その場にいる誰もが、直ぐには理解出来なかった。
日焼けをしていない真っ白な細い腕、瞳が隠れるほどの長い前髪や野暮ったい分厚い眼鏡、運動をしている風には見えない、地味な文芸部の一年。その少女が、強烈なジャンプサーブを綺麗にレシーブしたのだ。
喧嘩を売られたから買ったと彼女は言った。誰もが虚勢だと、無謀だと、呆れ笑う。だが、それを一蹴するような、綺麗なAパスだった。
「どうぞよろしく」
ネットを挟む相手に放つそれは挑発か、それとも宣戦布告か。
味方であるはずなのに、静かな佇まいや変わらない声色に角名と治の背筋がぞくりと震えた。けれど、口元が自然と吊り上がる。淡々としていて、静かで、不気味で、だが、これほど頼もしい『未知』はない。
――――――――――――――――――
まぐれや。
ただの、まぐれ。そう何度も自分に言い聞かせているのに、胸の奥が妙にざわついていた。さっきのは、ただの偶然。たまたま腕に当たっただけ。あんな細い腕で、正面から受け止められるはずがない。
まぐれ、そう、偶然だと、脳が判断したがっていた。
「来るで!」
「!、おう」
味方の声にハッとして、角名のサーブをレシーブする。なんてことない、ただのサーブだ。それを二年がトスを上げる。
さっきのはまぐれや、それを、証明したる…!
助走、そして、何百回と練習してきたスパイク。治のブロックを避け、ライン際へ深く沈む軌道。よし、練習通りや。コートに叩きつけられるはず、なのに。
なんでお前がおんねん。
「上げたァ!?」
コートの外にいる誰かが、歓声を上げた。
滑るように回り込み、勢いを殺すように低く沈む。両腕を地面すれすれに差し出し、ボールの下へ潜りこませる。深く、低く、しかしぶれずに上がる。まるで床からボールをすくい上げたかのような、低くて美しいディグだった。
治がトスを上げて角名の長い腕がしなり、コートに叩きつけられた。
いつの間にか得点版が出され、ぺらりと捲られる。
負けられない。喧嘩を売ったのは自分達だ。
バレー部として、先輩として、男として
コイツらには負けられん。
――――――――――――――――――
スタメン落ちといっても、強豪校のユニフォームを着た事がある事実は変わらない。点を取り、取られ、一進一退の攻防が続く。先に20点台にのったのはナマエ達だった。しかし、先輩チームも19点、一点しか変わらない。
あと、5点
先輩の強烈なジャンプサーブが、レシーバーの角名を襲う。ブロック程レシーブが得意ではない。衝撃に体勢が崩れ、ボールがサイドラインを遥かに越えようとする。そこにナマエが走り込んだ。
あと5点、あと5点。
疲れた、腕が痛い、足も疲れた、体力もない。疲れた、しんどい。喉が焼ける様に熱い、息が吸えない、ボーっとしてきた。
体力もないのに走り回って、何してるんだろう。疲れた。いつの間にかいたスコアラーと、目が合った。
ぶつかる、ボール間に合う、落ちない、上げる、オーバーとれる
ももちゃんがレシーブしてよ
おんちゃんカバーしてよ
『私応援係する。ももちゃん、おんちゃんとやって』
『なんで!トス上げてよ!ナマエちゃんがこの中で一番トス上げるの上手いのに!』
『この前までレシーブの練習ばっかさせたくせに…ももちゃんワガママばっか』
『ワガママじゃない!』
『ナマエちゃんトス上げて』
『えーっ、おんちゃんもワガママ』
『俺が得意なコース、ナマエちゃんなら上げてくれるでしょ』
「お゛ッ、ッサムくんッ!!」
辛うじて残った理性が、その名を呼ぶ前にコートにいる一人を叫ぶ。振り向く余裕なんてない。額の上で一瞬だけボールを止めて、指先だけで後方へ押し出す。コートにいるであろうスパイカーに向けた、背面トスだ。
