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ある日、コナンと哀と阿笠博士はとあるレストランを訪れていた。そこでバッタリ羽田秀𠮷と会ったため食事を共にしていたのだが、間の悪いことに、その店で殺人事件が起きてしまった。コナンは事件に興味を持ち、周辺を観察していたが、ふと秀𠮷の顔が曇っていることに気づいた。何かに気付いたのだろうかとコナンは声をかけてみた。
「うーん……。」
「どうしたの羽田さん?」
「あのね、この後出かける約束をしていてこの店を待ち合わせ場所にしていたんだけど、事件起きちゃっただろう?聴取とかあるだろうし、別の日にしてもらわないとなあと思って。」
「それってあの交通課のお姉さん?」
「い!?いやいや違うよ!?今日は友人と!」
事件と関係ない話題だったのでコナンがついからかって問いかけると、秀𠮷はブンブンと首と手を振って否定した。
「ふうん?」
「あっ、その顔は信じてないね?……でも本当にどうしよう。せっかくスケジュール合ったのに。」
秀𠮷が頭を抱えて嘆いていると、涼やかな声が響いた。
「頭を抱えてどうしたんですか、秀𠮷くん。店の中で待っていると言っていたはずでは?」
コナンが振り返ると、そこには美しい人がいた。長めの前髪を右分けにして耳にゆったりとかけている美人は一瞬女性にも見えたが、服や体格をよく見れば男性であることはすぐにわかった。何より声がかなり低い。
「た、龍明さん!」
(すげー綺麗な人だな……。本当に由美さんじゃなかったんだ。でもこの顔どこかで……。)
秀𠮷に龍明と呼ばれた男は嬉しそうに涼やかな吊り目を細めて微笑んだけれど、店の周りのパトカーや警官を見ると怪訝そうな顔をした。
「久しぶりですね。今日はお誘いいただきありがとう御座います。しかし随分と物々しい雰囲気ですが、何かあったのですか。」
「それが……。」
秀𠮷が事情を話すと、先ほどの彼のように龍明も困った顔をした。
「……それは残念ですね。せっかく君にいただいたシャツも着てきたのに。」
「わ、嬉しいです!やっぱりそのカーディガンに似合います。」
(どういう仲なんだこの2人?)
「初めまして、ボク江戸川コナン!2人ともとても仲良しさんみたいだけど、お兄さんも秀𠮷さんみたいに将棋をしているの?」
興味津々で話しかけたコナンの言葉に龍明はもにょっと唇を歪めた。しかしすぐに笑顔を取り戻しかがんでコナンに目線を合わせる。
「初めましてコナンくん。やはり将棋と違って知名度が低いのは悔しいですね。……私は囲碁のプロ棋士で、色々仕事をしているうちに羽田7冠と友人になったのですよ。」
ちょっと拗ねているようにも見える龍明を見かねて秀𠮷がフォローを入れた。
「正直に言いましょうよ、本因坊ですって。コナンくん、この人は囲碁で7冠を取ってる凄い人なんだよ。」
それでやっとコナンは既視感の正体に気がついた。
「あ、テレビで見たことあるよ〜!前髪おろしてるからわかんなかったや、あはは……。」
彼はタイトル連覇を何度も成し遂げている現代最強の碁打ち、本因坊龍明だった。試合やテレビ出演で見た彼は髪をオールバック気味にセットしていたから、ぱっと見気づけなかったのだ。
「そうですか。改めて、性は諸伏、名を龍明と言います。君もぜひ一度囲碁を学んでみてください。面白いですよ。」
「えっ、諸伏……?」
その名乗りと苗字を聞いたコナンの頭に、特徴的な髭の警部が思い浮かんだ。頭の中で2人の顔を比べてみるとよく似ていた。
「龍明さんってもしかして長野県警に親戚とかいない?」
「え?ああ、それは諸伏高明警部のことでしょうか。」
