
 この場合の刺客とは、親父殿に向かうのが九割、つまり、親父殿が在室のときにとばっちりを食うので、やめてほしい。残りの一割が俺の分である。俺の方に来るのは、親父殿が不在のとき、そして『内』から差し向けられるものが多い。つまり、はっきり言えば親父殿のせいだ。
 ほんとに何でこうなった。

 雑渡の前で、主君はずいぶん愉快そうだった。
「そのナリのお前に、懐く子どもがあろうとは思わなかった」
 主君にとって、三人目の男子の話である。

 側室が己の産んだ男子を疎んでいたのは、忍びたちも、甚兵衛も知っていた。
 それでも死なないようには世話をされていたので、甚兵衛は静観の構えだった。政略で得た側室であったので、政局により、いざとなれば、子ごと送り返すことも、始末することも考慮に入れていた、ということもある。彼女に自覚があったかはわからないが、その立場は非常にシビアだった。
 そして、子どもは言葉がずいぶん遅かった。喃語すらほとんど発しない。それが、世話が十分でないせいか、生来のものかもわからなかった。

 ただし、気配には鋭い子どもだった。
 城主たる黄昏甚兵衛を狙う刺客は多く、タソガレドキ忍軍は城の中を厳重に警戒している。
 忍びたちは主に天井裏を通って、警備に努めているのだが、三の若君はその気配を感じ取ることができるようだった。
 ほんの赤子のころ、当然のように褥に横にされていたのだが、その目が天井裏の忍びの動きを目で追うことがあった。もちろん天井には板がはめられているので、視認はできない。それなのに、若君は確実に視線を動かしていた。
 若い忍びたちは気味悪がるのではなく、面白がった。
 わざわざ必要もないのにその天井裏に行き、『若君に気づかれない』チャレンジをする馬鹿もいた。やけどを負う前の、当時狼隊の小頭だった雑渡も参加したことがある。面目躍如で気が付かれずに済んだのだが、そのあと、もちろん山本にどつかれた。
 そのチャレンジのついでに、天井の羽目板を外して、顔を出す者が出始めたのもすぐだった。言葉を発せず、笑うこともなく、ひとり放っておかれることが多い若君だが、そうした忍びたちのお遊びには反応してみせた。天井へと手を伸ばし、笑顔を見せたし、小さな声を発して笑いもした。
 忍びたちにとって、それは確かにお遊びだったが、若君に対する憐憫もあった。あるいは、忍び相手でも屈託なく笑ってくれることが機微に触れたのかもしれなかった。
 さすがに雑渡が『顔見世』に参加することはなかったが、隊員たちをとがめることもしなかった。

 結局、雑渡は若君が生まれて一年もしないうちに、負傷で城を離れることになった。
 しかし、三年を経て、城に戻っても、若君の状況は何も変わっていなかった。
 雑渡のこの三年も、雑渡の近くの人間を除き、世の人にとってはなかったも同然だから、何か不思議な感慨めいたものを覚えた。
 それから、城に戻って三か月が経った頃、雑渡は組頭から小頭への復帰を命じられた。

 その日、狼隊もその一部を割いて、城の警邏にあたっていた。そして、西の対を担当していた配下から、不穏な様子あり、と連絡が入ったのだ。
 ひと月ほど前に、西の対で側室の女児が息を引き取っていた。その頃から側室の様子がおかしくなったのは聞いていた。
 西の対にはもう一人、側室がいる。こちらも政略で得たものだったが、三の君の母の側室とは、重要性が異なっている。そのため、優先されるのは、まだ子を持たない側室の方だった。自然、西の対では忍びたちの警戒度を上げていた。

 知らせに雑渡が直接足を運んだのはおかしなことではない。何なら、同様の知らせを受けたらしい月輪の小頭と途中で行き合うくらいには重要だった。
 いつも寄ると触るとやかましく口を開く高坂小頭は、雑渡を見て苦い顔をしただけだった。
「殿には?」
「山本に行かせた」
 腹心の名を出すと、そうか、とだけ返ってきて、そのまま互いに言葉も交わさず足を進めたのだったが。

 雑渡が若君に向かって飛び出したのは、その場の誰よりも早く事態に気づいたからだ。他の者にはよもやあるまい、という思い込みがあったのではないだろうか。もちろんそれは雑渡にもあったが、誰よりも先に動けたのは雑渡だった。
 若君が転がり落ちる前に、頭を支えて抱きあげた。
 若君は赤い着物の側室を呆然と見ていた。
 それもつかの間、若君は大声を上げて火が付いたように泣き出した。
 鬼の形相だった側室が、それに驚ろかされたのか、不意に表情を変え不安げになった。
 雑渡にも驚きはあった。
 この子どもが声を出して泣くのを見たのは初めてだった。

