目が覚めると、そこは既に巨大な災害が過ぎ去ったあとだった。
家の者はどいつもこいつもミジメな顔を晒していた。よりによってこれまで見下してきた猿に完膚なきまでに蹂躙され、強者の憐れみのためかトドメさえ刺されることはなかった。それはただでさえ戦闘一族と持て囃される者たちにとって屈辱以外のなにものでもなかったのだろう。甚爾の凶行は徹底的に外部には伏せられ、知るのは禪院家に与する者と、御三家あるいは上層部の一部のみであった。
直哉は非常にゴキゲンだった。
見たか、あの怪物のような強さを。見たか、あの獰猛で美しい姿を。見たか、誰の手も届かない〝アッチ側〟を!
この一件で、禪院家はすっかり甚爾に怯えきっている。家が潰れなかったのは飽くまで甚爾の気まぐれで、実力を存分に見せつけたあの男はまたいつでも禪院家を潰しに来ることができる――それを否が応にも理解してしまったからだ。
禪院家が完全に立ち直るには数ヶ月かかった。その数ヶ月の間に、甚爾は関東にわたり生活の基盤を築いたことだろう。直哉も一度臓腑の灼けた身から快復し、かつてのように元気に動き回れるようになった。
そうとなれば、いよいよ直哉が手を打たなければならない問題がいくつか迫ってくる。
まずこれからしばらくして、禪院家に真希と真依が誕生する。憐れで忌々しき未完成の双子――直哉を殺した張本人どもが。まもなく扇の妻は懐妊が確認される。その中にいるのが凶兆の証である双子だということはまだ誰も知る由のないことだが、直哉とてわざわざ〝予言〟してやることのほどでもない。今にすぐわかることだ。
そして彼女らが生まれた一年弱後、甚爾のもとに十種影法術を持つガキが生まれるはず、だが。
――甚爾くんって、いつ結婚するんやろ……?
伏黒恵が生まれるということは、甚爾が結婚し禪院の姓を捨てるということ。とはいえ、それがいつか正確なところは直哉も知らない。
前回の甚爾出奔の折り、直哉は本当の意味で子供だったために甚爾の動向をほとんど知らなかった。気がついた頃には結婚していて、息子が生まれていて、妻はいつのまにか死んでいた。オンナのもとを渡り歩きながら術師殺しで生計を立てていることは噂伝いに耳に入っていたが、その程度だ。
妻が妊娠したと気がついたときに籍を入れたのか、はたまた息子が生まれてからか……そもそも甚爾はどのような経緯を経て結婚に至ったのか。マトモなプロセスを踏んだとは思えないし、ヒモまがいなことをしてそのまま、な可能性が高いだろう。が、甚爾がヒモをしていたのは金がないからであって、今回は直哉がたっぷりとヘソクリを渡したのだからそこすらどうなるかは怪しい。
甚爾の結婚について直哉が思っていることといえば、それはひと言「困る」――これにつきる。
別に甚爾の結婚自体はかまわない。甚爾は強いだけでなく男としても完璧だ。そんな彼に大人しくて賢くて夫を立てられる尻あり乳あり器量よしの嫁がいればもっと完璧になる。あの最強の遺伝子はぜひ残すべきだと思うし、結婚し、子を持ち、幸福な家庭を築くことに否やはない。
その甚爾の血を引く子というのが、よりによって直哉の立場を脅かす十種影法術の持ち主でなければ何の困り事もなかった。それも気に食わぬことに、ヒョロくて弱くて甘っちょろくて自ら当主になろうと禪院に殴り込んでくる気概もなければ悟に守られ高専でぬくぬくと友達ゴッコをしている顔しか取り柄のないガキ……「伏黒恵」でさえなければ!
ほとんど喋ったこともないが、直哉は恵のことが一方的に嫌いだ。甚爾の息子のくせに弱く、甚爾の息子のくせに甘っちょろく、甚爾の死後は悟の影にずっと隠れていたくせに、ポッと出てきて直哉の立場を掻っ攫っていったガキ。
あんなガキが十種影法術を持っているからなんだというのか。そんなものなんの保証にもならない。なんの意味も持たない。術師のくせに宿儺の器に肩入れしてしまうような甘っちょろいガキが呪い渦巻く御三家の頭を張れるわけがないのに、出張ってくるなと言っているのだ!
むろん、このあたりはすべて恵本人になんら責任のないことなのだが──そんなことも直哉には関係ない。自分のことを自分で掌握していないのは当人の責任だ。庇護されるばかりの子供でいれば足元をすくわれる、それが呪術御三家というもの。自分の権利を悟と直毘人に預けてしまっている、その詰めの甘さも気に入らない。直毘人の遺言が公開されて真っ先に恵を殺しに行くくらいには、直哉は恵の存在を疎んでいた。
しかしである。だからといって、では恵が生まれぬよう工作できるか? 今後一生甚爾が死ぬまで誰とも結婚しないよう目を光らせ、誰にも種を撒かぬよう管理することが直哉にできるか?
答えは否。甚爾以外の有象無象相手なら、直哉の力を持ってすれば可能かもしれない。だが、甚爾だけは不可能だ。あの美しい怪物は、直哉の手の中で踊らない。直哉がどうあっても思い通りにできない存在、甚爾という人間はそうでなければならない。
伏黒恵は、直哉の通り道には邪魔だ。真希のように負かしたいという欲求もなく、ただただ邪魔。できることなら単純に生まれてこないという道が、直哉にとっては一番ラクだ。
問題は、直哉が甚爾の妻となる女の顔を知らないことである。顔どころか、素性や性格・生い立ちや死因まで本当に何も知らない。禪院家としては把握していたのかもしれないが、直哉には教えられなかったし、直哉自身みずから知ろうともしなかった。甚爾がこれから結婚するので嫁を選ぼうという話になれば、直哉は全勢力を持って最高の花嫁を探すが、もう結婚してしまった後なら直哉がその妻に対してどう思おうと、甚爾が選んだことなのでどうでもよかった。すぐに死んだし。
だから、甚爾が今まで付き合ってきた、あるいはこれから付き合うであろう不特定多数の女のどれが恵を生んだ胎なのか、一切わからないのだ。そもそも甚爾の妻とはイコール恵を生んだ女なのか。甚爾のあの色男ぶりは禪院家でも数多の女中を虜にしてきた。ある日どこからか「あなたの子なの」とか言う奴が現れても全然不思議ではない。
即ち、伏黒恵が生まれないよう阻止するのは現実的な手ではない。
とすればやはり、甚爾に恵を手放さぬようにしてもらうしかない。そもそも以前恵が禪院家の当主になぞ指名されたのは、甚爾が直毘人に恵を金で売ったからだ。逆を言えば、あの強さの権化がひと言「恵は禪院家にやらない」と宣言すれば、一度徹底的に負かされたこの家は手出しなどできない。
鍵となるのは、なぜ甚爾が恵を禪院家に売ったのか。結果的に恵の後見人は悟となったわけだが、あれだけ家を嫌っていた甚爾が家の益になる取引をなぜ自ら持ちかけたのだろうか。
その点について今のところ直哉の中で有力な説は、妻が死んで一人で恵を育てるのがめんどうになったので、どうせ捨てるなら金に変えようとした、といった理由である。妻の死の時期と取引の時期が近いことから立てた仮説だが、もしこれが合っているとしたら、甚爾の妻の死を防ぎさえすれば、取引の発生ごと防ぐことができるかもしれない。
試してみる価値は十分にあるだろう。妻を娶り子供まで生ませたということは、少なくともその時点までは甚爾だって家庭を持つ気があったということだ。それを放棄したのはやはり妻が死んだからと考えるのがしっくりくる。でなければ家を出て自由になった甚爾がわざわざ結婚をする理由がない。最初から放棄する気があったのなら、子供なんて生ませなければいいし結婚なんかしなければいい。
が、そうなると、伏黒恵が生まれることは前提として、甚爾の妻をどのように生かすべきか……。死因どころか個人の特定すらおこなえていない状況では、直哉一人の力で妻を生存させることは不可能に近い。
――うん。思ってたより早く、もっかい甚爾くんに会わなアカンかもしれんな。あない情けない感じの別れ方してちっとキマズイけど、まァエエわ。ほんで甚爾くんに、未来のヨメさん死んでまうこと言うとこ。そう言やあ甚爾くんかてガンバって死なさんようするやろし、あの甚爾くんが気ィ張ってくれんならヨメさんもようけ死なんやろ。
――よしんばソレで甚爾くんがめんどうなって結婚やめることなったら、それはそれで結果オーライや。ホンマは恵くん生まれんほうがウチも混乱せえへんくて、俺にとっちゃつごうエエからな。
恵が生まれるのは、真希と真依が誕生したのと同じ年の、次の冬。つまり年始に真希と真依が生まれ、年末に恵が生まれる……。直哉が聞きかじったところによるとこのような予定だったはずだ。
恵が生まれる前の大晦日、家を抜け出して甚爾に会いに行こうか。ついでに甚爾の誕生日を祝ってやろう。結局、この家にいる間はろくな祝い方ができなかったから。直哉はそう決心すると、来たる大晦日を想ってひっそりとほくそ笑んだ。
「……イヤそれ、オマエは大丈夫だったワケ?」
庭が見える五条家の一室で、悟はなぜだかドン引きした顔で直哉を見た。
「大丈夫って?」
「だから、つまり、そんな腹ン中が焼けたりなんかして」
「ああ。なーんもあらへんよ。反転使いが治してくれたんで、この通り」
「マジでぇ?」
直哉が両手を広げると、悟は疑り深くサングラスをずらして目を眇める。出会ったときと比べてずいぶん幼さが削ぎ落とされた輪郭に、出会ったときと変わらない宝石のような青い眼が乗ったかんばせ。……だが、その光はすぐに逸らされ、
「……ダメだ。相ッ変わらずキモくてぐっちゃぐちゃでよくわかんねー」
「ソッチこそ相変わらずシツレーやなァ。まだ目ェバグってんねや。もっかいキモイ言うたらシバくで」
「バグってんのは俺じゃねえよ」
とデカイため息とともにレンズの奥へ隠れた。
甚爾出奔からひとつ年が明け、禪院家が半壊してから、初めての御三家会合――。一時は御三家の均衡が崩れ去る危惧さえあったものの、禪院家は無事に立て直しを果たし、当主である直毘人は何事もなかったかのような顔で会合に参加した。もちろん、直哉もである。
禪院家で一体何があったのか、その詳しいところは禪院家にとって門外不出の公然の秘密となった。しかし、直哉が甚爾の輝かしき戦いの記録を黙っているかと言えばそれはまったく否であり、甚爾に負けた情けないヤツらの体裁を守ってやる必要性も皆無であり、こうして会合で久方ぶりに顔を合わせた悟に対して、べらべらと一連の出来事(と甚爾の素晴らしさ及び、家の者がいかに恥知らずか)を語って聞かせたという次第だ。なぜか、ドン引きされているが。
「オマエって毎回ハデなケガ負ってはすーぐピンピンしてんな。つーか……そこまで大暴れして家出てって、アイツ、オマエのこと連れてかなかったんだ。なんか意外かも」
「ナニが?」
「だってハナシ聞いてりゃ、アイツがブチギレたきっかけってオマエだろ」
頬杖をついた悟にそう差し向けられ、直哉はパチパチと目を瞬かせた。
「……そうなんかな? ようわからんケド。俺が目ェ覚ました頃には、甚爾くんもうみんなボコボコにしとる最中やったし。単純にガマンできんくなったタイミングがあン時だったんやろ」
「だから、ガマンできなくなったきっかけがオマエってことじゃん」
「そうかなあ? 俺がなんもせえへんくても、甚爾くんはそのうちああやって家出てったと思うケド……」
実際、以前はそうだったのだし。前で起こった甚爾出奔の騒動は、直哉の預かり知らぬところでおこなわれた。今回はその冒頭が変化しただけで、あのような騒動が起こらずとも甚爾は以前と同じように家を出て行っただろう。
悟は黒い面の奥でまばゆい瞳を半分にし、「ふぅ〜ん」と鼻を鳴らした。続けて、
「よかったのかよ? 連れてってもらわなくて」
と尋ねるので、直哉は首を傾げる。
「俺が? なんで?」
「なんでって。アニキに呪物飲まされたんだろ、オマエ」
「飲まされたっちゅうか……そこまで仕組むアタマはあの兄さんにはあらへんやろうケド、まァ結果的にはそうやな」
分不相応にも甚爾と直哉を陥れようと企んだあの何番目かの兄は、直哉が起き上がれるようになったときにはすでに禪院家から消えていた。どうやら甚爾に負わされた怪我がもとで禪院本家で術師を続けることができなくなったため、父の手によってどこか遠戚の分家にやられたとのことだったが……真相は定かではない。もはやさしたる興味もない。そんなことより甚爾のことを記憶に留めておきたかった。
「俺ら生まれたときから危険なことなんか目白押しだけど、身内にやられるって相当だろ。ヒドイ目にあわされたんだからさァ、どうせなら着いてけばよかったじゃん。家出たいとか思わないワケ?」
悟の問いに一瞬ポカンとして、直哉は「アハハ!」と軽く笑った。なるほど、いかにも悟らしい発想だ。
身内に殺されかけるくらい直哉からすればさほど驚くことでもないが、生まれたときから跡目争いとは無縁な悟にはわからないのだろう。おまけに「家出たいと思わないワケ?」とは、さすがこれから数年もすれば家中に反抗しまくって東京高専行きの切符を手に入れる男なだけある。
「思わへんよ」
「なんで?」
「やって、俺はここで当主になるンやもん」
当主の座とは直哉にとって、いずれ必ず手に入れるべきものだ。
それはこの家に男として生まれたから、相伝を継いだから――というだけの話ではない。禪院家の当主の座につくことは、そこで最も強い男になったことを意味する。禪院家という箱庭はある種直哉にとって一つの世界であり、直哉という男を形作る呪術師としての規範、才覚、有り様、すべてはここにある。
つまり、この絶対的な世界で頂点に躍り出ることができなければ、生まれたときから呪術の外縁にいる甚爾を追ってアッチ側に辿り着くことなど、夢のまた夢なのだ。
「俺はここで当主になって、アッチ側に行って、ほんでキミらと並ぶことができたら、そん時は甚爾くんを俺ンとこで雇ったるんや。それが俺の今の目標」
たとえ恵が十種影法術を持っていようと、真希がいつか真依の死のもとにフィジカルギフテッドとして完成しようと……。
そのすべてを蹴り捨て踏み潰すほどの力を手に入れる。誰彼も跪かせ二度と直哉を見下ろさせない強大な力を。それがアッチ側に行くということだ。もう一度やり直している今ならば、直哉はそれができると確信している。
「フーン……それでいいんだ」
「ええの」
「寂しくないのぉ〜? いっつも会うたびに『甚爾くんが〜』って言ってくんのにさァ」
が、悟が揶揄うようにそう言うと、直哉はほんの少しクッと片頬を歪めた。
「……別に。甚爾くんがそのうち出てくことは前から知っとったし、そんなでもないわ。俺の術式なら会おうと思えば会いに行くンもむずかしうないし」
「ホントぉ?」
「ホント!」
すまし顔で告げる。悟は頬杖をつきながら「ア、ソオ」と目を細めた。なんだその顔は。
むろん……寂しくない、と言えば嘘になる。思えば四歳の時点で甚爾を訪ねてから、直哉は暇さえあれば甚爾のもとに通っていた。数年もの間まるで当たり前みたいに顔を出せばかまってくれた大きな背中が、今はもうどこを探してもいない。直哉自身が待ちわびたこととはいえ、現実にそうなってみると「思ってたんとちゃう」となることは多々あった。
前はそもそもロクな交流さえなかったからこんな気持ちにはならなかったものを、思いのほか甚爾と一緒にいることができたから、感覚がすっかり変わってしまったみたいだ。最近では甚爾に返してもらった観察日記を眺めては、今頃甚爾くんはナニしてんねやろなァ、とため息をつくこともままある。冷静に立ち返るとキショいな……と思うのだけれど、もはや離れを訪ねても彼がいた痕跡はなく、寒々しい風が吹くばかりの景色を見れば、多少感傷的な気持ちが生まれるのも仕方のないことであった。
しかしまァ、次の大晦日には会いに行こうと決めているし。甚爾がいるところも大体わかっている。誕生日の贈り物もいくつかよさそうなものを見繕った。過去の自分が詳細に観察日記を書き残してくれたおかげで、脳内の甚爾は高解像度を保たれている。サプライズまがいのシミュレーションもバッチリだ。会いに行こうと思えばいつでも会いに行けるのだから、寂しく思う必要などない。
「新しい生活が楽しくって、オマエのことなんかすっかり忘れてるかもよ?」
「……。…………ま、っさかあ〜。俺がどんだけしつこく甚爾くんに俺の存在認知させたと思てるん。さすがに忘れへんやろ、鳥頭とちゃうんやし」
「アハ、動揺してるう。ま、さすがにだよねー」
悟は意地悪そうに笑った。そう、さすがにだ。さすがにそれは、ないと思いたい。そりゃ有り得ないという保証はないし、男の名前は忘れやすいと本人が言っていたような気もするけど。……問題ないハズだ。
「ハア〜ア。俺も家、出よっかなぁ〜」
直哉が黙っていると、悟は片頬に体重を乗っけたまま気だるげにそうボヤいた。直哉はパチンとひとつまばたきを落とし、「忘れられてたらどうしよう」という文字をぷるぷると首を振って払い落とした。卑屈な想像はするものじゃない。もっと楽しい話をしよう。
「ええやん。家出てどうするん? 高専行くん? 行くことンなったら俺に土下座しいよ」
「はァ? ンだそれ」
「昔言うたやん。ホラ、俺らがユーカイされたとき――」
アレももう数年前のことになるのか。直哉の知識からなる〝予言〟を馬鹿にする悟に、売り言葉に買い言葉でぶつけた言葉。
――ほならもし悟くんがショーライ高専行きたなったらおれにひれ伏しいよ。ほんでそこでナカヨシコヨシのトモダチができたらおれに謝りに来ぃや!
