事の始まりは二人で出かけたことだった。
それだって別に特別なデートってわけでもなくて、直哉が強請った結果、一緒に買い物に行っただけ。
それでも久しぶりに連れ立って歩けることに気分は上がっていた。しかもご機嫌なまま彼の服を選んだら、嫌がらずに着てくれたもので。それなら己も洋服にしようと思っていたところで彼が気まぐれでこちらの服も選んでくれたもので。ともかくこの日、直哉の気が大きくなっていたのは確かだ。
実は、長らく金と身体だけで繋がっていた直哉と甚爾の関係は、今現在において、一応は恋人同士に格上げされている。
真希に負けて無様に生き延びて、一度死んだんだからもうどうにでもなれと思い切った直哉の一生に一度の泣き落としの結果。面倒事を嫌う彼の性格を逆手に取って、愛憎因縁で絡まりまくった関係者全員を巻き込んでのアプローチ、粘りに粘った粘り勝ちで恋人の座を掴んだのだった。
そうして恋人になって以降、金は出したり出されたり。(意外ではあったが金には困ってはないらしい。それはそうか、だって術師でいえば特級レベル、任務の額も桁違い)プロヒモやってただけあって甘やかすのも甘えるのも上手。勢いで誘ったら数瞬の間もなく頷かれたので同棲なんかしちゃったりして。
そんなふうに過ごしているうちにすっかり愛されている気になってしまっていたのだろうか。そんなわけないというのに。彼が己のものであるなんて勘違いをしてしまっていたのだろうか。そんなのは最初からありえないというのに。
馬鹿やなあ、己を罵れどもう遅い。後悔先に立たず。自らの愚かさはあまりにも突然に思い知らされることとなる。
◆
それは二人で歩いている時のことだった。たいそう綺麗な女が話しかけてきたのだ――もちろん、甚爾に向かって。
女は共にいる直哉のことなんか気にもせずに、気安く「甚爾じゃん、元気?」と彼だけに笑いかけた。
それがかつて甚爾が星の数ほど抱えていたオンナのうちの一人であることは明らかだった。ぐぐっと眉間が寄るのがわかる。だって直哉にはそれが本当に「かつて」なのか、「今も」なのかを知ることはできない。聞くこともできない。都合の良い存在で居続けるから、そう言って求愛したのは直哉だ。
それゆえに彼の行動を制限する権利などない。制限してはならない。今までだってそうやってきた。我慢してきた。その身のうちでどれほど苛烈に悋気を抱こうが、一度だってそれを伝えることはなかった。それをすれば彼があっという間に離れていく、そんなことはそれこそ明らかだったから。それが酷く惨めなことはわかっていたけれど、甚爾相手にはもうずっとなりふり構っていられないのだ。
だから今だって直哉はそっぽを向いて耐える以外はできなかった。ただ女が立ち去るのを待っていた。「誰?」とも「放っといて行こうや」とも言えずにただ唇を噛み締めて突っ立っていた。の、だが、
だが、女はあろうことか「お金あげるから今日うち来ない?」なんて言って彼の腕を組むようにして抱きついたのだ。
直哉は目を見開く。
瞬間的にかっとなった。
俺は――どれだけ貢いでも『それ』はできない。
人前で彼の腕になんか触れられない。触れたくないわけではない。触れたい、ずっと――幼きあの日よりずっと、直哉は彼の逞しい腕にしがみついてみたい。
でも甚爾はどう思うだろうかと遠慮してしまうのだ。
嫌がるだろうか、それとも受け入れてくれるだろうか。拒まれたら立ち直れない。振り払われたりなんかしたら崩れ落ちてしまう。いつだって、直哉は甚爾だけに臆病。
なのに、それをこのアマはいとも簡単に。振り払われることなんか考えもしないで。
でも、
でも、本当はわかっている。
伏黒甚爾は雄の頂点に君臨するような存在。彼の隣には綺麗で華奢な女がよく似合う。
もちろん直哉は直哉自身を誇りに思っている。強さを求めて走り続ける己を誇りに思っている。けれど、だからこそ己は彼女のように華奢ではないしか弱くはない。上背もある、戦闘スタイルゆえに鍛えられた身体。真希に殴られて潰れた右半分の顔。なのにアッチ側にもいけん、中途半端。甚爾にぴったりとくっつく女を前にしては、どうにも宙ぶらりんの劣等感が刺激されてしまう。
