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彼の隣は譲れません

ClosureClosure

休日の街で、トレーナーが見知らぬ女性と親しげに歩く姿を見てしまったトプロ。 平静を装えないまま、友人とともに尾行を開始する。胸のざわめきの正体が“嫉妬”だと気づいた彼女は──

「ねえねえ、委員長。あの人、委員長のトレーナーさんじゃない?」

隣を歩く友人が指差した先を見て、トプロは眉を顰めた。

「あれ、彼女かな? なんかいい雰囲気」

見知らぬ女性がトレーナーの腕を取って歩いている。

「……っ」

一瞬、足が止まる。

休日の繁華街。
買い物袋を提げた人々の間を、見慣れた背中が歩いていく。
間違えるはずがない。あの少しだけ猫背な歩き方も、何か話しかけられた時に困ったように笑う横顔も、全部見覚えがある。

そして、その腕にしなだれかかるように寄り添う、艶やかな長い髪の女性。

トプロ──ナリタトップロードは、胸の奥が妙にざわつくのを感じた。

「え、ええと……どうなんでしょう」

努めて平静を装って答える。
けれど自分でもわかるくらい、声が硬かった。

「委員長、追う?」
「お、追うって……!」

友人が面白がるように言う。
いつもなら「だめですよ、そういうのは失礼です!」とたしなめるところだ。
なのに今日は、その言葉が喉の奥で引っかかった。

追うなんてよくない。
そんなの、まるで疑っているみたいで。
トレーナーさんにだって、プライベートはある。
友人や親戚かもしれない。
決めつけるなんて最低だ。

──でも。

腕、組んでました。
あんなにぴったり。
しかも、なんだか……嬉しそうに見えました。

胸の奥に、黒いものがじわりと広がる。

熱いのに冷たい。
もやもやして、苦しくて、息が詰まりそうなのに、目が逸らせない。

「委員長?」

友人が顔をのぞき込む。
トプロははっとして、ぎこちなく笑った。

「い、いえ! 別に、気にしてません! 全然!」
「いやその『全然』はだいぶ気にしてるやつ」
「気にしてません!」
「目が笑ってないよ委員長」
「笑ってます!」
「怖っ」

怖い、と言われて、トプロは自分の頬を押さえた。
たしかに笑っているはずなのに、こわばっている感覚があった。

なんでしょう、これ。

心臓がどくどく鳴っている。
耳の奥が熱い。
けれど指先だけは冷たい。

トレーナーさんが誰と歩こうと、本来は自由なはずだ。
担当ウマ娘である自分が口を出す権利なんてない。
それはわかっている。わかっているのに。

あの人の隣にいるのが、自分じゃないのが嫌だ。

その思考が浮かんだ瞬間、トプロは自分で自分にぎょっとした。

「……え?」

今、なんて考えました?

嫌?
誰が?
自分が?

友人は面白半分、心配半分といった顔で言った。

「委員長、顔色やばいけど大丈夫?」
「だ、大丈夫です。ちょっと……」
「ちょっと?」
「風紀が乱れてるなって」
「どこが!?」
「私の心の風紀が……」

思わず漏れた本音に、友人がぶっと吹き出した。

「重症じゃん!」
「笑いごとじゃありません!」

むしろ本人としては大問題だった。
これまでトプロは、誰かにこんな感情を抱いたことがない。
ライバルへの闘志とは違う。
勝ちたい、負けたくない、認められたい、そういう真っ直ぐな熱ではない。

もっと粘ついていて、みっともなくて、胸の奥にへばりつくような感情。

嫉妬。

その二文字が頭に浮かび、トプロはその場でうずくまりたくなった。

そんな。
自分が?
あの、明るく正しく元気よく、をモットーにしている自分が?
みんなの手本であろうとしてきた自分が?

こんな、どす黒い感情を?

「……追います」
「えっ、行くの!?」
「確認しないと、心の風紀が保てません」
「なにその新しい校則」

そのままトプロは早足で歩き出した。
友人が「うわほんとに行くんだ!?」と慌ててついてくる。

人混みを縫いながら、前を行く二人を見失わないようにする。
腕を組んだまま、トレーナーは何か話している。
女性は楽しそうに笑っている。
そのたび、胸の奥がちくちく刺された。

なんで、そんな顔するんですか。
そんな優しい顔、私にも向けてはくれますけど。
でも、今その顔を独り占めしているのは、その人で。

──やめてください。

心の中で呟いた自分の声に、またぞっとする。

やめてほしい?
何を?
腕を組むのを?
笑い合うのを?
隣にいるのを?