「……イヤ、勝手に土下座することにしてんじゃねえよ!」
かつての出来事を思い出したのか、悟は心底イヤそうに顔を歪める。「いやァ楽しみやわァ、数年後悟くんが俺にアタマ下げてくれんの!」ケタケタと笑いながら悟を見下ろせば、悟はほほを引き攣らせ「オマエの言う通りにだけはゼッタイにしねー……」と低い声で言った。
とはいえ残念だが、あの五条悟が直哉の予言ひとつで家に反抗しなくなるビジョンのほうが直哉には思い浮かばない。悟はいずれ何らかのことで必ず家を出て行き、何らかのことで高専へ青春を求めに行くだろう。直哉の知識は今のところ、そう大きく外れたことがないのだ。
そのとき直哉は、何か自分の中できわめて重大な――あるいはひどく小さな、引っかかりを覚えたような気がした。噛み合って動いている歯車のひとつに、誰も知らない欠けがあるような。
だが、会合を終えた父が遠くから直哉を呼びつけたので、その感覚はすぐに霧散してしまった。
甚爾は今頃、何をしているだろう。
それから幾月かが経った。花は咲き萎れみどりをつけ葉を落とし、やがて、甚爾が出奔してからおよそ一年と数ヶ月が経った頃。
直哉は計画通り、甚爾に会いに行くことにした。
大晦日に禪院家を抜け出すのはひどく骨が折れた。年末年始の家内はやたらと忙しい。使用人があちこちを走り回り、家中ひっくり返しての大掃除と決算のほか、万年人手不足のこの界隈では年末だろうと任務も容赦なく舞い込むし、おまけに今年は扇の妻が臨月に入る。術式を駆使して荷造りをし、最大の敵である父にバレないよう置き手紙を残して、直哉は深夜のうちにこっそりと家を出た。
甚爾の居場所はすでに知っていた。元より禪院家が甚爾の足取りを調べていたので、その情報を拝借すればおおよその活動範囲はすぐに把握できた。彼は今回も一都三県を中心に、呪具使いの「術師殺し」として活躍しているらしい。
しれっと禪院家の忌庫から盗んだ呪具を振り回しまくっているうえ、顔が顔なので、「術師殺し」が禪院出身の呪力なしの男でないかというのは、甚爾が活動し始めた頃から幾度も禪院に伺いが立っていた。もちろん家としてはそんな汚点の出自を認めるわけにもいかない。端から存在しない男のしたこと、と他人事のスタンスを貫いているが、それでもよっぽど気になるのだろう。甚爾が手にかけた術師についてや使用している呪具の入手ルート、そこから端を発して金の使い道など詳しく調べられていた。
盗み見た死亡者リストに名のある術師を見つけるたび、直哉は誇らしい気持ちになった。甚爾があの強大な力を遺憾なく奮えているのなら、自分のくだらない感傷や寂しさなどどうでもよい気がした。すごいなあカッコエエなあと以前のようにまとわりつきたい。また稽古をつけて欲しい。そんなことばかり頭に浮かんで楽しくなる。
ともかく、そうして繰り返し禪院の調査資料を盗み見、甚爾によく仕事を卸している仲介人に漕ぎ着いたのがひと月前。そして今より数日前、直哉は彼と連絡をとった。呪術界のアングラに片足を突っ込んでいる、外国籍の怪しげな男。名前は――
「アンタが孔時雨ってヒト?」
指定された時間に公衆電話から電話をかけた直哉の声を聞いて、相手はひどく驚いたようだった。依頼料を聞いてすぐさま口座にぽんと金を入れた張本人が、まさかこんな幼い声をしているとは思わなかったのだろう。「オマエさん、ホントに禪院の坊ちゃんか?」などと尋ねるので、「禪院家の末っ子は来年十二になるばっかや、そんくらい呪術界かじってんなら知っとるやろ」と答えると、感心したような呆れたような吐息がかえってきた。
「ああ、そう、そうだったな。知ってるよ。オマエさんのことは禪院――アイツから聞いたことがある」
「信じられへんなら金でもショーコでもぎょうさん送ったるケド? 直接会うンでもええよ、ソッチが臆病やなかったら」
「勘弁してくれ。俺は本来、オマエみたいなガキは相手しねえんだ。直接会うなんてリスクの高えことごめんだよ」
「甚爾くんとは組んだのに?」
「十六歳以上は責任能力あるだろ」
電話口の奥で、ライターがシュボッと火を点した音がした。呪術界の裏側で綱渡りをしているだけあって、この時雨という男はなかなか慎重だった。禪院の調査からその正体は最初からわかっていたのに、連絡を取り依頼を受けさせるまでになかなかの手順を踏まなければならなかった。
――が、結果はこの通り。直哉だって、前の生ではそれなりに裏側を這い回ったのである。
「――で、酔狂な坊ちゃんはアイツの住所が知りたいんだったか?」
改めて確認され、直哉はおおいに頷いた。「そう。甚爾くんハクジョーなモンで手紙もくれへんから、アンタなら知っとるやろ思て」「そんなモンのためにわざわざ俺を探し当てるとは、天下の御三家サマのすることはわかんねえな」「やって俺、甚爾くんに誕生日プレゼント渡したいんやもん。安心せえ、家に告げ口なんかしいひんから」……実際のところ誕生日プレゼントはついでなのだけれど、直哉は子供らしくそう告げてみせた。どうやら時雨は甚爾から少しだけ直哉の話を聞いていたようで、直哉が禪院家で唯一甚爾に懐いていた子供であることも承知しているらしかった。
「アイツ近々誕生日なのか。知らなかった」
「なんや、知らんやったん。大晦日やで、アンタも祝ってやるとええよ。……ほんじゃ、そろそろ入金の確認したやろ? 手順通り、よろしゅうね」
「ああ、わかったよ。こんなガキのお使いなんざ、これっきりだぞ」
かくして無事に甚爾の住所を手に入れ、十二月三十一日。
甚爾が東京のとある街に住んでいると知った直哉は、意気揚々サプライズを携えてやって来た。
伏黒恵の出身は埼玉と聞いていたが、この頃の甚爾はまだ東京に住んでいたのだろう。東京といっても大都会の喧騒から離れた奥まったところにある街で、古臭くはなかったが、特に目立った見どころのない平凡な街並みだった。ただ、空気はいい。
綺麗に舗装された道に降り立って、直哉の調子はこれまでにないほど浮き足立っていた。否、「これまでにないほど」は事実ではない。同じような足取りをかつてしたことがある――生まれ直してから初めて、甚爾に会いに行った日。あの日もこんなふうにどきどきと心臓が脈打って、体が軽かった。
あの日と同じく、直哉はまず一直線に甚爾の住処に来た。だがあいにく家はもぬけの殻で、甚爾は留守にしているようだった。アパートの玄関先にかかっている傘が女物だったから、以前の評判通り女の家に転がり込んで生活しているのだろう。術師殺しをやりながらその裏では非術師の女相手にヒモをする、その器用さにはつくづく閉口する。
仕方なく、直哉は街に出て甚爾を探すことにした。家の前で待っていてもよかったけれど、おそらく家主は女である以上、甚爾が帰ってくる確証がない。
――あれからかなり経つけど、甚爾くんどないなふうになっとるやろなァ。
建物の上から街並みを見下ろし、直哉は想像する。そういえば以前は家を出たあと髪を切っていた。今回もそうしただろうか。術師殺しとして日々戦っているなら、きっと家を出たときよりさらに強くなっているハズだ。体格はどうなったろう。食事はちゃんと十分にとれるようになったのだろうか。恵の母にはもう出会っただろうか。
直哉は少し変わった。前髪が伸び、背丈もわずかずつ伸びている。今に二、三年も経てば、やがて成長期が訪れて頭の高さもぐんと甚爾に近づくだろう。そうしたら今度は耳に穴を開けて髪を染めようと思っている。そうなってからもう一度会いに来たら、甚爾の驚く顔が見られるだろうか。
街はそこかしこに年末ムードが漂っていた。店先には大売出しの赤文字が踊り、普段の街並みを知らないので比較はできないが、地味な街にしては人通りも多いように見える。コートを着込んだ家族連れに、お揃いのマフラーを巻いたカップル。白い息を吐いて走る子供、窘めるベビーカーを連れた母親、寿司を持った父親、商業施設の紙袋を持った老婆……。
この街に、甚爾が住んでいる。直哉はなんだか現実味のないような感じだった。あまりにも平和であまりにも穏やかな光景だから、この中にあの甚爾が溶け込んでいる姿がうまく想像できなかったのだ。
――デカイしコワイしバケモンみたいやし、あんな平和ボケした連中と並んどったら、甚爾くん浮きすぎてとんでもないことになっとるんちゃうやろか。俺としちゃソッチのが見つけやすくてエエけど、笑てまうかもしれん。
想像してくふふと肩を揺らし、直哉は屋根から屋根を飛び移って人知れず街を散策した。小さな体は人目につかず身軽に飛び回れる。この欠伸が出るほどのどかな街に微かでも甚爾の気配があれば、きっと直哉ならすぐに気がつけるはずだ。
けれど意外にも甚爾の捜索は難航し、あのひと目で心を奪われた怪物のような強者の気配は、直哉の前に現れることはなく。
太陽が暮れなずむ夕方になって、直哉はようやく甚爾を見つけた。
夜のうちに禪院家を出立し、街に着いたのは昼時だったから、数時間はうろちょろと街を駆けていたことになる。時おり三級にも満たない呪霊のなり損ないを見つけては叩き潰していたら、いつのまにかこんなに日が傾いてしまった。それでもいつまでもわからなかった間違い探しが一度見つかればすぐに目をやれるように、甚爾を見つけた途端、直哉の視界は霧が晴れたようにぴたりと定まった。
――甚爾くん。
誰そ彼時とも呼ばれる時間帯に建物の壁に寄り掛かる甚爾は、別れたときより小ざっぱりとして、顔に落ちる髪の陰も少なく、人相もまるで別人のようだった。身にまとう服は着流しではなく、見慣れないジャケットとジーンズ。ただ、せっかく禪院を出られて着るものも選べる環境にいるのに、冬でも薄着なところは変わらない。体温が高いから平気なのだろう、と以前ふれた温度を思い出す。
直哉は人混みに紛れながら、じっと甚爾を見つめた。甚爾はこちらに気がついていない。待ち合わせをしているのか、携帯電話を取り出して時間を確認している。
禪院家では長いこと独りきりだったから想定していなかったが、今日は甚爾の誕生日だ。誰かと過ごす予定があるのかもしれない。だとしたら少しマズイ。直哉だって話したいことがあるのに、時間がなくなってしまう。……いや、それよりも、持ってきたプレゼントはどのように渡そう。どうすれば甚爾を驚かせることができるか、ここに来るまでイロイロと考えていたのに、本人を前にした途端すべてが吹っ飛んでしまった。
今一歩でも足を踏み出せば、甚爾はこちらに気づくのではないか。そう思う一方で、直哉はなんだか地面に足がくっついてしまったように動かなかった。姿半分夕陽に照らされた甚爾が、その半分だけまったく知らない人みたいに見えて、声をかけるのがはばかられたのだ。生まれ直してから、こんなふうに躊躇ったことなど一度もなかったというのに。
たぶん、悟のせいだ。オマエのことなんかすっかり忘れてるかもよ――悟があんなことを言うから、柄にもなく緊張している。甚爾と同等の強さを持つというだけで、悟の言葉は直哉の中で一定の説得力を持ってしまうのだ。そんなことはないとわかっているつもりでも……。
だが一度声をかけてしまえば、こんな思いはすぐに払拭されるはずだ。直哉は気を引き締め、足を動かそうとした。
そのときだった。
「――甚爾くん!」
明るく溌剌とした声が、直哉の耳を突き抜けていく。
自分の内心があふれ出したのかと思って、直哉はぎくっと体を固くした。しかしすぐに、背景の雑踏から見覚えのない輪郭がくっきりと像を持って視界に現れて、そうではないと気がついた。
女が、甚爾の名を呼んだのだ。甚爾の名を呼び、彼の肩を叩いた。ひどく親しげに、呑気に微笑みながら。
平凡な体格、地味な服装、覇気のない雰囲気、あちこちに飛び跳ねた黒髪。どこにでもいる、ありふれた女――彼女が待ち合わせの相手なのだろうか? そう思ってから、直哉はハッとする。
――まさか、アレか?