これ以上この場にいたらどうにかなりそうだった。
甚爾の反応なんか見ていられなかった。ので、無様にも、
「先帰っとるね」
と、二人に向かって言うしかなかった。
「え〜なになに、甚爾、今はこの人と住んでるの?」
「おい」
からかうような女の声と咎めるような甚爾の声を背に直哉は立ち去った。俺の男に触らんといて、とか。言えるわけもない。だって女の誘いに甚爾が頷かないはずがない。あれだけのイイ女、金も出されたあの状況で甚爾が逃すはずがない。それを見たくなかった俺は本当に弱い、弱すぎる。
◆
で、そこからは地獄。
何故だか追いかけてきた甚爾に肩を掴まれて立ち止まる。追いかけてきてくれたことを嬉しいと思う自分が許せなかった。都合良くいなくてはいけないのに。本心ではそうなれない自分の欲深さに腹が立つ。
しかし、肩を掴んだままの甚爾が気だるげに、
「待てって言ってんだろ、ほんとに聞き分けがねえな」
その呆れたような物言いに、それだけでふつふつとした嫉妬を燻ぶらせていた心臓は爆発した。
図星、だからこそ。
聞き分けのない、じゃあ聞き分け良くしてたら甚爾くんは俺のものになってくれるの。なれんくせに、禪院の生き残りを弄ぶのが愉しいだけで恋人になったくせに。
「なんで来たん」
初めて、彼に出会って以来、本当に初めて彼を責める言い方をしている自覚があった。
「あ?」
「あのアマのところ行けばよかったんに」
「オマエなあ、」
甚爾がため息をつく。そして、
「妬いたなら妬いたって言えばいいだろ」
――だなんて。
言えるわけがない! もう少しで叫んでしまうところだった。あくまでも直哉を宥めようと大人な対応をする男が許せなかった。それならいっそ怒ってくれたほうが良かった。いつもそう、いつもこっちばっかり必死になって、不安になって。悔しい、悔しい、悔しい!
普段なら抑えつけているはずの裸の感情が今日は五月蝿くて仕方がない。
「はいはい堪忍ね! 俺が邪魔してもうたんやろ。それともなに、財布の機嫌損ねて金の心配? 孕まん胎を手放し難い? 壊れん身体に未練がある? 甚爾くんも昔と違って高専で稼いどるんやから俺やなくても、」
こんな、こんなヒステリックなこと言いたくないのに。
「邪魔とか金とか、そんなこと言ってねえだろうが」
「じゃあなんなん」
怯える心を黙らせて甚爾を睨んだ。彼が怖いんじゃない、彼に捨てられるのが怖い。でも暴れる恋心はもう聞き分けよくいられない。
彼が答える前にもう一度「じゃあなんであの女について行かんかったん」と問いかける。それはもう訊ねるというよりも詰る声色だった。
「オマエと出掛けてる途中だっただろ」
「はん、さすがプロヒモ、お情けが上手やねえ」
「馬鹿にしてんのか」
ここにきて今日初めて怒りの感情をみせた甚爾が唸るがもう直哉だって引きようがなかった。往来で立ち止まって言い合う体格の良い男二人を周囲は避けていたが知ったことじゃない。
「そう聞こえた? ごめんちゃい」
もはや煽るためだけに両手を合わせて謝る。
「さすが禪院、煽るのが上手い」
「甚爾くんも禪院やろ」
「その上手に回る口のせいで真希にボコられてたら世話ねえな」
「悟くんに半身ふっ飛ばされた甚爾くんに言われたないわ」
『あの』星漿体事件について、直哉が「最強は甚爾くんや」以外の言及をするのは初めてのことだった。たとえ半身がふっ飛ばされようがそれでも最強は甚爾くんなんやけど、心の中ではそう付け足すも、こんな場面ではもう口には出せない。
直哉の台詞を聞いた甚爾はなんとも珍しいことに息を飲んだ。
さらにその端正な顔立ちを歪ませて、「ふうん」と挑発するような笑みを浮かべる。三日月に細まった瞳がこちらをとらえ、そして、
「オマエって事あるごとに坊の名前出すけど、ほんとはあいつのことが好きなんじゃねえのか」
「は?」
「強い男に組み敷かれるの好きだもんなあ。今度強請ってみたらどうだ? 幼馴染の情につけ込んで犯してもらえよ」
今度は直哉が息を詰める番だった。
コイツ、この男は何を言ってる?
