奈落の地下には、用途不明の部屋が多い。
拷問部屋は分かる。嫌だが分かる。
牢も分かる。
薬品庫も分かる。
分かりたくはないが、役割としては分かる。
問題は、それ以外だ。
何も入っていない小部屋。
壺だけ置かれた部屋。
古い行灯が三つだけ置かれた部屋。
棚はあるのに何も置いていない部屋。
逆に、何かを置きすぎていて用途が完全に死んでいる部屋。
秘密組織というものは、どうしてこう、間取りで雰囲気を出そうとするのか。
不動産屋に出す気か。
奈落地下、湿気あり、日当たり最悪、隣室から悲鳴あり、拷問部屋徒歩一分。
事故物件どころではない。事故が継続勤務している。
その日、俺はそんな奈落式ミステリールームの一つの前で足を止めた。
扉は古い木製だった。
金具は錆びている。
下の方には湿気で膨れた跡があり、開閉するたびにたぶん嫌な音が鳴る。
こういう扉は、大体ろくでもない。
昔話なら妖怪が出る。
奈落なら上司が出る。
どちらがマシかは議論の余地がある。
ただ、俺が足を止めた理由は扉ではなかった。
中に、人の気配があった。
奈落の者ではない。
いや、気配の消し方だけなら奈落のものだった。
足音はない。
呼吸も薄い。
衣擦れすら、石壁の水音に紛れるほど小さい。
だが、それでも違った。
奈落の地下に馴染みすぎた俺の身体が、先に気づいた。
この気配は、知っている。
知っているから、嫌だった。
非常に嫌だった。
ここ最近、俺の周りの訪問イベント発生率が高すぎる。
最初は銀時だった。
夜のかぶき町で、人を殺した直後に会った。
再会場所としては最低評価である。
死体つき、血の匂いつき、仮面つき。入場特典が全部不穏。
次に来たのは松陽先生だった。
来ちゃいました、ではない。
絶対に、来ちゃいました、ではない。
奈落に自主出頭する恩師、ジャンルとして強すぎる。
そのうえ拳骨で俺を石床に埋めた。俺は地中に実るタイプではない。たぶん。
その次は桂小太郎。
あいつは捕まっていたのではない。
奈落の地下牢を勝手に占拠し、非常口の木札を貼り、最後には欠席理由書の提出を要求して去っていった。
捕虜という概念を正面から殴って帰るな。
その次が坂本辰馬だった。
港の護衛任務だと思ったら、取引相手が快援隊だった。
あいつは笑いながら十年分の後悔を持ってきて、硝子の音を遠ざけ、最後に船の合図まで置いていった。
つまり、全員おかしい。
来るなと言っても来る。
黙れと言っても喋る。
帰れと言っても居座る。
あの連中、聞き分けの悪さを必修科目にしていたのか。
だとしたら、俺は単位を落としたかった。
落としそこねたから今こうなっているのかもしれない。
だが。
この気配だけは。
違う。
本当に違う。
銀時の気配は、胸の奥を殴ってくる。
先生の気配は、息を吸わせて、同時に詰まらせる。
桂の気配は、勝手に俺を引き戻してくる。
坂本の気配は、出口の方角を思い出させる。
けれど、この気配は皮膚が先に覚えていた。
まだ扉越しで、姿も見えていない。
何も起きていない。
なのに、俺の身体だけが勝手に距離を測り始めている。
近づくな。
見ろ。
何か出る前に止めろ。
俺は扉の前で、しばらく動けなかった。
中にいる。
分かる。
分かりたくないのに、分かる。
奈落のものだった。
それも、よく知っているものだった。
なのに、今は奈落の外にいるはずの気配だった。
俺は口の中で、名前になりかけたものを噛み潰した。
声には出さなかった。
出したら、扉の向こうにいるものを認めることになる気がした。
いや、もう身体は認めている。
懐。
袖。
指。
その三つを思い出した時点で、答えなんて出ていた。
それでも。
この扉の向こうだけは、認めたくなかった。
俺は息を吐いた。
吐いた息が、喉の奥で少し引っかかった。
逃げるなら今だった。
見なかったことにするなら今だった。
正体を認めずに済ませるなら、今しかなかった。
俺は扉を開けた。
予想通り、古い資料室だった。
石壁に棚が並び、巻物と帳面が積まれている。
奥には小さな机。
壁の灯具の火が一本だけ灯っていた。
薄い光の中で、黒い衣の男が棚の前に立っている。
振り返る。
静かな顔。
昔と同じようで、十年前とは違う顔。
朧さんが、そこにいた。
「遅い」
第一声がそれだった。
反射で、喉が返事を作りかけた。
……遅れました。
任務帰りみたいな声が出かけて、奥歯で噛み潰した。
身体どころか、喉まで昔の位置に戻ろうとしている。勤勉すぎる。
俺は扉を閉めようとした。
隙間が指一本分になる前に、背後から声が飛ぶ。
「待て」
「待ちません。今の第一声、退勤の合図でしょ。遅いって言われた時点で今日の勤務評価は終わりました。お疲れ様でした」
言いながら、さらに扉を引こうとした。
閉まらなかった。
朧さんが触れたわけではない。
ただ、その声を聞いただけで、俺の手が一瞬止まっていた。
腹が立つ。
こういうところだけ、まだ身体が律儀に反応する。
俺は諦めて扉の中に入った。
人目につかないよう、一応鍵をかけておいた。
「相変わらず口だけは動くな」
「口以外が動くと危ないんで。奈落仕様です。便利でしょ」
朧さんは答えなかった。
資料室の湿気が、いつもより重く感じた。
投げた軽口が、返事になる前に床へ沈む。
銀時なら雑に蹴り返す。
桂なら真面目に拾って謎の理屈をつける。
坂本なら笑って別の場所へ投げる。
先生なら微笑んで天然ボケで返してくる。
朧さんは、落ちたギャグを見ない。
見ないくせに、踏んでいる。
それが一番嫌だった。
「何してんですか」
俺は言った。
「奈落の資料室で不法侵入。古巣だからセーフみたいな顔してますけど、普通にアウトですよ。鍵返した?退職時に社員証とか備品、返却しました?」
「調べ物だ」
「図書館行ってください」
「ここにしかない」
「でしょうね。ここにしかないもの、大抵ろくでもないですからね」
朧さんは棚から一冊の帳面を抜いた。
その手つきに迷いはない。どの棚に何があるか分かっている手だった。
奈落の人間だった手。
俺に仮面を渡した手。
針を打った手。
命令を下した手。
俺の身体が、ほんの少し固まる。
手を見ただけで、思い出す。
針の軌道。
指の角度。
急所を外して痛みだけを残す打ち方。
任務に響かない場所を選ぶ冷たさ。
いや、冷たさと言うのも違う。
あれは業務だった。
処置だった。
教育だった。
奈落式の、最悪な教育。
教育という言葉に謝れ。
先生に謝れ。
いや、俺も謝れ。
思考が昔と同じ道を通りかけて、俺は笑った。
「で、今度は何の調査ですか。俺の返品手続き?保証書なら十年前に崖で落としましたよ。たぶん瓦礫の下です。発掘調査からお願いします」