トスを上げた直後、踏みかえようとした足がもつれる。ぐらり、と視線が傾き、床が迫る。受け身も不十分なまま、べしゃりと倒れ込んだ。
「ミョウジさん!」
「ミョウジさん大丈夫か!?」
角名と治が倒れたままのナマエに駆け寄る。ゆっくりと起き上がるナマエは、どっちの得点だったと息が絶え絶えのまま尋ねた。
「、ミョウジさんが上げてくれたトスで、俺がキッチリ決めたで!」
にんまりと万遍の笑みで答える治に、ナマエはそっか、とだけ短く返す。そして心の中でゴメンと謝罪をしておいた。ぼんやりとした頭で、かつての幼馴染の名前を呼んで、トスを上げそうになったからだ。疲労で記憶が混濁させる。
「あと4点」
ゆっくりと立ち上がる。つう、と首筋に汗が滴る感覚に顔を顰めた。早く帰りたい、お風呂入りたい、腕痛い、早く終わりたい。
あああ前髪が邪魔だ、眼鏡が邪魔だ。
前髪をピンで留めたまま対人レシーブをして、勢いを殺しそこねたボールが額に当たり、ピンに当たり、とても痛い思いをした記憶があるのであの日から付けていない。危ないから止めたほうがいいよと後から言われた。先に言え。
中学の頃、自分で前髪を切ったらあまりにもガタガタで従兄弟とその幼馴染に腹を抱える程笑われ、俺達の腹筋が死ぬから二度と自分で髪を切るなと言われた。あと可愛いからあまり顔を晒すなと言われた、知るか。母も彼等に丸め込まれたのか切っちゃ駄目よと言ってくる始末、うるさい。
この眼鏡も、父が買ってくれたものだ。伊達眼鏡流行ってるんだよね、買ったよとくれたのがこれだ。流行っているかは知らない。しかもお隣さんに選んでもらったんだよ!センスあるよね!と笑顔で言った父とどこか満足そうなお隣さんが過る。あああ邪魔すぎる。センスがあるかと聞かれればそうでもないと言ってやりたい。
ナマエの脳内に彼等が浮かぶ。そしてじわじわと込み上げる怒り。熱いのに、邪魔すぎる、何もかもが。
フウウウ、と大きく息を吐いて眼鏡を外して、隅に放り投げる。あとで回収するからいいでしょ。
ふたつくくりに結んでいたゴムを引けば、左右に分かれていた髪が一気に肩へと落ちた。前髪をそのまま後ろへと流す。額が、ゆっくりと露わになる。後ろ髪と前髪をまとめ上げて、後頭部で一つにまとめた。
ポニーテールなんて久々にした。ああ、視界が綺麗、涼しい。汗を袖で拭う。
周りが騒めいたが、知ったことじゃない。
――――――――――――――――――
点を取っても喜ばない。ガッツポーズもしない。強いて言えばハイタッチを求められたら返すだけ。
淡々とバレーをするナマエの、唯一といってもいい感情の起伏が分かる口元は平静を表していた。それが今、眼鏡を外して、長い前髪を後ろに纏めた。
結びきれなかった前髪の隙間から、いや、隠れきらないほどに
額が、瞳が、輪郭が露わになった。
長い睫毛が影を落とす、猫のように僅かに切れ長で、体育館の人工的な光を受けて漆黒の瞳が鮮やかに煌めく。真っ白な肌が、動いているせいか淡く自然な血色が差していた。
作り込まれた華やかさも、派手さもない。けれど、目が離せない可憐な印象、傍からみたら守ってあげたくなるような可愛らしさがある。しかし、この場にいる全員が、守ってあげたいなんて傲慢な考えは抱かない。
「ぶつかりそうになって、ごめんなさい」
「ッ、ハイ!」
「スコアラー、助かります。ありがとうございます」
ナマエの顔をまじまじと見ていたスコアラーはいきなり話しかけられ、更にはお礼を言われると思っていなかったので肩を跳ねさせて返事をした。一方ナマエはそんな彼を気にすることなくペコ、と一礼をしてからコートに戻った。