「そう、その人!」
「彼は私の双子の兄弟です。まさか彼の知り合いとは、世間は狭いものですね。」
「双子!?」
コナンは目を丸くして、思わず龍明の顔をじっくり見てしまう。
(龍明さんの方が若く見えるけど髭が無いせいか。それで諸伏警部はあの髭を……。)
コナンの驚く顔を見た龍明は楽しそうに笑った。
「ふふ、やはり”小さきものはみなうつくし”。子供は一挙手一投足がとても愛らしい。」
「あ、枕草子ですね。でもコナンくんはかわいいだけじゃないですよ、すごく頭が切れるんですから。」
「そ、そんなことないよ〜……。」
秀𠮷の言葉をあははと適当に笑って誤魔化すコナンだったが、ふと哀が気配を消すように博士に隠れているのに目が止まった。彼は秀𠮷達にことわってそちらへ戻るとこそっと問いかけた。
「どうした灰原。」
哀は力無く応えた。
「感じるのよ。奴らの気配を。あの人が来てからだわ。」
彼女の視線の先には龍明がいた。秀𠮷と楽しげに何か話しているようだ。
「あの人って、諸伏さんは羽田名人の友人で家族は刑事だぞ。」
「彼から感じたわけじゃないの。もっとこう、何かしら?視線というか。」
「じゃあ奴らに狙われて……?」
「さあ。でも話を聞く限り囲碁の実力者なんでしょう?その頭脳を欲しがっているのかも。」
2人でそっと龍明の様子を伺った。やはり約束はリスケになったらしい。秀𠮷が平に謝り倒していた。
「本当にすみません、僕の勝手で。」
「君が事件を起こしたわけでもありませんし、そう謝らないでください。また予定を合わせましょう。」
「はい……帰りはどうします?もう付き人くん帰しちゃいましたよね。」
「まだ近くにいるでしょうから……少々失礼、彼にメッセージを送りますね。」
「大変ですね、1人で出歩いちゃいけないなんて。」
「ふふ、高明が過保護なんですよ。一応名の有る人間なんだから気をつけろとうるさくて。あ、すぐ来られるみたいです。」
「早いですね!?」
「呼ぶまでは好きにしていいといつも言っているのですけれど、たいてい近くにいてくれているみたいで。とても優秀で私も助かっています。」
付き人がいるならそうそう危険は無いだろうとコナンが安心しかけたその時、哀の顔色が真っ青になった。
「諸伏さん、お迎えに来ました。ずいぶん早いお呼びですけど……?」
背が高くカジュアルな装いにキャップを被った青年で、帽子の陰からチラリと見えた優しげな垂れ眉とクリっとした丸い目が印象的だった。
「江戸川くん、あの人よ!」
「な、っ……?」
哀が小声でコナンに呼びかけた。コナンは予想外の事態に驚いた。
「間違いないわ。見たことない顔だけど、組織の息がかかった人なのかも。」
そんな2人の様子をつゆしらず、龍明は青年と話している。
「ありがとうございます、広田くん。予定が変わって今日はもう帰りますのでよろしくお願いします。」
「はい。羽田さんもご一緒に?」
「いや、僕はもう少しここにいなければならないので大丈夫です。」
コナンは青年をつぶさに観察した。一見は特におかしなところはない。しかし何かしら護衛の心得がある人間特有の隙の少なさは特徴的だった。人当たりの良さそうな顔をしているけれどその実全方向に注意を払っているのがわかった。そして龍明が呼んだ名前も気にかかった。
「広田……。」
「ああ、雅美さん—明美さんの偽名と同じだな。偶然で片付けるにはちょっと引っかかるぜ。」
コナンと哀の視線にもおそらく気づいているだろうに、広田という男は彼らの方を一瞥もせずに龍明を連れて去っていった。
時は3年ほど遡る。男が1人、廃ビル街に向けて疾走していた。夜の繁華街の人並みを縫って進むとどんどん人気は少なくなっていく。彼はNOCであり、目立つ死に方も情報漏洩も避けなければならなかった。男の名はスコッチ。本来の名は諸伏景光と云う。