そんなこと、言えるわけがない。
言っていいはずがない。
それでも、もし今だけ許されるなら。

離れてほしい。

「うわ……委員長、今すごい顔した」
「ど、どんな顔ですか!?」
「委員長がしちゃいけないやつ」
「具体性がありません!」
「でもわかる。たぶん『あの女……』みたいな」
「言ってません!」
「言ってなくても顔が言ってる」
「う、うう……」

トプロは顔を両手で覆った。
最低です。
本当に最低です。
まだ何もわかっていないのに、相手の人を悪く思いかけた。
そんな自分が情けなくて、苦しくて、それでも足は止まらなかった。

やがて二人は、大通り沿いの喫茶店へ入っていく。
トレーナーが先に扉を開け、女性を中へ通した。

その自然なエスコートに、トプロの心が音を立てて沈んだ。

「はい、終了。見ちゃったね、完全に」
「まだです」
「えっ」
「まだ、話している内容がわかりません」
「そこまで行くの!?」
「ここまで来たら最後まで責任を持ちます!」
「なんの責任!?」

半ば涙目になりながらも、街路樹の陰に隠れながら、トプロは店の外から中をうかがった。
窓際の席に座る二人。
女性は身を乗り出してトレーナーに話しかけている。
トレーナーは苦笑しながら、それに応じていた。

その距離感が近い。
近すぎる。
見ているだけで胸がむかむかする。

「……あんなに」
「ん?」
「あんなに、近くなくても、話はできます……!」

自分でも驚くほど低い声が出た。
友人が横で「うわぁ」と素の声を漏らす。

「委員長、完全に嫉妬してるじゃん」
「してません!」
「してるって」
「して……」
「してるって」
「……して、ます」

観念して口にした瞬間、トプロはがくりと肩を落とした。

認めてしまった。
自分が嫉妬していると。
トレーナーが誰か別の女性と親しげにしているのが、嫌でたまらないのだと。

「うぅ……どうしましょう」
「告っちゃえば?」
「こ、告っ……!?」
「だってそれ、もう好きじゃん」
「す、す、好き、とか、そういうのは、その、ええと……!」

顔が一気に熱くなる。
否定しようとして、できなかった。

トレーナーのことは信頼している。
尊敬している。
一緒に走ってきた時間は、何より大切だ。
笑ってほしいし、褒めてほしいし、一番に報告したい。
頑張った姿を見ていてほしい。
自分の勝利で喜んでほしい。
落ち込んでいたら元気づけたい。
隣にいるのが自然であってほしい。

……それってもう。

「好き、なんでしょうか……」
「うわ、自覚の瞬間に立ち会ってしまった」

友人が妙に感動したように呟く。
トプロは真っ赤な顔のまま、窓の向こうを見つめた。

すると、ちょうどその時。
店内の女性がバッグから何かを取り出して、トレーナーへ差し出した。
書類、だろうか。
トレーナーはそれ受け取って目を通す。

二言三言会話したあと、女性が立ち上がって、深々と頭を下げた。

「……へ?」

トプロが間の抜けた声を漏らす。

女性は何度も頭を下げている。
トレーナーは慌てたように手を振って、それから苦笑交じりに何か説明していた。
さらに少しして、女性が名刺らしきものを渡し、二人はきちんと席越しに向き合って座り直した。

さっきまでの距離の近さが、急によそよそしく見えた。

友人が目を細める。

「あれ、もしかして仕事?」
「えっ」
「ほら、書類。名刺。しかもさっきの腕組みも、あの女の人が一方的にやってただけっぽくない?」
「……」

言われてみれば、そうかもしれない。
トレーナーはずっと困ったように笑っていた。
嫌がるほどでもないが、積極的というほどでもなかった。

じっと見ていると、トレーナーが女性に向かって何度か首を横に振ったあと、スマホを取り出して何かを見せる。
女性は「あー……」とでも言うように肩を落とし、それから苦笑した。

友人がぽつりと言う。

「ナンパされて、断って、なんか仕事の話だけ聞いてる感じ?」
「…………」
「委員長?」
「…………」
「おーい」

トプロはその場で固まった。

さっきまで胸の中を真っ黒に塗りつぶしていた感情が、今度は別の意味で大爆発していた。
つまり、自分は。

何も知らないまま。
勝手に嫉妬して。
勝手に疑って。
勝手に『離れてほしい』なんて思って。
挙げ句、尾行までして。

「わ、私は……!」
「うん」
「最低です……!!」
「それはまあちょっとそう」

がーん、と効果音がつきそうな勢いでトプロは膝をついた。
友人が慌てて支える。

「でも収穫あったじゃん。自分の気持ちわかったし」
「収穫で済ませていい問題ではありません!」
「真面目〜」
「うぅぅ……!」

すると、その時だった。

喫茶店のドアが開く。
打ち合わせらしきものを終えたトレーナーが、女性を見送って外へ出てきたのだ。
そして、膝から崩れ落ちているトプロと、気まずそうな友人を見つける。

