師匠に彼氏がいるかもしれない
石神千空がつい最近導き出した、ある仮説の話をしよう。
1173億5488万9550秒を数え続けた石神千空にとって、ゼノ・H・ウィングフィールドは、唯一の〝年長者〟だった。
3700年の時を経れば年齢の上下関係の概念はほとんど消滅している。イシガミ村でカセキに出会ったときも彼を年長者と感じることは無かったし、コクヨウや村の大人たちと会話したときも同様だった。あるのは肉体的年齢差だけだ。
しかし、ゼノだけは違った。
Dr.Xは、千空の知らない科学をなんでも教えてくれる、遥か年上の〝師匠〟――最初に文通を交わした小学生時代の印象も強い。
ゼノも千空と同様、石化中絶えず思考を巡らせていたという。千空と同じ体感時間を過ごした彼だけが、経過した3700年の時を相殺できる。それでも十年長く生きているのがゼノだ。
だから何ということはないのだが、千空にとってゼノは唯一の〝年長者〟であり〝師匠〟であることは、純然たる事実なのだった。
滝の裏に隠したスタンリーを目覚めさせようとそこへ向かったとき、千空の目から見てゼノはいつも通りに見えた。
もちろん、五年越しの再会前の高揚は伝わってきた。服だの煙草だのを携えて、千空がやっとの思いで降りるロープをぐいぐい降りていく姿は、気がはやっているようにも見えた。
「よお先生、久々の再会でお涙垂れ流しか?」
「どうかな。そんなことより千空、帰りは司氏にでも迎えに来てもらうといい。見ているこちらが恐ろしいよ」
それでも、互いに「効率厨」などと呼ばれるいつものドライさはそのままだ。ゼノはいつも通りだった。
千空がスタンリー・スナイダーと対峙するのはこのときが初めてだった。
狙撃を受け、執拗に追われ、殺されかけたことはあったが、いつも距離があった。実際にどんな性格をしているかはまったく知らない。狙撃と操縦の名手であること以外には、せいぜいゼノの幼馴染らしいという程度だ。
しかしそれは千空にとって、スタンリーを宇宙飛行士に選抜するには十分な情報だった。なにしろあのゼノが幼馴染を指し、自信満々で「実にベストな人選だ」と言ったのだから。
そういうわけで、目覚めたスタンリーがどういう反応を返すのか、千空には予想もつかなかったし、大して心配もしていなかった。隣にゼノが居るのだからまあ問題はないだろうと、彼に全任するつもりで石像に復活液をかけた。
千空はゼノの判断を全面的に信用している。このあとも特に問題は発生しないだろう、そう考えていた。
――スタンリーがゼノの顎へ手を伸ばしたとき、千空はゼノの斜め後ろに立っていた。目の前で動くものがあれば自然と目で追う動物的本能で、スタンリーのゆるりとした腕の動きもなんとなく目で追う。
「ん……」
??????????
3700年間秒数を数え続けた千空の脳はこのとき、「?」で埋め尽くされた。
スタンリーに顎を取られたゼノは、されるがまま、大人しくそれを受け入れている。驚くでも、嫌がるでもなく、ちょっと「ん」と漏らしただけだ。顎を取られたままじっとしている。
最初の一秒間、千空は「何してんだ? アメリカの挨拶か?」と思っていた。
もちろんそんな挨拶は知らなかったが、自分が全知全能でないことをよく理解している千空は、そういう文化もあるかと納得した。ゼノが大人しくしているのがその証拠だ。
スタンリーがゼノの顔を左に傾ける。
千空は「なるほど、健康チェックか」と思った。
ゼノによればスタンリーは〝ぼくの騎士〟だということだから、久々の再会でまずは幼馴染の健康を確かめたというわけだ。なるほど。……大樹が目覚めたときは……と考えを巡らせようとしたが、スタンリーがまた動いたので、千空の思考は中断された。
スタンリーがゼノの顔を右へ傾ける。
千空は、「ははーん、ゼノが脅されてないか確認してやがるのか」と思った。
