白い壁に、文字が浮かんでいた。
『両想いにならないと出られない部屋』
○○は、死んだような顔でそれを見上げていた。
読み間違いであってほしかった。
誤訳であってほしかった。
あるいは、秘境特有の悪趣味な冗談であってほしかった。
よりによって。
ローエンと。
この条件で。
ありえない。
○○がその一文を認識した瞬間だった。
背後で、ガチャリ、と音がした。
「よかったな、○○♡」
○○は本気で絶望した。
ローエンは、障害だった。
目標でもあった。
そして、○○の誇りをいちばん深く傷つける相手だった。
○○が必死に守ってきた場所へ、何食わぬ顔で立ってしまった男だった。
騎士団に入ってから、○○はずっと戦場で役に立つことだけを考えてきた。
前に出ること。敵を引き受けること。仲間が進む道を開くこと。
戦場では迷わずにいられた。剣を取れば、役目がある。敵を倒せば、誰かの役に立てる。
危険な場所へ踏み込めば、自分がここにいていい理由になる。
血の匂いの中でだけ、○○は自分の輪郭をはっきり感じられた。
だから戦場で笑った。
花が咲くように。舞うように。危うい足取りで、けれど誰より綺麗に。
戦場の中で、○○はひとりだけ別の音楽を聞いているように動いた。
怒号も、剣戟も、魔物の咆哮も、すべて拍子に変えて、血の上を滑る。
刃が頬をかすめても、矢が髪を裂いても、足は止まらない。
怖くないわけではない。
痛みを好んでいるわけでもない。
それでも、傷を恐れて後ろへ下がるくらいなら、前へ出て役に立ちたかった。
返り血を浴びて笑う○○は、味方から見れば頼もしい戦力であり、敵から見れば赤い花のような悪夢だった。
それは○○の誇りだった。
ローエンは、その光景を一度だけ見ていた。
傷を負うほど鮮やかに笑う女を、止めるでもなく、褒めるでもなく、ただ少しだけ目を細めて見ていた。
その視線が何を意味していたのか、○○にはわからない。
ただ、その日から時々、ローエンの目がこちらを追うようになった。
そして、ローエンは○○が守ってきた場所へ踏み込んできた。
彼は強かった。
ただ強いだけではない。
判断が速い。無駄がない。
危険な場所へ迷わず踏み込むくせに、味方への被害は最小限に抑える。
自分が命を削って立っていた場所に、当然のように立つ。
○○が必死に磨いてきたものを、ローエンは涼しい顔でやってのけた。
悔しかった。
憎いと思った。
認めたくないと思った。
それでも強いと、わかってしまった。
だから目が離せなかった。
戦場でローエンが前へ出るたび、○○は笑顔の裏で奥歯を噛んだ。
ローエンが敵陣を割るたび、心臓の奥が熱くなった。
ローエンが軽く褒めるたび、腹立たしいほど胸が跳ねた。
違う。
これは恋ではない。
競争心、向上心、敗北感、屈辱。
何度もそう言い聞かせた。
けれどローエンは、その全部を面白がっていた。
一人で強敵を狩りに行った日もそうだった。
狩れはした。
生きて帰ってきた。結果だけ見れば十分だった。
けれど、○○にはわかっていた。
ローエンなら、もっと早かった。もっと正確だった。もっと少ない傷で戻った。
その事実が悔しくて、唇を噛み切るほど悔しくて、血の味を隠しながら帰ってきたところを、よりによってローエンに見つかった。
「ずいぶん派手に遊んできたな」
そう言われた瞬間、○○は笑った。
何事もなかったように。
穏やかに。
血まみれのまま、花が咲くように。
だがローエンはすぐ見抜いた。
悔しがっていること。負けたと思っていること。自分に届きたくて、頭の中がいっぱいになっていること。
そして、楽しそうに笑った。
「俺に勝ちたかったんだろ」
違う、と言った。
何度も言った。
けれどローエンは信じなかった。
信じないどころか、その日からローエンはことあるごとに○○を連れ出すようになった。
「暇か」
「暇ではありません」
「ならちょうどいい。魔物狩り行くぞ」
「会話が成立していません」
「俺に届きたいなら、見て覚えろ」
それだけで、○○は黙った。
命令ではない。
頼みでもない。
ただ、目の前に餌を置かれただけ。
行かなければいい。
無視すればいい。
ローエンに乗せられる必要など、どこにもない。
けれど、○○は行った。
鍛錬のためだ。
勝つためだ。
あの男が何を見て、どこへ踏み込み、どうやって敵を崩しているのか知るためだ。
そう自分に言い聞かせて。
それから、魔物狩りが始まった。
最初は、ただの実戦だった。
ローエンは容赦なく○○の癖を突いた。
