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トレーナーに馴れ馴れしい女性に嫉妬してハグを要求するフラッシュ

ClosureClosure

他の誰かに触れられるトレーナーを見て、フラッシュの予定は静かに狂い始める。 乱れた心を整えるため、彼女は誰より特別なぬくもりを求めた。 カバーイラストのフルサイズ版はこちら illust/144130299

トレーナー室の時計は、午後四時三十七分を示していた。

予定表によれば、本日の打ち合わせは四時三十分開始。七分の遅延。通常であれば、エイシンフラッシュはその事実を眉ひとつ動かさず記録し、原因を確認し、次回以降の改善策を提案する。

それだけのことだ。

……本来ならば。

「すみませーん、トレーナーさん。ちょっとだけお時間いいですか?」

遡ること十二分前。
扉をノックする音と同時に、明るい声が室内に滑り込んできた。

トレーナーが顔を上げる。

「はい、どうぞ」

入ってきたのは、学園関係者の女性だった。資料を抱え、柔らかな笑みを浮かべている。フラッシュも何度か見かけたことがある。確か、広報関連の担当者だったはずだ。

「この前の取材資料なんですけど、ここだけ確認してほしくて」

「わかりました」

トレーナーは椅子を少し引き、机の端に資料を広げた。

女性はその隣に立つ。

近い。

フラッシュは、無意識に視線を時計から二人へ移した。

「ここなんですけど、トレーナーさんならどう表現します?」

「そうですね……この場合は、もう少し練習内容に寄せたほうが自然かもしれません」

「なるほど。さすがですね」

女性が笑った。

そして、トレーナーの肩にぽん、と手を置いた。

「本当に頼りになりますね、トレーナーさん」

その瞬間。

フラッシュの耳が、ぴくりと動いた。

表情は変わらない。姿勢も崩れない。両手は膝の上に整然と置かれている。背筋もまっすぐだ。

だが、その静けさは、いつもの彼女のものとはわずかに異なっていた。

「いえ、そんな大したことは」

トレーナーは苦笑する。

「でも、こういう細かいところまで見てくれる人ってなかなかいないです。えっと、ここも見てもらっていいですか?」

女性は資料を指差しながら、さらに少し身を寄せる。

今度は、肘がトレーナーの腕に触れた。

偶然。

そう判断することはできる。

トレーナー室は広くない。机の周囲に資料を広げれば、距離が近くなることもある。彼女に他意があるとは限らない。むしろ、親しみやすい性格なのだろう。

フラッシュはそう分析した。

合理的に。

冷静に。

客観的に。

……だからこそ、理解できなかった。

なぜ、自分の胸の奥が、こんなにもざわついているのか。

「フラッシュ?」

トレーナーの声で、彼女は瞬きをした。

「はい」

「待たせてしまってごめん。すぐ終わるから」

「問題ありません。予定外の確認事項が発生した場合、そちらを優先するのは妥当です」

言葉は淀みなく出た。

けれど、声の温度だけが、わずかに低かった。

トレーナーは一瞬だけ首を傾げたが、女性の質問に答えるため、再び資料へ視線を落とした。

女性はにこにこと笑いながら、今度はトレーナーの背中に軽く手を添えた。

「助かりました。やっぱり直接聞きに来て正解でした」

「お役に立てたならよかったです」

「また相談しに来ますね」

「はい、いつでも」

いつでも。

その言葉に、フラッシュの指先がぴくりと動いた。

女性は満足げに資料を抱え直すと、フラッシュにも軽く会釈した。

「お邪魔しました。エイシンフラッシュさんも、練習頑張ってくださいね」

柔らかな笑顔。

しかし、彼女の僅かに細めた目に、別の意味を見出してしまう。

「ありがとうございます」

感謝の言葉とともに、フラッシュも穏やかな微笑を返す。

扉が閉まる。

足音が遠ざかる。

トレーナー室に、いつもの静けさが戻った。

時計の針が、かちりと進む。

午後四時四十五分。

十五分の遅延。

