─────生きる為に必要なことは、一体なんだろう。
私が投げたこの問いに、数多の人が答えた。
ある人は食事と言い、またある人は、ならば娯楽こそが人を人たらしめると言った。
ある人は仕事と言い、またある人は、ならば全てに通ずるのは貨幣であるが故にと言った。
またある人に聞けば、人は人との繋がりこそが生きる為に必要なこと、と言った。然らばそれを繋ぎ止める愛こそが、人が生きるために必要だと言った人がいた。
この問答の答えは人によって違く、そのどれもが正解とされるべき、美しい答えだった。……それでも、私は明確なただ一つの『答え』を知りたかった。
万人に共通する、人生の意味とは。生きるために必要なこととは。
八千年の悠久の中、あらゆる地を巡った。
あらゆる人に出会った。
あらゆる時代を見送り続けた。
あらゆる生きる理由を見た、生きるべき理由を聞いた。
あらゆる人の営みを、愛を、苦しみを、人の軌跡を見届けてきた。
見届けた全ての人に共通してるのは、何かを目指して生きているということ。手が届かないもの、届いたもの、あるいは未来への羨望、あるいは今日という一瞬、あるいは過去への贖罪。それが何であれ、人は何かを目指して生きていた。これこそが、人生の意味なのかもしれない。
それが、そんな人々がどうしようもなく美しくて、心の中にいる大切な人みたいで、私はこうありたいと願った。こうでありたいと願った。何よりも人でありたいと願った。だから待ち続けた、待ち続けることができた。それこそが、私の人生の意味だと信じて。……そして、考え続けた。生きる理由じゃない。理由とはまた違う、もっと根源的な、人が生きる為に必要なものとは一体なんなのだろうか。私が生きる為に必要なものとは、人が生きるのに必要なものとは。
前者は簡単だ。遥か遠くにいる、想い人と再会するまで待ち続けること。彩葉ともう一度出会い、彩葉と生き続けること。私が生きる理由は、必要なことは、待ち続け、再会することへの夢想。なら、後者は? 他の人は?
貴女が、彩葉が生きる為に必要なものは?
二ヶ月程の、何よりも永い刹那の煌めきを胸にしまい、貴女の時代を待ち続けた。それでも、どこまでいっても、いつまで待っても、貴女は私の思い出の中でしかなくて。それが苦しくて哀しくて、貴女のことを想い続けた。この寂しさを埋めるように、貴女のことを考え続けた。
私のことではないし、私が考えるべきでは無いのかもしれない。だがしかし、けだし、私は彩葉の生きる理由になりたかった。必要なものになりたかった。
そうすれば、ずっと貴女と居られると思ったから。貴女は、私の為に生きて欲しいと願ってしまったから。人が生きる為に必要なことが分かれば、私はそれになれるから。
だから、私は月見ヤチヨになった。
私がなるしかなかったからじゃない、輪廻とか、世界とか、そんなものはどうでもよかった。勿論、彩葉と再会するのに必要なことだったことは理解している。けれど、遠い記憶の中、私がいるから生きている貴女がいたから。そんな小さくて特別な理由で、私は月見ヤチヨになった。
あの日、あの時、彩葉の生きる理由になった私。故に、私はここにいる。…………故に、私は私になった。
――――かぐや。
そんな彩葉の呼び声で、加速し続けていた思考が急速に引き戻される。
泣いているような、呻いているような、助けを求めているような、そんな声が聞こえてきた。……あぁ、起きちゃったのか。時間は一分程しか経っていないだろうけれど、少し一人にさせすぎちゃったな。
蛇口を急いで締めて、水を溢さないよう早歩きで彩葉の元へと向かう。
道すがら、彩葉の叫び声は絶えず聞こえてきて、その度に唇を強く噛み締めた。
扉の前で深呼吸をして、ゆっくりと開ける。
「────ふぅっ……ふぅっ……!! かぐや……かぐや……!! どこ……!? どこにいるの……!! やだ……!! やだ……!! 一人にしないで……!!」
……あぁ、ここはなんて暗い部屋だろう。
静寂と墨色に満ちた暗闇に、彩葉の震えと恐怖だけが反響している。