(拳銃を持ってこなかったのは失敗だったな。)
男の主な獲物はスナイパーライフルだったし、逃げ始めた時にはそんなことを考えてはいられなかった。しかし万が一の時に情報端末もろとも自殺する手っ取り早い手段がないのが今更になって悔やまれた。
(一か八かわざと追手を引きつけて銃を奪うか……。)
考えながら走っていたせいで周囲への注意がおろそかになった一瞬、彼は何かにぶつかった。
「うっ……。」
「あっ!」
かなりの勢いでぶつかった相手は青年だった。少し相手の体格がスコッチより小さく、ぶつかった拍子に尻餅をつかせてしまったらしかった。彼のものと思わしき大きめのボストンバッグがそばに転がっている。
「だ、大丈夫ですか!?」
追われている身で呑気にはしていられないが、明らかに自分の過失であったのでスコッチは迷わず声をかけて手を差し伸べた。手を掴み返してきた青年が着ている上等そうなロングカーディガンの袖口が指先に触れて、スコッチはその感触に覚えがあることに気づいた。
(あれ、これって……。)
「ええ、軽く尻をついただけですから。……景光?」
身を案じる声に応えて顔を上げた青年は目を見開いてスコッチの本名を口にした。はらりと顔を滑り落ちた射干玉の前髪の下にあった青年の顔は、
「た、龍明兄さん……!」
スコッチ—否、景光の兄のものだった。
景光に手を引かれて立ち上がった青年—龍明は、掴んだ手を離さぬまま頭から靴の先までじっくり景光を見た。
「やはり景光なんだね。急に連絡を絶って、どこで何をしていたんだ?高明も心配している。」
「その、あの……。」
景光は久しぶりに見る兄の顔に嬉しくなり、髭以外は龍明とそっくりなもう1人の兄—高明の顔も思い浮かべた。もちろん話したいことはいくつもある。しかし、追われている今はゆっくり話す時間などない。兄は景光の焦りを汲み取ったのか、しどろもどろの景光にそれ以上問いかけようとはしなかった。
「随分急いでいるようだな。……まあ生きている事がわかっただけでもよしとしよう。では今日のところはここで。でも後で連絡はしてほしいな。」
深く聞いてこない兄の優しさが嬉しい。けれどここで別れてしまえばきっとこれが最期の会話になるに違いなかった。
「兄さ、……っ!」
切なくなって引き止めようとしたその時、景光の背に怖気が走った。追手の微かな気配を感じ取ったからだ。
「景光?」
不自然に言葉を途切れさせ顔面を蒼白にした景光を見て、龍明は目を細めた。そして次の瞬間に、自身の荷物を拾い上げ景光の手を取った。
「えっ。」
「ついてこい。」
龍明はそのまま来た道を早足で戻っていく。その先は小さな工場やビルが立ち並んでいたはずだった。そこを抜けていくと通りもある。元々彼はそちらから歩いてきたのかもしれなかった。
「は、離してよ。」
「離さない。」
掴まれた手を振り解くのも躊躇われて小声で頼むも一蹴され、されるがまま景光は手を引かれていった。
「うん、やはりここだな。」
「何が、っうわっ!?」
急に立ち止まったかと思えば、人のいないビルを囲う高めの塀の内にいきなり押し込まれ、景光は目を白黒させた。龍明はそこでやっと掴んでいた手を話し、次いで鋭く言い放った。
「着ているものを脱げ。」
「ええっ?」
「時間がないんだろう、早く。ああ、下着はそのままで構わないよ。」
そう言いながら兄がボストンバッグから取り出したものを見て、やっと景光は彼の意図を察し、あの一瞬でだいたい事情を把握した兄に素直に驚嘆した。
「背筋を伸ばして軽く腕を開くんだ。そう、そのままで。」