踏み込みが綺麗すぎる。
視線で狙いがわかる。
避け方が上品すぎる。
痛みを嫌うくせに、痛みを計算に入れすぎている。
魔物の爪をかわした直後に言われる。
敵の群れを抜けた瞬間に笑われる。
息を整える間もなく、次の獲物を示される。
「遅い」
「今のは悪くない」
「そこ、綺麗に避けようとすんな。殺すなら踏み込め」
「噛むな。口の中切る癖、いい加減やめろ」
指摘されるたびに腹が立った。
腹が立つのに、どれも正しかった。
ローエンが声をかける。
「来いよ」
○○は行く。
魔物狩りのためだ。
実戦経験のためだ。
勝つためだ。
弱点を正確に分析できる相手が必要なだけだ。
そう言い訳をして。
ローエンが褒めると嬉しい。
煽られると腹が立つ。
名前を呼ばれると反応する。
「噛むな」と言われると、唇を噛むのをやめてしまう。
最悪だった。
まるで、見えない首輪だった。
○○はそれを絶対に認めなかった。
認めてたまるものかと思っていた。
それなのに。
今、秘境の扉は開いている。
『両想いにならないと出られない部屋』
その条件を、何もしないうちに満たしたらしい。
ありえない。
そんなわけがない。
○○は現在に引き戻され、ローエンを睨んだ。
笑顔はもう保てていなかった。
部屋の奥には、一枚の扉がある。
さっきまでなかったはずの扉だ。
しかも今、鍵の外れる音がした。
どう考えても、あれだ。
この部屋の出口だ。
ローエンはためらいなく扉へ歩いていった。
「待ってください」
「何だよ」
「不用意に触れないでください。罠かもしれません」
「開くか確認するだけだろ」
「検証手順が雑です」
「お前が面倒くさいだけだろ」
ローエンは扉に手をかけた。
軽く押す。
抵抗もなく、扉は開いた。
外の光が差し込む。
ローエンは振り返り、にまあ、と笑った。
「両想いだってよ」
「うそだぁ……」
○○の声は、ほとんど魂が抜けていた。
ローエンはもう、完全に面白がっている顔だった。
「まだ認めねえのか」
「……」
「○○♡」
「いや゛!!」
ローエンは声を出して笑った。
「お前、ほんと詰めるとすぐぼろぼろ出るな」
「出てません!!」
出ていない。
何も出ていない。
自分はいつも通り冷静で、穏やかで、理性的で、何ひとつ動揺などしていない。
そのはずだった。
「わたしはあなたが嫌いです!! 意地悪だし、すぐ煽るし、人の弱みを見つけると楽しそうにするし、笑い方もむかつくし、性格が悪いし、近いし、呼び方もずるいし、全部嫌いです!!」
「よく見てるな」
「嫌いだからです!!」
「好きなやつの観察量だろ」
「違います!!」
「扉、開いてるぞ」
「秘境が勝手に!!」
「俺は好きだけどな」
「はあ~~~~~!!?」
ローエンは悪びれもせず言った。
あまりにも平然と。
まるで今日の天気を告げるみたいに。
○○の顔が熱くなる。
「やめてください!!」
「何を」
「そういう、条件を満たすための方便を本心みたいに言うのを!!」
「扉はもう開いてる」
「だから何ですか!!」
「俺側は問題ねえってことだろ」
「責任をこっちに押しつけないで!!」
ローエンは一歩近づいた。
○○は一歩下がる。
さらに一歩。
また下がる。
背中が壁に当たった。
「逃げ場なくなったな」
「あなたが悪いです」
「俺を見すぎたお前が悪い」
「見てません!!」
「じゃあ目ぇ逸らせ」
○○は黙った。
逸らせばいい。
簡単なことだ。
たかが視線だ。
ローエンの顔など見なければいい。
なのに、目が動かなかった。
ローエンの笑みが深くなる。
「ほらな」
「……嫌いです」
「はいはい。嫌い嫌い」
ローエンは満足そうに言って、○○の腕を掴んだ。
「出るぞ」
「出ません!! 出たら認めたみたいじゃないですか!!」
「もう認めたようなもんだろ」
「認めてません!! わたしはもっとちゃんとした人が好きなんです!! ディルックさんとか!!」
ローエンの眉が動いた。
「俺の前で他の男の名前出すな」
「まだ付き合ってません!!」
「両想いだろ」
「秘境が勝手に!!」
「じゃあ浮気未遂か」
「罪を作らないで!!」
ローエンはため息をついた。
「はいはい、帰るぞ」
「待って!!」
「待たねえ」
次の瞬間、○○の体がふわりと浮いた。
脇に抱えられていた。
完全に荷物だった。
任務帰りに回収された備品みたいな扱いだった。
「下ろして!! 自分で歩けます!!」
「歩かねえから運んでんだろ。暴れたら落とすからな」