――――――――――――――――――
不思議な女の子だと、治はふと思った。
教室にいるミョウジさんは、いつも本を読んでいて運動なんてしませんよみたいな雰囲気。なのに今、体育シューズを履いて、ジャージを着て、眼鏡を外して前髪を結んで、汗まみれになってボールを追いかけていた。
昼休みに見えた素顔は可愛くてビックリしたし、角名も自分と同じ表情をしていた(あんな細い目がビックリして丸々になってたんはオモロかった)
治くん、と引き絞るような声が過る。あんな風に上げられた背面トスに、高揚しない男などいない。角名なんて羨ましそうに見てきたし。彼女に名前を呼ばれたことが、こんなにも嬉しい。
その後もプレイは続く。点を取って、取られて。角名のレシーブが、セッターポジションにいる自分に返ってくる。ミョウジさんはスパイクを打っていない、打てない。昼休みに男子バレーのネットの高さを聞いて無理、と言い切ったからだ。だから速攻の練習も一切していない。
その最中、視界に、助走に入ったミョウジさんが映った。ぞわりと全身に鳥肌が立つ。トスは、自然と彼女に上げられていた。
めい一杯の助走、床を踏む音が鋭く弾ける。腕を大きく後ろへ引き、肩ごと振りかぶる。空中で身体を反らし、溜め込んだ勢いを一気に解き放つ。腕がしなやかに振り下ろされ、乾いた音と共に、ボールは相手の腕を弾き、床へと撥ねた。
着地したミョウジさんは、止めていた息を大きく吐き出して前を見据える。ガッツポーズも笑顔も見せずに息を切らす姿に、口角が吊り上がった。
……腹が、減った
身体の奥が空っぽになったみたいに、腹がぐう、と鳴る。いつもの空腹や、部活あとの、当たり前のやつ。
けど、いつもの空腹と少し違う。内側から牙を立てる衝動がせり上がる、変な感覚。あの一撃が、俺の全部を持っていった。
――――――――――――――――――
マッチポイント、ナマエは乱れた息を整える為に息を吸って、吐いて、また吸う。
治のサーブがレシーバーの体勢を崩すも、きっちり上げられる。それをセッターが上げようと構える。スパイカーが走り込む。
あ、これフェイントだ。直感がそう言っていた。従兄弟にさんざんやられたフェイント。重い足を必死に動かして、腕を伸ばして飛び込めば予想通り、ボールはセッターポジションの治へ。
「決めて」
吐き出したそれは祈りじゃない。その一言は、命令にも似た、もっと絶対的な何かだった。角名と治の耳にしっかり届く。上げられたトスに、角名の上半身が空中でひねる。ブロックを嘲笑うようなターン打ちが、鋭くコート奥へ吸い込まれた。
ドン、と乾いた音。誰も、触れない。
静寂、それから遅れて、
「ッしゃあ!」
治の歓声が、爆発した。得点板が捲られる。試合終了だ。息を荒くしたまま、先輩達はその場に立ち尽くした。
やられた。一年に、女に。
「負け、た」
その事実だけが、敗北した面々の喉に重く引っかかっていた。文芸部の女交じりの即席チームに。頭の中で、何度も負けという言葉が跳ね返った。
最後のターン打ちが決まった瞬間の光景が、焼き付いて離れない。ブロックは締めた、コースも消した。なのに、抜かれた。角名に、自分達が嫌がらせをした、角名に。
そして、その前段階で、何度も何度も、あの文芸部の女に拾われた。
視線が引き寄せられるように向く。試合中の淡々とした顔もきっと勝ち誇った顔をしているはずだ。喧嘩を売ったのはこちらで、勝ったのは向こう。
なら、せめて悔しがる姿くらい、見せてやらんと気が済まん。
そう思って、見た。
ナマエは、こちらを見ていなかった。
ただ、角名を見ている。