直哉の脳裏に、長らくの疑問の答えが閃いた。
まさかアレが、甚爾の妻なのだろうか。十種影法術を孕み、これから数年のうちに死ぬ、甚爾が選んだオンナ。
もし、そうだとしたら――
――めッ…………ッッちゃ、フツー……!!
直哉は呆然と二人を見つめた。
――うそやろ。甚爾くんってああいうのがタイプなん? あんな地味で化粧っ気のないマヌケそうな寸胴鍋でええの? 関東まで出てきて? 甚爾くんならオンナなんか選り取りみどりやろ? いざ結婚しようてなって、わざわざ選ぶか? アレを!? 俺かて見合いするてなったらもうちょいマシなん選べるケド!?
――イヤ待て、何もアレと結婚するとは限らへん。財布のひとつって線もかなりある。そうや、ああいうぼへっとしたの引っ掛けるン、禪院にいた頃もようけやっとったし……そら確かに時期的にそろそろ恵くんの母親とは出会ってな辻褄が合わんし、あの櫛とか知らんそうなアタマも恵くんとよう似とるケド、アレがそうってワケやないやろ。そうや、まだ決まったワケやない。まだ……、
と、直哉がそう思った時だった。
ふいに、肩を叩かれて振り返った甚爾が、女の顔を見つけて笑った。皮肉げでも嘲笑でも仄暗いものでもない、ニヤリとかニタリとか、そういうのでなく。――男の笑顔にこのような形容をするのは似合わないが、まるで花のように、思わずこぼれた幸福みたいに、少しも眉を歪めずやわらかく。
それを見た瞬間、直哉の頭にガツン、とナニカが飛来した。それは唐突に降ってきた隕石みたいに直哉の目の前で弾け、頭のてっぺんから足先まで直哉の内臓を未知なるモノで満たした。ぐにゃりとあたりが遠ざかって、微笑む甚爾の顔がスクリーンいっぱいに直哉の視界を占領する。
同時に、直哉は「あ、結婚する」と思った。「甚爾くんはあの女と、結婚する」と。
そう確信してしまった。
――甚爾くんって、あんな顔すんねや。
街路樹がちかちかと無意味にライトアップされる道を、直哉は独りで歩いた。
――あんなふうに笑うん、初めて見た。
直哉はちょっとビックリした面持ちで、何のために光っているのかわからない路肩の寄せ植えに腰を下ろした。なぜだかわからないが、衝撃的だった。衝撃的すぎて、甚爾に声をかけることもできなかったほど。
甚爾があんなふうに笑えるなんて知らなかった。直哉だってこれまで、片手で足らないほどには甚爾の笑顔を見てきたつもりではあったが、あんな顔を見たのは初めてだった。
あんな、ただのごく普通の男みたいな、優しくて穏やかで街の雰囲気みたいにあたたかな顔。ああいう顔を、直哉はこれまで見たことがある。父が熱心に見ているテレビの画面、使用人がひそかな逢瀬に使う中庭の隅、今日駆け回った街の雑踏の中、直哉には関係ない人生の端々にありふれた、わかりやすい記号的な感情のある人間の顔。
あのあと、甚爾は女と一緒にどこかへ行った。その姿は平和で平凡で、直哉が一寸ぼおっとしたうちに、夕日影に紛れて消えてしまった。
――なんもかんも、言いそびれた。
プレゼントも渡しそびれた。未来の話もしそびれた。けれど追いかけてまで伝える気にはなれなかった。
甚爾は、愛する女にあんな顔をするのか。
それだけがぐるぐると頭の中を回っている。何がそこまで自分の中で衝撃だったのかさえよくわからない。唯一なにか、明確に思考をかたちにできるものがあるとすれば……
――あの女とガキこさえて、幸せな家庭ってモンつくって、ほんで女が死んでしもたら、甚爾くん、どうなんねやろ。前は、どうなってたんやろ。
――今、俺が「あの女は死ぬ」って〝予言〟したら、甚爾くんどうなる? ……どんな顔、する?
そんな、ひどく根本的な疑問だった。
むろん、別にどうなろうと直哉には関係ない。女が死んだあとも甚爾の強さが失われなかったことは直哉の記憶が覚えている。直哉が今日ここまで来たのはゆくゆく生まれる恵のことを対処するためであり、そのついでに甚爾の誕生日を祝ってやろうと思っただけで、甚爾がどう思おうと、どう過ごしていようと、あの女がどうだろうと、そこは直哉が知らなくていい話だ。
だから甚爾があの女にどういう顔を向けようと、直哉のやるべきことは変わらないはずなのだ。
なぜやるべきことをやれなかったのだろう? こんなことは初めてだった。やらなくてはいけないこと、自分がやると決めたことを、直前になってできなくなるなんて。
直哉はこれまで、自分がこうと決めたことは絶対に実行してきた。恵を殺そうと思えば殺しに行ったし、真希を殺そうと思えば殺しに行ったし、甚爾に会いに行こうと思えば会いに行った、今日も来た。それなのに、なぜ。
女が声をかける前に直哉が声をかければよかったのに、なぜあの時躊躇ったんだろう。
そして今こう思うのなら、今からでももう一度会いに行けばいいのに、なぜ自分はそうしないのだろう。まだ十二月三十一日は終わっていないのに。
「……?」
甚爾は、あの女を愛しているのだと思う。
少なくとも、禪院家にいた頃は女中にあんな顔を向けなかった。だから特別な女であることは確かなのだと思う。
あの女と結婚するのだと思う。子供を作るのだと思う。
それがなんだ? 最初からわかっていたことだ。
……なんで今、こんな気持ちになっているんだ?
甚爾の笑顔を初めて見たときうれしかった。でも今日の笑顔は、あのときの笑顔とは全然、何もかもが違った。
もし女が声をかける前に、甚爾が直哉を見つけていたら、果たしてあんな顔をしただろうか?
おそらくしないだろう。しないから、なんだというのか。
「ボク、こんなところでどうしたの? 親御さんは?」
急に声をかけられて、直哉は顔を上げた。歳若い、二十代半ばほどの赤子を抱いた夫婦が、心配そうに直哉を見下ろしていた。
こんな夜更けに幼い少年がひとり俯いているものだから、迷子か何かだと思ったらしい。反吐が出るほど善良な市民だ。夫婦の腕の中にいる赤ン坊は、キョトンとした目で直哉を見つめている。その黒々と純粋な瞳に、虫唾が走った。
直哉は黙って立ち上がると、若夫婦を無視してまた歩き出した。そろそろ帰らないと、父が騒ぎ出す。書き置きは残してきたとはいえ、まだこの歳で外泊はまずい。
京都からわざわざ来たのに、目的を果たせなかった。次に一日家を抜け出せる日はいつになるだろう? 甚爾はしばらくこの街にいるだろうか。もうこの際手紙でもいい、早くしないと双子が生まれ、恵が生まれる。
甚爾は結婚する。子供を作る。直毘人のように跡取りが必要なわけでもなくそうすることを選んだのなら、選ぶに値する何かの価値をそこに見出していたということ。それがつまり「あの女を愛している」ということで、だから甚爾は家庭を作ることを選んだ。あの女が死んでその価値が失われ、恵を手放した。
それがハッキリとわかったのだから、直哉は彼女が死なないようにすればいいじゃないか。
……それとも、妻が死ぬことを甚爾に報せずにいるか? 直哉の胸中に、そんな思いが過ぎった。
直哉の目的は要するに十種持ちを禪院の手に渡らせないということだから、別に甚爾の妻が死んだからといって完全に目的達成が途絶するわけじゃない。彼女が死んだあと、恵が禪院家に売られる前に、恵を始末してしまえばいい。赤子の首をひねることくらい、直哉には造作もない。それを真っ先にしないのは、単純に術師にとって大義名分のない殺人は罪になるうえ、甚爾がどう出るかわからないから……。でも、できることはできる。できることは、直哉の中ではやっていい。
けれど、「こうすればいい」という道はいくらでも直哉の頭に浮かぶのに、そのどれを選ぶべきなのか、今の直哉にはわからなかった。頭に甚爾の笑顔が浮かんでは消える。
「オンナ選びには気ィつけえ、て言うたのに……」
別にあんな言葉ひとつ如きで、甚爾が子を作らなくなると思ったことは更々ないが。
よりによって、なぜ十種影法術を孕めるような女を選ぶのか。ついでになぜ数年で死ぬような女を選ぶのか。前者は甚爾の血が優秀であったとして、後者は確実に見る目がない。勝ち馬を選べない男は女運も悪いということだろうか。甚だ迷惑だ。……。…………。
…………………………。
「直哉オマエ、こんな時間までどォこ行っとったんだ! もう年が明けたぞ!!」
深夜と明け方の狭間くらいになって、直哉は禪院家に帰ってきた。こんな時間にようやく帰ってきた直哉を家の者は騒がしく眺め、相変わらず酒をかっ食らって半分呂律が回っていない父は怒号とともに出迎える。
年越しの夜は古くからの慣わしのために、家人総出で眠らずに過ごすのが決まりだ。一応直哉も年が明ける前には帰ってこようと思っていたが、計算が狂った。新幹線も用いたものの、途中からは術式を重ねがけて帰ってきたため体が重だるい。早くカラダを育てて持久力をつけなければ。
「ったく、新年早々勝手をしおって……。今年もンなザマならお年玉はナシだぞ? 聞いてんのか直哉ァ」
「…………」
「近いうち扇の子も生まれンだからなァ、いい加減示しをつけてくれにゃあ……、……オイ、なんだその顔?」
「……顔?」
ブツクサとつぶやく直毘人に言われて、直哉は自分のほほに手を添えた。特に何か変わったところはない。無意識にナマイキなツラをしていただろうか。首を傾げる直哉を、直毘人は怪訝に見つめる。
「オマエ、どこ行ってやがった?」
直哉は答えず、無言で家に上がった。
そのおよそひと月後、一月二十日のことである。禪院家に、呪われた双子が誕生した。
ただでさえ凶兆と呼ばれる双子、しかも女ということもあって、扇の怒りと失望はすさまじいものだった。その憤懣の矛先は未来を予言できる直哉にも向くかと思われたが、端から直哉という子供の特異性に懐疑的な扇はそこまで責任を擦り付けなかった。
「シワクチャでアホっぽい顔やなあ」
前と同じく真希と真依と名付けられた二人の赤ン坊は、まだ胎から出てきたばかりということもあって、記憶の中の面影は欠片もない。コレがやがて禪院の特徴を取り込みそれなりの顔になるのだから、人間というのはフシギなものだ。直哉も十年前まではコレだったのだろう。
双子の様子を見に来た直哉を、扇の妻はやつれた無表情で見つめている。思えばこの女がおかしくなり始めたのもこの頃だった。昔はこんなに能面みたいな顔をしていなかった。こうして少しずつ狂っていったナニカが、直哉を殺した。
双子の片方が呪力をほとんど持ち合わせていないというのはすぐにわかった。それでもせめて術式が発現すれば……と、扇は望みを捨てきれずにいる。残念なことにこの双子は、どちらも相伝を継がないのだが。
「おばちゃん。俺なァ、この子らについて知っとることがあるんよ」
そう声をかけると、扇の妻は虚ろな目で直哉を見た。直哉は眠る双子の片側を指さして、告げる。
「コイツはいずれ、強うなる。血を与えた父親より、強く」
ただしそれは、片割れを差し出せばの話だ。
――ほんでどんだけコイツが強うなったとしても、甚爾くんに近づいたとしても、アッチ側に行くんはこの俺や。
「楽しみやね?」
ナメたことは言っていられない。
呆然と真希を見つめる扇の妻を横目に、直哉は立ち上がって部屋を出た。
甚爾に会いに行ったあの日から、直哉はこれまで描いた計画を変更せざるを得なくなった。それもこれもすべて、甚爾の妻が死ぬこと――言葉にすれば二十四フレームも使わないかんたんなセリフを、直哉が口にできなくなったためだ。
それがなぜかはわからない。考えようとしたところで、もう一度甚爾に会いに行こうと思うたび、直接会わずに手紙を書こうと思うたび、幾度も脳裏に甚爾の笑顔がチラついて訳が分からなくなる。
ただひとつ確かなのは、おそらく――直哉の選択しだいで、あの笑顔がどうとでも変わるということだろう。
厄介な状況だ。さんざん〝予言〟で人を振り回してきたつけが、今更になって回ってきたのかと思う。が、ひとまず考えてもわからないことは考えないでおいて、直哉は別の手を探すことにした。
別に言えないなら言わなきゃいいのだ。甚爾本人に伝えなくても、彼の妻が死なないよう未来を変えることは……きっと、できる。万が一できなくても、別にいい。そのときは恵を殺すか、どうにかして甚爾に恵を離さないでいてもらう。何にせよ当初の目的は恵が当主にならないことだ。そこに甚爾の妻の生死は……関係なくできるのなら、関係ない。ラクな道ではないかもしれないが。
――でも甚爾くんがあんな顔するオンナやで?