「お前の薬だ」
呼吸が止まった。
止めたのではない。止まった。
胸の奥が、吸い方を忘れたみたいに固まる。
舌の奥に、ありもしない苦味が戻る。
腕の内側が先に冷えた。
薬品庫の匂い。
瓶の音。
舌の上に残る苦味。
注射の針。
腕を押さえる手。
吐くものがなくても吐いた夜。
寒さ。
熱さ。
視界の白さ。
命令が痛みとして身体を叩く感覚。
全部が一瞬で戻ってきた。
それから、ようやく俺は笑った。
「何それ。十年遅れの健康診断?採血あるなら先に言ってくださいよ。俺、注射苦手なんで。まあ苦手とかいう可愛い段階は十年前に卒業してますけど。卒業証書燃やしたい」
朧さんは俺を見た。
何も言わない。
その沈黙が嫌だった。
「やめてくださいよ、その目」
「どの目だ」
「全部分かってますみたいな目。あんたにそれされるのが一番嫌なんですよ」
「お前の投薬記録を探している」
「探さなくていいです」
「必要だ」
「必要ない」
「薬の流れは、外からも少し掴めている。坂本の流通網が拾った記録と、ここに残る記録を合わせれば条件が見える」
「坂本って」
思わず名前が出た。
「待ってください。何でそこ繋がってるんですか」
朧さんは答えない。
答えないのが答えだった。
「俺を通じて知り合い増やさないでもらっていいですか。人脈じゃないんですよ、俺。名刺交換の会場じゃないんですよ、俺の地獄」
あの男は、港に船だけ置いたわけではないらしい。
笑いながら取引し、硝子の音を遠ざけ、合図だけ燃やした顔をして、その裏で薬の流れまで触っていたのか。
「坂本辰馬、物流で人の地獄に触るのやめてほしいんですけど。薬の流れまで商売ルートに乗せるな。俺の人生、勝手に荷札つけて回さないでもらっていいですか」
「商いではない」
「そこは否定するんですね」
「逃走時に反応が出る。命令条件が残っている。薬の切れ目を利用できるが、反動が大きい。成分と条件が分からねば、運び出した後に制御できん」
「運び出す前提で話さないでもらっていいですか」
声が尖った。
自分でも分かった。
「誰が運び出されるって言いました?坂本の船も、桂の分類訂正も、先生の“また後で”も、銀時の生存確認も、全部こっち未承認です。会議に呼べ。俺の人生の会議に俺を呼べ」
「呼べば反対する」
「しますよ」
「だから呼ばん」
「正論の顔して本人確認すっ飛ばすの、流行ってるんですか?」
朧さんは答えず、帳面を懐へ入れようとした。
その瞬間、俺の身体が動いた。
考えるより早かった。
右手が刀へ行く。
鞘から刃が半分抜ける。
足が一歩踏み込む。
距離を詰める。
懐へ伸びた手を止める。
針か。
薬か。
拘束か。
何かが出る。
出る前に止めろ。
懐。
手。
指の角度。
袖の影。
次に出るのは、針かもしれない。
薬かもしれない。
何もないかもしれない。
でも身体は、何もない可能性を勘定に入れなかった。
気づいた時には、刃先が朧さんの喉元へ向いていた。
俺の左手は、自分の右手首を掴んでいた。
止めている。
止めきれてはいない。
刃が震える。
喉が乾く。
心臓が、嫌な音を立てる。
銀時の時は、近づかれたら危ない、だった。
先生の時は、触れられたら反射が出る、だった。
桂の時は、命令に割り込むために自分を噛んだ。
坂本の時は、距離を取ればまだ立っていられた。
でも、朧さんは違う。
懐に手を伸ばされただけで、身体が殺し方まで出してくる。
命令反応というより、もっと古い。
もっと深い。
地獄の教育が、個人名で登録されている。
朧さん。
懐。
針。
刃物。
薬。
止めろ。
落とせ。
生き残れ。
その全部が、同じ場所から鳴っていた。
朧さんは動いていなかった。
避けることもできたはずだ。
止めることもできたはずだ。
針を打つことも、腕を折ることも、床に沈めることも、この人ならできた。
でも、動かなかった。
俺の刃を、喉元に受けたまま、静かに見ていた。
その静けさが、また腹立たしかった。
「……懐、アウトです」
俺は笑った。
声が、かすれていた。
「今の、懐に手伸ばしたんでアウト。レッドカード。退場です。再入場不可。次やったらレビュー星一つです」
「そうか」
「そうかじゃないんですよ」
「懐に反応するのか」
「心にメモ取るな」
「取る」
「取るなって言ってんだろ」
声が荒くなった。
刃先が揺れる。
俺は必死で手首を押さえた。
やめろ。
動くな。
違う。
この人は敵じゃない。
敵だった。
いや、敵じゃない。
分からない。
朧さんは、俺の刃ではなく、俺の手首を見ていた。
その目が、静かに変わる。
大きくは変わらない。
表情はほとんど動かない。
ただ、ほんの少しだけ、奥が暗くなる。
それだけで分かった。
今、この人は思い出している。
俺の身体が、何を覚えているのか。
誰の手で、それを覚えたのか。
奈落だ。
定々だ。
天導衆だ。
薬師だ。
見張りだ。
そして、朧さんだ。
俺は笑った。
「どうしました?自社製品の反応がよくて感動しました?」
「……」
「ほら見てくださいよ。懐に手ェ入れただけでこの通り。十年保証どころじゃない。奈落の教育、品質高すぎ。口コミで広めます?“懐から何か出そうとするだけで対象が勝手に防衛反応を示します。おすすめです”って」
「やめろ」
低い声だった。
俺は止まった。
朧さんは、珍しく、少しだけ声を荒げていた。
荒げたと言っても、ほんのわずかだ。
銀時の怒鳴り声に比べれば水滴みたいなものだ。
先生の拳骨に比べれば注意書き程度だ。
でも、朧さんの声としては、十分だった。
「それを、そういう言い方で扱うな」
「どの口が言ってんですか」
自分でも、驚くほど早く返していた。
「その反応作った側が言うんですか。朧さん、それ言うのマジで違いますよ。品質管理してた側が今さら“商品をそんな風に扱うな”って、どの棚から出てきた倫理観ですか。倉庫整理した方がいいですよ」
朧さんは黙った。
俺は刃を下ろそうとした。
下りない。
手が震える。
薬が切れかけている。
命令は鈍い。
だから止められる。
だが、完全には戻らない。
身体の奥に残った道が、まだ懐を警戒している。
朧さんの手を。
針を。
薬を。
痛みを。
俺は笑った。
「いやー、すごいな。十年経っても教育って残るんですね。松陽先生の教えより残ってるかもしれない。そろそろちゃんと先生に謝った方がいい。謝罪会見の会場どこですか。奈落地下大ホール?」
「屍」
「何ですか」
「刀を下ろせ」
「できたらやってます」
言ってしまった。
空気が止まる。
俺は自分の声に、腹が立った。
できたらやっている。