時刻は午前三時。高層に位置するこの部屋からは夜空が良く見えるのに、雲一つ無い、月明かりが綺麗な夜だとテレビは言っていたのに、黒いカーテンを閉め切って、夜空から逃げるように隅で蹲る彩葉。体を守るように両手で全身を覆って、震えながらうわごとのように私の名前を呼び続けるその姿は、他の人が見ればいつもの彩葉とは全くの別人なんだろうけど、私にとっても、彩葉にとっても、酒寄彩葉という存在に違いない。
そんな彩葉の場所まで、一歩、また一歩と冷んやりとした床を踏みしめれば、ギシリと軋むような感覚が手の平にある水面を揺らす。ゆらり、ぐわりと揺れるコップから溢れないように、慎重にゆっくりと歩く。
「彩葉」
穏やかに、刺激しないように、努めて優しく。笑顔を絶やさず、不安を取り払うように、ここにいるよと言うように。
私の声が聞こえた瞬間、彩葉はその顔を勢いよく上げて、その混濁した水晶体に私のことを閉じ込める。
「っ!! かぐっ、かぐやっ!! ど、どこにいたの!? どこに行ってたの!! わたっ!! 私はここで!! …………いや、違う……違うの……!! ごめっ!! 違う……わ、私……!! 違うの……!!」
私を繋ぎ止めようと、彩葉が二の腕を掴んでくる。その衝撃でほんの少し水が零れてしまったが、そんなものは気にしない。こんな些細なこと、気にする必要が無い。今はまず、錯乱してしまった彩葉を落ち着かせることが先だ。
ゆっくりと、静かに、コップに月が映らないことを確認して床に置き、声をかけると同時に抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だよ彩葉。…………ほら、お水持ってきたから飲んで?」
「またっ!! またっ、居なくならないで……!! 傍にいて……!! お願い……!!」
「……ごめんね、不安にさせちゃったよね。大丈夫、私はここに居るよ。ずうっと彩葉と一緒にいるからさ」
「かぐっ、かぐや……!! かぐや……!! 違う!! 違うの!! あ、ああんなこと言うつもりじゃ!! 私っ!! 不安で不安でしょうがなくて……!! ごめん……!! ごめんなさい……!!」
「大丈夫、大丈夫だよ。全部分かっているから。何も考えなくていいんだよ。今は何も考えなくていいの」
「あ……あぁ……!! かぐや……!! かぐや……!! かぐや……!!」
背中に力強く這う指で繊維が切れて、短く切り揃えられた爪の感覚が、布越しに突き刺さる快楽が伝播する。この零地点から私の感覚の全てを、痛みを、痺れを、愛おしさを、彩葉が全て与えてくれていると思えば、喉元から鉛のように粘り気のある熱さが込み上げてくる。
その最中に、何度も、何度も彩葉が名前を呼ぶ。抱きしめながら、私の存在を確かめるように。息も絶え絶えになりながら、震える体で必死に呼吸しようとしているその心と体で、私を閉じ込めようとしているんだ。自分だけが存在を分かるように、誰にも渡さない為に。……この姿の、なんて可愛らしいことか。
「ごめんね……ごめんねかぐや……!! こんな……!! かぐや……!!」
「……うん、大丈夫。私は彩葉の全てを受け入れるよ。迷惑だって思ってないけど、ちゃんと迷惑だって思ってあげる。彩葉の全部を否定しない、肯定する。だから、今だけは何も心配しなくていいよ」
苦しい、どこにも行かないで、離れないでという胸中に突き動かされるままの体を、何度も優しく叩いて安心させる。
きっと、今の彩葉に何を言っても届かないだろう。言葉も、声も、今の彩葉には根本的な解決になり得ない。それでも、安心させることはできる。時間がかかろうが、どれほどの不安と恐れが支配しようが、私はそれを取り払える。
……私以外に、彩葉を救うことはできない。彩葉もきっと、そう思ってくれてる。だからこそ、こうして私に縋りついて、私を頼ってくれているんだろう。いや、きっとそんな難しく考えていない。
彩葉にとって、これはもっと単純で、簡単なものだ。
「かぐや……かぐや……かぐや……」