脳内でそう投げかけたもう一人の自分を、だから何だと払い除ける。甚爾があんな顔を向ける女で、だから何だ。だから殺すのか。だから生かすのか。どちらの考え方もオカシイだろうが。
いっそのこと、成り行きに任せるか、とも思う。だが、仮に何もしないと選択した世界で後悔することがあったら、直哉は自分を許せないだろう。
知識がある時点で、直哉にはどうあっても選択の権限がある。そのことはずっと前から知っていた。自分しか知らない未来で家中を弄んでいたときから、直哉はすべて選んでいたのだから。
――目下の問題は、俺があの女の死因を知らんこと……。
死因がわからなければ対処のしようがない。そして死因がわかったとして、たとえば何かしらの呪詛が原因であれば直哉にもやりようはあるが、現代医学も太刀打ちできない不治の病であればもはや手の施しようがない。事故だとしたら尚更だ。直哉がこうして目を離した隙に、今にも車に撥ねられて死んでいる可能性だってある。
京都に腰を据えている直哉が東京にいるイチ非術師の女を、どうやって死から逃れさせようというのか。やはり四六時中女の命を守るならば、最も適任なのは甚爾しかいない。けれど、甚爾に言うのは……。
ごちゃごちゃとまとまらない思考で考えあぐねていたある日、直哉のもとに一通の封書が届いた。
「誰やコレ」
差出人の名はまったく聞き覚えのないもので、確かどこかの術師にこういう苗字の者がいただろうか、という程度だ。中をあらためると、どうやら直哉の体調を心配する内容のものである。
禪院家が甚爾の手によって半壊し、直哉が腹を焼かれながら臥せっていた頃、当主の息子が何やら重傷であるとの噂を漏れ聞いた術師家系の一部が、禪院にご機嫌伺いの手紙を送ってきたことがあった。時期としてはかなり遅いが、内容を読む限り今回もそのたぐいのものだろう。
とそう思ったとき、「追伸」の部分が目に止まった。「追伸 大晦日の折りには次こそ火事を起こしませぬように、食いでがあるものをいただければ充分です」――その先に、不可解な十一桁の数字が並んでいる。……何だコレ。
――大晦日に、火事? 食いでがあるものいただけりゃって、なんで会うたこともナイ輩にそんなん……、……あっ。
途端、この封書の本当の差出人を理解して、直哉は一気にガーッと体温をあげた。
甚爾だ。
いつかの大晦日、甚爾に誕生日ケーキをあげようとして最中に蝋燭を刺し、畳を燃やしたことがあった。あのときはこっぴどく叱られ、以来直哉は甚爾の誕生日に何かを渡すことを禁じられた……コレは、そのときの話だ。
よくもまあ、くだらないことを覚えている。そんな思い出話をわざわざ他人を装って送りつけ、あまつさえこの十一桁の数字――携帯番号を書き添えるなんて、間違いない。十中八九、直哉が「誕生日プレゼントを渡したい」と言って甚爾の住所を手に入れたことが、本人にバレたのだ。発覚の経路は当然、時雨に決まっている。依頼が来た時点で話したのか、てっきりすでに会いに行ったものだと思って漏らしたのかはわからないが、住所を手に入れたのに会いに来もプレゼントを贈りもしない直哉をふしぎに思って、甚爾が手紙を寄越してくれたのだろう。
――孔時雨……!! あンのボケ〜……!!
しかし時雨を責めるわけにもいかない。最終確認の電話の際、口止めをしなかったのは直哉だ。そもそもあの時点では口止めなど必要なかった。直哉が当初の想定通りすんなりと甚爾に会いに行けば、必然と時雨を介して住所を知ったこともバレるし、アッチもそういう認識だったというだけだ。ただし、そうだとしても――
コレは、連絡をしてこい、という意だろうか。わざわざ番号が書いてあるのだ、そういうことだろう。……いいんだろうか? 忘れられていなかったことは幸いだが、曲がりなりにも術師殺しとしてうまくいき始めたばかりで、禪院の嫡男なんかと連絡をとって大丈夫なのか。何か言いたいことでもあるのだろうか。頼み事ならいくらでも聞くけれど……。
何にせよ誕生日プレゼントの件が知られた以上、直哉の心情的に無視をすることもできず。その日の夜半、直哉は夜警の目を欺いて家を抜け出し、時雨と連絡をとったときにも用いた公衆電話から、手紙の番号に電話をかけた。
「……もしもし」
いっそ出るなとも願ったが、数秒のコール音のあと呆気なく通話は繋がり、直哉は少し緊張した声色で声をかけた。
「直哉か?」
ノイズの混じった低い声が応答し、息を呑む。――甚爾くんや。甚爾くんの声、久々に聞いた。「うん、ひさしぶり」と頷くと、受話器の向こうは久方ぶりの会話を惜しむこともなくこう言った。
「オマエ、大晦日俺ンとこ来てたよな」
クソッ、孔時雨……ッ!
脳内で文句を並べ立てそうになって、どうにかこらえる。軽く咳払いをし、直哉は平静を装った声で応えた。
「う、ウン。せやけどあのお、行き違いになってしもたみたいで。結局会わんで帰ったん、堪忍ね」
「オマエ、ひとりで東京まで来たのかよ。ンな元気あんの? ちゃんと快復したか? あれから」
甚爾は矢継ぎ早に言った。直哉を心配しているようなセリフだった。
「ウン、だいじょうぶ。ピンピンしとるよ……」
「俺もまァたまに禪院の様子聞いててよ、特に当主の末っ子がどーなったとか聞かねえからたぶん大丈夫だろと思ってたけど、イイならイイわ。今度また顔見せに来いよ」
「い……行ってもええの?」
直哉が訊くと、甚爾はフ、と軽く息を漏らす。
「オマエが言ったんだろ。俺が逃げねえなら、会いに行くって」
――言ったっけ。……言ったな。言った。
それにしてもなんだ、甚爾のこの声色は。前からこんな調子だっただろうか? なんだか穏やかで、優しくて、……そんなぬるい声を出されると、調子が狂う。
「あの……で、要件は? なんか困ったことでもあるん?」
「あ? 要件?」
「やって手紙、あんなわざわざ他人装って筆跡まで変えて。禪院にバレるリスク負ってでも、話したいことあったんとちゃうん」
「あー。ねえよンなもん。オマエに俺の連絡先渡そうと思っただけ。逐一アイツ通されても困るし」
「えっ?」
直哉はつい絶句した。
「ホンマに、それだけ?」
「それだけだよ。なんか文句あるか?」
「な。……ナイ、けど」
けど。ないけど。
――コレってマジで甚爾くんか? 忘れられてはナイと思とったけど、なんやコレ、好感度高ない? 前からこんなカンジやったっけ? 何も用ナイのに俺に個人的な連絡先教えてくれるとかある? そら嫌われてはないと思うし、禪院の中じゃいっちゃん仲良くさせてもろてたし、一緒にゴハン食うたり稽古つけてもろたりしてたケド! でも甚爾くんのほうから俺に話しかけてくることとかあんましなかったやん。イジワルもされたし。イヤ本気やなくてプロレスやったのは知っとるケド。え、甚爾くんて最初からこんな優しい? 俺にこないなこと言うてくれるキャラやった? 俺がじゃれるから他にすることもあらへんしかまってくれてただけで、家出てったら尚更、俺のほうから会おうとせえへんかったら会えへんくらいの温度感なんとちゃうの? 知らんけど。
――だって甚爾くん、俺にあないな笑顔向けたことなかったんに。なんでこないに、声ばっかは優しいんや。
「……甚爾くん。そっちで、うまくやれとる?」
直哉は渇いたくちびるを舐めて尋ねた。「ああ。やってるよ」と甚爾は穏やかに答えた。
「楽しい?」
「さァな。少なくとも、そっちにいた頃よりはマシだね」
「そら、そうやろうね。……ウン、声からして伝わってくるもん。伸び伸びやれとるんやろな、って」
「オマエは?」
――コレが、丸くなったとゆーヤツなんやろか。
家から解放されて、好きなオンナもできて、せやから甚爾くんこんな明るいンかな。あんなふうに笑えるんやもんな、そらそうか。前はネクラな表情ばっかしとって、俺イジメとるときがいっちゃん楽しそうに笑っとったもんな。陰湿や。
……日記の中の甚爾くんと今の甚爾くんじゃ、もうずいぶん違うんやなァ。
「俺のほうはな、絶好調やよ」
直哉は意図して明るい声で告げた。
「甚爾くんの暴れるとこたっぷり見れて、あれから家のヤツらせこせこ建て直ししとるケドな、正直みぃんなミジメったらしくておもしろくてしゃーないわ。イジメ甲斐のありそうなカワエエ従妹も生まれたし、相変わらず悟くんとは仲良うつるんどるし、俺、甚爾くんおらんなってもちょびっとずつ強なっとるん。きっとツギ会うたらビックリするで。まァコッチも忙しいし、いつ会いに行けるかわからんケド、……」
あながちウソでもない事実を、底にある真実を誤魔化すようにペラペラと喋る。こうやっていつもペラペラお喋りなのが、甚爾といた頃の直哉だったハズだ。
「絶好調やから、甚爾くんはなぁんも、気にしやんでな!」
直哉はそう言って電話を切った。ガコン、と受話器を置くと、余った時間分の十円玉がジャリジャリと音を立てて出てくる。
ウソではない。ウソではなかった。だから甚爾は、気づかなかったはずだ。
たぶん、最後に〝予言〟を伝えるチャンスがあるとしたら今だったこと。けれど直哉は、言わないことを選んだこと。
選んだことを。
――ほとんど漆黒に見えるのっぺりとした濃紺の夜空に、灰色の煙がぱっと浮かぶ。
「禪院の坊ちゃんと連絡とれたのか?」
都会の空は星が見えない。時雨は空に溶けていく煙を眺めながら、隣で通話を終えた甚爾に声をかけた。
「ああ。手紙、手配してくれてドーモな」
「まったくだぜ。実在する家の名前借りるとか、バレたらどーすんだ」
「いいんだよ。どうせ禪院からすりゃ調べる価値もない末端の家だ。わざわざ確かめたりなんかしない」
「そんなもんかね」
時雨が肩をすくめると、甚爾はぷらぷらと携帯電話を弄びながらポケットにしまった。「禪院」と呼ばれるたびうっすら顔を顰めるほど生家を嫌うこの男が、唯一あの奇妙な子供にだけはプライベートの番号さえ教えてしまうのだからふしぎなものだ。
そう。呪術御三家が一つ、禪院家次期当主の座に最も近いと言われるあの子供――。
元より呪術界では有名なことと甚爾と話しているとたまに名が出ることもあり、時雨は以前からその子供のことを知っていた。まだ本来は義務教育すら終えてないガキが次期当主候補筆頭とは、五条家でもあるまいし気が早いな、と眉唾に思っていたものだが、実際接触してみるとこれがガキというには怖いくらいにマセた子供だった。甚爾から伝え聞く端々に感じた子供らしさなど欠片もなく、ナマイキというには態度に圧が滲みすぎている。何とも異様な――ある意味で、呪術師らしいといえばらしい子供。
「とにかくケーバン教えたンなら、もういちいち俺を挟むなよ。怖えんだよあの坊ちゃん。もう関わりたくねえ」
「わかってるよ。にしてもアイツ、金払ってまで俺の住所手に入れたクセに『いつ会いに行けるかわからない』って。誕プレはどーしたんだよ、誕プレは」
「知らねえよ。俺に言われても」
まァ、確かに妙だ。禪院家の息子から連絡が来て心臓が飛び跳ねたかと思えば、依頼の内容は「禪院甚爾の現住所を教えろ」というモノ。家の命令によるものかとも思ったがどうにも違うし、追い払おうと提示した依頼料は呆気なく振り込まれ、むしろこちらが困ってしまうほどだった。結局、「誕生日プレゼントを渡す」と告げた声色は嘘ではないように聞こえたことと、元より甚爾に懐いている子供がいることは知っていたから教えてやった。甚爾によると、時雨が教えてやった通りの住所には直接来た痕跡があったとのことだったが、会わずに帰ったとは、……。
しかし、どのような事情があろうとも時雨には関係ない。依頼を受け金と引き換えに情報を売った、時雨の仕事はここまでで完結している。
「また電話かかってきたときに強請りゃいいじゃねえか。……さて、サッサと帰ろうぜ。オマエのカノジョ心配してんじゃねえのか」
「カノジョじゃねーよ。それにもうさすがに寝てるだろ」
「カノジョじゃねえなら何なんだよ。デートまでしといて。誕生日デートしてたんだから坊ちゃんと入れ違いになったんじゃねえの?」
「誕生日デートでもねえし……」
時雨がからかうように言うと、甚爾はくちびるを尖らせた。彼は今、ある特定の女と一緒に住んでいる。あの坊ちゃんに教えてやった住所もそこのものだ。
関東にやって来て女のもとを転々としていた甚爾が、いつのまにか身を寄せていた一人の女。素朴で平凡で呪術のことなんか何も知らず、甚爾が何で生計を立てているのかも教えられていない。それでも甚爾はここしばらく、ずっと彼女とともにいる。飽くまでビジネスパートナーである時雨はその詳しい馴れ初めは知らないし、あえて突っ込んで訊くつもりもないが、甚爾にとってイイ出会いがあったのだろうと解釈している。
若いっていいねえ。生ぬるい目で眺めていれば、甚爾はチッと舌を打って歩き出した。アイツもやたら大人びてはいるが、まだ二十そこらのガキだ。別に情が移ったわけではないけれど、ずっと荒んで真っ暗な目をしていられるよりは、ああやって照れ混じりに拗ねた顔をしているほうがいい。
などと、アングラに片足を突っ込んでいる分際でほのぼのとしていたのが悪かったのだろうか。
時雨のもとに恐ろしい連絡が舞い込んだのは、その数日後のことだった。
「コンニチハ」
――禪院直哉。先日甚爾から依頼を受け、他人に偽装した手紙を通じて彼の携帯番号を教えてやった禪院の坊ちゃんから、また接触があった。
「……コンニチハ。今度はなんだ? アイツに用があンなら、もう直接連絡できるだろ」
冷や汗をにじませて受話器を握ると、電子の向こうの子供は思いがけず、非常に真剣な声音で言った。
「孔時雨……イヤ、時雨くん」
「時雨くん?」
「頼み事がある。金は言い値で払うさかい、俺に協力して欲しいコトがあるんよ。ええやろ? 未来の禪院家当主に恩売れるまたとない機会やし」