斜め後ろに立つ千空からゼノの顔はほとんど見えない。瞬きのモールス信号などなら送り放題だ。スタンリーはそういうサインを見逃すまいと、角度を変えたのだろう。
なるほど。あいにく、ゼノはもはや科学王国の一員、重要なリーダーの一人。『最強の軍人』にもそれがきちんと伝わるといいのだが。千空はそう思った。
そしてこの確認作業も、そろそろ終わりだろうと踏んだ。挨拶、健康チェック、そして脅迫有無の確認。十分だ。もう手を下ろすだろう、と千空はその動作を無意識に待った。
…………。
スタンリーは、大仰なガントレットを嵌めた右手で、ゼノの頬から唇をこねた。
いや、実際には先ほどからこねていた。首を傾けた際、偶然そうなったのだと思い込もうとしていたが、いま、斜め後ろに立つ千空に決定的な証拠が突き付けられた。
ゼノの唇が、背後にいる千空と正面にいるスタンリーにだけ聞こえるような、ごくごく小さい濡れた音を立てたのだ。こねている。唇を。スタンリーはゼノの唇をこねている。
千空はまず、「唇、切れねえか?」と思った。ガントレットの親指は鷲の爪のように鋭く尖った金属でできている。
しかしその内側、指の腹に当たる部分は革や布のはず。先ほど煙草を咥え、火をつけた様子からもそれは間違いない。千空は杞憂を捨てた。
なにより、自分の作ったガントレットの鋭さを一番知っているゼノがされるがままなのだ。切れる心配がなければ、唇くらいこねるか。納得。
…………。
違う。
安全だから触る、安全でないなら触らない。それはつまり「触りたい」前提での話なのだ。
重要なのは「触る必要性」だ。
スタンリーは千空の疑問など意に介さず「ああ、できるね」と不遜に言い放っている。手はまだ顎、親指はまだ唇の上だ。
しかし当のゼノは、その無遠慮な指の動きをだらりと両腕を垂らしたまま受け入れ続けていた。彼の中ではこの不可解な動作に説明が付いている、ということだ。千空にとって唯一の師匠がそう判断している。ということは、あれはなんらかの合理的行動――。
ドン!
千空は指を立てて思考を巡らせた。
瞬きのモールスのほかに、唇に触れることで読唇をしようとしたか。……読唇したいのならあんなにこねまわす必要はない。
健康チェックの一環。下瞼を下げ貧血を見るように、唇をこねることで分かる健康状態があるのかもしれない。……もっともらしいがこじつけだ、却下。頭の中で、小さな千空たちが脳内議論を始める。
『やっぱ当たっちまっただけじゃねーのか?』
『アホか。てめーも見ただろ、親指だけ動いてた』
『どうせアメリカの挨拶だろ』
『なんでもそれで片づけんなー』
『あの二人流の挨拶かぁ? 幼馴染って話だぞ』
『オエ、やめろ。大樹とあんなんしねーわ』
『ゼノがあんな挨拶するかぁ?』
『考えろ。やっぱ糸口はゼノだ』
『ゼノの顔を見ろ!』
千空はさりげなく立ち位置を横へずらした。スタンリーの手がようやくゼノの顎から外れる瞬間で、残念ながら唇をこね回される最中のゼノを確認することはできなかったが、仕方がない。何か適当な軽口、「お涙頂戴の再会は終わったか~?」などと言いながら覗けばいいだろう、そう思った。
ゼノは、千空が思った通り、平然としていた。
『ほらな。アメリカ人か、この二人限定の習慣みたいなもんだろ』
『だから、なんでもそれで片づけんなー』
『なんにせよ、話まとまったんならいいじゃねーか』
『ああ。唇こね回そうが、月まで飛べりゃそれでいい』
『異議なし』『異議なし』『異議……』
脳内千空の意見がまとまろうとする瞬間、ゼノに動きがあった。
ゼノは、解放された唇を、わずかに出した舌先でぺろっと舐めたのだ。
スタンリーを上目で見つめたまま、平然と、すらりと背筋を伸ばして立ったまま、ほかの誰からも見えないと思ってのことなのか、赤い舌先を出し、さっきこね回された唇をぺろっと舐めたのだ。
…………。…………?