「……彩葉、大丈夫だよ……大丈夫……大丈夫……大丈夫……」
────トン……トン……トン……トン……。
一定のリズムで、背中を叩く。
────トン……トン……トン……トン……。
安心させるように、ここにいるよと言うように。
「……かぐや…………かぐや…………かぐや…………」
「大丈夫…………大丈夫…………大丈夫…………」
────トン…………トン…………トン…………。
何度も、何度も、何度でも。
────トン…………トン…………トン…………。
「…………かぐ…………や……」
「…………大丈夫…………ここにいるよ…………だから、ゆっくりお休み…………」
そうして、どの位経ったか。数分のようにも感じるし、途方もなく長い時間のようにも感じた。
デジタル時計は見る気にならない。彩葉だけを見ていればいいから。スマホだって、スマコンだって、この部屋には持ってきていない。そんな不純物、私達だけの世界に持ってくる必要がない。
燻んだ灰色を滲ませた瞼を閉ざし、ゆっくりと呼吸をする彩葉を布団の場所まで持っていき、横に寝かせる。私も同じように横になり、眠る彩葉に額を合わせる。サラサラと、十年前と何も変わらない貴女の髪を、私の頭に重ねさせる。ドレスのベールみたいだね、二人だけの、結婚式だ。なんて言っても、返してくれる声は無い。それでもいい、それでいい。彩葉がゆっくりと眠ってくれているなら、それ以上のことなんてない。
私も、瞼を閉じて眠りにつく。
体内の計器を作動させると同時に、睡眠機能も作動させれば、徐々にシステムがスリープモードへと移行する。
意識が段々と朧げになり、落ちるような感覚になろうとも、彩葉のことを想い続ける。意識を同化し、人と、彩葉と共に眠ることが出来ないのは悲しいが、今は彩葉の手を握りながら眠れることを喜ぼう。
「彩葉は……さ………」
グッと、出かかった言葉を飲み込んで。静かに呼吸をし続ける。
「……ごめんね、なんでもないよ」
────ねぇ、彩葉。貴女は、私と再会することができた貴女は、今、何を目指して生きてるの?
最後まで彩葉の手を離さないまま、私の意識は落ちていった。
いつだって目が覚めるのは一瞬で、浮上する意識なんて感じる間もないまま目を開く。なんだか、頭を撫でられるような感覚がする。こんなことができるのは一人だけだから、その愛おしい感覚に身を委ねる。
寝起きのせいで作動が遅れる虹彩センサーが朧げながら捉えたのは、申し訳なさそうに、それでいて感謝しているように私の頭を撫でる彩葉の姿だった。
彩葉は私が起きたことに気が付くと、その撫でた手のまま目元を拭ってくれながら、小さくはにかむ。拭ってくれたおかげで朧げだった輪郭がハッキリとして、しっかりと彩葉の顔が見えるようになる。
「…………おはよう、かぐや」
もう既にカーテンは大きく開かれていて、窓から差し込む朝日の輝きと、高く羽ばたきながら鳴いている鳥が、私達の部屋を明るく彩っていた。
……あぁ、また朝が来ちゃった。なんて、彩葉には言えないようなことと共に、心の中で大きくため息をつく。
「……おはよう、彩葉。今は、大丈夫?」
それでも彩葉が心配なことに変わりないから、その手をぎゅっと握りしめて聞けば、辛そうな顔をより深くして笑う。
「うん、今はもう大丈夫。……ごめんね、色々とさ」
「気にしないで。……私はずっとここにいるよ」
「……うん、ありがとう」
昨日と同じように抱きしめながら、落ち着かせるように背中を叩く。ほんの少しだけ、いまだに震えるその体は、彩葉がまだ壊れていない何よりの証だった。
────不眠症、分離不安症、ナイトメア症候群……etc。
彩葉の心を蝕むその恐怖の正体は、それらしい名前を検索して羅列しても、正確なものは存在しない。いや、あることにはあるだろうけれども、彩葉が知ろうとせず、病院に行くことを拒否してるからしょうがない。