「はァ?」
時雨は素っ頓狂な声を上げた。
「詳しい話は電話越しじゃできひん。なるだけソッチに合わせるから、直接会うて欲しい」
「オイ待て。勝手に話進めんな。ダメだ、俺ァガキとは取引しねえって言ったろ」
「なんで? 前はキチンとやったやろ。俺が金持ってるっちゅうのもわかったはずや」
「こないだのは特例だ。金もらうのもしょうもねえような簡単なシゴトだったからな。だがもうしねえ。何かオネガイゴトがあんなら甚爾に叶えてもらえよ。アイツなら聞いてくれるだろ」
時雨がそう言うと、直哉はぐ、と息を詰める。続けて小さく、「……言わへん」と告げた。
「甚爾くんには、ナイショの話や。せやからアンタに頼もう思てんの」
「ナイショだぁ?」
時雨は呆れ返った。
「そら結構なことだな。サプライズか? ドッキリか? あいにく俺はガキの遊びにかまってられるほどヒマじゃねえんだ。そもそもアイツに隠し事すンなんてなァ、嘘発見器の前で芝居するようなモンだ。禪院の坊ちゃんならわかるだろ」
「それでも言われへんねん」
直哉はかたくなだった。一体何をそんなに必死になっているのか。子供が大人をからかって遊んでいるといった感じでもないし、なんだか異様だ。
「俺が未来を〝予言〟するガキや言うこと、アンタならよう知っとるやろ? ソレで賞金ついとるくらいやし」
「……ああ。一応な」
「正確には予言やなくて、先に起こることを知っとるんや。そうやな、……今年の、今頃やと……」
直哉はいくつかの事柄を端的に〝予言〟した。発覚する事件、事故、政治のニュース、まさに知っていることを手当り次第といった様子だ。
「俺の言うことがデタラメかそやないかはひと月すりゃわかるハズや。そン時にまた連絡する。アンタ、馬鹿じゃあらへんからな。俺の首にかかっとる値段がどんだけのモンかも知っとるやろ。アンタが協力するってんなら、この首ちっとはアンタの好きなように利用してもろてかまへんわ。その代わり俺もアンタを利用させてもらう。……マ、ひと月の間よう考えてえや」
「ああ? ちょっ――」
切りやがった。時雨はため息をついて、その場では直哉に言われたことを忘れようと努めた。けれど人間というのは忘れようと思えば思うほど記憶が頭に焼き付くもので、自分でも意図しないうちに、チラチラと頻繁にニュースを確認してしまうことしばらく。
本当に一ヶ月の間のことだった。直哉が告げたニュースが、次々とテレビで報道され始めたのは。呪術界にいる限りふしぎなことは多々あるが、それでも驚いた。ドンピシャ、とはこの時のための言葉かと思ったほどだ。
結果として、時雨は一度直哉に会ってやることにした。それは彼の力に利用価値を見出したから、というわけではなく――少々、憐れに思ったのだ。高額な賞金をかけられ命を狙われるほどの力と価値を、よく知りもしない時雨に自ら安売りするほど必死なのが。ついでに興味もあった。こんな幼い子供がこれほど身を切ってまで要求してくることとは、一体何だろうと。
だが、まさか――
「時間もあらへんし単刀直入に言うとやな。これから一年弱経った先のどこかで、甚爾くんのヨメさんが死ぬ。俺はソレをなるべく死なさんようにしたいと思うてん。その手伝いを、アンタにして欲しいンや」
……わざわざ関西まで来てこんなこと言われるとは、思わねえよなァ。
「……待て、待て待て。……嫁? アイツ、結婚すんの?」
「する。そんでガキが生まれんねん。ガキが生まれたあとヨメが死ぬ」
「な――」
真夜中、家を抜け出して時雨と落ち合い軽く自己紹介を済ませるなり、直哉はいきなり本題に移った。時雨は突然のことに軽くたばこを咥えたまま、言われたことをうまく飲み込めず混乱していた。
「な、んでそんなこと、俺に言うんだよ。禪院は? アイツだってオマエの〝予言〟のことは知ってんだろ? だったらアイツに直接教えてやりゃいいじゃねえか、俺なんかに言わねえでも」
「……それはアカン」
時雨の言葉に、直哉はちょっと目を逸らして口を濁す。
確かに直哉が言えば、甚爾は予言を信じてくれるだろう。直哉の知識がずばずばと当たり家中が翻弄されるところを、甚爾は直哉が四歳の頃から間近で見てきた。しかし、だからこそ――
「俺の予言は、本人に言うたらアカンねん」
「どうして」
「言うたら、……外れなくなるから。せやから時雨くんも甚爾くんには黙っとくんやで」
「…………」
時雨はなにか物言いたげに口を半開きにして黙った。むろん、直哉の言葉は真っ赤な嘘である。「予言を本人に告げたら外れなくなる」などという法則は発見したことがない。そもそも、直哉の予言はたいてい外れない。今まで外そうとしたことがなかったのだから当たり前だ。それを今回は、覆そうとしている。
「時雨くんに頼みたいンは、京都と東京間のはしご。別に甚爾くん相手に芝居しろとかヨメさんのことカラダ張って守れとか言わへん。ただ定期的に甚爾くんとヨメ、……今はカノジョか。とにかく甚爾くんのそばにいる女の様子について報告してもろて、ついでに俺のお使いをシゴトの合間にこなしてくれりゃエエねん」
「お使い?」
直哉は頷き、懐からあるものを取り出した。時雨は訝しげに眉をひそめる。
「……なんだこれ。招き猫?」
直哉の手のひらに乗り切るほどの、木彫りの招き猫がそこにはあった。彫り方は荒く、色付けもされていない。いかにも手作りという風体だ。
「これはな、れっきとした呪物や」
時雨は反射的にズザッと後ずさった。
「そない怖がらんでも、呪霊が寄ってきたりとって食われたりするほどの力はあらへん。これは……大晦日、俺が甚爾くんにあげよ思てた誕生日プレゼント。禪院の忌庫で眠ってたのかっぱらってきたん」
「マジか……」
「まァコレはオモチャみたいなもんでな、効果は招き猫やから当たり前やけど、商売繁盛。甚爾くんが儲かりますように、ってな。別にコレがあるからっていきなしガッポガッポになるワケやないで、ちょっぴりご利益があるってくらいや」
直哉の説明に、時雨は顎をさすって疑わしそうに「ご利益ねえ……」とつぶやく。
「……で、本題はここから。この呪物な、実はシリーズモノやねん。同じ彫り師が作った彫り物がまだぎょうさんあって、いくつかは呪物化しとる。無病息災の蛇、安産祈願の犬、厄除、縁切り、縁結び――イロイロとな。その中に、特級に分類されるモノがあんの」
「特級だと?」
「そう」
直哉は一度言葉を区切り、時雨の目をまっすぐに見つめた。
「特級呪物〝身代わり人形〟。ソレも、このシリーズなんよ」
身代わり人形。
その存在は、時雨も聞いたことがある。確か、血を捧げた者の死を一度だけ代わってくれる呪物だとか何とか。長らく実物が発見されていないこともあり、そんな便利な代物、本当に存在するのかと疑っていたが……。
時雨がそんなことを口にすると、直哉は招き猫を弄びながら「よう知っとるね」と薄くくちびるを吊り上げる。
「正確には、血を捧げるだけじゃ発動はせん。その死を肩代わりする人間がもう一人、必要や」
「肩代わり、って……」
「つっても半分は人形が負ってくれるさかい、死にはせえへんけどな。たとえば俺の血を人形に垂らすとするやろ。ほしたらその人形を時雨くんに渡す。ンで俺がどっかで死ぬような目ェに合うと、人形が半分、時雨くんが半分、ソレを一度だけ肩代わりしてくれるっちゅうワケ。一度だけやから、発動したらおんなし人間は二度と使えへん」
「ハア、なるほどな。……それで?」
「時雨くんには、コレを探してもらお思うとる」
時雨は信じられないような思いで直哉を見つめ返した。
「オイ。つまりそりゃあオマエさん、ソレでその未来に死ぬ禪院の嫁を助けようってハナシか?」
「……俺はヨメさん死ぬことは知ってても、いつどこでどうやって死ぬかは知らへん。今年の十二月より後、ってだけや。それやったらどんなかたちの〝死〟にも対応できる方法でしか、太刀打ちできひん。呪詛、殺人、病気、事故……〝身代わり人形〟やったらどれが来ても受けられる。特級呪物やからな」
「特級呪物だからこそ、カンタンに見つかる代物じゃねえだろ。存在すら眉唾物なんだぞ。どこかの家がかかえ込んでりゃまだいいが、もう壊れてるか、海の底かもしれねえ。第一見つけたとして、誰が死を肩代わりするんだ」
「まァ、俺やろな」
直哉は心底イヤそうに息をついた。
「肩代わりする人間には条件がある。その死の半分を耐えられることや。耐えられへんかったら呪物はそもそも発動せんくて、血を捧げた人間はそのまま死ぬ。当然肩代わりしたほうもな」
「はぁあ? じゃあオマエじゃダメだろ。だってまだこんな、……ほんのガキじゃねえか、オマエは」
すると、時雨の言葉にわずかに目を見開いて、直哉は「アハッ」と無邪気に笑う。まるっきり子供の、あどけない顔で。
「呪術界におってガキをガキ扱いするとか、アンタ、変わり者やなァ」
「……、」
「ええねん、俺はこんくらいで死なへんから。誘拐されても、呪物呑んでも、すぐケロッとしとるくらい丈夫やモン」
「……死因を知らねえんだろ? とうてい耐えられないものだったらどうする」
「耐えられるよ」
直哉はキッパリと言った。「予言か?」と時雨が尋ねると、直哉はまたケラケラと笑って「そうやな、予言てことにしとこか」と目を細めた。
「なんでそうまでしてアイツの嫁を助けたいんだ」
時雨の問いに、直哉は笑みを引っ込める。
「……別に、助けたいワケとちゃう。言うたやろ? 『なるべく』って。生きとってくれたほうが俺にとってつごうがエエから、なるだけ生かしてみよか、てだけや。失敗して死んだら死んだで、かまわへん。その程度のハナシや。あ、だからってシゴトに手ェは抜くんやナイで」
そうは言われても、時雨にはどうしたって「その程度のハナシ」には聞こえなかった。けれど、まるで自分に言い聞かせるように告げる直哉の顔はひどくしかめつらしく、何か別の理由があるのだろうと訊いても、何も返ってこないような気がした。
こうやって思い詰めた顔をしていると、出会った頃の甚爾によく似ている。自分の中で固く意志が結ばれていて、時雨が引き受けようと引き受けまいと退くことはないのだと腹が決まっている顔。刃物みたいに鋭く、ガラスのように危うい顔――。
――ガキが、こんな顔してんじゃねえよ。
同じことを甚爾にも思ったことを覚えている。時雨とてコイツらがただのガキでなく、人智を超えた力を持ったバケモンのような存在であることは知っているが、それにしたってどうしても、……時雨は元警察官なのだ。
時雨は肩の力をほどき、腹の底からため息をついた。
「報酬は、出せるんだろうな」
「言い値で払う、て言うたやろ?」
「……。見つけられなくても、文句言うなよ。特級呪物なんだからな」
「安心せえ、がんばり賞止まりでも金出したるから。期待しとるで。――ほな、交渉成立やね。これからよろしゅう、時雨くん」
が、直哉がそうニッコリと笑いかけると、時雨は「待て。最後に一つ条件がある」と掌を向けた。「なぁに」と直哉は言う。
「……その、時雨くんってのやめてくんねえ?」
直哉はキョトンと目を丸くした。
「ハァ、なん? じゃあ時雨サンとでも呼べばええの? 俺にサン付けさせるとか度胸あるなァ、まァええけど」
「頼むわ……」
「ほな時雨サン、よろしゅうね」
かくして時雨は、まだ十年とそこらしか生きていない[[emphasismark:はず > ・]]の少年から依頼を受けることになった。
商売繁盛の猫は、家に置いてあった無病息災の蛇とともに、遅い誕生日プレゼントとして教わった住所に送っておいた。
甚爾からは「顔見せに来いよ」と言われたが、冬が終わり春が訪れると、直哉が丸一日家を抜け出して関東に行くことは難しくなってしまった。直哉は今年で十二になる。十二になると禪院家では一人前の術師として認められ、等級と配属が決まり個人任務が与えられる。現在はその前段階のために慌ただしく、また〝身代わり人形〟の件もあって直哉の日々はまったく余暇がない。
それに、軽率に顔を出して甚爾に隠し事がバレるとマズイということもあって、直哉自身あまり積極的に甚爾に会いに行こうとは思わなかった。常人より遥かに五感の鋭い彼の前で嘘をつきとおせる自信は、直哉にはなかったからだ。
身代わり人形についての情報は、書簡というかたちを持って定期的に直哉に届けられた。昼間は禪院家で術師としての鍛錬にかかりきりなため、人形を手に入れるにあたって直哉が直接動くには、夜に活動するほかなかった。
人形はおよそ十二、三年前を最後に表舞台から姿を消していた。現在の所有者は不明。当時はある宗教団体にて秘密裏に保管されていたものの、何者かの盗難があって以来行方はわからないという。十二、三年前というと、ちょうど直哉が生まれた頃。……ではなくこと呪術界においては、五条悟が誕生し、呪霊と術師の均衡がめちゃくちゃになり始めた時期だ。
六眼と無下限呪術の併せ持ちという圧倒的な存在の誕生によって、その引力に引き寄せられるように呪霊は力を増し、力のない普通の術師は死にやすくなった。直哉もまだ生まれていない頃のことで詳しくは知らないが、当時の呪術界にはかなりの混乱があったと聞いている。おそらく、世界の均衡が崩れ狂乱の時代が来ることに怯えた何者かが、護身の手段として身代わり人形を盗んだ……そんなところだろうか。
残念なことに、その盗難被害にあった宗教団体は数年前に瓦解していた。が、時雨の貢献によって、被害当時に宗教団体の幹部であったという者と連絡をとることができた。
直哉は今夜、その者に会いに行く。いつものようにこっそりと家を抜け出し、術式を重ねがけて走る。ところが、ふいに煌々と光る電話ボックスの前を通ったとき、直哉の足は自然と止まった。それはほとんど無意識な、習慣のようなものだった。
