翌朝、ローゼマインの体調はすっかり元通りになって居たが、大事をとって今日は邸で大人しく過ごす様にと言い渡された。
「子供部屋はモーリッツに任せれば良い。シャルロッテの様子はボニファティウス様が見に行って下さるそうだ。今日は私も邸で過ごす。」
青く光る魔術の帷の中、フェルディナンドにそう言われては退くしか無い。
「それに、昨日の事も有る。」
「ブリュンヒルデの件ですか?」
「いや、騎士団への途中でライゼガングとグレッシェルの者が、愚かにも襲って来た。」
はいぃ、とローゼマインが尻上がりの頓狂な声を上げた。慎ましく膝に置かれて居た両手を伸ばし、偶にしか緩まない頬を、よく指先が叩く顬の辺りを、首筋をと忙しく触れ、更に肩腕胸とはたはたと叩く様にして傷の有無を確かめ始める。
「お怪我は、癒しが必要でしたら、ああもうシュタープが無いんだった!」
次々と記憶が蘇る。
貴族院で、ダンケルフェルガーの騎士団団長ハイスヒッツェとのディッターで負った傷。
領地対抗戦の表彰式で起きた大規模な襲撃で、ターニスベファレンの爪に負わされた傷。
アーレンスバッハの魔力供給の間で倒れて居た姿。
数々の記憶が焦燥と恐怖を伴い、ローゼマインの顔を歪ませて居た。
「君は私がライゼガングの腑抜けに傷を許すとでも思うのか。」
実に不機嫌な響きの言葉に、ローゼマインは歪んだままの顔を上げた。
あ、大丈夫だ。
顰めた眉を見て、やっとローゼマインの顔も心も元に戻った。
もし怪我をしてたら、フェルディナンド様は笑う。敵には弱みを見せない生き方をして来たフェルディナンド様は、大小に関わらず傷を隠して、笑う。どんな場所でもだ。それがこんな顔をして、こんな声で言うんだから、本当に怪我は無いんだ。
あ~、驚いた~。
全身の力を抜いて、くたりとローゼマインはフェルディナンドに凭れ掛かった。
「私とボニファティウス様、それにエルヴィーラも揃って居たのだ。全員を倒し、騎士団を呼び捕縛させた。」
ぽんぽんと大きな掌がローゼマインの頭頂部で跳ねる。
「わたくしは聞いていませんよ?」
むううと唸りながら、ローゼマインは前よりも近くなった美貌を睨んで、気が付いた。
あ、わたし、また背が伸びたかな? くふふ、今回の人生ではばんばん魔力を抜いてるもん、成長するよね。このまま順調に成長すれば、次の冬に貴族院へ行っても、洗礼前の子がいるとか間違って入学したんじゃないかとか言われなくて済むはず! 今だってシャルロッテより大きいし、グレーティアはすらっとしてるから仕方ないけど、フィリーネと同じくらいはあるし。うん、もっと育つぞ! 目指せ背の順で真ん中くらい!
「ほう? 運動の時間を増やした方が良い様子だな。君が体力増進を求めて居るとエルヴィーラに伝えておくとしよう。」
「そ、それはそれ、これはこれですフェルディナンド様! わたくしは怒っているのですからね!」
また考えの内容をそのまま音声に換えていたと気付かされ、大体目指しているのは成長で体力増進じゃありませんっ、とローゼマインは厳しく指摘した。
フェルディナンドは「そうであったか?」と白々しく微笑んだ。
「考えてみなさい。発熱した君に話したと知られて、私が無事に済むと思うか? 最低でも婚約は認められぬぞ。」
その微笑みのままで言われ、またもローゼマインは撤退の道を選んだ。
「でも、何故ライゼガングとグレッシェルが? ブリュンヒルデの件の逆恨み、ですか?」
「ハルトムートが録音の魔術具を渡して居たではないか。あれが有れば誰も言い逃れは出来ぬ。当然、両ギーべにも何らかの罰は下るだろう。それを回避しようと動いたのだ。」
ローゼマインが溜め息を吐いて視線を落とすと、フェルディナンドはその手を握った。
「両ギーべが襲撃を命じたからには、牢からは出せぬ。次代への交代は必須だ。実行した八人も許す事は出来ぬと解るな。だが、踊らされただけの者の刑は軽く済むであろう。」
ある程度の期間は収監されるであろうし、親族は領地内での婚姻が不利となるが、とフェルディナンドは続けて言う。
「未成年はどうなりますか。」
上げた視線は揺らいで居た。
「この冬の貴族院へは行かせられぬ。季節外の滞在となるが、下手な動きをせずに考えを改めたならば、卒業は許されるのではないか。」
「それならば、貴族の数は余り減らずに済みそうですね。」
安堵してローゼマインが卓の上に視線を滑らせると、最早当然の顔でフェルディナンドは茶碗をその手に届けた。
