夜空を纏う
「猫猫、左手を出してくれ。」
事後の寝台の上、夜着を軽く羽織っただけの格好で、壬氏さまから声をかけられた。
手のひらを上にして差し出す。
くるりと上下を返されて、指に何か冷たいものが通された。
「猫猫、俺の妻になってくれないか。」
じっと見つめてくる黒曜石の瞳に、思わず半目になった。
「先日お返事しましたよね?『諾』と。」
だから、今夜も閨を共にしたのだ。
まだ『本番なし』ではあるものの、もう壬氏さまに全てを曝け出している。
それに、六礼に則った正式な儀式もすでに始まっている。
納なんちゃらという儀式まで進んだとか聞いた気がする。
詳細は忘れたが。
「それはそうなんだが、儀式だけではなく非公式(プライベート)でこれを贈っての求婚もしたかったんだ。」
そう言って壬氏さまは鷹揚に笑う。
「そもそも何です、これ?」
左手を掲げて薬指の根元にはまった金属の輪を見る。
太すぎず細すぎず絶妙な塩梅で指の根元におさまっている。
中心に小指の爪ほどの大きさの青金石(ラピスラズリ)が嵌っていて、透明感のない紺青の石のところどころに埋まった金色が蝋燭の光にちかりと瞬いた。
「婚約指輪というそうだ。西方では結婚の申し込みに宝玉のついた金属の指輪を贈るらしい。左手の薬指にはめるそうだ。左手薬指に指輪をつけていることが、婚約していることの証となる。」
「へえ、お詳しいのですね。」
「玉葉后に聞いたんだ。西都では最近流行り始めたらしい。」
「ありがとうございます。で、これはどうすれば良いのですか?」
「仕事中にはつけられないだろうから、俺に会いに来るときや婚儀のときはつけていてくれ。」
「分かりました。」
指を揃えると、婚約指輪とやらが中指と小指の根元に触れて、違和感がある。
「我ながら、お前によく似合ってるな。」
そう得意げに笑う壬氏さまの趣味が良いことはよく知っている。
「この石を選ばれたのには何か理由があるのですか?」
この御仁のことだ、きっと何か深い意味があるのだろう。
「西方には誕生石というものがあるらしい。月ごとに石が決められていて、生まれ月の石を身につけると加護があるという謂れがあるそうだ。」
「なるほど、十二月の石が瑠璃なのですね。」
「ああ、以前にやり手婆殿がお前はせっかちだから、生まれてすぐに歳をとったとはおっしゃっていたことを思い出してな。」
確かに私は年末の生まれだ。
茘では生まれた日ではなく、正月に一つ歳を重ねる。
つまり私は年の瀬に生まれてすぐに年を越して二歳になったわけだ。
そのことにかこつけて生意気だの云々と説教されたことから、生まれた日には嫌悪感に似た感情さえある。
とはいえ、この歳になれば、あの頃の婆の腹立たしさも分からぬわけではないのだが。
「気に入らなかったか?」
少し不安げな声で問われて首を振る。
「意匠も素敵ですし、何よりも壬氏さまに産まれた日に因んだ贈り物をいただくのは、面映い心地がします。」
決して望まれた命ではないと知っている。
産んだ女はともかくとして、周囲には疎まれた存在であったことは間違いがない。
初期ならば子はほぼ流せるというのに、あの女は隠し通して私を産んだ。
そのことが緑青館に与えた損害は、あの女ひとりで賄い切れるはずのない莫大なものだった。
産んだ女を姐と慕う妓女たちと引き取ってくれた羅門のおかげで今に至っているが、どこかで一つ道を間違えば、今頃は苦界の底でもがき苦しんでいたかもしれないのだ。
そう思えば、己の産まれた日に良い意味で想いを馳せることなどなかった。
だから、夫となる壬氏さまから、産まれた日に因んだ装飾品を贈られることに、存在を寿いでもらえたような意味を見出してしまう。
過大に捉えすぎだと我ながら思うが。
胸の底で、熱いものが蠢いている。
「よかった。」