あれから十年以上経っても、彩葉は相も変わらず病院が嫌いで、よっぽどのことがない限り、熱が出ようが咳が出ようが家に引こもるだけだ。いつだったか、40度近くの熱が出たにも関わらず、病院に行きたくない、私と一緒にずっと居ると幼児退行してたのはちょっと面白かったなんてことも、今となっては笑い話。……それはそれとして、病院に行って欲しい気持ちはあるけれど。けれど、今はその気持ちを見ないふりする。
「「いただきます」」
二人で手を揃えて、声を合わせる。私が並べた食事に、彩葉が口をつけるを見届けて、私も口に運ぶ。
テレビも付けず、スマホも付けず、ただ食器がぶつかる音だけが、リビングに木霊する。
これは決して不仲だったり会話が無いわけではなく、彩葉が苦しんだ次の日はいつもこんな感じだ。美味しいよ、いつもありがとう、なんて言葉はあるけれど、そこから派生する会話もなく、一言二言で会話は終わる。
「……今日はさ、早く帰ってこれそう?」
「……うん、帰ってくるよ。満月はまだ欠けないからさ」
……満月。即ち月。彩葉が狂ってしまう引き金に、思わず反射的に身構えてしまうが、上手く取り繕えたと信じたい。グッと込み上がるものをなんとか抑え込んで、いつもと変わらない笑顔を貼り付ける。
「……なら良かった〜。あ、無茶しないでよ? 今日は早く帰ってくること! 分かった?」
「ふふ。はいはい、分かってるよ。大丈夫、ちゃんと早く帰ってくる」
太陽が出てる間には帰れるよ。そんな彩葉の言葉が、いやに耳に残る。それを咀嚼音で誤魔化しても、思考に張り付いた何かは私の頭から出ていってくれない。不安か、恐怖か、何に対してか、その輪郭はつかむことが出来ず、すぐに霧のように消えていく。
平和で、幸せな食卓。彩葉との、大切な時間。一分一秒でも無駄に出来ないというのに、胸中を隠してしまうようになってしまった私達の『人』の在り方に、ほんの少しだけ悲しさが出てくる。――――でも、これが大切なものを守るってことなんだもんね。仕方がないんだ。そうやってなんとか自分に言い聞かせて、無理矢理にでも納得しないと、食事が喉を通らなかった。
そうしているうちに二人のご飯は無くなっていって、ごちそうさまでした、って二人揃って手を合わせる。
「……じゃあ私そろそろ出るから、シンクに置くだけになるけどごめんね」
「うん、ありがとう。仕事終わったらツクヨミに来てね? 勿論家から接続すること!」
「心配性だなぁ、わかってるよ。いってくるね」
「うん。…………行ってらっしゃい」
「……うん、行ってきます」
手早く身支度を終わらせた彩葉が、家から出ていってしまう。その瞬間、暖かかった部屋から急速に温度が消えてしまい、すぐにシン……とした凍える静寂が訪れるこの時間が、私の唯一嫌いな時間だ。
「……さて……と」
食器を洗うことだったり、やるべき家事自体は残っているけれど、それよりもやらなければいけないことがある。やらなければいけない、というより、やりたいこと、の方が近いのかもしれない。自分の中に燻るようにチリチリと燃える焦燥感に突き動かされるまま、ソファに座って眼を閉じる。
目を閉じてから数秒、グニャリと、自分の思考と意識が歪む感覚の後、背を預けていたソファが手品のように消えて、0と1の濁流に流されていく。大きな水音を立てながら、私の全ては有象無象の電子の海へと落ちていく。
粒子状に変換される自分の体が、煌めく泡と共にどこでもない宙へと昇り、やがてそれは私となって、どこでもない水面の上に立つ。どこまでも蒼い、澄み渡る偽りの天蓋と、果てのない美しい水面のここは、ツクヨミであって、どこでも無い場所。完全に独立した私だけの空間は静かで、風すらも無い、あの彩葉が出かけた後の家と同じような静寂。
その気持ち悪さと寂しさからなんとか目を背けて、ヤチヨへと意識を変換させる。頬を人差し指で持ち上げて一つ確認。……うん、大丈夫。きちんと笑えている。
「ヤチヨ、おかえり」
どこからともなくぴょんっと跳ねて、私の肩に乗るFUSHIを一つ撫でて、ただいまのキスを一つ。私がいない間、サーバーを守ってくれたFUSHIへの労いを込めて。
「今日もツクヨミは平和で、特にやるべきことは─────」
……でも、もう少しだけ頑張ってもらわないといけないかも。
