「あ〜、続きっ!続きが気になる〜!」
「次は一体いつ出るんでしょうね。早めに予約しておかないと、またすぐ売り切れてしまうかもしれません!」
宮廷医局の仕事の昼休み。
医官付き官女らは、巷で流行りの恋愛を主とした小説本に夢中になっていた。猫猫は、少し遅めの朝餉を頂きながら、そんな二人の会話に耳を傾けている。朝から急患で呼ばれ、先ほどやっと一息ついたところだ。
(これはこれは、懐かしいな)
確かあれは、玉葉妃付けの侍女として後宮にいた頃だ。噂好きのお喋りな友人は流行り物にもすこぶる敏感で、いつも最先端の話題を提供してくれていたっけ、と物思いに耽る。果たして、今も元気にしているのだろうか──。
それにしても、何故こうも皆、恋愛小説に夢中になるのか。そういえば、あの隙のない初老の侍女も夜な夜なそういった類の本を読んでいたことを思い出す。どうやら年齢は関係ないようだ。
「あの、猫猫さんは読まないのですか?」
おさげの官女、妤がおそるおそる尋ねてくる。
「私?私はあまり恋愛小説には興味が……」
「えー!これ、本当に面白いですよ。恋を知らない主人公の女性が、物凄く美しくて皆の高嶺の花である男性と過ごすうちに、どんどんそれを知っていくお話なんです!」
瞳を輝かせて食い気味に熱弁してくれるのは、お喋りでしっかり者の長紗だ。彼女は本当にこういう話が好きそうである。
「……へ、へえ。そうなんだ」
大変ありきたりな設定に、可愛い後輩たちには悪いが猫猫は苦笑いを浮かべてしまう。そりゃそんな色男と共に過ごせば、普通の女ならころりと恋に堕ちるであろう。猫猫はうんうんと小さく頷く。最後の一口となった麵麭を口へ放り込み、そっと席を立った。
「そういえば、この女性……どことなく猫猫さんに似てるんですよね」
「あっ私も思った。特に初期の頃なんか、愛や恋など知りません、私には仕事という生き甲斐がありますので!な態度ですもんね」
(私ってそんななのか)
終わらない二人の会話に半分耳を傾けつつ、使った食器を片してゆく。そういえば、昔読んだあの悲恋の小説について、壬氏と同じような感想を抱いたななどとぼんやり思い出す。
(恋……ねぇ)
いつだったか、白鈴小姐ちゃんが恋とは何かを熱く語っていたような……ええと何て言っていたっけ、と考えを巡らせていると、ぽつぽつと屋根に当たる水音が聞こえてきた。どうやら降り出してしまったようだ。
(雨か)
「あちゃ……降ってきちゃいましたね。困ったなぁ。私、傘持ってないんですよ」
「私たちはこの後非番だから走って宿舎に戻ればいいんですけど、猫猫さんは大丈夫ですか?」
「あー、うん、まあそのうち止むよ。大丈夫」
申し訳無さそうに足早に食堂を後にする二人を見送った後、猫猫は窓の外に視線をやる。薄暗い空を背景に、しとしとと降る雨粒に既視感を覚えた。
(そうだ……あの時)
猫猫は、頭の片隅にある古い記憶をゆっくりと紐解いていった。
◇
夜の宴の準備で慌しい、緑青館の玄関口。
顔見知りの禿らがこちらの存在に気付いてはいるものの、軽い会釈だけでぱたぱたと駆けていく。その中にいた、綺麗に身なりを整えた最高級の妓女に猫猫は少々急ぎ気味に声をかけた。
「小姐ちゃん、いつもの薬持ってきたよ」
「あらー猫猫、わざわざごめんねぇ。今日はお得意様が豪奢な宴をご所望でね、皆その準備で手が離せなくって。薬、届けてもらえて助かったわ」
そう言ってぎゅっときつく抱きすくめられる。少し懐かしさのある彼女特有の甘い匂いに、花のような香の匂いが入り混じっている。流石は緑青館の稼ぎ頭、耐性のある自分も少々くらっとしてしまう。
「問題ないよ。でも、今日はこの後来客があるんだ。急いで帰らないと」
「来客……覆面の貴人様かしら?ふふっ、あの方また猫猫に会いにくるのね」
「あー、いや。どうせまた厄介ごとでも押し付けにくるんだよ」