「……黙れや」
「三歩後ろを歩かねえ女は背中刺されて死んだらいい、だったか? 自分は絶対に適わない男に犯されて喜ぶようなオンナなんだから、禪院の人間ってのは相変わらず嫌味がうま、」
「黙れ!」
耐えきれずに甚爾の胸ぐらを掴んで怒鳴った。これ以上はもう一秒だって耐えられなかった。
――アンタに、甚爾だけに焦がれるこの心をわかったように語るな!
組み敷かれて喘がされてめちゃくちゃにされて、それで喜ぶのは相手が甚爾だからなのに。そんな、まるで強ければ誰でもいいと思っているかのような。
ましてや悟なんかは、彼が甚爾を殺したという噂を聞いて、それこそ適わないとわかっていながらも強襲した相手なのだ。その際に甚爾存命の事実を打ち明けられなければ、直哉は格上相手に無茶な特攻を仕掛けて返り討ちのうえに死んでいただろう。それを、は? 抱いてもらえ? よくもまあ!
「甚爾くんなんか、甚爾くんなんか…!」
されるがまま胸ぐらを揺さぶられる様子にもっと腹がたった。喧嘩にもならない。どうせ彼の眼中に直哉はいない。こうして目の前で言い合っていても、彼にとっては直哉のことなんかどうだっていいのだ。
「『甚爾くんなんか猿のくせに』、か? 言やいいだろ」
言えない、思ってもない。己には彼を煽ることはできても罵る思考も語彙も持たない。それを誰よりもわかっているはずなのに。こちらを蔑むように笑う男が許せなかった。惨めだった。泣きたくなかった。泣くほうがもっと惨めだった。
結局、直哉はそれ以上は何も言えずに下唇を噛んだ。
痛い。でも心のほうがもっと痛い。ああ、俺にも人の心あるんや。
直哉が黙り込めば甚爾も沈黙した。そうして掴んだままだった胸ぐらを離せば、彼は衣服の乱れを直すこともしない。
ほら、俺なんかじゃこの人を傷つけられもしない。
潰れた恋心を抱えたまま歩き出すと、甚爾も無言で着いてくる。それは帰路だった。久しぶりのお出掛けで、直哉にとってはデートで、今朝はあれほどたのしみにしていたはずの買い物の帰り道であった。
◆
そのあとは何事もなく家に着いた。二人で住む家。
未だに会話はない。
本当に、甚爾が何を考えてこの家に帰ってきたのかわからなかった。直哉に嫌気が差したとしても今日の寝床を失いたくない思いなのか、それともこれほど大げさに喧嘩をしておいて特に気にもしていないのか。前者だったら死ぬ、後者でも同じく死ぬ。死んでやる。
二人して黙ったままエレベーターに乗り、黙ったまま直哉が鍵を開ける。数時間前は浮かれた気分で出た部屋へ、こんなにも惨めな気持ちで帰ってきた。その落差にまた落ち込んだ。
けれども靴を脱いだところで、ついに甚爾が口を開く。
「風呂」
「は?」
風呂?
「沸かしてくる」
「え、あ、はい」
呆気にとられて思わず返事をしてしまった。部屋着にも着替えずに、風呂場に向かう男の背を見送る。彼の意図が見えない。そんなに湯に浸かりたかったのだろうか。だから大人しくこの家に帰ってきた?