「ごめん、フラッシュ。待たせたね」

トレーナーは椅子に座り直し、予定表を手に取った。

「では、今日の練習内容の振り返りを──」

「トレーナーさん」

フラッシュが遮った。

その声は、先ほどよりもさらに静かだった。

「はい」

「先ほどの方は、普段からあのような距離感なのですか」

「え?」

「肩に手を置く。腕や背中に触れる。会話のために必要な接触とは思えませんでした」

トレーナーは目を瞬かせた。

「……もしかして、気になった?」

「事実確認です」

フラッシュは即答した。

「私は、状況を正確に把握したいだけです」

「そっか」

トレーナーは少しだけ困ったように笑った。

その笑顔が、また彼女の胸の内を乱した。

なぜ笑うのか。

なぜそんなに穏やかなのか。

なぜ、彼女のボディタッチを当然のように受け入れるのか。

「広報の人だから、いろんな人と話すのに慣れてるんだと思う。特に深い意味はないよ」

「深い意味がなければ、許容されるのですか」

「え?」

フラッシュはそこで、ようやく自分の言葉が少し鋭くなっていることに気づいた。

沈黙。

時計の針の音だけが、規則正しく響く。

彼女は膝の上で指を組み直した。

「……すみません。感情的な発言でした」

「いや、謝らなくていいよ」

トレーナーは予定表を机に置いた。

「嫌だった?」

その問いは、あまりにもまっすぐだった。

フラッシュは視線を逸らしそうになる。

だが、逸らさなかった。

「不快でした」

はっきりと、彼女は答えた。

「理由は、まだ完全には整理できていません。ただ……あの人がトレーナーさんに触れるたび、胸の内側が乱れました。予定も、呼吸も、思考も、すべてが僅かに狂いました」

「フラッシュ……」

「私は、効率を重んじます。曖昧な状態は好みません。ですので、この感情についても、早急に分析し、対処する必要があります」

彼女は立ち上がった。

椅子が小さく音を立てる。

トレーナーも思わず背筋を伸ばした。

フラッシュは机の前まで歩み寄る。

一歩。

また一歩。

そして、トレーナーのすぐ前で止まった。

いつもの彼女なら保つはずの、適切な距離よりも、わずかに近い。

「トレーナーさん」

「はい」

「お願いがあります」

「お願い?」

「はい」

フラッシュは深く息を吸った。

耳の先が、ほんのり熱い。

それでも彼女は、逃げなかった。

「私を、抱きしめてください」

トレーナーは固まった。

「……え?」

「聞こえなかったのであれば、再度申し上げます」

「いや、聞こえた。聞こえたけど」

「では、回答をお願いします」

フラッシュの声は落ち着いている。

しかし、彼女の指先はわずかに震えていた。

「それは……どういう意図で?」

「現時点では、複数の目的があります」

フラッシュは真面目な顔で言った。

「第一に、乱れた精神状態の回復。第二に、先ほど発生した不快感の上書き。第三に――」

そこで、言葉が止まった。

トレーナーは黙って続きを待つ。

フラッシュは視線を少し落とした。

「第三に、確認です」

「確認?」

「……トレーナーさんに触れられることが、私にとってどういう意味を持つのか」

それは、理性的な説明の形をしていた。

けれど、中身はほとんど告白に近かった。

トレーナーはゆっくり立ち上がった。

「本当にいいの?」

「私からお願いしています」

「わかった」

トレーナーは、慎重に両腕を伸ばした。

フラッシュは逃げなかった。

むしろ、ほんの少しだけ前へ出た。

次の瞬間、彼女の体がやさしく包まれる。

トレーナーの腕が背中に回る。

近い。

先ほどの女性よりも、ずっと近い。

けれど、不快ではなかった。

乱れていた呼吸が、少しずつ整っていく。時計の音が遠くなる。机の上の資料も、予定表も、七分の遅延も、十五分の誤差も、いまだけは重要ではなくなった。

フラッシュはトレーナーの胸元に額を預けた。

「……なるほど」

「なるほど?」

「これは、危険です」