『おい、唇舐めたぞ』
『唇舐めるくらい、おかしかねーだろ』
『いーや、お育ちよろしいお坊ちゃんだ。実際見たことねーだろが』
『触られて気になったんじゃねーの』
『アホか、だったらやられる前に避けるわ。合理的じゃねー』
『唇乾燥してたとか』
『七月の滝裏の洞窟でかぁ?』
『じゃあ、なんだ。その……味が気になったとか』
『…………』
結論を出すには情報が不足している――そういうことにして、千空は洞窟を後にした。
一本のロープを手繰り崖を登るなど、千空には到底無理な話だ。飛行士訓練を始めたからと言って、筋肉自慢番組の対決種目みたいな真似ができるわけではない。帰りは上から引き上げてもらうつもりだった。ゼノもそれがいいだろう。
「あーゼノ。帰りは上から引き上げてくれっから」
「おお、そうなのかい? よかったね」
「テメーも一人じゃ登れねーだろが。ゲンと俺ら二人、下で待機だ」
ゼノはひょいと眉を上げ、首を傾げた。この先生は、よくこうやって首を左右に傾ける。さっきも傾けられていた。
「ぼくは必要ない」
「無理すんな。落っこちられたらメーワクだ」
「いや、スタンが連れて行ってくれるから」
そうだろう、とゼノが背後のスタンリーを振り向く。スタンリーは千空とゼノのやり取りを静かに観察したのち、フゥ、と煙を吐き出した。
「ああ」
龍水、カセキ、クロムがロープを登って行く。ある程度進んだところを見届けて、スタンリーがその場に跪いた。
「乗んなよプリンセス」
「おお、では失礼して」
スタンリーの背中にゼノがおぶさった。立ち上がったスタンリーは、長身の男を背負う負荷をまったく感じさせずに直立している。
「もっとしがみ付きな」
「こうかな」
「脚、もっと」
「こう? これを維持するのは少し大変だ」
ゼノが長い脚をスタンリーの腰元に巻き付ける。たしかに、今ゼノの脚を支えているスタンリーの両手は、ロープを掴むのに使われる。ゼノは自力で彼にしがみつき続けなければならないのは、千空にも大変そうに思えた。
「できんだろ」
スタンリーはふっと笑って煙草を地面へ捨てた。彼の顔の真横で、ゼノが低い声を出す。
「スタン」
千空は、ゼノが吸殻のポイ捨てを咎めたのだと思った。そして次に、後端がやや余っているロープを切り、ゼノとスタンリーを結ぶのはどうかと思いついた。
「あー、ゼノ、スタンリー、ロープを」
「No need.」
スタンリーは千空の言葉を遮り、さっさと崖へ歩いて行ってしまう。ゼノがちらりと千空を振り返るが、ロープを掴んだスタンリーに慌ててしがみつき直した。
「スタン、手早く頼むよ」
「ああ」
その後スタンリーは、人ひとり背負っているとは思えない速度で崖を登り切った。「エレガント!」という声が頂上から崖下へ響いてくる。千空は立てた指を下ろせずにいた。
「千空ちゃ~ん……?」
「……あ?」
「なんていうかその……お姉ちゃんの彼氏に初めて会った弟みたいになってるけど……大丈夫そ?」
「あ゛ぁ⁉」
千空はゲンのメンタリストとしての能力を誰よりも高く買っている。だからこそ、聞き捨てならなかった。誰が弟だ。誰が姉だ。誰が彼氏だ。保留にした結論を雑に言語化され、即座に否定の姿勢に入る。
「あいつら幼馴染だろーが。俺だって大樹居たら乗るわ」
「だろうねぇ。顔は触んないと思うけど」
「あれは……アレだ。挨拶代わりの健康チェックと、脅しチェック」
「ま、俺からはな~んも見えてなかったから、千空ちゃんが言うならそうなんだろうけど~?」
ゲンがロープの先を見上げる。クロムの騒ぐ声が聞こえていた。引き上げられるのはもう少し先になりそうだ。
「…………メンタリストから見て、唇触んのって意味あんのか」
「スタンリーちゃん、ゼノちゃんの唇触ってたの⁉ ジーマーで⁉」
「あーうるせーうるせー騒ぐな!」
もう、唇を触られたあと、触った相手をじっと見つめながら唇をぺろりと舐める意味など聞く気が失せた。
「ま、まあ、いろいろ考えられるけど……コーンシティで二人を見てた俺に言わせてもらうと~……」