「だが、解らぬ。何故ああも非常識な考えを持つに至った? トルークを使われた気配は無かったが、己等が描いた絵がそのまま現実になる筈も無かろうに。」
「昔から前ギーべ・ライゼガングとそのすぐ下の世代はそうでしたよ? わたくし達兄妹が三人でライゼガングを訪れた時からそうでしたでしょう? フェルディナンド様がエーレンフェストを出た頃にはもう、わたくしの後ろ盾だと思い込んで、とっても厄介でした。」
「領主会議の間の件か。後にハルトムートの報告書は読んだが、それ程か?」
前の人生で、エーレンフェストを欲するゲオルギーネは、王族を恨みランツェナーヴェの王を主とする男と組み、フェルディナンドをエーレンフェストから引き剥がした。その次の春、領主会議の開催中に、ライゼガングの古老達がフロレンツィアに「ヴィルフリートでは無くローゼマインを領主に」と迫った事が有った。
実を言えば、それは、高くなって居たライゼガングの頭を抑え込む為にフロレンツィアが仕掛けた策略だったのだが、そうとは知らずに子供達が身重の母親を助けようと暴走し、結局、最も穏便に事を納めるに至った。
「ええ。あの時は旧ヴェローニカ派がほとんど捕えられて、箍が外れて浮かれてしまったのだ、と考えていましたけど。後ろ盾だと言いながら邪魔ばかりする人は要りません、って言いましたら、それはもう見事に驚いていました。」
ローゼマインは小さな肩を竦め、まったくもうですよと付け加え、言葉、と叱られた。
「今回の方は別人の様子ですけど、ギーべは直接わたくしがアウブなんてお断りだと申してからは、何も言わなくなりました。」
「老人共はシュラートラウムを招いたままだったのか。」
「大元の気持ちは解るのですよ。ヴェローニカ派が勢いを無くし、この機にアーレンスバッハの血を受けた者ではなくて、昔の様にライゼガングの血筋を領主として戴きたい、と言う気持ちは。でも、お生憎様。」
ローゼマインは右手の拳を見せつける様に振る。
「わたくしはフェルディナンド様を後始末に奔走させる女ですもの、付いて来られる訳がありません。ですよね、フェルディナンド様!」
「貴婦人が鼻息を荒くするで無い。」
輝く瞳で振り上げた小さな拳を、フェルディナンドは揃えた指先で膝に押し戻した。
「失礼致しました。だけど、素地は有ったのです。あそこまでではありませんでしたが、ライゼガングこそがエーレンフェスト、みたいなところが。」
「アイゼンライヒであった頃からの一族だからだろう。その一面は否定出来無いが、それは一面に過ぎぬ、」
フェルディナンドも茶を含む。
「ローゼマイン。この冬の子供部屋の運営は、シャルロッテに任せなさい。褒美の菓子は良いとして、君はなるべく口を出さない様に。」
「厳しすぎる気もしますが、わたくしは次の冬から貴族院ですから、今年しか側で助言出来ませんもの。解りました。お菓子だけではなくて、求められたら助言は良いのですよね?」
「良い。だが、君も解って居よう。」
「解ってます、ちゃんと手掛かりを与えるだけに留めます。子供達や孫にしていた様に、全部を教えず、自分で考えさせます。」
シャルロッテなら大丈夫ですよと笑ったローゼマインは、即座に「敬称!」と叱られた。
ローゼマインは来ないと聞いたシャルロッテは、側仕え達を仰ぎ見た。
「わたくしはローゼマイン様から子供部屋の様子をお聞きしましたが、詳しいことは存じません。教えて下さいますか。」
「ハルトムートから詳細を書いた物が届いております。」
微笑んで側仕えは部屋を出て行き、ワゴンに木札の山を乗せて戻って来た。
「まあ、たくさんですのね。」
シャルロッテは微笑みを崩さず、優雅に驚きの声で言った。
「大丈夫です、シャルロッテ様。お読みになるのは下に線が引いてある箇所だけで十分ですと、持って参りましたローデリヒが申しておりました。」
答えた側仕えの顔には苦笑。
「ローデリヒとは、去年洗礼を受けた中級貴族ですよね。もうそんなお仕事をしているのですか?」
「はい。ローゼマイン様の側近見習いの中には、実家とは距離を置いている者が多く居ります。ご存知ですか?」
「少しは存じています。」
「そうした見習いは、ボニファティウス様やフェルディナンド様、カルステッド様ご夫妻がその暮らしを支えていらっしゃいます。ですので、ローゼマイン様もお仕事を割り振る事で、見習い達の外聞やお小遣いを支えていらっしゃるのです。」
流石にシャルロッテは目を丸くした。
