小倉のターフに、歓声が大きく響き渡る。
目の前のビジョンには、先頭でゴール板を駆け抜けた友人の姿が大きく映し出されていた。
わたしは思わず両手を挙げて叫んでいた。
「いろんな事があったな……本当によく頑張ったよな、あいつ」
隣に並んで立っていた彼も、深く頷きながらレースの余韻を噛み締めているようだ。
見事に勝利を収めた友人に、わたしとトレーナーさんはスタンドから力の限りの拍手を送った。
もうすぐトレセン学園を卒業するわたしは、今こうしてトレーナーさんと過ごせる残り少ない時間を、大切に噛み締めるように楽しんでいた。メイクデビューの時にも来たこの小倉の地に、もう一度二人で来たいと我儘を言って、応援を口実に連れてきてもらったのだ。
全レースが終了し、スタンドから人が少しずつ引いていく中、わたしはトレーナーさんに話しかけた。
「トレーナーさん!お腹すいちゃいました。お寿司、食べに行きませんか?」
わたしはお腹をさすりながら、隣の彼を見上げて笑いかけた。
「……まあ、今日くらいはいいか。お前もそろそろ卒業だしな。よし、好きなだけ食べていいぞ」
「すごっ!やった~!」
いつもは体重管理に厳しくて、カロリーの高いものや食べすぎには口うるさく注意してくるトレーナーさんが、今日はあっさりと許してくれた。
わたしは嬉しくて、思わず小走りで先を急いだ。
お寿司屋さんは、新鮮な海の幸が自慢の地元の名店だった。
カウンターに座ると、次々と運ばれてくる綺麗なお寿司に目を奪われる。
「タイ、サーモン、それから関門アジも!あ、イカも!」
わたしは次々と注文し、運ばれてくるお寿司を頬張った。
「ゆっくり食べろよ。逃げないからな」
トレーナーさんは苦笑いしながら、熱いお茶をすすっている。
「だって美味しいんですよ~。トレーナーさんも食べないともったいないですよ」
わたしは幸せな気分に浸りながら、口いっぱいにお寿司を頬張る。
いつもなら「明日からまたトレーニングだからな」と怖い顔で言われるところだけど、今日はそんなこともなく、二人で心ゆくまで美味しいお寿司を堪能することができた。
お腹いっぱい食べて大満足でお店を出た頃には、すっかり空は暗くなり始めていた。
「お腹もいっぱいになったことだし、夜景でも見に行くか」
「夜景ですか?いいですね~!」
トレーナーさんの提案に、わたしは二つ返事で頷いた。
ケーブルカーとスロープカーを乗り継いで、わたしたちは山の山頂へと向かった。
車窓から見える景色がどんどん高くなり、街の灯りが星屑のように広がっていくのを、わたしは窓に張り付いて見つめていた。
山頂の展望台に到着すると、そこには息を呑むような絶景が広がっていた。
「うわ~……すご……!」
わたしは感嘆の声を漏らした。
眼下には、宝石箱をひっくり返したような眩い光の海が広がっている。
有名な夜景のセレクションにも選ばれているというその光景は、想像を遥かに超える美しさだった。
夜風が心地よく頬を撫でる。展望台の柵に寄りかかりながら、わたしたちはしばらく無言で光の海を見つめていた。
「三年間……いろんな事があったな」
ぽつりと、トレーナーさんが静寂を破った。
「そうですねぇ……あっという間でしたけど、ほんとに色んなことがありました」
わたしは夜景から目を離さず、ゆっくりと三年間の思い出を振り返り始めた。
トレセン学園での日々、うまく走れなくて悩んだ最初の頃、どうしても嫌で逃げ回ったプールトレーニング……。
「あのプールトレーニングは本当に地獄でしたよ~。何度逃げ出そうと思ったことか」
「毎回お前を見つけ出すのにどれだけ苦労したと思ってるんだ。保健室のベッドの下に隠れてた時は、さすがに呆れたぞ」
「あはは……」
プールから逃げるわたしの攻防すら、今となっては笑い話だ。
強敵たちと競い合い、奇跡のように勝利をもぎ取った宝塚記念の日のことは、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。
「でも……わたしがここまで来れたのは、全部トレーナーさんのおかげです。本当に、お世話になっちゃいましたね~」
わたしは隣に立つトレーナーさんに、心の底からの感謝を伝えた。
「そうか……でも、俺はお前がここまで成長して、強くなっていく姿を一番近くで見られたことが、何よりの喜びだったよ。こちらこそ、ありがとうな」
トレーナーさんは優しく微笑んで、わたしの頭を軽くぽんと撫でた。
その温かい手の感触に、ズキリと胸が痛んだ。
