午後のトレセン学園、トレーナー室前の廊下。
アドマイヤベガは、静かに立ち止まった。
開けっ放しになったドアの奥から話し声が聞こえてくる。
別に、盗み聞きするつもりはなかった。
ただ、少しだけ用があった。今日のメニューについて、トレーナーに確認したいことがあった。それだけだった。
……それだけ、だったのに。
「それじゃあ、資料はここに置いておきますね」
柔らかな声とともに、女性職員がトレーナー室から出てきた。
明るく、感じのいい人だ。仕事もできる。アヤベも何度か顔を合わせたことがある。
そして、本人に悪気はまったくないのだろうが──。
目立つ。
とても、目立つ。
特に、その、ボリューム感のある胸元が。
アヤベは一瞬だけ視線を落とし、それからすぐに逸らした。
そんな自分の反応に、ほんの少しだけ苛立つ。
くだらない。
そんなもの、気にする必要はない。
そう思った、次の瞬間。
部屋の中のトレーナーの視線が、ちらり、と動いた。
ほんの一瞬。
だが、アヤベの目は逃さなかった。
女性職員が廊下を歩き去ったあと、トレーナーは何事もなかったように資料を手に取った。
……何事もなかったように。
アヤベは、静かに声をかけた。
「入っていいかしら」
「ああ、アヤベ。いたのか。どうぞ、入って」
トレーナーはいつもの笑顔で顔を上げた。
アヤベは入室し、後ろ手で扉を閉める。
かちゃり。
鍵はかけていない。
けれど、彼女が纏う雰囲気に、なぜかトレーナーは背筋を伸ばした。
「……アヤベ?」
「少し、確認したいことがあるの」
「今日のメニューか?」
「ええ。それもあるわ」
アヤベは机の前まで歩み寄った。
その歩幅は静かで、音もほとんどしない。
だがトレーナーはなぜか、一歩だけ椅子ごと後ろへ下がった。
「そ、その……どうした?」
「さっき」
「さっき?」
「見ていたわね」
トレーナーの手から、資料が一枚落ちた。
ひらり、と床に舞う。
「な、何を?」
「彼女を」
「彼女って、さっきの職員さん?」
「そう」
アヤベは淡々と頷く。
「正確には、彼女の胸元を」
「ごほっ!」
トレーナーが盛大に咳き込んだ。
あまりにも分かりやすい反応だった。
アヤベは目を細める。
「否定しないのね」
「いや、その、違うんだ。違うというか、不可抗力というか」
「不可抗力」
「視界に入っただけで」
「二回?」
「……二回?」
「最初に書類を受け取った時。次に彼女が出ていく時」
「数えてたのか!?」
「見えていたもの」
アヤベは一歩近づいた。
トレーナーは椅子の背もたれにぴたりと追い詰められる。
「トレーナーさん」
「はい」
「あなたは、ああいうのが好きなの?」
「……ああいうの、とは」
「胸が大きい人」
部屋の空気が固まった。
時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
トレーナーは明らかに逃げ道を探していた。
窓。扉。机の下。
全部無理だ。
アヤベは逃がすつもりがなかった。
「答えて」
「……その、一般論として」
「一般論ではなく、あなたの話をしているの」
「はい」
トレーナーは観念したように、両手を軽く上げた。
「見てしまったのは悪かった。ごめん」
「謝罪は受け取るわ」
「ありがとう」
「でも、質問の答えにはなっていない」
「うっ」
アヤベはさらに一歩近づいた。
もう机一つ分の距離しかない。
トレーナーの額に、じわりと汗が浮かぶ。
「好きなの?」
「いや、だから……その……」
「大きい方が」
「違う!」
思わず、トレーナーの声が大きくなった。
アヤベは少しだけ眉を上げる。
「違うの?」
「あ、いや、違うというか……俺は別に、大きさだけを見ているわけじゃなくて」
「だけ」
「あ…」
トレーナーは自分の口を押さえた。
しかし遅い。
アヤベの目が、さらに細くなった。
「だけ、ではないのね」
「待ってくれ。今のは言葉の綾で」
「なら、どういうのが好きなの」
「え?」
「胸について」
「その質問、続けるのか!?」
「あなたが曖昧にするからよ」
トレーナーは天井を見上げた。
神に祈っているようだった。
しかしこの部屋にいるのは、神ではない。