安堵したのか、壬氏さまが私を抱き寄せる。
互いに夜着を羽織っただけの身体だ。
胸元が壬氏さまの固い胸板に触れる。
壬氏さまの腕がぎゅうっと強く背中に絡みつき、離されたときには互いの吐息に色が滲んでいた。
「もう一度いいか?」
普段より低めの声で問われる。
閨を共にするようになって知ったが、この御仁は欲情を抑え込むときに低めた声を出すのだ。
「もちろんです。」
ここで言葉を切る。
これから言うことは、このお方の気持ちを台無しにするようなものかもしれない。
でも、口下手の私には、己の産まれた月の石を戴く婚約指輪を贈られた喜びを表す方法を他に思いつかないのだ。
「あの、壬氏さま。今宵私を壬氏さまのものにしていただくことはできないでしょうか?」
口にするごとにどんどんと声が小さくなって行く。
壬氏さまが婚儀を挙げるまで私に挿入しないと決めたのは、『玉葉后の敵になりたくない』という私の希望を尊重し、避妊薬の服用や堕胎をさせたくないと私の身体を気遣った結果だ。
その心遣いを踏み躙るようなことを口にしていることは、重々理解している。
閨では男女は対等ではない。
男が貴人であれば尚更だ。
男が求めて女が応じる。
それが大原則だ。
高貴な男が自制しているものを女から求めるのは、恥を通り越して不敬でしかない。
返事はない。
あまり身分の差を感じさせない振る舞いをしてくださる壬氏さまだが、地雷を踏み抜いてしまったか。
返事のない壬氏さまに、羞恥と後悔に襲われながら下を向く。
太ももに当たる夜着をぎゅうっと握りしめた。
「一応意味を確認しておく。俺に本当の意味で抱かれてもいいという意味で言ったんだよな?」
地を這う声で問われて頷いた。
顔を上げられないまま、『是(はい)』と答える。
「いいのか?婚儀までに俺が暗殺でもされたとして、お前が俺の寵を本当の意味で受けていなければ、お前は自由になれる。他の男とも結婚できる。だが、今俺がお前を抱けば、お前は俺が婚儀までに死んだら一生籠の鳥なんだぞ。」
本当に優しい方だ。
夜伽を断られたあの夜から二年、理性だけで欲を抑えつけるこの方を見てきた。
「構いません。壬氏さまの隣だからこそ籠の鳥にでも何にでもなると決意したのは事実ですが、今更壬氏さまと婚姻できないからといって、他の男に嫁ぐことはありませんよ。」
これほどまでに信頼できる男は、私の人生にもう二度と現れないだろう。
身も心も委ねても良い、この人の隣に並び立つなら薬師としての道を絶っても良いと思える男は、この先もこの人だけだと思うのだ。
天上の男を知ってなお、他の男で満足できるとは思えない。
ひとりで生きていく術は、羅門が授けてくれた。
劉小母さんのように、薬草と戯れながら市井でひとりで生きるのも悪くない。
「だが、俺の手が付いたならば、俺の死後は後宮入りだぞ?主上の通いもあるかもしれない。」
壬氏さまはこうおっしゃるが、弟のものだった女を抱く趣味は主上にはないだろう。
診療所にいた女官たちのような扱いになるはずだ。
「今度後宮入りするなら、後宮医官も兼ねてというのは無理ですかね。」
羅門が現役でいられるのはあと十年もないだろう。
やぶとて二十年はいられまい。
そのための医官付き官女なのだから、その一期生が後宮にいるなら有効活用してもらいたいものだ。
「主上ならば、聞き入れてくださるかもしれないな。ところで、なぜ突然こんなことを言い出した?」
問われて逡巡する。
産まれた日云々の話は、閨でしたら興醒めするだけだ。
となれば、これだろう。
「壬氏さまの妻になるという約束の指輪だけを身につけて、初めて壬氏さまのものにしていただくのも一興かと思いまして。」
非公式(プライベート)な婚約としてこの指輪をくださったのなら、非公式に初夜を迎えても構わないのでは?