「……トプロ?」
「っ!」

終わった。
人生が。

トプロの脳裏にそんな言葉が浮かぶ。

トレーナーはきょとんと目を瞬かせ、それから首を傾げた。

「どうしたんだ、そんなところで」
「な、なんでもありません!」
「なんでもない感じではないけど」
「なんでもないです! 本当に!」

勢いよく立ち上がる。
しかし動揺のあまり、声が裏返った。

トレーナーがますます不思議そうな顔をする。
友人が気まずそうに目を逸らし、「じゃ、あとは若い二人で」と意味不明なことを言って逃げた。

「えっ、ちょ、待ってください!?」
「トプロ?」
「……」

逃げたい。
けど逃げたらもっと怪しい。
というか、もう十分怪しい。

トレーナーは少しかがんで、トプロの顔をのぞき込んだ。

「具合悪いのか?」
「悪くないです」
「でも顔赤いぞ」
「これはその……健康的な赤みです」
「そんな都合のいいものある?」

いつもの穏やかなツッコミ。
それだけなのに、さっき見た“別の女性に向ける表情”とは違う気がして、また胸がざわつく。
でも今度のざわつきは、黒くない。
ただただ、恥ずかしい。

トレーナーは少し考えるように視線を上げてから、ふと気づいたように言った。

「もしかして、さっき見てた?」
「っっっ!?」

言い当てられて、「えっ、あっ、そ、そのー」と分かりやすく挙動不審になる。
トレーナーは「あー……」と何とも言えない顔をした。

「いや、変な誤解させたなら悪い。さっきの人、知り合いの編集さんなんだ」
「へ、編集さん?」
「学園の広報誌で、担当トレーナーのインタビューをしたいって前から連絡もらってて。たまたま近くで待ち合わせしただけ」
「……そう、だったんですか」

地面に穴があったら入りたい。
なんならロケットで誰も知らない宇宙の果てまで飛ばして欲しい。

「腕組まれてたのは、あの人の距離感が近いだけ。困ったんだけど、いきなり振り払うのも失礼かと思って」
「…………」
「トプロ?」

トプロはゆっくりとうつむいた。

そして。

「……嫌でした」
「え?」
「その、見ていて……すごく、嫌でした」

トレーナーは少しだけ目を見開いた。

「自分でもびっくりしたんです。こんな気持ち、初めてで」
「……」
「最低だって思いました。何も知らないのに、勝手に疑って、勝手に嫌な気持ちになって」
「トプロ」
「でも……でも、嫌だったんです」

声が震える。
情けない。みっともない。
委員長らしくない。
模範的でもなんでもない。

それでももう止まらなかった。

「トレーナーさんの隣に、私以外の誰かがいるのが、嫌でした」

言ってしまった瞬間、世界がしんと静まった気がした。

街のざわめきも、通り過ぎる人の足音も、急に遠くなる。
トプロはうつむいたまま、ぎゅっとスカートの裾を掴んだ。

終わった。
今度こそ本当に。
困らせた。
重いって思われたかもしれない。
担当ウマ娘にこんなことを言われるなんてって、呆れられるかもしれない。

怖くて、顔を上げられない。

すると、不意に頭の上に重みが落ちた。

ぽん、と。
大きな手のひらが、いつものように優しく髪を撫でる。

「……っ」

驚いて顔を上げると、トレーナーは困ったように少し笑っていた。
けれど、その目は少しも困っていなかった。
むしろ、泣きそうな子どもをどう宥めるか考えているみたいな、ひどく穏やかな目だった。

「そうか」

たったそれだけ。
なのに、胸の奥がぎゅっと詰まる。

否定も、冗談めかした茶化しもない。
「違う」とも、「困る」とも言わない。
ただ、全部受け取ったような声だった。

トプロの喉がひくりと震える。

「……怒らないんですか」
「なんで?」
「だって、その……重いですし」
「重いと思ったら、こんなふうにしてないよ」

トレーナーはそう言って、もう一度、ゆっくりと頭を撫でた。
子ども扱いされているみたいで悔しいはずなのに、今はその手が離れてほしくなかった。

「嫉妬したんだな」
「……はい」
「嫌だったんだ」
「……はい」
「そっか」

また、それだけだった。

けれどその「そっか」が、どうしようもなく優しい。
責めるでもなく、からかうでもなく、無理に言葉を引き出そうともしない。
まるで、トプロが抱えてしまった黒い感情ごと、そのまま置いていいと言われたみたいだった。