じっと答えを待つ、アヤベだけだ。
「……俺は」
「ええ」
「大きさより」
「より?」
トレーナーはもう引き返せない顔をしていた。
そして、半ばやけくそのように言った。
「形が綺麗な方が好きなんだ」
沈黙。
アヤベは瞬きした。
一回。
二回。
その耳が、ぴく、と動く。
「……形」
「今のなし」
「綺麗な方」
「今のなしでお願いします」
「つまり、あなたは」
アヤベは机に手をついた。
トレーナーとの距離が、ぐっと近くなる。
「大きい小さいではなく、形を見ているのね」
「言い方!」
「違うの?」
「違わないけど違う!」
トレーナーは混乱していた。
完全に追い詰められている。
普段は落ち着いていて、レース前でも冷静な指示をくれる人なのに。
今はひどく情けない。
なのに。
アヤベはなぜか、その様子から目が離せなかった。
胸の奥が、少しだけむずむずする。
「それで」
「まだあるのか……」
「具体的には、どのくらいが好きなの」
「具体的に!?」
「ええ」
「それは、その、個人差があるし」
「あなたの好みを聞いているの」
「アヤベ、今日ちょっと怖いぞ」
「答えて」
トレーナーは黙った。
黙って、視線を泳がせた。
そして、よりによって。
ほんの一瞬。
アヤベの胸のあたりへ、視線が落ちた。
落ちてしまった。
二人とも固まった。
アヤベの顔が、じわじわと熱くなる。
トレーナーの顔も、同じくらい赤くなっていく。
「……今」
「違う」
「見たわね」
「違うんだ」
「何が違うの」
「いや、違わないけど、違うというか、その」
「答えて」
トレーナーは片手で顔を覆った。
もう限界だった。
「俺は、アヤベくらいなのが好きなんだ!」
言った。
言ってしまった。
部屋の空気が、ぱん、と弾けたような気がした。
アヤベは机に置いた手をぎゅっと握る。
耳が熱い。
頬も熱い。
尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。
だめ。
落ち着きなさい。
これはまだ、ただの好みの話。
そう、身体的特徴の話にすぎない。
喜ぶようなことでは──。
「……私くらい」
小さく呟くと、トレーナーが絶望した顔でこちらを見た。
「忘れてくれ」
「無理よ」
「頼む」
「無理」
「アヤベ」
「無理」
アヤベは顔を逸らした。
けれど、尻尾がまた揺れた。
さっきより大きく。
ぱた。
ぱたぱた。
トレーナーの視線が、そちらへ向く。
「……尻尾」
「見ないで」
「いや、でも」
「見ないで」
「はい」
トレーナーは即座に視線を戻した。
アヤベは深呼吸する。
このままではいけない。
話を終わらせるなら、今だ。
けれど、なぜか口が勝手に動いた。
「それは」
「え?」
「私の身体が、好みということ?」
「……」
トレーナーは沈黙した。
長い沈黙だった。
その間に、アヤベの尻尾はもう完全に落ち着きを失っていた。
左右に揺れる。
ふわふわと揺れる。
本人の表情だけは、必死に平静を保っているのに。
「答えて」
「……アヤベ」
「何」
「これ以上言ったら、たぶん戻れない」
アヤベの心臓が、どくんと跳ねた。
声の調子が変わった。
さっきまでの慌てた声ではない。
真剣で、少し苦しそうで、それでも逃げない声。
「戻れないって、何から?」
トレーナーは立ち上がった。
椅子が小さく音を立てる。
今度は、アヤベが少しだけ後ろへ下がった。
「俺が見ていたのは、確かに悪かった。軽率だった。アヤベを嫌な気持ちにさせたなら、本当にごめん」
「……ええ」
「でも、さっきから俺が焦っているのは、そういう話だけじゃない」
アヤベは黙っていた。
トレーナーはまっすぐに彼女を見る。
「アヤベが近いと、冷静でいられなくなる」
「……」
「アヤベに問い詰められて、困っているのに、どこか嬉しいと思ってしまった」
「嬉しい?」
「ああ」
トレーナーは苦笑した。
「俺は、アヤベに嫉妬されて嬉しかったのかもしれない」
アヤベの耳がぴんと立った。
「それは、どういう意味?」
「つまり」
トレーナーは息を吸った。
その一瞬が、ひどく長く感じられた。
「つまり、端的に言うと──俺は、アヤベのことが好きなんだ」
言葉は、静かに落ちた。