しかし風呂場から帰ってきた男は腰を落ち着けることもなく携帯を持ってベランダに出てしまった。問いかける暇もない。
仕方なく直哉はリビングのソファに座って、何処かへ電話をかける甚爾の姿を窓越しに見た。しばらく話していたかと思えば電話を切って、またすぐに電話。それを何度か繰り返して。ぼんやりとそれを彼を眺めていると、あっという間に湯が張り終わったアナウンスが流れてくる。
室内の音に気づいた甚爾(五感が優れたフィジカルギフテッド故か、あるいは最初から時間を計っていたのか)はそそくさと部屋に戻ってきて、クローゼットに向かった。数分もたたずに戻ってきた彼の手には直哉の分の部屋着と下着。彼はそれを差し出して、
「風呂」
「は?」
本日二度目のやり取り。
「沸いたから入れば」
アンタが入るんじゃないのか、そう思えども。このどうしようもない状況では従うしかなかった。抵抗するだけの気力ももうなかった。先ほどみたいに直哉が甚爾に食って掛かるのは初めてのことだったから。まだ怒りと悲しみで心が震えていた。正直に言うならば、もういい加減にこの強張った身体を解したかった。
「おん、いってくる」
◆
それから湯であったまり、幾らかの時間がたって――
直哉は湯船の中で頭を抱えていた。
この頃にはすっかり激昂もおさまっていた。代わりに胸中を占めるのは後悔、と捨てられることに対する恐怖。
なんであんなこと言ってしまったのだろう。なんで隠せなかったのだろう。いつもみたいに妬いても苛立っても飲み込んでしまえばよかったのに。
彼がヒモをやっていた時、面倒なことを言い出す女が切り捨てられる様は山程見てきた。いつだって直哉は試される側だ。なのに、あんな風に、まるでヒステリックな女のように。
でも、いや、本当は直哉だって気がついている。
直哉の生き方や振る舞いは禪院での教育の末にガチガチの男性思考だ。しかし愚かだと蔑んできた甚爾の過去の女たち、きっと己の性格的なところはどちらかと言うと彼女たちに近い。だから嫌い、だから虐める。
一度だけそれを明かしたことのある真依には笑われた「あなたって結構ギリギリで男と女の面倒なところをあわせもってるわよね」とかなんとか。あの時は確かにそうかもとちょっと納得してしまったものだ。「でも、だからこそ私たちは似た者同士なのよ」くすりと笑った顔が懐かしい。彼女とは『(甚爾くんに)(真希に)置いていかれた』同盟を結んでいたのに。でも今では自分だけがこの地獄で生き続けている。
――そうして今、地獄は正しく直哉を殺そうとしていた。
だって面倒事を嫌う彼が癇癪を起こした己の側に居続けるわけがないのだから。勧められるままに風呂場に来たはいいものの、部屋に戻ってからされるのはきっと別れ話だ、絶対。
ああもう最悪、土下座でもしたら許してもらえんかな、口座まるごと渡したらセフレくらいには置いといてもらえんかな、好きなだけ殴ってええよって言ったら満足してくれんかな。そんな未練がましいことを考えたりして。
でも、それでも甚爾が本気で離れていこうとすればそれを引き止める術を直哉が持っていないのもわかっていた。最悪の事態を想像して身体の芯から震える。あーあ、このままここで溺れて死にたい。
けれども当然ずっと湯から上がらないというわけにもいかず。時間をかけて髪を洗い身体を洗い、それもそのうちに終わる。仕方がない、風呂から出たらとりあえず通帳とハンコを差し出して土下座しよう。で、恋人じゃなくてもいいからサンドバッグのセフレにしてくれと懇願してみよう。
そう心に決めて直哉はリビングに戻った。
◆
が、しかしそこには人がいない。
「は、」
はっとして慌てて家中探しても人影がない。
「な、なんで、なんでおらんの……」
相手が家にいなけりゃ謝れない縋れない差し出すものも差し出せない。ああ、そういうことか。ここまで気がつかなかった自分はなんたる愚鈍。風呂に入れと促されたのは出ていく隙を作るため、ベランダに携帯を持っていったのは今夜の寝床を確保するため。なんと用意周到。離れることに慣れすぎている。
「甚爾くん、」
ああ、今日の最悪は別れ話だと思っていたが違ったのか。こんな、即日出ていくなんて酷い。
でもよくよく考えれば、元々根無し草の彼を縛り付けようとしていたのは直哉である。彼にはこういう時に頼る女が大勢いる。直哉が彼の隣に落ち着くまでは彼は生活していたのだ。
「甚爾くん」
泣いてはいけない。そう思えども呼吸が乱れて、こめかみがじんとする。吐いた息が吸えなくて目の奥が熱かった。
本当になんであんなことしたのだろう。彼を失うくらいならなんだって我慢するべきだったのに。馬鹿な己を軽蔑してももう遅い。こんなことならいっそあの時真希に殺してもらえばよかった、そんな気持ちにすらなっていた。しかし、
しかしその時、
がちゃり、鍵のあく音がした。
「え、」
慌てて玄関に向かおうとすれば、だんと強く地面を踏み込む音。かと思えば一瞬でリビングに影が現れた。あまりの速さに残像すら見えなかったのだが、静止してようやく理解した。
甚爾だ。
高速、否、音速で現れたその影はほかでもない甚爾であった。彼は風呂上がりのこちらを見つけて大きく舌打ちをする。そして両手に抱えた『もの』を床に落として二度目の舌打ちをした。
「チッ、テメエらがごねるせいで間に合わなかっただろうが」
床に落ちたそれは、
「悟くん、恵くん…真希ちゃん、と虎杖、悠仁くん…?」
人が四人。それも皆知り合い。なんで?