本音だった。
言いたくなかった。
朧さんは一歩だけ、俺から離れた。
ゆっくりと。
懐から手を抜く。
何も持っていない掌を、こちらに見せる。
それだけの動作だった。
なのに、身体の強張りがほんの少しだけ緩んだ。
こういうことをされるのが一番嫌だ。
俺の反応を見て、距離を取る。
手を見せる。
懐に何もないと示す。
刺激を避ける。
痛みの少ない方法を選ぶ。
丁寧に扱うなよ。
下手に優しくするなよ。
そういうのが一番きついんだよ。
刀は、ようやく少しだけ下がった。
完全には下りない。
俺の右手はまだ、朧さんを敵として計算している。
「……朧さん」
俺は言った。
声が、思ったより低かった。
「何だ」
「今さら何を返しに来たんですか」
自分で言って、嫌になった。
何でそんな言い方になる。
返してほしいみたいじゃないか。
そんなつもりはない。
ないはずだった。
「薬の記録ですか。命令の抜け道ですか。俺に残した針の後始末ですか。それとも、十年前に俺から持っていった何かですか」
朧さんは黙っている。
俺は刃を下ろしきれないまま、息を吐いた。
「銀時が来るのは分かるんですよ。あいつは聞き分け悪いから。先生が来るのも、百歩譲って分かる。いや分からないけど、先生だからってことで処理できなくもない。桂はまあ、あいつは捕まってる自覚ないから。坂本は規模がデカいから。高杉はたぶんどっかで斬りに来るだろうし」
そこで、喉が詰まった。
「でも、朧さんだけは、そっち側に立ったら駄目でしょ」
言ってしまった。
言った瞬間、胸の奥がぐらりと揺れた。
俺は笑った。
笑ったつもりだった。
「朧さんは違うじゃん」
刃先がまだ下がりきらない。
「朧さんがそっち側に立ったら、俺、どこに怒ればいいんですか」
朧さんの顔は変わらない。
俺はもう一度笑おうとした。
うまくいかなかった。
「俺たち、そんなんじゃなかったですよね」
声が、少しだけ震えた。
腹立つ。
何で震える。
「探すとか、待つとか、助けに来るとか、そういう湿度高いやつじゃなかったでしょ。朧さんは使う側で、俺は使われる側で。必要なら任務、邪魔なら針、壊れたら処置。そういうやつだったでしょ」
朧さんは黙っている。
「俺、それで整理してたんですよ」
笑いが戻る。
今度は無理やりだった。
「便利だったんです。朧さんのこと、嫌いでいられるから。怖い人で置いておけるから。何考えてるか分かんない奈落の上司でいてくれるから。俺を人間扱いしない人でいてくれたから、こっちも“ですよねー”って言えたんですよ」
刃先が、ようやく少し下がった。
でも、完全には下ろせない。
「なのに、何で来るんですか」
朧さんが、俺を見ている。
「何で、懐に手伸ばしただけで俺がこうなるって見て、そういう顔するんですか」
声が詰まった。
「自分がやったこと、確認しに来たんですか」
止まれなかった。
言ってしまった。
部屋の空気が冷えた。
朧さんは、すぐには答えなかった。
灯りが小さく揺れる。
やがて、朧さんは静かに言った。
「そうだ」
俺は黙った。
「確認しに来た」
喉が鳴った。
朧さんは続ける。
「お前の状態を。薬の条件を。命令の残り方を。そして、私が何をしたかを」
一人の名前だけを睨んでいれば済むなら、どれだけ楽だっただろう。
でも、俺の身体に残っているものは、そんなに分かりやすくなかった。
命令の声も、薬の味も、押さえつけられた腕の重さも、針の気配も、全部別々の場所から来ている。
別々の場所から来ているのに、最後には同じ身体の中に残った。
だから、怒りの置き場所がひとつに決まらない。
決まらないのに、懐へ伸びる手だけは、俺の身体が勝手に答えを出す。
「お前が懐に反応することも、薬の名だけで呼吸を止めることも、針を見ずとも身体が先に警戒することも、私が知らぬふりをしてよいものではない」
「……今さら?」
「今さらだ」
即答だった。
俺は言葉に詰まった。
言い訳しろよ。
命令だったとか、当時は必要だったとか、上からの目があったとか、お前に利用価値があったとか、そういう最悪な言い訳を出せよ。
そしたら俺は怒れる。
軽口も出せる。
笑える。
嫌いでいられる。
今さらだ、なんて認めるな。
「ふざけんなよ」
低く出た。
「謝るつもりですか?やめてくださいよ。謝られたら、こっちが許すか許さないか考えなきゃいけないじゃないですか。選択肢増やすのやめてもらっていいですか。こっちはもう収納がいっぱいなんですよ。トラウマで」
「謝りに来たのではない」
「でしょうね。朧さんが謝罪会見とかしたら天変地異ですもんね。会場に除湿機置きます?」
「お前をここに置かぬために来た」
頭が真っ白になった。
言葉の意味は分かった。
分かったから、分からないふりをした。
「……回収ってこと?」
「そうだ」
「言い方、最悪ですね」
「お前にはその方が動きやすいだろう」
「勝手に配慮しないでもらっていいですか。配慮の形が歪すぎる」
「助けに来たと言えば逃げる」
「言わなくても逃げます」
「ならば探す」
「追うじゃなくて?」
「追えば、お前は止まる。探せば、道を選べる」
「急に言葉選び上手くなるなよ。調子狂う」
やり取りは軽い。
軽いはずなのに、息が苦しい。
朧さんは一歩も近づかない。
距離を保ったまま、こちらを見ている。
それが嫌だった。
もっと冷たくしてほしい。
命令してほしい。
痛めつけるなら痛めつければいい。
そしたら分かりやすい。
なのに、朧さんは動かない。
俺の反応を待っている。
待つな。
俺に反応を選ばせるな。
「俺、朧さんのこと嫌いでいたいんですけど」
「嫌っていろ」
即答だった。
「その方が動けるなら、それでいい」
「そういうとこですよ」
声が、少し荒れた。
「そういうとこが一番嫌なんですよ。こっちが何言っても受け止めた顔すんな。受け止めるならもっと傷ついた顔しろ。いや、やっぱしないでいい。されても困る。でも何も変わらない顔で“嫌っていろ”とか言うな。どうすりゃいいんですか、こっちは」
「そのまま動け」
「会話してます?」
「している」
「してねぇよ。介護ロボの方がまだ情緒あるわ」
「情緒で薬は抜けん」
「今その話してない」
「している」
朧さんは、机の上に帳面を置いた。
懐ではなく。
俺の視界に入る場所へ。
ゆっくりと。
「記録は一部消されている。だが、流れは追える。外の情報と合わせれば、代替薬の条件も見える」
「外って、坂本ですか。あいつ、マジで何運んでるんですか。夢と希望と薬物情報?」
「少なくとも、今のお前に使えるものは運んだ」
「そういうところが怖いんですよ、あいつ」
俺は刃をようやく鞘へ戻した。