けれどアヤベの中では、まるでスターターの合図みたいに響いた。
胸の奥で何かが弾ける。
熱が頬に集まる。
耳が震える。
そして──尻尾が、ぶん、と大きく揺れた。
「……っ」
アヤベは慌てて自分の尻尾を押さえようとした。
しかし遅い。
ぶん。
ぶんぶん。
ぶんぶんぶん。
「アヤベ」
「見ないで」
「いや、すごく揺れてる」
「見ないでと言っているでしょう」
声は冷静なつもりだった。
でも、まったく冷静ではなかった。
頬は赤い。
耳は落ち着きなく揺れ動いている。
尻尾は本人の意思を完全に裏切って、嬉しそうに左右へ振られている。
トレーナーはその姿を見て、思わず笑みをこぼした。
「……かわいいな」
「っ」
さらに尻尾が勢いを増した。
「今のは卑怯よ」
「ごめん。でも本心だ」
「そういうところが、卑怯だと言っているの」
アヤベは俯いた。
長い髪が頬を隠す。
しばらくして、小さな声が落ちた。
「……私も」
「え?」
「私も、あなたが他の人を見ているのが、嫌だった」
トレーナーは息を呑んだ。
アヤベは顔を上げないまま続ける。
「そんなこと、思うべきじゃないと思った。でも、嫌だった。あなたの視線が、私ではない誰かに向いているのが」
「アヤベ……」
「だから、確かめたかったの」
彼女はようやく顔を上げた。
潤んだ瞳で、けれど逃げずに、トレーナーを見る。
「あなたが、誰を見ているのか」
トレーナーは静かに答えた。
「アヤベを見ているよ」
また尻尾がぶんぶん揺れた。
アヤベは今度こそ両手で尻尾を押さえようとしたが、押さえきれない。
「……もう」
「ごめん」
「謝るところじゃないわ」
「じゃあ、笑っていい?」
「だめ」
「かわいいって言っていい?」
「もっとだめ」
「でも好きだ」
「……っ」
ぶんぶんぶんぶん。
アヤベはとうとう顔を両手で覆った。
「やめて。尻尾が、言うことを聞かない」
「正直で助かる」
「助からないわ」
トレーナーは一歩近づいた。
「アヤベ」
「何」
「返事、聞いてもいいか?」
アヤベは指の隙間から、少しだけ彼を見る。
赤くなった頬。
潤んだ目。
揺れ続ける尻尾。
そして、小さく。
本当に小さく、呟いた。
「……私も、あなたのことが好き」
トレーナーの表情が、ふっとほどける。
その顔を見た瞬間、アヤベの尻尾はもはや隠しようもなく、全力で揺れた。
ぶんぶんぶんぶんぶん。
「アヤベ」
「何」
「すごく嬉しそうだ」
「……うるさい」
「俺も嬉しい」
「うるさいって言っているでしょう」
そう言いながら、アヤベは逃げなかった。
トレーナーがそっと差し出した手を、少し迷ってから、指先で掴む。
そして、そのまま小さく握った。
「これからは」
「うん」
「他の人を、あまり見ないで」
「見ない」
「絶対?」
「絶対」
「……私だけ?」
トレーナーは微笑んだ。
「アヤベだけ」
その瞬間。
アヤベの尻尾が、今日一番の勢いでぶんっと揺れた。
彼女は真っ赤になって、唇を尖らせる。
「……責任、取りなさい」
「もちろん」
「まずは、今日のトレーニングメニューの確認」
「そこから?」
「ええ」
アヤベは彼の手を握ったまま、少しだけ目を逸らした。
「その後で……少しだけ、散歩に付き合って」
トレーナーは嬉しそうに頷く。
「喜んで」
アヤベは小さく息を吐いた。
まだ尻尾は揺れている。
けれど今度は、隠すのを諦めた。
だって、もう知られてしまった。
自分がどれだけ彼を好きなのか。
どれだけ、その言葉を待っていたのか。
そして彼もまた、知ってしまった。
彼女の尻尾は、嘘がつけない。
「……でも」
アヤベはぽつりと言った。
「次にまた、誰かをチラチラ見ていたら」
「見ていたら?」
彼女は静かに微笑んだ。
美しく、少しだけ怖く。
「今日よりもっと、問い詰めるわ」
トレーナーは背筋を正した。
「肝に銘じます」
その真面目な返事に、アヤベは少しだけ笑った。
そして、尻尾をふわりと揺らしながら、彼の手をもう一度握り直した。























女性の胸を見ないのは失礼にあたるから仕方がないのです。 感情に合わせて勝手に尻尾か動いちゃうのって結構不便な生き物ですよねぇ。