そして、笑った。ほんの少しだけ、唇を緩めて、静かに。瞳はほんの少しだけ細められて、熱を帯びていた。
――――――――――――――――――
試合が終わってから、体育館はひどく静かだった。さっきまで渦巻いていた歓声も、荒い呼吸も、どこか遠くへ押しやられたように、誰もがただ立ち尽くしていた。
敗れた三年の一人が、ゆっくりと前に出た。角名の前で立ち止まり、頭を下げた。残りの二人もそれにつづく。
「……悪かった」
短い言葉だった。けれど、その一言で騒めきが広がる。
「どういうことや」
困惑と警戒が入り混じった声が飛ぶ。ナマエは喧嘩を売ってきたから買った、と言っていた。視線が行き交う中、治が汗を拭いながら口を開いた。
「先輩ら、この前の練習試合で角名がスタメン選ばれたん嫉妬して嫌がらせしとったらしいっすわ」
一瞬、空気が張りつめた。
「で、この勝負に負けたら謝るって約束やったんすよね?」
治の問いかけに、三人は頭を下げたまま頷いた。部員たちの目が、静かに鋭くなる。同じ部活の、同じユニフォームを着ていた仲間に向けるには、冷たい視線だった。
「ほんまか」
部長の低い問いかけに、言葉なく頷く。そして、小さな溜息。呆れ、軽蔑、様々な意味を含んでいた。そして部長も三人と同じ様に頭を下げた。
「気付けずすまんかった」
「ちょっ!止めて下さい。…俺は、普通に練習して、バレーしたいだけなので」
部長が頭を下げたことで周囲がどよめく。角名は慌ててそれを止めた。部長に謝って欲しいわけじゃない、頭を下げて欲しいわけじゃないのだ。
飾り気のない言葉だ。勝ち誇るでもなく、突き放すでもない。その言葉が、重く沈んでいた空気を少しだけ動かした。それを割くように、凛とした声がそれを制止させた。
「違うでしょ」
全員の視線が向かう。ナマエの淡々と、静かな瞳は部長ではなく、目を丸々とさせていた三人を見ていた。細い人差し指が、体育館の床を指した。
「負けたら土下座して謝るんでしょう?」
責めるでも、怒るでもない。ただ事実を読み上げるように。
「そっちが言ったのよ、負けたら土下座して謝るって。約束は守りなさいよ」
しん、と静まり返り誰かが息を呑んだ。冗談の気配はない。ナマエの瞳は揺らがず、ただ真っすぐに彼等を見ていた。その静けさが、余計に恐ろしかった。
てか今イイ感じに終わろうとしてたやんけ女王様かと事の成り行きを見守っていたアランが心の中でツッコんだ。
三年の一人が、ぎこちなく膝を折った。床に手をつこうとする。
「ちょっと!マジで止めて下さい!俺は別に土下座までして欲しいんじゃないんで!ミョウジさんも!俺は別にいいから!謝ってもらったからいいんだって!」
「でもこの人達が自分から土下座して謝るって言いだしたのよ?」
「いいから!!」
本気で焦りを見せる角名の声が思いのほか強く響く。いつも飄々としている彼がこんな姿を見せるのは珍しい。笑ったらアカン、でもオモロイ…。何人かは頬の肉を噛んで我慢した。
「そっか」
ナマエは短く返す。それに角名と部員達は肩の力を抜いた。
「じゃあ、」
まだあるのか。見守る部員達の心は一つになった。
「1575円」
1575円?随分具体的な数字に一同の頭に疑問符が浮かぶ。それとほぼ同時に角名と治が「あ、」と呟いた。そう、このバレー勝負は、角名だけの問題ではないのだ。
「何のために私が喧嘩を買ったと思ってるの。そっちが汚した本を弁償してもらうためよ。1575円」
ほら、と手を出すナマエの台詞で勘のいい部長は全てを察した。コイツらは彼女の本を汚して、勝ったら弁償してやる、とでも言ったのだろうと。正解である。堪えきれず大きく溜息をついた瞬間、三人は財布を取ってきます!と体育館をダッシュで抜け出し部室へと掛けていった。