「危険?」

「はい」

フラッシュは小さく息を吐いた。

「想像以上に、安心します」

トレーナーは笑いそうになったが、こらえた。

「それはよかった」

「よくありません」

「え?」

「これほど効果が高いと、今後もお願いしたくなる可能性があります」

「それは……別に、困らないけど」

その言葉に、フラッシュの耳がまた動いた。

彼女は少しだけ顔を上げる。

「困らないのですか」

「うん」

「私が、予定外にこのようなお願いをしても?」

「フラッシュが必要なら」

「……そうですか」

彼女は再び額を預けた。

声が少しだけ小さくなる。

「では、もうひとつお願いがあります」

「なんだろう?」

「もう少し強く抱きしめてください」

「えっ?」

「より強い安心感が得られるか、確認する必要があります」

トレーナーは少し笑いそうになるのを、なんとかこらえた。

「嫌だったら言ってね?」

「はい……」

そして背中にまわした両腕の力を少しだけ強めて、さらに彼女を引き寄せる。

フラッシュの体がわずかに震える。

しかし、それもすぐにおさまった。

「これでいい?」

フラッシュは無言でうなずく。

温かい。

あずけた頬を通じて、彼の心音をはっきり感じることができる。

安心感とも、幸福感とも違う何かが、胸の奥から湧き上がってくる。

「……先ほど、あの人があなたに触れた時」

フラッシュの指が、トレーナーの背中でわずかに強くなる。

「私は、不適切だと判断しました。ですが……本当は、それだけではありません」

一拍置いて、彼女は声を落とした。

「あなたに触れられるほどの距離に、私以外の女性がいたことが……嫌だったのです」

フラッシュの細い手が、ぎゅっとトレーナーの背中を抱きしめる。

まるで見えない何かに怯えるように。

「あなたは……私だけのトレーナーさんでいてください」

それは単なる我儘でも、独占欲でもなく。

彼にこの先もずっと傍にいて欲しいという、言葉にならない祈りだった。

「ですので」

そこで彼女は、わずかに言葉を詰まらせた。

頬が赤く染まっている。

「私を……他の女性と、同じ扱いにはしないでください」

トレーナーの腕が、一瞬だけ弱まる。

そして、よりやさしく彼女を抱きしめ直した。

「わかった。気をつける」

「約束してくれますか?」

「約束する」

フラッシュは満足そうに目を閉じた。

「では、記録しておきます」

「記録?」

「はい。本日午後四時四十七分。トレーナーさんは、私を他の女性と同じ扱いにはしないと約束しました」

「細かいな」

「重要事項ですので」

トレーナーが小さく笑う。

フラッシュも、ほんの少しだけ口元を緩めた。

そして、まだ離れない。

「フラッシュ?」

「はい」

「そろそろ打ち合わせを再開する?」

彼女は時計を見た。

午後四時五十分。

予定から二十分の遅延。

通常であれば、即座に軌道修正すべき時間だ。

だが、フラッシュはしばらく考えたあと、静かに首を横に振った。

「あと三分、延長を要求します」

「三分でいいの?」

「……五分」

「了解」

「ただし」

「ただし?」

フラッシュは、トレーナーの胸元に顔を隠したまま言った。

「次に同様の事案が発生した場合、延長時間は増加します」

トレーナーは苦笑した。

「気をつけます」

「賢明な判断です」

そう言って、フラッシュはようやく安心したように息を吐いた。

トレーナー室の時計は、相変わらず規則正しく時を刻んでいる。

けれど、その日のエイシンフラッシュは、ほんの少しだけ予定を乱すことを許した。

それが、自分にとって特別な相手の腕の中なら。

それは、悪くないことだと。

そう思ってしまったから。

— End —

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Sakuria
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