この優しくて温かい日常が、もうすぐ終わってしまうのだと、ここ最近ずっと実感し続けている。
卒業すれば、わたしはもう担当ウマ娘ではなくなる。
トレーナーさんはまた新しいウマ娘と出会い、二人三脚で切磋琢磨していくのだろう。
あんな風に、他の誰かに笑いかけたり、頭を撫でたりするかもしれない。そう考えるだけで、胸の奥がギュッと締め付けられるように苦しくなる。
この三年間で、わたしの中に芽生えてしまっていた彼への想い。わたし自身、その正体が何なのか、はっきりと自覚できていないまま、ただもやもやとした感情を持て余していた。
「ミラクルがこれからどういう道を歩んで行くのか、俺も楽しみだ」
夜景を見つめたまま、トレーナーさんが言った。
その言葉を聞いて、またドクンと胸が痛む。
(楽しみ、なんて……まるで人ごとのように……)
どうしてそんなに平然としていられるんだろう。わたしはこんなにも、苦しいのに。
「そうですね~……ふつ~に大学に行って、ふつ~に就職して……」
わたしは誤魔化すように、いつも通りの軽い調子で未来の展望を口にした。
「ふつ~に結婚……」
「それは嫌だ!!」
不意にトレーナーさんが大きな声を上げた。
わたしは驚いて、目を丸くして彼を見た。
「あ、ごめん、なんでも無い……」
トレーナーさんは慌てて口を両手で覆い、バツが悪そうにそっぽを向いた。
「トレーナーさん、今のって……」
わたしは聞き返した。心臓が、バクバクとうるさく鳴り始めている。
「いや、なんでもないんだ……気にしないでくれ」
トレーナーさんは首を横に振って、強引に話を終わらせようとする。
でも、わたしは引けなかった。ここで引いてしまったら、一生後悔する気がした。
「トレーナーさん、私が結婚するのが嫌なんですか?」
わたしはまっすぐに彼を見つめて、ストレートに問い詰めた。
トレーナーさんはしばらくの間、何かを堪えるように沈黙していた。
展望台を吹き抜ける風の音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて、彼は観念したように短く息を吐き出し、わたしの方へと向き直った。
「ミラクル、こんなこと言うのは恥ずかしいんだけど……俺は、ミラクルが好きなんだ」
彼のまっすぐな言葉に、わたしの心臓が跳ね上がった。
「えっ……」
わたしは小さく声を漏らしたまま、魔法にかけられたように動けなくなった。
「この三年間、ミラクルと一緒にいる時間が何よりも楽しくて……本当に幸せだった。だけど、俺はトレーナーで、お前は担当ウマ娘だ。この関係を壊してはいけないと、ずっと気持ちを閉じ込めてきたんだ」
トレーナーさんは、苦しそうに顔を歪めた。
「でも……さっきの言葉を聞いたら、どうしても抑えきれなくなってしまった。ミラクルが誰かと結婚するなんて考えただけで、頭がおかしくなりそうだったんだ」
(トレーナーさんも、わたしと同じ気持ちだったんだ……)
もやもやとしていた胸の苦しみが、一瞬にして温かい光に包まれていくのを感じる。
「でも、この気持ちだけは伝えられてよかった。どうかこんな最低野郎のことを許してほしい」
トレーナーさんは、少し悲しそうな顔でわたしを見た。
最低野郎なんかじゃない。
ずっと、わたしとの関係を大切に想って、一人で痛みを堪えてくれていたんだ。
「トレーナーさん……わたしも、トレーナーさんのことが好きです!!」
わたしは抑えきれなくなった感情のままに、彼に向けて叫んでいた。
目から、ボロボロと大きな涙が溢れ出た。
「えっ……」
今度はトレーナーさんが驚いたように目を見開き、そして、徐々にその顔に嬉しそうな笑みが広がっていった。
「ありがとう、ミラクル……俺も、ミラクルのことが大好きだよ」
その言葉を聞いた瞬間、わたしはいつものように何か冗談でも言って照れ隠しをしようと思ったけれど、言葉よりも先に体が動いていた。
「あはっ……」
わたしは泣き笑いのような声を上げながら、トレーナーさんの胸に勢いよく飛びついていた。
「うおっ」
トレーナーさんは一瞬よろめいたものの、しっかりとわたしを受け止め、その大きくて温かい両腕で優しく抱きしめ返してくれた。
耳に当たる彼の胸像から、ドクドクと力強い鼓動が聞こえて、なんだかとっても安心する。
わたしたちは、抱き合ったまま、眼下に広がる夜景を見つめた。暗闇の海に浮かぶように、ひときわ赤くライトアップされたシンボルとも言える橋が綺麗に見える。これからは二人でどんな道も歩んでいける。ずっと一緒にいようと、心の中で強く誓い合った。



