金属音が小さく鳴る。
それだけで、肩の力が抜けた。
抜けた瞬間、膝が少し笑う。
薬の切れ目が近い。
最初に、指先の感覚が遠くなった。
冷えているのか、熱いのか分からない。
皮膚の下だけが妙にざわついて、骨の内側を細い虫が這うみたいに落ち着かない。
喉の奥が乾く。
唾を飲み込もうとして、うまく動かない。
視界の端が、薄く白む。
まずい。
俺は瞬きをした。
一度。
二度。
部屋の輪郭が戻るまでに、少し時間がかかった。
耳の奥で、命令の残響が濁り始めている。
戻れ。
従え。
処分しろ。
まだ声ではない。
ただの圧だ。
言葉になる前の、濁った音。
それが頭の奥で膨れて、吐き気みたいにせり上がってくる。
膝に力を入れた。
入れたはずだった。
なのに、床が少しだけ遠くなる。
いや、違う。
俺の身体が、勝手に沈みかけている。
最悪だ。
よりによって、この人の前で。
「薬が切れそうか」
朧さんが言った。
俺は笑った。
「さすが元上司。勤怠と薬切れに敏い。ブラック企業の管理職適性ありますよ」
「座れ」
「嫌です」
「倒れるぞ」
「立ったまま倒れるタイプの芸かもしれない」
「座れ」
声が低くなった。
命令。
身体が反応しかける。
俺は歯を食いしばった。
やめろ。
命令するな。
その声で命令するな。
膝が揺れる。
座るか。
逆らうか。
どちらも嫌だ。
すると朧さんは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……言い方を誤った」
俺は息を止めた。
朧さんは言い直した。
「座れるなら座れ。倒れるよりはましだ」
命令ではなかった。
提案だった。
それが、腹立たしいほど違って聞こえた。
どうやら朧さんの命令は、俺の身体に届くらしい。
退職した上司のログイン権限が残っている。
セキュリティ事故にも程がある。
俺は壁際の木箱に腰を下ろした。
「……だからそういうのですよ」
「何がだ」
「言葉の中に逃げ道作るの」
朧さんは答えない。
「命令の形をちょっとずつ崩してくるとか、そういう小さな逃げ道を、勝手に文章の中へ作るな」
「避けられん」
「避けてくださいよ。そっちの得意分野でしょ」
「お前が逃げるための隙なら作る」
「何その不審なサービス」
「ここから出るなら、避けて通れん」
「それ、俺に選ばせる気あるんですか」
「ある」
「結論決まってる声なんですけど」
「お前が拒むなら、それも見る」
「見るな」
「見なかったことにはせん」
「全部言い方が最悪なんですよ」
「では、どう言えばいい」
「知らないですよ」
「お前はどう言われれば逃げない」
「何言われても逃げますよ」
「なら言葉は無意味だ」
「極論」
「だから処置をする」
処置という言葉で、だいたい嫌な予想はついた。
朧さんの処置は、絆創膏貼って終わり、みたいな可愛いものではない。
薬か、拘束か、経穴。
奈落式三大ろくでもない処置である。
全部まとめて燃えるゴミに出したい。
この人なら、指先だけでも俺の膝を抜ける。
腕を落とせる。
舌をもつれさせられる。
だが、それには触れなければならない。
今の俺に触れれば、たぶん身体が先に刃へ行く。
だから、触れずに止めるなら針だ。
分かる。
分かるから、なおさらまずかった。
袖から、細い針が出た。
俺の身体が跳ねた。
木箱から転げるように立とうとして、膝が崩れる。
視界が白く弾ける。
右手が刀へ行く。
左手がそれを押さえる。
呼吸が乱れる。
針だ。
朧さんの手に、針がある。
それだけで、身体が勝手に距離を測った。
踏み込む位置。
刃の角度。
手首を落とす速さ。
違う。
違うだろ。
「しまえ」
声が出た。
低くて、荒い。
自分の声じゃなかった。
「しまえ。今すぐ」
息が乱れる。
刀が半分抜ける。
左手で右手首を押さえる。
止めている。
止めているのに、刃先が朧さんへ向く。
「それ、しまえ。今すぐ。無理。無理です。無理。いや、別に怖いとかじゃないですけど。怖いですね。はい怖い。無理。しまえ。朧さん、それは本当に無理」
言葉が勝手に出た。
敬語も、軽口も、全部落ちた。
針だけが見える。
朧さんの手だけが見える。
その手が、昔みたいに動く前に、身体が先に動こうとしている。
「しまえって言ってんだろ」
声が割れた。
「手ェ見る。駄目だ。今、手首見た。次、落とす」
言った瞬間、血の気が引いた。
違う。
違う違う違う。
そんなことを言いたかったんじゃない。
「違う。落としたくない。あんたを斬りたくない。だから言ってる。しまえ。早くしろ。俺、今止めてる。まだ止めてる。だから今すぐしまえ」
右手首が痛い。
自分で握り潰すみたいに掴んでいるのに、まだ足りない。
刃が、また少しだけ抜ける。
金属の音が、小さく鳴る。
その音で、吐きそうになった。
声が震えた。
「命令するな。近づくな。名前呼ぶな。針持ったまま何も言うな。しまえ。しまえよ。早く」
もう、何を言っているのか分からなかった。
ただ、針がある。
朧さんの手にある。
その手を落とす未来が、あまりにも簡単に見える。
嫌だ。
怖い。
怖くない。
違う。
怖いのは、打たれることだけじゃない。
「俺にやらせんな」
喉の奥から、勝手に出た。
「頼むから、俺にその手ェ斬らせんな」
朧さんの目が、ほんの少しだけ変わった。
次の瞬間には、針が下ろされていた。
懐には戻さない。
俺の見える場所で、机の上の布に置く。
包む。
手から離す。
俺から遠ざける。
「使わん」
朧さんが言った。
俺はまだ、右手首を離せなかった。
「この場では、二度と出さん」
「……ほんとに」
情けない声だった。
「持ってないな。懐に入れてないな。もう出さないな」
確認が止まらない。
みっともない。
それでも止まらない。
朧さんは、静かに答えた。
「ああ」
ようやく、刀から手を離した。
痺れた手の感覚に、やっと、自分がまだ朧さんを斬っていないことを知った。
俺は息を荒くしたまま、力無く口を開く。
楽しくもないのに、口の端だけ吊り上がっていた。
「……今、何か思いました?」
「……」
「思いましたよね。あーこれ俺がやったやつだなって。思いましたよね。正解です。まあ、全部あんた一人のせいです、なんて分かりやすい話じゃないですけど」
俺は笑った。
「でも俺の身体が一番覚えてるの、朧さんなんですよ。整理しにくいでしょ。十年越しの確認作業、お疲れ様です」
「やめろと言った」
「やめませんよ」
声が荒れた。
「こっちはやめてって言ってもやめてもらえなかったんで。薬も針も折檻も命令も、やめてって言ってもやめてもらえなかったんで。ここで俺だけ配慮しないといけないの、変じゃないですか」