「あらあら〜、またそんな風に言っちゃって」
口元に細い指を当て上品に微笑む白鈴をちらりと見遣り、猫猫はさっと視線を下げた。
十日に一度という頻度で、壬氏は今も花街の薬屋を訪れる。
先程言ったように本当に厄介な事件を持ってくることもあるし、ただ世間話をしにくるだけの時もある。この前なんて、睡眠不足解消のためだと、あんな狭い薬屋の小上がりで膝枕のみを所望された。
(一体、何がやりたいんだか)
今日壬氏が薬屋に来るという知らせは、数日前に届いた文によるものだ。白娘々事件の後始末があるためか、今一段と政務が忙しいらしい。そのため、薬屋に来るのは実は随分と久しい。
どうせまた眼の下に濃い隈を拵えてくるのだろうと予想し、壬氏にはよく効く薬湯を出してやるつもりだ。これからその準備が待っている。
(早く帰らないと)
猫猫はやれやれと首をすくめる。そんな猫猫の様子を見ていた白鈴は、どこか楽しそうに笑い始めた。
「貴人様、猫猫の気を引きたくって必死なのねぇ。何とか時間を作って会いに来るなんて、まるで初めて恋を知った少年のようだわ」
「……は?」
(恋、だって?)
壬氏から自分に向けられる気持ちについて、今更知りませんわかりませんというのは流石に酷いとは思う。そんなことはとても口に出来ない。
だが、あれが恋というものかと問われると、その判断は自分には些か難しい。上手くは言えないが、恋とは何か違う気もしている。そう、上手くは言えないが。
顎に指を当て考える猫猫に、白鈴も考えを整理するようにして言葉を続けた。
「うーん、でも恋なら自分が満たされたいはずよね。会いたい、触れたい、手に入れたいって気持ちも勿論あると思うけど、あの方のは……少し違うような……?」
「そ、そうなの?」
つい聞き返してしまい、あっと口に手を当て驚く猫猫に、白鈴はふわりと微笑んだ。
「だって、あの方と猫猫を見ていると、自分のことよりも相手のことを考えているってこっちにまで伝わってくるもの。……猫猫、貴方が一番よくわかっているんじゃない?」
「そ、れは……」
欲しいものは何でも手に入る、国で二番目に尊い御方。だが、命令で片付けるなんて決してしない、それが壬氏だ。急に自信の無い壬氏の少し寂しげな表情がじわりと浮かんできた。
その時、突然窓の外がびかっと強い光を放った。間髪あけず、空を裂くような轟音がけたたましく響く。
「きゃっ!雷!?」
小姐や禿らが小さく悲鳴を上げる。次の瞬間、ざああという強い雨の音が聞こえてきた。
「あら、困ったわね。結構強いわよ」
確かにこれは困った。こんな雨の中、今外に出たらずぶ濡れになるのは間違いない。しかし、もうすぐ壬氏が薬屋に来てしまう。
(どうしようか)
「猫猫、どうする?傘なら貸すけど」
「あ、いや。少しだけここで雨が弱まるのを待たせてもらうよ」
「そう、わかったわ」
仕事があるからごめんねと足早に白鈴は行ってしまった。猫猫は、一人娼館の玄関口で時間を潰すことにした。
(雨、すごいなぁ)
徐々に強まる雨足に、流石にこれでは壬氏も来られないだろうと猫猫は考えた。いくら馬車とはいえ、やんごとなき御方がこんな雨の中花街へ来るなど、周りが許さないだろう。
ふと、先程脳裏に浮かんだ、最後に別れた時の壬氏の寂しげな表情がまた浮かぶ。まるで雨に濡れた子犬のようなあの表情に、猫猫は何故か胸が締め付けられた。
その時、がちゃっと勢いよく玄関の扉が開いた。強い風と共に雨が吹き込み、床を濡らす。思わず目を瞑ったが、視界の先にはずっと考えていた人物の姿が。
「……壬氏さま、なんで」
半分身体を濡らした壬氏の装いは、先日西都を訪れた時の従者の変装だった。右頬に火傷痕をつけ前髪を下ろしているが、それが雨に濡れぽたぽたと雫が垂れている。傘はささなかったのだろうか。さしても意味がないほどの雨だったのか。