龍明が取り出したのは着物だ。彼は大三冠の栄誉を持つ囲碁のプロ棋士であり、それを着ることがそれなりにある。しかし人に着せることはあまりないだろうに、彼は手早くそれを景光に着付けていった。
「やはり少し小さいか。でもこのくらいなら問題ない……さあ、どこかきつかったり動かしにくいところは?」
「ない、です。」
「よろしい。それならこれを。」
差し出されたのは使い捨てマスクと中折れ帽だった。あまりにも至れり尽くせりで思わず目が潤んだが、すぐに受け取って身につけた。
「行こうか。」
龍明は景光がマスクと帽子を身につけたのを確認して、先ほど入ってきた方とは違う方向へ向かった。着物の裾に気を配りつつついていくと。
「こっちにも出入り口があったんだ……!」
「先ほど通った時に見かけたのを思い出してね。」
うまいことショートカットして通りに向かうことも考慮していたなんて、と景光は兄の思慮深さと記憶力に舌を巻いた。高明には劣ると昔から言っていた龍明だが、弟から見るに得意分野が異なっているだけのような気がしている。
無事に通りまで出て、ほっと2人で息をつく。龍明が隣の景光を見上げてこそりと話しかけた。
「私は電車で帰るつもりだったが、すっかり乗り損なってしまった。今日は適当なホテルで泊まるつもりだけれど、一緒に来るかい?」
「う……。」
景光は迷った。この周辺に留まるよりはこの場を離れる方が良いとは思う。着物は返したいから兄についていくのがなおベターだ。しかしそれでは完全に彼を巻き込むことになり、事情を話さなければならなくなるだろう。気づかなかっただけで兄の姿が追手に見られている可能性もある。そうであればこのまま別れることは兄の命も危険に晒すことになる。こうして迷っている間にも追手が迫ってきているかも……と景光が考えたところで、龍明が困ったように笑った。
「意地悪を言ったね。君のその優しさは美徳だけれど、もう少し自分勝手にしてもいいんだよ。つまり、困ったときは遠慮なく人に頼れということだ。」
「え?」
「先ほどダブルの部屋を予約したから、行こうか。近くに手頃な価格帯の服屋もあるから明日そこで色々買うとしよう。」
龍明はひらりとスマートフォンを持った左手を振って見せた。はなから彼の中では決まっていたことだったのだ。
そうして難なくチェックインをすませて部屋にたどり着いた2人。龍明から先にシャワーを使うように促された景光は脱衣所でしばしぼうっとしていた。
(こんな幸運があっていいものだろうか。いや、まだ危険は去っていないけれども。でも今すぐに失うと思っていた命が助かったのはあそこで龍明兄さんと会えたおかげだ。)
帯を解いて体からするりと着物を落とす。借り物だからシワを作りたくはないが、どうにも疲れてしまっていた。
(頼れ、か。)
彼はいつもそう言ってくれていた親友の顔を思い浮かべる。彼が組織に疑われるようなことになっていなければいいと思った。彼にはまだ生きていることや兄を巻き込んでしまったことを伝えなくてはならない。今後の身の振り方も一緒に考えてもらいたかった。頼る時は今だよなと呟くと、少し元気が出てきたような気がしたのだった。
(一体景光は何に巻き込まれているのだか。警察官をやめたと前に言っていたが、こうなるとそれも本当か怪しいところだ。)
シャワーを浴びる景光を待つ間、ベッドに腰掛けた龍明は額に左手の人差し指を当てて考えていた。考えるときはいつもそうするのが癖だった。
(あの顔色の変わりようからして命を狙われる事態になったのは間違いなさそうだ。だがあんなに思い詰めた顔をして……味方はいなかったのか?それとも味方に裏切られたのか?)