「…ミョウジさん、ホンマにスマンかった…昨日から迷惑を掛けっぱなしで…」
本を弁償してもらえれば何でもいいです、とナマエはサラッと言う。部長は完全に頭が上がらない状態だ。侑が迷惑を掛け、角名の件で巻き込み、この二、三年が迷惑を掛け、本を汚し、あまつさえ弁償は勝負に勝ったらときた。頭痛を通り越し十円ハゲまで出来そうや、と部長が遠い目をする。
ちなみにナマエは先輩の一人に後ろから飛び蹴りをした事を黙っていた。聞かれていないからね。
また静かになった体育館。そこにぐうう、という間抜けな音が鳴り響いた。治が音の出どころ腹を押さえる。そんな治をちらりと見て、ナマエはそっと口を開いた。
「…ラムネならあるよ」
「ええのん!?」
「うん」
これ以上ミョウジさんに迷惑かけんなと言いたい。だが心労で口が開かなかった。そんな部長に気付かず、ナマエは体育館の入り口外に置いていた鞄からポーチを取り出す。大きなテカチュウがプリントされた、小学生が持ってそうなデザインのそれ。ファスナーを開けて、あるものを取り出して治に渡す。
「どうぞ」
「ありがとおミョウジさん~」
「俺もいい?」
「うん。ゴミ中に入れたままでいいよ、後で捨てる」
ポーチから個包装のラムネを取り出し、治と角名は口に入れた。疲れ切った身体に甘さが嬉しい。俺も欲しい、ソワソワする部員達に治がぎろりと目を鋭くしてるもんかとポーチを抱える。侑が俺も欲しいと零すが治は見せつけるようにもう一粒口に含んだ。お前のちゃうやろ!と心の中でツッコんだ。
そんな漫才もどきをしている中、ナマエは除菌シートで腕を拭きコールドスプレーを噴きかけていた。レシーブで真っ赤になった腕が痛々しい。やろうかと先輩の赤木が声を掛けるがナマエは首を横に振る。リベロの赤木はナマエのレシーブが一朝一夕で身につけたものではないと先程までの試合を見て悟っていた。
話しかけたい、でも可愛い女の子、後輩、ちょっと怖い。約束したからって先輩(しかも男)に土下座をさせようとする女の子。ちょっとじゃないです普通に怖い、でも…!と葛藤する。それを知ってか知らずか、北がナマエの横に立った。
「…ミョウジさん、今どっか別のクラブとかでバレーしとんか?」
「クラブは小学生の時ですよ。その時も試合とか出てないし、クラブにいた子にちょっとだけレシーブを教えてもらいました」
ナマエは北の意図が分からず、少し首を傾げたままNoを答えた。
「それ、入っとったから。他にもテーピングとかワセリンとか。中見てしもうてスマンな」
北の指すそれ、とは今しがた使ったコールドスプレーだ。小さく、持ち運びしやすいタイプ。透明のジップ付の袋に纏めてテーピングやら一式を入れていたから流石に目に付くだろう。ナマエはそれを一瞥して、気まずそうに口を開く。
「中学の時のお隣さんがバレー部なんです。一緒に帰るからってバレー部に連れて行かれて、体育館で本を読んで待ってたらマネージャーの真似事をさせられて」
それの延長で持ってましたとナマエが言ったタイミングで、財布を取りに行っていた三人が息を切らせながら戻って来た。試合後より息を荒くしているのでダッシュをしたのだろう。
「ス、スマン!1575円丁度なくて…!」
代表して三年が1000円札、500円玉、100円玉を手のひらに載せて差し出す。ナマエは財布から10円玉2枚と5円玉を取り出した。差額は返さなくてもいいと言い張る先輩のポケットに文字通りねじ込んだ。ついでにラムネも三粒も一緒に。蹴ったことの口止め料でもある。
「普段本って読みます?」