「ごめんなさい……」
「謝ることじゃない」
「でも、私……すごく嫌なこと考えました」
「うん」
「最低です」
「別に、それでお前が変わるわけじゃない」

その一言に、トプロは息を呑んだ。

真面目で、明るくて、まっすぐで。
でも今みたいに、余裕がなくなって、黒い感情に振り回されて、みっともなくなる時もある。
そういう全部を含めて、お前だろうと。
そう言われた気がした。

「……っ」

視界が滲む。
泣くつもりなんてなかったのに。

トレーナーはそんなトプロを見て、小さく息をついた。
それから、ごく自然な動作で一歩近づく。

「ほら」

低い声と一緒に、彼の腕が軽く開かれる。

抱きしめる、というにはあまりにもさりげない仕草だった。
選ぶのはトプロの方だとでも言うみたいに、急かしもしない。
けれど拒む隙もないくらい、静かで深い優しさがあった。

その瞬間、胸の奥の何かが決壊した。

トプロは半歩、ためらって。
それから、縋るみたいにその胸元へ額を押しつけた。

「……っ」
「大丈夫」

背中に回った手が、ぽん、ぽん、とゆっくり叩く。
子どもをあやすみたいなのに、不思議と惨めじゃなかった。
泣きそうなくらい優しい。

トプロは服の裾をぎゅっと掴んだ。
鼻の奥がつんと痛い。

「私、自分で思ってたより……ずっと嫌だったみたいです……」
「みたいだな」
「こんなの、知らなくて……苦しくて……」
「うん」
「……でも」
「うん」

トレーナーは急かさない。
ただ待っている。
言葉を選びきれないトプロの沈黙ごと、当たり前みたいに受け止めている。

その安心感が、たまらなくずるかった。

「……今は、安心してます」
「それならよかった」

耳元に落ちる声は、ひどく穏やかだった。

それだけで十分だった。
“好きだ”なんて言葉がなくてもわかってしまう。
少なくとも、自分が特別に扱われていることくらいは、いやというほど。

だって、こんなふうに受け止めてくれるのは。
こんなふうに、恥ずかしい本音も、どす黒い嫉妬も、みっともなさも、何もかも包み込むみたいに撫でてくれるのは。

きっと誰にでもじゃない。

トプロはそろそろと顔を上げた。
近い。
近すぎる。
けれど、もう怖くなかった。

トレーナーは少しだけ目を細めて、乱れた前髪を指で整える。

「落ち着いたか?」
「……少し」
「よし」
「……子ども扱いしないでください」
「してない」
「してます」
「じゃあ、大事に扱ってる」
「っ」

さらりと返されて、トプロの顔が一気に熱くなる。
けれど、さっきまでみたいな苦しさはない。
むしろ胸の奥がじんわりと甘く痺れる。

ずるいです。
そういうところです。
そういうところが、ほんとうに。

「……あの」
「ん?」
「今後は、その……距離の近い女性には、少し気をつけてください」
「善処する」
「絶対ですよ」
「はいはい」
「はいは一回です」
「委員長、そういうとこ戻るの早いな」
「戻ります。戻らないと困ります」
「でもさっきの、ちょっとレアだった」
「わ、忘れてください!」
「どうしようかな」
「忘れてください!」
「考えとく」

くす、とトレーナーが笑う。
その笑い方があまりにもいつも通りで、なのに今までよりずっと近く感じて、トプロはまた頬を染めた。

並んで歩き出す。
今度は、ちゃんと隣にトレーナーがいる。

しばらくしてから、トプロはそっとその袖をつまんだ。
前みたいに勢いよくではなく、確かめるように、遠慮がちに。

するとトレーナーは何も言わず、少しだけ歩幅を緩めた。

離れないように。
置いていかないように。
そうするのが当たり前みたいに。

そのさりげなさが、胸に沁みる。

「……トレーナーさん」
「ん?」
「今日は、その……」
「うん」
「隣、譲りませんから」
「そうか」

たったそれだけ。
けれどその声は、どこか嬉しそうだった。

トプロはそっと口元を引き結ぶ。
照れて、恥ずかしくて、でも少しだけ誇らしい。

どす黒い嫉妬は、たしかに苦しかった。
こんな感情、自分には似合わないと思った。
けれど、その醜さごと受け止めてもらえた今は、少しだけ思える。

ああ。
この人の隣なら。
こんな自分でも、ちゃんと笑えるんだと。

街の雑踏の中、つまんだ袖の先から伝わるぬくもりに安心しながら、トプロは小さく息をついた。

もう、大丈夫だ。

隣にはいつも彼がいてくれるのだから。

— End —

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Sakuria
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