朧さんは、机の上の布へ視線を落とした。
針はもう、その中にある。
こちらへ戻る気配はなかった。
「もう針は使わん」
「……簡単に言うなよ」
「簡単ではない」
短い沈黙が落ちる。
「だが、お前が受けられぬ方法を選ぶ理由はない」
「それを配慮って言うんですけど」
「呼び方は任せる」
「任せんな」
朧さんは、静かに言った。
「別の方法を取る」
「あるんですか」
「楽ではないがな」
「選択肢の顔をした罰じゃないですか」
「だが、お前が針を受けられぬなら、その条件で考える」
やめろ。
やめろ。
本当に。
「俺に合わせないでくださいよ」
喉が詰まった。
「朧さんが、俺に合わせるのは違うって。変だって」
「違わん」
「違うって言ってんだろ」
「十年前、お前は俺に言った」
朧さんの声が、静かに落ちた。
「今、生きている先生に手を伸ばせと」
俺の息が止まった。
処刑場。
崖。
血。
先生。
朧さんの刃。
俺が言った言葉。
「お前がそう言った」
朧さんは続けた。
「俺は、それを聞いた」
なんで。
やめろよ。
それを持ってくるな。
「その結果、松陽は今も生きている。俺は、あの人のそばにいる」
朧さんは一歩だけ近づいた。
俺の身体が反応しかける。
だが、朧さんはすぐ止まった。
距離を守る。
「なら今度は、お前の番だ」
「……何の」
声が掠れた。
「伸ばされた手を、終わったものとして扱うな」
返せなかった。
本当に、返せなかった。
それだけは。
俺が言ったことだった。
俺が、朧さんに言った。
先生を終わったことにするなと。
今、生きている先生に手を伸ばせと。
その言葉で、朧さんは変わった。
変わってしまった。
その結果、今ここにいる。
そんな言葉、言わなければよかった。
一瞬だけ、本気でそう思った。
先生を救えたことを後悔したわけじゃない。
朧さんがあの場で道を開けたことを、間違いだと思ったわけでもない。
ただ。
自分で投げた言葉が十年かけて戻ってきて、今度は俺の胸を貫いているのが、あまりにも理不尽だった。
俺は、自分で投げた言葉に、十年越しで殴られていた。
「……最悪」
ようやく出た声は、それだった。
「ブーメランの滞空時間、長すぎません?十年飛んで戻ってくるとか、もう鳥じゃん。渡り鳥じゃん。季節感出すなよ」
「まだ喋れるな」
「喋ってないと死ぬんですよ」
「知っている」
知っている。
そう言われるのが嫌だった。
知っているくせに。
知っていて、あの時。
いや。
そこへ行くと、戻れなくなる。
俺は木箱に座り直した。
膝が震える。
薬切れの冷えが骨に来る。
朧さんは帳面を開き、机の上にいくつか紙を並べた。
俺に近づかない。
針を使わない。
懐へ手を入れない。
必要なものを全部、見える場所へ置く。
そうやって、一つずつ俺の逃げ道を塞ぐな。
怖がる理由まで見つけて、避け方を覚えるな。
そんなことをされたら、嫌い方が分からなくなる。
「左腕を出せるか」
「嫌です」
「なら右腕」
「もっと嫌です」
「首元」
「処刑かな?」
「脈を見るだけだ」
「触る系全部アウトでお願いします」
「なら、呼吸だけで見る」
「できるんですか」
「ある程度は」
「医者か」
「違う」
「知ってます。朧さんです。元上司です」
口が勝手に言った。
こんなふざけたやりとりさえ、少し嫌になった。
朧さんは、何も言わなかった。
俺の呼吸を見ている。
肩の上下。
指先の震え。
膝の力。
視線の揺れ。
汗。
口の乾き。
見られている。
見られるのは嫌だ。
でも、触られないだけましだった。
最悪の中の少しマシを拾って、また俺は息をしている。
「……頭では整理できてるんですよ」
俺は、息を吐いた。
胸の奥が冷えている。
皮膚の下は熱い。
口だけが、いつも通り動こうとしている。
本当に、口だけは勤勉だ。
そろそろ労基に褒められてほしい。
「……朧さんだけが悪いわけじゃないのは、分かってるんです」
言った瞬間、胸の奥が冷えた。
分かっている。
その言葉は便利すぎる。
「俺が自分で奈落に入った。崖下で死に損なった。定々に拾われた。あんたがいなくなった後、十年かけて、奈落に身体の自由を削られた」
朧さんは何も言わなかった。
「動くなって言われて止まる身体も、命令に逆らおうとすると喉が詰まるのも、薬の匂いだけで腕が冷えるのも、全部、あんただけが作ったわけじゃない」
自分で言っていて、吐き気がした。
分ければ分けるほど、どこにも怒りを置けなくなる。
言えば言うほど、喉の奥が苦くなる。
それでも、まだ足りない。
言いたくないことが、喉の奥に残っている。
「それに、あんただって止めた時もあった」
朧さんの目が、わずかに動いた。
自分で並べて、自分で気持ち悪くなる。
それでも止まらなかった。
「薬を止めた時もあった。減らした時もあった。俺を守るためじゃないにしても、壊し切らないようにしてた時もあった」
言いたくなかった。
それは、言いたくなかった。
恨む相手の中に、助かった記憶を混ぜるのは最悪だ。
怒りの置き場所が濁る。
被害者の顔をするには、俺は他人の痛みに慣れすぎた。
加害者の顔をするには、俺は自分の痛みに慣らされすぎた。
痛みを受けた記憶と、痛みを与えた記憶が、同じ手の中に残っている。
だから俺は、どちらにも綺麗に立てない。
「そこまでは、ちゃんと分かってる」
声が、少し低くなった。
「分かってるのに、身体が別の答えを出す」
笑おうとした。
うまくいかなかった。
「だから、今さら怒るのおかしいんです」
言葉が、勝手に落ちた。
「おかしいのに」
懐に視線が行く。
もう朧さんの手はそこにない。
それでも、身体はまだ覚えている。
「懐見たら、針見たら、あんたの手見たら、言葉が出る」
喉が詰まる。
「あんたのせいだって、言いたくなる」
吐き出した瞬間、胸の奥が引きつった。
「……それが一番、気持ち悪い」
部屋が静かになった。
灯具の火が、小さく揺れた。
朧さんは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙すら、逃げ場を与えない。
「一つに括るな」
朧さんは、静かに言った。
俺は顔を上げた。
「お前が奈落に入ったことと、私がお前にしたことは別だ」
「別じゃないでしょ」
「別だ」
「俺が選んだ」
「私も選んだ」
その声は、少しも揺れなかった。
「お前を使った。針を打った。名を与えた。仮面を渡した。止めた時があったとしても、それは免罪にはならん」
「免罪って」
「お前が私を庇うな」
「庇ってない」
「庇っている」
「違う」
「私の分まで、お前が持つな」