直哉は夜中、ごくまれにこの公衆電話から甚爾に電話をかけていた。
別に何か目的があったわけじゃない。何となく、始めたことだ。真夜中のことなのでもちろん応答がないときのほうが多かったが、それでよかった。甚爾だっていちいち応答できなかったことを悪く思うような精神性はしていなかったし、直哉の心の内にあるボンヤリとした寂寥感を濁すには、それくらいがちょうどよかったのだ。
たまに応答があった日は、そちらでの生活はどうか、楽しいか、伸び伸びやれているか、そんなことばかり訊いた。それを訊いて特にどうするわけでもなかったが、肯定的な返事がかえってくるたび、直哉は言い知れぬ満足感につつまれた。
――甚爾くんは、自由にやっとる。呪具振り回してぎょうさん人ンことボコして、術師殺しなんて恐れられて、金もあってシュミ(賭博だが)もあってカノジョもおって、毎日充実しとる。夜はきっとぐっすり寝とるし、朝起きたらカノジョとメシでも食って、元気にシゴト行ってギャンブルして、そうやって過ごしとるんやろな。あのやわい笑顔で。
――そうや。俺はずっと、そうやって好き勝手やっとる甚爾くんが見たかったんやないか。せやから俺は、俺が寂しゅうなっても、甚爾くんを見送ったんやろ。これでええんや。……甚爾くんは、ずうっと強い。それは、変わらないんやから。
自分のしていることは、けっして間違っていない。……尤も、いちいちこんな確認を求める時点で、直哉の心には普段にはない迷いが生まれていたのだろうが。
団体の幹部だという者は、意外にもシワクチャの老婆だった。もっと時雨みたいな守銭奴のオジサン(時雨に言えば確実に失礼だと叱られるだろう)だと思っていた直哉は、その姿を見てちょっと肩透かしを食らったような気分になった。
しかし直哉の反応に反して、老婆は直哉を見つけるなり、年季の入った顔を引き攣らせ「ヒッ」と息を詰めた。ふしぎに思って仲立ちをしてくれた時雨と顔を見合わせると、老婆は怯えたように目線を下げて直哉から目を逸らす。――なんやこのババア。
直哉が気分を害したことに気づいたのか、時雨は慌てて取りなすように口を開いた。
「まァ、まずは座りましょうや。ドリンクバーでも頼みますか」
話し合いの場に選んだのは、深夜まで営業しているファミリーレストランだ。
場違いなほど明るい店内は三人以外に人はなく、自由に席を選べた。端っこのボックス席に座ると気怠そうな店員がやって来て、深夜に老婆と男とやって来た幼い少年――つまり直哉を不審そうにチラリと見る。が、特に何を言うでもなくお冷を三つ置き、人数分のドリンクバーの注文を受け付けて帰っていった。それをまじまじと見て、老婆はおそるおそる顔を上げた。
「……あなたは本当に、生きている人間、なのですか」
細い瞳を伏しがちにした老婆は、もはや目が開いているのかいないのかわからない顔をしていた。直哉は眉を寄せ、「そうやけど」と端的に答える。
この反応――なんだって言うんだろう。何となく覚えがあるような気もする。まるで、そう、たとえば、数年前の悟みたいだ。悟はこんなに怯えていなかったけれど。
「俺が人間に見えへん?」
興味本位で尋ねてみると、老婆は少し沈黙して「ええ……」と頷いた。時雨が横でわかりやすく目を剥く。
「アンタ、目ェがイイの?」
「おっしゃる通り、人よりは……」
「ふうん。俺ンことホンマモンのバケモンみたいに呼ばわるヤツ、アンタで二人目や」
「左様ですか」
「左様左様。まァエエわ、そないなことどうでも。それより訊きたいんは〝身代わり人形〟のことや」
老婆は静々と「承知しています」とささやいた。相変わらず、直哉と目は合わなかった。
「あなた方は、くだんの御方様のことを探していらっしゃるとか……」
「御方様?」
「わたくしどもは、彼の人形をそう呼んでいました。彼の人形は、我々の神そのものでしたから……」
それに何とも言えない苦い顔をする時雨を眺めながら、直哉は「アソオ。で?」と指で机を叩く。もうこの世にない宗教団体がいかにその人形を大切にしていたかなどどうでもいい。日本の宗教観ゆえと言うべきか、そのへんの動物から道端の石まで人は祀ろうと思えばなんだって祀る。死を肩代わりする人形ともなれば、そりゃあありがたがって拝む者などいくらでもいるというもの。そんなことはわかりきっているのだから、サッサと本題に入って欲しい。
直哉がそう態度で示しているのが伝わったらしく、老婆は身を縮こめたまま、ボソボソとトロイ喋り方で続けた。
「……実のところ、わたくしは、御方様の行方を知っております」
「ア?」
「はぁ?」
「おっしゃる通り、わたくしは目がよいので……」
直哉は机を叩いていた手を止めた。
「なるほど? ……アンタ、千里眼か何か、そのたぐいの術式持ちっちゅうワケか」
「術式……わたくしどもは、祝福と呼んでおりましたが」
「呼び方なんざどうでもエエねん。で、人形はどこにあんの? ここまで来て教えないとは言わせへんで。教えるまでアンタをどこにも帰さんことくらい、俺にはカンタンにできるンやからな」
「オイ、脅すようなマネするな」
身を乗り出した直哉を時雨が窘める。「人聞き悪いなァ。ただの取引やろ」と直哉は薄ら笑いを浮かべた。
「御方様の行方は、お教えしてもかまいません。老い先短い身、このまま独りでかかえて死にゆくのは、申し訳が立たないと思っておりましたから……」
「そら結構なことやね」
「ありがたい話ですが、じゃなぜこれまで黙っていたんです? アンタらの団体は人形が盗まれたあと、教祖を中心に内部分裂を起こし解散したと聞いている。行方がわかってンなら、すぐに追いかけりゃ解散もしなかったんじゃないですか」
時雨の問いに、老婆は直哉に対するのと違ってまっすぐに顔を向けて答えた。
「意味がありませんので」
「はっ?」
「教祖様はあの人形を、逃れ得ぬご子息の死を回避するために使おうとしていた……。その矢先に事件は起こり、教祖様は如何に嘆かれたことか。誰か内通者がいたのではないか、と我々は疑われた」
「……」
「けれど、わたくしは知っていたのです。教祖様の思惑は、叶わぬであろうことを……。それを、言えなかった。だから、盗まれたままのほうが、幸福であろうと思ったのです」
直哉は訳もわからず老婆を見つめた。この老婆は、直哉とちがって本当に未来を見通す力を持っているのだろうか。一体何を「知っていた」というのか。
教祖の思惑は叶わない――つまり、誰も死を肩代わりできないほど、息子の死は重かったということか? それをこの老婆は知っていて、息子と教祖が同時に死ぬくらいならと黙っていた……そういうことだろうか。
「みな、あの人形を勘違いしている」
老婆はぽつりと言った。時雨は困ったように直哉に視線をやる。「……で、結局、人形はどこにあんの?」直哉がもう一度尋ねると、老婆は淡々と語った。とある暴力団幹部の元組長――その遺品として、墓の中に埋まっている――。とんでもないところに行き着いたものだが、案外暴力団という輩は呪術界、とりわけ呪詛師と繋がっていることが多い。噂を聞いて手に入れたものの、結果的には本来の用途を知らない者の手にわたり、骨とともに埋葬されたのだろう。
墓荒らしは手間だが、できないわけじゃない。直哉は時雨と目を合わせ、「ドーモ、ありがとさん」とニッコリ笑った。老婆は最後に直哉を一瞥すると、
「あなたには、怨念が絡みついている……」
などといきなり告げた。直哉は面食らって瞬く。
「覚えておいてください。神の如き力を得ようとも、運命は変わらない。あなたは生涯、人として死ぬことは叶わぬでしょう」
瞬間、直哉はぐにゃりと不愉快そうに眉を歪め、老婆を鼻で笑おうとし、失敗した。「忠告おおきにね」と口にした言葉は、やけに空々しく人のいないファミレスに響いた。時雨が気味の悪いものを見るような目で老婆を見つめる。その姿に踵を返し、直哉は用は済んだとばかりにずかずかと店内を横断する。
このババア、気色の悪いことを。運命は変わらない。人として死ぬことは叶わない――だと?
それは要するに、直哉が真希に負け呪霊となり祓われる運命は変わらない、とでも言いたいのだろうか。……冗談じゃない。何が見えているか知らないが、余計なお世話だ。ソレを回避するために直哉は今こうしてやり直している。実際その成果は発揮され、以前の同じ頃より今の直哉はよっぽど強くなっているし、このまま行けばたとえ同じことが起こっても偽物になど負けない。そもそも恵が当主にならなければ、あんなことも起こらない。
直哉は自分を信じている。自分のこれまでの行動を信じている。それに比べれば、こんな死にかけの老いぼれの言葉ひとつなど、信じるに値しない。
――それにしても、生涯?
将来、の聞き間違いだろうか。何せ「生涯」とは「この世に生きている、命続く間」という意味だ。この世に生きている間、人として死ぬことは叶わない……これじゃあ少しおかしい。生きている間に死ぬことのできる人間など、いやしない。
死んだら普通、人生はそこまでなのだから。
秋が来る頃に、直哉は〝身代わり人形〟を手に入れることができた。
墓荒らしは人を雇った。時雨の顔は呪術界に関係ないアングラな界隈にも効いたため、窃盗のプロに金を握らせて解決した。資産運用の分け前を父から貰っているとはいえ、直哉の財産は無尽蔵なわけではなかったが、背に腹はかえられない。
さてこのように計画通り実物を手に入れたところで、次なる段階はこれにあの女の「血を捧げる」ところだが……。
「ムリ」
「ムリとちゃう」
「ムリ、ムリ、ムリ、絶対ムリだって」
「ムリとちゃうって」
「ムリなんだよ。マジで。絶対ムリ。俺に殺されに行けってのか? オマエ言ったよな、禪院相手に芝居しろとは言わねえってオマエ確かに言ったよな。体張れとは言わねえって言ったよな」
「言うたけど。せやからカンタンなお使いやん。ヨメさんの血ちょっと取ってきて、これに垂らしてくれればええの」
「ソレがカンタンなわけあるか!!」
時雨は半ば悲鳴のような声で怒鳴った。直哉はぎゅむと目をつむって、「そないにデカイ声出さんでくれる? 恐ろしいやん」とヨヨヨ……と目元を抑えた。「くだんねー小芝居するなッ」と時雨は苦々しくほぞを噛む。
「カンタンだって言うならオマエがやりゃあいいだろ。とにかく俺はやらん。芸人じゃねえんだぞ、アイツ相手に体張ってられっか。殺されるわ」
「俺は……………………ムリや。忙しいモン」
「俺だってヒマじゃねーんだよ」
「やって、この工程踏まんと、呪物発動できひんモン」
直哉はじろりと時雨を睨めつけた。が、時雨はひるまなかった。甚爾がいかにあの女……もう籍を入れ妻になった女を大切にしているのか、知っていたからだ。その彼女から血を頂戴するなど、どんな方法だろうと甚爾に勘づかれたら理由を話す間もなく殺されるだろう。考えただけで鳥肌がたつ。
「なかなか京都を動けないオマエさんに代わって、ここまで協力してやったんだ。ここから先は俺は関わらん。オマエさん一人でどうにかするんだな。……別に、失敗したってかまやしねえんだろ? やるだけやりゃいいじゃねえか」
「…………」
「それとも何か? アイツらに会いたくないってか?」
「別に、そうは言うとらん。でも毎日毎日鍛錬と任務があって、俺も大変なんよ。今やって欠伸が出てぶっ倒れそうなのを押して来とるんやから」
事実、ここ数ヶ月、直哉は慢性的な睡眠不足に煩わされていた。周囲にはどうにか普段通りに見せてはいるものの、たまに眠たげな顔をしているのだろう。父や甚壱、扇に叱責されることもある。
「オマエよお……その頑張りはケナゲなもんで結構だが、本人がぶっ倒れちゃ元も子もないんじゃねえのか。肩代わり、できなきゃいけねえんだろ。それに……」
「……ナニ?」
「ここまで来て言っちゃあ悪いが、大丈夫なのか? あのバアサン、『みんな人形のことを勘違いしてる』とかなんとか言ってたよな。本当にオマエ一人が努力するだけでどうにかできるのか?」
「つまり、何が言いたいん?」
「本気で失敗したってかまわねえと思ってるなら、オマエだってわざわざ体を張る理由はねえってことだ」
直哉はピクリと眉を跳ね上げた。
「甚爾くんに話す気か?」
「そうは言ってねえ」
「甚爾くんにバラしたら、俺、アンタのこと殺すで」
時雨は肩をすくめる。ヤレヤレとした訳知り顔に、無性に苛立ちを覚えた。
「なんでそこまでしてアイツの嫁を助けたい?」
「だから、助けたいワケとちゃうって、」
「いや……違うな。オマエは、――――」
そのとき時雨は、何と言っただろうか。
何と言われていようが、その後の直哉の行動は変わらない。時雨が手を貸さないのなら、一人でやり遂げるしかない。
次の冬に、あの女は伏黒恵を生む。その前に、彼女の血を採取する。
直哉ならば、術式を使えば非術師に気づかれずわずかな切り傷でも作れるだろうが……甚爾にバレるのでは意味がない。また人を雇うか。相手は妊婦だ。ヘタな相手に依頼して、何かが起こってもマズイ。
そういえば、一般人の妊婦なら病院に通っているはず。病院で血液検査などをやってはいないだろうか。そこから拝借するのは、――可能が不可能かで言えば可能かもしれないが、方法が思いつかない。……行き詰まりだ。
時雨と別れ、夜が明けないうちに家に戻る。垣根を飛び越えとっくに慣れっこになったルートで自室に戻ると、部屋のド真ん中に、直毘人が立っていた。
「ゲッ……」
直哉はギョッとし、つい声を上げる。
「オマエ、どこ行っとった?」
直毘人は静かな声で告げた。――ヤッバイな。頭をフル回転させ、直哉はかろうじて「便所……」と答える。フル回転させた結果の回答がコレなんて、よほど疲れが溜まっているらしい。