そんな私の意図を汲んでか、FUSHIは理解したように頷く。
「…………あぁ、分かったよ。存分に考えてくるといいさ。ここは僕に任せていいから」
「…………いつもごめんね」
「……謝らなくていいよ。僕はかぐやと彩葉が幸せなら、それ以上に求めるものなんて無いさ」
本当にこの子は、どうしようもなく私達のことを考えてくれている。
そんなFUSHIの心遣いと、私達への願いに甘えて、虚空に片指をなぞらせる。その瞬間、パッと世界が変わって、そこはいつもの天守閣────ではなく、私達の思い出の場所。彩葉と出会い、何よりも楽しかった二ヶ月の始まりの場所へと変貌する。
彩葉に八千年を語ったあの時とは違い、テーブルの上には何も無く、私と彩葉との思い出だけが世界の全てだった。
テーブルの前に静かに座り、何もない場所にもう一度指で触れる。
すると小さなウィンドウがそこに現れ、一つの動画が再生される。その中にいるのは、何よりも愛しい彩葉の姿。十年前の、まだあどけなさが残る過日の貴女は、動画の中で照れ臭そうに笑いながら挨拶をしている。
『────み、皆さん〜……こんにちは……い、いろPでーす……』
この場面を見るたび、一人での配信なんてしたことないから、そうなっちゃうのもしょうがないよねって笑みがいつでも溢れる。
動画のタイトルは、『かぐや復活記念!! いろP十年間の配信名場面集!! ~これさえ見れば万事解決!!~』私が編集投稿した、完全に個人的な趣味と間違われてもしょうがない動画。その数時間にもわたる切り抜き動画の、一番最初の場面。
『…………えっと、見えてますか? 声、聞こえてますか? …………うん、大丈夫そう……かな。ありがとうございます』
彩葉が私の居場所を、思い出を守り続けてくれた、大切な十年間の最初の一歩。
何故だかわからないけど、これを今見なければいけないと思った。今年は大きな節目だからなのか、義体が完成したからなのか、あるいは復活記念ライブが目前に迫っているからなのか。……いや、私は知りたいのだ。考えたいのだ。彩葉が生きるために必要なものに、私がなるために。そんな焦燥感のような何かに動かされるまま、私は画面を注視する。
『…………すぅ……ふぅ……まず、先日行われたかぐやの引退ライブ、沢山の方に来ていただき、見ていただき、本当にありがとうございます。そして、突然の引退発表ということで、色々とご心配とご迷惑をおかけしてしまったことを、お詫びさせていただきます』
深く、大きく深呼吸をして、十年前の貴女が話し始める。
リアルタイムで見守っていたし、何度見返したか分からないけれど、その度に温かい気持ちになれる、私の大好きな場面の一つ。
『様々な憶測がございますが、先日かぐやいろPチャンネルから発表させていただきました通り、かぐやに何かあったというわけではなく、主に家庭の事情で引退せざるを得ない状況となってしまいました』
『これからのかぐやいろPチャンネルについてですが────』
貴女は、そこで言葉を止める。
『…………』
貴女は、呼吸をもう一度整えて、その眼に決意を漲らせた。
『…………かぐやは』
……貴女は、私の名前を呼んだ。
『……あの子は、私ともっといたいと言ってくれました。それは嘘偽り無い本心で、きっと皆さんと一緒にいたいという願いもあります。だから、いつか、いつかまた。かぐやが必ず、皆さんの所へ帰ってこられるように。私達が、再会できるように。私は最善を尽くすつもりです』
優しく、ふんわりと、それでもその声は何よりも硬く美しい願いと光を宿していた。
『どうか、どうかそれまで。私達の思い描くハッピーエンドまで、永い年月になるかもしれませんが、待っていただければと思います』
「…………彩葉」
画面上の貴女に、指を沿わせる。愛おしい貴女へ、私の全てである貴女へ。動画は再生を止めて、彩葉の笑う顔が映し出されている。
……どうやったら、貴女は私だけの貴女になってくれるの? どうしたら、貴女の生きるために必要なものになれるの?