まだ貴族院に通う前の見習いの、側近としての外聞を守る為に、他者から見える仕事をさせる事は解る。だが、側近の給金は渡されるだろう。「お小遣い」とはまた別に金銭を与えて居ると言う話しだろうかと。
「それは、予算で、ですか?」
領主、領主一族、領主候補生には領地から与えられる予算が有る。身分に見合った衣装や持ち物、家具等を揃える為は勿論、側近の給金もそこから支出されるのだ。
一昨夜、騎士団に捕えられた側近達は、フレーベルタークに比べたら雲泥の差、あちらはもっと沢山の、何倍もの予算が付いて居たのに、と何度も零して居た。更に複数人の小遣いまで出して居ると聞けば驚くのも当然だ。
「ローゼマイン様はご自身でも事業を興していらっしゃいます。シャルロッテ様はリンシャンをご存知ですか。」
「昨日の湯浴みで髪を洗った、あのリンシャンでしょう? ローゼマイン様の専属商会が作り出したのですよね?」
「あれは紛れも無くローゼマイン様のご発案です。」
ここに至って、シャルロッテはぽかんと口を開けてしまった。
母親も側近達も、リンシャンをリンクベルクが占有している、傲慢で金に卑しい専属商会も献上を断った、平民はやはり役に立たない、と言って居た。
あのリンシャンがあれば貴女の髪ももっと美しくなるのですけれど、リンクベルク家は娘が領主候補生の立場を得た事で、思い上がって居るのでしょう。
そう儚げな顔で呟いた母の手は、隠し切れない苛立ちで手巾を握りしめて居た。
「こちらを使用しても宜しいでしょうか。」
ワゴンの下の段から、側仕えは範囲を指定する盗聴防止の魔術具をひと揃い取り出し、シャルロッテは頷いた。手早く設置された魔術具が青く光る帷を立ち上げる。
「お気付きとは思いますが、この先のお話しは、どうかお口になさいません様にお願い申し上げます。」
「承知しています。たとえお父様であっても、漏らさないとお約束します。」
こくりと唾を飲み、シャルロッテは了承した。
「花の髪飾りもそうですが、ローゼマイン様はリンシャンの製法を商会にお売りになられ、その後も改良の方法などで資産を増やしていらっしゃるのです。高位の貴族がお金を稼ぐなんてと、わたくしも最初は戸惑いましたが、ギーべもアウブも税収の一部を対価として頂くのですよ、自分の治める土地を健全に運営する事がお仕事だからでしょう、それと同じ事をしているだけです、とのお言葉で目が覚めました。
リンシャンも髪飾りも、必ずローゼマイン様はお支払いをなさるのです。商会に入ったお金は、当然、商会の物となりますが、その品物を作る為に働いた者達に払われる給金の一部にも材料代にもなり、ローゼマイン様へのお支払いとしても使われ、そして税の一部にもなります。
皆様がお受け取りになっている予算は、その税収から出されて居るのです。」
「予算がどこから出るかなんて、考えた事もありませんでした。」
予算は税収の一部、と聡いシャルロッテは繰り返し、つまり予算が少ないのは「仕方ない事」では無く「不甲斐ない事」なのだと心に刻んだ。
「申し訳御座いませんが、この先は長くなりますので、続きは今夜に致したく存じます。今はこの木札に目を通して下さいませ。子供部屋ではわたくし達と、ローゼマイン様の側近がお手伝い致しますから。」
すっと帷が消え、側仕えが柔らかく微笑む。
「これはわたくしのお仕事ですものね。」
シャルロッテも柔らかく微笑み、木札を一枚、手に取った。
ローデリヒが手を入れたハルトムートの報告書と、ローゼマインの側近達や側仕え達、それに勿論モーリッツを初めとする教師陣の協力も有るだろう。シャルロッテは落ち着いて子供部屋へと赴いた。
ローゼマインの側近は、皆が優秀だった。
護衛騎士は、成人も見習いも室内全体に目を配り、シャルロッテを護った。
側仕えの見習いは成人と連携して動き、シャルロッテの世話をしてくれた。
女性文官見習いは少し内気らしかったが、それでもシャルロッテの文具を整え、それを他の男性見習い達が手助けして居た。
あれだけ「瑕疵が有る」「無能だから家を出された」「縁故で入った格下」と母親が蔑んで居た者達は、揃って勤勉で優秀だった。
あの、ただ一度の茶会で感じた通りに。
そして、最も警戒し忌避すべきだと言われて居た神官見習いも、その殆どは言動も穏やかな、慎ましく礼儀正しい者達だった。
しかも、昨日騒いだ者は居無い。何故か、と問おうとして、シャルロッテは踏み止まった。
もしも広めてはいけない情報であれば、ここで問う事そのものが問題となる。判断する情報を持たない以上、軽々に口にすべきでは無い。そう考えられるだけの経験が、シャルロッテには有った。