脳裏を過切った嫌な想像に龍明は顔を顰めた。当たっていないことを願うように目を閉じ、数多の盤面を予測することに慣れた自身の思考をフル回転させる。いくつも恐ろしい想像が湧いて出てくるが、少しでも弟の利を確保できる手を考えることに集中した。
(高明の力も借りたいところだ。)
幾つ歳を重ねようが、少々濃いめに顎髭を生やしていようが景光は龍明の可愛い弟だ。彼のためならなんだってしてやりたかった。それは高明とて同じこと。高明と龍明が会うたび話題になるのはいつも弟のことだ。放っておいても景光の行方を追い始めることは高明の性格上あり得ることだった。
(少し時期が早くなっただけのこと、いずれは首を突っ込んでいただろうからとっとと巻き込んでしまおう。)
母の胎内にいた頃からの付き合いである片割れを思い浮かべて、龍明はスマートフォンを手に取った。昔から彼に対して遠慮というものは存在しなかった。
シャワールームから戻った景光の顔色は、ホテルに入る前と比べていくらか良くなったように龍明には思われた。
「シャワー、先に使わせてくれてありがとう。兄さんも使うでしょ?」
「ああ。眠くなったら寝てしまっても構わないからな。」
景光と入れ替わるようにシャワールームに向かった龍明をぼうっと見送って、はっとした彼は慌てて2人分の荷物や部屋の中をチェックして盗聴器や発信機の類がないことを確認した。ひとまず組織の視界から脱していたことに安堵のため息が漏れる。
(バーボンに—ゼロに連絡しよう。)
景光には、情報を漏らしたのは零ではないという確信があった。彼からは自身の身を案じる連絡がスマートフォンに何件も入っていた。潜入用のものだけでなく、諸伏景光としてのものにもだ。
『今どこにいる』
『逃げているのか』
『とにかく連絡をくれ』
『なんとかするから』
『死ぬなヒロ』
景光には離れているのに切羽詰まった零の顔が見えてくるようだった。早く安心させてやりたいが、相手の居場所がわからない以上電話は危険だろうと思い簡潔なメッセージを送った。
『〇〇ホテルの×0×。フロントに話はつけておくから安室と名乗れ。合図は4回。 H』
その頃バーボンは、ライを見つけて後をつけていた。一斉連絡が入ったとき近くにいたはずだし、彼にもスコッチを殺すつもりだと連絡をしてきていた。しかしそのライといえば、しばらくは誰かを追うように明確な意思を持って動いていたが、途中からそれが探すような行動に変わっていた。
(見失ったのか?ライほどの男が。)
バーボンは認めたくなかったがライの能力はスコッチを上回っている。だからこそ後をつければ確実にスコッチを見つけられると思ったのに。
(もしかしてもう組織の他の幹部に殺されてしまっている?)
一番近かったのは確かにライだが、今日のスコッチの居場所を知っている人間なら誰でも彼を殺しに行くことはできる。先に見つかってしまっていれば終わりだ。これ以上ライを尾行するのは得策ではないと考えたバーボンはすぐに踵を返し、一度人通りのある道に出た。もう一度スコッチに連絡しようとスマートフォンを手に取ると、彼から着信が来ていることに気づいた。
(Hの署名も入っているな。時間はさほど経っていない……。書かれているホテルはここから徒歩でも向かえる。零の方のスマホに送られてきているってことはヒロ本人で間違いなさそうだ。)
一度深呼吸して、零は自分の服や持ち物に何も仕掛けられていないことを確認して歩き出した。
「安室様ですね。はい、承っております。」
ホテルのフロントで言われた通り名乗るとすぐに先へ通された。しかし安堵するにはまだ早い。警戒しながら進み、彼の指定した部屋を4回ノックした。
「龍明兄さん、さっき信頼できる人に連絡したよ。」
シャワーを終えて戻ってきた龍明に景光がそう声をかけると、龍明は少し不安そうな顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。
「そうか。その人は確実に君の味方をしてくれるんだね?」
「うん。いつくるかわからないけどノックを4回したらその人だから。」
「気をつけて聞いておこう。私はもう少ししたら一眠りさせてもらうから、その前に少し寝ていたらどうだ。」
きっと自分を休ませて代わりにゼロを待とうとしてくれているのだと分かる気遣いを感じたけれど、まだ緊張と警戒を解くことはできず、落ち着かない自身の心拍の音がうるさかった。
「……今はちょっと寝られそうにないや。でもありがとう兄さん。」
その後は龍明が軽く荷物の整理をしたり、景光がホテルのメモを一枚とり明日以降調達したいものを書き留めたりして更けていく夜を過ごしていた。無言の部屋の中、呼吸の音を遮るように扉を叩く音が響いた。
(音は4回。ゼロだ!)
