蝉の鳴き声が響く夏の朝。私は、いつものように泥で汚れながら畑を耕していた。土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。昨日は雨が降っていたためか、雨の残り香が微かにした。
入道雲を背に畑を見渡すと、誰かがこちらに向かってきた。
父の来訪者だろうか。私の父は顔が広いため、よく近所の人から村の離れに住んでる人まで色んな人が訪ねにくる。気前のいい自慢の父だ。
「父に何か御用でしょうか?」
「……君だな?」
凛とした声が影を差す。汗を拭い、顔を上げると、そこには絵巻から飛び出してきたような美しい男が立っていた。
皺一つない軍服に、服の上からでもわかる体格の良さ、欠点のない完璧な美貌だった。
「私は、大日本帝国海軍少佐・綾瀬篤人だ。」
「ご両親から既に了承は得ている。....君にはこれから私と見合いをしてもらう。」
「...はい?」
持っていた鎌を落としそうになる。この男は急に何を言ってるのだろうか。
「では、今夜料亭で....」
男は、唖然としている私を置いたまま引き返して行った。突然のことに頭が動かなくなった。
----------それが“見合い”の始まりだった------------
《村の古い料亭、座敷の一室》
畳の上に座っているだけなのに、汗が止まらない。向かいには軍服姿の綾瀬少佐。その隣には、満面の笑みを浮かべた両親の姿。
「いやぁ…こんな立派なお方に娘が見初められるなんて父親として誇らしい限りですよ〜。ははっ」
父の笑い声につられるように、母は「なんて男前なの♡」と目にハートを浮かべている。二人とも完全に綾瀬少佐に魅了されていた。
大抵の女は綾瀬少佐ほどの男を目の前にするとすぐに、恋に落ちるだろう。だが、私には何も響かない。だって、私には....慕っている人がいる。いや、正確には"居た"のだ。
柔らかな茶髪に、日に焼けた肌。どんな時も優しく、私を照らしてくれた太陽のような幼馴染------桐生 朔
泣き虫で意地っ張りな私を見捨てずに、受け止めてくれた私の初恋の人。私は彼を愛していた。将来は、彼と結婚するのだといつまでも夢見ていた。
しかし、秋が終わり、冬を迎える頃に彼は、自らこの世を去った....。幼い頃から複雑な家庭環境に身を置いていた彼は、いつのまにか心を壊してしまったのだろう。
どうして助けられなかったのかと、愛する人を失った私は、自分が生きている意味さえも分からないようになった。
彼を恋しく思いながら、食事が何も喉を通らなくなり、やつれた私を心配した両親は、色んな所へ連れて行ったものの、何もかも無意味に感じてしまった。
そんなこんなしているうちに年月は経ち、私は彼への恋心を胸に秘めたまま一人で生きていくと決め、新しい夏を迎えた。
「君は何も言わなくていい...私が全て決める。」
冷たい声。でも、その声には狂おしいほどの熱が宿っていた。
私を見つめる熱い視線が、体に絡みつく。逃げ出したい、だが、逃がさないというような圧に体が動かない。
「……君が欲しい」
耳元で囁かれたその声に体が強張る。蛇のような視線で見つめてくるくせに、表情は微動だにしない。
彼の言葉を聞いた両親は完全に舞い上がっていた。お酒を注ぎながら「すぐにでも式を……」なんて言ってる。
部屋に一人取り残されたように、私の心臓はまるで銃声ように鳴り響いていた。
《式当日の夜、綾瀬家の屋敷・寝室》
白無垢を脱いだ私は、幼馴染への恋心を忘れられずに、まだ現実を受け入れられなかった。
見合いの後、私は、何度も両親に反対した。しかし、綾瀬少佐に心酔してしまった二人は私の意見を聞き入れてくれなかった。もしこの絶好の機会を逃してしまえば、誰にも嫁に貰えなくなってしまうと。
両親への淡い期待を瞬く間に裏切られてしまった私は、自分には拒否権がないのであれば、体は渡しても心は渡さないと覚悟した。そして、今に至る。
部屋は広く、調度品は上等で、この上ないほど豪華な部屋だが、心なしか全てが空虚に感じた。
袴を着た彼が部屋に入って来る。----相変わらず読めない表情をしたまま、高そうな木造の椅子に腰掛け、私をじっくりと見つめていた。意を決して、彼に向き合う。
「……この結婚、家のためなら、私はそれで構いません。愛なんて、なくても……」
言葉が空気に消える前に、椅子の音が鳴った。視線を上げると、畳を強く踏みつけた彼が目の前に立っていた。
「……お前は、本気で言っているのか?」
怒りに震えた声。今まで見たことのないような顔で私を見下ろしていた。
「俺が、好きでもない女と家の存続の為に結婚したと、そう言いたいのか?....俺がお前を愛していないと?」
「……そうです。私は…あなたのこと何も知りませんし、私達は面識もなかったはずです。どうして、私を愛してると言えるのです?あなたは、家を繋ぐ為の女が必要だっただけでしょう?、、、それに、」
言い終える前に腕を掴まれる。逃げられないほどの力。ぐっと引き寄せられたかと思えば、彼の顔が迫ってくる。
「……ふざけるな」
骨の髄まで響くような低い声だった。
「お前を手に入れるために、どれだけ手を尽くしたと思っているんだ。……お前の心に忘れられない男が居るのは分かっている。それでも、俺には、お前だけしかいないんだ、、、」
怒りと悲しみと執着が混ざった瞳が私を捉えていた。
「俺は、家のためにお前を嫁に貰ったのではない!お前を初めて街で見た時から、頭から離れなかった。こんなこと初めてだったんだ。その時から、お前だけが俺の世界になったんだ。...」
強く抱きしめられる。私の背中に回された腕は微かに震えていた。
「……お前に拒まれるくらいなら、この家も、地位も、すべて捨ててやる。たとえ、その心が手に入らなかったとしても、絶対に手放さない。」
「だから、どうかお前だけは俺を見離さないでくれ、、、」
愛して欲しいと彼の唇が懇願するように私の呼吸を奪っていく。いつの間にか、体が火照ったように熱くなる。
「覚えておけ。お前が私から逃げても、私は、お前を地獄の果てまで追いかけてやる。何があっても逃しはしない。お前は私のものだ。」
彼の背中越しに天井が見える。欠けた心の穴を埋めるように、口付けが深まっていった。どこか拗れてしまった私達は、夜と共に夏の夜に沈んだ。





