すべてバレて雷を落とされ家に軟禁される可能性すら過ぎったが、存外直毘人は大きくため息をついただけで、それ以上直哉を追及しなかった。とうとう直哉の自由人ぶりを諦めたのだろうか。「……早く寝ろ」と深々と肩を落とした姿は、いかにも仕方なさげな雰囲気が滲んでいる。
「オマエ、最近……調子が出てないんじゃねえか」
「え? そんなことあらへんけど」
珍しい。父が直哉を心配するようなセリフを言うなんて。
禪院の男は弱音など吐くな、覇気のない顔を見せるな、泣き言を言うな。それが家の鉄則であり、前も今も直哉はそうやって育てられてきた。厳かに使命を果たし、粛々と強さを磨く……それができない男は、術師として劣等であると。
「明日、一日休め」
「あっ?」
「オマエもそろそろ部隊に入る。その前に一度、体を休めておくことも必要だろう」
直哉は目を見開いた。なんだ? いきなり。この父が、そんな甘ったれたことを言うなんて……。
「そんな甘ったれたことを言うなんて……っつう顔をしとるな」
「!」
「自分じゃ気づいとらんかもしれんがオマエ、ここ最近ずっと顔色が悪いぞ。やたらと気もそぞろだし、甚壱も心配しとった。甚爾が出て行って、気を落としているんじゃないかとな」
「はァ?」甚爾の名前が出た瞬間、直哉は唾を吐く勢いで顔を歪めた。「シンパイ? ハッ、くだらん。余計なお世話や」――しかし、直毘人は歯牙にもかけず緩慢に首を振る。
「当主の息子がそんなんじゃ士気も下がる。一日寝てるんでもいい、出かけンならそうすりゃいい。とにかく一日オマエにやる、その間にその顔どうにかして来い」
顔。顔と言われても。
直哉がほっぺたに手をやっているうちに、直毘人は部屋を出て行った。出かけンならそうすりゃいい――わざわざこう言ったということは、直毘人は直哉が夜な夜な家を抜け出すのを知っていたのだろう。年の功というべきか、父親ゆえというべきか。たぬきジジイめ。
とはいえ、これは好都合だ。当主直々に一日やると言われた明日なら、大手を振って東京に行くことができる。丸一日かければ、呪物のために血を採ることもできるだろう。
……あまり進んで会いに行きたくなかったが、仕方がない。あの冬以来初めて、直哉は東京へ行くことを決めた。
「……。代わり映えしない街やな……」
時雨に確認したところ、甚爾の居住地は冬の頃と変わっていなかった。やはり直哉の確信通り、あの女が甚爾の妻だったらしい。
今頃彼女は妊娠後期。禪院家で生まれたばかりの双子もヨチヨチと畳を這いずり回るようになった。恵が生まれるまで、あと数ヶ月もない。
街は相変わらずのほほんと平和ボケした雰囲気がただよっていた。呪術の存在すら知らない人々が平穏に暮らす街。かつて街中を飾っていたイルミネーションはなく、木々は赤や黄に色づいて路上に積もっている。数ヶ月前は甚爾のことばかり考えていて気がつかなかったが、風の吹き通りのいい拓けた街であることも関係しているのだろう、澱んだ負の感情が溜まる場もなく、そこそこ賑わっている場所でも蠅頭や低級呪霊しか見かけない。
都会にほど近く、背後には自然もある。おまけに東京だから高専も近く守ってもらえる。非術師にとっては非常にいい街だ。そして、甚爾が術師殺しという仕事と平凡な父親という役割を両立させるのにも……ここはちょうどいいのだろう。
街へ来るにあたって、甚爾に連絡は入れなかった。今回の直哉の主目的は甚爾の妻にある。そこに甚爾と会ってしまえばめんどうなことになるかもしれなかったし、ようやくここまで来て今更隠し事があると悟られるのもくだらない。
とりあえず、まずは家に向かってみるか。妊娠後期なら家で大人しくしているかもしれない。もし甚爾と一緒にいたら、出直すほかないだろう。直哉の行動は気の向くままに臨機応変、もっと言えば行き当たりばったりだった。
そうと決めれば、人気のないところに移り術式を発動しようとする。屋根まで駆け上がって術式で移動するのが、直哉としては最も速い。たとえ家にいなくても、またあの時のように夕方まで探せば見つかる気もした。
だがその途端、人もすれ違えないような細い道から思いがけず自転車が飛び出してきて、直哉の体が一瞬フリーズした。
「危ない!」
一秒固まった直哉の腕を、後ろからぐいと引かれる。
目の前を自転車が過ぎ去り、フリーズから解放された直哉の体は引力に従って後ろ向きに転んだ。「うわあっ!」とマヌケな声が聞こえて、腕を引いた何者かが直哉の横に揃って倒れ込む。
――この、声は。
「あいててて……」
何かの冗談かと思った。
まさか。まさか、こんなところに身重のオンナが一人で外を歩き回っているばかりか……、見知らぬ少年が自転車と衝突しそうなのを助け、一緒に転ぶだなんて。
信じられないバカしか、そんなことしない。
「キミ、大丈夫? 危なかったね、もうちょっとで轢かれちゃうところだったよ」
だが、その信じられないバカは存在したのだ。
女はそう言って重たそうな腹をかかえ、体を起こした。ぴょこぴょこと跳ねた黒髪、化粧っ気のない地味な顔。寸胴鍋だった胴体は、腹のあたりが大きくなだらかな弧を描いている。
「……大丈夫やあらへんのは、アン、おば、……おねーさん、のほうとちゃう?」
直哉は驚愕にほほを引き攣らせ、呆然と彼女――甚爾の妻を見た。
「私? ああ大丈夫、全然元気だよ! ちょっとお腹の子がビックリしたみたいだけど」
「…………。……膝……血ィが出とるケド」
「え、うそ? ちょっと待って、お腹で見えないや。うんしょ」
「いやエエわ、動くな。動くなて言うとるやろ」
直哉は懐からハンカチを出して女の膝に当てた。……そういえば今の世で初めて甚爾と会ったときも、こうしてハンカチを止血にあててやったのだったか。
「わ、わ、え!? そんな高そうなハンカチ汚れちゃうよ、いいの!?」
「俺のせいで転んだんやから、しゃあないやろ」
「えー、キミのせいじゃないよ。強いて言うならあの自転車! もう……このへん子供もたくさんいるのに、ああやって歩道を猛スピードで走る自転車がたまにいるんだよね。危ないったら」
女はそう言ってほほを膨らませたかと思うと、次の瞬間にはコロリと笑顔に戻って直哉を見た。「キミ、このへんじゃ見かけないね。ひとりで来たの? お使いかな。エラいね」などとニコニコ言う。のどかな笑顔で、まっすぐに目を合わせる女だった。「まァ、そんなとこ」と直哉は硬い表情で答えた。
「急に腕引っ張ってゴメンね。痛くなかった?」
「痛いのは、おねーさんやろ」
「これくらいどうってことないよぉ。ホラ、血も止まったみたい。ありがとう、キミのおかげだね」
「大したことしてへん。……ほな、立てる?」
直哉は先に立ち上がって手を伸ばした。「ありがとう!」と溌剌と言って、女は躊躇なくその手を掴む。意外と大きな手だった。が、しっかと掴まれた手は子供である直哉に慮ってかさほどの体重はかけられず、直哉がそれに気づく前に、女は地面についたもう片手だけで「よっこら、しょ」と勢いづけて立ち上がろうとした。そんなマネをするものだから、
「うわ、わわわ!」
とその拍子にまた大きくよろめき、直哉は慌てて女を支えた。すると、気の抜けた顔が照れくさそうに「ご、ごめん、寄りかかっちゃった。へへ」とはにかんで笑う。それをまじまじと見つめ、直哉は、
――このオンナ……。
と心の中でつぶやいた。
――このオンナ、鈍臭すぎる……!!
ハッキリ言って、直哉は戦慄していた。
初めて見たときも呑気な声をした女だと思っていたが、それにしたって身重の女というのはもっと野生のけだものみたいに警戒心高く、周囲に対してピリピリしているものじゃないのか。それなのにこの女の春の陽気みたいな、あるいは心底甘やかされた犬みたいな顔はなんだ。こんな誰とも知らぬ他人の子供を助けて膝から血を流して、それに気づかずニコニコしているような女、本当にこの世に存在するのか。ちゃんと生きられるのか。否、生きられないから死んだのだろう。そもそも甚爾を選ぶオンナという時点である程度どこかおかしくはあるハズだが(何せ職業不定のヒモだ。マトモな女はいくら顔と体がよかろうと結婚しようとまでは思わない)それにしたってこの危機感のなさ――こんなの死んだって当たり前だ。
――甚爾くんが選んだ相手ならそないキョーミもないし別にええんちゃうて思てたけど、前言撤回やわ。コレが甚爾くんのヨメって解釈違いすぎる。ホンマにええんか? こない鈍臭いので……! こないノーテンキでふやふやしててウカツで考えなしな感じでええんか? たまたまガキがデキてしもうたからしゃーなしに結婚するとかやナイんか!? せやったら俺がどーとでもしたるけど!
――あのとき見た甚爾くんの笑顔ってもしかして幻覚だったんかな? やってそやないと全然わからへんもん。このオンナのどこに惚れたん? こない顔もカラダもフッツーで頭の弱そうな間の抜けたオンナ……俺やったらゼッタイ選ばへん。やっぱし甚爾くんの考えとること、全ッ然、わからん。
「アンタ、大丈夫?」
「何が?」
「つうか、一人で何しとんの? そないお腹大きくさせて」
直哉は本気で理解不能だった。理解不能な生物にぶち当たってしまった気分だった。
「ああ。お醤油切らしたの忘れてて、買いに来たんだ」
「そんなのダンナにやらせりゃエエやん。アンタのダンナ、ちゃんとよくしてくれとんの」
「ええ? アハハ、なんだかキミ母親みたいなこと言うんだね。大丈夫大丈夫、いつもはこっちが呆れちゃうくらい過保護なの。今日は仕事でいないから、一人で買い物に来ただけ」
「ア、ソオ……」
過保護な甚爾か。意外なような気もしたし、納得できるような気もした。あの笑顔をする甚爾なら、まァ、あるか。やはり幻覚ではなかったのだろう。
「……アンタのダンナ、優しい?」
直哉が尋ねると、彼女は真っ黒い大きな目をパチパチと瞬かせ、明るく笑った。
「うん、すっごくね」
直哉は小さく「ソオ」と頷いた。
「ほな俺、帰るわ。……あんまウカツなことしたらアカンで。一人のカラダやないんやろ」
「え? あ、待って! そのハンカチ汚したままで持ってくの? ウチで洗っていこうか?」
「エエわそんなん」
むしろちょうどよかった。まったくの偶然であったとはいえ、直哉は彼女の血を手に入れたことになったのだ。
方法など一切思い浮かんでいなかったが、まさかこんなにあっさりと手に入るとは。このまま甚爾に会わず京都に帰りたい。何よりもこのトンチンカンな女から離れたい。あの呪物について書かれた書物には、血の量の規定など特に記されていなかった。刀についたわずかな血液で発動したという記録も残っていることだし、コレで事足りるだろう。
「そう? それじゃあ私、お醤油買って帰るね。心配してくれてありがとう」
「…………。醤油、まだ買ってへんの?」
直哉の問いに、女はうんと頷いて道の反対側を指さした。
「あそこのスーパーで買って帰るの」
「……」
直哉は沈黙した。
確か、甚爾たちが住んでいるのはここから徒歩で二十分ほど歩いた先のアパートだ。直哉の術式なら一足飛びの距離だが、身重の体には少々遠くはないだろうか。
「あのスーパーじゃなきゃアカン理由とか、あんの? 目の前にコンビニあるやん」
「そうなんだけど、あそこのお醤油がいちばん安いんだよねぇ」
「…………」
……………………。
くだらない。心底。本気で。有り得ない。こんな人間がこの世にいることが。というか妻がそんなケチくさいんじゃ甚爾が稼いでないみたいだろう。謝れ。招き猫送ったのに。
女を家に送り届けながら、直哉は、自分はなぜこんなことをしているのだろうと思った。別にこの女が無事に家に帰れなくても、腹にいる恵に何かが起こっても、直哉としてはどうでもいい。恵が生まれなくなるのであれば、願ったり叶ったりだ。それなのに。
――「なんでそこまでしてアイツの嫁を助けたい?」
――「だから、助けたいワケとちゃうって、」
――「いや……違うな。オマエは、――――」
「送ってくれてありがとう。心配かけちゃったね。でも大丈夫だよ、これでも元気が取り柄なんだから」
「……お腹の子、そろそろ生まれるんやろ? 名前、決めてんの?」
「ううん。名前はと、……えっと、私の旦那さんがつけてくれることになってるの。出産予定日は冬になるのかな。もうちょっとだね」
「男か女かは?」
「調べてない。生まれてくるまでわからないほうがドキドキでしょ。だから男の子でも女の子でも大丈夫な名前考えといてね、って言ってあるんだ」
女は愛おしむように腹を撫でた。そうか。恵という名前は、甚爾が決めたのか。
一体、何を思ってつけたのだろう。恵まれた子になりますように……とか? ちょっとありきたりすぎるだろうか。
「なあ。アンタの子供のこと、予言したげよか?」
「え?」
いずれにせよ、甚爾がそんな名前をつけたから、あの子供は術式も縁も何もかも持て余すほど恵まれた子供に育ったのかもしれない。そう思えば、少し羨ましいような気もした。直哉も甚爾に名前をつけてもらってみれば、何か違っただろうか。
「アンタの子供は、父親によう似た男の子や。身の丈に合わないヘンなナマイキさ身につけるクセに、甘ったれで自分勝手でしょうもない友情とか大事にしてまうガキになりよる。髪はびょんびょんでアンタと同じ、櫛とか存在すら知らんような癖っ毛になるで」
男か女かどちらかわからない、その状態をドキドキすると楽しめるのなら、いっそ直哉が先んじて教えてガッカリさせてしまえと思った。男か女か、たったそれだけのドキドキが禪院家ではどれだけ重視されるか。この女にはわからないだろう。
ところが、
「予言? ええ、ホントに? パパに似た男の子かあ……それって目つき悪いんじゃない? しかも私の髪継いじゃうとか、アハハ! かなり最悪かもね!」