そう言い添えると、蝋燭の灯りでもわかるくらい、壬氏さまが赤くなった。
相手が壬氏さまならば、婚儀まで純潔を守り抜く必要はないと聞いているし。
「ん゛ん゛っ……!」
目の前の御仁から変な声が聞こえた。
子北州の砦から救出された後に馬車で聴いたような声。
「あ゛あっ……、もう……!」
天井を仰いでまた変な声を出した壬氏さまは、私の肩を掴んだ。
「猫猫、気遣いは嬉しい。とても嬉しい。だが、俺はお前とのことは全てが万全になってから進めたい。だから、婚儀まではこれまでどおり『本番なし』でいいか?」
血走った目と鬼気迫る声で問われて、頷く。
「誤解してほしくないのだが、お前を抱きたくないわけではない。お前を今すぐにでも抱きたい。だが、万が一のときのお前の幸せを考えると、今ではないと思っているだけだ。だから、その、指輪をつけて云々は初夜の儀まで待ってくれないか?だめか?」
権力者としてゆったりとした口調で話す壬氏さまを知るだけに、普段の三倍速で話す様子に笑いが込み上げてくる。
「かしこまりました。」
そう答えて、壬氏さまの胸板に額を預ける。
今更ながら、顔が熱くなってきた。
「『俺が贈った指輪だけを身につけた猫猫』か。お前は俺をその気にさせる才に長けすぎているな。」
色香が滴る声に顔を上げる。
蝋燭の淡い光でもわかるくらい赤い顔をした壬氏さまが、肩に手を伸ばしてきた。
羽織っていた夜着を脱がされる。
そのまま私の左手を取り指輪に口付けた。
「じゃあ、お前の提案どおりに愉しむとしようか。」
優しい眼差しの影に獣性を感じて、背筋がぞくりと粟立った。
壬氏さまを見上げる。
微笑みかけるとすぐに壬氏さまの整ったお顔が近づいてきて、背中がぽすんと音を立てて寝台に落ち着いた。
「他にも理由があるんだ。」
壬氏さまが覆い被さってきて、絹糸の髪が帳を形作る。
「瑠璃を選んだ理由ですか?」
「ああ、西方では宝玉には意味があるそうだ。瑠璃の意味は『真実』と『健康』だ。真実を解き明かす目を持ち、医の道に邁進するお前にこれほど相応しい石は他にあるまい。」
私の顔の横に腕をついた壬氏さまが吐息だけで囁く。
茉莉花の息が唇を撫でた。
「光栄です。」
語尾が壬氏さまの唇に消えていく。
舌先で唇をなぞられ、口を開けるとゆるりと舌が入り込んできた。
歯列を舐められ、舌を絡めて引き出される。
じゅっと音を立てて吸われて、背筋が波打った。
負けじと肉厚な舌の側面を尖らせた舌先でなぞってやる。
覆い被さる大きな身体が揺れて、くぅと、喉奥から甘えた声が漏れる。
相変わらず刺激に弱い方だ。
「本当はここまで伝える気はなかったんだが。」
唇を離した壬氏さまが徐に口を開いた。
「瑠璃は夜空にも喩えられる宝玉だ。『夜の君』とも呼ばれる俺の妻を飾るに相応しい石だと思わないか?」
理解するのに少々の時間が必要だった。
つまり、この御仁は私の誕生石とやらに託けて己の名にまつわる宝玉を贈ったということなのか?
思わず目の前の御仁を睨み上げた。
「瑠璃だけを身につけたお前を抱く初夜が楽しみだ。ひとまず今宵は予行演習といこうか。明日は休みだったな。眠れると思うなよ。」
耳元に吐息を吹き込まれ、耳たぶをかぷりと甘噛みされる。
「壬氏さまはお仕事でしょう?」
「なに、お前を存分に補充できれば問題ない。」
「問題多ありです!次はお付き合いいたしますが、終わったらお休みくださいませ。」
「つまり、俺が達しなければいいんだろう?我慢は得意だ。」
「お戯れはおやめください!」
諫言を聞き流して壬氏さまが胸元に唇を寄せる。
ああ、今夜は長くなりそうだ。
なお、婚姻後、装飾品を贈られるたびに「これだけを身につけた猫猫を抱きたい」と所望されるようになり、若い日の浅はかな言葉を後悔したのは別の話である。





















月の君の大恋愛も、今は相思相愛。猫猫、愛されていますね。🥰