実の母や側近達との、子供の身には短く無い攻防の日々が、シャルロッテの根を鍛えていた。硬く、石ばかりの土壌の隙間を探り、僅かな養分を貪欲に吸収し、細く白い根を可能な限り多く遠くへと張って来たのだ。
目に見える地上部は頼りなく、少しの力で曲がりそうな姿だ。枝振りはどうにでも出来ると庭師には思わせ、地下で根は、腐りもせず伸び続けた。
そして今、庭師は替えられた。新しい庭師は、細い根を傷付けない様にと慎重に土を入れ替え、柔らかく必要な養分を含んだ土壌にした。多過ぎず少な過ぎず、適度な量の水を与えた。
それでも風が冷たく強い時も有るだろう。熱暑の日々が来るかも知れない。根の間に抱え込んだ石も有る。悪意を持って、またはなんの感情も無く、病毒を運び食害する虫も居る。
それら全てにこの苗木が負けず、健やかに育てる様にと、新しい庭師が心を込めて世話を始めたのだ。意志を持つこの苗木がそれに応えるのも当然。
シャルロッテは、昼食後の茶の時間に、背後に立つ護衛騎士へと声を掛けた。
「ランプレヒトにお願いがあります。」
「はい、私に出来る事でしたら。」
父親よりも祖父に似た、しっかりした顔立ちが応える。
「盗聴防止の魔術具を持っていますか。」
「お答え出来かねます事も有りますので、ご承諾頂けますならば。それから、ブリギッテと成人側仕えの何方かを交えたく思います。」
魔術具を使う必要の有る質問をしたい、との訴えに、ランプレヒトはそう答えた。
「承知しています。わたくしは主ではありませんし、ランプレヒトの潔白を証明する必要も理解致します。」
幼いとは言えども女性領主候補生が、異性と二人だけで密談すれば、それは醜聞の種となる。そして、ローゼマインの側近で在る、ランプレヒトの発言に問題が無かった事を証明する存在も必要だ。「潔白」の一言はその双方を含んでおり、シャルロッテは問題を理解していると示した。
ではと成人側仕えが範囲指定の魔術具を用意し、起動した。
「昨日はあの後、何がありましたか。子供部屋の人数が少ない事はそれに関係していますか。ランプレヒト、教えて下さいませ。」
至極端的に、シャルロッテは問う。
「はい。御座いました。シャルロッテ様はハルトムートが録音の魔術具をボニファティウス様にお渡しした事を覚えていらっしゃいますね。」
「覚えています。」
「ボニファティウス様がフェルディナンド様、それに私の母と共に、その魔術具を騎士団へ届ける途上、馬車が襲撃されました。」
ひゅうっとシャルロッテの喉が鳴った。
「皆様、ご無事です。襲った者は少人数だったそうでしたし。全員を騎士団が捕え、詮議の結果、関係した親族も捕えられて居ります。」
ほう、と吸った息をシャルロッテが吐き出す。
襲撃は有ったが、三人は無事。ライゼガングとグレッシェルの子が少ないのは、襲撃犯の親族だから。そう心の中で二度程繰り返してから、シャルロッテは少し崩れた姿勢を正した。
「それで、ローゼマイン様がご自分の側近をわたくしにお貸し下さったのですね。」
ランプレヒトの言葉から、襲撃を指示した者や中心人物は牢に繋いだのだと知れたが、昨日の今日だ。騎士団の手が届いて居ない者が動く可能性は捨てきれない。
その危険を排除する為に護衛騎士だけでなく、側近を丸ごと貸してくれたのだと自分は承知した、とシャルロッテが言ったのだが、何故かブリギッテの目があらぬ方を向いて居る。
「フェルディナンド様からのご指示です。知れば必ずそう命じるだろう、と。」
苦笑した騎士に、シャルロッテは何度か瞬いてから頷く。
シャルロッテは理解していた。この優秀な側近達は、皆がその事を、ローゼマインがそう言い渡す事も、フェルディナンドがそれを理解している事も知っているからこそ、主では無いフェルディナンドからの指示を受け入れたのだ、自分もまたこうした側近を集め、関係を構築しなければならないのだ、と。
「ローゼマイン様のご容態はどうなのですか?」
「熱も下がり、明日からは御一緒出来るとのお話しです。」
「では、ローゼマイン様とフェルディナンド様のお心に違わず、わたくしも領主候補生らしく午後を努めます。皆様、よろしくお願い致します。」
外で見せる愛らしく嫋やかな仮面は、そこには無かった。
そう仰ったシャルロッテ様の藍色の瞳には、決意と生命の煌めきが有りました、と、ローデリヒは主への報告書に記載した。
ローゼマインが喜んだのは言うまでも無い。



