ごくり。千空はゲンの顔を見つめる。ゼノがあれを受け入れる合理的な理由、久々の再会で唇をこねるに至る科学的根拠、心理学に基づいた――
「千空! ゲン! ロープを引くよ!」
崖の上からゼノが顔を出し、そう叫んだ。早くロープを体に結びなさい、とよく通る声が響く。ゼノの顔は崖っぷちからひょこっと出ていた。おそらく崖上で体を伏せ、顔だけを覗かせているのだ。
分かった、あぶねーから下がれよ! 千空はそう言おうとした。そのとき、断崖絶壁に立つ影が現れた。考えなくても分かる、スタンリーだ。下を向き、うつ伏せのゼノに何か言う。ゼノはそれに応じるようにさっと頭を引っ込めた。
千空とゲンから見えるのは、落ちたら死ぬ位置で仁王立ちするスタンリーの姿だけになった。さっきポイ捨てしたくせに早くも二本目の煙草を吸っているらしい。左手で煙草を唇から離す。ガントレットがぎらりと光り、まぶしい。ゼノの代わりにロープを結びきるのを見守ってくれるつもりだろうか。
「……あー、じゃあ俺からいくわ」
「オッケ~」
千空の体が持ち上がる。崖上の面子では一番力があるはずのスタンリーは何もしていないようだった。ただ断崖に立ち、ロープに揺られる千空を眺めている。
中腹あたりまできたとき、スタンリーの背後に何かがあるのが分かった。――何か、ではない。ゼノだ。ゼノがスタンリーの背後にぴったりとくっついて、千空が崖を引き上げられて言う様子を見物している。
『いや、デカい男二人いんだから、引き上げんの手伝えよ』
『なんの監視だ、なんの』
『つか、近くねーか』
『……いや、あんなもんだろ幼馴染は』
『テメー大樹にアレできんのかよ』
『アメリカの』
『だからなんでもそれで片づけんなー』
ぶらぶらと揺られながら、千空は悪あがきを続けていた。ゼノとスタンリーは大きな図体を寄せ合って楽しそうに話している。
「おお、見事に振り子だね。小角近似なら周期は2πルート・ロープ長割る重力加速度……気分が悪くなりそうだ」
「腰にくんよ、あれじゃ。痕も残る」
「かわいそうに」
「あんた、ここ一人で降りたん? すげーじゃん」
「きみが居なかったからね。次は頼むよ」
「あんの? 次」
「ないな」
……………。
「千空! 問題ないかな」
「あー……まあな」
「逆位相の力で揺れを相殺しなくていいのかい」
「いらねー!」
「おや、我が弟子は強情っぱりだ」
「……うるせーな、先生。手伝えや」
いよいよ崖上がすぐそこに見えた。スタンリーは未だその絶壁に立ったまま、隙あらば崖下を覗こうとするゼノと攻防するように仁王立ちになり、すぱすぱ煙草をふかしている。手ぐらい差し伸べてくれるのかと思ったが、それもないらしい。
「おお、千空。一人で這い上がれそうじゃあないか。偉い偉い」
皮肉っぽくからかう声を睨む。ゼノもゼノで、千空であれば子ども扱いが通ると思っている節がある。いや、これは、千空がゼノを年上扱いしていることに呼応しているのかもしれないが。
スタンリーが千空を見た。冷たい、何を考えているのか分からない琥珀色の目だった。ぜいぜい息を吐く千空に向けられたそれは、やがてふっと外された。
「ゼノ」
「なんだい」
「行こうぜ」
スタンリーがゼノの腰を抱いて踵を返した。最後に、ハン、と鼻で笑うような仕草を残して。
ゲンが登ってくるまでまだかかる。先ほどの問いへの答えも、脳内千空たち全会一致の結論も、実はもう、すでに出ている。
『だからどーした、宇宙飛行士やんのになんも関係ねーだろが』
『たりめーだ。ゼノだって、そこに私情持ち込むようなバカじゃねー』
『案外、その私情があったほうが上手くいくかもな』
『ねえよ、アホ』
『おい、あんまムキになるんじゃねー。ゲンがまた言うぞ、アレ』
『あー、だから、支障はねえ。いいな? それで』
『……異議なし』『異議なし』『異議なし……』
3700年来の師匠に、彼氏がいるかもしれない。
これが千空の、現時点での結論――いや、仮説だった。
「千空ちゃん千空ちゃーん! 出てるよー、顔!」
「うるせー! さっさと登ってこいや!」
