ふと、ナマエがどこか居心地悪そうに立つ先輩に尋ねる。お金を返してもらったからか、ぶっきらぼうなため口が敬語に戻っていた。唐突な問いに、先輩は目を瞬かせた。
「い、いや全く読まん…です」
たどたどしい返事。試合にも負け、嫌がらせも認め、バレー部全体に迷惑を掛けたことも、ナマエに悪いことをした自覚もある。だからこそ、妙に素直な声だった。それにナマエはそっか、と小さく頷いた。
鞄から取り出したのは、一冊の本。淡いブルーの表紙。けれどその色は、所々濃く滲んでいる。濡れて乾いた跡が、不規則な染みになっていた。ページも波打っていて、乾いて固くなった後が、買いを歪ませていた。
「なら、これ読んだら感想聞かせて下さい」
その音色は、先程土下座を要求した時と同じくらい静かで、けれどどこか柔らかい。責めるでもなく、試すでもなく。ただ、本当に興味がある、という顔だった。
先輩が戸惑いながら受け取る。ずしりと重いわけでもないのに、妙に責任のある重さに感じたのか、小さく、しかしはっきりと答えた。
「読み、ます」
「はい、待ってます。それじゃ私は帰ります」
くるりと、踵を返す。体育館の出口へ向かう足取りは、軽いわけでも、急ぐわけでもない。いつも通り、静かだ。角名が咄嗟にナマエを呼ぶ、まだ、お礼を言ってないのだ。
ナマエの脳裏に、最後の角名のスパイクが過る。上半身を使った、ターン打ち。踊っているみたいな、綺麗だったそれ。
振り返れば、焦った顔の角名と目が合う。
「角名くん、ありがとう」
お礼を言われるのは此方なのに。それを言いたいのに、角名の言葉が、止まる。
ふわり、と笑った。それは、今まで見せたどの表情とも違った。淡々とした無表情でも、面倒臭そうに少しだけ眉を寄せるでもなく、昼休みに角名と治に見せた静かな静かな微笑でもない。
ふわり、と花が開くみたいに。瞳の奥が柔らかく細まり、唇が弧を描く。皮肉なんてない、満面の笑み。体育館の蛍光灯の光を受けて、キラキラと輝いていた。
「貴方のバレー、好き」
その言葉には、嘘偽りも、駆け引きなど一切込められていなかった。勝ったから機嫌がいいとか、場の空気を和ませようとか、そんな意図をしていない。ただ、見たままをそのまま差し出したような声色だった。
「お邪魔しました」
ぺこ、と一礼して今度は振り返らずに体育館を出ていった。ぽかん、と角名の表情は固まったままだ。周囲のバレー部員たちも、同じ顔をしていた。
「…え?」
角名が小さく漏らす。そしてようやく、皆も角名に視線を向けた。どれも控えめで、感情を大きく外に出すことはなかった。だからこその反動か、誰もが羨ましい、そんな感情が胸に浮かんだ。あんな顔を、もっと見てみたいと思ってしまう。自分に一身に向けられたら、どんな気分になるんやろう、と。
「…ずる」
これを呟いたのは治か、侑か、はたして他の部員か。気にする余裕なんて角名にはない。自分だけに向けられた、あの笑顔。頬が、耳が、首筋まで一気に熱くなる。
たまらずしゃがみ込む。両手で顔を覆い、その場に小さくなった。誰かが自分を呼ぶ声がするが、気にしていられなかった。心臓がドクン、ドクン、と胸を内側から叩くみたに脈打つ。
軽くもなく、重くもない。媚びてもいないし、照れも一切ない。濁りのない、嘘が一滴も混じっていない、純粋な好意。
「ぁああぁぁ……」
言葉に出来ず、喉が詰まる。代わりに漏れたのは、ほどんど悲鳴みたいな、くぐもった声。それに周りがざわついた。更に角名は小さくなる。
「……むり…」
ぼそ、と床に向かって呟く。
この感情の名前を、知っている、知らないわけがない。けれど認めた瞬間、全部変わってしまいそうで、もう一度低く呻いた。

