「人の尊厳を荷物みたいに運ばないで!!」
「恋心も一緒に運んでやるよ」
「恋って言わないでぇ!!」
ローエンは笑いながら、開いた扉をくぐった。
○○は最後までじたばた暴れた。
「いやだ!! 絶対に認めません!!」
「扉は認めてる」
「わたしが認めてません!!」
「じゃあ外で続き聞いてやるよ」
「聞かなくていい!!」
秘境の外へ出た瞬間、背後で扉が音もなく消えた。
ローエンはようやく○○を地面に下ろす。
○○は着地するなり背筋を伸ばした。
何事もなかった顔を作ろうとした。
作ろうとしただけだった。
「いや゛~~~~!!」
○○は両手で顔を覆った。
悔しい。腹立たしい。信じられない。ありえない。
ローエンなんて嫌いだ。
意地悪で、性格が悪くて、人の反応を見て楽しむような男だ。
自分の理想とはかけ離れている。
もっとまともで、落ち着いていて、誠実な人がよかった。
明日の魔物狩りには、きっと行く。
呼ばれれば、行ってしまう。
それが何より腹立たしかった。
ローエンはそんな○○を見て、ひどく楽しそうに笑った。
「まだ認めねえのか」
「認めません」
「頑固だな」
「あなたにだけは言われたくありません」
「そうかよ」
言うなり、ローエンが一歩近づいた。
近い、と思った時にはもう遅かった。
顎を取られ、上を向かされる。
「ちょっ――」
最後まで言えなかった。
唇を塞がれた。
乱暴ではなかった。けれど、優しいだけでもなかった。
逃げる余地を与えない熱が、まっすぐ押しつけられる。
息を呑んだ隙間に、すぐローエンの気配が入り込んだ。
○○は反射的にローエンの服を掴んだ。
押し返すためだった。
そのはずだった。
けれど指先は布地を握りしめるばかりで、少しも離れようとしない。
ローエンの手が、逃げ道を塞ぐように腰へ回る。
もう片方の手は、頬に触れたまま、○○の顔を固定していた。
近い。
熱い。
息ができない。
それなのに、苦しいと思うより先に、腹立たしいほど胸の奥が甘く痺れた。
噛んでやろうと思った。
思っただけだった。
唇を食まれ、角度を変えられ、何度も深く重ねられる。
反抗の言葉はすべて口の中でほどけて、情けない吐息に変わった。
「……ん」
ほんの小さく漏れた音を、ローエンは聞き逃さなかった。
唇が離れる。
ほんの少しだけ。
「……今のも、嫌いか?」
低く笑いを含んだ声で問われて、○○は真っ赤になった。
「最悪です」
「答えになってねえな」
「嫌いです」
「なら、目ぇ閉じるなよ」
「閉じてません!!」
「じゃあもう一回確かめるか」
「確かめなくていい!!」
○○が慌てて後ずさろうとした瞬間、ローエンはもう一度だけ唇を奪った。
今度は短い。
けれど、さっきよりずっと意地が悪い。
逃げようとした心ごと引き戻すような、熱の残る口づけだった。
離れたあと、ローエンは満足そうに○○の唇を親指でなぞった。
「噛むなよ。また血ぃ出すだろ」
「……っ、あなたが、そういうことをするからでしょう!!」
「俺のせいか」
「あなたのせいです!!」
「はいはい」
ローエンは、ひどく楽しそうに笑った。
「続きは明日な、○○♡」
「ちょっと!!?」
引き止める声を、ローエンは聞こえなかったふりで流した。
何もなかったみたいな顔で、満足そうに歩き出す。
さっきまであれだけこちらの呼吸を乱しておいて、もう背中を向けている。
最悪だった。
○○はその背中を睨んだ。
追いつきたい背中だった。
叩き伏せたい背中だった。
見失いたくない背中だった。
今は、その背中に向かって文句のひとつでも投げつけてやりたい。
けれど口を開けば、まだ残っている熱までこぼれ落ちそうで、何も言えなかった。
それを恋だなんて、絶対に認めてやらない。
○○は唇を引き結ぶ。
噛まないように。
指摘された通りに。
そのことに気づいて、また腹が立った。
唇には、まだローエンの熱が残っている。
息の奪い方も、離れ際の笑い方も、悔しいくらい鮮明だった。
また血を流したら、あの男に笑われる。
それが嫌で噛むのをやめた時点で、首輪はとっくにかかっていた。
それでも、○○は気づかないふりをした。
気づいたら負けだ。
認めたら終わりだ。
だからこれは恋ではない。
競争心で、向上心で、敗北感で、屈辱で。
それから、少しだけ、腹立たしい熱だ。
そういうことにしておく。
その時点で、もうかなり負けていることにだけは、まだ気づかないふりをした。