息が止まった。
言葉が、変なところに刺さった。
「じゃあどこに置けって言うんですか」
「私のところに置け」
返事ができなかった。
重い。
あまりにも重い。
この人は、たまに平然と重いものを持ってくる。
重いという自覚があるのかないのかも分からない顔で、当然のように差し出してくる。
「……荷物の不法投棄ですよ、それ」
「受け取る」
「受け取るなよ」
「私のものだ」
「そういうとこが嫌なんですよ」
「嫌えばいい」
「嫌いでいさせろよ」
「嫌っていろ」
「丁寧に扱われたら、嫌いにくいんだよ」
言ってしまった。
部屋が静かになった。
俺は口を閉じた。
しまった。
今のは違う。
違う違う違う。
俺たち絶対そんなんじゃなかった。
朧さんは、こちらを見ている。
俺は仮面の下で笑った。
「今のなしで。録音してたら消してください。奈落の個人情報保護法に引っかかります」
「録っていない」
「心に録るなよ」
「……」
「録るなって」
「捨てる情報でもない」
「桂みたいなこと言うなよ」
思わず言った。
朧さんの目が、ほんの少し動いた。
笑ってはいない。
だが、少しだけ空気が変わった。
その変化を、少しだけ楽だと思ってしまったのが嫌だ。
「時間がない」
朧さんは言った。
「奈落はお前を疑っている」
やっぱり。
そろそろ社内監査が入る頃だとは思っていた。
最近、廊下の視線が長い。
報告の確認が細かい。
薬の量を見ている奴がいる。
任務から戻る時間を、誰かが数えている。
ブラック企業の勤怠管理だけ急に優秀になるな。
普段は命と人権を雑に扱うくせに、裏切りの気配だけは経理みたいに細かい。
「銀時と接触し、松陽を逃がし、桂を取り逃がし、坂本との取引で不自然な会話をしている」
「最後だけ急に曖昧ですね」
「証拠がない」
「よかった」
「だが疑いはある」
「よくなかった」
「詰んだ、と言いたい顔だな」
「顔見えないでしょ」
「分かる」
「見ないで」
「無理だ」
「何で」
「目を逸らすために来たのではない」
そういう言い方をするな。
また逃げ場が減る。
「まだだ」
「みんな軽率に“まだ”って言う」
「まだ終わっていない」
全員、それを言う。
終わっていない。
続いている。
死者ではない。
生きていてよかった。
欠席扱い。
回収。
俺は十年かけて終わったことにしたかったのに、全員が終わっていないと言ってくる。
朧さんまで。
「お前が動けるようにしておく」
その言い方に、胸の奥が嫌な音を立てた。
「……何のために」
「ここを出る時のためだ」
「出る前提で話すなって、さっきから何回言えば通じます?奈落って日本語圏外でしたっけ。いや奈落語圏か。治安悪そう」
「お前がここに残る前提で話す理由がない」
「ありますよ。勤務先です」
「退職予定だ」
「勝手に退職願出すな。本人確認どこ行った」
「本人が確認を拒むなら、周囲が確認する」
「人の人生を役所の手続きみたいに進めるな」
朧さんは、こちらを見た。
「薬が切れた時、お前はわずかに命令へ割り込める。だが反動が強い。薬が入っている時は安定する代わりに、命令に従いやすい。なら、使える時間を作る」
「使える時間って言い方、怖すぎるんですけど。俺、タイムセール品?」
「そう取るならそう取れ」
「取らせるなよ」
「お前が動ける時間だ」
声が、静かだった。
「お前自身が選べる時間、と言えばいいか」
俺は黙った。
さっきから、この人は微妙に命令の形を崩してくる。
座れ、を、座れるなら座れにする。
処置を、確認にする。
回収を、俺が動きやすい言葉だと言う。
そういう細かい言い回しをされるたびに、こっちの拒み方だけが、少しずつ下手になっていく気がした。
「……俺が選んだら、元の牢屋に戻りますよ」
「だろうな」
「止めないんですか」
「止める」
「どっちだよ」
「お前が奈落の奥へ戻ろうとするなら止める。外へ逃げるなら、道を作る」
「逃走支援サービス始めたんですか。元奈落幹部による安心安全の脱走サポート。口コミ最悪そう」
「安心も安全もない」
「でしょうね」
「だが、今のお前をこのまま置くよりはましだ」
胸の奥が詰まった。
「またそれ」
「何度でも言う」
「しつこい」
「一度で足りるなら、十年探していない」
「急に重いこと言うな」
朧さんは帳面を机の上に置いた。
「お前がここに残る前提で、私は動かん」
「だから俺、出たいって言ってないんですけど」
「違う」
「何が」
「連れ出す話ではない」
朧さんは、机の上の帳面に視線を落とした。
「戻されないための話だ」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……何に」
「奈落に。命令に。薬に。私の声に」
「最後、急に自覚出すのやめてもらっていいですか」
「必要な自覚だ」
「不必要な重さなんですよ」
「お前は逃げる前に、何度も戻ろうとする」
返せなかった。
分かっていたからだ。
足が。
喉が。
命令を聞いた瞬間の身体が。
俺の意思より先に、奈落の奥へ戻ろうとする。
朧さんは続けた。
「だから、戻る動きを一つずつ潰す」
「言い方」
「懐に反応するなら、懐を使わん。針に反応するなら、針を捨てる。命令の声に反応するなら、言葉を変える。薬が切れる時にしか割り込めぬなら、その時を逃さない」
「人のバグ修正みたいに言うな。デバッグ作業ですか」
「似たようなものだ」
「最悪」
「壊した手順があるなら、逆も辿れる」
その言葉で、息が止まった。
逆。
壊した手順。
この人は、それを本当に自分の手順として言った。
「……朧さん」
「何だ」
「それ、自分で言ってて嫌になりません?」
「なる」
即答だった。
「だが、嫌で済ませるには遅すぎる」
俺は黙った。
朧さんは、こちらへ近づかないまま言った。
「お前が私を拒むなら、それでいい。逃げるなら追わん。だが、奈落に戻されるなら止める」
「俺の意思で戻るかもしれないでしょ」
「見て判断する」
「判断するな」
「お前の意思か、命令か」
喉が詰まった。
「それを、もう同じものにはせん」
返す言葉がなかった。
余裕がない。全然ない。
銀時の時も、先生の時も、桂の時も、坂本の時も、苦しかった。
でも、まだ喋れた。
まだ逃げ場があった。
相手を茶化す余地があった。
朧さんには、それがない。
この人にだけは、何を言っても自分に返ってくる。
嫌いだと言えば、嫌えばいいと返される。
違うと言えば、そうだなと受け入れられる。
来るなと言えば、来なければならなかった理由を差し出される。
痛いと言えば、それを自分がしたこととして見られる。
逃げ場がない。