女はそう言って軽く笑った。続けて、「でもよかった。キミの言う通りなら、優しくて友達を大事にする子になるんでしょ。子供なんてちゃんと育てられるか不安だったけど、楽しみが増えちゃった」と安心したように息をついた。
直哉は鼻白み、もう付き合ってられないというように目線を逸らした。
「もうエエわ」
「ん? あ、家着いた。ありがとうね、ここまで着いてきてくれて。よかったら上がってく? ごはん食べてかない?」
「いらへん」
「ホントに? そういえばこんなとこまで連れてきちゃって、親御さんに連絡したほうがよかったかも……」
「いらへんから」
直哉はそう言って持っていた醤油を押し付けると、角を曲がるなり術式を使って屋根に飛び乗った。下で「ああちょっと待って、最後にお菓子でも――って、あれ? い、いない!? うそぉ?」と騒ぐ女の声が聞こえ、逃げるように走り出す。
直哉が立ち去った数時間後に、買った醤油で肉じゃがを作る女のもとに甚爾が帰ってきて、女を見て「オイ、今日昼間に誰か来たか?」と尋ねた。女はくるりと振り返り「それがねぇ、聞いて甚爾くん! 私、なんだか神様に会っちゃったかもしれない。不思議な男の子がいてね、お腹の子のこと――」と興奮したように喋りだした。そのことを、直哉は知る由もない……。
冬が来た。年が明けた。冬が過ぎた。
恵が生まれたとの報告を時雨から聞き、直哉は結婚祝いと出産祝いをかねた品をかたちばかり送った。真希と真依は一歳の誕生日を迎え、あうあうと喃語を話しながらもちゃもちゃ短い手足をバタつかせ畳を這いずっている。甚爾の観察ができなくなった今の直哉の余暇は、もっぱら鍛錬かこの双子の成長を眺めることだった。
直哉は準一級術師として等級を得、はじめから炳の任務に参加することになった。この配属はきわめて異例なことだったが、誰も否やを唱える者はいなかった。
そして、ある日の任務中のこと。
「ゔッ――、っグ!?」
突然真横から質量の大きい何かに吹っ飛ばされたようになって、直哉は地面に倒れた。体がミシミシと軋み、おそらく肋かどこか、そのあたりの骨が折れたと認識する。
途端、重い呪力が直哉にまとわり、ズンと空気を鈍らせた。恵が生まれたと聞いてからずっと懐に忍ばせていた〝身代わり人形〟が、発動したのだ。
この衝撃。骨の折れ方。――あの女の死因は、交通事故だったのか。
それに気がつき、直哉はようやく……安心した。
唐突に倒れ込みおぞましい呪力をまとった直哉を、周囲の者は敵の何某かの攻撃だと思ったようだ。「大丈夫か!?」などと叫ぶ声にかろうじて呻き声をかえし、呪力で痛みを補いながら起き上がる。
本来の直哉なら交通事故など、それも半分ほどのダメージならなんの弊害にもならないが、〝身代わり人形〟の効果は肩代わりだ。呪力強化など関係なく、「あの女を襲ったもの」が半分そのままやってくる。けれどそれでも直哉は耐えきった。死ななかった。身代わり人形は正しく発動した。
直哉はあの女の死を回避した。
「直哉ッ! 避けろ!!」
そう気を緩めたのがいけなかったのか。
甚壱の怒鳴る声がして、直哉は術式を使う間もなく呪霊の攻撃を受けた。正真正銘、任務の対象であった祓うべき相手の攻撃だ。意識が遠のく。
――成功したはしたでエエけど、タイミング最悪や。
直哉は宙に吹っ飛ばされながら、全身の痛みとともに満足したように目を閉じた。
タイミングは最悪だ。だが、成功した。成功、したのだ。
あの女は、もう死なない。
――「けれど、わたくしは知っていたのです。教祖様の思惑は、叶わぬであろうことを……」
――「みな、あの人形を勘違いしている」
――「覚えておいてください。神の如き力を得ようとも、運命は変わらない」
甚爾の妻の葬儀がおこなわれたと知ったとき、直哉はまだ床の中にいた。
数ヶ月、眠っていた。どれだけ大規模な事故だったかは知らないが、直哉が肩代わりした彼女の死は相当重いものだったようだ。直哉の場合は直後に呪霊の攻撃を受けたことと、長らくの睡眠不足もまた要因だったのだろう。起きたときには、すべてが終わっていた。
「……なんで」
床に臥せたまま時雨からの手紙を読み、直哉は呆然とした。完璧な計画だった。不足はなかった。〝身代わり人形〟は発動したし、直哉はその代償を受けた。それなのに、なぜ。
手紙には、甚爾の妻が病に倒れ亡くなった、と書いてあった。急なことで、原因は不明だ、と。――あの女が、死んだ。
老婆は言った。「みな、あの人形を勘違いしている」。「神の如き力を得ようとも、運命は変わらない」。
つまり、人形は完全に死を回避するものではない。神の如き力に見えても、「死」という運命は変わらない。人形の効力があるのは一人につき、一度だけ。たった一度だけ死を回避したところで、他のかたちで変わらぬ「死」という運命がやって来る。
あの老婆が言ったのは、そういうことだったのか?
「クソッ……!」
直哉は無理やり床から飛び出し、寝巻きのまま廊下に出た。居てもたってもいられなかった。
すると、ドン、と壁のような何かにぶつかって尻もちをつく。見上げると、そこには驚いた顔をした甚壱が立っていた。
「甚壱くん、どいて!」
直哉は叫び、再度走ろうとする。その腕を大きな手が引き寄せた。
「そんな体でどこに行くんだ」
「どこでもイイやろッ」
「待て。安静にしてろと言われただろう」
「もうどこも悪ゥない!」
実際はそんなことはなかった。今も全身が軋むほど痛い。だがこんな痛みどうってことなかった。そんなことよりも気にかかることがあった。
「離せや! 俺はいかなならんとこがあんねん!」
「甚爾のところか?」
言い当てられ、直哉は目を大きくして息を呑んだ。
「オマエがそうやって感情を揺さぶられるのは、たいてい甚爾のことだろう」
「、……」
「オマエが烈しく笑いも怒りもしなくなったのだって、甚爾がいなくなってからだ」
直哉は口を引き結んだ。――見透かされている。だから、なんだ。そんなことを言い当てられたからって、直哉が大人しく甚壱の言うことを聞かなければならないいわれはない。
どうせ甚壱は二年前の甚爾の件についてくだらない責任を感じているのだろう。頭の硬いこの男のことだ。甚爾の兄として彼を止められなかった、その凶行を押し通させ家を出て行かせてしまった、そんなことを引け目に思っているにちがいない。
甚壱が甚爾に勝てることなんて、昔から何一つないのに。
「離せ」
そう言って無理に腕を引き抜くと、直哉は甚壱の顔も見ず走り出した。甚爾からパーツだけくりぬいたような似ても似つかない造形の顔。あんな顔、いつまでも見ていたくない。そんなことより、重要なことがある。
有り金を掴めるだけ掴み、術式を重ねがけして走って、直哉は単身で東京まで飛んで行った。まだ治りきっていない体が悲鳴をあげる。息が切れ、意図せず動かなくなった体がフリーズして地面に全身を擦り付けることになっても、もう一度起き上がって直哉は何度でも術式を発動させた。
――甚爾くん。
失敗した。
失敗した失敗した失敗した。
あの女は死んだ。
失敗、した。
――甚爾くん。……甚爾くん!
生まれ直してから初めて、直哉は本当に、取り返しのつかない失敗をした。
何が?
恵のことならまだ打てる手はある。直哉はまだ当主になれる。真希に勝てる。アッチ側に行ける。たとえ運命が変わらなくても。たとえ死んだとしても。まだやれることはある。何だってどんなことだってすればいい。やれることならいくらでもやったっていい。人として死ねなくたってそれでもいい。でも、そんなことより、
直哉は取り返しのつかない失敗をしたのだ。
「甚爾くん」
東京のこれまで二度訪ねたアパートは、鍵がかかっておらず、玄関口に引っかかっている傘はそのままだった。
扉を開けると、コンクリートに防がれて聞こえなかった赤ン坊の泣き声が耳に飛び込んだ。不快感を煽る高い声。玄関の先には廊下が伸びて、その向こうに、動かずにうずくまったままの黒い塊があった。
「甚爾、くん」
甚爾だった。
骨壷をかかえ、死んでいるみたいにピクリとも動かずに、甚爾はぐったりとソファに寄りかかっていた。以前見かけた頃よりずいぶんと髪が伸び、まるで禪院家にいた頃みたいになっている。服はくたびれていて、もしかすると何日も風呂に入っていないのかもしれない。かろうじて、机の上に空っぽのカップラーメンのゴミがいくつか散乱していた。
「甚爾くん」
直哉は幾度めか、甚爾に呼びかけた。すると、甚爾は直哉に気がついて、のっそりと顔を上げた。
その目には何も写っていなかった。沼の底のように黒く澱み、光などひとかけらも入らない。伸びかけの髭の隣にひび割れたくちびるが固く結ばれ、涙のあとともカップラーメンの脂ともわからない何かがほほを濡らしている。
直哉は。
「――甚爾くん、ごめん……」
あの日、時雨に言われた言葉を思い出した。「なんでそこまでしてアイツの嫁を助けたい?」。「だから、助けたいワケとちゃうって、」と直哉は言った。そのセリフに割って入るようにして、時雨はこう言った。
「いや……違うな。オマエは、アイツの幸せを守りたいんだろ?」
なんてくさいセリフを言うものかと、そのときは聞き流した。けれど、今になってわかった。
――そうか、俺は。
甚爾くんに、この顔をして欲しうなかったんや。
甚爾の笑顔を見たとき、直哉は衝撃を受けた。隕石が飛来して、未知なる感覚につつまれて。甚爾はあんな顔ができる人間だったのか。あんなに明るく穏やかに、やわらかな笑顔を人に向けて浮かべることができる人間だったのか。そんな笑顔を向けてもらえる人間が、この世にいたのか、と……。
そして、もしも直哉が甚爾に「予言」をしたら、あの笑顔はすぐさま失われるであろうことも気がついた。
直哉の予言は外れない。ソレを甚爾は数年間見てきた。その甚爾に、「時期も原因も検討がつかないが、いずれ甚爾の愛する女は死ぬ」などと伝えたら――甚爾はおそらく、死ぬまでいつ来るかわからない妻の死にかまえ続ける。もしかすると、怯えたり、疲弊したり、直哉の言葉を嘘だと思ったり、思おうとしたり、悪夢を見たり、憔悴したり、するかもしれない。どうなるかはわからない。いずれにせよ少なからず、あの幸福な姿に陰を落とす。
ただのごく普通の男みたいな、優しくて穏やかで、街の雰囲気みたいにあたたかな姿。禪院家ではけっして見ることのできなかった、幸福を手に入れた男の顔。
あの顔を、直哉の手で叩き潰すことが、許容できなかった。
それだけじゃない。
直哉は――ずるいと思ったのだ。
直哉はたぶん、ひっくり返っても甚爾にあんな顔をさせられない。烏滸がましくも数年禪院家で甚爾と過ごして、直哉は甚爾となかなか親しくなれたと思っていた。ともに食事をし、稽古をつけてもらって、笑って、喋って、じゃれ合って。
でもあの顔は、直哉にはつくれないものだった。数年一緒にいた直哉が見られなかったものを、あの女はたった一年ちょっと離れていた間につくりだしていた。
――ずるかった。
だからせめて、直哉が、直哉のちからで、甚爾のあの顔を守りたかった。
あの女の死を実現させないことで、甚爾の幸福を永遠に持続させたかった。それができるのは、甚爾に真実を打ち明けない限り、唯一この世で直哉だけだった。
だから一人でどうにかしようとした。
だから甚爾に黙っていた。
それが愚かだった。
「ごめんな、甚爾くん…………」
直哉のつぶやきに、甚爾はボンヤリと虚ろな目を向けた。それから、ゆっくりと目を見開いた。
「――、」
真っ暗な瞳に直哉の顔が写る。それを黙って眺めていると、甚爾はふいに言った。愛する者の死にふれてざらついた、すべての感情を押し込めた声で。
「――オマエ、知ってたな?」
何のことを言っているのか、察するには十分すぎるほど必要最低限の言葉だった。
直哉が「ごめん」とこぼすと、甚爾の目にゆらりと怒気が立ちのぼる。「ごめん、……ごめん」直哉はただ繰り返した。それ以外に何を言うべきかわからなかった。甚爾の悲しみも、怒りも、絶望も、この状況の何もかも、直哉の驕りが招いた結果だったから。
「出てけよ。今すぐに」
「……甚爾くん、」
「出て行け」
殴られても殺されてもよかった。そんなことをされなくてもすでに全身が痛かった。体の内側からズキズキと、心臓から脳みそから誰かに握られ絞られているようにぎゅうっと痛い。
甚爾はそんな直哉を見て、もはや感情など何もない顔で告げた。
「俺に、……オマエを、殺させるな」
甚爾はぴしゃりと跳ね除けるように言って、顔を逸らした。それきり、突き飛ばすことも部屋の外に放り投げることもせず、指一本直哉にふれなかった。赤ン坊の泣き声が悄然と響く中、直哉は何も言わず部屋を後にした。
部屋を出て、傘を見て、もう死んだ女の生ぬるい笑顔を思い浮かべて。ドアに背をつけ、顔を覆ってしゃがみこみ、それから、直哉は理解した。悟と話したときに感じた、歯車の欠け。
――直哉の知識は今のところ、そう大きく外れたことがない。
――神の如き力を得ようとも、運命は変わらない。
直哉はこれまで、ほんのわずかずつ未来を変え、起こるはずのなかったことを発生させたことは多々あれど、その節目に起こる大きな出来事をなかったことにしたことはなかった。甚爾の出奔、双子の誕生、恵の誕生、甚爾の妻の死。あるいは、使用人の忌引――。
――「あの人のお嬢ちゃん、もうひと月も持たへんねんで。可哀想やなァ」
即ち、直哉は人の生死を変えたことがない。
そのことにようやく気がついて、直哉はうずくまった。
アパートの窓から、恵の泣き声が繰り返し聞こえていた。
つづく




