景光が龍明の方を見ると、ばっちり目が合った。龍明は素早く静かに扉からは死角になるベッドの陰に隠れた。景光は念の為兄に借りたカッターナイフを持って扉に向かった。
ドアスコープに映るのは親友の姿。しかし油断せずにチェーンをつけたまま扉を開いた。
「ヒr……、スコッチ!」
「……コードネームはもういいよ、ゼロ。」
ぽそぽそと言葉を交わし合えば、本人かどうかは一瞬でわかった。景光がドアチェーンを外すと、滑り込むように零は中に入った。施錠はオートロックに任せて、2人はどちらからともなく相手にしがみついた。再会の喜びを声高に表すことはできなかったけれど。
「すまないヒロ、情報漏れを防げなかった。それにすぐ追いつけなくて……!」
「いいんだ。本来見捨てるのが当然なんだよ。でも、来てくれて嬉しい。ありがとうゼロ。」
「殺されてなくて本当によかった。でもお前どうやって追手を撒いたんだ?腕利きのやつも多かったのに。」
「ああ、それは—。」
零が疑問に思っていたことを聞くと、景光は少し体を離してベッドのほうを振り向いた。
「兄さん、出てきて大丈夫だよ。」
「……こんばんは。」
「兄さんって、……長野の?」
目を丸くする零の様子に、高明には直接会ってもらったことがあったが龍明のことは話しか聞かせていなかったと景光は思い至った。
「前に話したろ、双子なんだって。こちらは龍明兄さん、東京に住んでるんだ。」
「初めまして。ゼロ、というと確か景光が仲良くしていると言っていた子でしたね。」
「初めまして、降谷零です。今は彼の仕事仲間でもあります。」
「それでねゼロ、偶然兄さんと会って—。」
「景光。」
眉尻を下げて零に話す景光を遮って、龍明はピシャリと言った。
「味方も来てくださったならちょうどいい。すべて事情を聞かせてもらおうか。ゼロくんもそれでいいですね?」
「「は、はい……。」」
2つ備え付けられていた1人掛けのソファに零と景光を座らせ、龍明は片方のベッドに浅く腰をかけた。
「それで、どういうわけなんだ?先ほど殺されるだのなんだのと聞こえた気がするが。」
「兄さん、実はオレ……。」
景光がかくかくしかじかと経緯を話すと、龍明は端正な顔を歪めた。
「予想はしていたがなんとも厄介な。」
「御免なさい、巻き込んで。」
「いや、私が進んで巻き込まれにいったのだからいいんだ。それよりも身内に売られた可能性が高いほうが問題だ。……捜査官を簡単に捨て石にするような判断をするところに景光を帰したくない。」
「まだそうと決まったわけではありませんが、僕も同感です。少なくとも情報がどこから漏れたのか分かるまでは動かないほうがいいでしょう。」
その時、部屋の中に着信の音が響いた。景光も零もバイブレーション機能を使っているため、音が鳴るのは必然龍明のものだ。
「おや、これはいいところに。せっかくだからビデオ通話にしよう。」
「えっ!?兄さんそれ誰なの?」
「頼れる名軍師だよ。」
景光と零の動揺を放って、龍明は通話開始のボタンをタップした。
『龍明!夜中に突然メッセージを送ってきたかと思えば、あれはいったいどういうことなんだ。』
「高明、それは本人の口から説明させるから落ち着いて、ね。」
『そこに景光がいるのか?』
画面の先にいたのは景光のもう1人の兄、高明だった。軽く身支度を整えただけなのだろう、シャツを着ているが髪はセットされていなかった。
「た、高明兄さんに知らせちゃったの……?」
「もちろん。荒事に関しては私よりよっぽど適任だし、何より家族で1人だけ仲間はずれは良くないからね。」