 側室が高坂らによって拘束されるのを横目に、子どもの背をなでてなだめていたが、待つほどもなく、泣き止む気配を見せた。そして顔を上げ、雑渡を見た。
 涙を浮かべた瞳は、包帯まみれの奇怪な大男を目にしても、ひるむ様子もなかった。驚きもせず、装束をつかむ小さな手は緩みもしなかった。なぜか、馴染みのあるものを見るような顔をされた。納得している風でもあった。
 そのとき、雑渡に近づいてきたのは子どもの乳母だった。当然のように手を差し出してきたが、先ほどまでのふるまいを見る限り、『黄昏甚兵衛の子』を渡すわけにはゆかなかった。既に部下が歩み寄ってきていたこともあり、そちらに渡そうとした瞬間、子どもはまた雑渡にしがみついて顔を押し付けてきた。
「若様」
 声に困惑が混じった。この成りになってから、諸泉の坊以外の子どもに懐かれたことはなかった。
「若様」
 乳母が咎めるような声を出した。その目はちらりと雑渡を見上げたが、草のものたる忍びによく向けられる目そのものだった。ところが、若君は振り向きもせずさらにしがみついてくる。絶対に離さないぞ、との意志が見えて、それも初めてだったので驚いた。
 そのとき、矢羽音がした。それは甚兵衛からの命を伝えていた。
「若様」
 もう一度呼びかける。主命であるから、従わざるを得ない。が、せめてその結果が若君にとって、よいものであれば、と思った。
「落ち着かれましたら、移動しましょう―――殿がお呼びです」
 幼子が首を少し傾げた。不安そうに見えたが、表情を浮かべるともともとの造作のよさもあって、ひどく愛らしい様子なのに改めて気付く。
「いっしょ?」
 初めて子どもが発した言葉を聞いた。それは、意味のない言葉ではなく、雑渡の言葉を理解した上での同行の願いだった。
 思わず笑みを浮かべた。
「若君が、よろしいなら」

 息子との、ほとんど初顔合わせを終えた甚兵衛はずいぶん愉快そうだった。
「そのナリのお前に、懐く子どもがあろうとは思わなかった」
 ほんとにね、と内心思いながら、ただ首肯する。
 若君を先に山本に連れてゆかせ、今は執務室の中は主と忍びの二人だけだ。
 また泣き出すのではと思われた若君は、山本にもすんなり懐いてその腕に抱かれて行った。忍びだったら誰でもよい疑惑が発生していたが、一旦脇に置いておく。
「それで、若君をどうなさいます」
 訊ねる必要があるのは、若君についてだけだ。
 側室についてはもはや訊ねることなど何もない。何が問題だったかというと、それがどんな変わり種であっても、タソガレドキ当主の胤であったということだ。だから、彼女についてはもうすべて決まってしまっている。当主がその子どもをどう扱おうとも許されるのは当然だが、彼女はそうではないのだった。

「昨日まで、まったく話さなんだ者が、一端に口を利く」
 甚兵衛はまるで謡うように言った。
「忍びを恐れず、空を飛んだことを無邪気に喜ぶ」
 ついでに言うと、わしのことも恐れなんだ、と続けた。それは忍びの移動方法に気をとられていたからではないかと思ったが、受け答えを聞く限り、言葉の発声は拙いが、思考は明晰なのは伺えた。
「あの目を見たか、あれは狂人でも、知恵遅れの者の目でもない」
 雑渡も見た。
「内心の動揺は見せず、こちらの出方を待って方策を練る者の目よ」
「韜晦していたのでなければ、妖物の類かもしれませんね」
 雑渡がわざと軽く言うと、甚兵衛は鼻で笑った。
「ひとを害す物の類が、四年もあの扱いに甘んじるものか」

「それで」
「しばらく様子を見る。主屋敷に居を移し、忍びを世話役につけよ。人選は任す」
 余りの内容に、さすがの雑渡も顔をしかめる。
「危険では」
「そのためにも忍びをつけるのだ―――第一、あの細腕で何ができる」
 ため息をついた雑渡に、主君はにやりと笑う。
「面白い、ということは重要だ。あれは確かに面白い」
 それに、と甚兵衛は筆を取りながら続けた。雑渡との話はこれで終い、という合図だ。脇に控えていた小姓が、手にしていた書付を文机の隅に音もなく差し出して置いた。
「あれは、三人目の男子だ。自然にあるだけでは、何もくれてやることはできん。だからこその様子見だ」
 狼の頭は一つ頭を下げてから御前を辞した。

多分、このまま親父殿はおもしれー息子をめでる方向に走るし、
組頭は主君にあきれながらも、若君を見守ってくれると思う。(狼の小頭も)

— End —

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Sakuria
Where every work blooms
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