「いったあ! 落とすなよ! ここがマンションじゃなかったら茈打ってるからね!」
「ごねる、っつうか説明もなく首根っこ掴まれたら誰だって抵抗するだろ」
「電話で用意しておけって言った」
「説明もなくな!」
「説明ならしただろ」
「移動しながらね」
「さすがフィジギフ、人間四人抱えて時速300キロ」
甚爾は四人分の小言を聞き流しながら別で抱えていた小箱をダイニングの机に置く。無機質な紙箱には取っ手がついていて、まるでケーキでも入っているかのような?
「と、甚爾くん?」
状況がわからずにとりあえず愛しい人の名前を呼べば、彼は決まりが悪そうにそっぽを向いた。ぎゅうと眉根を寄せてもう一度こちらを見て、
そして、
「悪かった」
「え、」
思いもよらない言葉に間抜けな声が漏れる。
「悪かった、言い過ぎた」
ぽかんとする直哉はおいてきぼりにして、彼はしっかりとこちらに向き直って頭を下げた。信じられない光景に思考が停止する。
「オマエがあまりにも俺にとっての自分を軽んじるからむきになった、あと五条の名前出したから腹立った。煽りが上手いってのはマジだけど」
「え、ま、まって、ちょ、え?」
後ずさる直哉はすぐに壁にぶつかる。ぶつかる直前に甚爾の手が後頭部に手を差し込まれた。
「髪、濡れてる。風邪ひくから乾かせよ」
その瞳はまるで本心から心配しているようで。え? 何これ。
「俺だって風呂上がりの寮でつかまって連れてこられたんだけど。髪なんかバチバチに濡れてるんだけど。え、あれって誰が何の心配してんの?」「どんまいだ虎杖」「伏黒の父ちゃんイカれてんね」という会話が耳を掠めるが混乱のあまり意味を理解できない。
けれども甚爾は、肩を叩きあっている恵と悠仁を含めた四人を振り返り、顎をしゃくって催促をした。
「ほら、はやくしろ」
すると四人は呆れ顔で「仕方ないなあ」と言う。「オマエのためでも直哉のためでもないよ。早く帰りたいだけだからね」と前置いて、
「で、何を話せば良いんだっけ?」
悠仁が顎に手を当てて聞けば、甚爾ははあとため息をついた。そして「言っただろうが」と前置いてから、
「俺がどれだけコイツに惚れてるか、オマエらから説明しろ」
「は!?」
声がひっくり返る。
こっちは酷いパニックになっているというのに、誰も待ってくれない。助けを求めて四人の中で唯一の大人である悟を見るが、彼は「僕を巻き込むな」とグチグチ言ってすらも議題にはつっこんでくれない。
そうこうしているうちに悠仁が「ああ! そうそう!」と明るい声で話し出してしまった。
「えっと、伏黒先生は直哉さんのことが大好きだよ。前はよく二人でパチ行ってたけど、直哉さんと付き合いだしてからは、行っても遊び程度だし。前はハマればハマるほど…ってかんじだったのに、今はあんま金使わんのもそうだけど、時間で切り上げるっていうか。このあと直哉さんと合流するからって言って、他人に台譲るとか、ちょっと前の伏黒先生だったら考えられないもん」
「悠仁、パチンコは?」
「十八になってから…!」
「次はないよ」
「はーい」
教師に大きな釘を刺されてなお元気よく返事をした悠仁はこっそりと舌を出しているのでどうせまたすぐに行く。で、ところで君は今、誰の何の話をしたんや? そう聞きたいのに。聞くよりも前に真希が直哉を鼻で笑う。反射的にファイティングポーズで迎え撃とうとした、
「この人とどう揉めたかは知らねえが、お情けとか何言ってんだ? 恋人になってからのこの人がオマエに怪我させたことあんのか? セフレやってた時だってあんのか? 覚醒してから知ったが、私らみたいなのが他人を傷つけないようにするのは並大抵の苦労じゃねえんよ。特にセックスだのなんだので理性飛ばしかけてる時にもオマエはいっぺんも怪我したことないんだろ。こんなにわかりやすい指標ねえだろ。だいたいオマエ殺しかけた時の甚爾の殺気見せてやりてえよ」
が、撃沈。
「五条先生が全力で止めたましたからね、あの時は」
「自分の行く先が見えて勉強にはなったが、急所とられた時は本気で死んだかと思った」
「は、なに、だから何の話…」
やっと吐き出した言葉は掠れていたせいか誰にも拾われない。そこからは流れるように真希から悟にバトンタッチ。なんなら実際に彼らはハイタッチもしていた。場違いな陽気。
「直哉は僕が普段どれだけ牽制かけられてるか知ってる?