彩葉の苦しみも、喜びも、悲しみも、全て私だけであって欲しい。
苦しんでいる時に、その苦しみを、痛みを取り除けるのは私だけであって欲しい。
彩葉は私のことを愛してくれているし、私を頼ってくれていることも分かる。理解している。
でも、それでも、足りない。何もかも、彩葉が足りていない。
もし、もしも、あの不安で苦しむ彩葉が、他の人を頼るようになったら? 他の人に縋るようになったら? 研究のことだってそう。私の研究じゃなくて、他のものを研究するようになったら? 私が彩葉の生きる理由ではなくなって、私が要らなくなってしまったら?
信じられない、想像できない。想像したくもない。母音の音ですら、この最悪なバットエンドを発したくない。
不安。そう、私は不安なんだ。
彩葉の生きる理由にならなければ、彩葉の生きるために必要なものにならないと、いつかまた別れてしまうことになるかもしれない。またあの世界で、ひとりぼっちで、今度こそ永遠に彩葉のことを想い続けることになるかもしれない。
嫌だ。そんなもの、あってはいけない、ありえてはいけない、ありえる未来として想像すらもしてはいけない。
「うえっ……おえっ……かはっ……!!」
データとして処理されるはずの嫌悪感と吐き気が、喉の奥から込み上げてくる。一瞬でも想像してしまった自分が馬鹿だった。
いくらツクヨミが現実に限りなく近い存在だとしても、こんな生理現象は起こらないはずだけれど、現実に属しながらなによりも仮想世界に近い私は話が別で。
「はぁ……はぁ……彩葉……彩葉……!!」
吐瀉物なんかは出てこないけれど、この不安を吐き出したくて仕方がない。
震える手をもう一度ウィンドウに触れさせて、動画を再生する。
十年の軌跡だけじゃ足りない、私の配信も見ないと。彩葉の全てを見て、考えないといけない。理解しないといけない。
必要なんだ。何よりも強い、生きるために必要なものが。推しとか、友人とか、恋人とか、夫婦とか、そんな生ぬるいものじゃいけない。理由ですら弱い、心の底から安心できる、確固たる生きるために必要なものにならないと。
――――もう一つ、ウィンドウを追加する。
それでも足りない。思考の深度が足りない。目が足りない。
「…………足りない」
――――もう一つ、もう一つ、ウィンドウを追加する。
まだ足りない。何もかもが足りていない。
彩葉の声を、視線を、身振り手振りを見逃すな。考え続けろ。理解しろ。
「足りない……足りないの……!!」
――――もう一つ、もう一つ、もう一つ、ウィンドウを追加する。
同時に再生される複数の声が部屋に響いて、大好きなはずの声なのに、何よりも愛しい人なのに、くれるのは安心感とは程遠くて、私の不安はどんどんと大きくなる。
「ダメ……ダメ……!! ダメダメダメダメ……!!!!」
――――もう一つ、もう一つ、もう一つ、もう一つ、もう一つ。
何が足りない? 必要なものは? どうしたらなれる??