この人は、逃げ道の作り方も潰し方も知っている。
奈落の人だから。
俺を壊した側だから。
それでも、今は俺をここに置かないために来ている。
それが一番、気持ち悪い。
一番、欲しかったのに。
認めたくない。
「帰ってください」
俺は言った。
「松陽先生のところに」
朧さんの目がわずかに動いた。
「先生のそばにいてくださいよ。やっと戻れたんでしょ。十年、そこにいたんでしょ。俺を探す暇があったら、先生のそばにいればよかったじゃないですか」
「そばにはいた」
「じゃあ何で来るんだよ」
「松陽は、お前を終わった者として扱っていない」
「またそれ」
「欠けたままの席を、あの人が放っておくと思うか」
「先生が来るなら分かるって言ったでしょ。朧さんが来るのは違うんです」
「松陽のそばにいることと、お前を探すことは矛盾しない」
「俺の中では矛盾するんですよ」
声が小さくなった。
「俺の中では、朧さんは先生のそばにいてくれないと困るんです。俺なんか探してる場合じゃない。俺のことなんか、道具の棚卸し対象外でいい。そうじゃないと、俺が何だったのか分からなくなる」
朧さんは、しばらく黙っていた。
その沈黙は長かった。
やがて、低く言った。
「お前は、道具ではなかった」
俺は笑った。
笑うしかなかった。
「このタイミングでそれ言います?」
「ああ」
「十年前に言ってくださいよ」
言った瞬間、灯具の火が、短く揺れた。
あ。
違う。
それは。
本当に言いたかったことだ。
俺は仮面の下で口を閉じた。
でも、もう遅い。
朧さんは、静かに俺を見ていた。
その目が、少しだけ痛そうだった。
やめろ。
そういう顔をするな。
「そうだな」
朧さんは言った。
「十年前に言うべきだった」
俺は何も言えなかった。
認めるな。
認めるなよ。
「お前を道具ではないと知っていた」
言うな。
「知っていて、そう扱った」
それ以上は。
「名をつけ、仮面を渡し、任務に出した。そうすれば、俺もお前を人として見ずに済んだ」
朧さんの声は、淡々としていた。
「その逃げを、十年続けた」
一つずつ。
淡々と。
逃げずに。
こっちが逃げたくなるくらい、逃げずに。
「その事実は消えん」
聞きたくない。
「消す気もない」
朧さんの声が、そこでほんの少しだけ低くなった。
「悔いを持たぬほど、忘れてはいない」
俺は息を止めた。
「悔いたところで、お前の身体から記憶は消えん」
分かってる。
分かってるから、言うな。
「だから、お前が俺を嫌うなら、それでいい」
嫌わせろ。
それだけで済ませろ。
「だが、お前をここに置く理由にはならない」
言葉が、落ちた。
俺は、何も返せなかった。
返したい言葉は山ほどあった。
罵倒も、皮肉も、拒絶も、全部あった。
喉の奥まで来ていた。
でも、出なかった。
朧さんは、そこで頭を下げなかった。
俺の言葉を否定もしなかった。
ただ、机の上の帳面を閉じずにいた。
まだ終わっていないものとして、そこに置いていた。
それが一番、腹が立った。
俺が終わったことにしたかったものを、この人は終わったものとして扱わない。
罰を求めるでもなく、赦しを求めるでもなく、ただ自分の欄に残っている責任を、まだ消していない顔をしている。
「……朧さん」
「何だ」
「俺、今、だいぶ混乱してます」
「分かっている」
「だから見ないで」
「無理だ」
「何で」
「見なかったことにするために来たのではない」
「最悪」
俺は笑った。
笑いながら、少しだけ息が震えた。
薬が切れる。
身体がきつい。頭の中が白い。
でも、さっきより少しだけ、部屋の輪郭が戻っている。
「お前があの場で言わなければ、俺は松陽へ手を伸ばさなかった」
朧さんが言った。
俺は、返事を忘れた。
「やめてください」
ようやく出た声は、掠れていた。
「都合のいい美談にする気はない」
「じゃあ何ですか」
「借りだ」
息が詰まった。
借り。
感謝でも、謝罪でもなく。
借り。
「返せるものではない。だが、無かったことにはせん」
「俺に背負わせないでくださいよ」
「背負うのは私だ」
「朧さん、そういうの似合わないですよ」
「知っている」
「じゃあやめろよ」
「やめん」
短い。
いつものように短い。
でも、その短さの中に、変な重さがあった。
俺はそれを見なかったことにしたかった。
「私は、お前を救えるとは言わん」
「言わないんですか」
「言わん」
「そこは言う流れでは?」
「救うという言葉は、今のお前には重すぎる」
喉が鳴った。
そういうところだ。
そういうところが嫌だ。
コメント欄。
ここで救済判定を押すなよ。
俺はまだ、助かった顔なんてできない。
許した顔もできない。
泣くにも怒るにも、置き場所が多すぎる。
逃げ道を塞がれてるのか。
作られてるのか。
その区別がついてしまうくらいには、まだ頭が動いてる。
それが最悪だった。
「だから、余地を作る」
「何の」
「拒む余地だ」
朧さんは、少しも迷わなかった。
「命令を。薬を。奈落を。私を」
俺は黙った。
「……朧さんを?」
「そうだ」
「そこに自分入れます?」
「入れる」
「何で」
「私を拒めぬまま連れ出しても、奈落と変わらん」
胸の奥が、変な音を立てた。
「お前の身体が返事をする前に、お前が割り込める間を作る」
俺は笑った。
うまく笑えなかった。
つまり、身体が勝手に出勤する前に、俺本人へ確認を取る時間を作るということらしい。
本人確認。
今さらすぎる。
十年くらい前に導入してほしかった機能である。
それでも、言っている意味だけは分かった。
命令が通る前に、嫌だと思う。
嫌だと思ったことを、なかったことにされる前に、止める。
たぶん、そういう話だった。
「全部に拒否ボタンつける気ですか」
「要るならな」
「通販サイトみたいに言うな。こっちは規約も読ませてもらえないまま同意済みにされたんですけど」
「なら、同意していないと書け」
「今さら異議申し立てフォーム作るな」
「作る」
「通す気満々じゃん」
「通す」
この人は、結局こういう人だ。
こちらの拒否権を返すと言いながら、そのための手段は普通に強引だ。
壊した側の手で、拒否するための余白を作ると言う。
それがいちばん嫌で。
いちばん、逃げづらい。
朧さんは帳面を閉じた。
持っていくのかと思った。
だが、違った。
必要な箇所だけを手元の紙へ写し、帳面は元の棚へ戻す。
懐にも、袖にも入れない。
俺の目に入る場所だけで、全部を済ませる。
……そういうところだ。
そういうところが、本当に嫌だった。
「今日はここまでだ」
「何が」
「処置の前段階だ」
「授業みたいに言うな」
「次に会う時までに、針以外の方法を用意する」