もううんざりだよ。幼馴染に手出したりしないって言ってるのに。それに十二年前のことだって、こないだまでは『勝敗なんかどうでもいい、俺の負けでいい』とか言ってたくせに、念願かなってようやく直哉と付き合った途端に『あれは一勝一敗だった、一回は殺したも同然』とか言ってきてさあ。ほんと直哉はコイツの自尊心育てるのが上手いよね。好きな子の前ではカッコつけたいとか、伏黒甚爾ともあろうものがほーんと普通の男になっちゃって。ねえ恵?」
そしてついにまわった最後のバトン。彼の一人息子はまっすぐに直哉をねめつけてきた。むうとした顔はよく見るとあんまり父とは似ていない。母親の血だろうか。でも表情の作り方はそっくりだ。特に、こんなふうに強気な態度の時なんかは本当によく似ている。
「親父の執着疑うとか正気ですか。直哉さんアンタ、割とすんなり親父の隣に落ち着きましたけど…逃げなかったからそんなことが言える」
「は、」
「アンタが真希さんにぶん殴られて背中刺されてぶっ倒れて高専に運び込まれて。で、目覚ますまでに、この人は危険度高くて即金の案件をぽんぽん入れて数十億稼いだ。なんのためかわかりますか?」
「わからん」
本当にわからない。そんなの初耳だ。
確かに彼は高専に雇われてから、それほど金に困っている様子を見せなかった。が、それほどに蓄えている様子だって見せなかった。
「アンタが親父を拒んだ時に金で買うためだよ」
は?
「昔アンタが親父を釣った方法で、今度は親父が手に入れようとしたんだ。アンタが俺ら巻き込んで告白しなければ、親父はその金で『禪院直哉』を買ってましたよ」
「うそ」
咄嗟に口から出た否定は「嘘じゃない」一秒もかけずに否定される。恵はにやりと笑いながら父を見て、息子と目が合った父もにいと悪そうに笑った。この親子独特の意思疎通。
「あと、女は全員切ってますからね。たまに過激なタイプが乗り込んできた時、この人がなんて言って追い返してるか知ってますか?」
「しらん」
追い返しとることも知らん。稀に昔の女が訪ねてきているのは知っていた。てっきりそのまま喰っていると思っていた。が、
「『帰れ』って突っぱねたあとに、『俺にはもうアイツ以外いらねえの』って、『アッチにちょっかいかけるのもやめろよ。アイツが俺以外相手に隙見せるとも思えねえけど、でもアイツに手出されたら、俺、オマエのこと殺しちまうかも』って脅すんですよ」
「は、そんなわけ」
「ないって言ってもいいですけど、そしたらもう一周ずつ俺らが語ることになる」
「はあ!?」
はあ??
ついに直哉は悲鳴のような声を上げて固まってしまった。
一満足気に頷く甚爾。
じとりとした目で彼らを見守る周囲。
そうして、動かない空気のまま数十秒が経過して。
「よし、おまえらもう帰っていいぞ」
甚爾の一言が空気をぶち破った。
それが解散の合図でもあった。
「よし、じゃねえんだわ!」「悪魔!」「フィジギフ!」「今度手合わせしろ!」「甘いものおごれ!」銘々に文句を言って玄関から出ていく四人を直哉は呆然と見送ることしかできない。
嵐みたいに現れて嵐みたいに去っていったな(彼らにとっても不可抗力)、というのはどうせ現実逃避の思考回路。しかし逃避は許されず、現実はいつだってそこにある。彼らが出ていってしまえば二人きりの空間。
現実とは、まさにこの状況のことであった。
「甚爾くん、」
「わかったか?」
名前を読んだ途端、間髪入れずにそう返されても意味がわからない。もう直哉はさっきから思考がもうどうにもこうにもまとまらないのだ。
「なにを、」
「アイツらの言ったこと。いい加減自覚しろ」
「は、」
喉につかえるのは嗚咽か緊張か。頭の中で警告音が響き渡る。これ以上を聞いたらもう戻れない。でも聞きたいと急かす心臓が確かにここにはある。
「な、なにそれ、そんなん意味わからん」
「『わからん』かあ、困った困った」そう言いながらも甚爾はぜんぜん困っていない風にからりと笑う。
「さっきはマジで悪かったと思ってる。売り言葉に買い言葉だとしても言い過ぎた。ごめん」
彼の手が机に放置していた箱に手を伸ばされた。開けられたその中には小さくて華美な、なんや、ケー、キ?