微笑む龍明に対して景光は冷や汗が止まらなかった。だって高明の方が物騒だから。そうしている間にも高明は何度も景光の名を呼んでいた。どんどん険悪になる声に、景光は観念して顔を見せた。
『……景光、景光?無事なのか?景光、顔を見せなさい。』
「はい。ここにいるよ……。」
『……ああ、よかった。大きな怪我はないようだな。それで、一体どういうことなんだ。』
景光は零にも手伝ってもらいつつまたかくかくしかじかと話した。高明はそれを静かに聴き終えると一つ頷いた。
『事情はわかった。密告者を今すぐにでも締め上げてやりたいところだが、急いてはことを仕損じると言う。まずはじっくりと情報の出どころを探るのが得策だろう。……それは降谷くんにお任せします。もちろん私にも協力させてください。』
「は、はい。」
急に指名された零は姿勢を正して返事をした。高明の口元は薄く笑っているが目がちっとも笑っていない。それに気づいているのかいないのか、龍明は何でもないような顔で高明に話しかけた。
「しばらく景光は私のそばにいればいいな。」
『ああ。君には付き人の1人や2人いたところで違和感はないし、敵方に姿を見られた可能性が少なからずある以上それなりに周囲を警戒した方がいい。景光、変装はできるのか。』
高明の問いに景光は困って頭を掻いた。
「完全に別人になれるかというとちょっと。髭剃って目元と髪を変えるくらいなら。」
『十分だろう。あとは帽子か眼鏡で顔を見えにくくすればすぐにはわからないはずだ。そちらは君の分野かと思いますがどうでしょう、零くん。』
「そうですね。よほど変装慣れした人間が相手でなければ問題ありませんし、龍明さんの周囲にいるならそれほどの実力者とかち合うことはそうそうないと思います。」
こうして、夜も更けていく中4人で景光の新たな顔を作り上げたのだった。
龍明の付き人という立場を得たはいいけれど、それなりに名乗る機会があるのが問題だった。景光は偽名に悩んでいた。
「うーん、名前どうしようかなあ。スコッチの時のは使えないし。」
「当たり前だろう。そうだな……。」
相談に乗っていた零は少し考えてぽんと手のひらを打った。
「……広田、なんてどうだ?お兄さんたちがうっかりヒロミツと呼びかかっても途中で切り替えやすいぞ。」
「あ、それいいね!そしたらいっそ下の名前は光(ひかる)にしちゃおうか。縮めたらヒロミツになるからあだ名ってことで誤摩化せるよね。」
「広田光、悪くないんじゃないか?……俺も堂々とヒロって呼べる。」
「っ!そうだね。……それはいいな。」
2人は顔を合わせて微笑む。生きて相手の名前を呼べることの尊さを噛み締めていた。
「うちに来てくれたら俺もいっぱいゼロのこと呼ぶからいつでも来いよ、ゼロ。」
「ああ。次来る時はいい知らせを持って来られるように頑張るよ。」
設定(回を追う毎に公開される情報は増えます)
諸伏龍明(もろふし たつあき)
男性、年齢は諸伏高明と同じ。
身長は高明より少し低く、体格も彼と比べるとやや細身で薄い。2人の顔はそっくりで、龍明は髭無し。
漢籍も嗜む程度に読んでいるが、どちらかというと古典文学の方が好き。
囲碁のプロ棋士でめっちゃ強い。
試合ではオールバック、それ以外は前髪をゆるく左に流して耳に掛けている。もみあげ長め。
おっとりしているけれど些細な違和感や変化は見逃さない。
プライベートでは高明と景光にもらったお高めのロングカーディガンばかり着ている。見かねた知り合いからたくさん服をもらいがち。
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