「次がある前提?」
「ある」
「俺が逃げたら?」
「見失わん」
「それ、探すより怖いんですけど」
「今度は、見失わん」
胸の奥が、変なふうに痛んだ。
「もっと軽い言い方ありません?」
「知らん」
「見つけてほしいみたいになるだろ」
「お前がそう取るのなら、そうなのだろう」
「そういうとこだって言ってんだろ」
朧さんは机の上に小さな包みを置いた。
俺の身体が強張る。
薬か。
針か。
何か。
「開けるな」
朧さんが言った。
「え、怖」
「今は、開けるな」
「怖さ増しましたけど」
「必要になる時まで、誰にも見せるな」
「中身は」
「お前が命令に呑まれそうになった時に使え」
「説明が雑」
「細かいことは中に書いた」
「開けるなって言いましたよね」
「今は、だ」
「時限式不安物資やめてもらっていいですか」
「持てるか」
命令ではなかった。
確認だった。
俺は包みを見た。
薄い布に包まれている。
硬い瓶の形はない。
針の細さもない。
金属の音もしない。
それでも、薬に近いものだと分かるだけで、胃が冷えた。
「……これ、薬ですか」
「薬ではない」
「その言い方、薬師がよく使う最悪の逃げ道なんですけど」
「違う」
「信じろと」
「信じなくていい」
朧さんは静かに言った。
「使うかどうかは、お前が決めろ」
やっぱり落ちてきたのは、命令ではなかった。
俺は歯を食いしばった。
ゆっくり手を伸ばす。
指先が震える。
包みに触れる。
布越し。
瓶の硬さはない。
針の細さもない。
ただの紙。
ただの紙だ。
大丈夫。
大丈夫じゃない。
吐きそう。
でも、持てる。
俺は包みを袖に入れた。
息が浅くなる。
朧さんは、その様子を見ていた。
また、あの顔をした。
自分がやったことを、再確認している顔。
俺は笑った。
「またメモ更新しました?」
「……ああ」
「正直ですね」
「お前が薬関係のものに触れることも難しいと分かった」
「テスト結果、赤点ですね」
「赤点なら補習だ」
「先生の影響受けてません?」
「否定はせん」
「否定してほしかったな。俺の情緒のために」
言った瞬間、胸が痛んだ。
松陽先生のそばに十年。
俺が行けなかった場所。俺が見ないようにした場所。
朧さんが、そこにいた。
それは、よかった。
よかったはずなのに。
そこに俺の名前まで混ぜてくるなよ。
人の地獄に、勝手に追記するな。
たちが悪い。
「長居しすぎた」
朧さんが言った。
「見つかる前にここを離れろ。薬の切れ目を使えるのは長くない」
「命令ですか」
「助言だ」
「やっぱ似合わねぇ」
「従うかはお前が決めろ」
「余計似合わねぇ」
朧さんは扉へ向かった。
その背中を見た瞬間、なぜか声が出た。
「朧さん」
足が止まる。
「……本当に、俺たちこんなんじゃなかったですよね」
もう一度、言った。
確認だった。
拒絶だった。
助けて、に近かったのかもしれない。
朧さんは、こちらを振り返らなかった。
「そうだな」
静かに言った。
「そのようなものではなかった」
胸の奥が少し沈む。
ほら。
そうだ。
そうだよ。
それでいい。
そうじゃないと困る。
「だが」
朧さんは続けた。
「十年あれば、変わるものもある」
息が止まった。
「お前が変わったように、私も変わった」
朧さんは、そこで初めて少しだけ振り返った。
「不本意か」
俺は笑った。
笑えたかは分からない。
「最悪です」
言ってから、少しだけ目を逸らした。
逸らさないと、何かを受け入れてしまいそうだった。
「……やっぱり馬鹿ですね、朧さんって」
朧さんの眉が、ほんのわずかに動いた。
「十年前も、そう言ったな」
「覚えてるんですか。怖」
「そんなことを言うのは、お前だけだった」
「そこはピキるんだ」
少しだけ、息がしやすくなった。
昔の朧さんに近い反応だったからだ。
そう思ったことが、また最悪だった。
朧さんは、今度こそ少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
本当に、ほんの少し。
その少しが、妙に怖かった。
妙に痛かった。
妙に、嬉しかった。
いや、馬鹿か俺は。
なにを考えてるんだ。
朧さんは扉を開けた。
廊下の闇へ出る直前、もう一度だけ言った。
「奈落に戻る道だけを、残す気はない」
その声は、静かだった。
「選ぶのは、お前だ」
扉が閉まった。
部屋には、壁際の弱い灯りだけが残る。
俺はしばらく動けなかった。
桂の木札だったり、坂本の合図だったり、今度は朧さんの包み。
俺はいつから謎解きゲームの主人公になったんだ。
持ち物欄に重要アイテムが増えすぎている。
しかも全部、捨てるボタンが灰色になっている。
俺は木箱に座ったまま、仮面の下で息を吐いた。
懐に手を伸ばされるだけで、駄目だった。
針を見ただけで、言葉が崩れた。
包みに触るだけで、吐きそうになった。
朧さんはそれを全部見た。
見てしまった。
そして、逃げなかった。
謝りもしなかった。
許しも求めなかった。
ただ、俺が拒めるだけの余地を作ると言った。
俺はそれが、たまらなく嫌だった。
嫌だったのに。
袖の中の包みが、妙に重い。
俺は小さく笑った。
「……拒否権の差し入れって何だよ」
声が、部屋に落ちる。
返事はない。
当たり前だ。
朧さんはもういない。
いないのに、気配だけが残っている気がした。
針の記憶ではない。
薬の記憶でもない。
任務の命令でもない。
もっと別の、名前をつけると気持ち悪いもの。
整理しにくい。
本当に、整理しにくい。
俺だけが、元の形から外れたのだと思っていた。
だから帰れないのだと思っていた。
だから混ざれないのだと思っていた。
だから、俺だけを奈落に置いておけば話が済むと思っていた。
なのに、向こうも勝手に形を変えていた。
銀時も、先生も、桂も、坂本も、朧さんも。
探して。
待って。
道を作って。
記録を抜いて。
俺を欠席扱いのまま残している。
全部、俺の許可なく。
「……聞き分け悪いな、ほんと」
誰に言ったのか分からない。
たぶん、全員に。
たぶん、俺にも。
薬の切れ目が、また胸の奥を叩いた。
命令が遠くで鳴る。
戻れ。
従え。
処分しろ。
それらの言葉を頭を振って隅に追いやろうとする。
多少はマシになった気がした。
多分、気がしただけだ。
帰る、とはまだ思えない。
助けられる、なんて言葉もまだ無理だ。
でも。
命令より先に、俺が俺の身体へ割り込める間。
嫌だと言える時間。
その言葉だけが、命令の残響に混じって、なかなか消えなかった。
命令より小さいくせに、しつこかった。
