「な、俺は惚れたやつのためならいくらでも謝れるんだぜ。惚れたやつっていうのはオマエだ。アイツらはそれの説明要員。で、これは、謝罪用」
よく見ると箱の横に書いてある店名は直哉が贔屓にしている洋菓子屋のもの。でも店がある街はここからだいぶ遠かったはず。しかもケーキはちっとも崩れていない。
ではなにか? これを言うため謝るだけのために、彼は新幹線の速さで走り、四人を攫い、ケーキ買って、それを揺らさないように注意を払いながら全速力でここまで帰ってきたというのだろうか。わざわざ高専まで行って? 最強と息子とギフテッドとギフテッド顔負けの規格外を引っ掴んで? 直哉が風呂に入っている間に!?
「許して直哉」
最愛が、直哉の一番星が彼には似合わない不安を纏って許しを請う。
長身を屈ませて、こちらの顔を覗き込むような上目遣い。
その必死さのなんと可愛らしいことか、なんと愛おしいことか。これってもしかして、もしかするとそういうことなのかも。だってさすがここまでくれば、直哉とて期待せざるを得ない。
「甚爾くんって俺のこと好きなん?」
自惚れだったら死ぬ。でも確かめられるなら死んでもいい。だからこっちは目一杯の勇気を振り絞って聞いたというのに、
「そう言ってんだろこの分からず屋、だから聞き分けねえっていってんだよ、いつまでも俺のこと信用しないでよォ」
そう、きっぱりと言い切られてしまってはもう降参。
ああ、『聞き分けのない』、あれはそういう意味だったのか。てっきり貶されていると思っていた。
でも違ったらしい、どうやらこの男、直哉が思っているよりもずっとずっと直哉が好きらしい。直哉が特別らしい。精一杯に愛してくれているらしい。泣いて喚いて告白したあの日、彼も心臓もこんなふうにときめいていたのかもしれないと思うと、愛おしい気持ちでいっぱいになった。
目が合って、彼がするりと直哉の髪を一撫でする。その触れ方の柔らかさ。どうして気づかなかったのだろう。どうしてわからなかったのだろう。こんなにもあからさまなのに。こんなにも愛されていたのに。
「ごめんなさい、俺も言い過ぎた」
それがわかってしまったのなら、こちらだって心から謝るよりほかなかった。震える両手を伸ばして逞しい身体を抱きしめる。すると彼の身体がいつになく強張っていて、やっぱり彼だって緊張しているらしかった。「ごめんなさい」もう一度言えば、彼は「おう」と抱き締め返してくれた。
「許して」
「怒ってねえよ」
「甘すぎやない?」
「恋人ならそんなもんだろ」
「ふふ、恋人やもんね」
その言い方があまりにも当たり前のことを言っているようだったので。
当たり前なのか。甚爾にとっては、直哉を甘やかすのは当たり前のことで、謝るのも当たり前のこと。直哉を手に入れるために数十億用意するのも当たり前。賭け事より優先するのも、傷つけないように触れるのも当たり前。好みを覚るのも、特級や女に牽制をかけるのも当たり前。
あれもこれも彼にとっては『恋人ならそんなもん』。
そうやって今日思い知らされた全てがこんなにも幸せで、だからこそこっちだってもう溢れる愛を我慢することなどできなかった。「好き、大好き、愛してる、俺の一等星、俺の甚爾くんが最強」ぎゅぎゅうに抱きつきながら告白すれば、彼は愉しそうに「知ってる」と笑う。
しかし最後には「おい早く髪乾かせ、風邪引く」なんて言って、生真面目にドライヤーを持ってくるものだから。今度は直哉のほうが声を上げて笑ってしまうのであった。待って、俺の恋人かわいすぎんか。






