「生きる理由にならなきゃ……彩葉の生きるのに必要なものにならなきゃ……!!」
思考が、心臓が、噴き出ないはずの汗が、私の全てが徐々に加速して、世界の全てから私が置いていかれる音すらも聞こえなくなった。
足りない。考えろ。彩葉の一言一句を聞き逃すな。全てを考えて理解しろ。
好きなもの……………嫌いなもの…………ゲームの動き………勉強……不安なこと…将来への羨望私との思い出昨日の話学校であった楽しかったこと体育祭文化祭修学旅行卒業旅行大学合格の祝い鞄のこと記念配信歌枠コラボ配信黒鬼との兄妹配信バイトのこと夢の話睡眠不足高校時代の思い出芦花と真実の話花火大会電車の話痛みの話病院嫌いの話質問返し歩いた場所旅行に行った話ちょっとしたくじに当たった貯金のこと今日のご飯好きなアーティスト最近ハマっていること技術の進歩好きな小説好きな漫画季節行事桜雨雪木枯らし台風ゲーム大会出場楽曲作成グッズのことライブ外部コラボツクヨミの過ごし方立ち上がった転んだ水を飲んだくしゃみをしたあくびをした鼻をかんだタイピングをしたペンを持った姿勢を正した椅子をひいた髪を解いた前髪を直した頬を掻いた耳を触った目を擦った首を回したため息をついた喉を鳴らした口を開いた唇を舐めた歯ぎしりをした指を動かした足を動かした瞬きをした呼吸をした私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私のこと私の─────
「─────かぐや」
加速した世界が、貴女の声で、現実と同じ時間へと、引き戻される。
ふわりと、後ろから抱きしめられた。
「…………こんなに散らかしちゃって。そんなに寂しかったの? 電話でもくれればよかったのに」
背中に感じる、昔にはありえなかった暖かさと、首元に添われる手の存在感が、何よりも貴女を示していて。嬉しくて、安心したくて、不安を消してほしくて、同じように私の手を添える。
「…………いろ、は」
気が付かなかった。あまりにも集中しすぎていたせいで、もう彩葉が帰る時間になってしまっていたんだ。
「うん……ただいま、かぐや。遅くなっちゃったかな?」
「あ……ご、ごめんね? ヤッチョ寂しくて、彩葉の動画を夢中で――――」
「かぐや」
貴女は、私の名前を呼んだ。
咄嗟に取り繕うと笑顔を浮かべる私に、優しく、穏やかに微笑んで、私の全てを見透かすように。
「…………大丈夫だよ。私がここにいる。ずっと一緒だって、かぐやもそう言ってたじゃん。だから、大丈夫」
私の胸中を知ってか知らずか、頭を優しく撫でながら抱きしめて、大丈夫だって声をかけてくれる。
……そうなんだけど、そうじゃない。
「…………かぐや?」
彩葉の顔を見ることができない。少し体を押しのけて、俯いたまま、口を開く。
「……………彩葉、が」
「…………なぁに?」
これは、言わなくてもいいこと。言ってはいけないわけではないけれど、言わない方がいいこと。でも、言わなければいけないと、必ず言わせるというその穏やかな圧が、私の喉を震わせる。
「…………彩葉が、夜に、満月にあんなに取り乱すのは、どうして?」
彩葉の顔は見えない。見てはいけないような気がしたから。
この事は、なんとなく予想は着いているけれど、私達の間では暗黙の了解になっていて、言葉にして聞くのは初めてだった。
「…………かぐやが、さ」
それでも彩葉は、少しの沈黙の後、間を置いて話してくれた。
「────私のことを、見てくれるからかな」
「────え?」
それは私の予想していた答えと違っていて、思わず顔を上げて彩葉の顔を見れば、そこにあったのは先程よりも深く、優しく、微笑む彩葉の顔が。けれども、その瞳には光が点っていなかった。光よりももっと濃く、私だけを写していた。
「……あぁ、やっぱり分かっていなかったんだね」
頬に手を添えられて、なぞられるその指の動きは甘美な痺れを私にもたらす。その甘さが、私の不安をジワジワと上書きしてきて、ただ彩葉だけで染め上げられていく。
「最初は不安からだった。かぐやがどこかに行っちゃうんじゃないかって、また帰るんじゃないかって、始めはそうだった。……でもさ、気付いてる? 私を宥めてくれるかぐやは、凄く嬉しそうなんだよ」
彩葉の声が、言葉が、私を支配する。
添えられた手からドロドロに溶け始めて、一つに混じり合うような錯覚に陥る。いや、錯覚じゃないのかもしれない。