「はぁ……ここにいたのか。薬屋に行ったら、お前も誰もいないから」
そう言って、ふるふると頭を振り雨を払う。
「……あの、雨は?」
「ああ、薬屋に着いてすぐに雷と共に降り出してな。お前が帰れなくなってるんじゃないかと、急いで探しにきてみたんだが……」
壬氏は、ふっと肩の力を抜くかのように小さく笑った。
「良かった」
すっと伸ばされた手が猫猫の頬に触れそうなところで、ぴたりと止まった。どうしたのかと首を傾げると、壬氏が気まずそうな顔をする。
「どうされました?」
「あ、いや」
宙に浮いた手を取ると、少し湿っていてひやりと冷たかった。季節は夏になろうとしているが、今日は冷えるしこの雨だ。身体も濡れていて、このままでは風邪をひいてしまう。猫猫は急いで手拭いを取り出し、濡れた壬氏を拭いてやる。右頬の化粧が水に濡れ、落ちかけているのがわかる。酷い有様だ。
「大人しく薬屋で待っててくだされば良かったのに」
「…………」
「壬氏さま?」
濡れた前髪で顔が覆われて表情が見えない。少し背伸びしてそっと髪を掻き分けると、整った顔が眉をぎゅっと寄せているのが見えた。顕になった瞳はゆらゆらと揺れ、じっとこちらを見つめている。
「猫猫が、この雨の中外にいるんじゃないかと思ったんだ」
「…………そうですか」
(莫迦ですね)
そう言いそうになって、寸のところで言葉を変えた。猫猫は、胸がぎゅっとなるのを感じ、これはまずいと胸をおさえる。
さっき白鈴小姐があんなことを言ったからだ。猫猫はその熱い視線から逃れるように視線を下げた。
(本当は、もう気がついているのかもしれない)
壬氏が自分に向けているものが、何であるのか。それが何であれ、この温かさを自分が心地良いと思ってしまっていることに。
◇
「……そんなこともあったなあ」
弱まることのない雨を見ながら、猫猫はぽつりと呟いた。
焼けた鉄のような熱さを避け続けた自分もいた。だが、今はその熱がずっと冷めないでいてほしいとすら思っている。
(私も絆されたものだな)
自分の中の壬氏への感情はやはり恋ではないと思う。では、何なのか。そんなことを考えていること自体が自分でも信じられない。
ふうと一つ息を吐いたところで、窓の外の思わぬ光景に目を見張った。
「え」
誰もいない雨の中、傘を差し、ぱたぱたと足早に駆けているのは紛れもない壬氏だ。猫猫は考えるよりも先に足が動いていた。食堂から急いで外に出ると、ちょうど壬氏に出くわした。
「ああ……良かった、いた」
壬氏が安堵しながら、息を吐く。
「どうしたのですか、こんなところに」
「いや……医局に用があっていったら猫猫の姿が見えなくてな。聞いてみたら、行方不明と言われて」
「いやいや、誰ですかそんな適当なことを言った莫迦は……あっ」
ふとお調子者の莫迦な同僚の顔が浮かび、猫猫は半眼になる。
「天祐」
「…………当たりだ」
二人ははあと大きなため息をつく。
猫猫は顔を上げると、濡れた壬氏が見えた。あの時もそうであったが、傘を差しているのに濡れすぎではないだろうか。普段自分で傘を差すことのないご身分だから仕方ないのだろうけど。そもそも、皇弟であろう御方がこんな一官女のために。誰かに見られたらどうするのだ。
さっと手拭いを取り出し拭いてゆくと、壬氏がふふっと微笑んだ。
「なんか……前にもこんなことがあったなぁ」
「…………そうでしたっけ?」
「ああ、確かあれは花街の薬屋の──」
猫猫にされるがまま身体を拭かれる壬氏は、どこか懐かしそうにあの昔話を始めた。その穏やかな表情に猫猫は目を細め、知らないふりをして話に耳を傾けた。
雨は少し弱まり、しとしとと静かに振り続けている。
(雨も悪くないな)
これから始まる雨季に備え、壬氏に傘の差し方を教えてやろうと思う猫猫であった。
終
