「私が不安でかぐやに縋れば、かぐやは私だけを見てくれる。かぐやは私を捨てるわけがない、見捨てるわけがない。そうでしょ?」
「…………それは、勿論そうだよ。彩葉のことを見捨てるなんて、ありえない。どんな姿でも、どんな物でも、彩葉は彩葉だから」
「…………うん、そうだね。だから、私は苦しむの。貴女が見てくれるから、貴女が愛してくれるから。……さ、私は話したよ。次は、かぐやの番」
私達は、今確かに混ざり合っているんだろう。言葉で、体で、心で、過去恋と愛で繋がった私達が、二人だけだった存在が一つになろうとしているんだ。なら、私も曝け出さなければいけないんだろう。
私達は、分かり合っている。何が欲しいのか、どんな言葉が欲しいのか。その合間に、今この瞬間に、余計な逡巡や間延びさせるセリフなんて要らない。ただ、突発的だろうとなんだろうと、私達は心を曝け出す必要がある。
「……わた、しは……」
「……うん」
たどたどしくなるのは、きっと貴女と混ざり始めているから。上手く発声できているか分からないのは、貴女の意識と溶け合い始めているから。
「……彩葉の、生きる為に必要なものになりたかった」
「……だから、私の動画を沢山表示させていたの?」
「……彩葉を理解すれば、彩葉の全てを見ることができれば、貴女の生きる為に必要なものになれると思ったから……」
「もう十分、かぐやは私の生きる理由だよ。そうじゃなきゃ、かぐやに人生を捧げてないよ。……それじゃダメなの?」
「…………ダメ、ダメなの。理由なんかじゃ弱すぎる。彩葉が喜ぶのは私のものだけでいてほしい。彩葉が怒るのは私のことだけにしてほしい。彩葉が哀しむのは苦しむのを取り除くのは私だけであってほしい。彩葉が楽しむのは私とすることだけでいてほしい。彩葉が生きる理由は、必要なものは、彩葉の全ては、私だけであってほしいの」
「……そっか」
「他の人に頼られたくない、私だけ頼ってほしい。私以外見ないでほしい。私があげるもの以外、なにも受け取らないでほしい。生きる理由も、生きる意味も、生きる為に必要なものも、全部私だけ……私だけが、彩葉にあげられるから……だから……私を生きる為に必要なものにしてほしい……」
「……私だって、同じだよ。他にも何も要らない。かぐやが私の人生に意味をくれた。かぐやが私の生きる理由に、意味に、必要なものになってくれた。かぐや以外に、何も要らない。……私も、私がかぐやが生きる為に必要なものになれるなら、それだけでいい」
波長が、心が同化していくのが分かる。同じように頬に手を添えて、どちらともなく唇を重ねる。
精神的にも、物理的にも繋がれるように。
「んっ……ふぅっ……」
「んくっ……んっ……」
重ねて、ずらして、合わせて、揺らいで。二人の体温が、熱が、恋が、愛が、ぐちゃぐちゃになって真の意味で一つになる。
ぐちゅり、くちゅりと、貴女がくれたこの感覚が、感情が、水音になって部屋に響く。
「はっ……いろは……病院なんかに行っちゃだめ……私だけ……私だけが……んっ……ふぅっ……はむっ……ふはっ……彩葉の苦しみを救えるの……私だけ……私だけを愛して……他の人なんて頼らないで……どこにも行かないで……んぐぅっ……」
「んっ……らぇっ……んくっ……はっ……分かってる……分かってるよかぐや……大丈夫……病院なんか行かない……かぐや以外なんて要らない……他の誰にも頼らない……かぐやの愛以外要らない……ふぅっ……んぐっ……私には、かぐやだけいればいいから……」
「いろは……いろは……」
「かぐや……かぐや……」
────ねぇ、彩葉。約束、しよっか。
私達は、互いに生きる為に必要なものになる。他の何も要らない。存在理由は、ただ互いの為だけ。……もちろん、ふわふわなパンケーキを食べるとか、一緒に出かけたりとか、他にも楽しいことはするけれど、その奥底は、真理は、ただ互いの為だけに生き続けること。
この約束に、祝福なんて要らない。必要なのは、ただ私達を縛り付ける永遠の愛の呪いだけ。
乱れて消える服と、混じり合い一つになる体温に溺れる最中、私は問の真理を垣間見た。
人が生きる為に必要なもの─────
─────故に、我らの愛に呪いあれ。
























何も問題ないな、これはハッピーエンドだ!!!